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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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『NO ICON』        『三人称視点』


 翌朝、五十嵐太一は…通勤ラッシュの時間帯を狙って、行動を開始した。
 朝早い上に、電車が込み合っている頃ならば…そう簡単には見つからないだろうと
踏んでの判断だった。
 実際にその通りで、幸いな事に…潜伏先である克哉のアパートを出てから、目的の
病院に辿り着くまでの間に…五十嵐組の息が掛かった連中に見つかる事なく…
辿り着く事が出来た。
 だが、一つ困った事があった。

 受付の処で面会を申し出たが、一般病棟の面会可能な時間帯は平日の場合は午後13時
から20時までの間だけだというのだ。
 午前中は患者が検査や、受診等をする可能性がある為にどこの病院でも緊急の場合を
除いては面会は午後からの場合が多い。
 その説明を受けて、太一はかなり悩んでいた。

 一応…明るい髪の色を帽子で隠して、色つきの眼鏡を掛けるぐらいの簡単な変装くらいは
している。だがパッと見くらいなら誤魔化せても、顔見知りまで欺けるレベルの代物ではない。

(…面会許可時間まで待っていたら、組の人間に見つかる可能性があるかも…)

 下っ端の人間ぐらいはどうにかなるかも知れないが…この病院に実際に克哉が入院
しているのなら…自分の顔を良く知っている人間が配備されていても少しもおかしくはない。
 とりあえず受け付けの女性に、後でまた来ます…と当たり障りのない返答をしてから…
太一は病院の裏手に回って、出入り口を隠し始めた。

 すると…幸いな事に、非常口として設置されている車椅子用のスロープを発見する事が
出来た。
 一応正面玄関の方に車椅子の患者用にエレベーターが3つ設備されているが…この
一階から最上階の6階までを繋ぐ長い長いスロープは…緊急時の避難用として
設置されていて普段は利用者は滅多にいない。
 それに非常口設定されている為に、どの階でも施錠の類はされていない。
 こっそり病院に忍び込むのに、ここまで最適な場所はなかった。
 恐らく…組の人間もこんな早朝にここから自分が入って克哉に面会に行こうとは
予想していないだろう。
 
「…う~ん…最近、見つからないようにひっそりした生活していたからな…。結構この
スロープを登るの…しんどい、かも…」

 目的の三階に辿り着く頃には、ちょっとだけ息を切らせながら呟いていく。
 車椅子で昇り降りすることを想定する場合、一階分を上るだけでも階段でなら20~25段
で済む処を…スロープに戻す場合は途中で折り返し地点を作った上で20~30メートル
前後のなだらかな坂道になるのだ。
 最近、日中は克哉の部屋に篭り気味であった事とラッシュに揉まれた事で太一は苦しそう
にスロープを登っていったが…どうにか防火扉で区切られている出入り口を抜けて
三階へと降り立っていく。

「317号室って書いてあったよな…」

 昨晩の謎のメールに書いてあった部屋番号を復唱していきながら…太一は三階のフロアを
ゆっくりと歩き始めていく。
 朝九時という時間帯の平日の病院は、結構な喧騒に包まれている。
 受診の為に移動に向かう為に移動していたり、自力で動ける患者はランドリーに行って
洗濯物を干したり、お互いの病室を行き来して他愛無い会話を楽しんでいたり…意外に
活気に満ち溢れている事が意外に感じられた。

(病院って陰気な印象しかなかったけど…昼間の病院って、こんなに賑やかなモン
なんだな…)

 当然、入院している患者の層によってフロアの空気は全然異なってくる。
 内科系の病棟の場合は…特に重病の患者が多く入院している場合はかなり物静かな
ものだが…克哉が現在入院しているとされるフロアは、基本的に外傷を負って短期入院
している人間が殆どなのである。
 そういう場合…皆、ギブスで固定されていたり、傷口の縫合を受けて様子を見ていたり
松葉杖や他者の介助を受ければ動ける人間が殆どなので、活気があるのだ。
 病室の番号を目で追っていき…317号室がある方向を何となく探り出して、そちらに
向かって進んでいく。
 大部屋がある区域から、個室や二人部屋が並ぶ辺りに差し掛かると…先ほどまでの
賑やかさが嘘のように静まり帰っていく。

「…317号室、ここだな…」

 ゆっくりと部屋番号を眺めて、間違いがない事を確認していく。
 キョロキョロと落ち着きなく辺りを眺めていって…特に看護婦や、五十嵐組の人間らしき
者が周囲にいないか見渡していく。

「…いないみたいだ。今の内に…」

 それから、やっとドアノブを回して…部屋の中に入っていった。
 一瞬、眩いばかりの光に目を焼かれるかと思った。
 南向きの方角に窓が設置されている部屋はこの時間帯は日当たりが良く…電気を
点けなくても部屋の中は充分に明るかった。
 まるで克哉を象徴しているみたいだった。

 太一にとって…おっとりした方の克哉は陽だまりを連想される存在だった。
 実家がヤクザや、危ない事に手を染めていて…幼い頃から、人の裏側や汚い部分を
見て育ってきた太一にとって…克哉の存在は、そんなものにはまったく縁のない…
日の当たる場所だけ見て育ってきた人間特有の暖かなものを感じさせてくれていた。
 パンを咥えながら、全力で走る姿を見た時に…可愛いと思った。
 知れば知るだけ…自分と育ってきた世界の違いを感じさせるのに、好きな音楽だけは
共通している克哉の存在はいつしか自分の中で随分と大きくなっていた。

「克哉さん…」

 ベッドに眠っている人の姿を見て…涙が出そうになった。
 刺されたと聞かされた日から、どれだけこの人に会いたいと焦がれてきたのだろうか。
 …自分の父がこの人を刺した、と電話越しに聞かれた日から…どうか助かって下さいと
心から願い続けていた。
 白いシーツの上で安らかに眠り続ける克哉の姿を見て…太一は、知らず…涙を
零していた。

(克哉さん…本当に、助かって良かった…)

 この人を永遠に失う事になっていたら、自分はどれだけ強い絶望を味わう事と
なったのだろうか。
 恐らく…気が狂ってしまうに違いない。
 そんな事を考えながら眠り続ける克哉の元に歩み寄り、声を掛けていく。

「克哉さん…本当に、本当に…貴方が、助かって…良かった…」

 その顔を覗き込んでいく。
 知らぬ間に…相手の頬に、涙が一粒…零れ落ち、そのまま滑らかな頬を伝っていった。
 克哉の頬に手を掛けて、その存在を確認していく。
 その感触と暖かさが…生きている証のように感じられて、愛おしかった。
 胸の奥から込み上げる強い衝動。
 今まで目を背けて、自覚しないようにしていた気持ち。
 けれど…もう、太一は誤魔化せなかった。
 自覚せざる得なかった。
 
「…克哉さん、俺は…」

 まさかな…と思いつつも、今…こうして克哉と顔を合わせた瞬間にじんわりとした
幸福感が満ちていった。
 これは恋心に間違いない、と思った。
 だから勇気を込めて、眠れる相手に告げていく。

「貴方に恋しています…だから、目を覚まして下さい…」

 まだ、克哉の意識が戻っていないという話はネットの掲示板の…看護婦達の
噂話が乗っているスレッドで情報は得ていた。
 だが…我侭だと承知の上でも、そう告げて…口付けて、おとぎ話の中みたいに
この人が目覚めてくれるのを心から願っていった。
 柔らかく相手の唇に、己の唇を重ねて…念を込めていく。
 重く閉ざされた瞼が開かれて…彼の綺麗な蒼い瞳を見たいと心から願いながら…。

「ん…」

「…っ! か、つや…さん?」

 願いが通じたのか、克哉が微かな呻き声を漏らしていく。
 その瞬間から太一の胸の鼓動は大きく高鳴り、今にもはち切れんばかりになった。
 克哉が目覚める。
 もう一度…その綺麗な瞳を間近で見る事が出来る。
 たったそれだけで青年の胸は張り裂けそうなくらいに嬉しくて…瞳がまた、
潤み始めていった。

「……ぅ…ぁ…」

 克哉が、呻く。
 部屋中に満たされる明るい陽光がまるで耐えられないとばかりに…手を目元で
覆い、深い溜息を突いていった。

「克哉さんっ!」

 目覚めた彼に向かって、泣きそうな声で呼びかけていく。
 次の瞬間…太一は凍りつくしかなかった。

「うるさい…黙れ。大声でそんなに喚くな…」

 それは、低くて不機嫌そうな声音だった。
 自分の知っている克哉の声は穏やかで…聞いているだけで心地よかった筈なのに、
これは…聞いているだけでゾっとなった。

(嘘、だろ…この声って…まさ、か…)

 一度だけ、克哉がこんな声になったのを聞いた事がある。
 しかも最悪の状況下で。
 その現実を太一は認めたくなかった。
 だが…無常にも相手の身体は起き上がり、閉ざされていた瞼が開かれた瞬間に
戦慄を覚えながらも…認めるしか、なかった。

