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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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 御堂と克哉が再会し、結ばれてから三ヶ月が過ぎた。

 例の事件の後、本多は二週間ほどで職場に復帰し彼を跳ねた工場長も
それに見合う刑罰を素直に受けたようだった。
 本多の怪我は全治一ヶ月程度で、幸いにも輸血を受けたので今後献血が
出来なくなった程度の後遺症しかなかった為刑罰も傷害罪と、近くの車を
何台かぶつけたりして損傷させた器物損傷罪の二つを受けた。
 
 傷害罪が懲役15年以下又は罰金30万。
 器物損傷罪は三年以下の懲役、又は30万の罰金だ。

 これが本多が死亡したり、後遺症を負ったりしたらもっと刑罰は重いものに
なっていただろうが幸いにも、一ヶ月程度の怪我で済んだ為に男の刑罰は
思ったよりも軽いものになっていた。
 ただ、50代後半の無職な男が支払うにはその額でも大金ではあったが。
 金銭がない以上、男が受けたのは懲役刑の方で両方合わせて、5~6年は
世間に出てくる事はないだろう。 
 御堂達は男が受けた刑罰の内容を知ってからは、その後は特に追わなかった。
  また逆恨みしてこちらに危害を与えてくる可能性がないではなかったがその時は
こちらも幾つか対策を立てて迎え撃てば良いだけの話であった。
 
 そして全てが片付く頃には、季節は春を迎えていた。
 三月の下旬ともなれば寒さも穏やかになり麗らかな陽気の日もチラホラと
出てくる頃だ。
 だが、桜の開花を間近に控えているせいか近頃は天候がぐずついた日が
多く、この日の朝もうっすらと灰色の雲に空全体が覆われて、ポツポツと雨が
降り注いでいた。
 御堂孝典はその光景をベッドから身体を起こして、ぼんやりと眺めていた。

(もう朝だな今日は雨か。まあ、克哉と過ごす場合週末はあまり外に
出かけたりはしないから影響は少ないがな

 ぼんやりとした頭でそんな事を考えながら、ゆっくりと自分のすぐ隣のスペースを
眺めていった。
 キングサイズのベッドの上、自分の傍らには克哉が安らかな顔を浮かべながら
静かな寝息を立てていた。
 当然、二人共裸である。
 三ヶ月前には自分達は名実ともに恋人同士になっているのだ。
 週末に、こうやって一緒に過ごして愛し合うのはすでに当たり前の日常の
一部と化していた。
 
良く眠っているな。まあ、昨晩も随分と遅くまでつき合わせてしまったのだから
無理もないがな

 フっと瞳を細めながら克哉の柔らかい髪に指を伸ばしていく。
 サラリ、とした感触が妙に心地良くて御堂は優しく微笑んでいった。
 克哉の身体のアチコチには、幾つもの赤い痕が刻み込まれている。
 それは御堂の強い、彼への執着心の現れみたいなものだった。
 正式に交際するようになってから、すでに三ヶ月が経過しているのに
自分は別会社に勤めているのに対して、克哉が本多と一緒の会社に未だに
勤務している状態は、御堂の心をやはりヤキモキさせていた。
 それが週末、こういう形で表に現れてくる。

自分がここまで、大人げなかったとはな

 佐伯克哉という存在と出会ってから、どれぐらい自分ですら知らなかった
一面に気づかされた事だろう。
 どんな良い女と付き合っても執着して来なかったのが嘘のようだ。
 克哉だけは、絶対に他の人間に取られたくないと切に思う。
 恋人の気持ちは自分だけに注がれているというのは判っている。
 だが、御堂と結ばれてからの克哉は何と言うか妙に色っぽくて可愛くて、
傍にいるだけで心が大きく揺れ動く程だ。
 だから御堂の心は、落ち着くことはない。

今もまだ、こんなに克哉を求めている気持ちが吹き荒れている。

「克哉

 まるで壊れ物に触れるかのように、自分の隣で安らかに眠っている克哉の
頬にそっと触れていく。
 暖かくて柔らかい、滑らかな頬の感触に満足げに笑みを浮かべていく。

「んっ御堂、さん

 克哉がうわ言で、こちらの名前を呼んでいくと更に愛しさが募っていく。
 柔らかく唇を塞いで、熱い吐息を吹き込んでいくと

「んん、んぅ

 甘ったるい声を零しながら、克哉は覚醒していった。

起きたか?」

 とても優しい瞳を浮かべながら御堂が声を掛けていく。
 それを見てパっと克哉の顔が真っ赤になっていった。
 まったく恋人同士になってすでに三ヶ月、週末が来る毎に数え切れないくらい
抱き合っているというのに、未だに克哉の反応はウブで時折、見ているこちらの方が
照れてしまうぐらいだ。
 
「…はい、おはようございます。御堂さん…」

「あぁ、おはよう…」

 恥じらいの表情を浮かべる克哉に妙にそそられて、御堂の中に悪戯心が
湧き上がっていく。
 そのまま克哉の耳元に唇を寄せていくと…耳穴の入り口の周辺に舌を
やんわりと這わせて、くすぐり始めていった。

「…ひゃっ…!」

「…相変わらず敏感みたいだな。まだ朝だというのに…そんな声を聞いたら
こちらは妙にそそって、仕方なくなってくるぞ…?」

「そ、そんな…! それは御堂さんがこちらに、悪戯なんて…仕掛ける、
からですし…んんっ!」

 揶揄するような御堂の言葉に反論していくも、緩やかに熱い舌先で耳の中を
犯されて、抽送を繰り返されていくと妙に卑猥で…起き抜けだというのに身体が
熱くなってしまう。

 クチュ、グチャ…ヌチャ、グプ…!

 脳裏に余りに卑猥な水音が響いていく。
 それは行為中の接合音をいやでも連想させてしまって…昨晩の淫らで熱い夜の記憶を
克哉の中に蘇らせていった。

(だ、駄目だ…! こんな音を聞かされたらどうしても昨日の事を思い出して、しまって…
もう、抗えない…)
 
 ただ耳の奥を舌先でくすぐられていくだけで克哉の身体は反応してしまい…背筋から
這い上がっていく甘い衝動に耐えるように全身を震わせていく。

「あっ…はっ…や、朝から…そ、んな…!」

「ほう? 口ではそんな事言っている癖に…君のここは早くもこんなにしこって…
私の指を弾き返さんばかりになっているぞ…。相変わらず感度は抜群だな…」

「ひゃ、うっ…!」

 気づけば御堂から上に圧し掛かられるような体制になって、両方の胸の突起を摘まれて
執拗に愛撫を施されていた。
 恋人に指摘された通り、胸の尖りは硬く張り詰めていて触れられる度に克哉の全身は
ビクビクビク、と鋭敏に跳ね上がっていく。
 耳と胸、たったそれだけ弄っただけでも克哉の身体は真っ赤に染まり…瞳には艶めいた
光が浮かんでいく。
 恐らく、他の誰も知らない克哉の媚態。
 それがこんなに御堂の心を熱くさせて、深く捕らえていく。

―誰にも渡さない。君は私だけのものだ…!

 愛しさと独占欲が同じ激しさを持って御堂の心の中に湧き上がっていく。
 己の所有を示すように、首筋に…胸元に、赤い痕を刻みまくった。
 痛み交じりに、強引に快楽を引きずり出されていって克哉は荒い吐息を零しまくって
必死に御堂の背中に縋り付いていく。
 そんな余裕のない仕草すらも、御堂の心を煽って仕方なかった。

「あっ…御堂、さん…! そんなに、弄ったら…オレ、は…」

「…どこまでも感じれば良い。幸い、今日は週末だ。君を可愛がる時間はたっぷりと
あるからな…」

「そ、んな…! 昨晩も、あんなに激しく…した、ばかりなのに…あぁっ…!」

 御堂の手が強引に性器を握り込んで、やや性急に扱き上げていくとそれだけであっという間に
手の中で硬度を増して、先端から蜜を零し始めていく。

「…そんな事を言って。君のモノはすでに…こんなに、熱く張り詰めて私の指を弾き返さん
ばかりになっているぞ…?」

「そ、れは…! 貴方に触られたら、オレはいつだって…感じずに、なんて…いられない
んですから…!」

「良い、言葉だな…。そんな事を言われたら、もっと君を啼かせたくて仕方なくなってくる…」

「あうっ…! はっ…あ、んんっ…!」

 御堂の手はあまりに的確に克哉の快楽を引き出していくので次第にまともな単語すら
紡げなくなっていく。
 形の良い唇から零れるのはただ、熱く悩ましい嬌声だけ。
 それを聞きながら御堂は克哉の肌に、所有の痕を刻みつけながら…もう一方の手で
奥まった箇所を暴き始めていった。

「んあっ…! や、其処は…」

「…口では拒んでいる割には、すぐに私の指を食んで離さなくなっているぞ。…もう、
ここに欲しくて仕方ない。そう訴えているみたいだな…」

「や…ぁ、お願いです…。そんな事を、口に出して…言わないで、下さい。恥ずかしくて…
死にそう、になりますから…」

「事実だろう…? それに、私だって君が欲しくて…堪らなくなっているんだ…」

 恋人同士になってセックス時に、揶揄するような意地悪な物言いをする部分は
あまり変わりはなかった。
 それでも、以前に比べて、どれだけ際どくて意地悪な発言をしていても…瞳だけは
とても優しく、慈しみに満ちていた。
 自分の下肢の狭間に、すでに硬くなっている御堂の灼熱を押し当てられて…ゴクリ、と
息を呑んでいく。
 触れられている箇所が、ドクドクドクと荒く脈動を繰り返して自己主張している。
 愛しい相手からこんなものを宛がわれてしまったら、抗えない。

「あ、熱い…です…。御堂さん、のが…」

「…あぁ、君の中に早く入りたいって、暴れている。入るぞ…克哉…」

「ん、あぁ…!」

 唇を貪るように重ねられていきながら、御堂のモノが強引に克哉の内部へと押し入って
根元まで捻じ込まれていく。
 その圧迫感に、質感に…克哉はその背中に懸命に縋り付いていきながら耐えていった。
 昨晩、散々に貫かれて御堂を受け入れ続けた其処は、再びあっさりとそのペニスを深々と
飲み込んでキツく締め付け始めていく。

「…くっ…まさに、私のを食いちぎらんばかりだな…君の、此処は…!」

「はっ…あぁ! や…そんな、に早く…奥を突かない、で…! すぐに耐えられなく、
なってしまいそう…ですから…」

「…それは聞けない、な…。私は、君をグチャグチャにしたくて…もう、堪らなく
なっているのだからな…」

「んあっ…!」

 そのまま激しく、強く御堂が律動を刻み始める。
 克哉はそれにただ翻弄されるしかない。
 最奥に向かって執拗に突き上げられる中で、片手でペニスの敏感な部分を攻め上げられて
気が狂いそうになる程の悦楽が背筋を走り抜けて、克哉を支配していく。
 感じる部位は、御堂に昨晩に散々弄られ続けて痛いぐらいだ。
 それでも更に其処を攻められ続けていくので強烈な快楽と鈍い痛みが交互に克哉を
苛むように襲い掛かって来る。

「あっ…はっ…御堂、さ…! ダメ、も、う…本気で、オレ…おかしく、な、る…!」

「あぁ、どこまでもおかしくなれば、良い…。君が乱れて狂う姿を…私は、もっと…
見たくて仕方ないからな…」

「そ、んな…はっ…! あっ…イイ! 御堂さん、ソコ…悦い…!」

 御堂の丸みを帯びた先端が的確に克哉のもっとも感じる部位を擦り上げていくと
顕著にその身体を跳ねさせて、克哉が悶え始めていく。
 余裕なさそうに克哉が必死に御堂に縋りつく瞬間。
 男としての支配欲と独占欲がもっとも満たされる時でもあった。

「あぁ、もっと…私を感じろ。克哉…私、だけをな…」

 他の事が、他の男の事などその瞬間だけでもまったく考えられなくするように
抽送を早めて克哉を快楽の園へと叩き落していく。
 これだけの攻めに果たして誰が抗えるというのだろうか。
 ただただ、克哉は御堂の激しさに翻弄されて喘ぐ以外の事は出来そうにない。

(御堂さんのが…こんなに、張り詰めてオレの中でドクドク…言ってる…!)

