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『直径一センチ以上の胃ガンが見つかりました。恐らく重度の
ヘビースモーカーである事と、アルコール度の高い酒の頻繁の
摂取。そして過剰なストレスに長い期間晒され続けていた事が
原因でしょう…。そして、残念ですが転移もすでに見受けられます。
…このまま治療して放置していたら、余命は長くて2年前後。
しかも…かなりの苦痛を伴います』
眼鏡は、神妙な表情を浮かべながら年配の医師が先日に
語った言葉を思い出していた。
太一のアパートを出てから、佐伯克哉は…裏の世界で展開している
事業の作業中に吐血していた。
…掌にはべったりと赤い血がついていた。
(ついに…ここまで血が出るようになったか…)
冷めた目で己の血を見つめていきながら…眼鏡は深々と溜息を
吐いていった。
若い内にガンが発生すれば、進行が早くて命を落とすケースも
多いというのは結構耳にしている。
だが…自分の身にそれが降りかかってくるとは、半年ぐらい前までは
まったく考えなかった。
「俺に残された時間は…そんなに、ないか…。未だに実感は
湧かんがな…」
もうこの一年ぐらい、胃の痛みを感じることなど日常茶飯事に
なってしまっていたから…慣れ切ってしまっていた。
今、目の前に自分の血がべったりとついていても…何の感慨も
湧きはしない。
他人事のように…酷く冷めた目で、それを見つめていた。
―いつの間にか、心も身体も麻痺してしまって…痛みというものに
酷く鈍くなってしまっていた
能面のように冷たい無表情。
心はいつの間にか氷のように凍り付いてしまっていた。
何をしても、やっても…心の底から楽しいと思うことも感情が
揺さぶられることもない。
人間はあまりに苦痛を与えられると、脳内麻薬を分泌したり
その痛みを感じないように完全にシャットアウトする機能がある。
今の眼鏡は…その繰り返しだ。
太一を苛め抜くように抱いている時だけ、快感を…鮮烈な何かを
感じていく。
その度に、もう一人の自分が「もう止めてくれ!」と叫び続けている。
張り裂けるような胸の痛みが、何も感じられなくなった自分が
知覚する事の出来る、唯一の痛みだった。
(俺は…どうして、あいつの傍にいるのか…? 何も感じなくなった
状態では…痛みや快楽を感じるのは、あいつの傍だけだからだ…。
一瞬の高揚、興奮。そして…苦くて辛い気持ち。それだけが…
生きている証のように…感じられるからだ…)
身体はいつしか、鉛のように思い通りに動かなくなっていた。
自分の肉体の筈なのに、まるで借り物のような感覚さえしてくる。
深く溜息を吐く。
本気で、苦い思いをしながら…胸元を押さえて、呼びかけていく。
―なあ、お前はいつまで…俺の中で苦しい、苦しいとだけ訴えて
何もしないでいるつもり…なんだ…
苛立ちを覚えながら、不甲斐ないもう一人の『オレ』へと声を
掛けていく。
だが、ピクリとも…反応もなければ、答えはない。
「駄目、か…」
幾ら呼びかけても、眼鏡が一人でいる状態ではもう一人の自分の
気配は絶対に感じられない。
だが、太一のいる時だけは…時折、その気配を感じる。
しかし皮肉にも…僅かに波を立ててもう一人の『オレ』と繋がっている
時に限って、太一は自分を否定する言葉ばかりを吐いていく。
呪う言葉、嫌悪の言葉、拒絶、否定…罵声、悪態…それらの言葉を
『眼鏡』に吐いていくと同時に、『克哉』をも傷つけていく。
「…このままだと、お前は何も言わずに消えることになるぞ…。
それでも良いのか…? 大した負け犬根性だな…。自分が
惚れた男を俺に陵辱され続けても、何も行動しないままで
いるつもりか…?」
挑発する言葉を吐いても、やはり反応がない。
眼鏡が太一を抱くもう一つの理由。
それは…その時だけ、コイツの存在をくっきりと強く
感じる瞬間があるからだ。
…コイツの存在は、今となっては精神の方のガンのようなものだ。
意識の底に沈んで、普段はまったく存在感など感じない癖に…
意識の深い処では泣き続けて、苦しみもがいている。
天の岩戸のように深く心を閉ざしている癖に、その毒素は次第に
強まっていき…そして、ついには肉体的にも『ガン』という結果を
与えることとなった。
けれどほんの僅かな時間。
もう一人のコイツと意識が繋がると、繰り返し聞こえ続ける言葉が
存在していた。
―ごめんなさい、ごめんなさい…!
ただ、克哉は…謝り続ける。
虚しく、すでに誰に向けられているのか判らない謝罪の言葉を
壊れたスピーカーのように流し続けていく。
まともな単語は、すでに紡ぐ能力すら失われてしまっているの
かも知れない。
最愛の人間を傷つけてしまった。
その罪の意識が、克哉を雁字搦めにして目を曇らせ…そして
深層意識という深い処にある檻の中で…自らを閉じ込め続ける。
「…いい加減に、しろ…!」
苛立ち混じりに叫んでいくが、相手と儚く繋がっていたものが…
プツリ、と途切れる形で終わっていった。
「…何で、ただ俺の中で泣き続けて何もしようとしない奴に…身体まで
蝕まれなければならないんだ…! くそっ!」
近くにあった灰皿を思わず手に取り、窓に向かって勢い良く投げつけていった。
手にべったりと付いていた血がガラス製の灰皿に付着し、それが
ガシャッ!!
普通の窓ガラスに命中したものだから…大きくひび割れていった。
幸い、厚目の窓ガラスを用いてあったから大穴は空けずに
済んでいた。だが…やり切れなさだけは、確かに感じていた。
「…いつまで、お前らに俺は振り回されていなければならないんだ…?」
腹にモヤモヤしたものを感じながら、怒気を込めて呟いていく。
「…お前らが過ごした期間より、俺と過ごしている時間の方がずっと
長いはずなのに…どうして、あいつの目は決して俺を見ようとしないんだ…?
お前の影だけを見て、俺という存在は素通りか…否定されるかのどちらかだ!
どうして…一年以上も前に力をなくして消えて、ただ俺の中で泣き続けて
いるお前の存在だけが求められる!?