「か、つや…さ、ん…」

 太一が、力なく呟くと同時に…ベッドの脇に崩れ落ちていく。
 こんな結果が待ち受けているとは…予想もしていなかっただけに青年の落胆は
かなり大きく…呆けた表情を浮かべていた。
 そんな太一を、克哉は冷酷な眼差しで見つめていく。
 眼鏡は掛けていない。
 だが…その冷たく切れ上がった瞳は、見覚えがあった。
 見間違えようがなかったのだ。
 
 コレハ…オレヲオカシタホウノ…カツヤサンダ…

 壊れた機械のようにノイズ交じりに、自分の頭の中で認めたくない現実を
囁き始めていく。

「な、んで…あんたの方が…! どうして…あの人じゃないんだよっ!!」

 知らず、叫んでいた。
 信じたくなかったから。
 だが男はそんな太一をあざ笑いながら、冷酷な事実を告げていく。

「…残念だったな。お前の逢いたい佐伯克哉は…もうこの世にはいないぞ…」

「な、んだって…? も、う一度…言ってみろ、よ…?」

「あいつは…お前に合わせる顔がないと…その罪悪感に結局負けて、俺を
押しのけて出ることが出来なかった。だからもういない…それが事実だ…」

「だから…あ、んた…一体、何を言っている、んだよ…。そんなの…信じられる
訳が…」

 シンジラレルワケガナイダロ? オレハコンナニ…アノヒトヲスキダッテジカクシタ
バカリナノニ…

 まるで頭の中は壊れたしまったコンピューターのようにあの人の笑顔ばかりを
再生していく。
 あぁ…俺ってこんなに、克哉さんの事を好きだったんだね。
 なのにあの時、本当の事をいえなくて…強情張って、克哉さんを怒らせてしまって
御免なさい。
 謝るからさ…貴方に親父がとんでもない事をした事だって認めるし、一生掛かっても
それは償っていくよ。だからだから…。

「…往生際の悪い奴だな。アイツはもういない…。お前の雇い主が殺そうとしたおかげ
でな…感謝するぞ。おかげで俺は…こうして表に出られたのだから…」
 そうして、強気な悪意に満ちた笑顔を向けてきた。
 それは俺の大好きな克哉さんなら、絶対に浮かべない表情。
 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ…!
 こんなの、こんなのって…ない!
 俺はこの二週間…あの人の笑顔を見れる事を願ってずっと…過ごしていたのに。

『嘘だぁぁ―!!』

 現実を認めたくなくて、青年は慟哭と呼べるくらいの悲しみに満ちた叫び声を
喉の奥から搾り出していった。
 それは…悲しい運命を告げる序章の調べ。
 お互いに想いあっていた。
 好きだった、かけがえのない大切な存在になりつつあった。
 なのに歯車が狂い…それで彼は大切な存在を、「肉体だけは生きている状態で」失う
結果となってしまった。
 
 そんな彼を…愛しい筈の存在は―。
 硝子球のように澄み切って、何の感情も浮かべない蒼い瞳で。
 どこまでも冷酷に、こちらを興味なさそうに眺めて、いた―
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   『五十嵐太一』


 


 「う~目が疲れる…」

 俺は暗い部屋の中で、ベッドの上に横たわりながらパソコンを使って、今夜も
情報収集作業を続けていた。
 あの馬鹿親父が克哉さんを刺した日から二週間。
 その翌日から…四国に俺を連れ戻そうとする親父に反発して、最低限の身の回りの
物だけ持ってアパートの方を飛び出したんだ。
 それで俺は今、絶対に親父が探しに来ないだろう盲点の場所に隠れていた。

「…部屋に明かりを付けてパソコンを使えるなら、こんな目が痛い思いをしなくて
良いんだろうけどね。…この部屋じゃあ、今は使えないからな…」

 日当たりの良い部屋だから…昼間は太陽の明かりが差し込んでまったく問題
ないんだろうけどね。夕暮れ時期までは全然OK。
 けど夜になると…ノートパソコンのライトで画面を見る事は出来るけど…部屋が
暗いせいで余計に目に負担が掛かっているんだよね。

 えっ? 何で夜に明かりをつけられないのかって? だって…ねぇ、この部屋の
住人は今…入院中でね。
 ニュースが放映されたおかげで、アパート中の人がこの部屋には今…人がいない
事を良く知っている。ご近所の人だって同様だと思う。
 その中で必要以上に電気系統の類を使ったら、一発で不法侵入がバレるじゃん。
 …ここまで言えば判るよね? 俺…考えた末に、あの翌日から克哉さんのアパートに
潜伏しているんだよ。

 まさか親父も、自分が刺した男の部屋に息子が転がり込んでいるなんて…
予想出来ないだろうからね。
 そういう盲点を突く意味でも…ここは俺の考えられる限り、最高の場所だった。
 水道、電気の類は生きているし…トイレ、風呂、洗濯機もついている。
 音を立てないように細心の注意を払う必要があっても…手持ちの現金が乏しい
俺としては…最小限のお金で滞在出来るココは最適だった。
 一旦パソコンの画面から目を離して、ゴロンとベッドの上に仰向けになり…目薬を
点眼しながら、深い溜息を突いた。

(あ~あ…克哉さん、今…どうしているんだろ…)

 あんな酷い目に遭わされたというのに、俺の頭の中は…ずっと克哉さんの事で
一杯だった。
 …うん、思い出すとロイドの中であの人に良いようにされた事は…今思い返すと
ハラワタが煮えくり返りそうだけどね。
 けど…あの翌日、親父に介抱してもらった時…マジで、怖い目をしててさ。
 殺気って奴を瞳に漲らせて、憤る姿を見たら…克哉さんがヤバイって何か
思っちまって。気付いたら高熱に浮かされて苦しかった時に…親父の仕事道具を
隠していたんだよね。

 螺旋の刻まれた、細い針みたいな銀色の棒。一見するとバーベキューの串とか
針治療に使うんじゃないの? という感じなんだけど…これは立派に人を殺せる
道具なんだ。家を出た時についでに持って来ておいたんだけどね。
 これを胸に…心臓に突き刺す事によって、出血とかを最小限に抑えながら
確実に相手を仕留める事が出来る。

 俺は…大学に通うために東京の方に出て来て、一緒に働いている内に…親父の
裏の顔みたいなのを知ってしまった。
 その腕前があるから、あんな閑散とした喫茶店でも俺の給料を出しながらやれて
いたんだな…と。
 …まあ、知った時はショックだったけど…元々五十嵐の家自体が普通の一般家庭に
比べれば随分と変わった家だな、って自覚ぐらいあるし。

 …あのじーさんの下にいた時は、親父もその腕前を振るう必要性があったんだろ…と
言う事ぐらいは判るしな。
 けど俺は…土壇場で克哉さんを殺されたくないな、と思った。
 だからこれは…親父の手に当分戻すつもりはなかった。

「…ん~まだ、克哉さんらしき人は…入院中だっていう情報だけは入って来るん
だけどね。…都内の病院ってだけで、まだどこに搬送されたのか…特定出来て
ない状態なんだよね。本当、やりにくい時代になったな…」

 目の状態が落ち着いてから、俺はネットサーフィンを再開していった。 
 現在閲覧中のサイトは、某大手掲示板の…病院関係の記事スレッドだった。
 看護婦とか、医者とかのちょっとした噂話や…愚痴、不満。表立って言えない改善案とか
そういう類の話で成り立っている場所だ。

 其処に克哉さんのニュースが流れた翌日から、「結構美形の人がお腹を刺されて、うちの
病院に搬送されてきたんだけど…助かるかしら?」みたいな文章が書かれていたので
俺は一応、ここを一日一回はチェックするようにしていた。
 HNとかはない状態だけど、この女性の看護士さんと思われる人物は時々…克哉さんと
推測される人物の状態をここに書き込んでくれているので、どうにか…あの人が「一命だけは
取り留めたが…現在も意識不明状態」である事だけは知る事が出来ていた。

(本当…俺のパソコンを使えるなら、もっと情報収集の類はスムーズなのにな…)

 克哉さんは当然、一般人だし…あの人の雰囲気からして、俺みたいに危ない事や
非合法の事には手を出しそうにないから…仕方ないんだけどね。
 普通のパソコン以上の機能も、情報収集に役に立つ裏プログラムの類がインストール
されていないのでいつもの半分以下の速度でしか情報を拾えなかった。
 あれさえあれば…都内の病院関係の端末内に入り込んで、情報を一気に吸い出したり
出来るのに…。
 けれど俺のアパートはとっくの昔に五十嵐組の人間がマークをしているだろうから
戻れば一発で捕まる事は目に見えていた。
 だから俺は…歯痒い気持ちを抑えて、このパソコンで情報を集めるしかなかった訳だ。

(まあ…特定出来なくても、ここで待ってさえいれば…いつかは会えるんだろうけど…)

 眼鏡を掛けて、別人のようになった克哉さんに…俺は、犯された。
 あの時の事を思い出すとまだ腹が立つ。それでも…ふとした瞬間に思い出すのは
いつもの克哉さんの、あの…人の良さそうなぽややんとした笑みだった。

(会いたい…な…)

 親父に刺された、という事実を知ってから…飛び出して。
 少し落ち着いた頃に感じたことは、ただそれだけだった。
 もう一度…あの人に会ってちゃんと話をしたいと思った。
 だから…俺は、親父が四国に連れ戻そうとした時に全力で反発した訳だし…。

「会いたい、よ…克哉さん…」

 眼鏡を掛けた貴方じゃなくて、俺が気になって気になって仕方ない…放っておけない
雰囲気を持っている方の克哉さんに。
 あんなに酷い克哉さんと最後に会ったきり、俺の好きな方の克哉さんと会えないまま
終わる事だけは嫌だった。

 心の中にあるのは、「克哉さんに会いたい」という一心だけ。
 ―何かおかしいよね。これってまるで…恋みたいに、強くて…純粋な感情だ。
 それだから、俺は一日も早く知りたかった。
 あの人が今、どこの病院にいるのかを。
 見つけても…現在も意識不明状態が続いて、会話も出来ないかも知れない。
 でも、顔だけでも一目見たかった。
 
(…ちくしょう、今日もまた…収穫がないのか…?)

