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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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『第四十話 自己犠牲』「佐伯克哉」



 こちらから触れる程度の口づけを落として…そっと顔を離していくと、もう一人の
自分が目を見開いていた。
 いつも自信満々で、マイペースを貫いている筈の彼をそんな顔にさせていると思うと
少しだけ優越感のようなものに浸れていく。
 それから、すぐに顔を離していった。

「さよなら…<俺>」

 泣きながら、それでもどうにか…懸命に笑みを刻んで、彼の腕の中から素早く
抜け出していった。
 すぐに全力で…奈落に向かって走り始めていく。
 間もなくして、正気に戻った眼鏡がこちらを追いかけ始めていった。
 そして始まる、鬼ごっこ。
 自分を冥府に繋がる深い穴に突き落とそうとする人間と。
 それを引きとめようと足掻く人間との一騎打ち。

 捕まる訳にはいかなかった。
 自分がこうしなければ…もう一人の自分が、奈落に落ちなければいけなくなるから。
 こんな己を強く想ってくれた太一の事を考えれば、胸が痛くなってしょうがなかったけれど…
自分にとっては、太一も…眼鏡も、どちらも大事なのだ。

 太一が自分にとって、愛し愛される関係の大切な人なら…。
 眼鏡は、気になる存在であると同時に…もう一人の自分自身なのだ。
 それは肉親にも似た感情が伴っている。家族に抱く気持ちに似ているのかも知れない。
 太一と眼鏡を天秤に掛ける事はイコール…恋人と肉親のどちらかを選ばないといけない
のに…凄く似ているのかも知れない。
 
 どちらも克哉にとっては…「愛している」存在なのだ。
 だから、彼らのどちらかを犠牲にしなければ自分が生きられないというのなら…
克哉は躊躇い無く「自分」を殺す結果になっても惜しくない。
 それくらい…彼にとっては二人ともかけがえの無い存在なのだから。

(…おかしい、よね…。あんなに好き勝手に俺を抱いて…ぶっきらぼうで、本心が
良く判らない奴の事を…オレはいつの間にか好きになっていたんだから…)

 決定打は、この楽園内でのやり取りだったのかも知れない。
 風を切るぐらいの勢いで、必死に足を進ませている最中…前回にこの場所で
最後に顔を逢わせた日のやり取りを思い出していく。

―あの日の自分は、彼に散々…容赦のない事実を突きつけられて、ボロボロの
状態だった。
 …今思い返せば、あれは…自分を挑発して怒りを引き出して生きる気力を持たせようと
していたのかも知れなかったが…当時の自分は、自己嫌悪が酷くて…痛いぐらい図星を
突かれていても、怒る気力すら持てなくなっていた。

『…おい、どうした…<オレ>…』

 何も言い返せずにぐったりと倒れ込んだ自分を…彼はふいに抱き上げて、顔を
覗き込んでいた。
 その眼差しは真剣で…真摯で、何故コイツがこんな顔を自分に対して向けているのか
最初は驚いたぐらいだった。

『…チッ…軟弱な奴だな。いたぶり甲斐もない…』

 すると眼鏡は克哉を肩に担いで…この楽園の奥にある森林地帯の方に足を踏み入れて…
そのまま自分を泉の前まで運んでいった。
 目的地に辿り着くと同時に、勢い良く泉の中に放り込まれた。
 最初はびっくりして…水の中でもがきまくったが、現実と違って…水の中でも呼吸をするのに
支障はなかった。
 むしろ…澄んだ水中はどこか暖かく懐かしい気持ちにすら感じていた。

『…暫く其処で寝ていろ。…俺が12年程、寝ていた寝床だ。その中で大人しくさえ
していれば…少しは消耗を抑えられるかも知れないからな…』

―どうして、オレを殺さないんだ…? もしくは…あちらの穴の方にさっさと
放り込まないんだ…?

 あの一件が起こった時点では、この場所で…二人同時に生き続ける事は命取りだと
薄々感じ始めていた。
 自分たちの生命力そのものが弱ってきている状態で、二つの意識を持ち続けることは
電気を本来は一軒分しか供給出来ないのに、無理に二軒分に送り続けるようなものだ。
 一時的ならともかく、その状況が続けば必要以上に無理をする形になる。
 自分は…ぐったりして、すでに気持ちの上では生きる気力も失くしている…負け犬だ。
 そんな状態なら、幾らでも眼鏡はこちらを好きなように扱う事が出来ただろう。
 だが…彼はそうしなかった。

『自分自身を、そうあっさり殺せるか…バカ。お前は確かに鈍いしトロいし…見てて
イライラするが…それでも、もう一人の<オレ>である事は事実なんだ。
 自分が生き残りたいから、と言ってあっさりと…お前を殺して自分だけ、という
浅ましい真似を俺が平気でやると思っているのか…?
 …それは最終手段だ。ギリギリまで…お前と俺が両方助かる道を模索してやる。
だからお前は其処で眠って…無駄な消耗を抑えていろ。
 …俺が必ず、どうにかしてやる…信じろ…』

―う、ん…判った…

 その時、眼鏡の表情は今まで見た事がないくらいに真剣なものだった。
 不覚にも…『どうにかしてやる…信じろ』と言われた事に、胸が何故か…落ち着かなく
なっていた。
 その勢いに押されて…つい頷いてしまっていた。

『良い子だ…じゃあ、大人しく待っていろ…。どうやら、そろそろ…身体を起こさないと
いけない時期みたいだからな…。最後の最後まで…諦めるな。お前はもう一人の<オレ>
なのだから…もう少しぐらい生きる事に執着してみろ。そうしなければ…太一に…俺が
また酷い仕打ちするかも知れないぞ…?』

―そんなの、絶対に…許すもんか! 太一は凄く…良い奴なのに…どうしてお前は
酷いことを言うんだよっ…!

『…その意気だ。俺を止めたければ…足掻いてみろ。お前自身が放棄した事を…
俺にやって貰おうなどと決して甘えるな。太一が大事なら…な。じゃあ…俺は
そろそろ行く。良い子に寝ていろよ…』

―えっ…?

 その瞬間、克哉は思わず呆けてしまった。
 最後に泉の中を覗き込んだ彼の表情は…とても優しげだったから。
 克哉はその顔を見て…言葉を失っていく。
 そして間もなく…彼の顔も姿も、見えなくなっていった。
 最後の最後で、自分に特大の爆弾を投げかけて…眼鏡の身体は遠ざかり…そして、目の前
から完全に消えていった。

 あいつの口からそう言われた瞬間…もう太一を傷つけるのは嫌だ、と思った。
 だから…どれだけ太一が良い奴だったか…自分にとってかけがえの無い存在だったのか
判って貰おうと思って…今まで、彼の方に流れ込まないように無意識の内に守っていた記憶の
数々を…強引に流し込んで、彼にも太一を好きになって貰おうと…無謀な事を考えて
実行に移してしまった。
 …そのせいで、眼鏡の方を酷く苦しませてしまった訳なのだが…。

 あの日、あいつは自分に対して…初めて「情」みたいなものをぶつけた。
 …だから、自分も…いつしか、こいつを犠牲にしてまで…という気持ちが無くなって
しまった。運命を受け入れようと…心構えをし始めるようになった。
 太一に対して、一度だけでも想いを告げて…もう一人の自分に、「大切だからお前が
生きて欲しい」という二つの言葉を伝えられれば…それで、悔いはないと思った。

 だから克哉は走り続ける。
 後ろから引きとめようとする眼鏡を振り切るぐらい全力を振り絞って、苦しくても
足を動かし続けていく。

―お前を犠牲になんか、したくないから…それくらいなら…オレが落ちた方がずっと良い…!

 それに奈落の穴に落ちても、死ぬ訳ではない。
 いつ目覚めるか判らないが…眠るだけなのだ。
 傷が癒えて、身体と魂に気力が戻れば…いつの日か目覚める。
 それが半年後か、一年後か…五年後か、十年後か…もしくは何十年も先になるのか
判らないというだけの話なのだ。
 
―太一、御免。けれど…いつ目覚めるか判らない状況下でお前を縛れないから。
 だからどうか…夢を叶えて幸せになってくれ…

 もしかしたら、自分が何年かして目覚めた時には…太一の傍には他の人間がいるかも
知れない。だが…それでも、歌手になりたいという夢を果たしている彼の姿を見られたら
良い…と密かに願いながら、克哉は…ようやく目的地に辿り着いていく。

 其れはどこまでも深い…地獄にも通じていそうな深く暗い断裂。
 それを目の当たりにして、この一ヶ月掛けて作り上げた覚悟が少しだけグラリと
揺らいでしまうような錯覚を覚えていく。

(やっぱり…深い、な…怖い、かも…)

 ここに落ちたら、もう自分は何年も戻って来れないかも知れない。
 そう考えると…足が竦みそうになるし、やはり怖かった。
 だが…そうしなければ、後数日の内に…自分たちはオーバーヒートを起こして…
二人とも、また起きれなくなってしまうかも知れない。

 …二人でここに居続ければ、意識が現実に二度と戻らなくなってしまう可能性が
あるのだ。
 この楽園も…いつ消えてしまうのか判らない。
 もう…刻限は、間近に迫っているのは感じ始めているのだから…!
 
(もう迷っている暇なんてないんだ…!)

 ギュっと両手を握り締めて、飛び降りようとした。
 身を乗り出して…其処に身体を傾けようとした刹那…ふいに強い力で腕を捕まれて
引き寄せられていく。

「…どう、にか…間に合った…っ!」

 眼鏡は、苦しげだった。
 それでも死ぬ気で克哉を捕まえようと…彼は追いかけ続けて、穴の手前で迷っている間に
どうにか追いついたのだ。
 強引に抱き寄せられて、そのまま射殺されそうなくらいに強い眼差しで見つめられて…
心臓を鷲掴みにされたような感覚が走っていく。

「この…バカ、が…」

 心底、憎々しげに呟かれると同時に…。
 克哉は、噛み付くように激しく…深く、唇を彼に塞がれたのだった―

 

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 『第三十九話 貴方が目覚めたら…』 「五十嵐太一」


 五十嵐太一は、深い溜息を突きながら…ベッドの傍らの椅子に腰掛けていた。
 時計の針は朝八時をすでに指しているが、何度懸命に起こしても克哉が起きる
気配がなかったので…結局、もう一泊する手続きをしたばかりだった。

 結ばれた直後に意識を落としてしまった克哉は、それから朝を迎えても…一向に
目覚める気配はなかった。
 最初は、それだけ克哉を悦くしてしまったのかなと自惚れたり…無理をさせてしまったの
だろうかと不安になったり、一喜一憂していたが…これだけ長い時間、意識を失った
ままだと…昏睡状態になっていた時の事を思い出してやはり不安になる。

「克哉さん…もしかしたら、また…暫く眠ってしまうのかな…」

 そうなるかも知れない可能性がふと過ぎって、彼は…自分がした事に深く後悔を
覚え始めていた。
 …久しぶりに穏やかな方の克哉と出会えて、結ばれた方ではない。
 もう一人の克哉に対して…行ってしまった行為についてだ。
 
(…幾ら、アイツの方に無理矢理ヤラれたからって…同じ事をしたら、俺も同じ穴の
ムジナになるって事なんだよな…。計画した時は、頭に血が昇っていて…そんな
事、考える余裕がなかったけれど…)

