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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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  以前に書いた残雪を、改めて構成し直して再アップ
したお話。太一×克哉の悲恋です。
 1話と2話は以前にアップしたものの焼き直しですが…
3話目以降からは一からの書き直しになります。
 書き掛けで止まっている話の方は(不定期連載)の方に
あります。

 残雪(改) 
              

 そしてこれは物語が佳境に入る直前の出来事。
 眠っている太一の元に、彼が戻ってくる六時間ほど前に
降りかかっていた体験の断片だった。
 
―おっと、この事を貴方に語り忘れていましたね…

 Rは唐突に、そう区切って…今度は、自分と眼鏡を掛けた
克哉との間に起こった事を太一の父に見せていく

―これもまた、真実を知る上での手がかりになることでしょう…
前座程度に、見ておいてください…

 そして、最後の幕が開く直前に…男はもう一つの断片を
そっと見せていったのだった―

                     *


―彼の身体は静かに、蝕まれていた

 当てもなく街を彷徨い歩いて、夜まで適当に時間を潰していたら
あっという間に一日は終わろうとしていた。
 本日は週末であるせいで、仕事もなく…時間を経過させるのに
逆に労力を使った気がした。
 池袋の街を歩いている最中、突然に猛烈な胃の痛みを感じて
彼は裏路地へと入っていく。

(俺は一体何をやっているんだろうな…)

 痛む部位を手で押さえていきながら…唐突に、そう思った。
 何もかもが退屈で、彼にとってはどうでも良いものになりつつあった。
 気晴らしに太一の実家の家業にも興味を示して、裏の世界の仕事にも
幾つか携わったが、それも今では飽きてどうでも良くなりつつある。
 何故、あれ程険悪な関係である太一と一緒に暮らしているのか。
 自分が生きていることにうんざりしていると気づいた瞬間、ふと…
その答えを得たような気がした。

―あいつに憎しみのこもった目で睨まれる度に、本気の殺意を感じる度に
一種のスリルと…生の実感を感じられたからだ

 太一の傍に、非日常があった。
 そして…彼が怨嗟とこちらを否定する言葉を吐く度に、屈服させる事が
一種の快感に繋がっていた。
 終わった後に虚しいと感じることがあっても。
 相手を服従して蹂躙することに喜びを感じる性質の克哉にとっては…
ほんの僅かな時間でも満たされるなら、それで構わなかった。
 だが…彼の奥底に眠るもう一つの心は、それで悲鳴を静かに
挙げ続けていた。
 そしてついに…それに耐え切れず、身体にも大きな影響を与え始めていた。

「…胃が、痛い…」

 確かに、今日は数え切れないぐらいの酒と煙草を摂取し続けた。
 どちらも胃には最悪であり、今までも時々痛むことがあった。
 だが、今の痛みは半端ではない。
 考えを巡らせている内に冷や汗すら滲んで…胃が焼けるような激痛が
襲ってくる。

「くっ…はっ…!」

 耐え切れず、裏路地の壁に手をついてどうにか己の身体を支えていきながら
彼は猛烈な痛みの波に耐えていった。

『身体が…限界を迎えつつありますね…』

 すると、突然…声が聞こえた。
 聞き覚えのある、人物のものだった。

「…貴様、か…」

『お久しぶりですね…佐伯克哉さん…』

 Mr.Rはこの日…一年ぶりくらいに、眼鏡を掛けた佐伯克哉の前に
静かに姿を現した。
 夜の闇に紛れて…その黒い衣装を溶け込ませていきながら…。

「何の、用だ…。今は貴様に構っている、暇は…ない…」

『おやおや…ご挨拶ですね。せっかくこちらが親切に貴方へ忠告を
与えに来たというのに…』

「忠告、だと…? お前が俺に…?」

『ええ、そうですよ…貴方の身体を案じたので…』

 そして男はどこまでも愉快そうに微笑んでいく。
 その笑みを見ていると、こちらがこうして痛みを堪えている姿すらこの男は
愉しんで観察しているようにしか感じられなかった。

「ほう…お前が、俺の身体を、心配するとはな…。それで、何を言いたいんだ…?」

 途切れ途切れでか細くなりつつあっても…相手に弱りきった姿を見せることに
抵抗を感じる眼鏡は…精一杯気丈に振る舞ってみせた。
 しかし相手は…そんな彼の虚勢すら打ち砕く言葉を唐突に告げていった。

『…このまま、もう一人の貴方に過剰にストレスを与える生活を与えていたら…
貴方の身体はガンに蝕まれますよ…』

「っ…!」

 その言葉を聞いて、眼鏡は言葉を失っていく。
 ガン、という言葉に強烈な死の匂いを感じたからだ。

「な、にを…世迷いごとを…」

『世迷い言ではありませんよ…。事実、その胃の痛みがその兆候です…。
知っていますか…? 人間の身体には毎日一定数のガン細胞が生まれて
いる事を。それを規則正しい生活や身体に良いものを摂取することである程度
打ち消すことが出来ます…。ですが、貴方が娯楽程度に感じている太一さんの
憎しみの言葉を…もう一人の克哉さんは耐えられなくなっている。
それが貴方の身体を静かに蝕み…ついに、胃に穴を開ける直前まで症状が
出てしまった。…このままの環境を続けていれば、積み重ねていけば…
貴方の身体に、大きなガンの芽が出来ることでしょう…。私は貴方に死んで
もらいたくないから…その忠告に来ました…』

「…成る程、警告に来た訳か…貴様は…」

『ええ、そうですよ…。貴方に死なれてはつまらないですからね…』

「…チッ、あいつという存在は…トコトン、邪魔だな…」

 忌々しそうに、眼鏡は舌打ちしていった。
 心底…己の中に未練がましく存在しているもう一人の自分について
苦く思っていた。
 もうこちらを押しのけて存在する力すら残っていないのに、完全に消える
事も出来ないで…己の中であがき続けている。
 それすらも一種の娯楽として彼は受け止めていたが…こうして己の身体に
影響まで与えたとなると、その存在を疎ましく思うだけだった。

―チッ…いつまでも消えないクセに…俺の身体に影響まで与えるとはな…。
うっとおしい奴だ…

 心の底から、微かな芽のように残っているかつての自分の心に苛立ちを
覚えた瞬間…黒衣の悪魔は、それを見逃さなかった。

『…どうやら、もう一人のご自分を…貴方の身体に大きな影響を与えて
蝕もうとしている事に腹を立てていらっしゃるようですね…』

「…当たり前だ…」

『…なら、貴方の身体がガンに蝕まれる前に…その原因を取り除いたら
どうでしょうか…?』

「…?」

 その言葉に疑問を持って黒衣の男を見つめた瞬間、Rはどこまでも愉しそうに
笑みをたたえていた。
 眼鏡はその表情に、一瞬戦慄すら覚えていった。

「…ほう、なら…どうすると…言うんだ…?」

『単純な話ですよ。…貴方の奥底に眠っているもう一人のご自分の心を
貴方の精神から切り離してしまえば良い。そうして貴方の身体を蝕んで
いる以上…その存在は最早、ガンのようなもの。そのまま残していることで
貴方の肉体をも滅ぼすならば…私が、貴方の中からその心だけを
そっと取り除いて延命させて差し上げますよ…どうなさいますか…?』

「…本当に、そんな事が出来るというのか…?」

 疑わしそうに眼鏡が見つめると…男はにこやかに笑いながら、当然の
事のように言ってのけた。

『ええ、私の力を持ってすれば…それくらいの事は簡単ですよ…。
さあ、どうなさいますか…佐伯克哉さん…』

 男が唄うようにそう告げていくと…眼鏡は、深く溜息を突いていった。
 そして…少し考えた後に、男の言葉に対しての答えを静かにその口に
上らせていったのだった―


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 以前に書いた残雪を、改めて構成し直して再アップ
したお話。太一×克哉の悲恋です。
 1話と2話は以前にアップしたものの焼き直しですが…
3話目以降からは一からの書き直しになります。
 書き掛けで止まっている話の方は(不定期連載)の方に
あります。

 残雪(改) 
            

『おや、泣いていらっしゃるのですか…?』

 太一が夢の中に…かつては存在した日常の中に救いを求めている
場面を立て続けに見せられて、男は知らず泣いていた。
 瞼を開けば、其処は妖しくエキゾチックな香りが漂う赤い天幕で
覆われた部屋。
 息子が、どれだけ気弱な方の佐伯克哉を想っていたのかを知って…
五十嵐太一の父親である、喫茶店のマスターは胸が潰れそうだった。
 同時にどれだけ太一が五十嵐組を継ぐことを嫌がっていたかも…
アーティストの道に進みたがっていたかも、息子の視点に立って事例を
追っていく度にはっきりと理解していく。

―同時に、一度サラリーマンの道を選んだことへの違和感も増していく

 その男が感じている疑問を、Mr.Rも感じ取っているのだろう。
 愉快そうに微笑みながら、問いかけてきた。

『…おやおや、随分とすっきりしない顔をなさっておられますね…。ここまでの
太一さんと克哉さんの愛の軌跡を見て…どうして最終的にご子息があのような
決断をされたのか、まだ見えて来ていないようですね…』

「ああ、そうだ。…太一が求めている方はもう会えなくなってしまった筈だ。
しかも眼鏡を掛けている方とは激しく憎みあっている。それで…どうして、
理解をしようと…あいつが会社勤めを数年と区切っているとは言え始めたのか
俺にはまったく判らねぇ…」

 男はついに、妙な意地を張るのを止めて…率直に感じているままの事を
口にするように変わっていった。
 一体どのような原理かはまでは不明だが、確かにこの男の力によって…
知りたかった真実の断片の幾つかを得る事は出来たのだから。
 黒張りの豪奢なソファに深々と腰を掛けていきながら男は溜息をつく。

『えぇ、現時点ではそうでしょうね…。だから私は貴方にそっと手を差し伸べて
知りたかったものをこうして教えて差し上げている訳です。さあ…そろそろ
次の演目が始まりますよ。今夜の貴方は当店にとってはゲスト。
私が知っていることを…そして語りたいと思っていた佐伯克哉さんと、五十嵐太一さん。
その二人の泥沼のように救いがなく、そしてキラキラと輝く結晶のように尊く
儚い愛の唯一の観客でもあります。…どうぞ、時間の許す限り私に今夜は
お付き合い下さい。演目も…そろそろ佳境に入って参ります…。
さあ、ごゆっくりと堪能あれ…!』

 Rはまるで舞台の上で大勢の観客に向かって語りかけているかのような
大仰な身振りと大声で、そう高らかに告げていく。
 その声を聞きながら太一の父は…再び脳髄が蕩けていくような猛烈な
睡魔の中に呑み込まれていく。

―俺は、お前を理解したいんだぜ…太一…

 自分にとって、大切な子供の一人だから。
 だから息子の事を知りたいし、理解したい。
 父はそうして…再び夢の中に意識を沈めていく。

―そして、ついに太一の過去を追う物語はゆっくりと佳境に
入っていったのだった―

                    *

 人の夢、と書いて儚いという字は構成されている。
 目覚めればあっという間に自分の手のひらからすり抜けてしまうもの。
 それが…夢であり、過去でもあった。

「あっ…」

 自分のアパートの部屋、ベッドの上で太一は唐突に覚醒していく。
 幸せな夢に浸っている間だけでも救われた気持ちになれていたのに…
意識が浮上して現実に戻っていくと、一気に落ち込んでいった。

「…情けないよな。夢に縋ったって…何も生み出しはしないのに…」

 かつての自分なら絶対にしなかっただろう。
 しかし…希望を持ちながら、それが決して叶えられない生活は…
太一の心を急速に蝕んでいった。
 
「克哉さん…」

 壊れたスピーカーのように、あの人の名前を呟いていく。

「克哉さん…」

 そして頭の中で何度も何度も、リフレインさせていった。
 夢で久しぶりに見たあの人の面影を、そして儚い笑顔を鮮明に思い出して
太一は知らず…涙を零していた。

―会いたい…

 心の中の正直な想い。
 今でも、愛している。
 会いたくて会いたくて、本気で気が狂いそうだ。
 
―たった一度でも良い…。もう一回だけでも、貴方に会いたい…!

