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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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『第二十話 甘い毒』 『眼鏡克哉』

  結局、丸ごとカレーの中の具を…一口大で食べやすい大きさで調理し直した後に
本多に本題を切り出して、太一を預かって貰う事になった。
 …アイツ、本気で何か言いたそうな顔をしていたが、敢えて無視をさせて貰った。
 ま、本多の熱血漢な所は俺も時々苛立たせられる事が多いからな。
 …そこら辺に引いたのかも知れんな。
 俺もたまに、チームワーク論にはついていけない…と思う部分があるからな。

 夕方頃、本多の家を出て…自宅に帰ると、何故か妙に侘しい気持ちになった。
 やっと…退院して自宅に戻れたというのに、嬉しさよりも…感傷的な気持ちの方が
強かった事に自分でも違和感を覚えた。

(あいつの匂いが…何となく残っているような気がする…)

 そう、俺が何となく落ち着かないのは…太一の匂いがこの部屋に残っていたからだ。
 正確にどれくらいの期間、あいつがこの部屋で過ごしていたのかまでは聞かなかったが…
部屋に何となく残り香が残留する程度の日数はここで過ごしていたんだろうな…と思うと
妙に胸がザワついていた。

「…くそっ! 何で俺までが…こんな気持ちにならないといけないんだ…!」

 苛立ちながら、スーツの上着を脱ぎ捨てて…ネクタイを外し、Yシャツとズボンだけの
ラフな格好になって、ベッドに転がっていく。
 …布団には妙に濃密に、太一の匂いが残っていて…何故か、胸の奥から何とも言いようの
ない感情が湧き上がってくる。

『太一…』

 ふと、もう一人の自分の声が聞こえた気がした。
 …そうだ、太一の傍にいると…本来なら深い眠りに陥っている筈のもう一人の自分の
眠りが浅くなり、ノイズのように…弱い方の俺の声が混じり出すのだ。

(うるさい…お前は黙って寝ていろ…!)

 心の中で呼びかけていくが…それと同時に、ジワリと…向こうの感情が俺の方に
流れ出していく。
 それは…あいつ側の、太一を想う強い感情。
 それが…甘い毒のように俺の中に染み渡り、そして…侵していく。

『太一、太一…ごめん、ごめんなさい…』

 胸の奥で、アイツが泣き続ける。
 罪悪感に囚われて、申し訳ない気持ちがいっぱいになって。
 愛しいと本気で願いながら…同時に、二度と顔向け出来ないという後悔の念に
浸りながら…ただ、涙を流している。

(どうして…お前の方が、そんな感情を抱く…?)

 …感情に任せて、アイツを犯したのは…俺側なのに、何故そんなにお前が罪悪感に
囚われるんだ。
 その事実もまた…俺を苛立たせ、行き場のない憤りを生み出していった。

「黙って…寝ていろ…!」

 ベッドの上で仰向けになりながら胸を掻き毟り、もう一人の自分に向かって…
熱り立っていく。
 …猛るような凶暴な感情が自分の中で出口を失って…荒れ狂っている。
 今の心境を一言で言い表すならまさにそれだった。

「…今の俺達には、二人分の意識を頻繁に出せるだけの余力はない…!
だからお前は寝ていろ! そうしなきゃ…片方すらも出れなくなるんだぞ…!
 お前が深く眠って温存に努めれば…何年かすれば元通りになる可能性が
あるんだ…! だから、大人しく寝ていろ…!」

 本気でムカつきながら、もう一人の自分に向かって…訴えていく。
 その間に何とも形容しがたいモヤモヤした感情と、あいつ側の悲痛な感情が
心いっぱいに広がって…健常である筈の俺の領分までも侵略していく。

(判っている…だけど…)

「判っているのなら…寝て、いろ…!」

 アイツが、泣いている。
 もう一人の自分がポロポロポロポロ、涙を溢して…俺を乱す感情を滲ませている。
 …そんなに、どうして…強く求めているのなら…俺がアイツを抱く前に…
手に入れようとしなかったのか。
 俺にはそれが理解出来なかった。
 欲しいなら、手に入れれば良いだけだろう?
 俺はあの時の自分の感情と、欲望に従っただけだ。

 …認めたくないが、あいつと俺の感情は根っこで繋がっている。
 アイツが好きだと思うものは…俺も好ましいと思う事が多い。
 だから、生意気な態度を取った太一を抱いた理由の中に…あいつ側の感情も
影響していた事は…否定出来なかった。

「あの時…判っただろう! 今のお前には…俺を押しのけて出る程の
生命力がすでに残されていない! あれだけ煽って怒りを湧き立たせてすらも…
俺にはまったく適わない状況だった。
 根本的に…今のお前はどう足掻いても「表に意識を出す力」すら残されていない
状況なんだぞ! いつまでも未練を残して…余計なエネルギーを消耗させるな…!」

 そう、もう一人の俺が弱りすぎていて…勝負しても、まったく話にならないレベルだった。
 肉体が、無意識の内に…俺の意識の方を根ざさせてしまい…今の状況では決して
あいつは表に出て…主導権を握る事すら出来ない状態なのだ。
 <オレ>の方だって、それは良く判っている筈だ。
 なのに…太一に余りに強い執着を残しているアイツは…太一の前にいたり、思い出させる
ようなものに触れると心をざわめかせて…俺の方まで侵してくる。

 俺に一体…どうしろ、と言うんだ…?
 たった一つだけ…お前が表に出れる手段は存在する。
 だが…俺には、コイツの為にそこまでしてやる程の踏ん切りはつかなかった。
 
 …良く考えてみろ。
 他人を幸せにする為に、これからの自分の時間全てを明け渡せるか?
 自分が手にする為の幸せを全て譲渡して、不遇な立場に追いやられると判っていても
…それを選択する、そんな慈悲深い真似が…そうそう出来るか?
 たった一つ残された手段は、ようするにそういう事だ。
 俺はそんなのをあっさりと選べる程…お人好しには出来ていない。
 …だから、諦めて貰うしかない。
 
 そう思って宥める言葉を向けていくが…あいつ側の意識は更に揺さぶられて…
一層強く、太一への想いを滲ませていく。

(くそ…!)

 そんな<オレ>の感情に舌打ちしていきながら…俺は一旦、眠る事にした。
 このすっきりしない気持ちも、一寝入りすれば…少しは晴れるだろうか?
 …瞼を閉じて、身体の力を抜きながら…一時の眠りに落ちていく。
 見た夢の後味は…最悪、としか形容しようが…なかった。
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『第十九話  それだけが望みです』  『須原秋紀』

  今日もクラブの帰り道に、フラリと公園に立ち寄った。
  あれから一ヶ月、克哉さんのニュースを聞いた日から…二日とおかずに僕は
ここに立ち寄るようになった。
 …ここが、克哉さんが刺された場所だったから。

 翌日に立ち寄った日から数日間は、警察とか野次馬がウジャウジャいて…
非常に賑わいを見せていたこの場所も…一ヶ月を過ぎれば、元の静寂を
称えていた。
 11月の冷たい空気がそっと、通り抜けていく。
 藍色の闇の中に…ひっそりと浮かぶ樹木の影が街灯によって…淡く浮かび上がり
草木が擦れ合って、ザワザワと音を立てている様は少し…怖い雰囲気があった。

(…やっぱり、この時期は寒いし…寂しい感じがするよね…)

 秋も深いせいもあったと思う。
 人気がないせいで…ここは閑散として、不気味な時もあった。
 暗がりの中から、何かが出てきそうな気配っていうのかな…?
 まあ、それも…毎晩のように通っているうちに少しは慣れてきちゃったんだけどね…。

(克哉さん…)

 毎晩、ここに来ると真っ先に脳裏に思い浮かべるのは…克哉さんの事だけだった。
 他に手掛かりがなくて…毎日、ここに通っているんだけど…僕には、あの人の情報を
それ以外に入手する方法がないままだった。
 たった一晩だけ、ベッドを共にして以来…この三ヶ月、まったく接点を持たないまま
だったので…僕はあの人の携帯番号も、住所も…何の仕事をしている人なのか…という事
すら知らないままだったから。

(…どうしたら、貴方に会えるんだろう…)