 御堂の欲望を、情熱を最奥で感じ取って克哉は身を震わせていく。
 呼吸は乱れてまくって苦しいけれど、それはもっとも彼が満たされる一時でもあった。
 愛しい人間が自分の中にいて、感じてくれている。
 求めてくれている、それをまざまざと感じ取って…克哉の身体が大きな喜びと愉悦で
震えて小刻みな痙攣を繰り返していく。

 ―もうすでにこれが起き抜けである事なんて関係がなかった。

 ただ御堂が欲しくなって、浅ましいくらいにこちらからも腰を振りながら強く締め付けて
共に頂点を目指していく。

「あっ…御堂、さ…んっ! も、う…!」

 克哉が切羽詰った声を漏らしていきながら…一足先に上り詰めて、射精しながら御堂の
腕の中で果てていく。
 それに連動するように、御堂にも限界が訪れる。
 ほんの何十秒かの時間差。それによって達したばかりで鋭敏になっている身体に
勢い良く熱い精が注がれていく。
 それだけでも感じて、感じまくって克哉の身体はビクビクと激しく跳ねていった。

「克哉…!」

 御堂が掠れた声音で恋人の名を呼びながら…その身体の上に崩れ落ちていく。
 お互いに忙しい息を吐いて、肩で呼吸をしていた。
 触れ合っている肌は両者とも汗ばみ、うっすらと雫が伝い始めていった。

「ん…好き、です…大、好き…」

「あぁ、私もだ…」

 うわ言のように零れる睦言に、同意を示していきながら…唇にキスを落としていってやると
克哉は本当に嬉しそうに微笑んでみせた。
 二人の胸に幸福感が満ちていく。
 あまりに幸せなので、このまま眩暈すら感じそうだ。
 そのまま静かに抱き合っていくと…荒かった鼓動が収まり、代わりに激しくなった雨音が
部屋中に響き渡っていく。
 自分達が愛し合っている間に、雨脚は随分と強くなってしまったようだった。

「…雨、随分と降っているみたいですね…」

「…そうだな。君を抱いている間は行為に夢中になってて気づかなかったがな…」

「もう…そういう、恥ずかしくて居たたまれなくなるような事を平気で言わないで下さい…」

 そういって自分の胸に顔を埋めて、耳まで赤くなっている恋人をクスクスと笑いながら
抱き寄せていく。
 そういえば、こんな風二人でいる時にこうやって土砂降りの雨が降るのは三ヶ月前の
あの日以来なような気がした。
 今思えば、あの日…本多がやって来て、目の前であの男が跳ねられて。
 その数日後に、あの男に対して「克哉を愛している」と正直に答えた日から…自分達は
正式な恋人同士になれたような気がした。

 その前にも一度、抱き合っていたが…あの時はまだお互いに怯えが残っていて
遠慮しあっていたように思う。
 誰にも渡したくないと。本気で愛しているのだと…命を狙われて、死を意識したからこそ
気づいた本心でもあった。

(…雨、か。今思えば…克哉と何かあった時は…いつも、雨が降っていたな…)

 最初の雨の日では、決別を。
 遠くから彼と本多を眺めていた日も、一ヶ月ぶりに再会した日も、そしてあの事件が
起こった日も全て雨が降り続いていた。
 そのおかげで…どうしても、接していてあの日の泣きそうな顔を浮かべながらマンションの
前に立っていた克哉のイメージが御堂の中で消えてくれなかった。
 それがいつの間にか払拭されて…克哉の笑顔がすぐに頭の中で再生出来るようになった
のは果たしていつぐらいからの事だったのだろうか…?

「…最初、貴方と再会したばかりの頃は少しだけ雨が怖くなっていました…」

 暫く沈黙が続いた後、ポツリと…克哉が呟いていく。

「貴方と決別した日が大雨だったから、雨が降る度に…また、貴方がいなくなって
しまうような気がして…去年の12月くらいは雨が降ると密かに憂鬱になっていました。
せっかく会えたのに…また、貴方と離れてしまうのは嫌だと。そう願っていたから
あの当時は雨が怖くなっていました…」

「私、もだ。…また、君の背中を見失ってしまうんじゃないかと…あの当時は少し
不安を感じていたな…」

「…御堂さんも、ですか。…ふふ、何か同じ気持ちだったと聞くと少しだけくすぐったい
気持ちになりますね…」

 そういって、御堂は優しく克哉の髪を梳いていった。
 その手つきはとても優しくて、愛されているのだと強く実感出来た。

「…けど、今は怖くない。ちょっと時間は掛かってしまったけれど…貴方に愛されているって
実感していますから。もう…あんな風にうやむやな形で貴方を見失ってしまう事は
ないって…ようやく思えるようになりましたから…」

 そうして、蒼い瞳を穏やかに細めながら…克哉は嬉しそうに笑っていった。

「あぁ、私ももう…あんな形では君の手を離したり何かしない…」

 あの時はお互いの気持ちが見えなかった。
 だから潔く身を引く事が、あの決して対等ではない…恐らく克哉にとっては屈辱的な
感情が伴う関係を終わらせるのが彼の為だと判断した彼は、一度は克哉の前から
姿を消す決断をした。
 だがどうしても、自分の中から克哉への想いが消える事はなかった。
 あの時はどうしても引け目を持ってしまって、強気に出れなくなっていた部分があった。
 だが今は違う。お互いに想いあっている手応えを感じている。
 克哉に愛されていると実感出来る。だから二度とあんな形では御堂は克哉の手を離す
ような真似は出来ないだろう…。

「…嬉しい。貴方が、そういってくれるのが…」

 そういって花が綻ぶように笑う克哉が心から愛しく感じられた。
 もっと近づきたい、重なりたい衝動を覚えて…まだ繋がった状態のままで克哉の
手を指を絡めるように握り込んでいった。

「…君をもう、誰にも取られたくないからな…」

 その本音を呟きながら、唇を重ねていく。
 もうすでに…雨音も、気にならなくなっていた。
 そうして入間に心地良い疲労感を感じて、眠気が訪れる。

「…どうしよう。今…凄く、幸せです。御堂さん…」

「…そうか」

 そっと瞳を伏せながら、克哉が胸元に頭を擦り付けてくる。
 御堂はそんな恋人を、フっと微笑みながら抱好きにさせていった。
 そのままそっと抱き締めて、改め互いの身体の上に布団を被せていった。

―もう、雨が降っても怖いと思う事は二人はなかった。

 相手の気持ちが、今は自分に向けられていると確信出来るから。
 それが二人の間に絆を生み出していく。
 雨が降ろうが大嵐になろうと、もう天候で気持ちを左右される事はない。
 気持ちをそれだけ強く持てるようになったのも…愛し、愛される関係に自分達が
なれたからだろうか。

 言葉がなくても、穏やかに満ちた何かが二人の間に流れていく。
 こうやって寄り添っていれば、確かなものが感じられる。
 それが二人の心を確実に強くしていった。
 もう、雨の日に起こった悲しい記憶は遠い。
 代わりにそれは幸せな記憶に上書きされて、儚いものへと変わっていった。
 これからも自分達はこんな幸せな日々を積み重ねていけるだろう―

「…孝典、さん…大、好き…」

 克哉が勇気を振り絞って、御堂の下の名前を呼んでいく。
 甘い痺れとくすぐったい気持ちが湧いてくる。

「…まったく、君はどこまで可愛い真似をすれば気が済むんだ…?」

 そう言いながら、こちらの心を大きく跳ねさせる発言を零した唇をお仕置きとばかりに
深く塞いで抱き締めていく。
 日曜日の昼下がりはそうやって過ぎていく。

 彼らはこれからも、そんな甘くて幸せな日常を繰り返していくのだろう。
 悲しみの記憶が薄れて霞むぐらいに。
 もう雨を見ても、泣いている克哉の残像が御堂の中で蘇ることがなくなる日までずっと―

 祈りは時に大きな力を生む
 一人の男が失恋してでも、本気で想う相手の幸せを願った事で
 本来ならばここまでの幸せを得る事が出来なかった道のりで、二人は確かな
幸福を手にする事が出来たのだ。

  この幸せを当然のものと思わず、感謝し尊いものである。事を噛み締めていく限り
彼らはこれからも、こうやって幸せを積み重ねていける。
 どんな雨も、悲しみも必ず晴れる日は来る。
 暖かな太陽が雨を退けるように、悲しみに凍った心が人の優しさで柔らかさと暖かさを
取り戻していくように…。
 優しい時間と空気が流れるようになった二人は、もう過去の痛みの伴う気持ちで
支配されて強い不安に苛まれることはなかった。
 相手に愛されていると、今は強く確信を持てるから…。

「克哉…」

 愛しい男の腕に包まれて、克哉は安らかな寝息を零し始める。
 そんな彼を優しく包み込みながら御堂もまた…再びまどろみの中に落ちていく。
 そっと指を絡めていきながら、二人の意識は落ちていく。

 ―その時の二人の顔は、どこまでも満ち足りた幸せなものであった―

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 ―あの事件から三日が経過していた。
 
 本多の手術は無事に成功して、その晩の内に峠は越したが…
二日間は個室に入院して、面会謝絶の状態になっていた。
 その間、御堂と克哉は…警察に出頭して事情聴取の協力をしたり
現在の御堂の勤めている会社の駐車場の敷地内で起こった事で、会社の
方にも説明をしに赴かなければならなかったりと…やる事が山積みに
なってしまっていたので、あっという間に土日は過ぎてしまっていた。
 こんな状態では、克哉と甘い時間を過ごす処ではなかった。
 そして月曜日、御堂はいつものように出社して精力的に仕事をこなした後、
定時で上がり…本多が収容されている病院へと足を向けていた。

「418号室…ここか…」

 御堂はメールに記されていた部屋の番号を確認していくと、その個室の
病室の扉を開いていった。
 本多はどうやら起きていたらしく、ベッドの上で身体半分を起こした状態で
どうやらテレビを見ていたようだった。
 個室は5~6畳ぐらいの大きさの部屋で、入り口の処にはちゃんと
洗面所やトイレの類もついている。

 ベッド周りにはテレビ台やクローゼット、ミニ冷蔵庫の類も
ちゃんと完備されていて身の回りの事でそんなに不自由は感じさせない
造りになっていた。
 だが、御堂が室内に足を踏み入れると…普段、人懐こい笑みを浮かべて
いる男の顔が引き締まったものになっていく。

「…御堂さん、来てくれたんですね」

「あぁ…君には借りがある。呼び出されたのならば…応じない訳には
いかないだろう」

「…来て下さって感謝します。…どうしても、御堂さんに一つだけきちんと
聞いておきたい事がありましたから…。あ、どうそその辺の椅子にでも
適当に掛けて下さい」

「いや、良い。普段ディスクワークで座りっぱなしだからな。少しぐらいは
立っていた方が筋力低下を防げる」

 座るのは断ったが、御堂はゆっくりと…本多の方へと歩み寄っていった。
 冷たいリノリウムの床の上に、革靴がコツコツと音を立てて反響していく。
 窓の外に広がる空には、相変わらず曇天が覆ってしまっている。
 本日も午前中は雨で…夕方からは降ったり止んだりを繰り返しているような
不安定な天候だった。

「…大した物ではないが、見舞いの品だ。食欲があるようなら…食べて
やってくれ」

「わっ…これ! 凄い高級そうな箱に入っていますけど…もしかしてメロン
ですか? 俺の為にわざわざ…?」

「そうだ。これくらいで君から受けた借りが返せるとは思っていないが…
せめてもの私からの気持ちとして受け取って欲しい」

「う…ス。ありがとうございました」

 そこでようやく、本多の方の緊張が少し解れたらしい。
 いつもの彼らしい朗らかな笑顔が覗き始めていった。
 
「…あ、克哉は…キクチからなら…多分、6時くらいまではここには来れないでしょうから
それまでに話を終わらせましょう」

「あぁ、それは私も賛成だ。それで…君が私に聞きたい事というのは…何だ?」

 本日、日中に御堂の元に本多から一通の電話が届いた。
 それは御堂が現在勤めている会社に就職が決まった際に…以前に付き合いが
あった人間に対して一斉に送ったハガキに記してあったものだった。 
 そして電話で「本日、仕事が終わったら早めに来て欲しい」と告げられて…
終業後に一緒に見舞いに行こうという話を取り付けて、克哉から病室の番号の
確認メールを受け取って、御堂はここに赴いた訳である。
 二人の間に、緊張が走っていく。
 それはそのまま…三日前の、駐車場での空気の再現に近いものがあった。

「…あの日の話の続きっすよ。御堂さん…克哉の事をどう、想っているんすか。
今回は…正直に答えて貰えますよね」

「…なら、私の方からも…一つだけ問い返させて貰おう。何故…君は
そんな事を私に聞くんだ?」

 御堂は何となく、その理由をすでに察してはいた。
 だが敢えて確認の意味でそう問いかけ返していく。

「…そちらに正直に答えて貰いたいなら、俺の方も率直に言うのが筋ですよね。
だからはっきり言います。俺は…気づいたのはつい最近なんですが、克哉の事が
好きなんです。友達としてでなく…特別な意味で。けど、克哉は…御堂さんの事を
心から想っているみたいだから、俺は…吹っ切る意味でも、あんたの気持ちを
聞いておきたいんです。あいつが…幸せになれると、そう確信出来そうな答えを…
御堂さんの口から聞けたら、俺はきっと…諦められると思うから」

「…やはり、な」

 本多からの返答は、ほぼ御堂の想像した通りの内容だった。
 普通…ただの友人の為に、雨の中にその相手先の下に押しかけたり…自分が
大怪我をするか一歩間違えれば命を落とすかも知れないのにこっちを庇ったりは
しなかっただろう。
 それだけの事をしでかすには、その相手に…そう、恋心を抱いているとか
強烈な事情がない限りは考えにくい事だ。

「…君が克哉を、特別な意味で好きだという理由ぐらいなければ…あの日の
君の行動も言動も腑に落ちないものが多すぎたからな。普通はただの「友人」の
為だけにそこまではしないものだ」