 目が悲鳴を上げるぐらいに必死に検索を続けても、今日も病院を特定出来る
情報は手に入らなかった。
 もう二週間以上経過している。そろそろ苦しい時期に差し掛かっていた。

(…克哉さん…!)

 強く強く…あの人の事だけを考え続けていたその時。
 いきなり俺のメールアドレスに…一通のメールが送信された。

「っ!」

 タイミングがタイミングだから、少しびっくりしてしまった。
 …あ、一応…俺が以前から使っているMSNのフリーメールの方ね。
 これは世界中どこの国からでもログインが出来るってメリットがあるんだけど…
まったく知らない宛先からの物だったので不気味に感じてしまった。

「…何々、え~と…「五十嵐様へ 貴方の望む情報をどうぞ Rより愛を込めて」…だって。何これ、
うっさんくさ…」

 題名だけ見て、凄い胡散臭さ大爆発のメールだった。
 何かファイルが添付されているみたいだったけど…もしかしたらパソコンウイルスの
類も一緒に入っているかも知れない。
 最初はそう考えて…さっさとスルーしようとした。
 だが…添付ファイルのタイトルを見て、誘惑に駆られてしまった。

『病室内の写真です』

 …今、俺が追い求めているのは病院の情報だった。
 だから人のパソコンでそんな怪しいメールを開くのはマナー違反だって事は
自覚があった。
 だが…俺は、何かに魅入られたかのようにそのメールを開いてしまっていた。

「…嘘、だろ…」

 俺は驚愕に目を見開くしかなかった。
 其処に記されていたのは病院名と住所、電話番号だけ。
 そしてそのファイルには…夜の病室に、ベッドの上で静かに眠り続けている
克哉さんの写真だった。

 ドクンドクンドクンドクン…!

 凄く怪しい写真と情報だった。
 何かの罠のようにすら感じられた。
 だが…克哉さんの写真がこうして添えられている時点で、俺に無視する事など
出来る訳がなく…散々、悩んだ末に俺は…この病院に一度、行って見る事にした。
 その先に待ち受けているものが、どんな結果なのか…まったく予測する事すらも
出来ないまま―に。




 「NO ICON』      「マスター」

 俺は喫茶店の扉に「CLOSE」という札を掛けていくと…ここ最近の心労も
祟ったのか…椅子の上に座って、深く溜息を突いた。

(まったく…あの馬鹿息子。一体どこに隠れていやがるんだ…)

 あの日から、完全に足取りが判らなくなってしまった不肖の息子の顔を
脳裏に思い浮かべて、大きく舌打ちしていった。
 太一が失踪してから、そろそろ二週間近くが経過していた。
  …確かに冷静になれば、あの時の俺がやった行動は頭に血が昇っていて
行き過ぎだったのは認める。

 だが…本当に「親の心、子知らず」という諺は本当だな。
 どれだけアイツ自身が、あの男を慕っていたかを知っていても…可愛い息子に
あんな仕打ちをされて、どうして…親が黙っていられるというんだ?
 
 …本当は確実に仕留めたかったのに、な。
 被害者である太一にあそこまで食い止められるとは思っていなかった。
 そこまであんな男がアイツは好きなのか?
 確かに人の良さそうな奴だったのは認めるが…途中でどんな話し合いや
言い争いがあったが知らないが…テーブルの足にネクタイで縛られて
体液やミルク、そして血液で全身ベタベタの上に…泣き腫らした顔をした太一を
発見した時、俺は今まで密かに抱いていた好印象など完全に吹き飛んでいた。

 あんな男に二度と、太一を合わせたくなかった。
 だから…数日間の間…太一がショックで高熱を出して寝込んでいる間に
アパートの契約と、大学も退学手続きを取らせて四国の五十嵐の本家の
方に連れ戻す準備を始めていた。
 正直…俺はあの家の敷居にはあまり跨ぎたくないがな。
 息子を守る為なら止むを得ない。
 そう決意した上での行動だった。

 ―そして、二度とあの男に会う事がないように…処分をするつもりだった。
 だが、太一の奴…俺がやろうとしていた行動を悟っていたのか…愛用の得物を
キッチリと隠しやがった。
 おかげで…一撃で仕留めそこなったし、出血も通常より派手になって…発生から
数時間で大勢の人間に知られる結果になった。
 …俺はあれで一撃で殺すのは得意でも、サバイバルナイフで仕留めようとしたことは
なかったからな。
 あのまま捻って空気を入れてやれば確実に仕留められたんだが…そのタイミングで
太一の奴から電話が掛かって来て…結局断念したからな。
 佐伯、という男は一命を取り留めたらしい。
 そしてその翌日から…太一は俺の前から、完全に姿を消してしまった。

(あのやかましいのがいないと…こんなに、この喫茶店は…静かだったんだな…)

 明かりを落とし、静まり返った店内を眺めながらしみじみと呟いていく。
 …元々、落ち着いた雰囲気の喫茶店を経営してみたくて始めた趣味の店だ。
 だが、こっちの大学に通いたい! と転がり込んできた馬鹿息子のせいで…正直
俺が目指していた方向性とはまったく違うベクトルの空気がいつも蔓延していた。
 それがいつもならうっとおしくもあり…少しぐらい大人しくなったらどうだ…とイライラ
していたのだが…。

「早く…帰って来い…」

 俺はただ、そう祈るように呟くしか出来なかった。
 一応…手を借りるのは癪であったが、太一の失踪の件は今は母さんにも
伝言し…五十嵐組の人間の手を借りて全力で捜索に当たっているそうだ。
 俺が知っている範囲での太一の交友関係…大学の友人、バンドの仲間…
そしてあいつが住んでいたアパートの周辺の住民、そしてあの男が現在
収容されている大病院にも何人か…見張りをつけている。
 それなのに…どこにも引っかからず、まったく音沙汰がないまま…二週間近くが
経過しようとしていた。だから俺も…不安、だった。

 いつも息子がどうしているのか知らなければ不安定になる程…俺は子離れが出来て
いない親ではない。
 だが…どこにいるのか判らず、手がかりもない状況がこれだけ長い期間続けば
流石に無事なのかどうか気がかりになってくる。

「…ったく、あの馬鹿は一体どこに消えたんだか…」

 何度目になるのか最早数えるのも面倒なくらい、この間から何度も繰り返されている
この言葉を呟いていた。
 …お前は、五十嵐組にとっては最有力の跡取り候補だからな。
 …だから、俺は不安でしょうがない。
 俺や母さん、じいさんの組の人間の目が及ばない場所で生きる場合…常に「誘拐」や
「暗殺」される可能性を常に太一は帯びているのだからな。
 
 ボーンボーンボーン…。

 喫茶店の片隅に設置してある置時計の一つが23時の時刻を鐘で告げていく。
 …携帯の画面を確認しても、あれ以後は一通もメールも電話も来ないままだった。
 アイツの足取りはいつになったら、判るのだろう。
 俺の知っている範囲の場所は全部当たったのに…太一の影すらも掴めないままだ。

「…お前に望む事は、もう…一つだけだ。どうか無事に…帰って来てくれれば
それで良い…」

 もうそれ以上、俺に望むことなど何もない。
 どうか…あの馬鹿みたいに明るくて飄々とした笑顔を、この喫茶店で再び見る事が
叶うのなら…それ以外の欲求は特になかった。

―あいつの犬コロみたいな無邪気で人懐こい笑みが…どれだけ得難いもので
あったのか。
 俺はこんな事態に陥ったからこそ…その有り難味を深く噛み締めていた。

(太一…)