 あのクラブと、公園以外に…僕にはあの人と接点を持てそうな場所を知らない。
 そのせいで、この一ヶ月間は…じれったくて気が狂いそうだった。
 克哉さんの入院している病院か、自宅を知っているのなら…真っ先に駆けつけて、
お見舞いぐらいはしたかったのに。
 何を知らない僕には、そんな事さえもする事が出来ないままだった。

「…克哉さん、今…どうしているんだろ…」

 その現状が歯痒くて、思わずうっすらと涙すら浮かんでくる。
 …心配だった。不安だった。
 TVのニュースは…二日間だけ克哉さんのニュースを流したと思ったら、それ以後
どうなったのかまったく報じてくれなかったから。
 だからもしかしたら克哉さんは…という恐怖がちっとも抜けないままだった。

「あの人は無事だよね…死んじゃったりなんか、していないよね…」

 目元にうっすらと涙を浮かべながら、僕は力なく呟いていく。
 お願いです、お願いです。
 どうか無事でいて下さい。
 そして…どうか、もう一度だけで良いから…僕と克哉さんを会わせて下さい。
 無事な姿を見れるだけで良いんです。
 ほんの少し、言葉をかわせる程度で良いんです。
 あの事件以後に、死なないで済んでいたという確証くらい…どうか
僕に与えて下さい…。

(らしくないって…判っているんだけどね…)

 僕自身も、こんな殊勝な事を考えている自分が信じられなかった。
 けれどこれは間違いなく、僕の本心でもあった。
 あの人が元気でいてくれれば…他に何もいらなかった。
 あんな嫌なニュースを聞いたっきり、二度と会えないままじゃなんて…
ご免だよね?
 
 当たり前のように流されるニュースは、淡々と悲しいニュースを一方的に
流すけれど…どんなに陰惨な事件も、知らない人の事を報じているのなら
スルっと聞き流せるけどね。
 …知っている人や、家族。そして…密かに片思いをしている人の事件を
報道されるのが…こんなにも胸が潰されるような気持ちになるなんて、
今まで知らなかった。

「克哉さん…」

 今夜、何度目になるか判らない問いかけを口に上らせていく。
 それは瞬く間に夜風に紛れて…静寂の中に消えていく。
 ねえ、克哉さん。
 貴方は僕のことなんて忘れてしまっているかも知れないけれど…。
 僕は今でも、貴方のことを忘れてしまうなんて出来ない。
 だからどうか…お願いです。
 
 ―貴方の元気な姿だけでも見せて下さい。

 それだけが、僕の望みです…。

 


 
第十八話 『俺…これから大丈夫かな』 『五十嵐太一』

 克哉さんにタクシーに押し込まれて、連れて行かれた先には結構立派な
造りの一軒家の前だった。
 確かにアパートの部屋よりも、こっちの方が広そうではあるけどね。
 …こっちの克哉さんは酷いし、冷たいし…滅多に笑ってくれなくて愛想は
なくても…でも、一緒にいたいって気持ちはあるのに、連れないよな。
 …ま、あっちの克哉さんみたいに優しくしてくれたのなら、もっと良いんだけど…
期待しない方が精神衛生上、良いんだろうな…はあ。
 
「ついたぞ。ここが…俺の同僚の本多の家だ。一応…お前一人ぐらいだったら
余裕で置けそうな感じの家だろ?」

「ん、それは認めるよ。けど…狭いアパートで二人でつつましく暮らすっていう
のも悪くなさそうだったんだけどね…」

「冗談は止せ。…ヤクザに追われているっていう事情を抜きにしたって
俺にはお前を置いてやる気などなかったがな。…俺の愛玩猫にでもなるって
いうのなら話は別だが…」

「…誰がそんなモンになるかよっ! あんたの言いなりになんて…俺は絶対に
なる気ないかんねっ」

 …何となくこいつの偉そうな口調にムカついてきた。
 大好きな人と同じ顔をしているのに、言動も行動も…俺が知っているあの人と
やはり全然違う。
 何かこういうのって、やっぱり二重人格っていうのかな?
 …そんなのドラマとか映画、漫画とかの中にしかないフィックションの事だと
思っていた。

「心配するな…俺だってお前みたいな、根本から調教し直さないといけない
手の掛かりすぎる奴を飼う趣味はない。まあ…反抗的な奴を嬲るのも
それなりには楽しめるがな…」

「…ン、だと…!」

 こいつの物言いに、一瞬カッとなりそうだった。
 けれどどうにか怒りを抑えて…手を出さないように戒めていく。
 …悔しいけれど、一ヶ月無断で勝手に部屋に上がりこんでいたという非は
確かにあるし…それで次の居候先を用意して貰えただけでも相当にラッキー
だという自覚ぐらいある。

「どうした? 随分と大人しいじゃないか…?」

「…あんた、絶対にその性格を直さないとその内…酷い目に遭うぞ。
まったく…」

 …コイツの反応を見て、今のは意図的にこちらを挑発していたんだなって
判ったら、少しだけ冷静になれた。
 …ほんっと、コイツ可愛くない!
 どうしてこんな奴とあのラブリーで可愛くて可憐な克哉さんとが同一人物なのか
本気で疑いたくなった。

「…俺は別に、自分のこの性格を気に入っているがな。アイツみたく…いつも人の
顔色ばかりを伺ってオドオドしているより、よっぽど良いと…」

「…自分で、自分の事を否定するなよ。聞いているだけで腹が立つから
止めてくれる。…俺は、そっちの克哉さんの方が大好きなんだからね!」

 それ以上、聞きたくなかった一心で強い口調で言うと…それに面を
食らったのか、珍しく驚いたような表情を浮かべていた。
 …コイツでもこんな顔するんだ、とちょっと意外な気がした。

「物好きだな…お前は…」

「えっ…?」

 …何か、そう口にしたコイツの表情は…いつもの傲慢さや意地の悪さが
殆どなく、どこか切なげなものだった。
 …どうしてだろう、そんな顔をされると…胸が少しだけ痛んだ。
 そのまま玄関での押し問答を止めて、俺に背を向けた状態で…良いや、
こいつにさん付けなんかしなくても。
 克哉がインターフォンを鳴らしていくと…暫く待ってみたけど、何の反応もなかった。

「もしかして、今出かけているのか…? あいつは…?」

 そのまま不機嫌そうな顔で、何度も呼び鈴を鳴らしていったが、やはり
中に人がいる気配はなかった。
 しかし…こいつはいない、と判断するとまったく迷う様子さえ見せずに扉を
開いて、中に身を滑り込ませていった。

「って! あんた…!一体何をしているんだよっ! 中に人はいないんだろ!」

「…料理の匂いがするから、もうじき帰って来るだろ。扉の隙間から微かに
濃厚な香りが漂っているからな…」

「匂い…? そんなの…あっ! 本当だ…これって、もしかしてトンコツとか
そういう系のスープの匂い!?」

 言われて見て気をつけてみると、確かにトンコツラーメン屋とかの前に漂う
濃厚なトンコツスープの匂いがムワっと襲い掛かってくる。
 一瞬、こっちが立ち尽くしている隙に克哉はさっさと家の中に上がりこんで…
勝手知ったる他人の家っつーの? 
 そんな感じでズンズカ奥へと突き進んでキッチンの方まで向かっていったん
だよね。そして…匂いの元になる鍋の前に立つと…。

 ザバァァァ!!!