「はは…バレバレでしたよね。けど…うん、まああの時は損得勘定なんて
吹っ飛んで反射的に身体が動いちまっていたし。俺も御堂さんも結果的には
助かって、こうして無事にここにいるんですから良いっすよ」

「無事、だと…?」

 本多が何でもない事のように笑っていくのが妙に気に障って、御堂の眦が
一気につりあがっていく。
 アバラが何本も折れて、あちこちの骨にヒビが入って…出血多量と体温低下で
生死の境を彷徨ったのは普通「無事」とは言わないだろう。

「…命を危険にまで晒した癖に…無事などと言う君の神経が理解出来ないな」

「…大丈夫っすよ。昔、バレーの猛特訓とかで骨にヒビが入るぐらいは何回も
ありましたし。それくらいなら…俺の中じゃ大怪我には入らないんで」

(どこまで体育会系バカなんだ…この男は…)

 流石に今の発言だけは御堂の理解の範疇を超えていたので、正直眩暈が
してきた。自分と本当に生きている世界が違うのだと思い知らされた感じだった。

「…って、本題から話を逸らさないで下さいよ。…まだ、俺が聞きたい事に
対しての返答を聞いていないんですから。…お願いですから、しっかりと答えて
下さい。御堂さんが…克哉の事をどう思っているかを…!」

 その瞬間、本多の顔は真摯なものへと変わっていった。
 真っ直ぐで、直情的で…作為的なものなど何も感じられない真摯な態度。
 …こちらもそれに絆されたのだろうか?
 御堂はようやく観念して、胸に秘めていた克哉への気持ちを目の前に男に
吐露していった。

「…愛している」

 それは、克哉にさえ照れ臭くて言えていない…想いの篭った一言。
 あまりにストレートな言葉が飛び出して来たので…最初それを聞いた
本多自身がびっくりしてしまった。

「はっ…?」

「えぇい! 何を呆けた顔をしているんだ! 君が聞いたんだろう…!
 私が克哉をどう想っているか…今の言葉が全ての答えだ! これで
満足だろう!」

「えっ…あ、の…その。御堂さんの口から…まさかそこまで直球な言葉が
飛び出してくるなんて…思って、いなくて…! ちょっと驚いてしまって…!」

「だ、か、ら! 君が質問したんだろう! 何度も言わすな…! 今の一言が
私の気持ちだ! だから…克哉の事は諦めて貰おう! 私は…克哉を
手放すつもりはない。君につけいる隙など…与えるつもりはまったくないからな!」

 顔を真っ赤にしながら、そんな事を御堂が言うなんて…想像もしていなかった
だけに…本多は面食らっていた。
 心底驚いて、顔を真っ赤にしながら…その場に硬直してしまった。

「…な、何ていうかその…そこまで言われると当てられますね…」

 聞いているこちらの方が恥ずかしくなるような…想いの込められた答えに
顔を真っ赤にしながら本多が口元を覆っていくと…。

 ガシャン!

 ドアの向こうで…何かが盛大に落ちて割れたような、そんな音が響き
渡っていった。
 瞬時にして二人が身構えていく。
 
「だ、誰だ!」

 御堂が誰何の言葉を発していくと…控えめな様子で、ドアがゆっくりと開いていって
其処には顔を耳まで真っ赤にした克哉が立っていた。

『『克哉!』』

 本多と御堂の声が、綺麗にハモっていく。
 そんな二人を…いつもの背広姿の克哉が、申し訳なさそうに交互に見回していった。

「…あ、あの…立ち聞きをするつもりはなかったんだけど…二人があんなに大きな声で
話しているから…嫌でも、聞こえてしまって…! 特にオレの事が話題に上って
いたから…その…」

 どうやら床に落下したのは…お見舞いの花を生けてあった小さな花瓶だったらしい。
 床の上では克哉が購入してきた花がちょっと無残な状態で広がっていた。
 けれど…片付けよりも、克哉は今の御堂の爆弾発言が気になって仕方が無いらしい。
 オズオズと…御堂の方を見つめていきながら、克哉は呟いていった。

「…あの、今の…言葉、本当ですか…? 御堂さん…」

「…あぁ、私の本心だ。だが克哉…一体、いつから其処に…」

「…御堂さん。実は、今日は…克哉はそちらよりも早くに俺の病室にお見舞いに
来てくれていたんすよ。片桐さんの計らいでね…」

「何だと!」

 そう、通常のキクチの定時であったのなら…その本社からこの病院まで辿り着くのは
早くても18時は越えるだろう。
 だが、本日は…片桐が気を利かせて、結果的に克哉は御堂よりも早い時間帯に…
本多の病室に立ち寄っていたのだ。
 だが、本多は…この話だけは御堂とサシでつけたかったから…お見舞い用の花と
何か果物を買って来て欲しいと口実をつけて克哉を一時的に遠ざけたのだ。
 そして帰って来た克哉は…その現場を耳にする事となった訳である。

「…全て、聞いていたのか…?」

「は、はい…」

 克哉が顔を真っ赤にしながら…コクン、と俯いていく。
 その仕草が妙に可愛らしい。
 本多がすぐ傍にいなかったら、その場で唇を奪って貪りたくなるくらいに
愛らしくて仕方なかった。

「…こんな、偶然に聞いてしまった形でしたけど…その、御堂さんが…オレの
事を愛してるって言ってくれて…凄く、嬉しくて…」

 頬を赤く染めながら潤んだ瞳で克哉がこちらを見つめてくる。
 それを見て…御堂の方の心拍数は増大していった。

 ドクンドクンドクンドクン…!

 二人の間に、甘い空気が流れ始めていく。
 御堂と克哉はお互いに見つめあい…そして、沈黙していった。

「…あ~あ、人の前で見せ付けてくれちゃって。まったく…付け入る隙がないって
もう充分判りましたから、続きは他の処でやって下さいよ。もう…御堂さんの
気持ちは聞けましたしね…」

「ほ、本多…」

 本多は苦笑しながら、それでもどこかさっぱりしたような表情を
浮かべていた。
 これは彼にとって、失恋決定の場面だった。
 御堂の気持ちは克哉に向いていて、克哉の気持ちもただ…御堂に
一途に注がれている。
 この状況で、自分が入り込む隙間なんてない。
 これで克哉を欲しいと自分が望んで、引き裂くような真似をしたら…却って
大切な友人を苦しめてしまうだけだろう。
 その事実をようやく…彼は受け入れて、恋心を手放す決意をしたのだ。

「…幸せに、なれよ。俺の見舞いはもう良いから…行けよ。もう…
答えは聞けたから充分だし、今はちょっと…一人にさせて貰いたいからさ」

「で、でも…」

「良いんだ。克哉…行こう。こういう時はそっとしておいてやるものだ…」

 克哉は、花瓶の件もあったし…本多の事が気になって留まろうとした。
 だが、それを御堂は制していく。

「本多君。ありがとう…君が私を庇ってくれたことは…心から、感謝する。
君のお節介な心遣いは…正直、ちょっと閉口したがな」

「へえ、御堂さんを閉口させることが出来たなら俺もなかなかのモンですよね…」

 本多の顔が、笑みを刻もうとするが…それはどこか、泣いているような
切なさを帯びていってしまっていた。
 ダンダンと顔を俯かせて、二人に顔を見られないようにしていく。

―それを無理に暴かないでいてやるのが、最大の労わりだろう。

「…お幸せに」

 それは、本多からの精一杯の強がりの、祝福の言葉。
 好きだと自覚した直後に…この想いを諦めるのは辛かった。痛かった。
 涙が零れそうになりながら…それでも、精一杯の気持ちを込めて…本多は
その一言を搾り出していく。
 それは本当に心から相手を想って、身を引く潔さがなければ出来ない行為。
 克哉は…本多から、その言葉を受け取って迂闊にも涙を零しそうになっていた。

「あぁ、幸せになる。ありがとう…本多君」

 克哉が言葉に詰まって返事出来ないでいると…代わりに御堂がそう答えて
そっと、その肩を抱いて退室していく。
 それは…灰色の雲の中に差す、一条の鮮烈な陽光のような…輝ける言葉だった。

「…あり、がとう…」

 そして克哉も、掠れた声でそう…本多に告げていく。
 儚い言葉が届いたのか、届かなかったのか二人には判らなかったけれど
その瞬間…俯いている本多が、微かに笑ったような気配を感じた。
 そして…二人は病室を後にしていく。

―その瞬間、曇天の雲の隙間から鮮やかな黄金の太陽が煌いていた

 もうじき日が沈み、夜の帳が覆おうとしている寸前に…最後に見せた
陽の光は…とても鮮烈で、目を焼く程であった。
 
「わぁ…」

 克哉の口から、思わず感嘆の声が零れる。
 それを見て…御堂はそっと克哉を引き寄せていった。

「…雨ばかりが続いていたから、凄く…太陽が眩しく見えますね…」

「あぁ…」

 どんなに冷たい雨が続いても。
 悲しみが続こうとも、雨が必ず止んで太陽が覗くように。
 悲劇も終止符を打たれる日が絶対に来るのだ。
 
 僅かな時間だけ垣間見えた太陽の光を受けて…御堂の中の
雨の中で泣いている克哉のイメージが一瞬だけ、消えていった。
 代わりに…。

 ―この瞬間、日の光を受けて柔らかく微笑む克哉の笑顔が刻まれていく

「…克哉」

 それはとても愛おしいもののように感じられて…御堂はぎゅうっと強く
抱きすくめていく。

「み、御堂さん…っ?」

「…黙っていてくれ。他の人間が来て…しまうだろう…?」

「…はい」

 言われた通りに、御堂の腕の中に収まった状態で克哉が黙っていく。
 陽の光を浴びた色素の薄い瞳は、まるで何かの宝石のように映った。
 それに引き寄せられるように…御堂はそっと顔を寄せて。

―愛している

 今度こそ、彼に向かってずっと言えなかった言葉を伝えていく。
 克哉は…幸福の余りに、一筋の涙の粒を零していった。

「…御堂、さん…」

 そして、太陽が再び闇に消える直前に…二人の唇は瞬きする
間だけ重なっていく。
 何度も何度も再会してから…想いを通じ合って、やっとこの瞬間に
お互いにそれを噛み締めて実感出来たような気がした。

 お互いの気持ちは、間違いなく注がれていると。
 ようやく確信することが出来て…二人は幸せそうに微笑んでいく。
 愛しさがこみ上げてくる。
 その幸福感を、こみ上げてくるような想いを感じながら…二人は
そっと抱き合っていった。

 ―もう御堂の中で悲しみの雨の記憶は遠くなっていく
 
 雨は必ず止む日が来る。
 もう…悲しい思い出に振り回されるのは止めよう。
 そして幸せな記憶を積み重ねよう。
 心に刻んでいこう。

―ようやくこの瞬間に、紆余曲折を経て…自分達は幸福をこの手に
掴み取れたのだから…

 ―克哉から連絡を受けて、本多が収容された病院へ辿り着いたのは
21時を回った頃くらいだった。
 到着した直後、手術室の前で心細そうな表情を浮かべて長椅子に
座っていた克哉を見て…思わず保護欲を掻き立てられてしまった。
 すぐ傍の手術室には『手術中』と言うランプが点灯している。
 それを眺めながら…思ったよりも本多の体内に突き刺さっていたガラスは
多かった事を思い知った。

「…克哉、本多の容態は?」

「…まだ手術中のランプが消えないから、判りません。ただ…病院に到着
してから看護婦さんとか医者が血相を変えて手術室に空きを作らなくてはとか
体温を暖めたり輸血の準備を…って言っていたから、余り良いとは言えない
状況です…」

「そうか…なら、私も一緒にここで待とう。…一応、念の為に夕食につつしまやかで
申し訳ないが簡単につまめる物を持って来ておいた。一緒に食べよう」

「…はい、わざわざありがとうございます」

 そういって手に持っていたコンビニ袋を掲げて見せながら…御堂はさりげなく
克哉の隣に座っていった。
 こうして近くで見てみると…克哉の顔は相当に青かった。
 本多の事を心から案じているのだろう。
 そう思うとまた、チリリ…と嫉妬心が疼く想いがした。
 
(何をさっきから考えているんだ…本多は克哉にとって、同僚であり友人でも
あるんだ。大怪我したりしたら…心配するのは当然じゃないか…)

 そう理性が囁いていくが、どうしても胸の中の焼け焦げるような感情は
消えてくれない。
 だから…さりげなく克哉の肩に腕を回して抱き寄せていった。
 …病院内で人目につく可能性があったが、克哉は本気で顔を青ざめている。
 それなら…本気で案じている友人を労わって、と見えなくないだろう。
 御堂はそう判断して、らしくない態度を取った。

「…暖かい」

 暫くしてから、ボソリ…と克哉が呟いていった。

「…何も食べていないから、恐らく身体が冷えているのだろう。…そんな物しか
用意出来なくてすまないが、何も胃に入れないよりはマシだと思う…」

「はい、ありがとうございます。…けど、御堂さんがコンビニのおにぎりを買って来るとは
思いませんでした。何となくイメージに合わない気がして…」

「…あぁ、普段は滅多に食べない。時間の無い時にテイクアウトするのはサブウェイとか
街にあるある程度名の知れたパン屋の類が多いからな…」

「やっぱり…何となくオレにもそういうイメージがありました。何かしっかりした店を
選んで食べていそうだなって…」

 そういってようやく、克哉がクスクスと笑っていく。
 御堂は何となく居たたまれないような気持ちになって…頬を染めながら軽く
ソッポを向いていた。
 いや、彼とてもう少し時間的な余裕があったのならば…しっかりした店でサンドイッチの
一つぐらいは用意したかった。
 しかし警察の調書作成に協力したら思いの他、時間が取られてしまっていて…例の
事故が起こった時から二時間以上があっという間に過ぎてしまっていたのだ。
 本多と克哉の事が心配で心配で、大急ぎで駆けつけている最中…警察署のすぐ近くに
コンビニエンスストアがあったので、そこで久しぶりに…おにぎりぐらいは買って向かおうと
4つ程、購入したのである。

「頂きますね」

「うむ…」

 すぐ隣で克哉がおにぎりの包装を剥がしていく音がする。
 それに倣って…御堂も一旦、克哉の肩から腕を外して…コンビニのおにぎりの
包装を剥がし始めていった。
 だが普段忙しい時に食べ慣れている克哉と違って、御堂は若い頃ならばともかく
ある程度の役職についてからはめっきり、こういった物を食べなくなって長い年月が
過ぎていた。
 その為、手つきは何とも不器用なものになってしまっていって…。

 ビリッ!