こんな不毛な関係…もうゴメンだ!」
そう、眼鏡の心は随分前から何も感じなくなってしまっていた。
しかし…ただ二つ、例外がある。
太一と、克哉に関係する事だけは痛みを、怒りを、悲しみを、憤りを…
様々な感情を実感する事が出来るのだ。
他者の前で感情を吐露できない男は…一人きりで、己の手を鮮血で
染め上げていきながら、本心を爆発させていく。
―訴えかけているのはもう一人の自分
けれど、決して応えられることはない。
耳と目を閉ざし、ただ自分だけを守り続ける。
…自分の心だけをどうやって、消え去れば良いのか…そんな
後ろ向きな気持ちだけを胸に抱いて…
「応えろよ! なあ…!」
そうして、眼鏡は再び激しく、何度も咳き込んでいく。
…床には、目を覆いたくなる程の細かい血飛沫の痕が
きっかりと付着していた。
「…お前達二人の恋愛に、振り回されるのはもう…ゴメンだ…」
そう力なく呟きながら、眼鏡はフローリングの床の上に倒れていく。
汚れが全身につくから、出来れば床を拭った後で倒れこみたかったが
今はそんな事に拘っている暇はなかった。
「もう…疲れ、た…」
最後に、彼自身も無気力に…人形のようになりながらそっと
一人…孤独に自分のアパートの床の上に倒れこんでいく。
―何もかもがどうでも良い…
太一と同じように、やけっぱちになりながらそう呟いて…眼鏡も
意識を手放していく。
余命二年で、果たして自分に何が出来るのか。
これから先のことを考えた方が良いとは理性の上で判っている。
けれど…今は、手元にあった火を吹きそうになるぐらいに強い酒を
そのままラッパ飲みしていきながら…泥のように眠った。
―悪夢など、もう一人の自分の声など決して聞こえないぐらいの深い処へ
ただ一人…自分の部屋の安物のベッドの上で…青白く、疲弊した
表情を浮かべながら…静かに眠りの淵へと落ちていったのだった―
ED№29「望まれない結末」を前提に書いているので
眼鏡×太一要素も含まれております。暗くてシリアスなお話なので
苦手な方はご注意下さいませ(ペコリ)
五十嵐太一の記憶は、そのまま…過去へ遡っていく。
思い出しているのは…あの救いの日の一週間ほど前の
出来事だった。
自分も、あの男も…この救われない関係に疲弊して…
やりきれなさを噛み締めていた頃。
その頃の自分の心情がゆっくりと蘇って来て…太一はただ、
苦笑するしかなかった―
―大切なものは一度失くさないと判らない
以前の自分なら、きっとそんな良く言われている口上など
鼻先で笑っていただろう。
失くして後悔するぐらいなら、失くさないように行動すれば良い
だけじゃん…とあっさり言って、共感する事などなかっただろう。
だが、年月が過ぎれば過ぎるだけ…今はその言葉に含まれた
意味と、痛みを理解出来るようになった。
…どれだけ先に生きた人間が後世の者に向かって良い教訓の
言葉を残していても、人は経験した事以上の痛みを理解したり
察することは難しい生き物だ。
―太一は皮肉にも、もっとも大切な人間を失って初めて
『痛み』というものを知った。
本当ならそろそろ大学に行かなければならない時間帯なのは
判っていたが…太一はどうしても起きる気力が湧かずに、ベッドの
上で寝そべり続けていた。
太一が寝ている間に、あの男はいつの間にか部屋から出て行って
しまったようだった。
(…何か最近、忙しいみたいだしな…。俺の実家の後ろ盾とか色々と
利用してやっているみたいだし。その件に関しては勝手にすれば良いと
思っているけど…。道理も判らずに稼いだり、人を踏みつけにすれば…
それ相応のしっぺ返しを食らうもんだからな…。あいつがどうなろうと…
俺からしたら、知ったこと知ったことじゃない…)
自分の実家の権力を利用して、裏の社会へと進出し始めているのは
太一も知っていた。
けれどそれを知った上で…太一は好きにさせていた。
あんなロクデナシで人の心を理解しない男は、絶対にその内に摩擦が
生じて…敵を作るだけだとどこかで判っているからだろう。
頭の芯は酷く冷えてて、冷淡な感想しか最早抱かない。
長くベッドの上に横たわっていたおかげでさっき目覚めた時よりかは
身体の調子はマシになっていた。
「何で、俺…あんな奴から離れられないままなんだろ…」
自分の肉体が酷く軋むことを自覚しながら、ぼそりと…太一は力なく
呟いていった。
―もう二度と、以前の克哉とは会えないと諦めてしまえば良い
理性ではとっくの昔にその答えは出ている。
なのに…結局、実行に移せぬまま苛立ちながらあの男と長い
時間を過ごしていった。
どれだけ抱かれようとも、寝食を共にしようとも…自分と眼鏡の間には
決して情のようなものは生まれなかった。
克哉とあれだけ楽しく、暖かな時間を過ごせたことなど嘘のように…
自分と、変わってしまった後の克哉とは冷たい時間が広がるだけだった。
「ちくしょう…どうして、あいつを見ていると…こんなにムカムカするんだろ…」
心底悔しげに、太一は呟いていく。
この時の彼には、どうしてもその答えを見出せぬままでいた。
未来の救われた方の太一であるなら、その回答をすでに持っている。
…あの男の冷酷さと闇と同じものを、太一自身も持っていて…この時点の
彼は自分の中にそれがある事を認めていなかったからだ。
人は…自分の中にある認めがたい要素を受け入れていない時…それと
同じものを持っている人間を嫌悪する傾向にある。
心理学的に言えば「投射」と言われる反応だ。
太一は、己の闇を…自分自身で受け入れることも、他者に受け入れて
貰うことなく…自覚した日から過ごしていた。
己を受け入れていない人間は、他者の中に認めたくない部分を見出した時…
その相手を憎悪し、嫌うことで遠ざけようとする。
振り返れば…どうしても眼鏡と上手く行かなかった理由は、そこに帰結
するのだが…この頃の太一は迷路に迷い込んでしまっていてその回答を
見出せないままだった。
「克哉さん…」
そして、自分を正の世界に留める為に…太一はただ、失ってしまった方の
克哉を呼んでいく。
今、目の前にいる方の彼など、決して認めないと…そう言い聞かせるように。
けれど、太一は気づかなかった。
その行為が、奥に眠っている克哉を一番傷つけていた事を。
彼がもう一人の克哉を否定すればするだけ…あの男の奥底に沈んでいた
克哉をズタズタに引き裂き続けて、弱らせてしまっていた事を。
―どんな彼でも、同じ佐伯克哉だ
もし…あの頃の太一が、たった一言でも発していたのならば…自分達が
辿る結末は変わっていたのかも知れない。
人の中には色んな要素が眠っている。
善と呼ばれるものから、悪と見なされる類の感情まで…様々なものを内包して
『一人』の人間は成り立っている。
太一は、その事実を…克哉を聖域のように扱っていたからこそ、まだ気づけて
いないままだった。
―あの頃の俺って、視野が本当に狭くなっていたよな…。克哉さんが
酷い言葉を放っているその奥にいた事を…知らないままだったし、
あの日に一度だけ会えるまで…気づけなかった。
だから俺は…あの人を失ったんだな…
全てを知った上なら、己が犯した罪がどれだけ…重かったか、自覚出来る。
その行為が眼鏡だけじゃなく、あの人をも傷つけていた。
もっと早くにその事実を知っていたら…自分はどうしただろうか?