 …克哉と会えて、結ばれる幸福を感じる事が出来たからこそ…やっと自分の心に
余裕のようなものが出来て、己のした事を客観視出来た。
 父親の暗殺道具を隠した時に手に入れた例の薬は、万が一何かあった時用に…
念の為持ち歩いていたものだった。

 量的には数時間で効能が切れる範囲までしか用いなかったが…あの薬は、一般には
流通していない非合法なものである。
 ただでさえ…40日程前に刺されたばかりで、本多の話ではまだ安定していない時も
ある克哉に服用させてしまったのは…浅慮過ぎたのではないだろうか。
 その事実に思い至って…彼は、深い自己嫌悪を覚えていた。

「ほんっと…俺、克哉さんに会いたくて会いたくて…半ば、狂っていたみたいだ…。
こんなみっともない真似…しちまう、なんて…」

 目覚めてから、何度目になるか判らない深い溜息を繰り返しながら…室内を
見回すと…大雑把にたたんでおいた克哉のスーツやYシャツが…かなり汚れて
ボロボロになっている事に改めて気づいた。
 この部屋に来た時から少し痛んでいたが、その上で更に無理矢理…眼鏡の方を
抱こうとした時に力任せにやってしまったので…ボタンやジッパーの部分が危うい事に
なってしまっていた。

「…十時過ぎになれば、この近くの店も開き始めているかな…。そうしたら、やっぱり…
克哉さんの着替えとか買って来て上げた方が良いよな…。
 それにホテルのルームサービスも高いし…ある程度、食料の類も…明日の朝の分
くらいまでは買って来た方が良いよな…」

 正直、ここ一ヶ月働いていないし…バンドの方に入って来た金の大部分はつぎ込んで
いたので…太一の懐事情は相変わらず厳しいものだった。
 それでも、変な話…何十万かくらいは…過去に親戚一同から貰ってきたお金を
溜め込んであるので、そこまでケチケチしなくても急に日干しになったりはしない。
 それでも温存しているのは…いざという時に、海外にも逃亡出来るようにだ。
 自分の実家から…どれくらいの期間、国内で逃げ回る事になるか…今の時点では
未知数な為に、収入の充てのない今は…幾ら倹約しても、しすぎる事などないだろう…。

(ホテル代と、克哉さんのスーツ代の出費はそれでも痛いけどね…)

 けど好きな人の為にお金を使えるのなら、気分はむしろ嬉しいくらいだ。
 あまり高い物を買って来る事は出来なくても…安い予算でも、克哉に似合いそうな
スーツやネクタイを揃えてやるくらいなら可能だろう。
 その時、克哉は急に苦しげに眉を寄せて荒い呼吸を繰り返し始めていた。
 彼の突然の急変に、血相を変えて…太一は駆け寄っていく。

「克哉さん大丈夫っ? 俺はここにいるよ…!」

 克哉の手をしっかりと握り締めていきながら、声を掛けていくが…暫くはその
もがくような動作が続いていた。
 だが…太一の必死の祈りが通じたのだろうか…間もなくして、克哉の状態は
落ち着いて…少し穏やかなものになっていく。

(克哉さん…お願いだから、どうか…目覚めて…)

 心の中に描くのは、優しく微笑む方の克哉の顔。
 もう一度…自分は、彼に会いたい。
 そして…改めて、今後…自分の事情とか、どうしていきたいか…この気持ちをはっきりと…
彼にキチンと伝えたいのだ。

(俺には…貴方しか、いないのだから…)

 彼に伝えていない、彼に捧げる為のラブソング。
 それも…今すぐは無理だけど、いつかは…克哉に伝えたいと願っているから。
 眠る彼の唇に、あの時のように口付けていく。
 
 ―どうか、今度目覚める時は…あの人の方でありますように…。

 それは眼鏡を掛けた方の彼からしてみれば、残酷すぎる願いだと判っている。
 だが…もう己の心を偽る事など出来ない。
 …その希望こそ、彼の紛れもない本心であるのだから―

 



『NO ICON』 「第三十八話 告白」 「三人称視点」」

 こうして顔を合わせていると、過去に起こった出来事が喚起されていく。
 あれはあの男から、自分を解放する銀縁眼鏡を受け取って間もない頃だった。
 自分を否定する男と仲良くし、一向に自分の存在を認めようとしない<オレ>に
苛立って、夜のオフィスで仕事を手伝ってやるという口実をつけて犯してやった
時の事だった。
 あの夜の快楽によって、乱れている<オレ>の姿とそのやりとりを
思い出していく。

もう前だって、俺を求めて臨戦態勢じゃないか

あっあぁあぁっ

認めろよ。お前は男好きのナルシストだってな

ちがうっ違う

 そんな風に嫌がっていた癖に最後には自分から腰を振って強請ってさえいた。
 淫乱で淫らな<オレ>。
  その夜に自分は、ギリギリまで<オレ>を焦らした時、こう告げた。

俺とお前には決定的な違いがある。それは何だと思う? 自分の欲望に忠実かどうか、だ
だから、自分の欲望を認めないお前は何も得られない

 間違いなくそう告げた。そして自分を欲しいとようやく口にした<オレ>を
存分に何度も犯してやった。
 あの時はただ、ようやく欲望に正直になった<オレ>の狂態を見て満足し自分も
存分に愉しんだだけだった。その時点では、それだけの意味しか成さない行為だった。
 だが、今彼は想い知らされている。
 その出来事もまた、大きく歯車を狂わせてしまっていた一因になっていた事を

(ちっこんな事を思い出して、今更何になる

 さっきまで、コイツは太一に抱かれていたせいだろう。どうしてもあの夜のコイツの痴態を
思い出してしまう。
 睦言も、好意を告げる事なくただ快楽だけを追い求めて身体を重ねた夜。
 太一にも、コイツにもどちらかにでも、「好きだ」という本心を告げる事さえ出来たなら
このような結末は、回避できていたのだろうか

鎖に繋がれた自分を見下ろす、<オレ>の姿は…自分が知っているよりも
自信を持っているように映った。
 最初にこうやって向き合った時は確か…Mr.Rや太一と出会った頃よりも
少し経った頃だろうか。
 かつてコイツが禁断の果実を口にした時に、自分を良いように犯した男が…
鎖に繋がれている姿を見て…彼は果たして何を想っているのだろうか。
 暫し互いに見つめあい…そして。

「その鎖、どうにかならないの…?」

「…どうにか出来るなら、とっくの昔にやっている…」

「そう。けど…お前がそんな状態じゃマトモに話せない気がする。ちょっと我慢
していて…」

 そうして…彼は眼鏡の傍らに跪いて、叫んでいく。

「解けろっ!」

 これが現実ならば、決してこんな言葉だけで何本もの鎖がどうかなったり
しないだろう。
 だが…克哉自身もここは自分の夢の世界であるという事は自覚している。
 彼がそう告げると同時に…あれだけ強固だった鎖は氷が割れるようにピキピキッと
音を立てながらひび割れて、そして砕けていった。
 眼鏡はあれだけ外そうと試みてもビクともしなかった鎖を、たった一言で壊された
事実に呆然となっていく。

(…もしかして、この世界の主導権は…もうコイツに移されているのか…?)

 そうかも知れない可能性を考えて、チッ…と小さく舌打ちしていく。
 だがそんな苦々しさを表情には浮かべず…いつもと同じ取り澄ました態度を取って…
もう一人の自分と向き合っていった。
 両者とも、真っ直ぐに相手を言葉もなく見据えていく。
 ―暫しの睨み合いの後、先に口を開いたのは…克哉の方だった。

「…こうやって、お互いに向き合うのって凄く…久しぶりだよね。…実際の時間から
したら、一ヶ月程度の事なんだろうけど…うんと遠くの事のように感じられる…」

「そうだな…お前が、俺の存在に気づいてから…大体四ヶ月近く、といった処だな。
…で、何で此処まで降りて来たんだ…。やっと表に出て、念願の愛しい太一に再会
する事が出来たんだろう…? それなら、どうして…結ばれた直後にこんな処に
わざわざ来たんだ…?」

「…あの穴を、塞ぎに来たから…だよ…」

 その一言を聞いた瞬間、眼鏡は瞠目していった。
 あまりに予想外の言葉だったからだ。
 信じられないような目を見るような眼差しを…もう一人の自分に向けていったが…
彼は儚く微笑むだけでそれ以上、何も言わない。

「…お前は、バカかっ! どれだけ…太一がお前を望んでいたのか、ついさっきまで
散々教えられただろうに…! その直後に何故そんなバカな事を考えるんだっ!」

「じゃあ…お前の方をあの穴に突き落とせっていうのかよっ! いつ目覚めるのか
判らない奈落の底にっ? それこそ…オレには出来ないよっ!」

「どうしてだっ! お前が太一と幸せになるのなら…それこそ、俺の方を突き落として
お前が生きれば良いだけの事だっ! 俺はお前に主導権を奪われて…あの鎖に
繋がれた時、肉体の主導権を乗せた天秤はお前の方に傾いたと覚悟していた。
それなのに…どうしてお前は、そんな馬鹿げた事を言っているんだっ…!」

「それ、は…」

 その瞬間、克哉は口ごもって…俯いていく。
 彼の表情は酷く惑い、自分自身でも良く判らない…という色を濃く宿していた。
 暫く…互いの間に沈黙が落ちていき、そして…信じられない一言を呟かれた。

「オレは…お前も、愛して…いる、から…」

「な、に…?」

 その一言に、眼鏡は驚愕していく。
 今…コイツは何を言ったのだろうか…と我が耳を疑ったが、彼は…自嘲的な笑みを
浮かべて…もう一度、その言葉を繰り返していく。

「…聞こえなかった? …だから、オレは…お前の事もいつの間にか…好きに
なっていたんだ…。最初は、オレ自身だって信じられなかった。けど…お前に、
現実で…二度ばかり、抱かれた事があっただろ…。あの日から、何故だか…
オレは…お前を忘れる事が出来なかった…」

 泣きそうな顔を浮かべながら、彼は訥々と…己の気持ちを告げていく。
 眼鏡の方は呆然としている。
 そんな事など、考えた事もなかったからだ。
 …コイツは、太一だけを想っているのだと…そう思い込んでいた。
 俺に抱かれて、あれだけ悦んでいた癖に…徐々に他の男を想い…愛していく
コイツに苛立って、そして…その無意識下の憤りが…太一を弄りながら犯した
あの事件へと繋がっていたのだろうか…?