 台所のシンクの中に、大きな網を設置したかと思うとあっという間にその中に
大きな鍋の中身を上げていった。

「あ、あんた…! 一体人の家の食いモンに何勝手に手を出しているんだよっ!」

「うるさい…黙れ! 俺の美学的にこんなモノは料理とは認めない! あれだけ
文句を言ったのにまた丸ごとカレー何て作るアイツのが悪い!」

「丸ごとカレー?」

 と言われて、はっとなった。
 網の中に上げられている具財の殆どは…豚足から、ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎ等
全ての材料が殆ど原型のまま収められていた。
 おいおい!待ってくれよ! 普通カレーって皮むいたり、一口大の大きさにカットしてから
鍋の中に入れるもんじゃないの?
 ありえない物を見てしまって、アッケに取られている間に…玄関の方から非常に
勇ましい、というか暑苦しい声が響き渡っていく。

「ただいま~!」

 …何となくその声を聞いただけで、その人となりが全て判った気がした。
 しかしこんな恐ろしく大雑把なカレーを作る人ってどうなんだろ?
 幾らなんでもこれは俺もマジでびっくりしたんだけど…ね。

「カレーの調子はどうかな…っと。おっ! 克哉…来ていたのか! 丁度良かった。
後でお前の所にでもカレーを持って行ってやろうと…って、一体お前何しているんだー!
せっかくの俺の力作だったのに!」

「うるさい黙れ! 味は確かに悪くなかったが、丸ごとカレーは非常に食べにくいから
今度からはちゃんと具財くらいカットしてくれ! とちゃんと俺は言った筈だぞ!
お前個人で楽しむのならともかく…俺の所に持っていく物をこんなに荒っぽく
作るな。最早嫌がらせに近いぞ…これは…」

「男ならやっぱり豪快に行くのが本道だろっ! あ~! せっかく煮込んでおいた
スープを思いっきり捨てやがって! これが美味しいんだぞ!」

「どうみても具をドカドカ丸ごと入れていたせいで、アクと脂がムチャクチャ
浮きまくっていたんだが…。もう少し繊細な味とか、そういうのをお前は絶対に
学んだほうが良いと思うぞ…」

 深く溜息を突きながら、それからも二人の言い争いは暫く続いていた。
 …俺のことなんて、本気でそっちのけな感じだった。
 まあ、それは別に良いんだけど…俺、こんなに荒っぽくて暑苦しい人と一緒に
生活しなきゃいけない…訳?
 克哉さんの同僚だっていうし、他に親父のマーク対象に入っていない人で泊めて
くれそうな人の当てはないから…文句を言える立場じゃないっていうのは承知の上
なんだけど…さ。
 俺、本当にこれからこの人と…上手くやっていけるのかな。

(…ここで、本当に大丈夫かなぁ…)
 
 心底不安になりながら、俺は暫く…ガックリとした様子で…二人が低レベルな
口喧嘩をしているのを眺めていったのだった-
「本田憲二」


 その日の目覚めは、かなり気分の良いものだった。
 もうじき冬が近づこうとしている頃だというのは判っていたけれど、ポカポカと
天気が良くて暖かくて、身体を動かすには絶好の日だと思った。

「ん~! こんな日は…思いっきり身体を動かすに限るなっ!」

 窓を開けて、深く深呼吸をしていくと…清々しい空気が胸の中でいっぱいに
なって満たされたような気分になった。
 明日には公園でバレーの練習試合をやる予定も入っているし、今日から
しっかりとウォーミングアップをしておかないとな!
 そうして朝からメラメラと気力が湧いてきてなっ!

 家に置いてあったトレーニング機械を片っ端から使って、日頃のディスクワークで
すっかり鈍ってしまっている肉体に活を入れていった。
 …汗を流すのは本当に気持ちがいい! 日頃にたまっている鬱憤とかストレスが
全て洗い流されていくような心持ちになれるからな!

「うお! もうこんな時間かっ!」

 夢中で運動していたら、あっという間に昼に近い時間になっていた。
 朝飯も食っていなかった状態にも関わらず、これだけ没頭して身体を動かし
続けていた自分をマジですごいと思ってしまった。
 …まあ、ここ最近は…随分と精神的に溜め込んでいたからなぁ。

(克哉がいない分の穴を埋める為に、ガムシャラに働いていたしなぁ…)
 
 ここ一ヶ月ぐらい…克哉が入院してしまった頃辺りから、書類の確認や作成
作業等をかなり俺も担当するようになっていた。
 今まで俺が営業に専念して、殆どディスクワークをやらないで済んでいたのは
さりげなくアイツがやっていてくれたからなんだな~と、嫌でも思い知らされる
毎日だった。

 …本当に縁の下の力持ちタイプって、克哉とか片桐さんみたいな人の事を
言うんだろうな。
 …普段は当たり前のように思っていたけど、いざ…あいつの分の仕事が
こちらにも割り振られてくると…どれだけ、黙ってたくさんの仕事をこなして
くれていたのか…その有難みをヒシヒシと感じていた。

(そういえば…アイツ、今日…午前中には退院って言っていてな…)

 その件に関して、すっかり失念してしまっていた自分に舌打ちしたくなった。
 ようやく自分の同僚が退院するというのに、出迎えに行くのをすっかり忘れて
しまったなんて…仲間なのに薄情だよな。
 とは言ったものの今から病院に行っても入れ違いになるだろうし…せいぜい、俺に
出来る事と言ったら…。

「そうだっ! あいつだって病院の味気ない飯が続いていたんだし…がっちりと
腹に溜まる物を食べたいに決まっているだろうしな! それならアレを作るしか
ないよなっ!」

 そうして、俺は…食通も唸らせる味わいと信じてやまない、自慢のカレーを
克哉の為に作成して、持って行ってやろうと決心した。
 そうなれば…善は急げだ! 大急ぎでシャワーを浴びて身体だけはさっぱりと
させていくと、ドドンと豚足を一キロ程大鍋の中に放り込んでいく。

 これこそ…俺特製カレーに欠かす事が出来ない重要な味のファクターだ。
 グツグツ煮込むことによってトロリとした食感と、骨から滲み出る濃厚な
ダシの味が堪らないんだよなぁ!
 後はニンジン、ジャガイモ、タマネギの類を…キチンと洗って泥だけは
綺麗に落としたら、豪快に放り込むべし!!
 これを2~3時間ほどたっぷりと煮込みこみ、俺のお気に入りの市販のカレールウを
放り込めば完成だ!
 …と、其処まで作業を終えた時…俺は一つ、重大なことに気づいた。

「…っって、それじゃあ…今の、この空腹はどうすれば良いんだ…!」

 そう、自分がカレーを食いたい気持ちだったのと、克哉に持っていってやると
いう想いだけが先行して勢いで作り始めてしまったが、カレーは簡単な料理では
あるが…「煮込む」時間が加わる為に、時間だけはかかってしまう代物だった。
 しかも俺流の「丸ごとカレー」の場合、通常よりも中まで火が通るのに時間が
掛かってしまう為にすぐに空腹を満たしたい場合には向いていないメニューだったのを
すっかり失念してしまっていた。

「ううっ! 後二時間…俺はこの空腹を耐えるしかないのか…!」

 目の前にグツグツと煮え立っている鍋を前にして…俺は強い誘惑に負けて
しまいそうだった。
 朝から夢中で運動していたのと、部屋中に漂う強い豚足の匂いに触発されて
俺の食欲はまさにピークを迎えようとしていた。
 今なら差し出されればどんなにマズそうな物でも、勢い余って口に放り込んで
しまいそうなくらいに飢え捲っている。
 二時間我慢するか、もしくは近所のコンビニにひとっ走りをして…腹を満たせる
ものを買ってくるか。
 その命題を前にして…俺は暫く考え込んだ末に。

「よしっ! ひとっ走りして来よう!」

 そう決意して…俺は鍋の火をそのままに、近所のコンビニへと走って
いったのだった-



『NO ICON』      『三人称視点』


  説明する、と言ったが…太一はどこまで相手に話して良いのか暫くの間、
頭をフル回転にして考えていた。

(…どこまで、こっちの克哉さんに俺の事情を話して良いんだろ…)

 正直言うと、自分の生い立ちというか…取り巻く環境は結構複雑だという
自覚くらいはある。
 だから…どこまで事実を話していいのか、迷っている部分もあった。
 話しすぎれば、自分の事情に巻き込んでしまうだろうし。
 隠しすぎればこっちのキツイ性格をした克哉にあっさりと叩き出されて自分は
潜伏場所を失ってしまうだろう。

 正直、ある程度の資金は持っているとは言え…今、手持ちの分では何ヶ月も
ホテルで過ごしたりする程の額はない。
 生きている以上、食費だけでも…ギリギリ切り詰めても、それなりの額は
掛かってしまうのだ。
 特に大っぴらに働いてお金を稼ぐ事が出来ない身の上としては…潜伏場所で
どれくらいの必要経費が掛かってしまうのか、というのは今の太一にとって…
死活問題にも等しかった。
 …と、考え込んだ末に結局太一が最初に話す事を決めたのは…。

「俺…今、ヤクザに追われているんだよ。俺の実家…そういう裏社会とちょっと
繋がりが深い処でね。…俺が克哉さんに…って話が俺の家族の耳にチョイ、と
入っちゃってさ。それで親父が心配しちまって…強制的に実家に連れ戻そうと
知り合いに声掛けちゃって…俺の捜索に当たっているんだよ。

 見つかったら確実に東京にいられなくなってしまうから…こっちも必死になるしか
なくてね。…まさか、あんな事を俺にした克哉さんのアパートに誰も潜伏しているとは
予想していないと踏んだから…悪いな、と思ったけど…ここに隠れさせて貰って
いたんだ。…多分、捕まったら音楽は二度と大っぴらに出来なくなるだろうから…」

 とりあえず、実家がヤクザそのものである事と…克哉さんを刺した俺の雇い主が
俺の実父である事実だけを隠して…ある程度、包み隠さずに話す事に決めた
ようだった。
 しょんぼりした表情を浮かべて、切なそうな口調で話せば…相手も同情して
くれるかも知れない。
 その計算も含めながら…ある程度正直に克哉に伝えていく。

「…厄介ごとを思いっきり持ち込んでくれたな」

 しかし、その話をした眼鏡克哉の反応は…そんな思いっきり連れない態度だった。
 おまけに思いっきり深く溜息を突かれている。

(ううっ…俺の知っている優しい克哉さんの方だったら、多分…こっちを心配してくれて
親身になってくれるのに~!)