―きっと、克哉を救えていた。眼鏡を掛けたあの人を含めて…
相手を認める思いやりの言葉と、裏の面を含めて一人の人間を
受容し信じること。
幸せになるにはたったそれだけの事が出来るようになれば良い。
単純だが、絶対的な真理。
だが…自分も、あの男もきっと…人の愛し方を知らなかった。
傷つけあう言葉と態度しか、終始取れないままだった。
―胸の中に、暖かい想いはあったのに…
伝えられないまま埋もれた想いでは意味がない。
けれどきっと…自分達は傷つけあうしか出来なかった。
太一が克哉に拘って、「眼鏡」を見ようとしなかったから。
酷い男だと思い込んでいたあいつにも、こちらへの情があったのだと…
『克哉』の口から聞かされる前に気づけていたのなら…あいつも、
自分は救えていたのかも知れない。
けれどこの時の太一はただ…やりきれなさだけを感じて、ただ…一日を
ベッドの上で過ごすしか出来なかった。
―何もかもどうでも良い
そんな投げやりの言葉を、疲れた様子で呟きながら…何度も、まどろみと
覚醒を繰り返していく。
…気づかぬ間に、自分達の報われない関係は…終焉のときを確かに
迎えようとしていたのだった。
眼鏡×太一要素もかなり含まれます。
それらを了承の上で、読み進めて下さい。(ペコリ)
―何故、もう一人の克哉にあそこまで自分は拘り続けたのか…彼と
決別してから何ヶ月も経過しているのに、どうしても太一には判らなかった。
ただ一つ言えるのは、振り返ってみれば自分達は一緒にいて…
お互いを傷つけあう事しか出来なかった。
『あんたってどうして…いつだってそんなに冷たいんだよ! 克哉さんと同じ
顔をして、何でこんなに酷いことを繰り返せるんだよ! 返せよ!俺に
克哉さんを返してくれよ! あの人がいなかったら俺は…俺は…!』
いつか、そんな言葉を泣き叫びながら訴えていった。
普段はどれだけ太一が暴れようが、悪態をつこうが余裕の笑みや…
冷たい態度を崩さなかった男が、『克哉さんを返してくれ!』と訴えている時だけ
一瞬だけ、泣きそうな顔を浮かべていった。
その瞬間だけ、水面が揺らめいて…あの人の面影が浮かんでくるような
そんな気がして、何度も何度も…決別する間際は叫び続けたのかも知れない。
―切なく悲しい顔を浮かべる時だけ、あの氷のような男の中に…
愛しい人の面影が重なる時があったから…
その行為の報復は、いつだって陵辱めいた形で犯されることだった。
相手を傷つけ、刺激すればするだけ…我が身にその行為のツケは返され
続けていた。それでも太一は止めなかった。
―今思えばあの頃の自分は…克哉を失った心の痛みを、相手にぶつける
事でしか…そして、身体に痛みを与えられるような行為をされることでしか
誤魔化すことが出来なかった。
ヘラヘラと笑って差し障りのない言葉を吐くことすら…あの頃の太一には
苦しくて、辛いことだった。
そのドロドロを唯一、ぶつけられる相手は…眼鏡を掛けた克哉だけだった。
―傷つけあう為に、自分達は一緒に暮らしていた
その不毛な行為に…内心ではボロボロになって疲弊しきっていた。
けれどそれでも…離れられなかった、その理由は…。
―太一が、本当に…儚い笑顔を浮かべる克哉を愛してしまっていたからだった
*
目覚めると同時に、全身が悲鳴を上げてギシギシ言っていた。
意識が朦朧として…一瞬、ここがどこなのか…把握出来なかった。
しかし明かり一つない暗い室内でも、闇に目が慣れてくればうっすらと
見え始めてくる。
(あぁ…俺の部屋か…)
力なくぼんやりと考えていきながら、太一は…ゆっくりと周囲に視線を
巡らせていった。
窓際には…椅子に腰を掛けながら、憎たらしいあの男が紫煙を燻らせて
一服していた。
それを見た瞬間…ムカムカと怒りが湧き上がってくる。
(腕の拘束は…一応解かれているみたいだな…。ったく、本気で悪趣味で
どうしようもない男だよな…。俺を抱く時、まず…組み敷いて縛ってから犯すし。
…手首の周辺が、いい加減擦り切れて沁みるしアザになっているし…本気で
SMの趣味でもあるのかって疑われ始めているからな…)
そんな事を考えながら、自分の手首をジっと眺めていく。
うっすらと紐が食い込んだような痕が残されていた。
時間を掛けて慣らすなんて丁寧な真似など死んでもやってくれない相手だから
犯された時は、本気で腰が立たなくなる。
…克哉がいなくなってから一年以上、頻繁に繰り返されているいつもの
自分達の光景だった。
「いてっ…ちくしょう…。本気で、手加減ぐらいしろよ…あいつは…」
今夜も、太一の仕返しは失敗に終わっていた。
こうやっていつも良いように抱かれるのが悔しくて仕方なくて。
逆に相手を組み敷いて、同じ痛みを味あわせてやろうと…ここ半年は必死に
なって色々と策を張り巡らせたが、全部失敗に終わっていた。
太一が呻いたことで、相手はこちらが起きたことに気づいたらしい。
タバコを吸いながら…ゆっくりとこちらの方に向き直り、冷たい声で
言い放っていく。
「…目覚めたか」
たった一言。抑揚のない声で言い捨てるように呟く。
大丈夫か…という一言すらない。
それはいつもの事だと判っていても、更に太一をイライラさせていった。
「あぁ…起きたよ。…相変わらず、あんたって…手加減なんてしてくれないよね。
抱かれる方のが負担が大きいっていうの判っている? それなのに全然、
こっちを気遣ってなんてくれないよな…」
「…俺に抱かれるのが嫌なら、俺を追い出すか…もうチョッカイを掛けなければ
良いだけの話だ。お前ごときの策など、幾らやられようとも通用などしないし…
この力関係をひっくり返させるつもりはない。いい加減諦めたらどうなんだ…」
「やだね、ずっとやられっぱなしで…大人しくなんて黙ってなんかいられるかよ!