 無残にも外側の包装に包まれていたおにぎりが破れる音が響き渡ってしまって
何となく恥ずかしい気持ちになった。
 すぐ隣で、克哉はまたクスクスと笑っていた。
 …何となく格好悪いような気がしてならなかった。

「…何か御堂さん、凄く可愛い…」

「言うな、克哉…。私だって凄く今…恥ずかしかったんだ…」

「…すみません、本当なら笑うべきじゃないって判っているんですけど…貴方のそんな
姿が見れるとは思いませんでしたから…」

「ふん…」

 そして照れ隠しに、豪快に微妙に端の海苔が破れたおにぎりを頬張ってみせる。
 克哉もそれに付き合って、黙々と食べ始めていく。
 この時間まで何も食べていなかったせいか…各自、おにぎり二つなどあっという間に
平らげてしまっていた。
 この分だったら、もう一つずつぐらい購入しておけば良かったと少し後悔したぐらいだ。
 ついでに用意しておいたペットボトルのお茶を飲んでいきながら…克哉はしみじみと
呟いていった。

「ふふ、でも凄く嬉しいです。…貴方がこんな風に、オレに気を遣って労わって
くれる日が来るなんて…以前は想像した事もなかったから…」

「…あぁ、確かに…以前の私は、君に対して…酷かったな…」

 先程、眼鏡を掛けた克哉の姿を見て辛辣な事実を叩きつけられたからだろうか。
 どことなく…今の克哉の言葉と、表情が胸に突き刺さる想いがした。
 そしてもう一度…さりげなくその肩を抱き寄せていく。
 克哉の身体も…まだ、どことなく湿っていて冷たいような気がした。
 お互いに雨に打たれていた事をその時、思い出した。

「…寒くないか」

「…大丈夫ですよ。病院内は空調が効いていて…むしろ空気が少し乾燥
しているぐらいですから…」

「そうか…」

 どことなくぎこちないやりとりが続いていく。
 けれど…ふとした瞬間、克哉の瞳が揺れている事に気づいた。
 やはり、手術中の本多を案じているのだろう。

「…本多が心配、か?」

「はい…」

「…彼が助かると良いな。…私も、それを一緒に願おう…」

「…ありがとうございます…」

 また、どこか儀礼的なやりとりが続いていく。
 克哉の表情がまた浮かないものになって…心配の色が濃くなっていく。
 それを見て、つい呟いてしまっていた。

「妬けるな…」

 それは珍しく、御堂の本音からの言葉だった。
 克哉はその一言を耳にして本気でびっくりしていった。

「…妬けるなって、御堂さんが…ですか?」

「あぁ、そうだ。本来ならそんな事を感じている場合じゃないって判っているが…
君がそんなに私以外の男の事を心配していると思うとな…」

 何故、そんな事を言ってしまったのか…自分でも不思議だった。
 だが、さっきの眼鏡の言葉に何かを感じたからだろうか。
 自分はあまりに、言葉が足りないと。全て自分の胸の中に閉じ込めて
漏らさないから…周りの人間はそれで苦しんでしまっていると。
 だから、ついポロリと本音が零れてしまった。

「…本多は、オレの友達です。貴方とは…次元が違いますから…」

「あぁ、判っている。だが…私達は再会してたった三日だ。想いを確かめ合ってから
それだけの月日しか流れていない。だから…私よりも長い時間、君と一緒にいた
彼に嫉妬している。私を庇ってくれたのは事実なのに…このまま助かって欲しいと
強く願っているのに…同時に、彼への嫉妬心が消えない…」

 そういって、強く克哉を抱き締めていく。
 少しだけその身体が震えているような気がした。
 克哉がこちらの頬にそっと手を伸ばしてくる。
 優美な造りの少しだけ冷たくなっている指先を感じて…御堂は真っ直ぐに
克哉の瞳を覗き込んでいった。
 真摯な眼差しを、そのアイスブルーの瞳に注ぎ込んでいく。
 
「…貴方が、そんな事を言ってくれるなんて…思ってもみませんでした…」

「…みっともないな、私は…」

「…いいえ。オレは逆に安心しました。…嫉妬をしてくれるくらい、貴方はオレの事を
想ってくれたんだなって…」

 どこか儚く、克哉が笑っていく。
 その表情はすぐに壊れてしまいそうなぐらいに切ないもので…それを留めたくて
強く強く、その身体を抱きすくめていく。
 お互いの肉体が熱く感じられる。
 思いがけず、想いの篭った抱擁を受けて…克哉は、嬉しそうに呟いていった。

「…こんな時に、不謹慎だと想うけど…凄く、嬉しい…」

 泣きそうな瞳を讃えながら、克哉が呟いていった。
 引き寄せられるように…そっと顔を寄せていく。
 窓の外には大雨が未だに降り続いて、病院の廊下にもその雨音が響いている。
 そんな中で…二人は、静かに唇を重ね合う。

「好きだ…」

 初めて、御堂の唇から…『好きだ』という単語が零れていく。
 それを聞いて…一筋の涙を、克哉は伝らせていった。

「…御堂、さん…」

 こんな時に言うのは反則かも知れないという想いはあった。
 けれど…知らず、言葉は口を突いてしまっていた。
 雨はまるで涙のようだけれど。

 ―涙には心を浄化する作用がある

 この溢れるように流れる雨が、御堂の意地を張る心をほんの少しだけ
潤わせて柔らかくしていったのだろうか…?

「…オレ、も…貴方を大好きです…」

 その一言を告げて、やっと…克哉が微笑を浮かべていく。
 それは御堂にとって…宝物にしたいぐらいに、綺麗で可愛らしい表情だった―

 
  ―其れは果たして、一体どのような奇妙な現象なのか

 御堂の背後と、目の前に同一人物が立っている。
 同じ服装に、同じ造作の顔。
 しかし目の前に立っている男の瞳だけは…自分の知っている
佐伯克哉と大きく異なっていた。
 どこまでも冷たいアイスブルーの瞳。
 御堂にとって愛しいと感じる頼りない方の克哉の青が、海を連想させるなら
目の前の男の瞳は大気圏のどんな生き物も生息できない空の、他者を
絶対に寄せ付けない蒼だ。

(これは誰だ…? 本当にこの男は克哉…なのか…?)

「どうして君がここにいるんだ…? ですか…連れないですね。愛しい御堂さんの為に
頑張って先回りをしただけの話ですよ…」

 からかうような口調で、男が声を紡ぐ。
 声音すらも…まったく別人のようになってしまっている事を怪訝に思いながら
御堂は即答する。
 ザーザーと雨が激しく降り注ぐ中、それでもお互いの声だけははっきりと
聞き取る事が出来たのは…それだけ相手の言葉に意識を集中させていた
からだろうか…。

「嘘だな。君は私の背後で…本多の為に、自分が濡れるのも構わずに傘を
必死に差している筈だ。私の先回りをしてその男を捕まえるなど…不可能だ」

「…けど、実際に俺はこうして此処にいるでしょう? それに俺の協力があったからこそ
貴方はこの男を取り逃がさずに済んでいる。それなら、それで良いでしょう。
同じ人間が同時に存在する…そんな奇跡も、この雨が見せた一時の気まぐれな
幻とでも解釈しておけば良い。生きていれば…時に、そんな神秘や不思議に一度ぐらいは
遭遇する事はありますよ…」

「悪いが、私はそういった類はまったく信じる主義ではないな」

 これもすっぱりと即答する御堂を見て、可笑しそうに眼鏡は嗤(わら)う。
 そこに不快なものを感じて…見る見る内に御堂の表情は強張ったものに
なっていく。
 見れば見るだけ、接すれば接するだけ…これが自分が知る佐伯克哉と違いすぎて
不信感が増していく。
 だが、自分はこんな彼に過去に接したことはなかっただろうか?
 そうだ…克哉と初対面の時、一瞬にして別人のようになって。
 目の前の男は、その傲慢で自信に溢れさせている方の克哉だ。
 
「…けど、事実ですよ。そんなに頭が固いと…思わぬ所で、真実というのを
取り零す恐れがありますよ…」

 そして、男はコツコツ…と靴音を響かせながらゆっくりと御堂の方へと歩み
寄って行った。
 咄嗟に、御堂は身構えてしまいながら…それを待ち受けた。

「…そんなに硬くならなくても良いですよ。俺は…もう行きますから。
あぁ、そういえば一つだけ言って置かないといけない事があったな。
…御堂さん、もう一人の『オレ』を頼みますよ。あんたに何かあったら
あいつは恐らく嘆くだろうから。あんたの良さは…人の事を当てにせずに
責任感を強く持って事に当たる事だが、言葉が足りなさ過ぎて…今回のように
大きなすれ違いを生んでいく。この男だって…」

 そうして、自分が気絶させた男を一瞥しながら…。

「…あんたを、信頼していたんだよ。だから…何の説明も弁明もなく会社を
去っていった事でショックを受けた。そして噂に翻弄されて…間違ったあんたの
像を自分の中に作って、恨むしかなくなったんだ。哀れな奴だが…その悲劇の
一旦は、あんたにもある。もう一人のオレも…あんたと再会するまでは、本当に
悩んで苦しんでいたんだ。…あんたの一人で抱え込む性分は時に、そのような
苦しみを…生み出す時もあるんだと。それぐらいは…自覚してくれよ」

「…っ!」

 御堂は、その言葉を受けて強張った表情を浮かべていく。
 今まで、そんな事を自分に向かってぶつけてきた奴など…一人もいなかった
からだ。
 だが、どれだけ指摘されようと…32年間生きて来て形成された人格を一朝一夕で
変えられる訳ではない。

「…克哉は、苦しんでいたのか…?」

「あぁ、あいつもあんたを好きで好きで…しょうがなかったからな。だから…
もう二度と、あいつに黙って姿を消さないで下さいよ? じゃあ…俺はそろそろ
行きますよ。もうじき…パトカーや救急車も到着するでしょうからね…」

 眼鏡がそう告げると同時に、この駐車場の隅の一角に一台のパトカーが
到着したのが目に入った。

「待て…! 言いたい事だけ言って君は消えるのか…!」

「えぇ、そうですよ。同じ顔した男が同じ場所に二人存在していたら面倒な事にしか
ならないでしょうからね…」

 そうして、本当に言いたい事だけ好き勝手に言ってのけた男はあっさりと
踵を返していく。
 御堂はそれを追いかけようとした。
 だが一度だけこちらを振り返った男の顔を見て、立ち尽くすしか…なかった。
 余裕に満ちた、皮肉な笑顔が…とても切なく、悲しいものに変わっていたから。
 そして…小さく、ポツリと告げていく。

―あいつを宜しく頼みますよ、御堂さん

 それはまるで…とても大切な者を託すかのような、切な声音だった。
 御堂は驚いて、言葉を失って立ち尽くしていく。
 そうしている間に幻のように…眼鏡の姿は掻き消えていった。

 それは雨が見せた一時の幻だったのだろうか?
 御堂の心の中で猛烈な疑念が湧き上がっていく。
 そうしている間に…救急車の方も到着して、本多は搬送されて…克哉も
付き添いとして同乗する事になった。
 
 そして御堂は、元工場長の引渡しと状況説明する為に…その場に残る
事を選択していく。
 本当は本多に克哉を付き添わせるのは、チリリと胸が焦げるような想いがしたが
自分には成すべきことがある。
 個人的な感情に振り回されて良い時ではない。
 それに克哉は、自分の事を好きだと言った。
 大切な人間だとはっきりと告げてくれたのだ。

 だから御堂は克哉を信じて…事後処理をこなしていく事に勤めていく。
 そして全てが一通り片付いた後、克哉と連絡して…本多が搬送された病院へと
自分も駆けつけたのだった―
 