 夢を見たことで、心の奥底に存在する自分の強烈な願いに嫌でも気づかされていく。
 そしてずっと疑問に想っていた…どうして眼鏡を掛けた方の、嫌悪している克哉と
半分同棲みたいな感じで一緒に暮らしているのか、その理由に嫌でも気づいて
しまっていた。

―だから俺は、あいつと暮らしているんだ…! 俺があの人を求めていれば…
あいつの奥底にいる克哉さんが、たった一度だけでも出て来てくれると
願っているから…!

 だから愛していなくても、身体を重ねている。
 自分を抱く事で、少しでもあいつの奥に存在しているかも知れない己が
求めている方の克哉を揺さぶることが出来るなら、それで良いと思ったから。
 触れ合うことで少しでも、『存在している筈の克哉』に自分の事を伝える事が
出来るならば…虚しいと判っている行為にも、多少は意味があったから。

―たった一度だけの邂逅

 それが…愛してもいない男と生活している意味でもあり、そして…
何よりの願いでもあった。
 だが、太一は気づいていなかった。
 どれだけの時間を重ねていても…身体を繋げていても、今の克哉を…
眼鏡を掛けている方の人格を拒んでいることがどのような結果を
齎すのかを…。

「克哉さん、一度だけでも良いから…俺の前に出て来てよ。…会いたい。
会いたい、会いたい…貴方に、触れたい。感じたい…そして一度だけで
良いから…貴方を、抱きたいんだ…」

 たった今、幸せな夢を見たからこそ…太一は思いつくままに己の本当の
欲望を、望みをとりとめなく口にしていく。

「…俺が求めているのは、貴方だけだから…だから、出て来てよ…克哉さん…」

 本当に壊れてしまったかのように、何度も何度も求める言葉を…呪詛のように
繰り返していく。
 それは太一の中であの人が消えてしまった日から繰り返し頭の中に
響き続けている…未練であり、本心。

「あんな奴なんて、いらないから…。俺は、貴方だけに会いたいんだ…!」

 太一は、気づいていなかった。
 眼鏡を掛けた方も、掛けていない方も表面的にはどれだけ性格に違いが
あっても…根っこの部分では、繋がっている事に。
 片方を拒絶すれば、傷つければ…もう片方をも傷つけることになる事に。
 だから、知らなかった。

―アパートの前に立っていた眼鏡を掛けた克哉。その相手に…今の呟きを
聞かせれば聞かせるだけ、心の奥底に存在している克哉をも傷つけて…
その精神を瀕死にさせていたことに…。

 太一が否定をすればするだけ、眼鏡の克哉も…奥底に存在する克哉の
両方を傷つけていく。
 かすかな太一の本心をドアの向こうで聞いていきながら…眼鏡を掛けた
克哉は…立ち尽くしている事に、ベッドの上の青年は気づかない。

―そして、今…一瞬だけ、求めている方の克哉が意識に上がったことにも
彼は知らないままだった…

 太一は繰り返す。
 片方をズタズタに傷つける言葉を。
 そして、片方だけを求め続ける。
 それが…どれだけ佐伯克哉という人間を分裂させて、追い詰めていたのか
その罪に気づくことがないまま…彼ら『三人』の物語は佳境に静かに
入っていったのだった―


 以前に書いた残雪を、改めて構成し直して再アップ
したお話。太一×克哉の悲恋です。
 1話と2話は以前にアップしたものの焼き直しですが…
3話目以降からは一からの書き直しになります。
 書き掛けで止まっている話の方は(不定期連載)の方に
あります。

 残雪(改) 
          

―ふとしたキッカケでサンストーンの事を思い出したおかげで、
再び眠りに落ちた時…太一の脳裏にはもう一つの克哉との
思い出が浮かんでいった。
 ベッドの上で未だに一方的な行為で激しく軋んでいる身体を
眠ることで休めている。
 夢というのは…肉体が眠り、脳が一時的に覚醒している…現実との
境目に浮かび上がるもの。
 本来なら、あやふやな夢に縋っても何も生み出さない。

(けど…俺が会いたくて仕方ない克哉さんは、もう夢の中にしか…
存在してくれないから…)

 だから太一は、心が折れそうになると…克哉との思い出を
出来るだけ思い出そうとしている。
 自分に対して加減がなく、冷たい男との生活は太一の心を大きく
荒ませていたから。
 そうすれば…自分が恐れた、『黒』の感情に呑み込まれてしまうような
気がしたから。

(…俺は忘れたくないんだ。貴方と過ごした日々を…。そして、白の…
堅気の世界の温もりや、暖かさを…)

 人を殺したり貶めたり、平然と利用するような世界に浸りたくはない。
 己の想いを歌に乗せて、日の当たる場所で生きたい。
 その気持ちがこんなに強くなったのは果たして…いつの頃だっただろうか。
 ふと思案した瞬間、太一はもう一つのキッカケを思い出していく。

「ああ、そうか…克哉さんと会ったから、だ…」

 そして、何気なく部屋の片隅に置かれていたギターを見つめていく。
 ミージシャンになりたいと、世界に認められるようなアーティストになりたいと
必死になってバンドで歌っていた事もあった。
 だが、この一年…太一は歌えなくなっていた。
 あれだけ逃れたかった祖父の事も、今ではどうでも良くなっている。

(忘れちゃ、駄目だろ…)

 無意識の内に、そう自分の中で突っ込んでいく。
 夢を忘れたら、何の為に東京まで出て来たのか判らなくなる。

(克哉さん…克哉さん、克哉…さん!!)

 無意識の内に思い出に、縋った。
 自分の夢を見失わない為に、あの人を求めた。
 その心が…太一にもう一つの出来事を思い出させていく。
 
 ―そして夢の中で、もう会えなくなった人との思い出に再び浸っていく

 その時…懐かしさの余りに、太一は…無意識の内に静かな
涙を浮かべていった。
 夢の中だけでも…あの人に、会いたかったから…
 一緒に、笑いあっていたかったから…

                  *

 ―あの人と一緒にいると、無邪気で優しい自分のままでいられた

 正に、白い世界に。血、暴力、殺人、そういう事柄から無縁で
いられるような…そんな気がした。
 遠くからずっと見ていたあの人は…優しくて、穏やかで。
 この人の傍でなら、自分もきっと同じように振舞っていられるんじゃないかと…
そんな風に感じていた。

 大学に進学してから三年目。
 その秋頃に、太一は喫茶店を訪ねて来た克哉と正式に知り合った。
 以前から遠目で、出勤中の克哉を見守っていた。
 いかんせん、パンを口に咥えながら全力疾走という漫画の中では良く見かけるが
現実には滅多に遭遇しない事を体現しているような人だった。
 最初はびっくりしたけどおかしくて、そんな自分の気持ちが優しくなっている
ことに太一は気づいた。
 遠くから克哉を眺めていて、どんな人だろうって考える度に…幸せで
満ち足りた気持ちになって。
 ただ、見ているだけでもあの人は太一に温かいものを齎してくれていた。
 だから…知り合えた当初はとても幸せだった。

 ―けれど、長く一緒にいればいるだけ…次第に、克哉と一緒にいても
黒い自分の欲望は、鎌首をもたげるようになってしまった―

 それは、太一が初めて克哉をバンドのライブに招待した翌週の
平日の夜の出来事だった。
 曲作りに詰まってコンビニにフラリと立ち寄ったら…遅めの夕食用の
弁当を購入しようと先に来店していた克哉とばったり遭遇して、結局もう少し
一緒にいたいと我侭を言って…自分のアパートに克哉を招いたのだ。
 克哉をアパートに招いたのは、ギターを教えた時以来のことだった。
 コンビニで買ったスナック類と、弁当、おにぎりを摘みつつ…雑談を
していたら、仕事で疲れていた克哉は、さっきまでは頑張って睡魔と
戦いながら太一と会話を続けていたが、たった今…それに負けて
重く瞼を閉ざしてしまっていた。

 その頃の克哉は、プロトファイバーの当初の目標を引き上げられて…
会う度に、どこか辛そうだった。
 けれど太一は…克哉ならそれでも出来ると思っていたし、良い方向に
進んで欲しくて必死になってさっきも励ましていた。
 それで安心したのだろう。目の前の克哉は…とても穏やかな顔を浮かべていた。

「…あ~あ…克哉さんってば、相当に疲れているみたいだな…せっかく俺と
会えたっていうのに…こ~んな無防備な寝顔を晒しているんだもんな~」

 克哉の瞼がしっかりと下ろされてしまってから2分ぐらいした後、
どこかのメーカーの新商品の「ドロリ濃厚!カボチャシェイク」なるものを
喉に流し込みながらぼやいていった。
 太一としてはまだまだ克哉と話したりないので…思いっきり肩を大きく掴んで
揺さぶって起こしたい衝動に駆られたが…疲れているのも、態度と言葉の端々から
感じ取っていたので、このまま寝かしておいてやりたい…という感情と戦っていた。
 まずは気持ちを落ち着ける為に、味見に購入した品をグビグビと飲んで…
冷静な批評を下していく。

「…ん~やっぱり、このメーカーの新商品ってピントがどっかズレてしまって
いるというか…まずくないんだけど、何か微妙な感じだな。
 カボチャの風味が濃厚で甘くて…何ていうかカボチャの煮物に牛乳を
混ぜて、それをシェイク状にしたってそんな感じだなぁ。一度飲めば
もう充分だな…。ほんっと、ここって伝説に残るようなイマイチ商品
ばかりをリリースする所だよな。ここのを一度は試す俺も充分な
チャレンジャーだけど…」

 そういって、全てを一応飲み干すと机の上に缶を一旦置いて、太一はその場から
立ち上がっていった。
 そんな事をやっている間に、余裕で五分は過ぎた。
 さっき、克哉の寝顔を見た瞬間…動揺してしまったが…それもどうにか収まって
太一は冷静な判断をし始めていった。
 …とりあえず克哉をベッドの側面に背を凭れさせながらの格好で一晩寝かす
訳にはいかなかった。
今日は平日で、克哉はさっき…明日も仕事と確かに言っていたからだ。
 本当ならベッドの上に克哉を上げて、寝かしつけてやりたかったけれど…太一の
体格は克哉のものより若干小柄だ。
 起きている状態ならともかく、すっかりと眠っている克哉をベッドまで
上げるのは相当に苦戦することは間違いなかった。

「…まったく、克哉さんってば…。こんな無防備な姿を俺の前に晒しちゃってさ…。
本当、警戒心なさすぎ…」

 そうやって、一旦…太一は克哉の目の前に屈んで、身体を密着させるような
体制になって相手の脇に両腕を回していった。
 
「ほら…克哉さん、とりあえずベッドで寝てよ! 今の時期は夜は冷えるし…
床でなんか寝たら、身体を痛めてしまうからさ…」

「ん…ぅ…」

 そう言いながら克哉がうっすらと目を開いて、とりあえず半分寝ぼけながらも
ベッドに上がる為に…太一の動作を自ら手伝ってくれた。
 その寝ぼけてトロンとなった瞳に、一瞬鼓動が高鳴っていく。
 抱き上げる際、密着していたので…服越しとはいえ克哉の体温と肌の
感触を意識しない訳にはいかなかった。

(克哉さんの寝息と、鼓動だ…)

 それを自覚した瞬間、何故か鼓動が早まっていった。
 だが今は…太一はそれを意識しないように努めていった。
 それだけでも随分と楽になり、結構あっさり…克哉の身体はベッドシーツの
上に沈んでいった。
 自分のベッドの上で、クークーと安らかな寝顔を晒している克哉を見て…
太一は呆れ半分に微笑んでいった。

「克哉さん…まったく、こんな無防備な姿を俺の前で晒して…克哉さんみたいな
良い人はきっと、俺がどんな風な目で…貴方を見ているか、きっと想像したり
しないんだろうな…」

 そう呟きながら、瞬間…克哉のうなじが猛烈に魅惑的に見えた。
 その整った唇に、己の唇を重ねたらどんな感触がするのだろうか…という
黒い欲望が湧き上がっていく。

―止めろよ。そんな目で…克哉さんを、見るなよ…!