あんたに…俺の気持ちを嫌ってほど…味わって貰わない限りは、俺の気持ちは
絶対に済まない。だから諦めないかんね…」
「…好きにしろ。まあ…そういう奴を屈服させて従えさせるのもそれなりに
楽しめるからな…」
そういって冷然とした表情を浮かべながら…眼鏡はタバコを吸い続けていく。
その様子を本気の怒りを込めながら太一は見遣っていった。
(…どうして、こんなやり取りしか…こいつとは出来ないんだろう…。同じ、
『克哉』さんである筈なのに…)
克哉に裏サイトの件のことを問い質され、この眼鏡を掛けた方の人格に
辱めを受けた日を境に…太一は、それ以前の克哉と会えなくなってしまった。
どれだけ求めても、焦がれても二度とあの人に会えない。
その現実を認めたくなくて太一は今…足掻き続けている真っ最中だった。
(克哉さんと話していたときは…いつだって暖かい気持ちが心の中に
満ちていたのに…今のこいつと幾ら話しても、苛立つか…どす黒いものが
一層広がっていくばかりだ…。なのに、どうして俺は…こいつの元から
離れることが出来ないんだろ…)
あの人が好きで、今も求め続けている。
だから優しくされたい、慈しみたいという希望が…太一の中に宿っていた。
だがこの状況は…望みを捨てきれないからこそ、彼を酷く追い詰めてしまっていた。
繰り返される悪夢と陵辱。
それにより…太一の心はかなり疲弊して、悲鳴を上げ続けていた。
―皮肉にも、酷い身体の痛みが…その心の痛みを、中和してくれていた
「克哉、さん…」
会いたい、貴方の笑顔が見たい。
そう思ったらごく自然に名前を呟いて…涙が浮かんでしまっていた。
頭の中に、いつだって花が咲くようなあの人の優しい笑顔が浮かんでいる。
どれだけ消したくても、消えない…鮮やかな記憶。
それが…今の太一に希望を宿しているのと同時に、酷い苦しみを齎している
原因でもあった。
(ちくしょう…! こんな奴、大嫌いなのに…けれど、こいつの身体は克哉さんの
ものでも…あるんだ。だから…どれだけ嫌いでも、こいつが他の人間を抱いたり
するのなんて…許せない。だから…こんなバカな真似、俺はしているのかな…。
抵抗して、暴れて見せればこいつは…面白がって俺を抱く。
そうしている間は…他の奴に目を向けなくなる。だから…なのか…?)
それは今も克哉を愛しているから生じるジレンマ。
沈黙が訪れたまま…ジタバタと暴れたくなるような葛藤が胸の中に発生していく。
自分の気持ちが、判らない。支離滅裂すぎて…どれが本心なのか太一自身にも
見えなくなって来た。
それはまるで大きな迷宮に迷い込んでしまったかのような不安感。
―けれど、克哉が消えてしまって一年…太一はこの時点でもうかなり
疲れきってしまっていた
心を凍らせて、どんな仕打ちをされても胸が痛いと思わないように心がけていても…
克哉のことを思い出すと、その凍った心が溶けて柔らかくなってしまう。
だからその柔らかさと暖かさが…今の太一を苦しめる。
いっそ何も感じないぐらいに心が冷たくなれば…何もかも諦め切れればきっと
楽になることは判っていたが…。
『この状況から、誰か…救い出してくれよ…』
ベッドの上で仰向けになりながら、右手で目元を覆って…太一は苦しげに
そう呟いていく。
この進むことも戻ることも出来ない、不毛な状況をどうにかしたかった。
何かを、変えたかった。改善したかった。
けれどその糸口を…今の太一に見出すことは出来ない。
だから何かを祈るように…もう一度だけ呟いていく。
―克哉さん
それは真摯な祈りのように…夜の闇に木霊していく。
もう一人の克哉は、どれだけ太一が「克哉」と呟いても…決して太一の方に
視線を向けることすらなかった。
その呼びかけは、消えてしまった方に向けられているのは明白だったから。
二人で部屋の中にいても、どれだけ抱き合っていても…傷つけあう事しか出来ず。
お互いの心は、氷のように冷え切ってしまっていた。
だから、温もりを求めるようにそっと太一は指先を宙に伸ばしていく。
目の前には…克哉の残影が、幻だが…確かに浮かんでいたから。
―会いたいよ…
そう呟きながら自分の脳裏に描いた克哉に、そっと吐露していく。
―オレも、太一に会いたいよ…
けれど、その幻は…一言だが、切ない瞳を浮かべながら返事をしてくれた。
それだけで…太一は、とても嬉しそうな顔をしていった。
―会えると、良いね…たった一度でも、貴方と…どうか…
それは儚い願いだと判っている。
けれどそれでも…祈りながら、太一はそっと瞼を閉じていった。
その瞬間、暖かい掌の感触を確かに感じた。
「克哉さん…」
それが錯覚でも、幻でも構わなかった。
それでも太一は嬉しかったから…そう思った瞬間、安堵の為に意識が
ゆっくりと落ち始めていった。
―おやすみ
そう最後に告げた克哉の声は、自分の記憶よりも低かった気がしたが…
眠りに落ちる直前の太一は、そこまで気づけなかった。
「…いい気な、ものだな…」
相手が寝入ったのに気づくと、眼鏡が太一の傍らで不機嫌そうに言い捨てていく。
だが…相手が眠っているからこそ、何度かその髪をそっと撫ぜていった。
「…いつまで俺らは、この不毛な関係を続ける羽目になるんだろうな…」
そうして、眼鏡は…どこか苦しそうな顔を浮かべていた。
太一が起きている限り、決して浮かべることはない迷っているような顔。
けれど…これ以上、こんな虚しいことを続けていても意味はない。
もうすでに…男もそんな結論に達してしまっていた。
「そろそろ…ピリオドを打つべき時なのかもな…」
そう呟きながら、眼鏡はそっと太一から離れていく。
やりきれない気持ちを誤魔化すかのように…眼鏡は新たなタバコに
そっと火をつけて、その煙をたっぷりと吸い込んでいったのだった―
その会の最中に酔っ払い三人が実に賑やかというか手が
つけられないというか暴走したというか、そんな感じに仕上がったので
楽しかったですが、非常に疲れました(汗)
それで疲れで眠気が襲って来たので本日は日付変わる頃辺りで
寝ておきます。
起きれたら、この続きを明日の朝の内にアップ。
早朝に起きれなかった、夜に掲載する形にしますね。
ちなみに最近、春コミの原稿も少しですが始めました~。
現時点で締め切りまで一ヵ月半ぐらいの状況です。
克克新婚本の続き、というかほぼ対になっている本です。
次の本は最初の本で収録出来なかった4話に、書き下ろしが相当入るかと。
5~6話ぐらい書き足して、そっちも全十話ぐらいになると思います。
タイトルはすでに決まりました。「Luna Soleil」です。
フランス語で「月と太陽」という意味です。
W克哉の回想という形で、INNOCENT BLUEの最終話の夜に
克哉が新婚生活中の三ヶ月を振り返って、そしてその夜に今まで
語られなかった眼鏡側の本音、裏事情も明かされる。
そんな内容に仕上げます。次の本は甘い6:シリアス4ぐらいの
割合になるかもです。
まだ構想段階で、形にするには一ヵ月半頑張らないとあかんの
ですけどね(汗)
まあ近況報告としてはそんな感じです。ではでは~。
今晩はこの辺で失礼します(ペコリ)
非常に時間掛かります。ですので不定期連載扱いにしました。
本日からは太一×克哉の悲恋、残雪を連載します。