 ―全てを覆いつくすように激しい雨が降り注ぐ 
  確か以前にこんな雨が降った日も克哉にとっては
  辛い事が確かにあった。
  あの雨の日に…克哉は、御堂との縁が確かに切れてしまった
  なら、今度は本多を自分は失うのだろうか?
  そう思ったら辛くて、辛くて…涙が零れ続けた 
  この冷たい雨は、まるで…天が泣いているよう
  自分の気持ちに呼応して、雨は降り注ぎ続けていた―

  119に通報して、救急車の手配を終えると克哉は慌てて
車のボンネットの上に横たわっている本多の元へと駆けつけていった。

「本多! しっかりしろよ…!」

「…か、つや…か?」

 克哉が呼びかけると…本多は弱々しくこちらを振り向いて…笑顔を
刻んでいこうとしていた。
 だが激痛の為に、どうしてもそれは引きつったものになってしまっていた。

「そうだよ…! これ、一体何なんだよ! どうしてお前が…ここにいて、
こんな酷い状態になっていなきゃいけないんだよ! どうして…どうしてっ…!」

 克哉は混乱していた。
 本来ならこの後、御堂とこの付近で合流して…週末を一緒に過ごす予定だった。
 最初、この雨だから…と御堂に指定された通り、新しい会社の一階のロビーで
暫く待ち続けていた。
 だがいつまで待っても来ないので…問い合わせた処、御堂は自分と入れ違いに
外に出て行ったというのだ。
 御堂は当初、克哉を其処で待たせて…会社の前まで車で乗り付ける形で合流
する予定だった。
 その準備の最中に、本多と例の元工場長に捕まり…かなりの長い時間をロス
してしまった訳だが、克哉はこの時点ではその事実を知らなかった。

「…はは、御堂の奴が…ここで、車に轢かれそうになってよ。そうなって万が一の
事が、あったら…お前が泣くかな、と思っちまって。気づいたら庇って代わりに
跳ねられちまったよ…格好、悪いよな…」

「御堂さんが…?」

 その瞬間、バッと例の男を取り押さえている御堂の姿を仰ぎ見た。
 見る限り、御堂は無事そうだ。
 上等そうなスーツは雨に濡れてベショベショになっているが…本多と違って
大きな外傷らしきものはない。
 それだけが大きな救いであった。

「…御堂は、無事だぜ。俺が直前で…突き飛ばした、からな…」

「…そう、なんだ…。ありがとう…けど、オレはこんなの…望んじゃいなかったよ。
確かに…御堂さんは大切な人だけど、本多も…オレにとっては、大切な友達なんだ。
どっちを失っても…オレには辛いし、苦しいんだ…! それくらいは判れよ…」

 ボロボロ、と涙を零しながら…本多の顔を見つめていく。
 
「…泣く、なよ。俺は…大丈夫、だよ…。死には、しない…。俺の、頑丈さは…
学生時代からの付き合いのお前が、良く…知っている、だろ…?」

 本多の声は途切れ途切れで、弱々しくなっていた。
 だが、惚れた相手を安心させる為に必死で笑ってみせる。
 そう…死ぬつもりなんてない。
 ギリギリまで本多は生きる事を諦めるつもりはなかったから。
 それに幸いにも、地面に叩き付けられたり轢かれなかったりしたおかげで
かなりのスピードで跳ねられた割には本多の傷は軽度だった。
 アバラ骨数本ヒビ割れて、軽い腕の骨折。それと鞭打ちに…背面に大きな
ガラスの破片が幾つか突き刺さっている状態だった。
 それだけなら、命に別状はない。
 ただ問題なのは…ガラスが突き刺さったことにより微量ながら未だに出血が
続いている事と、冷たい雨に打たれている事だった。
 怪我で命を落とす心配がないとは言え、微量とは言え長時間出血が続けて
体温低下を引き起こせば危険な状態に陥るのは明白だった。

「あぁ…でも、凄ぇ、寒いな…。せめて、この雨だけでも…どうにか、
ならない…もの、かな…」

 本多も怪我を負った状態で10分以上、この雨に打たれ続けているのは堪えて
いるみたいだった。
 その時、克哉はハっとなって…大急ぎで先程落とした自分の傘を拾いに
向かっていく。
 
―そして自分が濡れるのも構わず、必死の形相で本多の身体の上に傘を
広げて…少しでもその身体が濡れるのを防いでいった。
 応急処置をしようにも、その知識も経験がない克哉には無理だった。
 それならばせめて…雨で濡れるのを少しでも防いでやりたかった。
 ぼんやりとぼやけている視界に、涙を流しながら必死の形相で…こちらに
傘を向けてくれている克哉の姿が入った。
 それだけで…どこか、本多は満たされた気持ちになった。

(…お前が、俺の為にそんな風に泣いてくれると…判っただけでも、
充分だな…)

 自分は確かに、失恋した。
 けれど…馬鹿な真似かも知れないが、その惚れた相手に対して何かを
出来たという事と、克哉が自分の事をここまで案じて…泣いてくれている姿を
見れただけでも、満たされる何かがあった。

「本多! もうじき救急車が来るから…! だからそれまで絶対に持ち堪えてくれ!
お前が死んだら、オレは…泣くからなっ!」

「あぁ、こんな…事で、くた…ばら、ねぇよ…。お前を、泣かせたくないから…な…」

 そうして、本多は無意識の内に克哉の顔に手を伸ばして…涙を拭う仕草を
してみせた。
 それと同時に…本多は意識を失っていく。
 その顔は…どこか、穏やかなものだった。

 同時に、遠くの方からパトカーのサイレンが鳴り響いていった。
 それを聞いて御堂が取り押さえていた男が…青ざめた顔をして、もがき
まくっていた。
 それは男の最後の抵抗。
 本来恨んでいた相手ではなく、別の人間を跳ねてしまったとは言え…罪は
罪だった。
 だが、男はこれが発覚したら更に妻子に軽蔑されると気づいてしまった。
 だから暴れて、抵抗し続ける。

「…大人しくして貰おう! 自分がした事に貴方は責任を持たないつもりか!」

「うるさい! 俺は捕まりたくないんだ…!」

 そうして、いきなり…男は全力で四つんばいの状態から立ち上がろうと
試みていく。
 その瞬間、男に乗り上げる形で押さえつけていた御堂の身体が不安定に
揺れてしまった。
 全力の人間というものは思いがけない力を発揮するものだ。
 御堂の身体がフワリと浮いて押さえつける力が緩んだ瞬間を見計らって…
男は逃走し始めていく。
 男の身体が、御堂の身体を押しのけていくと…その反動で、御堂は地面に
転がる羽目になった。
 それでもすぐに体制を整えて、必死に追いかけていく。

「待てっ!」

 逃がすつもりなどなかった。
 だから御堂は遮二無二、必死に追いかけ続けていく。
 だが駐車場の入り口の時点に差し掛かっていくと…一人の人影が其処に
立っていた。
 雨のせいで視界が効かなくなっていたせいで…それが誰だか、咄嗟に
判らなかった。

「その男を…捕まえてくれっ!」

 御堂はそれでも必死に、突然現れた人影に向かって声を掛けていく。
 だがそれを聞くよりも早く、その人物は自分の方に逃げてきた男に向かって
拳を叩きつけていった。
 その拳はみぞおちに吸い込まれて、一瞬にして元工場長であった男は意識を
失って、冷たいアスファルトの上に崩れ落ちていく。

「…随分と甘いですね。御堂さんは…これぐらいの事をしなければ、こういう
往生際の悪い男は…お縄になんてなりませんよ?」

 その男はいきなり、自分の名を呼んだ事に御堂は驚いていった。
 だが、ようやく近くに辿り着いて…その顔を見た時、信じられないものを
見たような思いになった。

「君は…!」

 とっさに、御堂は今来た道を振り返っていった。
 やはり大雨のせいで視界が悪いので遠くの方はすでにぼんやりとしか
見えなくなってしまっている。
 だが、黒い傘が掲げられているのだけは確認出来た。
 あの傘があるという事は、克哉は其処にいる筈だ。
 なのに…この現象は何だと言うのだ。

「お久しぶりですね…御堂さん」

 そういって、傲然と微笑む男は…かつて、二度だけ見た事があっただろうか?
 すっかりと弱々しく、穏やかに微笑む彼ばかりに接していたので…すでに
御堂の中では遠くなってしまった顔。
 自信に満ち溢れて、自分が知っている克哉の声よりも随分と低く迫力が
ある声音で…こちらの名前を呼んでいく。

「…どう、して…君が、ここにいるんだ…?」

 克哉は、本多の前で傘を掲げていた筈なのに…こちらに先に回りこんで
あの男の先手を打つなど「二人」いなければ不可能な筈だった。
 不可解な現象に御堂は困惑した顔を浮かべていく。

―そして、強気な笑みを刻みながら…目の前の男は口を開いていったのだった―

 ―最初は何が起こったのか、良く判らなかった。
 
 轟音が周囲に木霊すると同時に、目の前には…一台の車の上に
人間が落下というという惨状が広がっていた。

「本多、君…?」

 とんでもないものを目撃したかのように、御堂の全身が震えていく。
 たった今、目の前で起こった事がとても現実の事とは思えなかった。
 自分達を目掛けて突撃してきた車のフロントガラスからボンネットの
部分にかけて落下した本多の巨体は、車体の前面部分を大きくひしゃげ
させて…盛大にガラスを破壊していった。

 フロントガラスは盛大にひび割れて、ボンネットの上やその周辺に
大きな破片が散らばっている。
 何個か、その大きな破片は本多の身体の奥深くに突き刺さり…辺りを
血に染めていく。
 だが、車の上で本多は苦悶の声を漏らし…時折、身体を震わせている。
 それだけで…彼は即死は免れた事に気づいて安堵していった。
 運転している男は、突然の事態に混乱しているようだ。
 ピタリ、と車が止まっているのを確認すると…御堂は本多を介抱すべく
その手前まで駆け寄っていった。

「…どう、して…! 私など庇った! 君は私の事を嫌っているんじゃ…
なかったのか…!」

 車の上に仰向けで倒れている本多に向かって、やや険しい表情を
浮かべながら問いかけていく。
 大声で声を掛けていくことで…本多の意識も覚醒したらしい。
 普段に比べると随分と弱々しい笑顔を浮かべながら…男は、
答えていった。

「…あ、ぁ…ずっと、前からあんたの事は、取り澄ました…嫌な奴だと
思って、いたぜ…」

「…なら、どうして庇った! あの状況で私を突き飛ばしたりなどしたら
自分がどうなるか判らなかったのか…!」

 御堂は、本気で憤りながら本多に訴えていく。
 嫌悪している相手に、こんな風に庇われるなど目覚めが悪くて
しょうがなかった。
 本多の行動が理解出来ないとばかりに怪訝そうな視線を投げかけて
何故、と問いかけてくるばかりだ。
 …まあ、その方が御堂らしいと思った。
 ここで自分に対して素直に感謝の言葉を言う御堂など、逆に気持ち悪くて
仕方ないだろう…。

「…俺だって、馬鹿な真似したなと思っている、さ…。だけど、あの瞬間…
克哉の顔が浮かんだ、んだ…。あんたの事を好きだって、切なそうな顔
して俺に答えてくれた…あいつの、顔がな…。それを思い出したら、
あんたに何かあったら…きっと、克哉は泣いて悲しそうにし続けるんだろうって
そう思っちまって…そしたら、反射的に庇っちまったんだ…」

 それは普段の彼の声の大きさに比べれば、まさに蚊の鳴くような
弱々しいものだった。
 そう、本多がとっさに御堂を庇って代わりに跳ねられた理由。
 それは…もしあれで、この男が命を落としたりなんかしたら…克哉は
きっと泣いて、嘆いて…正気でいられなくなるだろう。
 とっさに、そう考えたからだった。

「…あんたの為、じゃねえよ…克哉の為だ…。俺が、あんたを
庇っちまったのは…な…。俺にとって、どれだけあんたが嫌な奴で
いけすかなくても…克哉にとって、あんたは…大事な、人間なんだ…。
なら、ダチの為に身体を張るのは…当然、だろ…?」

 この時、本多は敢えて克哉を「ダチ」…ようするに友人と言い切った。
 克哉を特別な存在として想う気持ちはあった。
 けれどそれを必死に押し殺し…あくまで、ここで御堂を庇ったのは
友人の為と言い切るのはかなりの精神力を要した。
 御堂は、それで少しだけ納得したような顔を浮かべるが…すぐに
頭を切り替えて、今度は…ジタバタしながら、足をもつれさせた状態で
車を飛び出して来た「犯人」を捕まえようと駆けていった。

「うわぁぁ…! 目が、目が…何も、見えねぇ! 何が起こったんだ…!」

 男は、車内にいた状態でフロントガラスが盛大に粉砕し、大きな破片が
飛び散った事で…何枚かの破片で頭部を出血してしまい、自らの血が
目に入ったことで視界を失っていた。
 頭部は負傷すると、傷の大きさの割に大量に出血する部位だ。
 溢れんばかりに自分の頭から血が流れ続けている事で軽いパニック
状態に陥っているらしい。
 そんな男の肩を、御堂は乱暴に引き掴んでいくと…雨で濡れたアスファルトの
地面の上に引き倒していく。