 自分の中に眠る、黒い自分が…ゆっくりと目の前で安らかに眠る
克哉を目の前にして…目覚めていくのが判った。
 それを自覚した途端、心臓がバクバクと言い始めていく。

―例えば、その唇に舌を捻じ込んで、グチャグチャと音が立つぐらいに
激しいキスを交わしたら

 きっと、脳髄が蕩けるぐらいに気持ちよくなるだろう…そんな夢想に、
太一は…目の前で眠る克哉を見て、浸り始めていく。

―克哉さんが俺の手で感じたら、どんな痴態を見せてくれるんだろう…。
感じさせたら、凄く可愛い筈だよね…。俺に懇願して、涙を浮かべながら
必死になって縋ってくる姿なんて見たら、きっと堪らないだろうな…

 黒い自分がそんな事を言い始めた瞬間、太一の頭の中で…克哉は
衣類の一枚、一枚を剥がされて…淫らな表情を浮かべ始めていった。
 相手の弱い所を攻め立てて、トロトロになるまで…感じさせたら
どれだけ艶かしい姿になるのだろうか…。
 そんな妄想が、堰を切ったように溢れ始めていった。

(止めろよ…そんな事を、考えるなよ…! 克哉さんは俺の大切な友人だ…!)

―本当にかよ? お前は…こいつを好きで好きで仕方なくて、それで…
壊してしまいたいと思っているんじゃないのか…?

 黒い自分が、ねっとりとした口調で…こちらに問いかけてくる。
 あの人を刺してしまった日から存在していると自覚した…黒くて
冷たくて、酷いことを平気で考える自分が怖かった。
 そうしている間に…自分の脳裏で、克哉は更に乱れ始める。
 硬く張り詰めたペニスを弄ってあげると、淫蕩な眼差しを浮かべて
こちらに懇願するような表情を浮かべている。
 自分の手の中で、克哉の性器が大量の蜜を零してヒクヒクと
震えている。そんなリアルな感覚までも一瞬、思い浮かんでしまって
太一は性的な興奮と、そんな事を考えている自分に戦慄する…
相反する想いを抱いてしまっていた。

(そんな事をだから考えるなよ…!俺と克哉さんは、そんなんじゃ…!)

 心の中で叫んだ瞬間、自分の目の前で…克哉がベッドの上で艶かしく
首筋を仰け反らしていった。
 伏せた睫の影は長く…元々整った顔立ちの克哉に、艶めいた印象を
与えていく。

―正直になれよ。お前は…こいつを抱きたくて、仕方ないんだろ…?
 グチャグチャにして、啼かせて自分の事だけしか考えられないように
したい…支配して、屈服させてやりたいって…そんな歪んだ欲望を
感じているんだろ…?

 もう一人の黒い自分が、時折悪魔のように感じられた。
 そんな事を自分が考えているなんて、自覚したくなかった。
 自分はこの人に優しくしたい、そう思っている筈なのに…相手が自分の
脳裏で黒い笑みを浮かべて、言葉を続ける度に…そんな思いが
まるで儚い蜃気楼のようにすら覚えてしまう。
 ズクン、と下肢が熱を帯び始める。
 それは雄として…目の前の存在を貪りたいという即物的な欲望。
 太一は、そんな自分を…認めたくなかった。
 克哉は大切な人の筈なのに、雪のように白くて純粋なこの人に対して
欲望の眼差しで見てしまっている自分を、自覚なんてしたくなかった。

「違う…違う!」

 太一は必死に頭を振って、そんな思考回路を否定していく。
 彼が拒めば拒むだけ、もう一人の「黒」い自分は…歪んだ笑みを
浮かべていった。

―認めろよ。自分の正直な気持ちを…

「嫌だぁ!」

 自分の夢は、アーティストで、日の当たる場所で生きることの筈なのに
この自分の中に巣食う悪魔が否定すればするだけ、日増しに大きくなって
どうしようもなくなっていく。
 己の中のどす黒いシミ。それに侵食なんてされたくないのに…克哉と
過ごしている間だけは、そんな想いなど今まで感じないで過ぎたのに…
その聖域のような気持ちすら、今晩…否定された気がして、太一は
とても苦しかった。

 暫くその後、太一はハア、ハア…と乱れた呼吸を繰り返しながら
克哉の目の前で葛藤し続けた。
 貪りたい想いと、友人としての克哉を大切にしたい感情がせめぎ合って
太一の中でぶつかっていた。
 そしてその晩…悩んだ末に太一が出した結論は、自分がこの部屋から
出て行って克哉を守るというものだった。

「克哉、さん…ゴメン。きっとこんな俺が貴方の傍にいたら…きっと
貴方をどうにかしてしまう…。傍にいられなくて、ゴメン…」

 眠っている友人を置いて、部屋を出るのは少し苦かったが…今、自分は
この人に対して欲望を抱いているのを自覚してしまった。
 だからもう、今夜はここにいてはいけない気がしてしまった。
 太一にとって、この時…克哉は聖域だったから。
 彼の笑顔は優しくてあったかくて、自分の心をいつだって明るく照らして
浄化してくれていた。
 そんな克哉を、自分の欲望の赴くままに手を出して…この関係が
変わってしまうことを恐れて。
 だから逃げてしまったけれど…。

―今思えば、この時に触れておけば良かったな…。少しでも克哉さんの
感触を、知っておきたかった…

 少しだけ後悔の念が、静かに浮かび上がる。
 それに…過去は、変えられるものではない。
 愛しげに太一は…夢の中でしか最早会えない人を見つめていく。

「克哉…さん…」

 大切なものを扱うように、愛しげにその名前を呼んでいく。
 …けれど自分を正に留めたくて、克哉の頬にそっと指を這わせて…
一瞬だけ触れる儚いキスをした。

―どうか貴方が今晩、安らかに眠ってくれますように…

 そう素直に祈りながら、太一は自分の部屋から立ち去ろうとした。
 だが…安らかな寝顔をもっと見ていたくて…少し離れた位置で、克哉を
見守っていく。

(…起きるまでで良い…。その間だけでも良いから…俺の傍にいてよ…)

 距離を保つことで、この人を穢さないように配慮していく。
 そしてその夜…克哉がうたた寝から起きる30分程度の短い時間…
太一は、確実に幸せだった。

―そしてその事を思い出し…太一は、眠りながら…静かに一筋の
涙を流して…失った過去を愛おしく感じていったのだった―

 

 以前に書いた残雪を、改めて構成し直して再アップ
したお話。太一×克哉の悲恋です。
 1話と2話は以前にアップしたものの焼き直しですが…
3話目以降からは一からの書き直しになります。
 書き掛けで止まっている話の方は(不定期連載)の方に
あります。

 残雪(改) 
        

―ああ、貴方はどうやら…太一さんの贈った石がどうなったのか
気になって仕方ないみたいですしね。ふふ…良い感じにご子息と
気持ちが重なって来たみたいですね。
 こういう余興も悪くはないでしょう…? どれだけ話しを聞いたとしても
こんな風に他者の体験を自分のもののように感じることは基本的には
人には不可能です。
 別の人生を体験している気分になって、ワクワクしているんじゃないんですか…? 
えっ、自分はそんなに不謹慎じゃないと? 失礼しました。
 ですがあの石は太一さんの想いが強く込められている品。
 確かに気がかりになるのは判ります…。
 なら、その答えを貴方に断片的にお見せしましょう…。
 次からは克哉さんの視点となります。
 貴方にとっては気持ちの良いものではないのは判りますが真実というのは
両方の立場や考えを知った上でなければなかなか見えてくるものじゃありません。
 では、次なる場面をお見せしましょう…。
 太一さんの贈った石の、その行く末を…貴方に…

―そして再び視界が真っ白に染まり、別の場面が始まろうとしていた

 男はこの奇妙な体験に確かに、指摘された通りに一種の興奮を覚えていた。
 自分の知らなかった出来事を知ることで、ただ憎いだけだった克哉の存在が
別のものへと変わっていくようだったから。
 自分の息子が、かつての人の良さそうな彼に対してはあんな風に幸せそうに
接しているのを知ってしまったから。
 だから謎多き男に導かれるままに…男は真実を辿っていく。

―そしてゆっくりと、太一が救われる日に至るまでの道筋を辿っていった―

                        *

 眼鏡を掛けた方の克哉は多くの人間が行き交う雑踏を、当てもなく
歩き続けていた。
 目的地などなく、ただ気の赴くままに池袋の街を歩いていた。
 この駅で降りたことに何の意味もない。
 単なる気まぐれであり…深い意味もなかった。
 都会の人間が行き交う光景は、無機質な波のようなものだ。
 人間が個別の心を持った存在ではなく、ただの集合体のようにすら
感じられる瞬間がある。

(どうして…俺は今でも、こんな物を手放せないでいる…?)

 太一が、太陽の石の存在を思い出したのとほぼ同時刻。
 男は…自分が愛用しているスーツの中に偲び続けていたオレンジ色の
石の事を忌々しく感じ始めていた。
 この石はもう一人の自分が、とても大切に思っていた品だった。
 太一に『お守り』だと渡されて以来、肌身離さずに持ち歩いていた。
 だから必然的に、男が持ち歩く形になってしまった。

(あいつが持っていた品など…俺には何の関係もない筈だ。こんなちっぽけな
石…その気になればいつだって捨てられる。なのに…どうして捨てられない?)

 克哉は雑踏の中で立ち止まると、ふと胸ポケットの中を手で探って…
その明るい色合いの石を取り出していく。
 まるで太一の髪の色のような鉱石だった。

「…そして、俺はどうして…虚しいと思いながら、あいつと一緒にいる…?」

 太一の事を考えると、どうしてこんなに空虚なものを覚えるのだろう。
 幸せだと思ったことも、満たされたことも無い。
 自分達の間にあるのは、屈服や服従…そんな類の言葉しかない。
 もう一人の自分の事ばかり求めている存在と一緒に暮らして、何の意味が
あるのだろうか?
 何故、こちらの事を否定する男を自分は定期的に抱いているのか。
 その奥に潜んでいる感情を、意図的に…眼鏡は見ないようにしていた。

「ちっ…」

 小さく舌打ちをして、男は身を翻す。
 もう戻ることなど出来ない。
 もう一人の自分の意識は奥深くに眠ってしまっていて…どれだけ呼びかけようとも
応えることはない。
 自分の意識が蓋となり、太一の求める存在を閉じ込めてしまっている。
 それが…いつから自分にとって重石になり始めたのだろう。

(あいつの事を考えても何の救いもないのに…どうして、こんな想いが…
俺の中に存在する? これは…もう一人の『オレ』の感情の残滓が
作用しているのか…?)

 知りたくも、気づきたくもない真実。
 今でもその石を捨てられない意味。

 薄々とは気づいている。
 けれど、敢えて目を背けている。
 恐らく、消えてしまった自分の影響。

―男もまた、どこかで太一を想っている

 だが、その真実から目を逸らす為に紫煙をくゆらせながら…男は
当てもなく雑踏の中を歩き続けていく。
 真実から、目を背けるように…。
以前に書いた残雪を、改めて構成し直して再アップ
したお話。太一×克哉の悲恋です。
 1話と2話は以前にアップしたものの焼き直しですが…
3話目以降からは一からの書き直しになります。
 書き掛けで止まっている話の方は(不定期連載)の方に
あります。

 残雪(改) 
      


 太一と克哉の優しい思い出の場面が終わると同時に、シンクロしていた
男の意識も一旦途切れて、現実へと引き戻されていった。
 深い深海から、一気に地上に戻されたかのように苦しくて…男は
息をゼイゼイとさせながら、必死に喘いでいた。

―おや、どうしましたか…? 随分と冷や汗を掻いていらっしゃるようですが…?

 男が恭しく、こちらを心配するような素振りを見せていく。
 だが、男は相変わらず無言を決め込んだまま…ただ、Mr.Rを
睨みつけていくだけだった。

「………」

―まったく先程から貴方はずっとだんまりですね。確かに私を警戒するのは
仕方ないことだと思いますが…私は貴方が知りたくて仕方ない事の答えや、
太一さんと克哉さんのその経緯を、好意で教えて差し上げているのに…
いつまでも疑われたり、警戒されてばかりで…感謝の言葉一つもないままなら
虚しいですから、ここでその道筋を追うのを中断したってこっちは構わないん
ですよ…? 

 流石にこの段階になっても、未だに満足に言葉を発さない相手に、
黒衣の男も苛立ちを覚えたらしい。
 口調は穏やかながら…それは遠回しな警告であり、脅しでもあった。
 赤い天幕で覆われ、エキゾチックな香りで満たされた妖しい空間だった。
 ここが本当に現実の場所なのか、疑う気持ちも未だにあった。
 だが…確かにどんな仕組みや力なのかは判らないが、男はずっと…
あれ程一時はどん底に堕ちて荒れていた太一が、立ち直ったのか
その答えを追い求めていたのだ。
 だから…もう、ここは折れるしかないと観念し…やっと男は口を
開き始めていった。

「…それは困るな。俺の息子が…あの克哉って男とどんなことがあって、
そして…復活したのかずっと答えを求めていた。それを中断されたら
堪ったモンじゃないな…」

―やっと言葉を発して下さいましたね…。なら、このまま続行という
形で宜しいですか…?