 どうか、元気でいてくれ。
 最後に見たお前の姿が…犯されて呆然と虚ろになった顔と…高熱を出して
苦しそうに歪んでいるものだなんて、冗談じゃないからな。
 俺は…お前が笑っていてくれればそれで良い。
 だから帰って来てくれと…心からの祈りを込めながら、俺は椅子の上を立ち上がり…
裏口からそっと店の外に出て―ゆっくりと帰路についていった。
 『眼鏡克哉』


  延々と、今日も本多の暑苦しい友情論を夢現に聞かされていた。
  …俺はまだ意識を覚醒出来ない状況だというのに、枕元でそんなに不愉快なものを
聞かせられ続けるのは一種の嫌がらせに近かった。

(本当に暑苦しい男だな…)

 毎日、こいつが来る度に苛立たせられる。
 だが同時に…その怒りの感情があるおかげで日増しに俺の方の意識が強くなり
はっきりとしてきたのも事実だった。
 逆にもう一人の自分の方は…日増しに弱まっていた。
 俺の目の前で…アイツは、鎖に縛り付けられて戒められている。
 この鎖は罪悪感によって生じたもの。
 こいつの中には今…自分を責める感情しか存在していなかった。

(まったく…滑稽なものだな…)

 本多が暖かい言葉とやらを掛ける度に、こいつは自分にはこんな言葉を
受け取る資格などないと日々追い込まれていく。
 本当に本多という男は人の気持ちを推し量ったり…推測したりする能力が
欠落している奴だと思う。
 …まあ、今回に関してはあの男ばかりを責められないがな。
 実際に刺された日から二週間。
 ただの一度も俺達は覚醒して、誰かと会話したりする事すらなかったのだから―

「なあ…<オレ> 聞こえているか…?」

 今日も俺は罪悪感に囚われているコイツに語りかけていってやる。
 誰かが声を掛ける度に、ビクビクと震える姿はある意味…哀れでもあった。
 そういえば人間を一番縛り付けて臆病にさせる感情は「罪悪感」だと、どこかで
聞いた事があったな…。
 コイツは今、罪の意識に囚われて身動き取れなくなっている。
 あの時…眼鏡を掛ける事を選択して、俺を出さなければ…ずっとそうやって
自らを責めて、ズタズタに自分の心を切り裂いていた。

「…相変わらず、反応が薄い奴だな。もう…まともに言葉を紡ぐ気力すらも…
お前には残されていないのか…?」

 侮蔑すら込めた口調で、もう一人の俺に語りかけていく。
 こんなのでは…俺達の生存競争は比べるまでもない。
 俺側の圧勝で終わりだ。
 片方しか生き残れない状況だというのに…コイツはこの二週間、ずっと覇気の
ないままで幾ら言葉を掛けても反応一つ返さない。
 
「…せっかく俺が慈悲の心を持って、お前が回復するまで待ってやって
いるのに…足掻く真似すらしないのか? お前は…?」

 そう…俺がこの先にある出口まで向かった時点で…外界への扉は閉ざされて
恐らくこいつは何年も意識を表に出ることは叶わなくなるだろう。
 それを判っていながら、逃げるような事しか考えていないコイツが心底
腹立たしかった。
 どこまで偽善に走れば気が済むのだろう…と思った。

「お前がそのままでいるのなら…俺はそろそろ出るぞ。反応のない奴と押し問答を
続けていても…退屈なだけだからな…」

 挑発的な言葉を続ける。
 だが、相変わらずこいつは瞼を開く事もしない。
 退屈な獲物。
 せめて俺を睨むぐらいの反応くらい返せば…まだ楽しみようがあるのだがな。
 これだけ意識がはっきりとしてきたのなら、俺がこのまま表に出ても問題はない
だろう。だが…こんな弱りきった奴に生存競争で勝っても何の楽しみを齎さない。
 だから、最後に挑発してやった。
 今のコイツにとって…もっとも見過ごす事が出来ないであろう一言を、今までの
出来事を検索した上で導き出していき…ボソリと小声で伝えていってやる。
 
『――――――――――』

 それは良く耳を澄まさねば聞こえないくらいのごく小さな言葉で、告げた
最終通牒のつもりだった。
 だが、その言葉だけは流石に見過ごせなかったらしい。
 今まで無反応だったコイツの瞳が、カっと見開き…俺を睨んでくる。

(相変わらずおめでたい奴だ…)

 コイツを嬲る言葉を幾ら吐いても反応がなかったくせに、他人の事となると…
これだけ熱くなれるお人好しっぷりには正直腹立たしい気持ちになった。
 他人など、そんなに信じて何になるというんだ?
 腹立たしい気持ちになりながら、踵を返して…俺は出口の方に向かっていく。

『待てぇぇぇ! 行くな! 彼を…傷つけたら…!』

 掠れた、ガラガラの声でもう一人の俺は必死に声を掛けて…自ら生み出した
鎖を引き千切ろうと必死になってもがいていく。
 
(あぁ…それで良い…)

 俺は挑発的な笑みを浮かべながら、一旦立ち止まっていってやる。
 やっとコイツが活きが良くなってくれた事で、もう少しだけ退屈を紛らわせられそうだ。
 勝負が判り切っている出来レースよりも…全力で屈服させる勝負の方が心を
踊らされるからな。
 だから、俺は限りない慈悲の心を持って…もう少しだけ表に出るのは待ってやった。
 さあ…最終的に、表に出るのは…俺とコイツのどちらなんだろうな?

 コイツが本気で憤り、全力で抗ったのなら…結果が判り切っている勝負も
少しは引っくり返ったりするかもな…ククククッ…!
  『本多憲二』

  二週間前、片桐さんから深夜に連絡受けた時は…聞かされた内容が
最初は現実に起こった事なのか、信じられなかった。
 だって、嘘だとしか思えなかった。

 確かにその日、克哉が定時になっても連絡一つ寄越さないで…キクチ本社の
方に戻ってこなかったのはおかしいな…と思っていた。
 けど、あいつはこの一ヶ月間…引き上げられたプロトファイバーの目標値を
達成しようと人一倍頑張っていたからな。

 だから連絡がないのも、どっかの会社で…必死になって交渉を粘り強く続けて
いたからだと、俺と片桐さんは納得して…折り返し連絡しようと思っていなかった。
 大学を卒業してから三年、ずっとあいつを見てきたんだ。
 黙ってサボったり、手を抜いたりする奴じゃない事ぐらいは知っているからな。

 なのに…実際は、俺達も予想もしていなかった出来事が起こっていた。
 どうしてあいつが…白昼堂々と、大公園のど真ん中で腹部を刺されて危篤状態に
なんてならなければいけなかったんだ?
 一体、誰が克哉を刺したんだよ! 
 絶対にその犯人を見つけたら、俺はぶん殴ってやろうと心に決めた。

 俺が病院に駆けつけた時には…片桐さんはすでに集中治療室の前で待っていて。
 それから一晩…帰る事も出来ずに俺達はその前で待ち続けていた。
 幸い、金曜日の夜だったから…翌日は会社は休みだったからな。
 俺と片桐さんはそのまま…翌日も面会も叶わない状況の中…克哉の容態が
安定する事を祈り続けていた。

 御堂が顔を出したのは土曜日の夕方の事だった。
 …俺達は病院から離れなかったので知らなかったが…克哉が刺されたという
ニュースは当日の深夜と、翌日の早朝に一回ずつ大手のニュースサイトで放送されて
プロトファイバーの営業の関係で知り合った取引先に何人も問い合わせの電話が来たから
片桐さんに連絡をし、一応顔を出しに来たようだった。

 胸くそ悪くなる事に、片桐さんがせめて克哉が退院するまでは期限の延長を求めて
土下座までしたのに、あいつは平然とそれを撥ね付けやがって!
 御堂の奴、暖かい血は通っていないのかよ!
 片桐さんは泣きそうな顔をしていたのに…克哉は死にそうになっている状態なのに
延長を認めてくれなかった事は俺はハラワタが煮えくり返るくらいに憤った。
 本当にあそこまで冷たくなれるあいつという存在が信じられなかったぜ。 
 …ま、それも翌日にとんでもない数の受注を受けて目標値を達成したことで
多少は溜飲が下がったけどな。

 それから…四日目にして、克哉は個室の病室に移されて直接の面会が可能に
なった。克哉の意識は相変わらず戻らないままだったけれど…沢山のチューブに
繋がれて痛々しい姿ではあったけれど。
 穏やかな顔で眠り続けているあいつの姿を見れただけでも…俺は、あぁ…こいつの
命は助かってくれたんだなと実感出来て嬉しかった。
 高校時代に、良いリベロがいるな~とチェックをした事から…もう八年かな?
 大学中は三年生の始めの時にあいつがバレー部を辞めたことになって疎遠に
なっていたけど…三年も八課で一緒に過ごした大事な仲間だしな。
 こいつが死なずに済んだ事が、心から嬉しくて仕方なかった。
 助かってくれた事に、本気で神様仏様辺りにでもに感謝したい心境だった。

 それから二週間が経過して…今日も営業の帰りにフラリと立ち寄って克哉の
病室を訪ねていった。
 克哉の意識はまだ、目覚めないから…会話も出来ない状態ではあったけれど…
うん、あいつが安らかに寝ている姿を見れるだけでも安心出来たからな。
 それで十分くらい…傍にいて、すぐにキクチ本社の方に戻るつもりでいた。
 だが…俺は其処で、とんでもない光景に遭遇してしまった。

「…嘘、だろ…?」

 扉を少し開いた状態で、飛び込んできた場面に…俺はその場で硬直するしか
なかった。
 克哉の処にあんなに冷たい事を言い放っていた御堂が見舞いに来ていただけでも
驚きなのに…どうして、克哉とキスなんてしているんだ?
 