「…観念しろ! 今…警察を呼ぶ! …こちらに対する殺人未遂でな!」

「…っ! その声は御堂か! 何でお前が無事なんだ…! 俺は確かに
あんたを狙って…!」

「…その、声は…! もしかして貴方は…工場長か? 風の噂で…
私が解雇されたのと同じ時期に、責任を取らされて首を切られたとは
聞いていたが…! 何故、こんな真似をした!」

 男の風体はかなりみずぼらしくて、ヨレヨレの灰色のコートに水色のワイシャツ。
それとゆったりしたサイズのライトブラウンのズボンを穿いていて…目元を隠す
ように毛糸の帽子を深く被っていたから…この男性に関しては作業服のイメージが
強かっただけに最初は判らなかった。
 だが、MGNでの商品の殆どは彼が工場長を勤めていた工場で生産していた
訳だから…声は聞き覚えがあったのだ。

「…うるせえ! お前がそれを聞くのか! 俺たちに責任をなすりつけて
とんでもない事を引き起こした癖に…責任を取って辞めたあんたはあっさりと
新しい会社で良いポストに就いて…! 俺なんて…定年退職まで本当に後、
数年の処まで来たのに長年かけて築いたポストも、当てにしていた退職金も
退職後のプランも全部奪われて…散々な目に遭っているっていうのに、
あんただけノウノウと暮らしているのが…許せなかっただけだ!」

「…誰がノウノウと暮らしている…だと? 私だって長年努力して
築いた部長という肩書きを失墜させられたのは同じだ! それが
理由でこんな真似をしたというのなら貴方は甘えているし…
こちらに対して逆恨みをしているだけだ! いい年をして恥ずかしく
ないのか!」

「何だと! 責任をこちらに押し付けて来たのはあんた達の方だろうが!」

「違う! 例の発注ミスは…工場側の確認ミスで起こっている。
ようするに…大隈専務が言っていたように、子会社であるキクチ側の
社員の責任ではない。君の部下の一人の間違いによって起こっている!
貴方はそれを知らなかったのか?」

「…っ!」

 この工場長と御堂が解雇される原因となった一件。
 それは…新商品の大量の発注ミスだった。
 大量の商品を、小口の処に。
 代わりに大手の処にごく少数の商品しか届かなかった事は
会社の信用問題にも関わる大きな失敗であった。
 だが、MGNの大隈専務は…その責任をキクチになすりつけようとして
御堂がそれを阻止し。
 そして結果…その失敗の穴を埋める事が出来なかった御堂は
MGNを去ることになった。
 それ以後、大騒動となってしまった事で御堂一人だけでは足りなくなって
結果…この工場長と営業、広報を担当していた責任者がそれぞれ
首を切られる結果となったのだ。

「・・・それは、本当なのか…? 本当に…ウチの工場の人間が
間違えて…?」

「…恐らく、貴方は失敗したキクチの社員を私が庇って失墜することに
なったという噂の方を耳にしたのだろう。だが…事実は違う。
あの一件は「工場側」の確認ミスで起こっている。断じて…キクチ側の
責任ではなかった。貴方はその事実を知らなかったから…湾曲して
物事を捉えてしまったんだな…」

「…あぁ、そうだ! あんたがいなくなってから色んな憶測や噂が
飛び交ったよ! 俺は特にあんたを信頼していたからな…。キクチの
人間なんて庇って、失墜した時に失望したし…その癖、自分はあっさりと
他の会社の役職について…。結局あれはあんたがMGNを陥れて
別の会社に移籍する為の茶番に過ぎなかったという噂を聞いた直後に…
俺の首切りも決定した! だから…俺はあんたが憎くて仕方なかったんだ!
時に強引な指示を出すあんたを信じてここまでずっとやって来たのに…
そんな真似をしたっていうのなら…それで、本来俺が得る筈だったもの
全てを奪われたのなら許せないと…そう、思ってな!」

「…そう、か。その辺まで…気が回っていなかったのは…私の失態で
あったかも知れない。だが…貴方がどう勘違いをして、このような事を
引き起こしたのか…同情の余地はあるかも知れないが、罪は罪だ。
警察の裁きは受けて貰おう…」

 そのまま…暴れる男を必死になって押さえつけながら、御堂は…
どうにか片手で携帯を懐から取り出し、警察に連絡をつけていった。
 だが、男が抵抗し続けるので…救急車の手配にまではどうしても
手が回り切れなかった。

「離せっ! 離せぇぇ!」

「…大人しくしていろ! これだけの事をして…罪を逃れようとするなど
絶対に許さない!」

 本気の怒りを込めながら、御堂は工場長を押さえつけていった。
 だが…そのおかげで、本多の方を介抱出来ない。
 あの重態で、この大雨の中に晒され続けていたら…恐らく
じきに危険な状態になる。
 せめてあの車の上から下ろすぐらいの事はしたかったが…今の自分は
この男を押さえつけるだけで精一杯だった。

(誰か…! 頼むから来てくれ…!)

 このままでは本多が、自分を庇って大怪我をしてしまった男の
命すら危うくなってしまう。
 今まで御堂にとって本多とはうっとおしいだけの態度のでかい男に
過ぎなかった。
 だが、あいつは…克哉がこちらを想っているから、という理由でこっちを
庇うような馬鹿な真似をする奴なのだ。
 …このまま、その馬鹿が命を落とすような事態になるのだけは
勘弁して貰いたかった。
 だから、真剣に御堂が祈っていくと…新たな人影が、駐車場に現れていく。

「…嘘、だろ…」

 その人物は呆然としながら、目の前の惨状に直面していく。
 目は大きく見開かれ、呆けた表情を浮かべながら…手に持っていた傘を
地面に落としていった。
 其処に立っていたのは、御堂と今夜約束を交わしていた佐伯克哉だった。
 御堂の方もそれに気づいていく。

「何で、本多が…」

「克哉! 今は呆然としている場合ではない! 早く救急車の手配を…!
事は一刻を争うんだ! 早く電話を!」

「えっ…あ、はい…!」

 ビクン、と震わせながら御堂の一喝しながら指示された事の通りに…
自らの携帯電話から119へと掛けて、ここの住所を告げていく。
 それが終わると同時に、克哉は慌てて…本多の元に駆け寄っていく。

―そんな彼らに、ただ…12月の冷たい雨は降り注ぎ続けていた―

 

―その日の夕方は、しとしとと雨が降り続けていた。
  多くの人間の思惑が交差して、予想もつかない筋書きが生まれつつあった。
  その主役となるのは、悪役となるのは果たしてドラマに出ている誰なのか…
  誰もこの時点で予想がついていなかった

 本多憲二は、営業先から真っ直ぐに…現在、御堂が勤務している会社の
駐車場に辿り着いていた。
 MGN程ではないが、此処もかなりの大手企業らしい。
 駐車場は二階建て方式とは言え、50~60台ぐらいは置けそうなくらいの
敷地は確保されていた。
 まだ就業時間を迎えた直後であるせいか、駐車場の殆どのスペースに
車が止まったままだった。
 雨が降っているのと相まって、この周辺の見渡しは随分と悪くなっていた。

 克哉にメールと、携帯アドレスが書かれたハガキが届いた日、御堂は
片桐と本多の二名にも儀礼的な挨拶文を書いたものを送り付けていた。
 そのおかげで本多は、今の彼がどこで働いているのか知る事が
出来たのだが…。

(まず、あいつの事だから俺の事は歓迎しないだろうなぁ…)

 最初は玄関で待ち伏せしようと思ったが、其処だと他の人間の目にも
付きやすいし…変に目立ったり、恥を掻かせたりしたらあの陰険な性格の
御堂の事だ。
 こちらの事など完全にスルーして帰ってしまうに違いない。
 それで本多なりに考えた結果、駐車場の方で待つ事にしたんだが…。

「…あ~あ、随分と良い車を乗り回しているなぁ…」

 MGNで仕事をしていた時代、本多は御堂が乗っていたドイツ製のセダンを何回も
見ていたので…すぐにそれは見つかった。
 スタンダードでシンプルなラインを描いているその車を眺めながら、大きめの
黒い傘を差して本多は一人、御堂を待っていった。
 時刻は17時10分。就業時間を終えて少し過ぎた頃…と言った処か。
 当然、御堂が残業等をしていればもしかしたら何時間も待つ羽目になるかも
知れない。
 その懸念はあったが…本多はどうしても、御堂に直接聞きたい事があった。
 
(御堂が本当に…克哉を大切にしてくれる奴だと、そう確信出来たなら…
きっと諦める事が出来るだろうからな…)

 自覚したばかりの恋心は、本多の中で未だに暴れまわっている。
 本当は今日の昼間、屋上で話していた時も何度も抱き締めたくなったり
キスしたい衝動を抑え込んでいたのだ。
 こんなのは本多の性に合わない。自分でもその自覚がある。
 けれど片桐に諭された事をしっかりと噛み締めたら…どうしても、感情のままに
御堂と別れて俺の処に来い! と言ってはいけない気がしたのだ。
 克哉は本気で御堂に惚れている。
 少し冷静になって観察した時に悔しいがその事実を思い知らされたのだ。

―本多はどうしても聞きたかった。御堂が克哉を愛しているかどうかを…

 それさえ聞ければ、充分だった。
 それだけの為にアポなしの状態でここまで乗り込んできたのだ。
 雨足が次第に増して、周囲の水音が更に大きくなっていく。
 満足に視界が効かなくなって目を凝らさないと詳細が判らなくなる…それくらいの
状況になって、ようやく駐車場に人影がやってきた。
 最初はそれが誰だか、本多には判らなかった。
 だが、その人物は少しずつ近づいて来て…輪郭を捉える事が出来るようになると
本多は待ち人である事を確信していく。
相手も同じだったのだろう…。
 駐車場で自分の車の前に待っていた人物が本多である事を知ると…怪訝そうに
眉を潜めて言葉を漏らしていった。

「…どうして、君がこんな処にいる…?」

「…お久しぶりですね。御堂さん…ちょっとそちらに聞きたい事があったもんで…」

 一応、いない処では『御堂』と呼び捨てにしていたが…MGNに彼が所属していた頃は
本多の上司に当たる人物であった事は間違いない。
 敬語で応対していくと…ますます、御堂の表情は不可解だと訴えているような表情に
変わっていった。

「…わざわざこんな処に足を向けてまで、君が私に聞きたい事が…? 別に構わないが…
この後に予定が入っているのでな…。出来れば手短に頼みたい…」

「えぇ、そんなに込み入った話じゃないですから。俺が貴方に聞きたい事はただ
一つです。御堂さんは克哉の事を…どう思っているんですか?」

 いきなりストレートに、本多は本題に入っていった。
 それを聞いて御堂の顔が警戒心に満ちた険しいものへと変わっていく。
 今の質問の意味する処は何か、と恐らく考えているに違いない。
 本多と違い、御堂は必ず人の言動の裏…隠された意図を読み取ろうとしてしまう
習慣がある。

 良い言い方ならば用心深く慎重。
 悪い言い方をすれば相手の言葉の裏を読もうと身構えて、常に疑って掛かって
いるという事でもある。
 本多は裏の意図などまったく込めなかった。直球に本心を尋ねて来たのだ。
 だが、御堂にとっては…同性の相手である克哉を想っている、恋人同士に
なっているという事実は周囲に知られたら厄介な事になる事実でもあるのだ。

「…それはどういう意図で君は聞いているんだ…? そこら辺が判りかねるが…」

「言葉の通りです。御堂さんが克哉に対して抱いている気持ちを、正直に話して
頂けたら…と思って聞いているだけです」

 本多としてはかなり下出に出たつもりだった。
 だが、御堂としても…いきなり現れて久しぶりに顔出した本多に対して、いきなり
其処まで正直に話せるものではなかった。
 安易に本心を話したり、噂話を吹聴することは…時に自分の身を危うくするくらいの
隙を生み出す恐れがある事を御堂はすでに経験として知っている。
 それが御堂と本多の大きな価値観の隔たりでもあった。
 これまで、御堂と本多は反発はすれど友好的に話したことなど一回も無い。
 そんな相手に、いきなり胸襟を晒す事など御堂には無理だ。
 だから冷たい言葉しか、其処からは返って来なかった。

「…何故それを、君に話さなくてはいけないんだ?」

 その声の響きは、ゾっとするぐらいに冷たかった。
 本多はそれを聞いて、頭に血が昇っていくのを感じた。

(…ちくしょう、人がこんなに下出に出ているっていうのに…! 克哉はどうして
こんなインケン野郎に惚れたんだよ…!)