「嗚呼、ここまで見ちまったら途中で止められたら不完全燃焼に
なっちまう…。最後まで、見せてくれ…お願いする」

―ええ、そういって頂けたのならば…私も貴方のお願いを無下に
断る理由はありません。夜は長いです…その間に、あの二人の間に
起こった出来事を貴方にお見せしましょう…。貴方が知りたかった答えは
その中に確実に存在していますから…

 ようやく男が言葉を発して、会話が成り立つようになった事で…
Mr.Rの機嫌も治っていった。
 この男性をクラブRに今夜招いたのは、完全にRの気まぐれだった。
 気が向いたから、このような真似をしただけの事だった。
 何故なら、今の男は退屈だったから。
 自分を満たして刺激的な時を与えてくれた佐伯克哉は…不完全な
形でしか存在しない。
 今現在の彼は、つまらなくなってしまって男にとっては興味を
そそるものではなくなってしまったから…。

(…あの時の私は、間違えてしまったんですよね…。余計な因子を
取り去れば、あの方は完全になると。私の望む者になってくれると
思っていた。だが…あの日、弱い方の克哉さんが消えたことによって
あの方は…いえ、過去を振り返っても仕方ないですね。もう…私の
望みは満たされることはない。
 ならば…せめて過去を振り返り、そのピースを繋ぎ合わせることで
私のこの退屈を紛らわせる事としましょうか…)

 男は様々な想いを交差させていきながら、そっと太一の父親で
ある男性の方に手を伸ばして…その目元を、白い手袋で覆われた
指先で伏せていった。
 そうされた瞬間に父親の意識は遠退いていき、再びRが紡ぎ直した
二人の過去へと堕ちていく。

―さあ、序幕は終わりました…。嗚呼、克哉さんにあの太陽の石を贈る
場面を最初に選んで見せたのは…その出来事が、太一さんを再び
蘇らせる大きな布石となっているからです。
 むしろ其れがなくては、あの二人の物語は…悲しくも美しい悲恋は
成立しないのですから…。
 どうか、その事を頭の片隅に入れていきながら…これからの展開を
眺めていってくださいね…

 愉快そうに笑いながら、Rはそう告げて…男の意識を再び闇の中へと
落としていく。
 そして…太一の過去を追う物語の二幕がゆっくりと開かれていった―

                     *

 夢から目覚めると、心だけは暖かかった。
 克哉との幸せな一幕を久しぶりに見れたから。
 けれど…自分が会いたくて仕方ない方の克哉は、もう存在していないと
いう事実を思い出すと太一ばベッドの中で大きく塞いでいった。

「…嗚呼、そういえば…そんな出来事もあったよな…」

 克哉に贈った太陽の石、サンストーン。
 自分の髪の色に良く似た色合いの石。
 あの日の克哉は本当に可愛くて、その満面の笑顔を思い出すだけで
こちらの心は満たされていくようだった。

「…あの石、克哉さんはどうしたんだろ…? 肌身離さず持っていて
くれたとしたら…今はあいつの方が持っているって事で! うわっ…
何か俺と克哉さんの大切な思い出が穢されるみたいで嫌だな。
…克哉さんの部屋か何かに、置かれたままなのかな…?」

 あんな夢を見たから、つい…あの日贈った石が何処にあるのか
凄く気になってしまった。

(けど…あの性格悪そうな奴が、こっちが聞いたってまともに
答えてくれる訳ないよな…)

 太一は深い溜息を突きながら、しみじみと考えていく。
 思い出してしまった以上…あの日渡した石が今は何処にあるのか
どうしても知りたかった。
 聞いても無駄と知りながらも…ふと、太一は一度だけでも尋ねて
みようかなと考えていく。

(無駄だって判っていても…やるだけやってみるか…。あの石に、俺は
克哉さんへの愛情をいっぱい込めたんだからな…)

 白い方の克哉の為に、当時彼が担当していた営業が上手く行くようにと
精一杯の気持ちを込めたお守りのつもりだった。
 その想いを思い出してしまったからこそ…太一は、どうしても知りたいと
いう感情を抑えることが出来なくなってしまった。

「…一応、あいつに聞いてみよう…」

 そう、決心して…太一はベッドの上から身体を起こして、乱れた服装を
整え始めていった。
 だが、この時点では彼は気づいていなかった。

―その石の事を眼鏡を掛けた克哉に聞くことによって大きな激震が
起こることなど、この時点の太一には知る由もなかったのだった―



以前に書いた残雪を、改めて構成し直して再アップ
したお話。太一×克哉の悲恋です。
 1話と2話は以前にアップしたものの焼き直しですが…
3話目以降からは一からの書き直しになります。
(それでも流れ上使えると思った部分は再構成した上で
使用することもあります。了承下さい)
 書き掛けで止まっている話の方は(不定期連載)の方に
あります。

 残雪(改) 
    

 太一は夢を見ていた。
 そして傍観者である男の意識もまた、今は太一の方の意識と
同調し、ゆっくりと意識の深遠へと共に堕ちていき…同じ幻想と
感情を共有していく。
 現実が彼にとって目を背けたいぐらいに辛いものであればあるだけ、
かつての佐伯克哉との思い出がキラキラと結晶のように輝き続ける。
 一緒にいた時間がどれだけかけがえのないものだったのか。
 他愛無い日常の一幕を自分がどれだけ愛おしいと思っていたのか…
あの人を失ってしまったからこそ、嫌という程思い知らされる。

―克哉さん。せめて…夢の中だけでも良いから、俺は会いたいよ…

 何故、自分を感情もなく抱く男と一緒に暮らしているのか。
 それは…太一が、奇跡を信じているからだ。
 あの男に、「すでにあの弱い方の佐伯克哉はもういない」と言われた日から
太一はそれでも祈り続けた。
 せめてもう一度だけでも良い。

―あの人に会いたい、話したい。そして少しでも触れたい…!

 そう希望を捨てない事が…彼の正気を辛うじて留めていた。
 傍にいた時は克哉はとても綺麗で。
 堅気の世界にいた人を…巻き込むのが怖いという想いが
先立って、なかなか気持ちを伝える事が出来ないでいた。
 あの人に抱いていた感情が恋であったと気づいたのは…
皮肉にも、二度と会えないと宣言されてからの事だった。
 
―克哉さん、克哉さん…もう一度で良いから、会いたいよ…!
貴方の笑顔が、見たいよ…!

 そう願うからこそ、太一は必死に自分の中から…克哉と
過ごしていた三ヶ月間の思い出を必死になって意識の底から
掘り起こしていく。
 佐伯克哉に会えないと突き付けられようとも…自分の中の
思い出までは記憶喪失にでもならない限りは消える訳ではない。
 だから何度も何度も、太一は反芻していく。
 克哉を決して忘れない為に。
 
―この想いを決して見失わない為に…!

(お前なんかに、決して屈してなんかやらない…! お前みたいな奴を
押しのけて、必ず…克哉さんは戻って来てくれる…! だから、
負ける…もの、か…)

 心の中で強く思いながら、太一は克哉の夢へと意識を向けていく。
 それはかつて当たり前のようにあった日常。
 再びそれを取り戻す日を強く望んでいきながら…太一は、ゆっくりと
克哉との思い出へと浸り始めていったのだった―

                      *
―過ぎ去ってしまえば、他愛無い思い出の一つ一つさえ、とても
大切なものであったことに気づいた。

 あの人がまだ自分の傍にいて微笑んでくれた時、こんなにも早く
会えなくなる日が来るなんてまったく考えていなかったから。
 過去を振り返り、太一はつくづく思う。
 その時間がどれだけ掛け替えのないものであったかを思い知った
今の自分が…過去に戻れたなら。

―きっと、もっと克哉に気持ちを沢山伝えていただろう

 伝えきれない言葉が結晶となり…己の中に積み重なっていく。
 それは雪のように純粋で、冷たい透明な想い。
 
―ねえ、克哉さん。俺は本当に貴方が…好きだったんだ。恋だって
自覚する前から…貴方と、知り合った時から…ずっと…

 何度も、心の中で問いかける。
 けれどもう想いは伝わらない。
 克哉の存在は、今となっては太一の心の中にしか存在しない。
 それでも、何回も何回も問いかける。
 第三者から見たら、きっと過去に囚われてウジウジしているようにしか
見えないのかも知れない。
 けれど引きずるという事は…それだけ、その存在が自分の中に食い込んで
重要な存在だった証だ。
 大切でも何でもない相手の為に、人は傷ついたりはしないのだ。
 だからどれだけ痛みが伴っても、太一は…克哉に纏わる思い出の一つ一つを
丁寧に心の中に浮かべていく。

―己の心に潜む、透明でキラキラした想いを…見出す為に

 太一の脳裏に浮かんだのは、克哉に対しての欲望を自覚した日と…
あの事件の間に起こった、他愛無い日常の一コマだった。
 プロトファイバーの営業の件に関して、目標値に達するか達しないかの
瀬戸際に立たされていた頃。
 克哉は、息抜きの為に仕事が終わった後…喫茶店ロイドの方に足を
向けてくれた日のことだった。
 太一もまた、その日は三時には大体のカリキュラムをこなしていたので
夕方の早い時間帯に店の方に入っていた。

 17時になった直後ぐらいの時間帯は、あまり客がいない事が多かった。
 この店のマスターである太一の実父は、これぐらいの頃にフラリと外に
出てしまうことが多かったからだ。
 18時頃の、客が足を向け始めるまでにはほぼ戻ってくるのだが…常連の
方も店主がいない事が判っているのか、太一だけしかいない事が多い
時間帯には、あまり来なかった。
 そのおかげで暇を持て余し、仕方なくスプーンやフォークの類を
ピカピカに磨く作業をする事で時間を潰していた。
 単調な仕事ながら、くすんでしまった銀製の食器を磨くのは…一度始めると
綺麗に輝き始めるので意外に楽しいものだ。
 そうして暫く夢中になっていると…軽く軋み音を立てて、喫茶店の扉が開かれていった。
 その向こうからは、会いたいな~と念を送り続けていた存在が少し申し訳なさそうな
表情をしながら、立っていた。

「…こんにちは。太一、今日はいるかな…?」
 
 どこか浮かない顔をして、克哉が扉の向こうからそっと声を掛けてきた。

「克哉さん!」

 相手の表情に少し翳りがあるのは少し気に掛かったけれど、克哉の顔を見れて
太一は嬉しそうに微笑んでいった。
 そうしてさながら、大好きな飼い主と遭遇出来たワンコさながらに克哉の方に
駆け寄って、ニコニコと笑ってみせる。

「さぁさぁ、早く中に入ってよ! 今の時間帯って客が本当に来ないからさ、
俺…暇を持て余してしょうがなかったんだよね~! だから克哉さんが来てくれて
すっごい嬉しい! 貴方と話していると本当に楽しくて仕方ないからね!」

「た、太一…大げさだよ。オレなんかと話したって、そこまで楽しくはないと
思うんだけどね…」

「ううん、俺はすっごく楽しい。克哉さんは俺がどんな話題を振っても知っている
範囲で丁寧に応えてくれるし、耳を傾けてくれるから。俺…克哉さんのそういう
所、すっごく好きだよ」

「…っ! ありがとう…」

 太一の大歓迎モードに、克哉は逆に腰が引けてしまっているようだった。
 だが一切構わず、克哉の手を引いて強引にカウンター席に座らせていく。
 今の言葉に照れてしまったのか、克哉は軽く頬を赤く染めていた。
 それをこちらに見られたくなくて、顔を俯かせている仕草は本当に…自分よりも
4歳も年上の人なのに、可愛すぎると思ってしまった。

(あぁ…今日も、克哉さんってば本当に可愛いよなぁ…)