 完全に人格が違うと判っていても、好きな相手とまったく同じ顔をしている奴にこんな
態度を取られれば太一とて少しは傷ついてしまうのである。

「うっ…そりゃ、厄介ごとなのは確かに認めるけど…そんな冷たい言い方を、
しなくたって…」

「…その話のどこが厄介ごとじゃないと言い張るんだ? ヤクザに追われているって
事態だけでも…マトモじゃないだろうが…」

「…あんたが思いっきり、その発端を作ったんだろ! …俺を縛り付けて好き放題
ヤってくれた挙句に…放り出していったのはどこの誰だよ! あの時…せめて
終わった後に腕だけでも解いていってくれたら…マスターに知られないように
後始末を自分でするくらいは出来たのに…!」

「…お前が可愛くない態度を取っていたからだろう。…あんな怪しいサイトを作って
いた事情とやらをお前が正直に話していたのなら…俺はあそこまではやらなかったぞ…?」

「だから! 人には言いたくない事情って奴が存在するんだよ! 何だって…
あんたにそこまで包み隠さずに話さないといけない訳?」

 そうは言いつつも…太一の中に後ろめたい思いが存在していたのも
事実だった。
 あのサイトの事を話す=実家の事情を話さないといけなくなってしまうからだ。
 克哉をあのややこしい実家の件で巻き込みたくないから、話さないという選択をしたのに
それが原因となって…あの一件は起こってしまったのだ。

「…アイツは、心配していたからだ。だから俺を出してまでお前に問い質そうと
した訳だがな…」

 だが、眼鏡からその一言を言われた瞬間…太一は胸がズキリ、と痛んだ。
 こっちの克哉とケンカしようが何を言われようが…ここまで心が痛くなる事は
ないだろう。
 だが…自分の好きな克哉は、確かにそういう人だった。
 …その一言を口にされた瞬間、太一は打ちのめされて…反論出来なくなって
しまっていた。

「…あの人と、同じ顔で…そこまで、言わなくたって良いじゃないかよ…」

 ふいに、優しく微笑む克哉の顔を脳裏に浮かべた瞬間に…涙ぐみそうに
なってしまった。
 大好きな、大好きな…克哉さん。
 会いたい、という気持ちだけが毎日…ドンドン膨れ上がって、ふとした瞬間に
それだけで泣きそうになってしまう。
 
 睨み合うのと同時に、ふっと…ポロポロと涙が零れてくる。
 こんな奴の前で泣きたくなんてないのに…それでも、今の太一にとって…
あの人の面影を思い出すだけで自然と涙が溢れてきてしまう。
 そんな太一を見て…眼鏡もまた、忌々しげに舌打ちした。

「…ちっ…そんな顔をするな。仕方がない…次の潜伏場所の紹介ぐらいは
してやるよ…」

「えぇ! このままここに置いてくれるんじゃないの…?」

「…お前は馬鹿か? そんな事は…少し考えれば、出来る訳がないと
判らないのか…? 良いか? お前がヤクザに追われているのは…俺との
一件が原因なのだろう? 実際に…俺が目覚めた当日、お前が病室に顔出した日に
ヤクザ風の男達が駆けつけて来て…病院内は軽い混乱状態になっていた。

 その一件以来…黒服の男達が一挙に押し寄せるという事態はなくなったが…この
二週間、時々俺は見張られているような…そんな気配は感じていた。
 …俺はとっくにお前の実家のマーク対象に入っている。俺が入院している間なら
ここは「盲点の場所」だったかも知れないが、俺が帰って来た以上は…そうは
いかなくなるだろう。
 …お前も捕まりたくないのなら、他の場所に移るのを承諾しろ。俺がここで
生活をする以上…このままここにいたら、即効で見つかるぞ…」

 そう、意識を失っている期間も克哉の傍に黒服の男が何度も訪れている。
 そして見張られているような感覚は彼自身も何度も感じていた。
 だから…自分と太一が一緒にここで生活をすれば、あっさりと見つかってしまう
事だろう。太一の事情を聞いた時点で…眼鏡はそこまで洞察したのだ。

「…うっ! それは確かに…克哉さんの言う通りかも知れない、けど…。
それなら俺はどこに行けば良いんだろ…。正直、俺…資金の方に余裕は
ないから…ホテルとかで暮らせるまではないんだ…」

「…そんな金があったら、危険を侵してまで…こんな場所に潜伏してなかった
だろうに。心配するな…一応、お人好しの家を案内してやるから…暫く其処に
甘えていろ。そいつなら充分…返せるようになった時に返してもまったく
問題がない奴だからな…」

 確かに、ここで他の人間を紹介してもらえるのは在り難かった。
 太一の交友関係、及び泊めてくれるような間柄の人間は父親にも大半
知られているので…すでにマーク対象に入っているからだ。
 だが、父親が知らない克哉の知り合いなら、その人物の家までは…実家の
人間の目が及んでいない可能性が高かったからだ。

「…ねえ、紹介してくれるのは良いけど…克哉さん、一体誰の処に俺を放り込む気なの?」

 拗ねた顔で相手に問いかけていくと、自信たっぷりに彼は答えた。

「俺の暑苦しい、同僚殿の家だ。体育会系の典型のような男だから…お前が事情があって
家出しているといえば…妙な正義感を発揮して、快く置いてくれる事は請け合いだ」

(うっわ~暑苦しそう…)

 と内心、強く思ったが…ここで嫌そうな顔したら、「なら出ていけ。俺は知らん」とくらい
平気で言われそうな感じであった。
 だから太一は…賢明にもニコリ、と軽く微笑むだけに留めたのだった―



 


『眼鏡克哉』

 俺が刺された日から一ヶ月後の土曜の朝の事だった。
 傷の状態はまだ不安定な状態だが…一応、退院の許可が下りたので
そのまま…荷を整理して、退院することにした。
 早朝の内に看護婦や医者から長ったらしい説明を受けたのには辟易したが
これで…安静にしていなくてはいけない退屈な生活からは解放された。
 それでも激しい運動や、腹部に強い衝撃を与えたりするような行為は念の為に
後二週間くらいは控えておいてくれ、と注意は受けたがな。

 …目覚めてから二週間。その間に起こった仕事上の流れは…御堂、片桐、本多とかが
見舞いに来てくれた時に必要な書類を渡してくれたり、口頭である程度説明してくれた
から把握は出来た。
 …まさか、あんな事態になったにも関わらずに…俺が意識を失っている間にプロト
ファイバーの目標値が達成出来た事だけが意外だったがな。
 それ以外の流れは概ね…予想通りだった。

 一ヶ月ぶりに部屋に戻ると…何故か、鍵が開いていた。
 …その時点で、おかしいとは思ったんだがな。
 もう一人の俺は確かに抜けている部分が多いが…どれだけ急いで焦っていようと
鍵を忘れて家を出て行くなんて真似は滅多にやらない筈だからだ。
 それに、確か一度…目覚めた当日に本多に着替え用のパジャマや下着などの類を
取りにいくように頼んだが…幾らアイツでも、人の家に物を取りに行って…鍵も掛けずに
帰ってくるようなマヌケな事をやるとは考えられない。
 常識の範囲としてな…なら、この鍵はどうして開いているのか…理由が考えられなかった。

「…何で、鍵が…?」

 訝しげに思いながらもドアノブに手を掛けて中に入っていくと…部屋の中は静かだった。
 だが…ベッドの上に、何やら人の大きさくらいの膨らみがあった。
 …何でそんなものが、無人である筈の俺の部屋にあるのか理由は判らず…近づいてみると
何故か、太一が寝ていた。
 …人の部屋に無断侵入した上に、堂々と寝ているとは良い度胸だ。
 思いっきり布団を引き剥がして…床に勢い良く落としていってやる。
 …何だって、コイツが俺の部屋にいるんだ?