これは本編のEDの№29「望まれない結末」を前提に書いております。
その為に「眼鏡×太一」的な要素を含んでいます。
…そして、ぶっちゃけ言ってしまえば太克版の「雪幻」のような
お話です。今回以降は切なく痛い話になります。
ラブラブでない眼鏡×太一が苦手な方はお読みにならないで下さい。
それを承知の上で、お読みになるかを決めて下さい。では…
―あの人と一緒にいると、無邪気で優しい自分のままでいられた
正に、白い世界に。血、暴力、殺人、そういう事柄から無縁で
いられるような…そんな気がした。
遠くからずっと見ていたあの人は…優しくて、穏やかで。
この人の傍でなら、自分もきっと同じように振舞っていられるんじゃないかと…
そんな風に感じていた。
大学に進学してから三年目。
その秋頃に、太一は喫茶店を訪ねて来た克哉と正式に知り合った。
以前から遠目で、出勤中の克哉を見守っていた。
いかんせん、パンを口に咥えながら全力疾走という漫画の中では良く見かけるが
現実には滅多に遭遇しない事を体現しているような人だった。
最初はびっくりしたけどおかしくて、そんな自分の気持ちが優しくなっている
ことに太一は気づいた。
遠くから克哉を眺めていて、どんな人だろうって考える度に…幸せで
満ち足りた気持ちになって。
ただ、見ているだけでもあの人は太一に温かいものを齎してくれていた。
だから…知り合えた当初はとても幸せだった。
―けれど、長く一緒にいればいるだけ…次第に、克哉と一緒にいても
黒い自分の欲望は、鎌首をもたげるようになってしまった―
それは、太一が初めて克哉をバンドのライブに招待した翌週の
平日の夜だった。
曲作りに詰まってコンビニにフラリと立ち寄ったら…遅めの夕食用の
弁当を購入しようと先に来店していた克哉とばったり遭遇して、結局もう少し
一緒にいたいと我侭を言って…自分のアパートに克哉を招いたのだ。
克哉をアパートに招いたのは、ギターを教えた時以来のことだった。
コンビニで買ったスナック類と、弁当、おにぎりを摘みつつ…雑談を
していたら、仕事で疲れていた克哉は、さっきまでは頑張って睡魔と
戦いながら太一と会話を続けていたが、たった今…それに負けて
重く瞼を閉ざしてしまっていた。
その頃の克哉は、プロトファイバーの当初の目標を引き上げられて…
会う度に、どこか辛そうだった。
けれど太一は…克哉ならそれでも出来ると思っていたし、良い方向に
進んで欲しくて必死になってさっきも励ましていた。
それで安心したのだろう。目の前の克哉は…とても穏やかな顔を浮かべていた。
「…あ~あ…克哉さんってば、相当に疲れているみたいだな…せっかく俺と
会えたっていうのに…こ~んな無防備な寝顔を晒しているんだもんな~」
克哉の瞼がしっかりと下ろされてしまってから2分ぐらいした後、
どこかのメーカーの新商品の「ドロリ濃厚!カボチャシェイク」なるものを
喉に流し込みながらぼやいていった。
太一としてはまだまだ克哉と話したりないので…思いっきり肩を大きく掴んで
揺さぶって起こしたい衝動に駆られたが…疲れているのも、態度と言葉の端々から
感じ取っていたので、このまま寝かしておいてやりたい…という感情と戦っていた。
まずは気持ちを落ち着ける為に、味見に購入した品をグビグビと飲んで…
冷静な批評を下していく。
「…ん~やっぱり、このメーカーの新商品ってピントがどっかズレてしまって
いるというか…まずくないんだけど、何か微妙な感じだな。
カボチャの風味が濃厚で甘くて…何ていうかカボチャの煮物に牛乳を
混ぜて、それをシェイク状にしたってそんな感じだなぁ。一度飲めば
もう充分だな…。ほんっと、ここって伝説に残るようなイマイチ商品
ばかりをリリースする所だよな。ここのを一度は試す俺も充分な
チャレンジャーだけど…」
そういって、全てを一応飲み干すと机の上に缶を一旦置いて、太一はその場から
立ち上がっていった。
そんな事をやっている間に、余裕で五分は過ぎた。
さっき、克哉の寝顔を見た瞬間…動揺してしまったが…それもどうにか収まって
太一は冷静な判断をし始めていった。
…とりあえず克哉をベッドの側面に背を凭れさせながらの格好で一晩寝かす
訳にはいかなかった。
今日は平日で、克哉はさっき…明日も仕事と確かに言っていたからだ。
本当ならベッドの上に克哉を上げて、寝かしつけてやりたかったけれど…太一の
体格は克哉のものより若干小柄だ。
起きている状態ならともかく、すっかりと眠っている克哉をベッドまで
上げるのは相当に苦戦することは間違いなかった。
「…まったく、克哉さんってば…。こんな無防備な姿を俺の前に晒しちゃってさ…。
本当、警戒心なさすぎ…」
そうやって、一旦…太一は克哉の目の前に屈んで、身体を密着させるような
体制になって相手の脇に両腕を回していった。
「ほら…克哉さん、とりあえずベッドで寝てよ! 今の時期は夜は冷えるし…
床でなんか寝たら、身体を痛めてしまうからさ…」
「ん…ぅ…」
そう言いながら克哉がうっすらと目を開いて、とりあえず半分寝ぼけながらも
ベッドに上がる為に…太一の動作を自ら手伝ってくれた。
その寝ぼけてトロンとなった瞳に、一瞬鼓動が高鳴っていく。
抱き上げる際、密着していたので…服越しとはいえ克哉の体温と肌の
感触を意識しない訳にはいかなかった。
(克哉さんの寝息と、鼓動だ…)
それを自覚した瞬間、何故か鼓動が早まっていった。
だが今は…太一はそれを意識しないように努めていった。
それだけでも随分と楽になり、結構あっさり…克哉の身体はベッドシーツの
上に沈んでいった。
自分のベッドの上で、クークーと安らかな寝顔を晒している克哉を見て…
太一は呆れ半分に微笑んでいった。
「克哉さん…まったく、こんな無防備な姿を俺の前で晒して…克哉さんみたいな
良い人はきっと、俺がどんな風な目で…貴方を見ているか、きっと想像したり
しないんだろうな…」
そう呟きながら、瞬間…克哉のうなじが猛烈に魅惑的に見えた。
その整った唇に、己の唇を重ねたらどんな感触がするのだろうか…という
黒い欲望が湧き上がっていく。
―止めろよ。そんな目で…克哉さんを、見るなよ…!
自分の中に眠る、黒い自分が…ゆっくりと目の前で安らかに眠る
克哉を目の前にして…目覚めていくのが判った。
それを自覚した途端、心臓がバクバクと言い始めていく。
―例えば、その唇に舌を捻じ込んで、グチャグチャと音が立つぐらいに
激しいキスを交わしたら
きっと、脳髄が蕩けるぐらいに気持ちよくなるだろう…そんな夢想に、
太一は…目の前で眠る克哉を見て、浸り始めていく。
―克哉さんが俺の手で感じたら、どんな痴態を見せてくれるんだろう…。
感じさせたら、凄く可愛い筈だよね…。俺に懇願して、涙を浮かべながら
必死になって縋ってくる姿なんて見たら、きっと堪らないだろうな…
黒い自分がそんな事を言い始めた瞬間、太一の頭の中で…克哉は
衣類の一枚、一枚を剥がされて…淫らな表情を浮かべ始めていった。
相手の弱い所を攻め立てて、トロトロになるまで…感じさせたら
どれだけ艶かしい姿になるのだろうか…。
そんな妄想が、堰を切ったように溢れ始めていった。
(止めろよ…そんな事を、考えるなよ…! 克哉さんは俺の大切な友人だ…!)