 ポワーンとなりながら、手早くテーブルを拭いて…冷たい水をそっと差し出していく。

「克哉さん、今日の注文は…? また、いつもの奴で良い」

「うん、それで…。確か、卵のサンドイッチだけだったらマスターがいなくても太一が
作れるようになったって言っていたから、その腕前を確かめる意味でもお願いするね」

「うわ! 克哉さん酷い! 前回に来た時に…その腕前をちゃんと披露して、キチンと
実証したじゃんか! 俺の言葉と実力を疑うつもり?」

「はは、疑っていないよ。信用しているって。そうじゃなければマスターがいないって
判っている時間帯にわざわざ来たりしないし。午後五時から六時の間に来れば
太一の特製のサンドイッチが食べられるんだろ? だからわざわざ時間調整して
直帰にして…そのまま此処に来たんだしね…」

 今の克哉の一言に、太一はジ~ンと幸せな気持ちを覚えていった。
 自分が以前に伝えたことを、きちんと克哉が記憶してくれていたことが判って
半端じゃなく嬉しくなる。
 この頃の太一はすでに、克哉への想いを自覚し始めていた。
 だからこんな日常の他愛無いやり取りや、一言から…とても幸せな気持ちに
なっていたのだ。

「…マジ? うん! それなら…腕に寄りを掛けて、とびっきり美味しいサンドイッチを
克哉さんに食べさせてあげるよ! だから少し待っていて!」

 そういって瞳を輝かせながら、太一は克哉の為に精一杯美味しいものを
作ろうと気合を入れていった。
 エッグサンドの下ごしらえをしている時間すら、今思えば嬉しくて仕方なくて…
幸せな一時だった。
 そうして太一が意気揚々と、仕上げたばかりの自信作を克哉の前に出していくと
翳っていた克哉の顔が、嬉しそうに輝いた。

「はい! 克哉さん…俺の自信作出来たよ! 早速食べてみてよ!」

「ん、ありがとう太一。それじゃあ早速食べさせてもらうね」

 そういって会話をしている間は、克哉は柔らかい笑みを浮かべている。
 だがこっちが熱中して作業をして口を閉ざしている間、やはり克哉の方の
表情はどこかぎこちなくて硬いものだった。
 そこから…太一は、克哉の気持ちが今日は重いものになっていることを
読み取っていった。

(克哉さん、きっと今日…何かあったんだろうな。何か表情が浮かないみたいだし…
俺と話していない時は表情も硬い。…前にも、今やっている営業は結構大変
みたいな事を言っていたしな…)

 克哉はあまり、自分の事を語らない。
 そして愚痴めいたこともあまり言おうとしない。
 けれど…最近は親しくなってきたので、断片的にだが会社でのことも少し
話してくれるようにはなっていた。
 太一が知っている範囲で判ることは、克哉が今…営業を担当しているプロトファイバーは、
御堂とか言う上役のおかげで、結構大変な想いをしているらしいというぐらいだ。
 そんな克哉を励ましたい、笑わせて少しでも気持ちを軽くしてあげたかった。  

―克哉の為に何かをしたい、と純粋に太一は思った

「ねえ、克哉さん…良かったらサンライズオレンジでも飲む? 今たまたま…在庫に
あるんだ~。この間、特売で安かったから勢いでつい買っちゃったんだけど…」

ぶはっ!

 サンドイッチを摘む前、軽く喉を潤そうとグラスに口をつけて、冷たい水を喉に
流し込んでいた最中の克哉が盛大に吹いていく。
 「サンライズオレンジ」は克哉が取引しているMGNの、現在メインとなっている
「プロトファイバー」の前に大々的に売り出していた商品だ。
 美容と健康を歌っていたが、身体にどれだけ良い成分を配合しても味があまりに
微妙すぎた為に…一般層には受け入れられず、大量の在庫を抱える羽目になった
いわくつきの商品である。
 克哉からしたらこの状況でその単語が出たのは、予想外も良い所だった。
 意表を突かれる形になった為に、盛大に水を吹いてむせる羽目に陥った。

「うわっ! 克哉さん大丈夫!」

「うっ…ケホ、ケホ…だ、大丈夫…ちょっとあまりに懐かしすぎる単語を耳に
して驚いただけだから…。けど、遠慮しておく。あれは一応…うちの部署も
営業扱っていた商品だけど、味は本当に微妙というかマズイっていうのは
よ~く判っているから…」

「ゴメン、克哉さんを和ませようと思って軽口を叩いていたんだけど…苦しい
思いをさせちゃったね…」

「いや、良いよ。オレ…正直言うとちょっと本当にこのままで目標値を達成出来るか
凄く不安になっちゃってさ…。だから、つい此処に足を向けてしまっていたから。
太一の傍にいると、安心出来るっていうか…自信が少し持てるようになるから。
だから気にしなくて良いよ。太一が気遣ってくれているだけで…オレは充分、
気持ちが暖かくなっているからさ…」

「えっ…」

 真正面から、予想外のことを言われて…太一の頬が一気に赤く染まっていく。
 何というか、あまりに嬉しいことを言われて顔が火照り始めていった。

(うわうわっ! 克哉さんってばもしかして無自覚…? 今の言葉、すっげ~俺…
嬉しかったんだけど…!)

 太一がつい、無言で口元を覆って顔を赤くすると…どうやら克哉の方も自分が
恥ずかしいことを言ってしまった自覚が出たらしい。
 二人して…何か居たたまれない気持ちになって、お互いからソッポを向いてしまう。
 何というか、微妙な空気が流れていく。
 甘酸っぱいような、恥ずかしいような…そんな雰囲気だった。

(な、何か話した方が良いよな…この流れを変えないと。俺の部屋とかでこういう
空気になるなら大歓迎だけど…もうじき親父が帰ってくる頃だし、他の客もこれから
押し寄せてくる時間帯だしな~)

 心底残念に思いながらも、太一はどうにか…この流れを変える為の口実を
どうにか探していった。
 本音言うと、克哉を引き寄せて抱きしめたりキスしたりしたい衝動に駆られていた。
 だが…いつ、第三者が踏み込んでくるか判らない状況で、実行に移すわけには
いかなかった。
 万が一それで常連客が来店して来て、ただでさえ少ない客が離れていくような
事態になったらそれこそ自分が父に殴られかねない。
 辛うじてそう理性を働かせていきながら、その衝動を堪えていった。
 だからポケットをゴソゴソと探していくと…先日、気まぐれに購入した品の包みが
指に当たって…太一は反射的にそれを克哉に向かって差し出していった。

「か、克哉さんこれ…良かったら貰って! 大したものじゃないけど…!」

「えぇ?」

 唐突な展開に、克哉もまた…素っ頓狂な声を漏らしていた。
 どうやら頭と場面の切り替えが上手く行っていないようだった。
 それでも太一は現在の流れを変える為に半ば強引に、紙製の包装をされていた
その品を押し付けていく。

「それ、パワーストーンだから。俺の今の髪の色に近いからつい気になって買っちゃった。
確かサンストーンって言って…人の眠っている才能を目覚めさせたり…生命力や
活力を与えてくれる力があるんだってさ。俺もそんなに詳しくはないけど…今の克哉さん
落ち込んでいるみたいだしさ。俺は元気一杯だし、きっと力になると思う。
…お守り代わりと思って、受け取ってよ。それで少しでも克哉さんを励ましたり
力づけられるなら…俺、すっげ~嬉しいからさ…」

「えっ…でも、これ…太一が買ったものなんだろ? 貰って…良いのかな…?」

「うん、克哉さんに持ってて欲しい。俺の髪の色に近い石って言ったでしょ? だから
俺が傍にいて貴方を見守っているんだって…そう思って大切にしてくれたら…俺も
すっごく嬉しいからさ…」

「あ、うん…! ありがとう太一…嬉しい…」

 この日の克哉は、本当に落ち込んでいた。
 だからこそ…この太一の気遣いを、本当に心から感謝していた。
 嬉し涙をうっすらと浮かべて、微笑んでいる克哉の表情はとても可愛くて…自分よりも年上で
身長も高い人だっていうのに、男の保護欲を酷く掻き立てられた。
 太一が渡した、サンストーンは…古来より、「太陽」を意味する名称をつけられてきた石だ。
 オレンジ色にキラキラ輝く姿は、太陽を連想させるからだろう。

「本当…この石、とても綺麗だね。太一の髪の色と良く似ているし…。
うん、太一が傍にいてくれていると思えば、すっごく心強いよ…」

「か、克哉さん…そんな風に真っ直ぐ見つめられながら言われると…その、
俺、すっげー照れるんだけど…!」

 あまりに克哉が可愛らしい顔を浮かべていきながら、感謝の言葉を口に
していくのが柄にもなく太一は照れて、頬を赤く染めていた。
 ふと見せた年相応の表情に、克哉は優しく瞳を細めて笑っていく。
 その顔がまた青年には魅力的に映ってしまって…心臓がバクバク
言い始めているのが判った。

―今思えば、この日に…二人は密かに両想いになっていたのかも知れない

 まだ告白をしていなかった。
 それぞれの気持ちを口にしなかったし、出来なかった。
 太一はすでに己の気持ちを自覚していたけれど…同性同士である、という壁がどうしても
高く感じられてしまって、率直に特別な存在として克哉を「好き」だとは言えなかった。

(あぁ…本当に、克哉さんは可愛いなぁ…。本当に、俺…この人の事が好きなんだな…)

 その事をしみじみと実感した瞬間、店の入り口の扉が開いて…マスターが帰って来た。
 瞬間、さっきまで流れていた甘い空気は霧散していく。
 二人は平静時の表情を浮かべて、変に気取られないように…普通の態度へと
戻っていった。
 だが克哉は、自分のポケットに今貰ったばかりのパワーストーンを収めていくと…
時折、それを確認するように愛おしげに握り締める仕草を繰り返していったのだった―

 この予定調和を崩す、この日の克哉の来訪。
 そして太一が贈ったサンストーン。
 その二つの要素が、本来彼らが辿るべきだった道筋から、皮肉にも新たな道筋を
生み出す原因になってしまっていた。
 この日の二人は、幸せだった。

 けれど不幸にも…大きな事件が起こる前に、克哉が太一への自らの想いを自覚したことが、
彼らにとって、最大の不幸へと結びついてしまった。
 どれだけ想いあっていても、ほんの僅かな歯車の狂いや…すれ違いで、人は思いも寄らない
運命を引き寄せてしまうことがある。
 この日は、いわば…振り返ってみれば最大のトリガーだったのだ。

―そして、この日より二週間後。

 太一は、もう一人の克哉に屈辱的な目に遭わされ…永遠に克哉を喪ったのだった―





 

 ※この話は以前に掲載して、一年ぐらい更新が止まり
続けていた『残雪』を一から構成し直して開始したものです。
 以前の話が時間軸が曖昧で判りづらい部分がありましたので
少々加筆をして、再掲載をしています。
 前回が太一の回想、という形で進めていたのに対して
新しい話はMr.Rがある人物に、夢という形で佐伯克哉と
太一のそれぞれの視点と思惑を垣間見せていくという形に
修正させて頂きました。
 太克悲恋、そして眼鏡×太一要素も含まれている話です。
 それでも構わないという方のみお読みになって下さい。

―おやおや、今の光景が…太一さんに大きな影響を与えていたことを
貴方は自覚していなかったんですか。そうですよ…その一件が
発端となって、太一さんは五十嵐組の跡継ぎになる事に猛烈な
拒否反応を示すようになったんですよ…

 一時、最初の夢が途切れてうっすらと瞳を開いていくと…
目の前には黒衣の男の愉快そうな笑みが浮かんでいた。
 今の夢は、彼にとっては不快でしかない事…苦いものである事など
こちらの表情を見れば明白なことだった。
 それなのにそれを見事にスルーして、愉しそうに言葉を掛けてくる
相手に本気の苛立ちを覚え始めていった。
 だが、文句を言いたくても…頭の中に酷く濃い霧が掛かった
ようになっていて、満足に物も言えない有様だった。

(ち、くしょう…言葉が、出ない…)

 彼が必死になって言葉を吐こうとしても、声は伴ってくれずパクパクと
金魚のように唇を上下させるだけしか出来なかった。

―さて、次はどこからお見せしましょうかね…。はて、どうしましょうか…?
佐伯克哉さんと太一さんの物語は、とても黒い憎悪と…キラキラと輝く
白い雪のような感情で彩られている。
 どちらも妙味があって私には楽しめますが…太一さんにとって辛い
出来事もありますから、貴方にとってはどうでしょうかね…?
 けれど黒い部分も見なくては、決して太一さんを理解することなど
不可能ですしね…。ああ、それならば…最初に汚い部分を
お見せすることに致しましょうかね…。
 どうせ見るなら、綺麗なものから汚いものを見るよりも…
最初に辛いものを見て、その後に…美しくてキラキラしたものを
見た方が真理的にも楽でしょう。
 そういう訳で、まずは…ドロドロした部分から貴方にお見せすると
致しましょう。…そんなに心配しなくて平気ですよ。
 今の立ち直った太一さんを貴方は知っているのでしょう…?
 それなら、耐えられますよ…。では再び夢を紡ぎましょう…

『佐伯克哉さんと五十嵐太一さんのお二人の…愛憎劇の一幕を…』

 そうして、高らかに男は宣言していきながら…彼の意識は再び
闇へと落ちていったのだった。
 まるで、深海へとゆっくりと堕ちていくかのように…。

 そして彼は…ある日の太一の記憶へと、同調していったのだった―

                         *

『あっ…あっ…はあ、うっ…!』

 あまり広くないアパートの一室に、青年の声が苦しげに響いていった。
 望まれない行為に、体中が拒んでいるのが判った。
 その癖、こちらの意思と裏腹に…相手が与える反応に勝手に反応している
己の肉体が恨めしく思った。
 お互いに全裸になることもなく、衣服を纏ったままの乾いた行為。
 愛しているや、好きと言った睦言を囁きあう訳でもなく…ただ太一を痛めつける
だけに過ぎないのに、どうして自分が応じてしまっているのか…彼自身にも
判らなかった。

(早く…終われよ…。いつまで、ヤってやがるんだ…!)