(ちょっと待て…何で御堂が、男の克哉にキスなんてしているんだよ…!)

 叫び声を上げたい心境だった。
 それでも…驚愕のあまりに声を出す事も忘れて、そのとんでもない情景から
目を離せずにいた。

 ドックンドックンドックンドックン…。

 心臓がまるで壊れてしまったかのように、荒い鼓動を刻み続けていた。
 それは…俺が今まで、考えた事もない現実だった。
 あんなにイヤミな御堂が、優しい顔をしながら…克哉を見つめていく。
 信じられなかった。
 御堂は克哉を嫌っていたんじゃなかったのか? 
 今までの振る舞いや態度は、俺の目から見てもそうだとしか思えなかったのに…
たった今見たモノは一体なんだというんだ?

「…っ!」

 その瞬間、俺の胸ポケットに収めていた携帯がバイブ設定で
振動を始めていく。
 ヤバイ! このままじゃ御堂に見つかる…! とやっと正気に戻れて
慌てて扉の前から立ち去っていった。
 そのまま全速力で病室の前から立ち去って…俺は携帯を取っていく。
 電話の相手は、片桐さんだった。

(今は仕事時間中だ…! 頭をしっかりと切り替えてなきゃ…な…)

 自分にそう言い聞かせて、今見た光景を一旦…頭の隅に追いやっていく。
 それでも…片桐さんと話している最中、俺の心臓の音はずっと荒く乱れ
続けたままだった―
 
 

 

 
『御堂孝典』

  第八課に課したプロトファイバーの販売期限がもう間近に迫っている頃。
  ―私はついに、佐伯克哉のお見舞いに一人で赴いてしまっていた。
  彼が事故にあった直後に…一度、顔を出して以来のことだった。

(…つい、足を向けてしまったな…)

 事故から二週間が経過した現在も、彼の意識は戻っていないままだった。
 会話が出来ない人間の処に見舞いに行っても、何の意味も成さない。
 それくらいは判っていたが…先日、起こった不可解な一件についての答えを
得たくて、私は取引先との会談の帰り…。
 車で近くを通りかかったという理由もあったが、彼が入院している大学病院に
辿り着いた。

「確か彼は…三階の奥の、個室に入院していた筈だな…」

 記憶を探り出し、受付の処で面会簿に記入をして…29と番号札が書かれていた
バッチを受け取り、それを胸に飾っていく。
 …病院特有の、強い消毒薬の匂いが鼻に突いた。
 最初は一瞬、不快だったが…すぐに慣れてスタスタと廊下を歩いていった。
 エレベーターを使った方が時間短縮にはなるが、最近はプロトファイバーの増産ラインの
為の打ち合わせに忙しくジムに通う時間すらも殆ど取れない。
 だから本日は階段を使って、三階まで向かっていった。
 多少は運動不足を解消出来るだろうからな…。
 317号室は、二畳ほどの広さの部屋だった。
 並んでいる病室の前のナンバープレートを目で追って…真っ直ぐに317号室を目指して
中に入っていくと…。

(…何だ?)

 何故か、彼のベッドの前に…強面のサングラスを掛けた黒服の男が立っていた。
 まるでドラマや映画とかで見る、「ヤクザ」や「暴力団」の典型のような風貌の
人物だった。
 どうして佐伯克哉の病室にこんな怪しい風体の男がいるのか、こちらがつい
訝しがっていると…男は何も言わずに、こちらに小さく会釈一つをして…そのまま
静かに立ち去っていった。
 こちらはただ、言葉を失ったまま…その様子を見送っていくしか出来なかった。

「何故…あんなに怪しそうな男が君を訪ねてくるんだ…? 佐伯…一体君は私の
知らない処で、何をしていたんだ…?」

 眠り続ける彼に、そう問いかけるが…やはり返答はない。
 重く瞼を閉ざしながら…ただ、安らかな吐息を漏らし続けるのみだった。
 ベッドの方に近づき…その傍らに何となく腰を掛けていく。
 こちらの体重が掛かって、ベッドの端が軽く沈んでも…彼は身じろぎ一つも
しなかった。

(意外に整った顔をしているんだな…君は…)

 今まで彼の顔をじっくり見る機会など殆どなかった為に気づかなかったが…
佐伯克哉の顔の造作はかなり整ったものだった。
 つい、その貌をマジマジと眺めて…頬をそっと撫ぜていってしまう。
 指先が軽く口の端に触れても…軽く身を震わせるだけで、目を開ける気配は
なかった。

「…今の君の問いかけても無駄だって事ぐらいは判っているけどな。だが…あれは
一体何なんだ。…君はどういう交際関係を持っていたんだ…?
 あまりに理解不能すぎて…私には、君という人間の底が伺い知れない…」

 そう、先日。
 プロトファイバーの営業権の期限が切れる寸前の話だった。
 佐伯克哉というエースを失った状態では、私が引き上げた営業目標を達する
事は決してない。
 片桐君は「せめて佐伯君が意識を取り戻すまでの間だけでも延長をお願いします…」
とこの病室の前で嘆願して訴えてきた翌日の事だった。

 昼間に腹部を正面から、刺されたというのは…顔見知りの犯行であった可能性が高い。
 …ようするに誰かに刺されるような人間関係を構築していた、という点で…私自身としては
片桐君にどう頼み込まれようとも、期限内に達しないようなら…予定通りの処置を
するつもりだった。
 だが、そこで予想外の出来事が起こったのだ。

 …誰もが知っている某大手グループのトップから直々に…膨大な量の追加注文を頼まれ、
絶対に届かないと思われていた目標値をはるかに超える形で、目標達成したのだ。
 何故そんな大物が…彼が刺された直後に動いたのか。
 そこまでの交際関係を佐伯が持っていた事も予想外のことなので…こちらはともかく
アッケに取られるしかなかった。
 それからずっと…私の中ではその謎がグルグルと渦巻いて、佐伯が気になって
仕方なくなっていた。

「君という男は…どこまで、謎めいているんだ…?」

 そうして漏れる言葉にはどこか力がなく、独白に近いものがあった。
 この佐伯克哉という存在は、初めて会った時から…私の予想の範疇を超える事ばかり
やり続けていた。
 眼鏡を掛けた瞬間に別人のような態度と口調になって…プロトファイバーの営業権を
こちらからもぎ取る事から始まり、当初の目標値をあれだけ短期間で達成した上に…
更に上乗せした分までも、この状況で消化してしまった。
 
「何も…答えないんだな。君は…」

 そんなのは、最初から承知の上だった。
 今の彼に何を問いかけたって、答えが返ってくる事などない事など。
 だが…夕暮れの光がそっと差し込む病室の中で、彼の色素の薄い髪がそっと
煌いているのが目に飛び込んで…胸が落ち着かなくなった。

(何故…私は彼の顔を見て、こんなに落ち着かない気分になっているんだろうか…?)

 そんな事を自問自答しながら、つい…もっと間近に見たい衝動に駆られて
顔を寄せていってしまう。
 …思いがけず、赤い夕日に照らし出された彼を綺麗だと感じてしまっていた。
何故…あの時、そんな事をしてしまったのか…私自身にもその時は自覚がなかったが、
気付いたら…眠っている彼の唇に、そっと自分のソレを重ねてしまっていた。

(意外に柔らかいな…)

 交わした口付けは乾いていたが、それでも柔らかく暖かかった。
 触れるだけの簡素なキスを暫く続けて…その頬を撫ぜて、顔を離していっても…
やはり彼は起きる気配などなかった。

「…何故、私はこんな事を…?」

 唇を離して、暫く経ってから…今、やった事が自分でも信じられない思いがした。
 何故、眠る彼を見て…口付けたいなどという衝動を覚えてしまったのか…自分でも
理由が判らなかった。
 初めて会った時から、彼を見ていると苛立たせられたり…癪に障る事の方が
多い筈だった。
 今、この瞬間も…彼に対してはすっきりしない、非常にモヤモヤした気持ちを抱いて
しまっている。
 その苛立ちの原因が何なのか、自分でも把握しきれていなかった。
 だから彼の顔など見たくない…視界にも入れたくないと思った事すらもあったが…
これでは、まるで…。