―本当にかよ? お前は…こいつを好きで好きで仕方なくて、それで…
壊してしまいたいと思っているんじゃないのか…?
黒い自分が、ねっとりとした口調で…こちらに問いかけてくる。
あの人を刺してしまった日から存在していると自覚した…黒くて
冷たくて、酷いことを平気で考える自分が怖かった。
そうしている間に…自分の脳裏で、克哉は更に乱れ始める。
硬く張り詰めたペニスを弄ってあげると、淫蕩な眼差しを浮かべて
こちらに懇願するような表情を浮かべている。
自分の手の中で、克哉の性器が大量の蜜を零してヒクヒクと
震えている。そんなリアルな感覚までも一瞬、思い浮かんでしまって
太一は性的な興奮と、そんな事を考えている自分に戦慄する…
相反する想いを抱いてしまっていた。
(そんな事をだから考えるなよ…!俺と克哉さんは、そんなんじゃ…!)
心の中で叫んだ瞬間、自分の目の前で…克哉がベッドの上で艶かしく
首筋を仰け反らしていった。
伏せた睫の影は長く…元々整った顔立ちの克哉に、艶めいた印象を
与えていく。
―正直になれよ。お前は…こいつを抱きたくて、仕方ないんだろ…?
グチャグチャにして、啼かせて自分の事だけしか考えられないように
したい…支配して、屈服させてやりたいって…そんな歪んだ欲望を
感じているんだろ…?
もう一人の黒い自分が、時折悪魔のように感じられた。
そんな事を自分が考えているなんて、自覚したくなかった。
自分はこの人に優しくしたい、そう思っている筈なのに…相手が自分の
脳裏で黒い笑みを浮かべて、言葉を続ける度に…そんな思いが
まるで儚い蜃気楼のようにすら覚えてしまう。
ズクン、と下肢が熱を帯び始める。
それは雄として…目の前の存在を貪りたいという即物的な欲望。
太一は、そんな自分を…認めたくなかった。
克哉は大切な人の筈なのに、雪のように白くて純粋なこの人に対して
欲望の眼差しで見てしまっている自分を、自覚なんてしたくなかった。
「違う…違う!」
太一は必死に頭を振って、そんな思考回路を否定していく。
彼が拒めば拒むだけ、もう一人の「黒」い自分は…歪んだ笑みを
浮かべていった。
―認めろよ。自分の正直な気持ちを…
「嫌だぁ!」
自分の夢は、アーティストで、日の当たる場所で生きることの筈なのに
この自分の中に巣食う悪魔が否定すればするだけ、日増しに大きくなって
どうしようもなくなっていく。
己の中のどす黒いシミ。それに侵食なんてされたくないのに…克哉と
過ごしている間だけは、そんな想いなど今まで感じないで過ぎたのに…
その聖域のような気持ちすら、今晩…否定された気がして、太一は
とても苦しかった。
暫くその後、太一はハア、ハア…と乱れた呼吸を繰り返しながら
克哉の目の前で葛藤し続けた。
貪りたい想いと、友人としての克哉を大切にしたい感情がせめぎ合って
太一の中でぶつかっていた。
そしてその晩…悩んだ末に太一が出した結論は、自分がこの部屋から
出て行って克哉を守るというものだった。
「克哉、さん…ゴメン。きっとこんな俺が貴方の傍にいたら…きっと
貴方をどうにかしてしまう…。傍にいられなくて、ゴメン…」
眠っている友人を置いて、部屋を出るのは少し苦かったが…今、自分は
この人に対して欲望を抱いているのを自覚してしまった。
だからもう、今夜はここにいてはいけない気がしてしまった。
…けれど自分を正に留めたくて、克哉の頬にそっと指を這わせて…
一瞬だけ触れる儚いキスをした。
―どうか貴方が今晩、安らかに眠ってくれますように…
そう素直に祈れたことだけが、この夜の太一にとって…自分がまだ
『白』い世界に属していると実感出来る、唯一のことだった―
※バーニングは時間掛けて、全体を見通していかないと書けないので
非常に時間掛かります。ですので不定期連載扱いにしました。
本日からは太一×克哉の悲恋、残雪を連載します。
これは本編のEDの№29「望まれない結末」を前提に書いております。
その為に「眼鏡×太一」的な要素を含んでいます。
…そして、ぶっちゃけ言ってしまえば太克版の「雪幻」のような
お話です。今回以降は切なく痛い話になります。
ラブラブでない眼鏡×太一が苦手な方はお読みにならないで下さい。
それを承知の上で、お読みになるかを決めて下さい。では…
―昔のことを思い出すと、真っ先に浮かぶのは高校時代のあの出来事だった。
それは太一が克哉と出会う、何年も前の話。
今から七年以上前のことだった。
―生まれて初めて、人を刺した日の記憶
あれは、親父を守る為には仕方なかったと思っている。
けれど…まだ未成年だった自分には重過ぎた。
自分の就職した会社へと走って向かっている最中、まるで走馬灯の
ように太一の脳裏に苦痛の記憶が蘇っていく。
今思えば…自分が克哉に執着したのも、原点はここなのかも知れなかった。
そうして…太一は、七年前の実家で起こった大事件をゆっくりと意識の上に
浮かべていった―
それは五十嵐組の本邸、父に宛がわれた部屋でのことだった。
その場に居合わせたのは、偶然だった。
久しぶりに実家に顔を出した父親と、少し話したいなと思ってフラリと
立ち寄っている最中に、太一はとんでもない光景に出くわしてしまった。
―父親が二人の男に襲撃されて、片方の男を撃退している最中に…もう一方に
銃を向けられている現場だった。
それを見た瞬間頭が真っ白になった。
同時に、自分が助けなければ…親父が危ないと、心底思った。
今までの人生に、ケンカや暴力沙汰の方はそれなりの経験を積んで来ている。
だが、命のやりとりの現場に遭遇したのは…その時が初めてだった。
太一は、知らぬ間に叫びながら…護身用にいつも肌身離さずに持ち歩いていた
ドスを懐から取り出していた。
幼い頃から、この家に身を置くのなら絶対に身体から武器を離すな…と言われて
育ってきた。
五十嵐の本邸は、大きなグループの総帥である母と…五十嵐組の頭目である
祖父がいるせいで、いつその恨みを持つ者が襲撃してもおかしくない環境だったから。
だから物心をついた時には、幾つも護身術を学ばされた。ドスや、ナイフの類を持ち歩く
習慣も、小さい頃からのものだった。
けれどその習慣を、その時ほど感謝したことはなかった。そしてその教えの意味を
この瞬間ほど、理解した瞬間は今までなかった。
『親父から、離れろぉ!!』
父は、好きだった
だから考えるよりも早く…身体が動いていた。そして太一は…父の命を狙っていた男の
背面…右脇腹の部分に、ドスを突き刺していった。
あの手ごたえは忘れない。そして…動脈に触れる部分を刺したおかげで…