 ギシギシとベッドの軋み音が耳に届いて不快だった。
 胸がムカムカするような憤りを覚えながら、身体だけはそれでも
快感を覚えてしまっているのが悔しかった。
 キスをする訳でもない。ただ身体を繋げているだけだ。
 まるで排泄行為のようなセックスをどうして自分達は繰り返しているのか…
未だに、太一にも判らなかった。

「くっ…!」

 短く、相手が呻くのが聞こえる。
 己の身体の中で相手の熱が爆ぜていくのが判った。
 虚しいだけの行為がやっと終わって、太一は身体を弛緩させていきながら
自分のベッドの上にうつぶせに倒れこんでいった。

(どうして…俺、こんな男と一緒に暮らしているんだろう…)

 太一は、心の底から疑問に思う。
 今の行為で途中何回か達したが、猛烈な飢えは満たされる訳ではない。
 まるで…水を求めているのに、海水を与えられて飲んでいるような気分だった。
 海水でも、一時は喉の渇きを満たせる。
 けれど、それは一時しのぎに過ぎず…海水では決して本当の意味での
乾きを癒す事は叶わない。
 目の前の男とのセックスは、本当にそんな感じだった。

「克哉、さん…」

 太一の唇から力なくそう零れていく。
 背後の男は、答えなかった。己の名前を呟かれていると判っていても…
目の前の青年が呼んでいるのは『もう一人の自分の方』であると
嫌という程、判っていたから…。

「………………」

 そして眼鏡を掛けて赤いネクタイにダークスーツを纏った年上の男は
無言のまま後処理を済ませて、身支度を整えていた。
 太一はそれをつまらなそうな瞳で軽く見やると…相手から背を向けるように
シーツの上でゴロンと転がっていった。
 決して広いとは言えない安普請の自分のアパートの部屋。
 太一が知っている気が弱くて守ってあげないといけないという庇護欲を
掻き立てられる克哉が消えてしまってから…どれくらいの時間が
過ぎたのだろうか…?

(そろそろ、もう一年以上になるのか…。何かこの一年間、俺…何を
やって生きてきたのか…何かはっきりと思い出せない…)

 あの人が消えて、世界は灰色に染まった。
 もしかしたら絶望によって真っ黒になってしまっているのかも知れない。
 自分にとっては日の当たる場所の象徴だった人だった。
 克哉がいたから、どれだけ生活に張りが出ていたのか…毎日が楽しくて
仕方なかったのか、失ってしまったからこそ…思い知らされた。

「克哉、さん…」

 もう一度、消えてしまった存在に向かって呼びかける。
 けれど…同じ顔をした男は、反応することすらもうしなくなった。
 太一の『克哉さん』が自分を決して指していないのだという事を彼も
熟知しているのだろう。
 まるで空気のように…太一の存在などどうでも良いと言いたげに
どんな反応すら示さない。
 さっきまで身体を繋げていたことすら嘘のようだった。
 どこまでも冷え切っていて、冷たい関係。
 それがこの男と一年以上同居していて、出来上がったものだった。

(…こいつと一緒に暮らしたって、克哉さんは…俺の会いたくて仕方ない
克哉さんが戻ってくる訳じゃないって思い知っているのに…。一体何を
やっているんだろう…)

 身体が、鉛のように重かった。
 考える事の全てが、取り巻く環境や状況の全てが何もかもが
どうでも良かった。
 現在の太一は学校を休学している。
 克哉を失ってから、無気力になり…何となく生きているだけになった。
 あくまで休学だから、復学しようと思えば今年度の間ならば可能だ。
 季節は本格的に冬を迎えて…これからの身の振り方を考えなければ
ならない事は判っていた。
 けれど、たった一つの愛おしい光を失ってからは…太一にとっては
ただ生きていることが、呼吸して其処に存在することすらも辛いことに
変わりつつあった。

「…克哉、さん…会いたいよ…もう一度、だけでも良いから…」

 泣きそうな声でそう呟いた瞬間…眼鏡を掛けた佐伯克哉は一瞬だけ
こちらを仰ぎ見ていた。
 だが背を背けている太一はその事実に決して気づくことはなかった。
 涙が溢れた瞬間、先程の虚しいセックスの疲れが猛烈に広がって…
瞼がくっつきそうになった。

―いいや、今は寝よう…。バイトもないし、起きていたって…何をしなきゃ
いけないってものがある訳でもないからな…

 そうして、太一は眠っていく。
 今は冬を迎えているから外気が身を切るように寒いけれど…こうして
布団に包まっていると心地良さに思わず笑みを浮かべたくなる。
 寒いからこそ、暖かい布団が与えてくれる束の間の癒しがありがたくて…。
 そうして、太一はただ一人の人物の事を想いながら眠りに落ちていった。

―今は失ってしまった、儚く綺麗に笑う…佐伯克哉の面影を…
 

 ※この話は以前に掲載して、一年ぐらい更新が止まり
続けていた『残雪』を一から構成し直して開始したものです。
 以前の話が時間軸が曖昧で判りづらい部分がありましたので
少々加筆をして、再掲載をしています。
 前回が太一の回想、という形で進めていたのに対して
新しい話はMr.Rがある人物に、夢という形で佐伯克哉と
太一のそれぞれの視点と思惑を垣間見せていくという形に
修正させて頂きました。
  太克悲恋、そして眼鏡×太一要素も含まれている話です。
 それでも構わないという方のみお読みになって下さい。



―五十嵐太一が過去を振り切り、新しい一歩を踏み出したのと
同じ夜、一人の男が赤い天幕で覆われた部屋へと迷い込んだ。
 その店の名はクラブR。
 主である男に見込まれた人間以外は決して足を踏み入れる
事が出来ない場所だった。

―おやおや、鳩が豆鉄砲を食らったような顔を
浮かべていますね。そんなに…当店に招いたことが
お気に召しませんか…?

「…………」

 男は、何も答えなかった。
 瞳には強い警戒心が宿っている。
 ここが何処なのか、目の前にいる男が何者なのかを
判らない限りは迂闊に口を開かない算段のようだ。
 何も言わなくても、目は口程に物を言う。
 その強い眼光だけで…男の気持ちは現れていた。
 だから相手から何の反応がなくても、Mr.Rは瞳から感情を
読み取り、自分のペースで進行することにしていった。

―嗚呼、何も話す気がないならそれで構いませんよ…。私も貴方と
楽しくおしゃべりをする目的で当店に招いた訳ではありませんから…。
ですがちょっとした気まぐれをしましてね。一年ぐらい前に起こった出来事の
一連を貴方に語っても良いと思ったから…お連れしたんですよ。
 …ずっと、太一さんに何があったのか知りたかったんでしょう…?
 私は貴方が追い求めていた答えを知っています。それを教えて差し上げる為に
招待したんですよ…

 そう、親切そうに語っても相手の瞳からは警戒心が消えることはなかった。
 だがそれぐらいで怯むRではなかったので、相手が沈黙を保ったままでも
気にせず自分の好きなように言葉を紡いでいた。

―嗚呼、私を信用出来ない。疑わしいと思うのでしたら…何もしゃべらなくて
結構ですし、何なら…そのままお帰りになって構いませんよ。けど、
今夜…私が貴方をお招きしたのは本当に気まぐれの事。今宵を逃したら
貴方が追い求める答えは決して…判らないままでしょう。
 それで構わないのならば…どうぞ、お引取り下さい。
 ああ、それは困るようですね…。聞く気があるようでしたら…どうぞ
その赤いソファの上へと掛けて下さい。机の上には…カミュを用意して
あります。…お酒は飲めない訳ではないでしょう? それなら…
その芳醇な味わいのブランデーを堪能して下さい…

 相手の様子は今もなお硬いままだが、店を出て行く様子はなかった。
 赤い豪奢なソファに腰を掛けていきながら…観念して、酒を手に持って
それを勢い良く煽っていく。
 こんな胡散臭い相手が出した酒なぞ、通常の彼ならば決して…手を伸ばす
ことはなかっただろう。
 だが、その場の流れ的に…この男の招待を受けなければ…彼がずっと
知りたかったものは判らないままだと悟った瞬間、腹を括ることにした。

―太一に一体、何があったのか

 彼は、激変した時から何もこちらに話してくれなくなった。
 荒んでしまった太一、そしてある日復活して…元の彼に、否…ある意味
別人のように考え方が変わってしまったことに男はずっと疑問を
覚えていた。
 どんな話が果たして飛び交うか判らないが…腹を括って、怪しい男が
差し出した一杯を飲み干していくと…不意に意識が遠くなった。

―ふふ、薬が効いてきたみたいですね…。嗚呼、心配ありませんよ…。
それは貴方に、太一さんに起こった出来事を夢という形でお伝えする為の
触媒を混ぜておいただけですから…。
 私が口で全部語って差し上げても宜しいですが、その方が…より臨場感を
感じられるでしょう…?
 そうそう、どうせなら…詳しく理解出来るように、何故太一さんが白の世界に…
日の当たる場所で生きることを望むようになったのか、その発端をお見せする
ことにしましょうか…?
 ごゆっくりと堪能して下さいね…

 その言葉に、男は強く睨むことで応えていったが…薬が一気に
効いてた為にもう何もする事が出来ない。
 そうして意識が急速に遠ざかり、何も考えられなくなっていく。

―おやすみなさいませ。どうぞ良い夢を…

 そして最後に、ムカっと怒りを覚えていきながら…男の唄うような
声を聞いて、彼は意識を手放して太一の過去の記憶へと
リンクしていったのだった―

                      *
  ―昔のことを思い出すと、真っ先に浮かぶのは高校時代のあの出来事だった。
 
  それは太一が克哉と出会う、何年も前の話。
  今から七年以上前のことだった。

―生まれて初めて、人を刺した日の記憶

 あれは、親父を守る為には仕方なかったと思っている。
 けれど…まだ未成年だった自分には重過ぎた。
 自分の就職した会社へと走って向かっている最中、まるで走馬灯の
ように太一の脳裏に苦痛の記憶が蘇っていく。
 今思えば…自分が克哉に執着したのも、原点はここなのかも知れなかった。
 そうして…太一は、七年前の実家で起こった大事件をゆっくりと意識の上に
浮かべていった―

 それは五十嵐組の本邸、父に宛がわれた部屋でのことだった。
 その場に居合わせたのは、偶然だった。
 久しぶりに実家に顔を出した父親と、少し話したいなと思ってフラリと
立ち寄っている最中に、太一はとんでもない光景に出くわしてしまった。

―父親が二人の男に襲撃されて、片方の男を撃退している最中に…もう一方に
銃を向けられている現場だった。

 それを見た瞬間頭が真っ白になった。
 同時に、自分が助けなければ…親父が危ないと、心底思った。
 今までの人生に、ケンカや暴力沙汰の方はそれなりの経験を積んで来ている。
 だが、命のやりとりの現場に遭遇したのは…その時が初めてだった。
 太一は、知らぬ間に叫びながら…護身用にいつも肌身離さずに持ち歩いていた
ドスを懐から取り出していた。
 幼い頃から、この家に身を置くのなら絶対に身体から武器を離すな…と言われて
育ってきた。
 五十嵐の本邸は、大きなグループの総帥である母と…五十嵐組の頭目である
祖父がいるせいで、いつその恨みを持つ者が襲撃してもおかしくない環境だったから。
 だから物心をついた時には、幾つも護身術を学ばされた。ドスや、ナイフの類を持ち歩く
習慣も、小さい頃からのものだった。
 けれどその習慣を、その時ほど感謝したことはなかった。そしてその教えの意味を
この瞬間ほど、理解した瞬間は今までなかった。