「私が彼に恋している…みたいじゃないか。そんな、馬鹿な…」

 そんな言葉を力なく呟いても、目の前にいるのに彼は決して答えない。
 重い瞼を閉じたまま…沈黙という形でこちらを拒絶し続ける。

「…おとぎ話か何かなら…今のキスで目覚めるんだろうがな。…現実はさすがに
甘くはないか…」

 溜息をつきながら、そっと顔を離した瞬間…ドアが開閉する音が聞こえて
慌てて顔を離していったが…すぐにその気配は立ち消えて、室内は
静寂で満たされていった。
 
「…一体誰が…?」

 もしかして、今の場面を見られたのか…と思うと蒼白の思いだったが、こちらを
現実に引き戻すかのように…メールの着信音が携帯から鳴り響いていく。

「…そろそろ時間だな。あまりここで無駄な時間を費やしていたら…これから先の
仕事に差し障りが出てしまう…」

 その着信音を合図に、思考を仕事モードに切り替えていく。
 今はこれ以上考えていても仕方がない。
 …一度、仕事の方に戻って…自分がやるべき事を片付けてきた方が良いだろう。
 そう判断して、一旦彼の病室を後にしていく。

 だが…結局、その日…途中で誰が尋ねて来たのか、私には判らず終いだった―
 
 
    『Mr.R』

  
 ―あの方が意識不明の重態になられて、病院に搬送されてから一週間ほどが
経過したでしょうか。
 …最初はかなり危険な状態だったそうですが、やはりあの方は…「もう一つの命」を
持っていただけありますね。
 幸い、片方の魂だけは生き延びる事が出来たようです。

 本当に生命力が強い方で安心しました。
 あの方に―こんなにあっさりと亡くなられてしまったら、私は再び退屈な日々を
送る羽目になっていたでしょうから…ね。

 深夜の病院とは、濃厚な死と闇の気配が漂う空間ですよね。
 多くの病んだり、死に近づいている人達が収容される施設。
 その冷たいリノリウムの床を歩いて進んでいくと…そのもっとも奥深い部屋で
あの人は静かに眠りに就いていました。

 危篤状態から脱した克哉さんは、今は集中治療室から…個室の方へと
移されていました。
 窓の向こうには藍色の深い闇と静かな銀月が浮かんでいました。
 どこまでも冴え渡るように冷たい一夜。
 克哉さんはまるで…良く出来た人形のように静かにベッドの上に横たわり
眠り続けていました。

「…こんばんは、佐伯克哉さん。…お久しぶりですね」

 声を掛けながら、克哉さんの頬をそっと撫ぜていきます。
 その感触は暖かくて柔らかいのに、彼の人はまったく目を覚ます気配がありません。
 無理もありませんよね。
 今、この人はとても深い眠りに就いてしまっている。
 佐伯克哉さんは現在、冥府に片足を突っ込んでいるのに近い状況ですからね。
 この一週間…たたの一度も、この方は目を覚まさなかったそうですから。

「…しょうがないですね。あの時…貴方は罪悪感という強い感情によって
心も殺されたに等しいのですから…」

 心からの慈しみと侮蔑を込めて、克哉さんの頬からオトガイ、首筋のラインを
優しく撫ぜて差し上げました。
 愛情を込めて愛撫をする時のような手つきになっていたのかも知れませんね。
 それでもこの人は少し睫を揺らして見せただけで…目を開く気配はまったく
感じられませんでした。

「今…どんな心境ですか? 生きているのも辛くて…胸がつぶれて、呼吸も
出来ない程苦しんでしょうかね…? 仕方ありませんよね。
貴方は先日…大切な人を傷つけて、あまつさえに…一生その人に対して
顔向けが出来なくなるような真似をしてしまった。
 貴方は…人に嫌われるのを極度に恐れる方ですからね。
 しかもそれが…今、一番強い好意を抱いている相手だったとしたら…とても
辛い事でしょうね…。だから…貴方は目覚めないんでしょうかね…」

 今、この人の肌は陶器のように白く透き通り。
 触れて暖かい事を確認しなければ、とても生きている事が信じられないくらい
皮膚は病的な白さを誇っていました。
 換気の為でしょうか?

 僅かに開かれた窓の隙間から…冷たい風がそっと吹き込んでいきます。
 …ただ眠り続けているだけなら、観賞用には耐えられるでしょうが…やはり私は
この方の目がどこまでも獰猛に輝き、不敵な笑みを口元に刻む姿が見たくて
仕方がありませんでした。

『あぁ…私の王よ。今、貴方はここで眠られていらっしゃるのですね…』

 私の心の中に浮かぶのは、ただ一人の存在だけでした。
 かつて…友の裏切りに遭い、深く魂を傷つけられた…高潔で傲慢な魂を持った
一人の少年。
 私はこの人に眼鏡を与える事によって…奥深くに封じられていた彼の本質を
呼び覚ます予定でした。
 ですが…この定められた三ヶ月間、克哉さんは最初の頃に何度か使用したっきり
眼鏡を掛ける事は殆どありませんでした。
 このままでは…13年も待った私の努力は全てフイになります。
 そんなのはバカらしい…と思いました。
 
『貴方のような素晴らしい方が…このまま生きた屍のようになり、目覚める事なく
内側に閉じ込められて生きる事になるなど…大いなる損失です。
 ですから、貴方が其処から出られますように…一つのお手伝いをさせて
頂きますね…』

 そうして…虚空の闇の中から、例の銀縁眼鏡を生み出して…掌の上に
転がしていきました。
 眼鏡のツルの部分を耳元に掛けても、やはり克哉さんは呻き声を漏らす気配すら
ありません。
 そっと銀縁眼鏡を掛けさせて、子守唄のように甘い声音で…私は克哉さんに
囁きかけました。

 どちらの克哉さんなのか…気になりますか?
 当然…私の主となるべき素質を持ち合わせている方…ですよ。
 それは優しい励ましの言葉とは程遠い…挑発と呼べるものでしたね。

『さあ…貴方はいつまで、其処でそうして眠っていられる愚を犯し続けているので
しょうか? …ほんの少しだけ手を貸して差し上げましたから…望むのでしたら
そのまま、突き破ってこの世界で再び産声を上げられるのも良いと思いますよ。

 一度、死の間際に誘われたことによって…現在の貴方達の生命力では
「一人」が深い眠りに就いて温存しなければ…もう一人も目覚める事が出来ない
状況になっています。

 このまま手をこまねいて…無為に時間を過ごしますか?
 それともその殻を突き破り、この世界で貴方の意思の方が生きますか?
 どちらを選ばれるのも貴方の自由です。
 どうぞ…気持ちのままに選択下さいませ…』

 そっと克哉さんの唇を指先で辿り…歌うような口調で耳元で囁いて差し上げると
ビクン! と大きくその身体が跳ねていきました。
 
 ドクン! ドクン! ドクン! ドクン!

 こちらまで聞こえてくるぐらいに激しく…鼓動を繰り返し、その度に指先が
ビクビクと小刻みに震えていきます。
 
(あぁ…貴方が憤っているのを感じられます…さあ! どうぞ…その怒りのままに
殻を破り、この世界に躍り出て下さいっ…!)

 部屋中を満たす濃密な怒りの気配は…純粋な怒りと憎しみを持ち合わせる
あの人のものに間違い在りませんでした。
 それを傍らから見守り、己の鼓動が忙しなくなっていくのを感じました。
 歓喜の感情を持って、その様子を見守り…あの人の目覚めを心待ちにしていましたが
次の瞬間、炎が一瞬で掻き消されるように…ふっと怒りの感情が霧散していく気配が
感じられました。
 それを見て…私は、深い落胆に襲われる事となりました―

「…やはり、まだ…機は熟していないようですね…」

 少々残念でしたが、まだ…克哉さんの生命力は、意識を回復出来る程には
戻っていないようでした。
 …まだ、挑発してあの人の怒りを煽っても…無駄なようです。
 ようするに今のこの方は断線したコンセントのようなものですね。
 下手に電気を流せば漏電する状態に近いですね。
 腹部を刺されたことで、そこから気を抜くと生命力が抜け続ける状態では無意識の内に
意識のブレーカーを落として…己を守っているみたいでした。

 丁度その頃、靴音がコツコツと近づいてくる気配を感じられました。
 病院を見回りに来ている看護婦かなんかでしょう。
 患者の容態が悪化したり、変わった処がないかを巡回して確認しているのでしょう。
 見つかると厄介ですので…今夜はこの辺でお暇する事に致しました。

「…今夜は残念でしたが、また…何度でも試させて頂きますよ。
どちらの貴方になっても構いませんから、目覚める日までは…こうしてチョコチョコ
顔を出させて頂きますね…佐伯克哉さん」

 そうして、一旦…この人の顔から眼鏡を外していくと…そのままテレビ台の脇に
置いて…踵を返していきました。

 さあ…私はこれから、何度かあの方の方に呼びかけを続けていくつもりです。
 その状況でもいつもの克哉さんが…あの人を押しのけて、果たして生きる事を
主張出来るのでしょうかね。
 ―本当に大事な人とすれ違い、大きな溝を作ってしまったばかりの方が…。

 どちらの貴方でも構いません。
 いずれまた…起きている貴方とお逢い出来る日を心待ちにさせて頂きます。
 それでは御機嫌よう。
 どうか一日も早く…貴方がその深い眠りから目覚める日が来る事を心よりも
待ち望んでいますよ。
 ねえ…佐伯、克哉さん?