「…お前、自分が何を言っているのか…判っているのか…?」

「…勿論、判っているよ。ずっと…眠っている間…自問自答していた。そんな風に
想っている自分の本心を何度も疑ったよ。だから…オレには、太一を想う資格なんて
ないと感じていた。特に…マスター…いや、太一のお父さんに刺された時は…自己嫌悪
が酷かったよ。あぁ…お前を止めなかった事で、オレは太一をそこまで傷つけてしまった
んだって…その現実を受け止めて、だから…消えようとした。
 …好きな人間傷つけておいて、その傷つけた張本人をも…想っているような人間が
太一と寄り添う事なんて…許される訳がない、と…思っていたから…」

 その気持ちこそ、刺された直後…彼を絶望へと陥らせた…最大の原因だった。
 自分自身を愛せない人間は、他人も愛せないという言葉があるが…自分と、眼鏡を掛けた
方の自分の関係は…それに当てはまらないような気がして。
 ポロポロと…泣きながら、切々に…己の想いを語る克哉の姿を見て…眼鏡は茫然自失
状態になっていた。
 
「…だが、太一は…お前だけを求め続けていた。俺の事など…素通りして、な。
あいつの目は…決して俺には向けられなかった。向けられた感情は「憎しみ」だけだっ!
 それなのに…俺を生かして、自分を消すというのか…ふざけるのも大概にしろっ!
そんなの…太一を絶望に突き落とすだけだぞ…! それを…俺の中から見続けていた
んじゃないのか…! それでも、そんな戯言を言うのか…お前は…!」

「その台詞、お前にそっくり返してやるよ…! それなら…どうしてオレが弱りきって
いた時期に…お前は自らの手でオレを殺して、生命力を奪ったり…あの奈落の穴に
突き落とそうとしなかったんだ? 浅い処でオレの意識を留めておけば…お前自身を
徐々に蝕んで弱っていくだけだったのに…何故?
 お前は…ずっと、一度…オレとこの世界で話してからは…オレをどうにかしようと
した事はなかった。夢を自由に見させておいて…それ以上の介入をしようとしなかった。
 それは…お前を生かそうとするオレの心理と、同じものが働いているんじゃないのか…っ?」

「…うるさい! 黙れっ!」

 その瞬間、眼鏡は激昂した。
 克哉の指摘は、図星だったからだ。
 瞬く間に彼の瞳に怒りの感情が宿り、爛々と輝いていく。
 そして…楽園の土の上に、克哉は組み敷かれていった。

「それ以上…ふざけた事を言うな…!」

「ふざけてなんか…いない。…事実、なんだろ…ねえ、<俺>…」

「言うなっ…それ、以上は…」

 怒りを押し殺した表情から、一転して泣きそうな表情に変わっていく。
 至近距離で、互いを見詰め合う。
 吐息を感じ合えるくらい、近くに相手の顔がある。
 …そういえば、身体を二度も繋げたことがある癖に…一度も、自分たちは
キスをした事がなかったな…とふと、そんな事を繋げた。

「…その割には、泣きそうな顔しているよ…<俺>…」

 そうして、克哉は…眼鏡の身体を強く抱きしめていく。
 心の中の世界だから、はっきりと鼓動とか体温とかを常に現実と同じように
感じる訳ではない。
 それでももう一人の自分の身体は温かく感じられていた。

「…お前が、オレの事を…どう想っているかなんて…判らないけれど。
…オレは、お前を好きだよ…<俺>…」

 彼がどれだけ、太一に素っ気無い態度を取り続けて傷つけたか。
 この…太一の父親に刺される、という絶望的な流れを引き起こしたのも…
もう一人の自分の愚かな行為に結果だと判っている。
 それを恨んだり、正直…憎もうとしたけれど、結局それは果たせずに…
こんな事を告げる自分は、本当にバカなのだろう。

「…お前は、どうして…」

 こんな俺を好きだと告げて、優しく抱きしめたりするのだろうか…。
 そうされる事で、責められるよりも遥かに強く…己の罪を思い知らされる。
 詰らせるよりも時に赦される方が辛い時がある。
 今の眼鏡の状態は…まさに、それだった。

「…大好き、だよ…。こんなオレに…太一に愛される資格なんて、やっぱり…
ないんだよ。だから…」

 そして、身体が折り重なっている状態で…うっすらと涙を浮かべながら、とても
儚い表情で…克哉が微笑んでいく。
 その顔を見た時、このまま…胸が張り裂けてしまうかと思った。
 それくらいのやりきれなさが…心中に生まれ、そして告げる。

「だから…オレが穴に落ちるよ。どうか…生きて…<俺>…」

 そして、初めて…フワリと自分たちの唇が重なった。
 夢の世界なのに…何故か、そのキスは涙の味がして…どこか塩辛くて…
切ない味がしていた―
 
 『第三十七話 楽園での邂逅』 「眼鏡克哉」


 彼は自らの心の中にある楽園に、繋がれていた。
 己の四肢には鎖が繋がれ…殆ど身動き一つ取れなくなってしまっている。
 その締め付けと拘束は、時間が経つ程に強まり、眼鏡の自由を徐々に奪っていった。

(止めろ…俺に、もう…見せ付けるな…!)

 彼がどれだけ心の中で叫んでも、もう一人の<オレ>に声はもう届かない。
 今の彼は…どんな事があっても…『愛しい人間と触れ合う時間』を死守したいと
願っている。
 だから…どれだけ訴えても、語りかけても…今は強固な心の壁が生じて…聞こえる
事はないのだろう。
 その状況で…相手の感情だけ、流れ込んでくる状況は…一種の拷問に近かった。

「くっ…ぁ…!」

 もう一人にとっては心を蕩かすぐらいの『幸福』は、今の彼にとっては精神を蝕む
猛毒に過ぎない。
 何故ならもう一人の自分が、太一に愛されている事を幸せに思えば思う程…自分の
入り込む隙間などない現実を突きつけられて。
 
 ―そして思い知らされるからだ。自分がどれだけ、この二人を阻む邪魔者に
過ぎなかった事を。

『愛している…克哉さん…』

 その一言が、太一の唇から…今、表に出ている克哉の耳元に囁かれる度に…
この四十日、彼を苛み続けた「胸の痛み」が、眼鏡の心を切り裂かんばかりに
激しく走り抜けていく。

『オレ、も…オレ、も…大好き、だよ…太一…』

 もう一人の自分が、涙を流しながら…やっと薬が抜けて少し動かせるようになった腕を
必死に太一の身体に巻きつけながら、伝えていく。
 幸せな幸せな―恋人たち。
 今、想いをようやく交し合い…確かめ合う彼らの瞳には、お互いの姿しか存在しない。

 …眼鏡の事など、カケラもこの瞬間…存在していなかった。
 否、もう一人の自分も太一も…意識から排除している。
 彼が犯した罪により、二人の歯車は狂い…思いもよらぬ方向に運命は廻り始め。
 自分たちの片方が、永い眠りに就かなければ…恐らく回復しない程、深い傷を魂自体に
追う事となったのだから―

(全ては…あの時から、始まっていたんだな…)

 克哉を追い詰めたもう一つの事件は…Mr.Rから…銀縁眼鏡を受け取ってから
そう経っていない時期に起こっている。
 彼は…あの一件があったからこそ、自分に太一を想う資格などないと思い込む事に
なり…そして紛れもなく、その事件もまた、眼鏡が原因を作っていた。

 だが…克哉は、太一と眼鏡の身体を悲しいすれ違いの果てに、もう二度と繋がせたくないと…
強く望み、自分を押しのけて現実へと戻っていった。
この瞬間、太一をようやく…全身全霊で受け入れたもう一人の自分の姿は、まるで…
あの時とは違っていて。
 身体の快楽だけでなく、心まで充足している彼は…満たされ、快楽よりも深い充足感を
太一に抱かれて…味わっている。
 熱い吐息、荒い鼓動。汗ばむ肌…快楽により、絶え間なく震える身体。
 克哉は愛し愛され…お互いの気持ちを確認しあう、至上の幸福を今…知ってしまった。

 それは…眼鏡自身が、決して味わった事のない禁断の果実にも等しいモノ。
 心まで結ばれている恋人たちの姿を、心の内側にある世界の中から見せ付けられて…
自分が信じ込んでいた価値観が、粉微塵に砕かれていく。

 欲しければ、心のままに望んで欲しがれば良いと思っていた。
 それをしない、やろうともしないもう一人の自分を愚かだと思った。
 正直、苛立っていたし…見下していた部分があった。
 だが…いつの間にか自分が心から欲しいと思っていた太一の心は…
もう一人の自分だけに向けられていて。
 欲望のままに彼を抱いた自分に向けられた感情は…そう、『憎悪』と
呼ばれる類のものだけだったのだ―。
 
『大好き…大好き、だよ…』

『ん、オレも…愛、してる…』

 彼らは聞いていて、砂を吐きそうなくらいに甘い言葉をストレートに伝えて
気持ちを確かめ合っていく。
 その度に、心の世界は大きく震えて…『歓喜』を滲ませて…緩やかに大気に
乗って広がり始めていく。
 心の中に閉じこもっていた克哉と、自分自身の心が弱り始めていた頃はすぐに
でも朽ちかけようとしていた『楽園』は…彼が悦ぶ度に、幸せになる度に再び緑を
生い茂らせて…息を吹き返していく。

 楽園に光が差し込む。
 愛する人に、愛される喜びにより。
 死に掛けていたもう一人の自分が、活力を取り戻していく。
 望んでいた人の腕にやっと飛び込む事が出来て…。
 そして…最初は生命力に満ち溢れていた自分は…猛毒により心を
深く蝕まれ…徐々に弱り続けている。

 それでも…緑溢れる楽園と対照的に…断崖の向こうに広がる『奈落の底』は
眼鏡の中の絶望と連動して、徐々に広がり続けていく。
 愛される喜びが楽園を活気付け。
 憎まれる絶望が、死へと続く奈落への穴を更に深めていく。
 楽園が奈落を塞ぐ方が先か。
 死の穴が…光溢れる場所を屠って破壊しつくすのが先か。

 一人の人間に抱く、両者のそれぞれの愛情と憎しみの感情は…
互いに反発しあい…彼らの精神世界を深く切り裂いていく。
 もう…崩壊の時は、間際に迫っている。
 どちらかが眠らなければならないというのは…片方がこの穴に入らない限りは
互いの心は衝突を続けて、世界に亀裂を生み続けるからだ。
 負った傷が深いからこそ、魂は休息を求めている。
 其処まで…もう一人の自分を追い詰めた罪を…この瞬間、彼は自覚をさせられていた。

「…くそっ…! ここで…俺は、自分のした事に目を背けたら…それこそ、タダの
クズじゃないか…!」

 久しぶりに降りてきた楽園の荒廃を最初に見たからこそ、息を吹き返したその
姿を見て…彼は、罪責感を覚えていく。
 更に罪悪で紡がれた鎖で雁字搦めになり、身動きが取れなくなる。
 息すらもそのまま出来なくなりそうなくらいの圧迫感すらした。
 
 その瞬間…世界が真っ白い、眩いばかりの光に包まれていく。
 愛しい相手に抱かれて、もう一人の自分が…絶頂に達したからだ。
 目を開いている事すら困難な、余りに鮮烈な光の洪水が天を覆いつくし…
それからグラリ、と世界が揺らめいて…瞬く間に蒼い闇に包まれていく。

 どれくらい…そうしていただろうか。
 締め付ける鎖の与える苦痛すら、麻痺をして遠くなり始めた頃。
 まどろみに落ちた…もう一人の自分の意識がゆっくりとこの世界で形作り。

『久しぶりだね…<俺>』

 彼を不幸に叩き込んであろう、最大の罪人に対して…もう一人の自分は
穏やかな声で語りかけてくる。
 目を開けば、其処に…いつものように儚く微笑んでいる<オレ>が立っている。