『親父から、離れろぉ!!』

 父は、好きだった 
 だから考えるよりも早く…身体が動いていた。そして太一は…父の命を狙っていた男の
背面…右脇腹の部分に、ドスを突き刺していった。
 あの手ごたえは忘れない。そして…動脈に触れる部分を刺したおかげで…
見る見る内に、刺した部位から血が溢れて来て…自分の手が汚れていった。
 人を刺した時の、あの鈍くて重い感触、苦い感情。
 それが知らない誰かであっても…自分の中の良心が、酷く疼いた。

―その瞬間に、太一の中で…何か黒い自分が目覚めていった

 太一は、人を刺した瞬間…笑っていた。
 現場にいた誰もが、目の前の光景があまりに凄惨すぎて…太一のその表情の
変化に気づいたものはいなかった。
 けれど…生まれて初めて、血と殺戮を悦ぶ感情が己の中に存在しているのを
自覚してしまった。
 それが冷静な部分では怖くて仕方なくて…けど、そんな太一の内心の怯えと
裏腹に…自分の顔は、冷笑を浮かべてしまっていた。
 返り血を、血飛沫を浴びて…全身を汚した状態で、太一は冷たく言い放った。

『親父からさっさと離れろよ…あんたも、こうなりたくはないだろ…?』

 その瞬間の太一の様子を見た父親からは、「あの時のお前は別人みたいだった。
怖すぎてちびっちまうかと思ったぞ…」と称していたけど、内心で自分も
そう感じていた。
 自分がこんなに冷たい顔と声音が出来るなんて、今まで知らなかった。
 氷のように冷たい眼差し。そして…本気の殺意を向けながら、太一は
冷然と…微笑んでいた。
 その凄味は…とても十代の少年のものとは思えなかった。
 自分の肉親を守る為なら、全力を持って戦う…その時の太一には
その気概があった。
 そして父親もまた、裏の世界では凄腕の殺し屋として名を馳せている男だ。
 二対一の状態で、不意打ちを突ければ男たちにも勝算があっても…
今は逆の立場となってしまっている。
 男は、舌打ちをしながらその場から隙を突いて逃げ出していった。

―現場に残されたのは自分達親子と、たった今…この手で刺した男だけだった

 危機を脱したと自覚した瞬間、太一は…ドっと疲れを感じて呼吸を乱していった。
 その時点になってやっと正気が戻って、今…自分がした行為の恐ろしさを自覚
していった。

『良く、やった…お前のおかげで、命拾いしたぜ…ありがとうな…』

 そういって父親は労いの言葉を掛けてくれた。
 だが、太一は…平然と人を刺して殺そうとした自分が…怖かった。

『親父、無事で…良かった…』

 太一はその時、泣いていた。
 父親を助けられた安堵と、緊張が解けたせいで…その場に膝を突いてしまった。
 それだけなら、感動のシーンだっただろう。

 だが、太一は…この時に初めて、自分が育っていた環境の恐ろしさというものを
五十嵐組のトップになるという事がどういう事なのかを思い知った。
 この時点では、太一の中では…祖父の跡取りとなることと、音楽の道に進みたい
という夢は半々ぐらいだった。
 けれど…五十嵐組を継ぎたくない。そういう想いが生まれたのは…自分の
中にドロドロと黒い、狂気めいたものがあると初めて自覚したこの日からだった。
 泣きながら、歯の音が合わなくなっていた。
 生まれて初めて、人を刺して返り血を浴びた…その強烈な体験は、まだ
未成年の子供だった太一には強烈な体験過ぎたのだ。
 そんな自分を、父親は抱きしめてくれた。
 子供の頃以来の、父親からの抱擁だった。それが辛うじて…『白』い世界に
自分を繋ぎとめてくれた。

―親父、俺…怖いよ。生まれて初めて…人、を…

 泣きながらそう訴えると、父親は黙って太一を抱きしめ続けた。
 任侠の世界に身を置けば、裏の世界に生きるという事はこんな事が起きる
危険も承認しなければならない。
 それを思い知った瞬間、怖かった。
 
―自分の中に、血を見て興奮して喜んでいる自分がいる。どうしようもなく
黒くて…それを愉快に思う部分がある

 それは今までの人生で、気づくことはなかった己の闇。
 …自分は、堅気の世界に身を置きたかった。日の当たる場所で行きたいと
この瞬間に痛烈に思った。

 その事件の記憶が少し遠くなって、高校卒業後の進路を決めなくては
ならない時期に差し掛かった頃には、太一は己の進みたい道筋を
見出していた。
 その当時の太一は、己が『白』の世界で生きる為には…何を犠牲にしても
構わないと思った。
 上京して、都内の大学に通う際に祖父が出した交換条件。
 それは犠牲になる人間たちのことを思えば、本当なら許されるものでは
なかったけれど…音楽をやりたいという気持を持って、まっとうな世界に居続けたい
太一は、その条件を飲み込むしか…当時は道を見出せなかった。

―今、思えば自分があの人に執着したのは…『白』い自分のままで
いたいという…その想いから発したものかも、知れなかった―


 

 ※この話は以前にアップして連載が止まっていた
「残雪」を一から妬き直して改めて書き綴ることに
したものです。
 基本ベースは残雪で使っていた設定や時間軸ですが、
改めて1から書き直す事にしました。

 理由は、連載が止まっている「バーニングクリスマス」や
「残雪」をそろそろ再開して着手しようとした時に…残雪が
時間軸設定とかが非常に判り難くて…太一の
回想視点ばかりで語られていて判りづらい話に
なっていると自分自身で読み返した時に感じたからです。

 もう少し整理して、読みやすい形にした方が良い。
 そういう理由で多少…第一話と二話だけは以前にアップしたものを
加筆修正した上で掲載しますが…それ以後の展開を多少
変えていきます。
 それを了承の上でお読み下さい。

 この話は太一×克哉の悲恋であり、眼鏡×太一要素も含まれている
シリアスで悲しい話です。
 けど、太克版の「雪幻」に当たる話なので…自分にとっては愛着の
ある話なのでもう一度着手します。
 良ければ付き合ってやって下さいませ。

 ―オレ、太一の事が好きだったよ…

 眩い銀世界にヒラヒラと雪が舞い散っている中…克哉の姿が
儚く消えていく。
 何度も、何度もそれは太一の中で繰り返される悲しくて切ない夢。
 けれど…そう告げる克哉の顔はとても綺麗で、愛しくて…
だからその夢を見る度に彼は涙を流し…そして、改めて今も
自分はこの人を愛しているのだと思い知る。

―克哉さん、過去形になんてしないでよ…! 俺は今でも、貴方の事が
世界で一番好きなんだ…! 愛しているんだからね…!

 粉雪の降り注ぐ中、力いっぱい太一は叫んで訴えかける。
 それでも目の前の克哉が…消えていくのを今回も止めることは
出来ない。

―ありがとう。その一言だけで、オレは充分だから…

―たったそんな事で満足なんてしないでよ! 俺がもっと色んなことを
克哉さんに与えてあげるから! もっといっぱい幸せにして…暖かい言葉を
貴方に捧げるから…! だからどうか、消えないでよ克哉さん…!

 この夢を見ながら、どれくらい太一はそう願い続けていただろう。
 けど、夢で何をしようとも現実は変えられない。
 そして過去をどれだけ変えたいと願っても、時間は常に流れて可逆
する事はない。
 一度過ぎたものは決して戻らない。
 その度に太一は絶望を覚えていく。

―大好きだよ…太一…

 そしてまた、胸が熱くなるような…綺麗で儚い微笑を浮かべていきながら…
微かに目元を潤ませて、愛しい人の姿が雪の中に紛れて消えていく。

―もう、克哉さん…本当に酷いよ。そんな顔をしながら…言われたら、
絶対に忘れることなんて…出来ないのに…

 そう、力なく呟きながら太一は雪原に倒れていった。
 雪は冷たくて…うっかり目を瞑ったらそのまま意識が浚われて
しまいそうだった。
 けど、それで良い。克哉の姿がもう存在しないなら…この夢の中に
いつまでも留まっていたくはないから…。
 何度も何度も繰り返される幻想。
 けれど、どんな形でもあの人の姿を今も追い求める太一にとっては…
本当に束の間であったとしても、克哉と会えるなら其れで良い…。

―あ~あ…夢の中ぐらい、俺と克哉さんがハッピーエンドを
迎えてくれたって良いのになぁ…

 そんな悪態をつきながら、太一の意識はゆっくりと覚醒していく。
 目覚めると、眩いばかりの光が部屋に差し込んでいるのが
目に入ったのだった―


                     *

 あの一件から気づけばかなりの年月が過ぎ去っていて、太一にとって
東慶大学を卒業して最初の春が訪れようとしていた。

 大学在学中に、とある大企業の内定を得る事が出来てから半年…
ようやく本日が初出勤に当たる日だった。
 慣れないリクルートスーツに身を包み、五十嵐太一は緊張した面持ちで
必死に自分の髪を撫で付けていく。
 真っ黒な髪をしている自分に激しく違和感を覚えていく。
 観念して昨日、髪を染めた訳だが…見慣れない自分の姿を改めて
見たことで心底、苦い顔を浮かべていた。

「うっへえ…やっぱり、サラリーマン風の髪って俺には本気で似合わないよな。
髪も一応…初日だから黒に戻したけど、早く会社に慣れて…オレンジに
戻したいよなぁ…。何で日本のサラリーマンって、髪の色が黒とか薄い茶色とか
じゃないと認めないんだろ…本っ気でナンセンスだよな…」

 中学の頃から、大学を卒業してほんの数日前まで…太一の髪は明るい
オレンジ色に染め上げられていた。
 だが、流石に就職活動していた時期も流石に黒くしなければヤバイと
判断して染め直したのた訳だが。
 半年振りに見る自分の黒髪の姿に改めて、苦笑したくなる。
 しかも以前と違って、これからはこの黒髪の自分が…職場では
徐々に定着していくのだろう。
 このスーツの色と…ダークレッドのネクタイの色は、自分にとって今も
忘れがたい存在が良くしていた服装だった。

「…やっぱり俺に、サラリーマンって絶対に似合わないよなぁ…。薄々とは
判っていたけど、こうやってスーツとか着てみると…思い知らされるっていうか。
 …けど、何年かこういう経験をしてみるのも悪くないって…自分で決めた
道だし、仕方ないか。ライブとかの時は、スプレーか何かで以前の髪色に
染めるかカツラを使うかすればどうにかなりそうだしね…」

 そういって、シャツの襟を整えて…太一はネクタイをぎこちない動作で
絞めて整えていく。
 どうしてこんな苦しいものを首に絞めるのが、現代のサラリーマンの
正装なのか、堅苦しいものが大嫌いな太一には殺意すら覚えてしまう。

「はは…俺にはやっぱり、貴方と同じ服装は…似合わないね。けど…
俺…貴方のことを忘れたくないから。もう二度と会えなくても…それでも、
克哉さんのことを忘れたくないし、サラリーマンをやっていた頃の貴方の
気持ちを少しでも知りたいって、そう思ったからさ…」

 その色合いのスーツを着た自分を眺めている内に、今も鮮明に自分の
脳裏に刻まれている愛しい人の面影が蘇る。
 鏡に映っている自分の姿が霞み、代わりに…今も焦がれて止まない
優しい笑顔を、その向こうに思い浮かべていく。

「克哉、さん…」

 その瞬間、鏡の向こうで…その面影が優しく笑ってくれたような気がした。

―太一なら、大丈夫だよ…

 そう一言、幻聴かも知れないがあの人が言ってくれたような気がした。

―そうだね。貴方が今でも…傍にいてくれているからね…

 そうして、あの日からずっと…肌身離さずに持ち歩いているお守りを
上着のポケットから取り出していく。
 このお守りの中に入っているのは、ただ一つ…愛している人が残して
くれた物だった。
 今となっては、佐伯克哉はどこにもいない。
 本当にあの人が存在していたのか…どこに消えてしまったのか、
克哉と同じ会社に勤めていた友人、本多ですらも足取りを
掴めないままだと言っていた。
 克哉が最後に現れた時、太一は唯一の目撃者だった。
 そしてその時、目の前で彼が消えていくのを見たから…もう佐伯克哉が
…どちらの克哉であってもいない事を知っている。