「起きろ! …人の部屋に無断侵入するとは良い度胸だ!」

「…何で、また…あんた、何だよ…!」

 最初、寝起きでトロンとした表情を浮かべていたが…次第に視線が定まって来て、
開口一番、利いた口がそれだったので、次は勢い良く掛け布団を投げつけていってやる。
 
「…ほう? 人の部屋に無断に入り込んでいた奴が最初に言う言葉がそれか…?」

「…そ、その件に関しては…俺の方に、確かに非があるけど…さ。だからっていきなり
この扱いは酷いんじゃないのか!」

「…一言でも、俺に許可を求めた上で寝泊りしていたのならともかくな。…勝手に
自分の部屋に上がりこまれてベッドを占拠されて…良い気持ちをすると思うか?
もう少し常識の範囲で考えてから物を言え…」

 そういって、問答無用で叩き出そうとした。
 …今はコイツの顔を見たくなかったから。
 見た途端に…俺の中で、何とも言えない感情が滲み出て…極めて、不快になったからだ。
 何で『もう一人の俺』の方ならともかく…俺まで、こんな気持ちに陥らないといけない。
 認めたくなかった。
 信じたくなかった。だから一刻も早くコイツを叩き出して、平静な気持ちに戻りたかった。

「待って! 克哉さん! …その件に関しては俺の方が悪かったのは認めるから…御免!
だから…せめて理由だけでも話させてよ! …今、俺…アパートの方に戻れる状態じゃない
のは確かだから…!」

 太一の首根っこを捕まえて、そのまま引きずっていこうとしたら…破れかぶれな口調で
こいつはそんな事をのたまい始めた。
 ただ、一応…こちらに「御免」と一言、言ったから…話だけは聞いてやるか、という
心境になった。

「…判った。理由だけは聞いてやる。話してみろ…」

 …厄介なものだと思う。
 俺とあいつは独立した意識の癖に、根っこでは繋がっているらしい。
 だから苛立ちながらも…腹が立ちながらも、俺の方も…コイツの事を心の底まで
嫌うことは出来ない。
 だから一旦、気持ちを抑えて…こいつの話に耳を傾ける体制を整えていく。

「判った。…けど、うん…驚いたり、引いたりしないでね…克哉、さん…」

 何かそういった太一は、視線が定まっていない…迷っているような顔を浮かべていた。
 …何でこんなに悩んでいるような態度になっているんだろうか?
 それを少し不思議に思ったが、まず聞いてみなければ…始まらないだろう。

「前置きが長い。…出来るだけ簡潔に話せ。その上で判断させて貰おう…」

「…ほんと、あんたって…何だってそんなに高圧的な言い方しか出来ないんだよ。
…これから、話すよ。よ~く…聞いてね…」

 そして、やっと決意した太一が…ゆっくりと俺に説明を始めていく。
 …そして、コイツの口から語られた内容は…俺を驚かせるのに充分なものばかりだった―
   『五十嵐太一』

 …克哉さんを見舞いに行ってから、二週間近く…親父があの人を刺してから
一ヶ月近くが経過しようとしていた。
 インターネットの掲示板を見ても、そろそろ…退院が近い頃みたいだ。
 …俺、この二週間…自分がどうやって、生きていたのかも…曖昧になっている
部分があった。

(克哉さん…)

 思い描くのは、かつての穏やかなあの人の笑顔。
 携帯のカメラに何枚か撮影してあった、はにかむような笑顔を…俺は何度も
繰り返し見続けていた。
 …写真じゃなくて、直接見たかったけれど…その願いはもう叶う事はないような
気がしていた。

(…もう一度、貴方の笑顔が…見たいよ…)

 望む事なんて、それだけだった。
 結局…あんな酷い目に遭った後、家を飛び出した直後に真っ先にこの克哉さんの
アパートを潜伏場所に選んだのだって、親父の盲点を突けるからという理由の他に
…何より、俺が克哉さんの気配のある場所にいたかっただけなんだ。
 病院が見つからなくても、この部屋で待っていれば…退院したあの人に確実に
会える場所といったら、もうロイドには近づけない以上…ここしかない訳だし。
 俺のアパートもやっぱり、組の人間が見張っていて中に入る事は適わなかった。

「何で…あいつの方が…出ているんだよ…」

 ―けれど、この部屋で待っていても…俺の会いたい方の克哉さんには会えない
かも知れない。
 そう思うと、胸が張り裂けそうなくらいに…軋んで、痛かった。
 何度…それを考えて、涙を流した事だろう。
 …人間って馬鹿、だよね。
 失くしてみなきゃ…大切なもの一つ、気付けないんだから。
 俺、克哉さんと一緒にいた時…今思うと、何て甘えていたんだろうと思った。
 あの人と会えなくなるなんて、考えもしなかった。

 親父の店で気楽な気持ちでバイトして、合間見てバンドやって…単位取れるギリギリの
処で大学のレポートとか、勉強もこなして…週末に来てくれるあの人と他愛無い時間を
過ごして。
 そんな日常がこれからも続くのだと、あの一件が起こるまで…疑いもしなかった。
 あんな形で、あの人の怒りを買って…犯されて、親父がキレて…克哉さんを刺してしまう
なんて…予想もしていなかったし、今も認めたくない事実だった。

―あんな事さえなければ、克哉さんを俺は失わずに済んだのに…。

 その事実に、俺はまた泣きそうになった。
 あの人の匂いが残る部屋の中で…ベッドの上に力なく横たわりながら…俺は
どれくらい無為な時間を過ごしているんだろう。
 …バンドや、大学のダチとかどうしているのか…とふと思う事もあるけれど、
やはりふとした時に思い描くのは…克哉さんの事ばかりだった。
 …俺、こんなにあの人の事が好きだったんだ。
 自分の胸の中がいつの間にか…克哉さんでいっぱいになっていた事に、全然俺は
気付いていなかったんだ。
 何だろうね…恋焦がれて、いっそこのまま…狂ってしまえたらどれだけ楽に
なれるんだろうと思う。

 暗い部屋、相変わらず人がいる事を悟られたくないので息を潜めて…夜は
電気一つ点けられない。
 そんな不便な生活でも、何でも…俺は、朗らかに笑う克哉さんが戻って来てくれる
希望を捨てる事すら出来ずに…今夜も、この部屋で一人で過ごす。

「会いたい…会いたいよ…」

 パソコンから、ごく小さな音量で流している「ミリオンレイ」の曲が切なく流れている。
 あの人と俺を繋いだ、音楽。
 初めて俺の部屋に克哉さんが来てくれた時に、その話題が上った時。
 大好きだったバンドは、いつしか…聴くだけであの人の記憶に繋がるようになった。
 
 ぎこちなく俺の指導の元で、ギターを弾く克哉さんは可愛かったな…。
 知れば知るだけ、興味が湧いて近づきたい衝動が強くなっていって。
 …そんな記憶が過ぎれば過ぎるだけ、俺は…知らず涙を流し続けていた。
 その雫が俺の頬を伝い…枕カバーを静かに濡らしていく。

 ねえ…克哉さん。
 俺はあの時、ちゃんと貴方に…どうしてあんなサイトを開いていたのか
理由をキチンと言えば良かったのかな? 
 強情張らないで…素直に眼鏡を掛けた克哉さんの詰問に答えてさえいれば…
こんな事態を招かないで済んだんだろうか?
 …これは俺にとっては、あまりに酷すぎる罰だった。
 大好きな人を失ってしまった事、二度と会えない事。
 それでも―

『会いたい』

 あいつが言った残酷な現実を認めたくない気持ちが湧いてくる。
 だから…信じない、信じたくない。
 胸の中にただ…求める気持ちだけを抱いて。
 今夜も俺は…窓の向こうの月影を眺めながら…ゆっくりと眠りに落ちていく。
 俺が今、求めるものはたった一つだけ。