 そうして私は静かに微笑みながら…
 夜の闇の中にそっとその身を溶かしていきながらその場をしました。
 これから起こるであろう、最早喜劇に限りなく近い狂乱を伴った悲劇の結末をそっと
予想していきながら―
 

 

 『須原秋紀』



 退屈、退屈…た~いく~つ~!
 …という訳で僕は今夜も、行き慣れたバーのカウンターの隅で暇を持て余していた。

(…克哉さん、今夜も来なかったな…)

 僕にとって、決して忘れられない人だったあの人は…あれからもう二ヶ月以上が
経過しているのに、一回だけ訪れてからは…一度もここに来てくれなかった。
 どうして、来てくれないんだろう…。
 あんな風に、僕を…した、癖に…。

(…あ~あ、僕はこんなに会いたいと思って出来るだけ時間作って、ここに来るように
しているのに…切ないなぁ…)

 カウンターの上でノンアルコールカクテルを今夜も飲みながら、悪友達と少し離れた
席で…一人で居続ける。
 最近は、何となく一緒にいたあいつらと下らない話をしているのがつまらなくなってきた
から…少し距離を置いていたんだ。
 時計の針は、二十二時を指していた。

(そろそろ帰った方が良いかな…)

 本当は学校なんて、これも退屈を持て余す場所でしかないから…あんまり行きたくない。
 けれどあんまりサボり過ぎると、うちの親が本当にうるさいからね。
 …登校するつもりなら、そろそろ帰った方が良いかな。

(良いや…帰ろうっと…)

 一人でこうやって、カウンターの隅で時間を無駄にしているよりも…さっさと寝た方が
良いかも。ふとそう思って…バーテンに代金を支払い、僕は店を後にした。
 帰りがけ、たまたま通りかかった公園の入り口の前で、人だかりが出来ていた。
 こんな処に人が集まっているのは珍しかったけど、ざわめきを聞いていると…ここで
誰かが昼間に刺されて警察とかが来たかららしい。

(誰が刺されたんだろ…ま、僕には関係ないんだろうけどね…)

 少し野次馬根性が湧いたけれど、多分関係ない人だろうと割り切って僕はさっさと
公園を通り過ぎていった。
 夜の都内を歩くと…たまに、こういう現場の前を通る事はあるしね。
 その事件も、この時点では…僕にとってはその程度のものの筈…だった。

 帰宅してからさっさとシャワーを浴びて、寝る準備だけ整えていく。
 水色のシャツに袖を通して…明日の天気だけ気になったから、自分の部屋のテレビを
何となくつけていった。

(ニュースに合わせれば、天気予報ぐらい見れるよね…)

 朝から降っているような時は困らないけど、午後から降るという時は…折りたたみ傘の一本
ぐらい持っていないと面倒だからね。
 必要ないなら、無駄な物は持ち歩きたくないし。
 その程度の気持ちでニュースにチャンネルを合わせたんだけど…。

「えっ…」

 僕は、目を見開くしか…なかった。
 ブラウン管の向こうに映っているには見覚えがある公園だった。
 
『今日未明…都内の中央公園にて、男性一人が腹部を刺されて重態。警察は
通り魔の犯行である可能性を考慮して…周囲に情報提供の呼びかけをしています。
被害者は佐伯克哉さん(25歳) 佐伯さんは都内の企業に勤務しているサラリーマンの方で…』

 ここで、信じられない現実を突きつけられた気がした。
 まさか…と思った。同姓同名だと一瞬疑った。
 けれど一回だけあの店に来た時に…あの人はこう言っていなかったかな?

『ただのしがないサラリーマンだ』と…。

「嘘、でしょ…何で、克哉さんが…刺されて、なんて…」

 さっき、公園の前に人だかりが出来ていたのは…克哉さんが昼間に誰かに刺された
からだと思うと、一気に全身から血が引いていく感じがした。
 何で僕は、あんなに平然と立ち去ってしまえたのだろう…。
 知っていたのなら…いや、僕にはそれでも何か出来た訳でもなかった。
 ただ…今の、連絡の一つもつけられない状況が酷く…もどかしく思えた。

「克哉さん、どうしているのかな…重態って言っていたけど、まさか死んじゃったり
しないよね…」

 僕にとって、大事な人でも…ニュースにおいては、三十秒か一分くらいで語り終える
くらいの、今日の一つの出来事としてあっさりと語られる程度の事だった。
 だけど…それは本当に僕に大きな驚愕を齎していて。
 あの人が今、どこの病院にいるのか…無事なのか、気が気じゃなかった。
 気付いたら、頬に涙が伝っていた。
 …僕が、知らない間に泣いているなんて…。
 今までは、もう一度会いたい程度の相手だと思っていた。
 けれど…この胸に圧し掛かる不安の大きさは何だろう。
 本気でもどかしくて、そのまま気が狂いそうだった。

「…僕がこんな事で、泣くなんて…! うぅ…くそっ! どうして僕はあの人と連絡一つ
つける程度の事も出来ないんだよっ!」

 八つ当たりしたって、どうしようもない事は判っていた。
 けれど待ち続けた人の名前が出たって、テレビを見ただけじゃ…何の手がかりにも
なりはしない。
 あの人が公園で刺された情報を知ったとしても、それで何かが出来る訳じゃない現状が
ひどく歯痒くて仕方なかった。
 テレビの画面を思いっきり叩いて、最後に僕が呟いたのは…。

「克哉さん…どうか、無事で…いて…」

 こんなテレビで、情報を聞いたきり…二度と会えなくなるのは嫌だった。
 だから僕はただ…祈るしかない。
 どうかあの人が…命だけは助かりますように。
 強く強く…それだけを願って、僕は眠れぬ一夜を過ごしました―


 

 

 第二話 『ご飯ですよ~』  片桐稔



 『ただいま~良い子にしていました? もんてん丸に静御前。今日もご飯が遅くなって
しまって、本当にごめんなさい…』

 本日も遅くまでの残業のせいで、随分と長くこの子たちを待たせてしまいました。
 声を掛けると、二匹のオカメインコは…盛大に僕を出迎えてくれました。
 あぁ、出迎えてくれる存在が家にいるって良いですよね。
 一人で暮らすようになってから結構な年月が過ぎていますが…今の僕はどれだけ
この子たちの存在に癒されているか判りません。

「えっと、今日は…基本配合飼料に、グリーンフード。あぁ…他にも冷蔵庫に小松菜が
あったから、それをちょっと与えてあげると良いかな。
 あんまり栄養が偏ってしまうと身体の調子がおかしくなってしまいますしね…」

 そうして、仕事で今日も疲れていましたけれど…大急ぎでこの子達のご飯を用意して
あげました。
 ようやくご飯にありつけると二匹とも凄く嬉しそうにご飯を食べてくれます。
 この様子を見ていると、一日の疲れも吹っ飛びます。

「あぁ…二匹とも、今日も凄く美味しそうに食べてくれて…。ふふ、本当にもんてん丸と
静御前は食欲旺盛ですねぇ…」

 カゴの前で瞳を細めながら、この子達の様子を眺めるのは…僕にとっては
至福の一時です。
 僕の方のご飯は残業時間中に本多君が買って来てくれた牛丼と野菜セットを
食べましたから…もう少ししたら、お風呂に入って寝る準備をしましょう…。
 そう考えていた時、盛大に電話の音が鳴り響きました。

 ジリリリリリン。ジリリリリリン。

 …夜八時。
 遅い時間帯の電話の音というのは、何か怖い気がしますよね。
 特に僕みたいに一人暮らしの人間ですと、家中が静まり帰っていますから…。
 何となくその瞬間、嫌な予感が走りましたけれど…取らない訳には行きません。
 受話器を取って耳を宛がっていきます。

「はい…もしもし、片桐です」

 すると、通話口からは若い女性の声が聞こえました。
 …そして、中央病院の原口さんと名乗ってきました。
 何故、病院の人がこんな時間帯に僕の家に電話を掛けて来られるのでしょう。
 嫌な予感がしました。

「あの…病院の方がどうして、こんな時間帯に私の家に電話を掛けて来られたの
でしょうか…?」

 恐る恐る、相手に尋ねていくと…とんでもない話を聞かされる事となりました。
 その間、僕は全身が小刻みに震えていました。
 受話器を握る手はうっすらと汗ばみ、心音も普段より荒いものになっていきます。
 最初に零れた一言は…。

「嘘でしょう…まさか、彼が…」

 ですが、無常にも電話口の女性は…「いえ、本当です。残念な事ですけれど…」と
こちらに同情的な口調で返答してきます。
 信じたくありませんでした。
 これが夢なら、さっさと覚めて欲しいとも願いました。
 ですが僕がそんな事を想っても、現実の何かが変わる訳ではありません。
 認めたくなかったですが…ただ、ぼうっと突っ立っている訳にはいきませんでした。