「あぁ…そうだな…<オレ>」

 弱っている姿を見られたくなくて、それでも…胸が苦しみ、鎖で繋がれて自由が
効かなくとも…彼は気丈に笑っていく。
 
 言葉に乗せて、自分の本心を伝える事が苦手で。
 想いをぶっきらぼうにしか伝える事が出来ず。
 愛していても照れくさくて冷たい態度しかいつも取れず。
 弱みを晒せないが故にいつも不適に笑って己を守っている。

 そんな彼と、素直で愚直な性格の…もう一人の自分は、この心の中に作られた
仮初の楽園で『最後』の邂逅を果たしていく。
 作り物のような、仮面のような笑顔を浮かべ。
 だが、決して相手から目を逸らさずに強い瞳でお互いを見つめ続けていく。
 
 そしてこの滑稽なまでの悲劇の物語は、最終局面を迎えようとしていた―

『第三十六話 想い』 「佐伯克哉」

―彼は久しぶりに、表に出ていた。

(…こんな、状況下でも…間に合った…)

 彼は滂沱の涙で顔をぐっしょりにしながら…それでもどうにか笑おうとしていた。
 だが、どうしても…泣いているせいで変な顔に歪んでしまって上手くいかない。
 そして震える声で、愛しい相手の名を呼んでいく。

「太、一…」

 それは、眼鏡の方が呼び掛けるものとはまったくトーンが違う…柔らかく感情が
込められた声。

「克哉、さん…?」

 自分の顔を見て…太一は呆然としていた。
 まさに狐につままれたような…という表現がぴったりだろう。
 無理もない。先程の自分たちの様子は…尋常ではなかったという自覚ぐらいは
克哉自身にもあったから。
 あの態度の豹変は…自分の意識と、もう一人の自分の意識がせめぎあって対立
し続けていたからだ。
 
 決して抱かれるまいと頑なだった<俺>と。
 絶対にもう一人の自分の方が先に彼に抱かれる事など許せないと思う<オレ>と。
 今回だけは何が何でも、許したくなかった。見過ごしたくなかった。
 銀縁眼鏡に頼ったせいで…以前は<俺>に太一を犯される事を許してしまったが
今度ばかりは嫌だった。

 自分の好きな人に先に抱かれる方まで…<俺>に取られたくなかった。
 そして…さっき、どちらを望むのかという問いに…太一ははっきりと、自分の方を
求めてくれていた。
 その想いと答えが…深層意識で眠りに就いていた克哉に、自分の殻を突き破らせる活力を
与えて…そして、およそ40日ぶりに…彼は外界に出れたのだ。

「そ、うだよ…<オレ>、だよ…」

 四つんばいの格好で、両手を後ろで拘束されたみっともない格好でも…どうにか精一杯の
愛しさを込めて頷いていく。
 この体勢は惨めで情けないものだったけれど…それ以上に、彼とこうして会えて言葉を
交わせる喜びの方が勝っていた。
 だから彼は、涙で頬を濡らしながらも…嬉しそうに、口元に笑みを刻んでいた。

(オレには本当は…こんな事を想う資格すら、ないんだけど…)

「本当に、本当に…克哉、さんなんだ…。って待ってて…! 今、腕を解くから…! 
あいつの方ならともかく…克哉さんの方に酷いことをする理由なんてないしっ…!」

 その笑顔で正気に戻ったのだろう。
 太一は慌てて…克哉の腕を解いて、戒めを解いていく。
 それでも…薬に侵された状態では、シーツの上に力なく腕は落ちて…指の一本すら
満足に動かせないくらいだった。

「…はは、どうしよう…動かせ、ないや…」

「ほんっと、御免! その薬…マスターが嫌な客が来た時用にビールとかコーヒーに
忍ばせて暴れないようにする痺れ薬の一種なんだけど…後、一時間くらいで抜けると
思うから…もう少し待ってて!」

(何か太一…さっきまでと全然雰囲気、違う。オレが良く知っている…太一のまま、だ…
本当に、良かった…)

 必死に拝まんばかりにこちらに謝り倒す太一の姿を見て…克哉はどこかほっとした
ような表情を浮かべていく。
 もう一人の自分の目を通して見た先程の太一はどこか冷たくて…敵意に満ち溢れて
いたけれど。
 今、目の前にいる彼からは…以前と同じような純粋な好意だけが伝わって来ていた。

「…普通の喫茶店、に…痺れ薬…なんて、ない…と思う、んだけど…」

「あ、ウチの親父…ぶっちゃけカタギじゃないもんで…って、ヤバ!」

「…親父? って…えぇ! マスターと太一って…親子、だったの…っ?」

 その一言に克哉は心底、驚いたらしい。
 目を見開いて、驚愕の表情を浮かべていた。

「…あっちゃ~…一応、変に情を絡ませたくないから…って親父に釘を刺されて
いたんだけど…つい口、滑らしちゃったな…はは…」

 そうやって苦笑する太一の姿は、自分の良く知っている彼のままで。
 それに安堵している自分がいる反面、ふいに腰から臀部周辺に掛けてスースー
している事にようやく、意識が向いていく。

(うわっ…そういえば、さっき太一に下着とズボンを下ろされていたんだっけ…)

 それを自覚した瞬間、克哉の顔が一気に赤く染まっていった。
 …自分の好きな相手を前に、こんな恥ずかしい格好を晒す羽目になっているという
羞恥心がいきなり溢れて来て、カァーと耳まで熱くなるようだった。

「…克哉さん、どうしたの…? って…そ、そういえば…」

 暫く克哉の顔だけ真っ直ぐ見て会話をしていたから、失念していたが…そういえば
ズボンを下ろしたままだったという事実をようやく思い出して…だが、その白い尻に
目を奪われてしまって…ゴクリ、と息を呑んでいった。

(うわっ…うわっ! 何かさっきまでと…何か全然、精神的にクるものが違う…!)

 さっきまでの克哉と…あまりに反応が違いすぎるせいか…胸に迫る感情がまったく
異なってしまっていた。
 さっきまでの興奮が、怒りに因るものなら…今、ゆっくりとジーンズの下で反応し始めて
いるのは…克哉の可愛すぎる反応故だ。

「…太一! お願いだから…見るなよっ! 早く…隠して貰える…っ?」

 うつ伏せの状態で、うっすらと涙で目を潤ませながら…モジモジと身を捩らせる
克哉の姿は、今の太一には反則級に可愛らし過ぎて最早どうにもならない。

「い、いや…克哉さん。その体制で…そんな可愛い事を言うのは…反則…」

「誰が、可愛い…ん、だよっ! お願いだから…早く、隠して…! こんな体制じゃ、
冷静に、なんて…話せない、からっ…!」

 殆ど別の意味で泣きそうになりながら、克哉が一気に訴えていく。
 だが…太一は動いてくれない。
 剥き出しに晒された白い臀部を食い入るように見つめながら…暫く場の空気が
硬直していく。

「…俺は、冷静になんて…話したく、ない…」

 ふいに、太一の目に…熱い情欲が灯っていくのに気づいた。
 それは…二人きりでいる時に、時々…彼の目の奥に宿っていたもの。
 その…情熱的な眼差しを真っ直ぐに向けられて、つい…克哉は早鐘を打つように
己の鼓動を早めていった。

「えっ…や、ちょっと待って…ダメ、だって…太一っ!」

 ふいに…白い臀部を両手で揉みしだくように愛撫されて…背筋から、怪しい感覚が
一挙に走り抜けていく。
 そのまま両方の肉を押し広げられて…自分のもっとも見られたくない秘部が…相手の
眼前に晒されて、いっそ憤死したいくらいの羞恥を覚えていく。

「うわっ…克哉さんの、ここ…エロい。何かヒクヒク蠢いてる…」

「やっ…だ…お願い、だから…太一! そんな、処…見るな、よ…」

 半分、泣きそうになりながら克哉が訴えていくが…その希望が聞き遂げられる
気配などなかった。

「嫌だね…こんなに、可愛い克哉さんを前にして…冷静でなんて、いられないし…
何もしないでなんて…いられ、ないよ…」

 ふいに背後に覆い被さられて…耳元で、太一が熱っぽく囁いていった。
 そのまま…蕾の周辺に、太一の熱いペニスが直接…宛がわれているのを
感じ取って、ぎょっとなった。
 彼の先端が、先走りによってたっぷりと濡れている感触が伝わってきて…
克哉もつい、ゴクリ…と息を呑んでいく。

(うわっ…うわうわっ…!)

 この体制では太一の顔を見る事は叶わないけれど、同時に自分の顔を見られる
事もなかった。
 信じられないくらいに顔が火照り、全身が熱くなっていく。
 太一が、自分を相手にメチャクチャ興奮してくれているのが伝わって…背筋が
ゾクゾクしてくる。
 何度も蕾にこすり付けられていくと、こちらの欲望も高まって…どうしようもなく
なっていく。
 太一が、欲しい…と心の底から思った瞬間、ふと…もう一人の自分に対して
どうしようもない罪悪感を覚えたのも事実だけど…。

(御免…今だけでも、オレはもう…譲りたくなんて、ない…!)

 太一を、取られたくなかった。
 自分には彼を想う資格などもうないと想って、一度は諦める決意をしたけれど…
だが、ダメだった。自分の心は正直過ぎたのだ。
 自分は、太一が好きだ。もうその気持ちから目を背ける事など出来ない。
 だから自ら腰を揺らめかして…彼が欲しいのだという気持ちを、淫らに伝えて…
意思表示していく。

「あっ…やっ…た、いちぃ…」

 欲しい、と思ったら…止まらなかった。
 お互いの腰が揺れる度に、ネチャネチャと厭らしい水音が周辺に響き渡っていく。
 その度に両者とも、相手に対しての欲望が高まり…荒い呼吸を繰り返していた。

「…くぅ…! 克哉さん…御免、もう…俺、我慢出来そうに、ない…」

 初めて男に抱かれるとは思えぬ、克哉の痴態ぶりに…太一の方もすでに理性を
蕩かせきってしまっている。
 もう…眼鏡を掛けた方の克哉への怒りなど、今…こうしてこの人が自分の腕の中にいる
幸福によって吹き飛んでしまっている。
 ただただ、純粋に克哉が欲しくて仕方なくて…制御すら出来なくなっていて。
 太一は、そのまま…腰をぐっと突き進めて狭い肉路を掻き分けて…愛しい人の際奥へと
自分の分身を侵入させていく。

「克哉、さんっ…! 凄い…好き、だっ…!」

 背後から強い力で抱きしめながら、叫ぶような声音で太一が気持ちを伝えていく。
 この人がまた自分の腕をすり抜けていかないように…必死の想いを伝えながら、太一は
克哉の中に入っていく。
 その圧迫感ときつさに耐えながら…それでも克哉は、その感覚に耐えて…大好きな人を
受け入れていく。

「うん…俺も、大好き…だよ。太一…お、ねがい…キス、を…」

 こちらを振り返りながら…震える声で、克哉が懇願してくる。
 その切なげで苦しそうな顔に、また…自分の心は強く煽られていった。

「御免…順序、逆になっちゃったね…」

 相手に指摘されてやっと、キスするよりも早く…身体を繋げてしまっていた自分の性急さに
気づいて、太一は思わず苦笑していく。

「ううん、良い…やっと、こうして…太一を…感じられた、から…」

 この熱さを、愛しさを一生知らずに過ごしていた事を思えば…順序が逆になった事ぐらい
何てことはない。
 お互いの視線が絡み合う。
 真っ直ぐにぶつかり合って…自然と顔を寄せられていく。