 貴方に、逢ってあの優しい笑顔を見たい―

 自分にとって…貴方がどれだけ宝物のように大切な存在だったのか。
 こうなるまで気付けなかった自分が恨めしくて…仕方がなかった。
『第十三話  幸せな夢1』   『佐伯克哉』

 耐え切れないくらいの胸の痛みを紛らわす為に、青年は一時夢を見る。
 現実を直視すれば、その罪悪感で…自分は更に弱っていくだけだと思い知らされた
彼は…早く回復する為に全てを閉ざし…幸せな夢だけを再生していく。
 罪悪感は人をもっとも弱らせる感情だから。
 それに縛られて雁字搦めになっている内は…もう一人の自分には決して敵わない
事を思い知らされた今は…少しでも早く自らの魂を癒すために眠り続ける。
 
 今、再生されている夢は…プロトファイバーの営業目標が引き上げられた辺りの
頃の…帰り道で起こった出来事だった。
 幾ら眼鏡の力があったとしても、本当に達成出来るのか不安ばかりが渦巻いていて。
 トボトボと頼りない足取りで帰路についていた日のことだった。
 会社から最寄り駅へ向かう途中の道のり、たまたま配達中だった太一に
ばったりと遭遇したのだ。
 
『克哉さ~ん!』

 こちらに気付くと明るいワンコのような人懐こい笑顔で太一が駆け寄ってくる。
 喫茶店ロイドでは…たまに一部の常連客の要望を聞いて、太一が配達を承る
事があった。
 その帰り道に克哉に会えた事が嬉しかったのだろう。
 太一は心から嬉しそうな笑顔を浮かべて克哉に近づいて来てくれた。

(あ…何か、凄く嬉しいかも…)

 自信を無くしかけている時、無条件の好意に触れると人は元気づけられるものである。
 辛い現実に打ちのめされたばかりの克哉にとって…今の太一の笑顔はとても
嬉しいものだった。

「太一…こんばんは。配達中だったの?」

「うん、そうそう! この辺りまで配達させられるのって…結構面倒で気が進まない
んだけどね~うちの店ってこういうサービスやっているからどうにか持っているような
寂れた店だし。…一応アルバイトの身としちゃ、逆らえないからね…」

「まあね。オレだって…たまに仕事とは言え、会社から随分と遠い会社まで営業しに
行かないといけない時は面倒だなって思っちゃうからね…。その気持ち、良く判るよ…」

「へえ…克哉さんみたいに真面目な人でも、そんな風に思っちゃう時があるんだ。
それなら俺みたいにいい加減な奴なら…尚更そう感じちゃうんだろうな…」

「コラコラ、ちゃんと真面目に仕事をしなきゃ…ダメだって。それでお金を貰っている以上
いい加減な事しちゃダメだからね」

 クスクス笑いながら、いい加減な事を言っている太一を窘めていく。

「うへ~やっぱり? 克哉さんに怒られちゃったなら…俺もちょっとは真面目に
やろうかな。あんまりみっともない姿を見られたくないしね~」

「ちょっとは…じゃなくて、真面目にやりなよ。太一…店での仕事ぶりを見る限りじゃ
仕事出来ない訳じゃないみたいだし。むしろ…本気になれば要領良くやれる方だと思うよ」

「うん…そうだね」

 図星を指されて、少しだけ太一はドキリとした。
 克哉の指摘は何気なかったけれど…事実を言い当てていたからだ。
 自分は確かに、その気にさえなれば…一通りの仕事はこなせるし、出来るぐらいの器用さは
持ち合わせている。
 だが…それをたまにしか来ない克哉が見抜いている事に、青年は驚いているようだった。

「…そういえば克哉さん、今日…何かあったの? 何か暗い顔しているみたいだけど…」

 話題を逸らしたくて、太一が今度は克哉の表情について指摘していく。
 その途端に克哉の優勢が崩れ始めていく。
 他愛無いやり取りで紛らわせていた胸の痛みと燻りのようなものが…また、ジワリと
広がって克哉を苛み始めたからだ。

「えっ…うん。ちょっと会社の方で嫌なことがあってね。それで…本当に達成出来るかなって
不安になっている部分があるんだ…」

「そうなんだ。…やっぱり、マトモな会社に勤めるって大変な事なんだね。克哉さん…今日は
本当に浮かない顔しているからね…」

「うん…」

(本当は全てを話せたら、すっきりするんだろうけどね…)
 
 だが、同じ会社の人間である本多や片桐、八課の仲間たちならともかく…太一はあくまで
自分のプライベートな友人に過ぎない。
 そんな彼に…今日起こった事の詳細をベラベラと話していいものなんだろうか…? と自問
自答を繰り返していく。

「ちょっとね…高い営業ノルマを上の人から課せられてしまってね。それを本当に
達成出来るのか…不安になっているんだ…」

 一緒に駅まで歩いて向かいながら、どうにか…それだけを重い口調にならないように
して…サラリと話していく。
 それを聞いて…太一は何か考え込んで…いきなり、道の途中にあったパワーストーンの
店に勢い良く飛び込んでいった。

「た、太一…?」

 相手の脈絡のない行動に、かなりびっくりしてしまう。
 すると一分もせずに会計を終えて店から出てくると…いきなり紙の包みをこちらに
突き出してきたのだ。

「はい…克哉さん。これあげるよ」

 とびっきりの人懐こい笑みを浮かべながら太一がこちらに手渡して来た。

「な、何…これ?」

「ん? 今買ってきた商売繁盛のお守り。何か緑の石がついていたストラップっぽい
奴だったんだけど…良かったら貰ってよ。そんなに高いものじゃなかったし…」

「えっ…でも…」

「もう! こういうので変な遠慮はなしにしなよ! 俺は…克哉さんの営業が上手く
行ってくれますように…って願いを込めてこれを贈ったんだからさ。素直に受け取って
くれた方が嬉しいんだよ! それくらい判って?」

「う、うん…判った…ありがとう…太一」

 びっくりしながらも、相手のささやかな気持ちが嬉しくて…つい顔が綻んでしまう。
 太一といると、いつもそうだった。
 いつもネガティブな事ばかり考えてしまう自分にとって、ポジティブな考え方を
している彼に励まされたり、気付かされる事がとても多くて。
 それでいつの間にか気持ちが軽くなって…助けられている事が多かったのだ。
 値段にすれば…大した事がない安物のストラップでも…あの時、落ち込んでいた
自分は確かにそんなささやかなプレゼントに力づけられていて。

 今思えば…そんな他愛ないやり取りを繰り返している内に、自分の中で太一は
どんどん…大切な人になっていったのだと思う。
 だから克哉は…幸せな夢に浸りながら、涙を同時に流していく。
 大事な人に…あんな仕打ちをしてしまった事に。

 その事実が…どうしようもなく痛くて。
 けれど…早く表に出れるようにならなければ、まずどうしようもない事だから…。
 だから彼は夢を見る事を選択する。
 もう一人の自分と争っても、勝ち目がない事はすでに証明されてしまったから
無駄な消耗をするよりもコンディションを整える方が近道だと判断したからだ。
 生命力が極限まで落ちてしまった自分に取れる唯一の手段が…今はこれしか
見出す事が叶わないから―
  『片桐稔』


 あの不幸な一件から、二週間以上が経過したある日。
 病院側から連絡を受けて、僕と本多君は通常業務を終えると真っ直ぐに
彼が入院している病院へと駆けつけました。
 二週間ぶりに起きている佐伯君の姿を見て…色んな意味で、嬉しくて…助かって
良かったと心から思えて…気付いたら、僕も本多君も涙ぐんでいました。
 そんな僕らの様子を見て、佐伯君は凄く呆れたような…驚いているような複雑な
表情をしていましたけどね。
 
「…お前たち、俺が助かったぐらいで泣く程の事か…?」

「…当然だろ! お前が刺されたって知らされた日から…俺と片桐さんが
どれだけ心配し続けたと思っているんだ! 馬鹿が…!」

 本多君は怒ったような顔をしながら佐伯君に食って掛かっていましたけれど…
その目元が微かに微笑んでいた事は確かでした。
 …本当に良かった。佐伯君は今では…我が八課に欠かすことが出来ない
重要なエースですからね。
 彼がいたからこそ、プロトファイバーのメチャクチャな営業目標を達する事が
出来たのだと僕は信じています。