見る見る内に、刺した部位から血が溢れて来て…自分の手が汚れていった。
人を刺した時の、あの鈍くて重い感触、苦い感情。
それが知らない誰かであっても…自分の中の良心が、酷く疼いた。
―その瞬間に、太一の中で…何か黒い自分が目覚めていった
太一は、人を刺した瞬間…笑っていた。
現場にいた誰もが、目の前の光景があまりに凄惨すぎて…太一のその表情の
変化に気づいたものはいなかった。
けれど…生まれて初めて、血と殺戮を悦ぶ感情が己の中に存在しているのを
自覚してしまった。
それが冷静な部分では怖くて仕方なくて…けど、そんな太一の内心の怯えと
裏腹に…自分の顔は、冷笑を浮かべてしまっていた。
返り血を、血飛沫を浴びて…全身を汚した状態で、太一は冷たく言い放った。
『親父からさっさと離れろよ…あんたも、こうなりたくはないだろ…?』
その瞬間の太一の様子を見た父親からは、「あの時のお前は別人みたいだった。
怖すぎてちびっちまうかと思ったぞ…」と称していたけど、内心で自分も
そう感じていた。
自分がこんなに冷たい顔と声音が出来るなんて、今まで知らなかった。
氷のように冷たい眼差し。そして…本気の殺意を向けながら、太一は
冷然と…微笑んでいた。
その凄味は…とても十代の少年のものとは思えなかった。
自分の肉親を守る為なら、全力を持って戦う…その時の太一には
その気概があった。
そして父親もまた、裏の世界では凄腕の殺し屋として名を馳せている男だ。
二対一の状態で、不意打ちを突ければ男たちにも勝算があっても…
今は逆の立場となってしまっている。
男は、舌打ちをしながらその場から隙を突いて逃げ出していった。
―現場に残されたのは自分達親子と、たった今…この手で刺した男だけだった
危機を脱したと自覚した瞬間、太一は…ドっと疲れを感じて呼吸を乱していった。
その時点になってやっと正気が戻って、今…自分がした行為の恐ろしさを自覚
していった。
『良く、やった…お前のおかげで、命拾いしたぜ…ありがとうな…』
そういって父親は労いの言葉を掛けてくれた。
だが、太一は…平然と人を刺して殺そうとした自分が…怖かった。
『親父、無事で…良かった…』
太一はその時、泣いていた。
父親を助けられた安堵と、緊張が解けたせいで…その場に膝を突いてしまった。
それだけなら、感動のシーンだっただろう。
だが、太一は…この時に初めて、自分が育っていた環境の恐ろしさというものを
五十嵐組のトップになるという事がどういう事なのかを思い知った。
この時点では、太一の中では…祖父の跡取りとなることと、音楽の道に進みたい
という夢は半々ぐらいだった。
けれど…五十嵐組を継ぎたくない。そういう想いが生まれたのは…自分の
中にドロドロと黒い、狂気めいたものがあると初めて自覚したこの日からだった。
泣きながら、歯の音が合わなくなっていた。
生まれて初めて、人を刺して返り血を浴びた…その強烈な体験は、まだ
未成年の子供だった太一には強烈な体験過ぎたのだ。
そんな自分を、父親は抱きしめてくれた。
子供の頃以来の、父親からの抱擁だった。それが辛うじて…『白』い世界に
自分を繋ぎとめてくれた。
―親父、俺…怖いよ。生まれて初めて…人、を…
泣きながらそう訴えると、父親は黙って太一を抱きしめ続けた。
任侠の世界に身を置けば、裏の世界に生きるという事はこんな事が起きる
危険も承認しなければならない。
それを思い知った瞬間、怖かった。
―自分の中に、血を見て興奮して喜んでいる自分がいる。どうしようもなく
黒くて…それを愉快に思う部分がある
それは今までの人生で、気づくことはなかった己の闇。
…自分は、堅気の世界に身を置きたかった。日の当たる場所で行きたいと
この瞬間に痛烈に思った。
その事件の記憶が少し遠くなって、高校卒業後の進路を決めなくては
ならない時期に差し掛かった頃には、太一は己の進みたい道筋を
見出していた。
その当時の太一は、己が『白』の世界で生きる為には…何を犠牲にしても
構わないと思った。
上京して、都内の大学に通う際に祖父が出した交換条件。
それは犠牲になる人間たちのことを思えば、本当なら許されるものでは
なかったけれど…音楽をやりたいという気持を持って、まっとうな世界に居続けたい
太一は、その条件を飲み込むしか…当時は道を見出せなかった。
―今、思えば自分があの人に執着したのは…『白』い自分のままで
いたいという…その想いから発したものかも、知れなかった―
※バーニングは時間掛けて、全体を見通していかないと書けないので
非常に時間掛かります。ですので不定期連載扱いにしました。
本日からは太一×克哉の悲恋、残雪を連載します。
これは本編のEDの№29「望まれない結末」を前提に書いております。
その為に「眼鏡×太一」的な要素を含んでいます。
…そして、ぶっちゃけ言ってしまえば太克版の「雪幻」のような
お話です。二話目以降は切なく痛い話になります。
ラブラブでない眼鏡×太一が苦手な方はお読みにならないで下さい。
それを承知の上で、お読みになるかを決めて下さい。では…。
―太一にとって東慶大学を卒業して最初の春が訪れようとしていた。
大学在学中に、とある大企業の内定を得た太一にとっては本日が
初出勤に当たる日だった。
慣れないリクルートスーツに身を包み、五十嵐太一は緊張した面持ちで
必死に自分の髪を撫で付けていく。
「うっへえ…やっぱり、サラリーマン風の髪って俺には本気で似合わないよな。
髪も一応…初日だから黒に戻したけど、早く会社に慣れて…オレンジに
戻したいよなぁ…。何で日本のサラリーマンって、髪の色が黒とか薄い茶色とか
じゃないと認めないんだろ…本っ気でナンセンスだよな…」
中学の頃から、大学を卒業してほんの数日前まで…太一の髪は明るい
オレンジ色に染め上げられていた。
だが、流石に就職活動中と…初出勤の日は流石に黒くしなければヤバイと
判断して染め直したので、鏡の中には思いっきり見慣れない黒髪で
ダーク系の色のスーツを着た自分が映っていた。
このスーツの色と…ダークレッドのネクタイの色は、自分にとって今も
忘れがたい存在が良くしていた服装だった。
「…やっぱり俺に、サラリーマンって絶対に似合わないよなぁ…。薄々とは
判っていたけど、こうやってスーツとか着てみると…思い知らされるっていうか。
…けど、何年かこういう経験をしてみるのも悪くないって…自分で決めた
道だし、仕方ないか。ライブとかの時は、スプレーか何かで以前の髪色に
染めるかカツラを使うかすればどうにかなりそうだしね…」
そういって、シャツの襟を整えて…太一はネクタイをぎこちない動作で