「克哉、さん…」

 心からの愛しさを込めて、大好きな人の名を歌うように口ずさんでいく。
 それを聞いて、本当に嬉しそうに克哉は微笑んで…。

 二人の唇は自然と重なり合っていた―

 

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『第三十五話 豹変』 「五十嵐太一」


薬を盛られて、鈍重になった身体に歯噛みしながら必死になってベッドの上で
身を捩って、懸命に抵抗を試みていく。

 「くそっ はな、せ…っ!」

 薬によって、身体の自由を奪われていたせいか…声すらも途切れ途切れで掠れて
しまっているのが情けなかった。
 太一は背後から、克哉の背中に圧し掛かり…克哉のシーツを半ば乱暴にボタンを
引き千切って脱がせていくと…それで手首を拘束しようとしていた。
 だが克哉とて、黙って大人しく好きにさせておく程…甘くはない。

 全力で相手に蹴りを入れたり、頭突きをかましたり…爪を立てて相手の肌の露出
している部分を引っ掻きまくったり形振り構わずに反撃し続けていた。
 そのおかげで…すでに太一はあちこち、傷だらけの状態になっていた。

「…それは、こっちのセリフだよ…! くそ…本当にあんた、一筋縄じゃいかないな…!
少しぐらい大人しくしたらどうなんだよっ…!」

 太一の方も苛立ちを隠せない様子で舌打ちしながら、それでも…どうにかして
克哉の拘束に成功していく。
 だが…相手の目は決して、この不利な状況下においても…負けていない。
 こちらを今にも射殺しそうなくらいに鋭い眼差しで、真っ直ぐに見つめていく。

「…あんた、本当にこの状況が判っていないみたいだな…。少しぐらい、しおらしい
態度の一つでもしたら…どうなの?」

「お、こと…わり、だ…! お前に、気持ちまで…屈して、やる…もの、か…!」

 すでに克哉の身体は、ずっと続く原因不明の消耗と…太一が盛った薬の効能に
よって…満足に動かせる状態などではなかった。
 それでも気力で痺れる身体を動かし、言葉を紡いでいく。

「へえ…ほんっと、あんたって強情だよね…。その強がりが…どこまで持つか…
試させてもらうよ…」

 ―あの人と同じ顔と声をしている癖に、可愛げがない態度ばかりを取る…
眼鏡に、本気で太一は苛立ちを覚えていた。
 拘束した相手をシーツの上で四つんばいにさせて…シャツを剥いで剥き出しに
なった胸肌を…背後から両手を使って摘まんでいく。

「くっ…」

「少しぐらい…色っぽい声、出したら…? せっかく…俺が、あんたがしてくれたように
…してやろうって思っているんだから…さ…?」

 酷薄な笑みを浮かべながら、太一は眼鏡の耳朶を甘噛みして…熱い吐息を耳奥へと
吹き込んでいく。
 胸の突起を執拗に弄られると、反射のせいだろうか。
 瞬く間に硬く張り詰めて…相手の指を押し返していく。

「へえ…嫌そうな顔している癖に、もう反応しているじゃん…。俺の指をこんなに
強く弾き返しているぜ…?」

「や、め…ろっ…!」

 口を必死に食いしばって、甘い声など漏らすまいと…必死の想いで抵抗を
続けていく。
 だが…そんな克哉の口の中に片手を突っ込んでいくと…歯列や舌を指先で
弄び始めていく。

 口腔をまさぐられる嫌悪感と紙一重の怪しい感覚に…克哉は歯を立てて
噛み付く事で反抗の意思を示そうとした。
 だが…自由の効かない身体では、その噛み付く力すらも…普段より遥かに
弱々しいものとなってしまっていた。

(…このまま、ヤラれて…堪るかっ…!)

 基本的に自分は、相手を抱く方が性分に合っているのだ。
 なのに…こちらが太一ごときに良いようにされて犯される羽目になるなど
冗談ではないと思った。
 力の入らない顎に、どうにか力を込めて…やっと歯型がうっすらとつけられた。
 それぐらいともなれば、相手も痛みを感じるらしい。
 口から指を引き抜いていくと…憎々しげに言葉を吐いていった。

「…っ! へえ…? そこまで俺に逆らうんだ…? それなら…お仕置きして、
今の自分の立場って奴を思い知らせてあげるよ…っ! 克哉さん…っ!」

 ふいに太一に、下着ごとズボンを引き摺り下ろされてぎょっとなった。
 克哉の日に焼けていない白い臀部と太股が、蛍光灯の光に照らされて露出
させられていく。
 ふいに…まだ柔らかさを残している茎を握り込まれてぎょっとなった。

「…よ、せっ…! やめ、ろ…っ!」

「俺の時は、幾ら止めてって言っても…あんたは止める気配なんてカケラも
見せなかっただろ…? こういうの、自業自得っていうんだよ。知ってた…?」

 その時の太一の表情は…普段の人懐こい彼の態度と笑顔を知っている人間
なら一瞬我が目を疑うぐらいに冷酷なものだった。
 相手の首筋に色濃く、何度も口付けていく。
 その度に眼鏡の身体は反射的に震えるが…その身体の硬さから…決して彼は
この行為を受容していない事を思い知らされる。
 背中から、肩甲骨…首の付け根から肩口に至るまで…何度も何度も、執拗な
くらいに赤い痕を刻み込み…所有の証をつけていく。

(こんな事で…克哉さんが手に入る訳じゃないって…判っているけれど…)

 それでも、他の誰かに取られたくない。
 己の中にメラメラと燃える、その感情だけは紛れもなく真実のものだった。
 どちらの克哉でも、他の誰かと…キスしていたり、抱き合っている姿など見たくない。
 数日前にそれを自覚させられたばかりだ。だが…。

(この腕の中にいるのか…俺の大好きな方の克哉さん、だったら…?)

 ふと…相手を無理やり縛りつけながら、犯そうとする自分に疑問を覚えた。
 もし、自分の良く知っている…穏やかで優しく笑う克哉が目の前にいたのなら…
自分はきっとどこまでも優しくする。
 あんな事をされた事も水に流せる。
 …そして、恐らく自分はどこまでも…相手を慈しむように触れて、抱いて…。

「…お前、一体…何を、考え…て、いる…?」

 その想いが過ぎった瞬間、相手を扱く手は止まってしまっていた。
 そして部屋中に、眼鏡の掠れた低い問いかけが響いていく。
 薬に侵されて、指一本動かすのも辛いであろう状況下で…それでも男は必死に
こちらを振り向き、気丈な眼差しで見つめていく。
 ―蒼い双眸には、強い怒りの感情が瞬いていた。

(見透かされている…?)

 射抜くような清冽な視線に、一瞬太一の方が呑まれていく。
 身体の自由を奪われる薬を飲まされ、両手を拘束されて…ベッドの上で獣のように
四つんばいにさせられた状態でも、決して…眼鏡は屈する意思を見せなかった。
 確かに…この男への想いを、自覚はさせられた。
 だが…その気持ちと、不当な行為に対しての憤りは彼の中では別だった。

 確かにこれは…彼に以前行った行いに対しての反撃なのかも知れない。
 しかし…大人しく、ヤラれてやる気持ちなど毛頭なかった。
 例え、犯される現実がこの状況では覆せないとしても気持ちだけは負けてなるものか!
 そんな強い想いが、その眼差しには…はっきりと込められていたのだ。
 …そのような眼鏡の態度が、余計に太一を苛立たせる結果となっていたのだが…。

「…お前、もし、かして…もう一人の<オレ>の事、を…考えて、いた、んじゃ…
ない、のか…?」

 図星を突かれた瞬間、こちらの心臓が凍りつくかと思った。
 相手の弱い場所を探ろうとする不埒な手が、思わず止まっていく。
 その動揺を悟られたのだろう…。
 追い上げられて、息を乱しつつも…男の目はどこまでも冷徹にこちらを見上げて
―嫣然と微笑んでいく。

「ひ、どい…男、だ…。こ、うして…俺に触れて、おきながら…別の、奴の…事を
…考えて、いる…なんて、な…」

「違う! どっちも…同じ、あんた…だろうっ!」

 ―気づけば、形成は逆転されていた。
 手を止めた瞬間に、眼鏡は相手の意図を察したのだろう。
 絶体絶命とも言えるこの状況下で…屈するのを良しとしない心意気が…相手の
弱点を正確に見出し、的確に指摘させている。

 身体の自由は最早、効かない。
 最初は全力を振り絞れば、抵抗が出来たが…薬の効能が全身に及んでしまっている
今は…頭と目と口先ぐらいしか、克哉の自由に出来る場所は存在しなかった。
 だから男は容赦せずに続ける。
 相手を論破して打ち負かす唯一の綻びを見逃さずに…!

「…ほ、う…? お前が…以前に、言ったんじゃ…ない、のか…? 『違う、こんなの
克哉さんじゃない! あんた一体誰なんだよ…!』って、な…」

「そ、それは…!」

 克哉は一言一句、間違う事なく…正確に以前に自分が太一を犯した時に
彼自身がのたまった台詞を口に上らせていく。
 太一の表情に…動揺が走っていく。
 そのまま…思いっきり相手の方に口を寄せて…噛み付くように口付けてやった。

「っ…!」

 うめき声を漏らしたのは太一の方だった。
 口の端から血の味が、口腔中に滲んで広がっていった。
 声の振動が伝わるぐらいの至近距離で…男は絶望的な言葉を囁いていった。

『俺は…佐伯克哉、だ…。いい加減…その、現実を…認め、ろ…!』

「嘘だっ!」

 咄嗟に、太一は叫んでしまっていた。
 男が告げた残酷な現実を否定するように。
 自分の中にくっきりと今も浮かび上がる…愛しい人の面影を打ち消されないように…
瞳から涙を浮かばせながら、キッと強い眼差しで睨み上げていった。

 その瞬間…自分の本心はどこにあるんだろうか…と太一はつい自問してしまっていた。
 佐伯克哉という人間を愛しいのか、憎んでいるのか。
 相手を抱きたいのか、痛めつけて思い知らせてやりたいのか。
 果たして好きなのか…嫌いなのか、どちらなのか…一瞬、判らなくなった。

 思考回路が支離滅裂になる。
 自分の感情が、思考が…全てがグチャグチャになって、本心がどこにあるのか…
自分ですら判らなくなっていた。
 一つ、確かなことは…自分は、もう一人の克哉の事を行為の最中に思い出した事で…
相手に付け入る隙を生み出してしまったという事だった。

「あんたなんて…俺の克哉さんじゃない!!」

 彼の唇から泣きながら…目の前の男を否定する言葉が残酷に放たれていく。
 その瞬間…彼は優位に笑っているように見えて、実際は深く心を痛めている事など…
強すぎる想い故に盲目になっている彼には気づく筈がない。

「太、一…」

「…っ?」

 そう呼び掛けた声音は一瞬、自分が良く知っている克哉の方の声に似ている気がした。
 おかげで余計に訳が判らなくなる。
 次の瞬間、目の前の男から感情の色が消えていく。
 そして無機質な声で、問いかけられた。

 ―オマエガアイスルカツヤハ、イッタイドチラナンダ…?