 …確かにこの一件で強引なやり方をしていて、一部で彼が反感を買ってしまって
いるという良くない噂も幾つも耳にしましたけれど。
 ですが…僕にとって、どんな佐伯君でも…この三年間を共に過ごしてきた
かけがえない部下であり、仲間なんです。
 …何となく以前と雰囲気が変わったな~と思う事は最近多くなりましたけどね…。

「…そうか、お前達は…『俺』が目覚めても…喜んでくれるのか…」

 その瞬間、フッと…佐伯君の顔が大きく翳ったように見えました。
 僕の気のせいでなければ…とても、悲しそう…な表情に映ったんですが…
気のせいなんでしょうか。

「…そんなの、当然じゃないですか…僕にとって…君は大事な仲間であり、
部下なんですから…」

「…あんた、本当におめでたい男なんだな。良くそんな恥ずかしい事を…照れも
せずに真正面から言えるもんだな…」

「克哉っ! お前…片桐さんに対して何て連れないことを言っているんだ!
片桐さんは本当に…お前の事を心配し続けていたんだぞ!」

 本多君が佐伯君に食って掛かりますが、彼の方は涼しい顔して受け流しています。
 …何か久しぶりにこんな彼らを見て、ほっと出来る部分がありました。

「良いんですよ…本多君。きっと佐伯君も照れくさくて…そんな事を言って
いるんでしょうから…」

 ニッコリ笑いながら言うと、本多君はしぶしぶと言った感じで佐伯君から
手を離しましたけどね。
 肝心の佐伯君の方は…微妙そうな顔をしていました。
 …そんなに場に似つかわしくない発言をしてしまったんでしょうかね…僕は。
 次の瞬間、本多君の携帯電話が鳴り響き…彼はディスプレイに表示される
番号を見てぎょっとなっていました。
 
「あっ…ヤバイ! 取引先からの電話だ…! 片桐さん、すみません…俺は
そろそろ向こうに直接赴かないと間に合いそうにないんで…先に失礼します!」

「はい…どうぞ。僕に気にしないですぐに向かって下さい。本日はそのまま
直帰しても構いませんから…」

「ありがとうございます! じゃあお言葉に甘えて…あっ、克哉。後でお前の方にも
メールするから…絶対返信しろよ! じゃあな!」

 そう残して…本多君はそのまま凄い勢いで病室を駆け出していきました。
 若い人って本当に元気ですよねぇ。

「…あいつ、ここが病院だっていう事を失念しているんじゃないのか…? 携帯を
マナー設定にもしていないし…。それに俺は今朝まで意識を失っていたんだから…
携帯も電池切れ起こしている上に、充電器すらないんだぞ…。それでどうやって
返信しろというんだ…?」

「…あ~…まあ、それは…本多君、ですから…」

 本多君って行動的で営業マンとしては確かに有能なんですけど…時々、そういう点で
気が利かない部分があるのは事実なので…僕もフォローしきれませんでした。

「佐伯君…そういえば、身体の方は大丈夫ですか? 今朝まで…二週間ほど
眠り続けたままだったんですし…起きているの、そろそろ辛くないんですか…?」

「…いや、まだ大丈夫です。…こんな中途半端な時間に寝たら、後で眠れなくなりそう
ですし…」

「…本当に、ですか? 何か疲れているように見えるんですけどね…」

 そう、僕の見る限り…本多君がいなくなった直後から…彼の顔に色濃い疲労の
ようなものが感じられました。

「久しぶりに人と長く話していたから…でしょう。片桐さんもそろそろ…帰られたら
どうですか? 俺みたいな病人と話しても…退屈でしょうから。この二週間眠り
続けていたせいで…話題にも少し乏しくなっている部分がありますしね」

「…そんな事、はないですよ。僕は…佐伯君と久しぶりに話せただけで…
充分に嬉しいですから…」

 本心からそう言うと、佐伯君は苛立ったような…こちらの言葉を信じられないと
訴えるような疑うような眼差しを向けて…そして押し黙りました。
 何となくその姿が痛々しく感じられた次の瞬間…彼は辛そうに眉根を顰めて…
胸を押さえて、苦しそうに息を乱していったのです。

「佐伯君っ!!」

「くっ…うぅ…!」

 もしかして、傷口が傷んだのでしょうか…?
 やはり目覚めたばかりの彼に無理をさせてしまったんでしょうか…?
 暫くオロオロしていると、ふと奇妙な事実に気付きました。
 …彼は腹部を刺された筈なのに、今…押さえているのは胸元なのです。
 そのズレに違和感を覚えながらも…苦しそうにしている彼の元に駆け寄り、
必死になって呼びかけました。

「佐伯君! 佐伯君…! 辛いのならすぐにお医者さんか…看護婦さんを呼んで
きますよっ!」

「…いや、良い。…大した、事じゃない…から…。単なる、忌々しい…発作、みたいな
ものだ…。時間が経てば…落ち着くから、騒ぎ立てないでくれ…」

 そう言う…彼の顔にはうっすらと冷や汗すらも滲んでいて…とても平気そうには
見えませんでした。

「発作って…佐伯君、持病…何か、ありましたっけ…?」

「あぁ…一応、な。それが起こると…こうやってたまに胸が引き攣れるみたいに
苦しくなってくるんだ…。古傷が痛む…ようなものだ。あんたにも…思い出したくない過去や
辛い記憶があるだろ…? それが溢れてくるような…ものだ。だから…言うな」

 そう聞いて、納得しました。
 …確かに僕にも、そうやって堪らなく胸が苦しくなったり痛くなったりする時があります。
 そして彼は…それを僕の前で出してしまったからこそ…こんなに忌々しそうにしているのだと
いうのも何となく察しました。

「大丈夫、ですか…?」

「頼むから…向こう、行っててくれ。こんな姿を…他の奴に見られたくない…!」

 そういって、怒りを宿しながら…彼は僕を拒絶する態度と言葉を放ちました。
 ですが…こんな風になっている佐伯君を放っておける筈がありません。 
 手負いの獣…と言った感じの刺々しい雰囲気の佐伯君にそう言うのは
かなりの勇気がいりました。
 怒っているような鋭い眼差しを向けてきましたが…こちらも怯える訳にも
引くわけにも行きません。
 ぎゅっと彼の手を掴んで…真っ直ぐに瞳を睨んでいきました。

「…ちっ! 体調さえ万全なら…こんな真似されたら、目にモノを
見せてやれるのに…!」

 こちらの態度に、明らかに佐伯君は怒っていました。
 ですが…不安そうな顔を浮かべて、強がっているような人を
放っておける訳がないじゃないですか…!
 寂しい時は、誰かがいた方が…安心出来るものじゃないんですか?
 仲間って…こういう時に手を差し伸べる為にいるんじゃないですか?
 僕は…確かに頼りないけれど、傍にいて…手を握って一緒にいる
くらいの事は出来ます。
 だから…僕は暫く…手を握った状態のまま、佐伯君の傍に
ずっと居続けました。
 …やっと彼の呼吸とか、態度が落ち着いた頃…グラリとその身体が
思いっきりベッドの上に崩れ落ちたのには本当にびっくりしましたけどね…。

「わわわっ! 佐伯君っ!」

 ベッドの外に落下しそうになる彼を寸での処で支えて、どうにか苦労して
寝かしつけてあげると…やはり彼は、どこか苦しそうな顔をしていました。

(何があったんですか…? 佐伯君…?)