絞めて整えていく。
どうしてこんな苦しいものを首に絞めるのが、現代のサラリーマンの
正装なのか、堅苦しいものが大嫌いな太一には殺意すら覚えてしまう。
「はは…俺にはやっぱり、貴方と同じ服装は…似合わないね。けど…
俺…貴方のことを忘れたくないから。もう二度と会えなくても…それでも、
克哉さんのことを忘れたくないし、サラリーマンをやっていた頃の貴方の
気持ちを少しでも知りたいって、そう思ったからさ…」
その色合いのスーツを着た自分を眺めている内に、今も鮮明に自分の
脳裏に刻まれている愛しい人の面影が蘇る。
鏡に映っている自分の姿が霞み、代わりに…今も焦がれて止まない
優しい笑顔を、その向こうに思い浮かべていく。
「克哉、さん…」
その瞬間、鏡の向こうで…その面影が優しく笑ってくれたような気がした。
―太一なら、大丈夫だよ…
そう一言、幻聴かも知れないがあの人が言ってくれたような気がした。
―そうだね。貴方が今でも…傍にいてくれているからね…
そうして、あの日からずっと…肌身離さずに持ち歩いているお守りを
上着のポケットから取り出していく。
このお守りの中に入っているのは、ただ一つ…愛している人が残して
くれた物だった。
今となっては、佐伯克哉はどこにもいない。
本当にあの人が存在していたのか…どこに消えてしまったのか、
克哉と同じ会社に勤めていた人間すらも足取りを掴めないままだった。
太一も、克哉との思い出の品など…携帯で2~3枚、ライブの時に
撮影した写真画像と、一枚の写真。そして…このお守りの中に
収められているものぐらいだ。
自分にとって、憎んで止まない眼鏡を掛けた方の克哉も…完全に
消えてしまった。
五十嵐組の力を持ってしても、生死は判らない。
生きているのか死んでいるのか…どこで何をしているのかも
どうやってもこの数ヶ月、掴めないままだった。
―けれど、愛憎を抱いた存在が幻のように消えてしまった現状でも
それでも太一を支えてくれたのは、最後に残してくれたこの愛情の
結晶だった
太一は強く、お守りごとそれを握り締めていく。
その度に愛しいという気持ちと…力づけられるような気がした。
人との繋がりは、想いは…例え目の前からその存在がいなくなって
しまっても―喪っても消えないのだと、あの人と知り合ったからこそ
太一は初めて知ることが出来た。
「克哉さん…愛している」
ごく自然に、あの人に向かって声を掛けていく。
己の中にある負、黒くてドロドロとした感情。
どんな時も渦巻いて苦しくて仕方なかったその闇を払って
くれたのは…心から自分を愛してくれたあの人と出会えたからだった。
だから、この先…別の人間と結ばれ、その人間と手を取り合って
生きていく日もあるかも知れない。
だが、このお守りの中にある物だけは…太一が絶対に生涯手放すことは
ないだろう。
―これは彼を、『白』い世界に留めておく鍵のようなもの
自分と同じ、光と闇を…黒と白の、二つの異なる魂を持つあの人が…
『今』の自分を留めさせる為に与えてくれた『光』そのもの。
自分の弱さが、愚かしさが儚く脆い存在だったあの人を消してしまった。
それでもただ一度だけ…あの日に出会えて、これを与えてくれた。
そして…残してくれた。
「克哉さん…」
あの日を思い出すと、涙がうっすらと浮かんでくる。
けれどその痛みもまた…大切なものだから。
どれだけの痛みが伴おうとも、決して忘れたくないあの雪の日。
苦しくても辛くても、切なくても…自分は、貴方を…。
「…俺、一旦サラリーマンをやるよ。それで貴方の気持ちを少しは
理解したい。けど…夢は諦めるつもりもないから。いっそ国外逃亡して
どっかの国で音楽活動でもした方が…俺って天才だから、早くトップ
アーティストの仲間入り出来そうな気するけどね。
けど、あの時の俺って弱くてガキで…一緒に過ごせたあの短い期間、
貴方のことを理解出来なかったし、否定ばっかしていた。
だから…今からでも、俺は克哉さんのことを知りたい。どんな気持ちで
働いて来たのか…肌で感じたいんだ。それで少しでも解りたいんだ…。
俺にこんなの似合わないって判っているけどね、それでも…」
鏡の中におぼろげに思い描いている、克哉の幻影に…沢山
語りかけていく。
こんなの、第三者がいて見られたら危ない人間以外の何物でも
ないだろう。危険な独り言でしかない。
けれど仕方ないだろう…自分が傍にいて欲しかった存在、色んな
想いを伝えたい存在はもうこの世にはいないのだから。
それでも伝えたかったら、独りよがりでもなんでも…こうやって対話
する以外にないのだ。
「…だから、見守ってて。克哉さん…ここで…」
そうして、お守り袋をそっと自分の胸ポケットの中に納めていく。
それだけで…ホワっと心が温かくなった気がした。
「…貴方が俺を見守っていてくれているなら…『黒』い俺に、
負けないでこれからも生きていけると…そう、思うから…」
そう祈るような真摯な声音で、告げていく。
気づけば…もう家を出なければならない時刻が迫っていた。
「おっと! そろそろ家を出ないと…幾らなんでも初出勤の日に
遅れるなんて真似はしたくないよな~」
そういって、明るい様子で太一は身支度の全てを整えてアパートを
飛び出していく。
外は、清々しいくらいの快晴だった。
桜が舞い散る風景を、風を切るように走り抜けていく。
こんな暖かな日は気分が良い。
去年の春はどれだけ陽気が良い日でも、こんな風に感じられる
ことはなかった。絶望の淵に、太一はいたからだ。
けれど…今の太一は、その世界の暖かさをしっかりと感じられている。
その世界の受け止め方の違いの全てが、お守り袋の中にある。
―克哉さん、貴方のおかげで…今、俺はこんなに暖かく世界を
感じられるようになったよ…
そう感謝しながら、太一は…克哉を喪った日からの一年以上に渡る
切なく苦しかった記憶を、ゆっくりと蘇らせていく。
今までは辛くて振り返れなかった。だが…今の自分なら少しは
客観的に見ることが出来るだろう。
必死に走る最中、青年は…佐伯克哉という存在に纏わる記憶を
ゆっくりと意識に上らせていった。
―彼にとって、もっと絶望に満ちた時代と、救いの記憶を―
10 | 2024/11 | 12 |
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当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)
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