 それは作り物の、合成ボイスか何かだと疑うくらいに…感情が込められていない声音。
 太一はその声に呆然となっていた。
 だが残酷な問いかけは更に続けられていく。
 
 ―オマエハ、ドチラノカツヤニ…イキノコッテホシインダ…?

 先程までこちらを射殺せる程に強かった眼差しに、混沌が宿っていく。
 優しさと猛々しさ、両方が入り混じった不思議な色合いの眼差しが…太一を、どこか
虚ろに見つめていく。
 余計に彼は唖然となり…彼の態度の豹変振りに付いていけなくなっていた。

「あんた、は…一体…何、を…!」

―コタエロ

 それは、冷然と言い放ち…太一に答えを求めてきた。
 その瞬間…克哉の目はガラス玉のように澄み切り、整った顔立ちはまるで人形のように
無表情へと変わっていく。

―ホカナラヌオマエガ…コタエロ!
 
 抗う事すら出来ない程、強い強制権を持って…男は太一に命じていく。
 自分は一体、何を抱こうとしていたのだ?
 先程まで感じていた憎しみ、憤怒、嫌悪、嫉妬、黒い感情の全てが吹き飛ばされる
ぐらいに驚愕し、目の前の非現実な光景に呆気に取られていく。

 拘束して、薬を盛って…それが卑怯な手段であった事など百も承知だった。
 なのにどうして…このような流れとなり、事態となるのかが…理解出来ない。
 初めて眼鏡を掛けた克哉と会った時と同じだ。
 あの穏やかで優しい人の中に…果たしてどれくらいの顔が存在して、こちらを
驚かせれば気が済むのだろうか…。

(今の克哉さん…怖い! 何か…鬼気迫るものすら…感じるっ!)

 先程まで痛いぐらいにジーンズの下で張り詰めていた欲望は…克哉の態度が
豹変したのと同時にすっかり萎えてしまっていた。
 おかげで頭の血がすっかり下がり…呼吸と心拍数も、普段の状態になっていく。
 怖かった。心臓が凍り付いてしまうかと思った。
 だが…相手の問いかけに真っ先に浮かぶのは…やはり、穏やかに儚げに笑う…
克哉の方だった。
 だから太一は答えていく。
 恐怖を覚えながらも…真っ直ぐ相手の目を見つめて、声高に叫んでいく…!

―俺が…愛しているのは……の、克哉さん、の…方だっ!

 そう叫んだ瞬間、能面のようだった相手の顔が…ぐにゃりと奇妙な感じで
歪んだような気がした。
 それは今にも泣きそうな顔にも…満面の笑顔を浮かべているようにも、どちらとも
解釈出来るような…不思議な表情だったからだ。
 次の瞬間、膝を突いて半ば上半身を浮かせ気味だった克哉の身体が…支えを
失ったかのようにいきなりベッドシーツの上に倒れこんでいく。

「克哉さんっ!」

 その様子が余りに唐突だったので、慌てて太一は…何も考えずに克哉の傍へ向かい
身体を起こしに掛かっていく。
 肩に手を掛けて…その顔を覗き込んでいくと。

「えっ…?」

 其処に浮かんでいた彼の表情を見て、太一は呆然となった。
 それはあまりに…予想もしていなかったものであったから。
 そのまま…克哉の顔を凝視しながら…青年は暫し、その場で固まり…その全身を
忙しなく震わせ続けていた―

 




『NO ICON』   「三人称視点」

 ―それは秋紀が克哉の病室を訪ねる少し前の事だった。

 一日、殆ど眠りながら病室で過ごしていた克哉を目覚めさせたのは…太一専用の
メールの着信音だった。
 電話の音でも、メールの着信音でも…彼だけがその曲を使用されているので
聞けば一発で、太一から来たものと判ってしまうのだ。
 そのメールの本文には、簡潔にこう記されていた。

 ―この近くにあるセントラルホテル 1017号室で待っている。 太一より

 その短い一文を見て…暫く考えた末に、眼鏡は…身体を起こして、やや覚束ない
足取りで病室を抜け出し…ここから徒歩十分以内の圏内にある…セントラル
ホテルへと足を向けたのだった。
 丁度克哉の病室から見えるこのホテルは、都内の夜景を一望出来るスポットと
して有名であり…タクシーや、この周辺の道行く人に尋ねても大抵は皆、知っている
くらいである。
 
 ホテルのロビーに辿り着けば、「五十嵐の連れだ」と係の人間に告げて…
1017号室への行き方を説明して貰う。
 エレベーターで十階まで向かい、扉を出て右側の通路を進んでいけばすぐに
見つかると教えて貰い、人前に出ている間だけでも…気力を振り絞って、シャンと
した足取りで向かっていた。
 
(かなり…身体がキツイ、な…)

 克哉の消耗は、昨日…唐突に太一と顔を合わせた時から一気に進んでいた。
 久しぶりに顔を見ただけで…暫く大人しかったもう一人の自分がざわめき始めて…
それから、体中から力が抜ける感覚が抜けてくれなかった。
 だが、それでも…黒服の男たちに囲まれた時点ではどうにか、こちらからも応戦して
辛うじて逃げる事が出来たが…今の自分が襲われでもしたら、とても太刀打ち出来なく
なっている事だろう。
 その事実に気づいて…克哉は目的のフロアに降り立った時…つい苦笑してしまっていた。

(こんな様で…あいつと顔を合わす羽目になるとはな…)

 いっそ、ここから引き返してしまおうか…という想いが一瞬過ぎったが…明朝に…
自分の本心に気づいてしまったせいだろうか。
 …厄介な事に、太一からのメールを無視する事が出来なくなってしまっていた。
 こちらの無様な姿を見て、果たしてどんな反応をするのか…歯噛みしたくなったが
廊下を歩いている間に、気持ちを整えて…平静を取り繕っていった。
 程なくして、1017号室は見つかった。
 扉の上部を何度かノックして、外からそっと声を掛けていく。

「俺だ…太一。開けろ」

 限りなく横柄とも言える態度で声を掛けていくと、すぐにカチャという開錠する音が
聞こえて内側からドアが開かれていった。

「…どうぞ」

 隙間から覗く太一の顔は、相変わらずどこか…不機嫌そうだった。
 笑顔で歓迎される事など端から諦めていたので…今更傷つくこともなかったが…
人を呼びつけておいてその態度をされるのはやはり不快だった。

「入るぞ」

 こちらも短くそう答えて、室内に入り込んでいく。
 二人して部屋の中心に移動して…面を向かって対峙していく。
 その瞬間から室内中に息が詰まるような緊張感が漂い始める。
 両者とも、瞳の奥に剣呑な光を宿しながら睨み合っていく。
 先にその沈黙を破ったのは…太一の方からだった。

「そろそろ…来る頃だと思った。このホテル、克哉さんがいた病院からそんなに
遠くないし…多分、迷わずに来れるだろうと踏んでいたから」

「あぁ…一応、ここは病室から見えるからな。…それで、どうしてこんな処に
俺を呼び出した? また…俺に可愛がって欲しいのか…?」

 不遜な態度でこちらがそう挑発していくと…一瞬、太一の顔に…怒りのような
ものが滲み始めていく。
 だが…そっぽを向いて、こちらから背を向けていくと…ミニキッチンを使用して
淹れておいたコーヒーの入ったマグカップをこちらに手渡していく。

「…そんな訳、ないだろ…っ! はい…コーヒー。多分長い話になるだろうから…
飲んでおいてっ!」

 そういって、太一から…コーヒーを受け取っていった。
 珈琲特有の濃厚な香りが鼻を突いていく。
 …それで思い出す。そういえば太一は…喫茶店ロイドのアルバイトをやっていた事を。
 
(そういえばあいつと…太一は、あの喫茶店で知り合ったんだったな…)

 ふと、そんな事を考えながら…黒い水面に視線を向けていく。
 その瞬間…何故か違和感を覚えた。
 太一の顔が、酷くこわばっているにも関わらず…ぎこちなく笑顔を浮かべようとして
いたからだ。

(何を企んでいる…?)

 暫く顔を合わす事も、言葉を交わす事もなかったせいで…ここ最近に関しての
相手の情報を克哉は殆ど持っていなかった。
 おかげで、相手の意図がまったく読む事が出来ない。
 だが…躊躇いながらコーヒーに一口、口をつけた瞬間に…自分が覚えていた
違和感の正体にやっと気づいていく。

―何故、こいつは俺があの病院に入っていた事を知っていたんだ…?

 昨晩、意識不明状態になってから…ついさっきまで、克哉の意識は途切れ途切れに
なっていて…誰にも連絡など取る事が出来なかった。
 それなのに、来た早々に「そろそろ来る頃だと~」と太一は言っていた。
 このホテルを選んだことからして、最初から…克哉があの病院に入っている事を
事前に知っていなければ辻褄が合わないのだ。

「…なあ、どうして…お前は俺があの病院に入っていた事を…知っていたんだ?」

 相手を鋭い眼光で睨み付けながらそう問いかけていくと…太一の表情も、作り笑いから
一変して…強い憤りを宿した顔へと豹変していく。

「…本多さんから連絡があったんだよ。それで俺も…大急ぎで駆けつけただけだよ」

「嘘だな」

 太一の返答に、克哉は確信を持って一刀両断するように否定していく。

「…俺は昨日から今日に掛けて、誰にも…自分から連絡して、あの病院に入っていた
事など…連絡していない。だからおかしいんだ…。どうしてお前が、あそこに俺がいる事を
知っているんだ…?」

「誰にも…? へえ…それなら、アイツは何? 克哉さんの病室に朝方に堂々と居座って
いた奴。…どうして、俺にも本多さんにも連絡がなかった癖に…他の人間が、克哉さんの
病室に…あんな時間帯にいた訳? しかも…やらしい事をしながらさ…!」

「…っ!」

 太一の一言を聞いた時、克哉の方が驚愕してしまった。
 今、太一が言った言葉は…紛れもなく秋紀がいた時の情景をそのまま口にしていたからだ。
 それで符号が一致する。
 今朝方、扉を叩きつけられるような音で…行為は中断されてしまった。
 …その音を立てた犯人は、恐らく太一だと克哉は確信しながら言葉を続けていった。

「見ていたのか…お前。人のお楽しみを…邪魔するのはヤボじゃないのか…?」

「…てめえっ! 人を無理やり犯しておきながら…あっさりと…他の奴を平気で抱いたり
するのかよっ…! ほんっと、あんたって最低だなっ!」

「昨日は抱いてないぞ…。どっかの誰かさんが、思いっきり邪魔をしてくれたからな…」

 平然とした顔で言葉を続けていく克哉に、太一の方はペースを乱されまくっていく。
 相手からの容赦ない言葉がぶつけられる度に、青年の胸には…グルグルと怒りのような
感情が湧き上がっていった。
 相手がドンドン、憤っていく姿が愉快で…優位に立っているのは自分だと、眼鏡は油断して
しまっていた。
 だから…最初は警戒していたコーヒーにも、話が進む間に…喉がカラカラだった為に…
つい口に流し込んでしまっていたのだ。

 怒りの感情を瞳に浮かべながら、太一は…憎々しげに克哉を見遣っていく。
 …克哉は、それで良いと思った。
 もう一人の自分を前にしたように…決して笑ってくれないのならば。
 それなら…いっそ憎まれて、嫌われたりした方が…諦めがついて楽だったからだ。
 だから、言葉が止まらない。
 勢い良く、彼を挑発し…怒られる類の言語ばかりが口を突いて飛び出し続けていた。