 本多は、この時点で平静とは程遠い精神状態をしていた。
 だから自分の説明が足りなかったからこの事態になった事に気づかない。
 ただ、こちらの問いに関して素直に返してくれなかったことに腹を立てて…御堂が
克哉の方の世間体も気にして安易に心中を話さないとまでは察せる状態ではなかった。

「…克哉が、あんたの事を好きだからです。…だから、あんたも同じ気持ちを
抱いているのか…どうしても、聞きたかっただけです…!」

 それでも悔しさを堪えて、必死に平静を取り繕う。

「…君は、どこまで知っている?」

「…さあ、どこまででしょうね?」

 だが、この時点で…御堂はこちらの事を探り始めているのを何となく察していく。
 本多もまた、トボけて見せたがそれは御堂の不興を買ったらしい。
 急速に冷めた眼差しを浮かべながら御堂は本多の脇をすり抜けて…自分の愛車の
方へと向かおうとしていた。

「…って! ちょっと待てよ! こちらの質問にまったく答えないで逃げるつもりかよ!」

「…逃げるも何も、待ち伏せも私に対しての押し問答も、私の都合も考えずに…君が
勝手にやっていた事だ。何故、答える必要がある?」

 必死になって肩に掴み掛かる本多に対し、御堂の対応はどこまでも冷ややかだ。
 その瞬間、本多の持っていた傘はその場に放り投げられて地面に落下していく。
 
「…ほんっきで、ムカつく男だな…! 確かにその通りなんだが…どうしてそう、
人の神経を逆なでにするような言い回ししかあんたは出来ねぇんだよ!」

 克哉の大切な人間なのだから、手荒い態度はするまい…とここに来る時に
密かに誓っていた。
 だが、人の感情というものは伝染する。
 相手に対して好意を抱けば好意が、嫌悪や敵意を持てば相手からも大抵は
同じ感情が返ってくるものだ。
 それは本多と御堂に対しても例外ではなかった。
 幾ら好意的に接しようと、以前から犬猿の仲に近かった二人がいきなり改善出来る
訳がない。
 売り言葉に買い言葉というように、御堂の態度から…本多の態度や口調も次第に
荒れたものになっていく。

―その瞬間の事だった

「うわっ!」

「な、何だっ!」

 いきなり、車のライトが二人に向かって照射されていった。
 あまりの眩さに両者の視界はホワイトアウトし、どんな状況になっていたのかを…
短い瞬間、判断が出来なくなる。
 雨が降り注ぐ中、狭い駐車場内で…一台の車が勢い良く彼らに目掛けて突進を
始めていく。

―そして、その車は御堂の方に確実に狙いをつけてスピードを上げていく。

 御堂は突然の事に動けない。
 本多もまた、動き出すまで暫くの時間を費やした。
 彼らの位置からは、搭乗者の顔は見えない。
 一定のリズムで動くワイパーと、大雨のせいで一瞬の間に判別することは
不可能に近かったからだ。

 キキキキキッ!!


 ドンッ!!


 大きなブレーキ音の後に、大きな激突音が続いていった。
 そして次の瞬間、一人の人影が大地を舞っていった。

 ガシャアアアアアアン!!

―ガラスが盛大に割れる音と車の前面部が潰れてひしゃげる音が
その場に響き渡っていったのだった―
 
 

  ―その日は午後からゆっくりと雨脚が近づいて来ていた。

 御堂孝典は昼休みが終わってからも精力的に働き続けていたが
窓の外から聞こえてくる水音がダンダンと大きくなっているのに気づいて
少しの間だけ手を止めて、外を眺めていく。

「…雨、か…」

 最近、雨ばかりが続いている。
 12月としては相当に珍しい事だ。
 今の彼は、雨を見る度に一ヶ月前のあの日の事を思い出してしまう。

(感傷だな…)

 あの日のマンションの下で立ち尽くして待っていた克哉。
 声を掛けられなかった自分。
 二日前に想いを確かめられた筈なのに…あの日、御堂の胸に刺さった
後悔という苦い棘は…未だにチクチクと胸を痛めていた。

 過去は変えられない。
 どうやっても変更出来ないものならばその後悔を未来に生かす
他はない。
 誰よりも現実的な思考回路の持ち主である御堂は…それを信条に
して生きて来た筈だ。
 後ろを振り返って生きて何の意味があると…今までの自分なら一蹴
してきた行為を、佐伯克哉に関する事だけは知らずに繰り返してしまっている。

(克哉…君はどうして、私などを好きという…?)

 それだけがどうしても判らなかった。
 あの決別の日以前。
 自分達の関係の終わりの頃辺りから…御堂は何となく、克哉の方からの
好意らしきものを感じ取り始めていた。
 最初はまさか、と思った。
 自分が彼にしてきたことを思えば、到底ありえない話だと思ったし…彼の立場を
こちらに置き換えてみれば、絶対にそんな事は在り得ない事だったからだ。
 けれど、その想いに呼応するように…こちらの心もゆっくりと変質していって
会わない日々を積み重ねていく事で、御堂もまた…自らの気持ちに気づかざるを
得なかった。

―もう二度と会わない方が良い

 自分が弄り続けて来た男が、こちらを好きになる事なんてないと思う反面。

―もう一度君に会いたい

 そう強く願う自分も確かにいた。
 その事に気づいて、ふと自分の手に視線を落とす。

(たった二日前の事なのに…あの夜の事が幻か、夢のように感じられるな…)

 あの時間は御堂にとっても幸せだった。
 夢なら覚めないと欲しいと強く願った一時だった。
 だが、その時間が遠くなれば遠くなるだけ…確かに克哉と両想いになって
結ばれたのだという実感が遠くなっていき、儚いものに感じられた。
 それを確認したくて、今日も誘いを掛けてしまったのだが…克哉の方は
あの夜をどう思っているのだろうか。
 みっともないが…つい、そんな弱気な事を考えてしまう。

「…本当に君は、どこまでも私を乱していくな…」

 フッと目を細めながら微笑する、その表情はどこか柔らかかった。
 恐らく御堂自身も、自分がそんな顔をしているなんて気づいて
いないだろう。
 御堂は、そのまま窓の外の曇天の空と…雨を見遣る。

―御堂さん

 そう呼びかけながら、立ち尽くす克哉の幻が一瞬だけ見えたような
気がした。
 再会して、想いを確かめ合っても…御堂の中の克哉は、消えない
残像のように…雨の中で一人、立ち尽くす。

―そして、泣き続けていた

 あの日、マンションの窓から見下ろす形で克哉を見ていた筈だから…
彼の涙など見ていない筈なのに、離れてからも…雨が降る度に御堂は
その幻を見ていた。
 切ない顔で、今にも涙を零しそうな脆い顔を浮かべながら…ただ
名前を呟きながらこちらを見つめてくる残影。
 
(泣くな…)

 その顔を見て放っておけない気持ちになって、つい手を伸ばしたくなる。
 雨の日の度に繰り返される場面とやりとり。
 
「嗚呼、そうか…。君に逢いたいと願った一番の理由は…この幻に
出てくる君の涙を止めたいと…らしくない事を考えてしまったからかも
知れないな…」

 自嘲的に笑いながら、灰色の空の中に克哉の面影を描いていく。
 瞬間、甘いものが胸の中に広がっていく。
 いつから…自分の中にこんな気持ちが生じたのか御堂自身にも
判らない。
 けれど、いつしか彼を想うようになっていた。
 強く求めるようになっていた。
 
―今もただ、一刻も早く君に逢いたい

 その事だけを願いながら…御堂は書類に視線を戻していく。
 昨日一日、積極的に仕事をこなしたおかげで…本日は定時で帰る事
ぐらいは出来そうだった。
 すでに克哉と約束を取り付けてある。
 この会社の最寄り駅か、自分の会社のどちらかに立ち寄って…そのまま
合流しよう、とそこまでは話を取り付けてある。

「…恐らく、君ともう一度会ったら私は抑えられないな…」

 もっと、君が欲しい。
 強く克哉を感じ取りたい。
 この泣き顔を浮かべた克哉の残影が消えて。
 胸の中に広がる苦い後悔が…自然に溶ける事を願って。
 強く強く、自分は今夜も君を求めるだろう…。

 その時間が早く来る事を願いながら…御堂は後顧の憂いを絶つべく
自らの役割を果たす方に意識を向け始めていく。

―窓の外では雨が打ちつけるように降り注いでい
 全てを隠すかのように不穏の雲は天を覆う
 御堂自身、これから自分を待つ運命に未だ気づかない
 今はただ、雨音だけが強く室内に響き渡るのみであった―
  人の心は水のようなものだ。
 常に流動的でいないと淀んだり濁ったりしてしまう。

 人と過ごし、語らい…色んな出来事を通じて心を動かしていく事で
 そのバランスを健全な方へと保つことが出来る。
 逆に憎しみや嫉妬、悪意などを心に溜めて吐き出さないでいれば
 あっという間に汚れて、悪臭すら放つようになる。

 それでも、いつも心を保つことは難しい。
 清濁併せ持つというように、人の心は常に綺麗なものも汚いものも
 同時に存在するのだから。

 強い感情を抱いても間違えずに…正しいことを取れる人間は
 本当に一握り。
 果たしてどれくらいの人間が、愛や憎悪を抱いた時にその想いに
 振り回されずに…自分が取るべき行動や節度を守れるのだろうか―

 その日の空模様も随分と不安定なものであった。
 クリスマスを目前に控えていると言うのに、都内の空は連日…曇りか
雨のどちらかしか讃えていなかった。
 この時期にしては珍しい事であった。
 そして本多が早朝から倒れて…医務室で一日を過ごした翌日。
 彼は片桐に心中を吐露して労わって貰えた事で、心に余裕を取り戻し
翌朝には普通に出勤して…今は昼休みを迎えていた。

(そろそろ…来るかな)
 
 本多は、今…屋上で一人、克哉を待っていた。
 一応家を出てくる前にも確認をしたが…本日にはあの、パンダのような
大隈は目元に浮かんでいなかった。
 どこか落ち着かない様子で自分の同僚を待っていくと…ようやく屋上の
扉が開いていって、其処から克哉の姿が現れていった。

「御免、本多…遅れて! とりあえずおにぎりだけは腹に入れておこうと
思って出かけたら遅くなっちゃった…」

「いや、良いよ。俺は朝から…お前に話したいと思って予め昼食を
用意してあったけど…お前は、出社してから俺にこうやって声を掛けられた
んだからそうスムーズに行く訳ないし。わざわざ来てくれてありがとうな」

「ん、そう言ってくれると助かるけれど…それで、話って何? 本多が
こうやって改めて話したい事って…やっぱり、御堂さん絡みの事かな…?」

 二週間程前の、終業後にこうやって本多にここに呼び出された事があった。
 その時も、御堂の事を問いかけられたから…克哉の方は大体の見当が
ついているみたいだった。
 
「…あぁ、どうしても…お前に確認しておきたい事があったからな…」

 そう、呟いた本多の表情はどこか切なかった。
 …同時に、何かを決意しているような…そんな硬さも感じられた。

(…本多、少しだけ…雰囲気が変わった?)

 その理由は、克哉にはまだ判らない。
 けれど…何となくだが、二週間前にここで会った時とは少しだけ…
本多の纏う空気が異なっているように感じられたのだ。

「…聞きたい事って、何…?」

「…お前が、御堂の事をどう想っているか…はっきりと聞かせて欲しい」

「どうして、そんな事を…聞きたがるんだよ」

 少しずつ、克哉の表情が強張っていくのが判った。
 恐らくこの問いに答えれば、二日前にこちらの後を追いかけていたように
執拗に問い詰め返されるような気がしたから。
 …難しい顔をして、克哉は口を噤んでいく。
 
「…ンな顔、すんなよ。俺はただ…お前の気持ちだけでも正直な事を
聞かせて欲しいだけなんだよ…。俺は、お前に惚れているって…あの日に
判っちまったから…」

「えっ…!」

 予想外の事を言われて、克哉がハっと顔を上げていく。
 困惑した表情だった。
 だが、それに反して…本多は困ったような笑みを浮かべていく。

「…どうして、お前と御堂の事がこんなに気になるのか…自分でも
判んなかったけどよ。大学時代から、お前の事が気になってしょうがなかった
理由は…どんな形であれ、俺はお前に好意と関心を抱いているんだって事を…
お前と御堂を見失った後に、気づいちまった…。
 だから、答えて欲しいんだよ。お前がどんな想いを御堂に抱いているのか…
お前の口から、ちゃんと聞いておかねえと…諦めが、つけられそうにないから…」

「そ、んなのって…本多が、オレの事を好きって…嘘、だろ…」

 克哉が信じられないという風に肩を震わせて呟いていく。
 彼にとって本多は、自分の大事な友人であり同僚だ。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 特に克哉にとっては…たった二日前に御堂と結ばれたばかりで…
其処には他の男が入る余地などまったくない。
 だから言われても困惑するしかなかった。
 だが、克哉のその反応は…本多にとってすでに予測済みのものだった。

「…俺は嘘で、こんな事は言わないって。それは…長い付き合いなんだから
判っているだろ…」

「……うん」

 そのまま、二人の間に沈黙が落ちていく。
 克哉は、迷っているようだった。
 けれど本多は…惚れている相手に、こんな顔をさせたくなかった。
 だから彼の方から、言葉を伝えていく。

「…正直、俺もどうして良いか…判んねえよ。同性の相手に、まさか
こんな気持ちを抱いていたなんて…予想外だったから。
 けれど気づいてしまった以上、どんな形でもケリはつけないと…いつか
膨れ上がってとんでもない事になるような気がするから。
 身勝手だって判っているけど…だから、お前の口からはっきりと聞いて
この気持ちに終止符を打ちたいんだ…頼む、克哉…!」

 真剣な様子で、本多が訴えていく。
 それを聞いて…克哉はやっと覚悟を決めていった。
 真摯にこちらに向き合っている相手に…いい加減な誤魔化しや
嘘をついたら、却って余計な傷を作るような気がしたから―