 何となく僕の知っている佐伯君と、時々態度が違っている事が最近は
何度かありましたが…今の彼は何か、辛い事を必死になって一人で
堪えているような…そんな痛々しさがありました。

 そういえば…さっき、この病室に向かう途中…エレベーターの中で一緒になった
看護婦さん達が声を潜めて噂話をしていたんですが…本日の午前中に、佐伯君の
病室に誰かが侵入してちょっとした騒ぎになったそうなんです。
 …どうやら、誰かの叫び声が聞こえたと同時に…どこに隠れていたか判らないんですが
黒服の男性達が一斉に彼の病室に飛び込んで来た…とか。

 其処で何か大きな騒ぎが起こった訳ではないんですが…威圧感がある男性たちが
何人も物陰から現れたとの事で患者達がびっくりしてしまい…少々問題になってしまった
ようなのです。
 面会時間外に誰かが尋ねて来た事も、強面の男性達が病院内に潜んでいたというのも…
どちらも病院側としては頭が痛い問題ですよね。
 お医者さんや…看護師さんたちに深く同情してしまいますよ。

 それ以前に…腹部を刺されてしまった事と言い、佐伯君が何か…大きな事に
巻き込まれてしまったんじゃないか。
 その不安が…ずっと、あの日から僕の中に渦巻いていました。

「…僕じゃやっぱり、頼りなくて…相談に乗る気なんて…起こらない、ですよね…」

 その事実が悲しくて、彼の寝顔を眺めながらつい…ぼやいてしまいました。
 ほんの少しでも…君の心の負担を軽くする事が出来れば良いのに。
 僕に手助け出来ることがあれば良いのに…。
 そんな事を思いながら、彼の呼吸が落ち着く頃まで…傍らで、そっと見守り
続けました。
 
 ねえ佐伯君…どうして、君はそんなに苦しそうな顔を浮かべているんですか…?
 いつか僕に話してくれる日が少しでも楽になってくれたら良いのに…。
 そんな事を考えながら、僕は…完全に日が暮れるまで…病室で一緒に
過ごしたのでした…。
『Mr.R』

 目の前にはどこまでも白い花畑と、澄んだ青空が広がっておりました。
 それは…まるで、人々の間で語り継がれた天国―又は楽園をそのまま体現したかの
ような美しい光景でした。
 柔らかな風が吹き抜けると同時に、ヒラヒラと白い花びらが舞い散ります。
 ほら…見て下さい。
 この地に降り注ぐ太陽の光もどこか優しくて…非常に過ごしやすい気温でした。
 
「まさに…楽園と言った感じですね…」

 感心したように呟きながら、私は花畑の中を掻き分けて進みます。
 一歩歩く度に、花を踏み荒らしてしまいましたが…暫くすると、それは瞬く間に復元し
元通りになって…何事もなかったかのように再び咲き誇ります。
 …これはとても、現実では有り得ない光景ですよね。
 同時に…それだけ、この夢の主が…この世界を維持しようとする心が強い事を
現しておりました。
 そう、ここは…ある方が紡ぎだした楽園。
 自らを守る為に紡ぎだした、どこまでも慈愛に満ちた…怠惰と罪の象徴とも
呼べる場所。

(進んでも進んでも…同じような色彩ばかりが並んでいますと、飽きますね…)

 白い花に、萌えるような緑の草原。そしてどこまでも蒼い空に…白い雲。
 人の心を和ませるには良いのかも知れませんが…私のような人種にとっては
五分も眺めれば充分です。
 せめて燃え盛るような真紅に、毒々しい黒、高貴な紫に…闇を思わせる藍色とか
そういう好ましい色彩が織り込まれていれば…私もそんなに退屈せずに眺めて
いられるんでしょうけどね…。

「こんなのが…貴方にとっての理想の楽園とはね…意外に月並みだったんですね…」

 クス、と嘲るような笑みを浮かべながら永遠に続くのでは…と疑いたくなるような
花畑の奥へと向かっていきます。
 芳しい花の香りも、やはり十分も嗅いでいれば逆に鼻に突きます。
 私の店で使っているような蟲惑的な代物でしたら…何十分嗅いでいても一向に
構いませんけど。
 …まあ、他者との趣味の違いを語っても仕方がありませんね。
 私の目的は、ただ…あの方の様子を伺いに来ただけですから…ね。
 
 どれくらいの時間…私は花畑を歩き続けたでしょうか。
 暫く進んでいくと、次は…打って変わって、深い森の入り口へと辿り着きました。
 高く聳え立つ針葉樹と、木々に絡まっている沢山の茨。
 それ以外にも枯れ木や…舗装されていない石や、鋭い葉を持った植物が
生い茂った獣道など…強固に侵入者を拒んでおられるように感じられます。

「…嗚呼、貴方はきっと…この森の奥にいらっしゃられるんですね…」

 どれもこれも、人を傷つけるような植物や障害物ばかりでした。
 それが何よりも…今の、この世界の主の心境を如実に表していました。
 誰も傷つけたくないというお優しい心の具現が、先ほどまでの白い花畑ばかりが
続く楽園を生み出し。
 誰にも傷つけられたくないという防御本能が…この刺々しくも深い森を
生み出していらっしゃられるようです。
 …人の心とは面白いものですね。
 このように相反するものを、同時に生み出して存在させるのですから―

「まさに…おとぎ話の中にある眠り姫のようですね。イバラの森の奥には…
貴方のようにお美しい方が眠られていらっしゃるのですから…」

 私はイバラに切り裂かれるのも覚悟の上で、その森へと足を踏み入れました。
 時折、鋭い葉や枝が私の衣服や肌を裂き、赤い鮮血を皮膚の上に滲ませて
いきます。
 それでもまったく怯まずに…奥へと進み続けます。
 道を切り開くための剣とか、鉈とか斧があれば宜しかったんですけどね。
 人の夢の中でそのような無粋な物を振り回すのは私の美学に反しますし…
今回だけは甘んじて、その鋭い刃をこの身に受けるとしましょうか…。

「やっと…辿り着けましたね…」

 イバラと針葉樹だらけの深い森の奥。
 一箇所だけ眩いばかりの光が差す、美しい泉のほとりが存在しました。
 その泉の底で…死んだように眠る、佐伯克哉さんの姿が在りました。
 泉の傍らには一本の大きな二股の木が存在しています。
 ですが…片方の幹は鋭く切り落とされ、大きな断面図だけが痛々しく
その木に刻み込まれておりました。

 この木は…二つの心を持つ、佐伯克哉さんを象徴するものです。
 二つに分かれていようとも…二人は根っこの部分は共有して存在している。
 ですが…強い罪の意識を覚えながら…大切な人間の身内に、命を絶たれそうに
なった衝撃で、穏やかな気質の克哉さんの魂は深い傷を負い…そのまま、
深い眠りに就かれる事を選ばれたようです。

 必死になって抗ったようですが…この状況になれば、幹が再生されるまで
二人の意識が同時に出れる事はありませんでしょうし。
 あの方の意識が強くなっていけば…弱い方の克哉さんの意識を完全に飲み込んで
しまうという事態も充分に起こりうる訳です。
 
「こんにちは~起きていられますか~?」

 明るい口調で声を掛けてみましたが、返答がありません。

「克哉さん…朝ですよ~。そろそろ一度くらい目を覚まされたらどうでしょうか…?」

 優しく優しく、声を掛けますが…やはり泉の底に沈んでいるあの人は眉一つ
動かさずに安らかに眠られているだけです。
 余りの眠りの深さに…それだけ、この人の意思が弱っていることを実感
させられました。
 …私は、確かに眼鏡を掛けて欲望に忠実になった貴方を美しいと思っています。
 ですが…眼鏡を掛けていないいつもの貴方も、充分に気に入っているんですよ。
 出来れば…このまま淘汰されて消えてしまうような事態だけは、勿体無いから
回避したいんですけどね。
 今の状態では…まだ、揺さぶり起こしたり語りかけたりする事すらも
出来ないくらいに…弱られてしまったようです。

「まったくあの方は…加減なく、もう一人のご自分を嬲りすぎですよ…。
ウンともスンとも言わなくなってしまわれたじゃないですか…」

 溜息を突きながら、泉の底に眠る麗しき「眠り姫」殿を眺めていきます。
 やれやれ…この仮初の楽園の中で、彼はどのような幸せな夢を
見続けるのでしょうか…?

 この楽園は恐らく…彼が目覚めるその日まで、在り続ける事でしょう。
 その夢の中で深い深い眠りに就き…失われてしまった幸せな日々の
記憶を繰り返し再生し続けるんでしょうかね。
 本当に人というのは愚かなものです。
 己の犯した罪に、過去に縛られて…時に未来に約束されていた幸運すらも
自ら手放してしまうのですから―

 さあ…貴方はいつまで、この楽園で夢を見続ける日々を送るのでしょうね…
 私はせいぜい、傍観させて頂きますよ。
 そろそろ…今日は帰りますね。
 またいずれ、立ち寄らせて頂きますよ。
 御機嫌よう…弱い方の「佐伯克哉」さん―

 そして―私は退屈な「楽園」を後にしたのでした―
  
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香坂
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女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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