「…あんな光景を目の当たりにして、俺が冷静でいられると…本当にあんたは
思っている訳?」

「…そちらこそ、俺を怒る権利などないだろうに…。別に俺とお前は、付き合っている訳でも
正式な恋人同士でも何でもない。俺が誰と寝ようと…恋愛しようと、太一…お前にこちらを
咎める権利などない筈だが…?」

 心の底から愛しいと思っている存在と同じ顔と声で…こんな事を言われて
傷つかない人間などいないだろう。
 冷たくそう言い放たれると同時に…太一は泣きそうな顔になっていく。

「…あんたが、それを…俺に、言う訳…?」

 呆然としたような、今にも涙を零しそうな…そんな危うい表情で太一が呟く。
 それを眼鏡は…冷然と肯定する。

「あぁ…そうだが?」

 そう、眼鏡が返した瞬間…唐突に頭が真っ白になるような…身体中の
力が一気に抜けていくような感覚が襲い掛かってきた。
 一気に背筋から凍るような悪寒がしたかと思えば…暫くすると、脊髄の
辺りからジワジワジワ…と妙な熱が競りあがってくる。
 その感覚に、目を見開いていく。

「…な、んだ…これ、は…っ!」

 いきなり、克哉が床に膝をつくような格好でその場に崩れていく。
 その身体を…太一は、不適な表情を浮かべながら…支えていった。

「…やっと、薬が…効いて来たみたいだね…」

 眼鏡が優位だった空気が、一気に形勢逆転していく。
 その時の太一の表情を見て…克哉はぎょっとなった。
 こんなに冷たく…獰猛な顔を浮かべている彼など、今までに一度も見た事が
なかったからだ。

「最初…克哉さんが警戒してコーヒーを飲んでくれなかった時には…正直
ヒヤヒヤしたけど…自分が優位になったと確信したら、やっぱり油断した
みたいだね…。そこら辺の読みは、俺の勝ちだったかな…」

「き、さま…!」

 その一言を聞いて、克哉は本気で苦渋の表情を浮かべていく。
 …万全の体制ならば、それくらいの事を予測出来た筈だったのだ。
 だが…今の自分の詰めの甘さが、この事態を招いた事に気づいて…
悔しがったが、もうすでに…遅かった。

「…さあ、これからは…俺があんたをお仕置きしてやるよ。かつて…あんたが
俺にしたようにね…っ!」

 そう克哉に向かって告げた太一の表情は、恐ろしいまでに冷たく…
猛々しいものだった。
 そんな彼に…気持ちだけでも負けるまい、と。
 眼鏡は…強い眼差しで相手を睨み付けていたのだった―
 
 
 
 
「須原秋紀」


 須原秋紀は今夜も遅い時間帯に、克哉が今…入院している病院へと
向かっていった。
 駅から歩いて夜のオフィス街を早足で抜けて、幾つかの横断歩道を
歩いて…危なっかしげに病院へ続く道筋を辿っていた。
 
(…昨晩は、何か…凄い慌しい一日だったなぁ…)

 病院に向かう途中、公園で傷だらけの克哉に再会してからの事が…
一気に回想されていった。
 あの時、克哉は意識が朦朧としていて…すでに苦しそうだった。
 それから公園を勢い良く飛び出した時に、いかにもエリートサラリーマンと言った
風に男の車に撥ねられそうになり…そのまま、なし崩し的に病院に克哉共々…
車で搬送して貰う事になった。

 御堂、と名乗った男は…そのまま、公園から程近い…以前に一ヶ月ほど克哉が
昏睡状態になっていた時に入院していた病院に自分たちを搬送してくれた。
 彼の昏睡状態に関しては原因不明だったが、以前に怪我した時も同様の理由で…
一ヶ月程眠り続けていた事から、すぐに入院して再検査する事が決定し…御堂が全て
その代わりの手続きを受け持ってくれていた。

 普通なら家族がやるべき事だが、以前の入院の際に…克哉の家族は他県に住んでいる
事は病院の人間も知っていた事だったので、最低限の手続きは彼が代行したのだ。
 一見派手に見えた傷も…命に別状はないらしく、腹部の裂傷も今は完全に塞がっているので
外傷によって死に至る可能性は低い…との診断結果だけは、秋紀を安堵させてくれた。
 御堂はその後、自分を車で送ってくれると申し出てくれたが…それを断り、ひっそりと
病院内に隠れて…頃合を見計らって、克哉の病室へと忍び込んだのだ。
 
 それから秋紀は…途中、うつらうつらしながらも…ずっと傍らに居て、彼の手を
握り締めていたのだ。
 眠っている克哉は、意識がないながらも…魘されていたようで…酷く苦しそうだった。
 自分に何が出来るって訳ではなかった。
 それでも…悪い夢から醒めて欲しい一心でずっと強く…手を握り続けていたら、
夜明け頃に…あの人の目が見開かれて、自分は…本当に嬉しかったのだ。

 この気持ちは…以前に一夜、抱かれた時には気づかなかった。
 けど…あの刺されたというニュースを聞かされて、ずっとやきもきして…どうしているのか
不安でしょうがない日々を送り続けて…やっと、克哉と言葉を交わせた瞬間に…自覚
せざるを得なかった。
 …あぁ、自分はこんなに…この人が好きだったのだと。
 自然と涙を溢れさせながら…気づかされたのだ。

 克哉に引き寄せられて、キスされた時…秋紀は至福の心持ちだった。
 幸せな気持ちに浸っていた自分と違って、触れている時の克哉の表情も…暗かったので
はっきりとは判らなかったけれど…苦しそうな、切なそうな顔をしていて。
 少しでも…楽にしたいと思った。
 だから…克哉が望むなら好きにして構わない、などと…そんな殊勝な想いを抱きながら…
身を委ねていた時に、扉が大きく鳴り響いて…ナースが駆けつけてくる気配を感じた為に
行為は中断されてしまった。
 その為に…秋紀は身を隠してやり過ごした後、全力で病院を抜け出さなくてはいけなく
なり…一旦、家に戻ったのだ。

 家に戻ったら、克哉が心配で…ずっと気を張り詰めながら殆ど寝ていなかったのが
いけなかったのだろう。
 泥のように深く眠って、気づいたら一日が終わってしまっていた。

 だから本音を言うと…せっかく土曜日で学校が休みだったのだから…もっと早くに
克哉のお見舞いに行きたかったのだが…身体の疲労だけはどうしようもなかった。
 以前から、克哉が生きているのか…いないのか。
 それすらも判っていなくてずっと不安を抱き続けていた…という精神的な疲れも
あったせいで…やっと会えた事で、少年も安堵して久しぶりに深く眠る事が出来たのも
理由に入っていた。

(あぁ…でも、克哉さんが生きている事だけでも…判って、良かった…)

 そう、それだけは心から秋紀は喜んでいた。
 もう二度と会えない事を思えば…顔を見れただけで十分であり。
 ただお見舞いに行くだけの事で自分の心はこんなに弾んでいる。
 後は…ほんの少しでも良い。
 あの人の苦しみとか、切なさを…少しでも自分が緩和出来れば、もっと良いのだろうけど…。

 そんな事を考えている内に、秋紀は病院にたどり着いて…裏口のスロープから、侵入
し始めていく。
 其処が奇しくも、昨日…自分たちの邪魔をしてくれた人物の侵入経路でもあった事は
秋紀自身はまったく知らなかった。
 三階まで上り、プレートを確認してから…音を極力立てないように慎重に扉を開閉して、
部屋の中に滑り込んでいくと…小声で秋紀は呼び掛けていく。

「克哉さん…来ました。今夜の体調はどうですか…?」

 だが、部屋に入った時…部屋の明かりは点けられていなかった。
 最初は単純に、すでに21時を迎えているから…就寝でもしているのかな、と思って
あまり気にしていなかったが…少し目を凝らして、秋紀は呆然となった。

「えっ…?」

 目が暗闇に慣れてくると、ベッドの上には誰もいない事に気づいた。
 …おかしい、と思った。
 克哉は今日は検査だと言っていたし…部屋の外にプレートがあるのなら、絶対に
この時間にはベッドにいる筈なのだ。
 それなのに、影も形もなかった。
 布団を捲り上げて、シーツの上にも手を這わせてみたが…其処には克哉の温もりすらも
残されていなかった。

「克哉さん…こんな時間に、どこへ…?」

 怪訝に思いながら、部屋中に視線を巡らせていく。
 花とか、そういう物は室内に残されていたが…彼の痕跡らしきものはこの部屋に
『何も』残されていない。
 病室のクローゼットにも、病院指定のパジャマは残っていたが…昨日彼が身に纏って
いたスーツの類は、すでに消えてしまっていた。

「…スーツも、何もかもがない…! どこに、行っちゃたんだよ…! せっかく…
貴方に、会えたのに…」

 克哉にやっと再会出来た。
 今夜も顔を合わせられる。
 傍にいられる。

 そんな少年のささやかな願いは無残にも打ち下されて、姿を消してしまった克哉が
どこにいるのか…秋紀には皆目見当がつかなかった。

「克哉、さんっ…!」

 声を殺しながら、少年は冷たいリノリウムの床の上に…膝を付いて泣き崩れていく。
 やっと会えた愛しい人は…また、自分の手をすり抜けて…姿を消してしまった。
 その現実に、秋紀は呆然となり。
 それでも…彼の胸の中に灯っている思いは…消える事なく、一層激しく…ただ一人だけを
強く求めていたのだった―
『第三十二話 冷酷な衝動』 「五十嵐太一」


 ―克哉の事件が起こる少し前、彼はささやかな贈り物をしていた。
 それは営業の成績が良くなるように…と願いを込めた緑の石が嵌められた携帯のストラップ
だったけれど…それが実はGPSで探知が可能だった発信機だった事を恐らく克哉は
気づいていないだろう。

 …自分が同性の克哉に対して、本気になっていた事を自覚した時…自分の実家の
ゴタゴタに万が一彼が巻き込まれてしまった時の保険として渡しておいた物だった。
 不本意ながら、男孫が自分一人しかいない為に…五十嵐組の後継者の筆頭に
祭り上げられた太一の身辺は、実家にいる間…お世辞にも穏やかとは言えなかったからだ。
 …それがこんな形で役に立つなど、贈った時は予想もしていなかったけれど…。

(やっと…家を抜け出せた…)

 嘆息しながら、夜中の3時半くらいに本多の家をどうにか抜け出して…太一は
自分の携帯のGPS機能を開いていく。
 あれから、どうにか…追っ手を巻いて無事に二人で本多の家へと辿り着けたまでは
良かったが…元々人情に熱い(お節介とも言うが)本多は、必死になって…何故このように
なったのかを尋ねて来てこちらを心配して来たのだ。
 幸いにも、「若」と呼び掛けられた事は耳に届いていなかったみたいだから…どうにか適当な
事を言って言い逃れは出来たが、その間…生きた心地がしなかったのは事実だった。
 
 抜け出そうにも、心配され続けて…一旦、一緒に就寝するしかない状況に追い込まれたので
逸る気持ちを抑えてどうにか眠りにつき…目覚ましを使わないで先に起きて…そ~と抜け出して
やっと解放されたのである。

 夜の住宅街は静まり返り、足音一つでさえも響いてしまいそうなくらい静かだった。 
 それから…太一はGPSを頼りに、徒歩で目的地に向かっていく。
 …公共の交通機関周辺なら張られていても仕方ないが、こんな時間帯なら大手を振って
普通の道を歩いても問題ないだろう。
 それに、今は電車が動いていない時間帯なので…歩いて向かうしかなかった。
 おかげで…彼が一時間ほど歩いて目的地に辿り着いた時にはもうじき夜明けの頃を
迎えていた。

「…って、何でまた病院なんだよっ…! 克哉さん…もしかして、また怪我したのか…っ?」

 其処は、克哉が一ヶ月入院していた病院と同じ場所だった。
 だが…幸いな事に、以前に忍び込んだ事があるだけに…どこから入り込めば良いのか
熟知していた。
 以前と同じく…車椅子用の非常用スロープの処から中に入り、外傷を負った患者が
入院する三階のフロアへと降り立っていく。
 後は病室の前に患者のプレートが書かれている筈だから、それを確認して回っていけば
見つかる筈だ。そう思い、名前を確認していった。

「あった…以前と同じ、個室みたいだ…」

 4人部屋と違い、個室は…キチンと扉で区切られていた。
 まだ早朝である事を気遣って…そうっとドアノブに手を掛けて開いていくと…。

「えっ…?」

 そこで、信じられない光景に遭遇する羽目になった。

(何、これ…?)