 太一も、克哉との思い出の品など…携帯で2~3枚、ライブの時に
撮影した写真画像と、一枚の写真。そして…このお守りの中に
収められているものぐらいだ。
 自分にとって、憎んで止まない眼鏡を掛けた方の克哉も…完全に
消えてしまった。
 五十嵐組の力を持ってしても、生死は判らない。
 生きているのか死んでいるのか…どこで何をしているのかも
どうやってもこの数ヶ月、掴めないままだった。
―けれど、愛憎を抱いた存在が幻のように消えてしまった現状でも
それでも太一を支えてくれたのは、最後に残してくれたこの愛情の
結晶だった

 太一は強く、お守りごとそれを握り締めていく。
 その度に愛しいという気持ちと…力づけられるような気がした。
 人との繋がりは、想いは…例え目の前からその存在がいなくなって
しまっても―喪っても消えないのだと、あの人と知り合ったからこそ
太一は初めて知ることが出来た。

「克哉さん…俺、今でも貴方を愛しているよ…」

 ごく自然に、あの人に向かって声を掛けていく。
 己の中にある負、黒くてドロドロとした感情。
 どんな時も渦巻いて苦しくて仕方なかったその闇を払って
くれたのは…心から自分を愛してくれたあの人と出会えたからだった。
 だから、この先…別の人間と結ばれ、その人間と手を取り合って
生きていく日もあるかも知れない。
 だが、このお守りの中にある物だけは…太一が絶対に生涯手放すことは
ないだろう。

―これは彼を、『白』い世界に留めておく鍵のようなもの

 自分と同じ、光と闇を…黒と白の、二つの異なる魂を持つあの人が…
『今』の自分を留めさせる為に与えてくれた『光』そのもの。
 自分の弱さが、愚かしさが儚く脆い存在だったあの人を消してしまった。
 それでもただ一度だけ…あの日に出会えて、これを与えてくれた。
 そして…残してくれた。

「克哉さん…」

 あの日を思い出すと、涙がうっすらと浮かんでくる。
 けれどその痛みもまた…大切なものだから。
 どれだけの痛みが伴おうとも、決して忘れたくないあの雪の日。
 苦しくても辛くても、切なくても…自分は、貴方を…。

「…俺、一旦サラリーマンをやるよ。それで貴方の気持ちを少しは
理解したい。けど…夢は諦めるつもりもないから。いっそ国外逃亡して
どっかの国で音楽活動でもした方が…俺って天才だから、早くトップ
アーティストの仲間入り出来そうな気するけどね。
 けど、あの時の俺って弱くてガキで…一緒に過ごせたあの短い期間、
貴方のことを理解出来なかったし、否定ばっかしていた。
 だから…今からでも、俺は克哉さんのことを知りたい。どんな気持ちで
働いて来たのか…肌で感じたいんだ。それで少しでも解りたいんだ…。
俺にこんなの似合わないって判っているけどね、それでも…」

 鏡の中におぼろげに思い描いている、克哉の幻影に…沢山
語りかけていく。
 こんなの、第三者がいて見られたら危ない人間以外の何物でも
ないだろう。危険な独り言でしかない。
 けれど仕方ないだろう…自分が傍にいて欲しかった存在、色んな
想いを伝えたい存在はもうこの世にはいないのだから。
 それでも伝えたかったら、独りよがりでもなんでも…こうやって対話
する以外にないのだ。

「…だから、見守ってて。克哉さん…ここで…」

 そうして、お守り袋をそっと自分の胸ポケットの中に納めていく。
 それだけで…ホワっと心が温かくなった気がした。

「…貴方が俺を見守っていてくれているなら…『黒』い俺に、
負けないでこれからも生きていけると…そう、思うから…」

 そう祈るような真摯な声音で、告げていく。
 気づけば…もう家を出なければならない時刻が迫っていた。

「おっと! そろそろ家を出ないと…幾らなんでも初出勤の日に
遅れるなんて真似はしたくないよな~」

 そういって、明るい様子で太一は身支度の全てを整えてアパートを
飛び出していく。
 外は、清々しいくらいの快晴だった。
 桜が舞い散る風景を、風を切るように走り抜けていく。
 こんな暖かな日は気分が良い。
 去年の春はどれだけ陽気が良い日でも、こんな風に感じられる
ことはなかった。絶望の淵に、太一はいたからだ。
 けれど…今の太一は、その世界の暖かさをしっかりと感じられている。
 その世界の受け止め方の違いの全てが、お守り袋の中にある。

―克哉さん、貴方のおかげで…今、俺はこんなに暖かく世界を
感じられるようになったよ…

 そう感謝しながら、太一は…克哉を喪った日からの一年以上に渡る
切なく苦しかった記憶を、ゆっくりと蘇らせていく。
 今までは辛くて振り返れなかった。だが…今の自分なら少しは
客観的に見ることが出来るだろう。
 必死に走る最中、青年は…佐伯克哉という存在に纏わる記憶を
ゆっくりと意識に上らせていった。

―彼にとって、もっと絶望に満ちた時代と、救いの記憶を―

 
 

※太一×克哉の悲恋前提の物語です。
 ED№29「望まれない結末」を前提に書いているので
眼鏡×太一要素も含まれております。暗くてシリアスなお話なので
苦手な方はご注意下さいませ(ペコリ)

  ―あんたの事なんて、大っ嫌いだ!

 この関係が始まってから一年余り。
 どれくらい、その言葉を太一の方から突きつけられて来たのだろうか。
 最初は彼からの拒絶にどこかで傷ついたり、苛立ったりしていた。
 その度にお仕置きめいた仕打ちを与えて、その言質の責任を取らせて
いったりもしたけれど…今となっては、何の感情も湧いて来ない。
 太一が自分の方を求めていない、それはもう…一緒にいる間に
嫌という程、思い知らされたから。
 だから彼が何をしようと、言おうと今更…心が揺れたりなど
しない筈なのに、どうして自分は…その声が頭の中を過ぎる度に
胸がどこか、苦しくなるのだろうか。

―その理由は、彼自身にも判らないままだった

                     *

 この一年で、太一の実家の権力を利用して…キクチ・マーケティングに
勤める傍ら、裏の世界の方でも商売を始めていた。
 そちらの方も軌道に乗り始めていて、気づけば単純にサラリーマンだけを
やっていた頃に比べて、膨大な財産を彼は築き上げていた。
 昼間の吐血が収まってから暫く安静にしていたら、幾分か体調は回復
したので…彼は気晴らしに夜の街を歩いていた。
 時折、発作で苦しい時もあるが…それ以外の時はまだ、普通に身体を
動かしたり…ちょっとした用事をこなすぐらいのことは出来るからだ。
 自宅にいると、また…憂さ晴らしに必要以上に強い酒を煽ってしまいそう
だったので…それを防止する為だった。

 散策中にふと気まぐれに…たまたま通りかかった銀行で久しぶりに記帳してから、通
帳を改めて見直していくとそこには八桁に及ぶ金額が記されている。
 あの弱々しい性格の佐伯克哉だった頃には、決してなかった預金額。
 全ては彼が商売を始めて、それを掌握したからこそ出来た財産だ。

―しかしどれだけ数字が羅列した通帳を見ても、心は満たされなかった

 …その通帳を改めてカバンに仕舞い、彼は銀行から後にしていく。
 二月の初旬、空気がもっとも冴え渡るように冷たい頃…彼は一人で夜の
繁華街を歩いていた。
 太一の家に、真っ直ぐに帰る気になれなかった。
 だからと言って、自分の部屋にも戻る気になれない。
 ふと、どっかのホテルにでも泊まろうかという想いが生まれていく。

(ここから…アパートはそんなに遠くないんだがな…)

 かつての自分が住んでいたマンションと、太一のアパートの部屋は
この液から三つほどの距離だ。
 21時という時間からしても、外泊する程の距離ではない。
 しかし…どちらにも帰る気になれなかった。

(…あの部屋に、最後に泊まったのは随分前になるな…)

 ふと、そんな事を考えつつ…遠い目になっていく。
 不経済である事は承知の上だが…彼はどうしても「オレ」が住んでいた
部屋になかなか戻る気になれなかった。
 それでも太一の部屋に全ての荷物を置き切れる訳ではない。
 だから何度か荷物整理の為に家に戻ることもあったが…最近はそんな
事でさえも戻ることが億劫になりがちだった。

「手荒に扱った日の夜に戻ると面倒だからな…」

 そんな事を呟きながら、胸ポケットからタバコとライターを取り出して
紫煙を燻らせていく。
 あの部屋では、タバコの一本吸うのでさえ…太一は色々とうるさい。

『克哉さんはタバコなんで吸わないだろう…』

 そんな事を言いながら、愛用の銘柄の物を感情任せに奪い取られたことは
何度かあった。
 タバコ一本ですら、面倒に思わなければ吸えないあの部屋に…どうして
自分は頻繁に帰るのか、その理由すら判らなかった。
 すでに自分の余命はそんなに長くないと医者から宣告されている。
 だから今更止めた処で手遅れだ。
 それにこんな…心がモヤモヤしてすっきりしない日は、酒とタバコは
どうしても手放せなかった。

「あまり、長くはないか…」

 一人で街中になど立っていると、その重い現実が圧し掛かってくるようだった。
 若年性の進行性のガン、余命はそんなに残されていない。
 この一年余り、身体を痛めつけるように浴びるように沢山の酒とタバコを
摂取し続けた。
 その結果がこれだというのなら…眼鏡としても受け入れるしかない。
 それなのにショックを受けるよりも…イライラ、モヤモヤしている事の方が遥かに
多かった。
 どれぐらいまで身体の自由が利くのか見通しも立たない。
 すでに長くないと判っている以上、身辺整理は早いに越したことはないだろう。
 それが判っている筈なのに、全てが億劫だった。
 何もかもが…どうでも良かった。

「…俺は一体、何を望んでいるんだろうな…」

 かつては欲望に忠実に生きず、心を偽ってばかりのもう一人の自分を
馬鹿にしていた。
 己が何が欲しくて、何を求めているか正直でないあいつを…見下して
あざけっていた。
 しかし…今の彼には自分が何が本当に欲しかったのかすでに判らなく
なってしまっている。
 そんな自分に苦笑したくなると…また、次のタバコを手に取っていった。
 医者には止めるように薦められたが、どうせ長くないのならば自分の
好きなように過ごすことに決めたからだ。
 だがどれだけ愛用の銘柄を吸っても、心は満たされることはない。
 空虚な心が日々、大きく増していくような気がする。

 何もしたくない。
 何もかもがどうでも良い。

 そんな捨て鉢の、ヤケクソの思いだけがジワリジワリと広がって
自分を侵食していくようだった。
 身体だけではなく、精神までもが病魔に侵されていくようで気分が
悪かった。

「一杯…どこかで飲むか…」

 そんな事を呟きながら踵を返した瞬間、歌うような声が聞こえた。

―いけませんね。そんな身体で…強い酒など煽っては、ただでさえ短い
命を更に縮めるようなものですよ…佐伯克哉さん

 ふいに、一年以上ぶりに…聞き覚えのある声が耳に届いていく。
 弾かれたように振り向いていくと…其処には、自分を解放する
キッカケでもあった、あの眼鏡を与えた黒衣の男―Mr.Rが其処に
立っていた。

「…お前は…!」

「お久しぶりです、佐伯克哉さん。お元気でしたか…?」

 そう言いながら、コツコツ…と靴音を立てて、こちらの方に
歩み寄って来た。

「何の用だ…?」

 不機嫌そうに眼鏡が問いかけると、男は愉快そうに微笑んだ。

「…いえ、貴方の意思をお聞きしたくて参上しました…」

 そう、何でもない事のように嗤いながら告げてくる。
 しかし…どこか不穏なものを感じて、眼鏡は緊張していった。
 そうして…夜の街で、彼は対峙していく。

―得体の知れない、謎多き男を前にして、固唾を呑みながら相手の動向を
伺っていったのだった―

 

 
 

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香坂
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女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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