「判りました。あの…今から面会は可能ですか? それならそちらの住所を教えて
頂けると有難いのですが…」
 
 原口さんは「ご家族の方にも連絡はつけられるでしょうか?」と尋ねて来ました。
 確か佐伯君の実家は栃木県の方だった筈なので、すぐには駆けつけられないでしょうが
…一応、こちらの方で連絡はつけられる筈です。
 後でこちらで連絡をしておきます、と言うと「お願いします」と頼まれていきました。

 メモを取って住所と病院名を復唱していき…間違いがない事を確認すると丁寧に
挨拶をして、僕は本多君…そして佐伯君のご両親やタクシー会社に
大急ぎで連絡をしていきました。
 皆、一様に驚いていましたが、心中は察せられます。
 本当は八課の他の人達にも連絡したい気持ちはありましたけれど…僕も一刻も
早く彼の元に駆けつけたい気持ちでいっぱいでした。

「もんてん丸、静御前! せっかく帰って来たばかりですが…ちょっと行って来ます!
良い子に待っていて下さいね!」

 本当なら少しぐらいこの子達を鳥かごから出して、自由にしてあげる時間を取って
あげたかったですが、あまり悠長な事は言ってられません。
 僕は先程脱いだコートに大急ぎで袖を通していくと…先程手配したタクシーが
クラクションを一つ鳴らして家の前に待っていてくれました。
 急いで中に乗り込んでいくと、運転手さんに先程のメモを手渡していきました。

「すみません! そのメモの住所に至急…お願い致します」

 こちらがそう頼んでいきますと、運転手さんは快く引き受けて下さいました。
 そしてタクシーが発進していきます。
 その間、僕の心を占めるのは…腹部を刺されて重症を負ってしまった佐伯君の
事だけでした。

(どうして…佐伯君のような良い人が…公園で、誰かに刺されて危篤状態だ、なんて…
そんなの間違っている…!)

 逸り、焦る気持ちを必死に押さえ込みながら…僕は彼が収容されている病院の方へ
向かいました。
 どうか彼が助かりますように…。

 心の中で強く祈りながら―僕は病院に辿り着いたら真っ先に集中治療室の方へと
駆けつけていきました―
      佐伯克哉

  
 その瞬間、地面に銀縁眼鏡が落下して転がっていくのを俺は目の端で捉えました―

「あっ…あっ…」

 目の前がクラクラ、する。
 腹部には燃えるような灼熱感と激痛が同時に走り抜けていった。

 ポタリ、ポタリ…ポタリ…。

 少しでも痛みを紛らわせたくて、患部に宛がった手から…じんわりと、俺の生命の証で
ある血液が零れ落ちて…地面に滴り落ちていった。

 痛い、痛い、痛い、痛い…!!

 あまりの苦痛に、涙がうっすらと滲んで…視界がぼやけていく。
 いつの間にか喘ぐような呼吸に代わり…肺から呼吸が無くなっていくようでした。

「ごめん、なさい…助けっ…てっ…」

 泣きながら、自分の目の前に立っている男性に訴えかける。
 この人の怒りに触れるような事をしたから、この結果が招かれた事ぐらいは判っていた。
 それでも…許しを請うように、必死に謝りながら助けを求めていきました。

『自業自得だな…』

 だが、その男性は…冷たい声で、一言でそう切り捨てていった―。
 冷然とした、感情の篭っていない声。
 こちらに対して、一切の同情など含まれていないとすぐに判るトーンでした。
 
 自分の身体が…グラリと崩れ落ちて、地面に倒れこんだ。
 その間も…刺された場所からはドクンドクン、と血が溢れ続ける。
 心臓の鼓動に合わせて、ゆったり…じんわりと血が滲み続けて、その度に
頭の芯がぼやけて…ボウっとして何も考えられなくなっていった。

 あまりの激痛に脳内麻薬でも分泌されたのか、最初の頃に比べれば幾分か痛みの
方はマシになっていた―
 それでも俺の胸は…引き絞られるような胸の痛みで満たされて…いつしか、傷の痛みよりも
そちらの方が余程、辛くなっていた。

「ごめんなさい…」

 掠れるような微かな声で、それでも目の前の人に謝り続ける。
 だが…その男性は微動だにせず。
 静かにこちらを見下ろして、俺を助け起こそうともしませんでした。

(あぁ…この人の怒りは、それくらい…強くて、深いんだ…。俺をこうして、刺して…
助け起こそうともしないくらいに…)

 当然だと思った。
 昨日、自分が犯した罪は…男性にとってはこのぐらいの罰を受けるに値する程の
ものだったのだ。
 自分とて、許されるものではないと思った。
 
 それでも償いたかった。
 謝って…その罪を雪げれば良いと思ったから、あの場所に足を向けたのだし…
この男性に、この公園に来るように誘われても疑いもせずについてきたのだから。

『…あんたが今、ここで野たれ死んでも俺は一切…同情はせん。それに値する事を
自分がやった自覚ぐらいはあるだろう…からな』

 だが、一切の憐憫の情すら垣間見せず…男の人は俺にそう告げました。
 それでもまともに思考が働かない状態のまま、俺は壊れた機械のように…一つの
単語だけを紡ぎ続けました。

―ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…!

 心のままに、少しでも許して貰いたくて。
 脳裏に浮かぶのは…昨日自分が傷つけてしまった存在の事。
 彼の事を必死に考えて、迷って…そして最悪の行動を俺は取ってしまっていた。
 どれだけ言葉が通じなくても、あんな事をするべきじゃなかったのに!
 それでも一時の感情に任せて…俺は彼を傷つけてしまった。

「あっ…くぅ…!」

 それでも、脈動にシンクロするように時折…強烈な痛みが走り抜けて、苦悶の
声を漏らすしかない瞬間もあった。
 それでも贖罪を求めるように…俺は壊れたスピーカーのように、訴える言葉を
言い続けていた。

「ご…め、ん…な、さ…い…」

 泣きながら、いつの間にか…俺は虫の息になっていた。
 ずっと血が溢れ続けているのだ。
 体中から力が抜けて…もう指一本、まともに動かす事も叶わない。
 公園の土の上で…赤い血液が池を作り上げていく。
 
 その鮮烈なまでの緋は、俺を生かしていた生命の証。
 一回、脈拍を繰り返す度にポンプから水をくみ上げるように…傷口から
じんわりと滲み出していく。
 気付けば、俺のスーツも…手も、何もかもが赤に染まっていた。
 痛みにもがいていたせいで、顔もグシャグシャで…涙と涎でベトベトだった。

「ごめ、ん……い……っ…」

 昨日傷つけてしまった相手の名前を紡ごうとした。
 だが、もうまともに声すらも出てくれない状態になっていた。
 喉がカラカラなのに、眼窩からは熱い涙が零れ続けていく。
 どれだけ後悔しても、何でも…一度起こってしまった過去は変える事は出来ない。
 それをどれだけ悔やんだって、それが現実なのだ。

 その瞬間、着信音が辺りに響き渡った。
 男性の携帯だろうか。
 自分にとって聞き覚えのある少し切ないメロディのものだった。

『あぁ…たった今、始末した。…何?』

 それから、電話の相手と…男性は言い争いを始めていったが、すでに意識が朦朧と
している俺には…どんなやり取りをしていたのか、はっきりと聞き取る事は出来なかった。
 白熱する、二人の討論。
 その気迫だけで…お互いに一歩も譲れないのだという事だけは伝わってくる。
 時折、憎々しげに…男性は俺を睨み、何度も舌打ちしていく。

 あぁ、見れば判る。
 この人は本当に…今、俺が憎たらしくてしょうがない事ぐらいは―

『ちっ…! 判った。お前がそこまで言うのなら…この男の命ぐらいは助けてやる。
 だが、自分が言った事…忘れるなよ?』

 その最後の言葉だけは、はっきりと…聞き取る事が出来た。
 けれどその頃には…もう、ここがどこなのか…場所の認識さえも曖昧な状態に
俺は陥っていました。
 男性は、一旦通話を切ると…どこかに再度、掛け始めていきました。

『怪我人の搬送の為に救急車を一台、ここに手配して貰いたい。都内の公園だ。
住所は…』

 そうして、男性は…この公園に隊員が辿り着きやすくする為のこの付近にある
建物を幾つか上げていって、特定しやすいように伝えていく。
 その作業を終えていくと…彼は、こちらを見下ろしながら…冷たく言い放っていく。

『今回は…命だけは助けてやる。だが…二度とその顔は見せるな。その時は今度こそ
あんたの命はないと思え…』

 彼はそうして、俺から離れていく。
 土を踏み締める音が、段々と遠くなり…その場には俺一人だけが残されました。
 その瞬間、言いようの無い罪責感で心が満たされていく。

―ごめんなさい

 最後に、そう心の中で力なく呟きながら…
 俺は、遠くから聞こえる救急車のサイレンをぼんやりと聞いていきました―
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HN:
香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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