「…判った。正直に言う。オレは…御堂さんを、特別な意味で好きだよ。
最初はオレ自身もまさか…と思う部分はあった。…初めの頃は酷い
扱いも受けたし…憎んでいた時期もあったけれど、それ以外の部分に
触れて…気づいたら、好きになっていた。だから…御免。
…本多、お前の気持ちは…受け入れられない。本当に…御免…」

 本気で、申し訳なさそうに謝りながら口元を手で覆い…克哉は
あの日の本多の問いと、今の告白に対しての答えを返していく。
 それは、予想通りの答えだった。
 皮肉にも…同時に、二日前に見せられた映像が…真実であった事を
裏付ける回答でもあった。

 御堂に対して、怒りが湧いた。
 あんな酷いことをしていたことに対しての憤りと…自分の想い人の
気持ちをそれでいて捉えていた事に。
 けれど…それを必死に抑え込んで、理性を総動員させていく。
 克哉は、今にも泣きそうな様子だったから。
 やせ我慢と判っていても、本多は…笑って見せた。
 それが苦笑に近い形になっていても―

「サンキュ、な。ちゃんと答えてくれて…俺は、それが聞きたかった…」

 そうして少しだけ間合いを詰めて、克哉の方に歩み寄っていく。
 そして…唐突に抱き締めていった。

「…だから、もう…泣くなよ。俺は大丈夫だから…」

「…け、ど…オレ、本多を傷つけただろう…?」

「バ~カ、気にすんなよ…。俺がお前に勝手に惚れていただけだ…。
お前がそんなに罪悪感を感じる事はないんだよ。だから…泣くな…」

「…泣いて、ないよ…」

 けれど、それでも本多は克哉を離さなかった。
 その時、唇を奪いたい衝動に駆られたけれど…それを抑え込んでいく。
 必死になって、片桐が言った言葉を思い出していく。

―好きな人にとって一番良い行動を取ってあげたら良いんじゃないで
しょうか…

 諦めるのは、正直…辛かった。
 奪い取りたいという欲望がないではなかった。
 けれどそれはきっと、克哉は望んでいない事なのだ。
 今の反応を見れば良く判ったから…

「わりぃ…少しだけ、こうさせていてくれ…。これで、踏ん切りつけるから…」

「…う、ん…」

 もしこれで、それ以上の行為を本多が望んでいる気配を見せたら
克哉は拒んだだろう。
 けれど…本多の抱擁は、欲望の色は感じられなかった。
 だから克哉は許していった。

(…何か、辛いよな…これだけ好きな相手を諦めるのって…)

 けれど、腕の中の克哉は…今にも泣きそうな気配があった。
 泣かせたくなかった。
 だから…強がりを承知で告げていく。

「…泣くなよ。俺は大丈夫だ…」

 それは本多なりの思いやりで、気遣いであった。
 克哉はその言葉を聞いた瞬間…俯いて…小さく御免、とこちらに
告げていった。
 そんな自分の友人に対して、本多は…そのまま、頭をポンポンと叩いて
そっと労わりの気持ちを伝えていく。

 ―それは、昨日…片桐が本多にしてみせたように、相手を思いやり
気遣う仕草そのものであった―


 
-まだ、判らなくてもしょうがないですよ。本多君は若いんですから

 昼休み、医務室で寝ていた最中…訪ねてきた片桐につい、自分の心中を

打ち明けた時、そう言われてしまった。
 その一言に確かに、自分よりも長い人生を生きて来たという重みも感じ
させられたけど、やはり…まだ自分は若輩者、未熟者と言われた気がして
知らない内にムっとした顔を浮かべてしまっていた。

「あっ…すみません! もしかして気を悪くしてしまいましたか…!
そんな事言う僕も…そんなに沢山の恋愛経験がある訳じゃないです!
ただ、色んな人の恋愛の相談とかを聞いている内に…そう、思うように
なったというだけですから…!」

「相手にとって一番良い行動を取るように考える事が、ですか?」

「…はい。上手く行く恋愛って…その視点があるなって。ふと気づいたんですよ。
人って皆…恋をすると浮かれて、悪い言い方をすれば…自分本位に
なっちゃいますから。。

相手を好きになればなるだけ、要求が多くなって…脅したり泣いたり、
宥めすかしたり
して…相手を操作しようとする人っているでしょう。
思い通りにしたいって欲求に駆られてしまいましてね…。

けど、その通りにしちゃう人って…最初は上手く行っても、長く付き合っている内に
相手は辛くなっちゃうみたいで…長続きをしないパターンばかりなんですよ。
 逆に相手の都合を考えたり、自分の考えを押し付けて思い通りにしようとしない
人は…一人の相手と長続きするし、恋が実らなかったとしてもその相手と良い
関係でいられる。何となくそんな風に人の話を聞いて感じたんですよ…」

「はあ、成程。確かに片桐さんなら…色んな人が、相談したくなりますよね」

 片桐は上司としては頼りにならないタイプかも知れない。
 けれど美味しいお茶を淹れてくれたり、絶対に八つ当たりや理不尽な真似はしない
人として信頼出来る暖かさのようなものがあるのだ。
 恐らく、今までもこの人は今の本多のように弱っている人間を放って
おけなかったに
違いない。
だから片桐自身に恋愛経験は無くても、話を聞く事によって…幾つかの

ケースを聞いて知っているのだろう。
 だから、その言葉は実感が篭っていた。

「…相手の都合を考えたり、自分の考えを思い通りにしないで…接する、か…」

 その言葉は妙に、自分にとっては耳が痛いものがあった。
 本多は自分の信念、考えをしっかりと持っているタイプだ。
 良く言えば芯がしっかりしている。
 悪く言えば、自分の考えを滅多な事では変えない頑固者だという事だ。
 弱っているせいだろうか。
 今の片桐の言葉は本多にとって凄く身に沁みるものがあった。

(…もし、体調不良で倒れてなかったら…俺は今朝、克哉に…御堂と何て
二度と会うな! って突きつけてしまっていたかも知れないな…)

 今朝、あの銭形衣装が自分のディスクの上に置いてなかったら。
 こちらの顔を見て克哉が笑い出して、思いがけずに朗らかな顔を見る
機会がなかったら…きっと自分は顔を合わすなり、そう言ってしまって
いただろう。
 昨晩のあの映像が本当にあった事なのか、本多には正直判らない。
 けれど事実だったら許せないと思った。
 だが今朝の克哉は幸せそうだった。
 …酷いことしかされてない男に、再び会いたいと思ったり…その翌日に
あんな風に笑っていられるんだろうか?

「…それに、今…その子が相手と一緒にいて笑っているという事は…
今はその人の傍にいて幸せだという事じゃないでしょうか?
 …確かに本多君からしたら、その相手に好きな相手が酷い目に遭わされたと
知ったら心穏やかにはいられないと思います。
 けれど…酷いことをし続ける相手と一緒にいて幸せそうに笑っている事は
在り得ないと思うんです。
 人間だって動物だって、愛情や好意なく…酷い仕打ちをし続けていたら
絶対に懐くことはありませんから…」

 ―その言葉は、本多自身が思っている事とほぼ一緒の見解だった。
 
「そう、っす…よね…」

 力なく、本多は呟いていく。
 それを事実だと認めるのは…克哉に対しての恋心を自覚した直後なので
とても辛いものがあった。
 だが、恐らく…それが答えなのだ。
 あの映像は本当だったかも知れない。
 実際に御堂に過去にあんな風に、八課のことを人質にされて酷い事をされた
過去があるのかも知れない。
 けど、それだけだったら…克哉はきっと、御堂にあんな風に会いたいと
望むことはなかっただろう。
 あんな風に嬉しそうな、朗らかな顔をする事は…なかっただろう。

(…何か、切ないよな。あいつの事を特別に想っていた事を自覚した直後に…
失恋っていうのは…)

 自分がどうして、克哉が気になっていたか。
 放って置けなくて関わり続けていたのか。
 その理由はどんな類の感情とは言え、自分が克哉を好きだったからだ。
 けれどこれだけ長い時間一緒に過ごしても自分達は意識しあう事はなかった。
 「同僚」や「親友」として…過ごしていた。
 …本多自身だって、ずっとこの感情が恋心に近いものであった事を自覚せずに
大学時代から一緒にいたのだ。
 それを諦めるのは…辛い。気づいたら本多の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

―けれど、多分…克哉が求めているのは御堂の方なのだ。

 アイツが消えた時から、克哉はいつも寂しそうだった。
 屋上で気になって話を聞こうとしたらポロポロと泣き出してしまうくらい…
不安定になっていた。
 例のワインバーで食事を食べている間も、背中向きだったので確証は持てないが
傍から見てとても楽しそうに見えた。
 けれど、それが偽ざる事実なのだ…。

「…その相手が求めているのは、俺じゃなくて…その相手、何ですよね。
認めたくなかったけれど…それが、事実…なんだよ、な…」

 本当は誰かの前で涙を流すなんてみっともない真似、したくなかった。
 けれど昨日からショックで…本多の心は荒れ狂っていて…その暴れる心が
冷却水を求めるように…涙を零させていた。
 悲しいとか、ショックだからではない。
 本能的に…今、このやり場のない感情を発散させる為に無意識に…身体が
涙を零すことを要求しているのだ。
 怒りも、悲しみも…ある程度泣くことによって発散して人は落ち着きを取り戻せる。
 だから今の彼は無意識にそれを求めて…涙を零し続けていたのだ。

「…本多君は本当に、その子が好きだったんですね…」

 思いがけず、片桐がそっと本多の頭を撫ぜてくれていた。
 こんな振る舞いを成人になってからされたのがこれが初めてだ。
 …本多は人一倍、人に弱みを見せることが苦手なタイプだった。
 だからこそ…最初は、こんな振る舞いを受けるのに戸惑いがあった。
 けれど今の弱りきった心と身体には、その手は優しすぎて…跳ね除ける事が
出来ないでいた。

「…片桐さん、みっともないですから…止めて、下さいよ…」

「…気にしなくて良いですよ。どんな人だって…弱ってしまう事はあるでしょうから…。
僕だって、君よりもうんと年上ですが…クヨクヨしてしまったり、迷ったりして…
誰かに優しくして欲しい時ってありますから…」

「…そう、なんすけど…やっぱり…」

 抵抗はあった。
 けれど、大人しく片桐の手に撫ぜられ続けていた。
 まともに眠れないぐらいに悩み続けて、心が疲弊しきっている時は…誰かの
手の温もりというのは凄く暖かく感じられてしまったのだ。

「…何か、ヤバイ…かも…」

 本多は高校を出て以来、こんな風に誰かに弱みを晒す事はなかった。
 いつだって一人で抱え込んで、処理し続けた。
 いい年した男が、他人に助けを求めたり当てにするなんてみっともないし…
格好悪いと思っていたから。
 だが、それは逆に…彼がこうなるまで、今までの人生で弱った事が殆ど
なかったからに過ぎない。
 どんな人間でも、気力や努力と言った精神面だけでは立ち上がることが
出来なくなる時がある。

「…みっともないとか、格好悪いとか思わないで…本当に辛い時は泣いて
良いんですし…素直に感情を出して良いんです。
 …時々、正直にならないと…参ってしまいますから。今は気にしないで…
思いっきり、泣いて良いんですよ。僕で良ければ傍にいますから…」

 そうして、子供をあやすみたいな手つきで…慈しむように、片桐は
本多の傍に居続けた。
 こんな姿を、この上司に晒す日が来るなんて本多は考えた事もなかった。
 けれど…泣くことによって、荒れ果てた心が…潤っていくのを感じた。
 少しずつ、余裕が出てくる。
 そうする事で…本多は、現状を少しずつ受け入れ始めていく。

(克哉…お前にとっては、御堂の傍にいる事が一番なんだな…)

 認めたくなかった悔しい現実を、受け止め始めていく。
 本当に克哉が笑っていてくれる為に必要な事は何なのか…それでやっと
考えられるようになっていた。

(俺が何をしたら…お前の笑顔を、守れるんだろう…)

 初めて、所有欲とか独占欲とか離れて…惚れた相手に対して、そういう事を
考え始めた。
 諦めるのは辛かった。どんな形でも自分にとっては克哉は大事な人間で
それをあんな陰険な男に取られてしまうのは悔しかったけれど…。
 さっきまでと違って、頭ごなしに御堂を否定する感情は消えうせていた。

 本多は、それでも泣いている姿を見せたくなくて…顔を伏せてベッドの上に
横たわっていたけれど…それでも飽く事なく、片桐は傍に居続けた。
 片桐がこちらを心から案じてくれているのが判る。
 それが…判ったからこそ、本多は少しだけ心に余裕が出来た。

 時に人は迷う時がある。
 辛くて泣いてしまいそうに葛藤する時がある。
 けれどそんな人間を励ますのは…そんな大した事はしなくて良い。
 ただ黙って傍にいる事と、相手の話を聞く事だけ。
 それをしてくれる相手がいるだけで、人は救われるものなのだ。

 ―この日、初めて本多憲二は…弱さを知った。
  労わられる事で救われる気持ちを理解出来た。

 それはいつも己を鼓舞して、心を強く持っていたが為に人の弱さを判り切れて
いなかった彼にとっては、貴重な体験となったのだった―
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香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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