 最初、それが現実である事を認識したくなかった。
 だが自分の目の前で…予想もしていなかった展開が繰り広げられて…呆然と
太一は立ち尽くす事になる。

『んっ…ぁ…克哉、さん…ダメ…』

 微かに空が宵闇から…太陽を覗かせて、青白く変わっていこうとしている頃。
 まだ月はギリギリ…空に浮かび、夜と朝の狭間の気配が色濃い…朝焼けの光景を
背景にして、ベッドの上には二人分のシルエットが重なり合って、小柄な影の人物の方が…
絶え絶えになりながら、甘い声を漏らしていく。
 
『ダメじゃないだろう…もう、こんなにしている癖に…』

 どうやら、もう一人の男の方は…服を捲り上げて胸の周辺を弄っている
らしい。硬くなった突起を弄り上げて、相手を煽り立てている。

(な、んで…克哉さんが病院にまたいるだけで…判らないっていうのに、どうして…
俺よりも先に、他の誰かがいるんだよっ…! しかも何で…そいつと、他の奴と
イチャついているんだよ…! 訳が、判らないっ…!)

 その光景を目の当たりにして…胸がバクバク、と憤りによって荒ぶっていく。
 この胸を焦がすのは嫉妬であり…怒り、だ。
 自分の吐息すらも、そのまま焼け付いて炎となってしまうのではないかと疑うくらいに…
青年は、頭に血を昇らせていた。

(ふざけるなよ…! どれだけ俺が…心配、していたと…!)

 昨日の夕方、声を上げて自分の前から姿を消した克哉をどれだけこちらが案じたと
思っているのか。組の人間に見つかって、彼が酷い目に遭っていないか…どれだけ
こちらが生きた心地をしていなかったのか…考えてもいないのだろう。
 なのに、幾ら眼鏡を掛けた方の克哉とはいえ…他の人間を連れ込んで、イチャついて
いる場面に踏み込む事になって、太一は本気で…怒りたくなった。
 同時に、嫌でも気づかされた。
 
 自分の愛しい克哉さんとコイツは違う存在だと。
 そう言い聞かせていたのに…この胸を焼け付かせるような感情は何だというのだ!
 嫌でも、思い知らされた。

『自分はどちらの克哉であっても、他の人間になど取られたくない!』

 そんな強烈な独占欲を…あちらの方の克哉にも抱いていた事を。
 同時に…頭がスウッと冷え込んで…冷酷な思考回路が生まれていく。
 他の人間とこれ以上、触れ合わせたくなどなかった。
 だから…思いっきり扉を壁に叩きつけて大きな音を立てると同時に…太一は
駆け出して身を隠した。

 バァァァァン!!

 その瞬間、静寂を湛えていたフロア中にその音が響き渡っていく。
 同時に不穏な空気を感じたのだろう。
 ナースステーションから看護士が一斉に慌てて飛び出して、一室一室を
見て回って、音の出所はどこなのかを確認し始めていく。
 
(これで…これ以上、アイツとイチャついている事なんて…出来なくなったよね…)

 それをいい気味だ、と思って愉快だった。
 そうやって誘導すれば、克哉の部屋に看護士が踏み込んで確認を取っていくのも
時間の問題だろう。
 そのまま太一は…非常口の方に駆け込んで、音を極力立てないように気をつけながら
素早くスロープを下っていく。
 
 頭の芯はどこまでも冷えている。
 …今までは、決して克哉の前では解放するまいと決めていた冷たい衝動。
 それを…もう、今の太一には抑える事など出来なくなってしまっていた。

(…俺の気持ちを、思い知らせてあげるよ…! あんたが俺に…してくれたようになっ…!)

 感情のタガが、今見た光景によってブチブチと壊れて外されていくのが判る。
 それでも…もう、歯止めなど効かなくなってしまっている。
 他の誰かにこのまま…眼鏡を掛けた方の克哉でも、取られる事など…自分には許せない!
 もうその…自分の奥深くの欲望に、衝動に…青年は気づいてしまったのだから。
 
 そうして彼は…その為の準備に奔走していく。
 どこにいても、克哉が携帯を手放さない限りは…自分は彼がどこにいるかは
追えるのだから…。
 己の本心に気づいたその時、彼の中にいた…『獣』は解放されたのだった―

 
『第三十一話 気づきたくなかった…』 「眼鏡克哉」

 彼は夜の病院の、病室のベッドの上で…目覚めた。
 すでに夜はかなり深くなり…もう30分もすれば夜明けを迎える頃。
 …誰かが自分の手をしっかりと握った状態で、ベッドの傍らでうとうととしている
ようだった。
 目覚めたばかりなのと…辺りが暗かったので最初はそれが「誰」なのか判らなかったが
声を掛けられてすぐに把握していく。

「克哉さん…良かった、目覚めて…っ!」

「…どうして、お前が…ここに…?」

 公園で倒れた筈の自分が、何故病院のベッドの上にいるのかも謎だったのに、
どうして…この少年が自分の手をそっと握って傍にいたのかが…余計に疑問だった。

「貴方が…心配だったからに決まっているでしょう…! あの御堂って人に今日は
帰れと言われたけれど…原因不明の昏睡状態だって、そう聞かされて…心配で
仕方なかった、から…」

 だから秋紀は、御堂と離れた後に…こっそりと病院内に潜んでおいて…それから
克哉が収容された病室に、病院関係者に見つからないように忍び込んだのだ。
 そうして、秋紀は…大粒の泪を臆面もなく零しながら安堵の表情を浮かべていく。
 こちらを握る手に一層力を込められていく。
 克哉は…その姿に困惑するしかなかった。
 自分にとって…この少年は気まぐれに抱いた一夜の相手以上の存在では
なかったからだ。

(そういえば…意識を失う直前…誰かと顔を合わせていたような記憶がおぼろげに
あるが…あれが、コイツ…だったのか…?)

 先程まで苦しみながら夢と現の狭間を彷徨っていた克哉は…お世辞にも状況を
理解しているとは程遠い状態だった。
 だが…こちらの状態はお構いなしに、金髪の少年は…ポロポロと涙を流して
克哉が目覚めた事を心から喜んでいた。

「どうして…俺の、傍に…ずっと、いたんだ…?」

「貴方が、好きだから…。克哉さんが…一ヵ月半前に刺されたってニュースを
知った時から…貴方が生きているのか、死んじゃったのか…不安でしょうがなくて。
せっかく会えたのに…刺された場所と同じ処でようやく会えたと思ったら…あんなに
ボロボロで傷だらけで、これで…心配するなって方が…無理、だよ…」

 秋紀の言葉はすでに支離滅裂に近い状態だった。
 だが…それでも、整理されていない話の内容と口調から…どれだけ深く…
この少年が自分を案じてくれていたか、伝わってくる。
 その気持ちが…自分の心の中に波紋のように広がり…ジワリ、と暖かい何かが
広がっていく。
 
「貴方が…起きてくれて、本当に…良かった…!」

 ぎゅっと強く、強く…少年は手を握り締めていきながら…咽び泣いていく。
 それは…こちらを想う強い気持ちに他ならなかった。
 その…少年の感情に触れた時に、克哉は今まで気づきたくなかった…己の本心に
嫌でも気づかされてしまっていた。

(あぁ…そうか、俺は…)

 一ヶ月間、昏睡状態に陥って…太一にキスされた時に目覚めた時。
 自分は…彼に「嘘だぁ―!」などと叫ばれたくなかったのだ。
 刺される直前まで、自分にとっては…太一は殆ど大した意味など持たなかった癖に。
 もう一人の自分があんなに繰り返し…彼との思い出を夢になど見るから…
あいつ側の記憶と感情が勝手に流れ出て…あの時には、もう…自分は彼に同じように
恋をしてしまっていたのだ。
 だから…あの太一が慟哭した瞬間、いつもと変わらない態度を貫いていたつもりだった。
 だが…あの瞬間から、彼は傷ついていたのだ。
 
 自分の部屋に居座っていた彼をにべもなく本多に押し付けたのも。
 それから二週間…まったく自分から接点を持たないようにしていたのも。
 …優柔不断で弱い方の自分だけを求められて、自分自身が拒否されるような態度を
太一に取られたくなかったからという…情けない理由を、この瞬間に…彼は思い知らされた。
 自分と、太一との間には…もう一人の自分のように暖かく優しい思い出など何一つだって
ないのに。
 顔を合わせた時に…ロクな対応をお互いしなかった癖に、それで…恋をしているなど
そんな事実、気づきたくなかった。知りたくなど…なかったのに…!

「克哉さん…どうしたの? 泣いて…いるの…?」

 秋紀に指摘されて、はっとなった。
 どうして…自分は、泣いているのだろうか。
 …こんな、事…情けない上に滑稽な事…この上ないというのに。
 涙は滂沱のように溢れて…止まってくれなかった。
 顔を背けて、少年にその顔を見られないようにしたが…すぐにフワリ、と暖かい感触に
包み込まれていく。
 
 知りたくない感情に気づかされて…心が軋み、悲鳴を上げている時にこの温もりは
反則に近かった。
 その時に思い知った。どれだけ自分の心が…冷えて、痛み続けていたのかを。

「…泣いてなんか、いない…」

「ん…判った。けど…僕が…傍にいるから…」

 否定した克哉の意図を察したのかそれ以上追求せずに…秋紀は必死の想いを込めて
彼の身体をぎゅっと抱きしめ続けていく。
 それに安堵している自分に、克哉は酷く苛立っていた。
 こうしていると…知りたくない気持ちに、更に気づかされそうで怖くて。
 胸の中に湧き上がる憤りの出口を見出したくて…。

 克哉は今度は自分から、少年の身体を強い力で引き寄せて…ゆっくりと顔を
寄せていったのだった―
 
 
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プロフィール
HN:
香坂
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女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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