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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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 御堂が週末にバレンタインチョコを作ることを決意した翌日、御堂は
早起きをして…インターネットで、チョコを作成に必要そうな道具一式や
材料の類を吟味して、本日の夕方には届くように手配していた。
 流石この辺りは有能なビジネスマンである。
 心に決めれば行動が迅速であった。
 
 本日のスケジュールは…午前中は社内で二人で…これから取引を
していく会社の資料集めや、持ちかける企画内容を明確に伝える為の
書類作成。
 そして午後からは…二人で一緒に、これからの仕事上、欠かす事が
出来ない企業を二件…立て続けに挨拶に回っていた。
 克哉が設立した新会社はまだ正式な運営を始めてから二週間程度しか
経過していない新興のものだ。

 前職での付き合いがあった処も数多いが、新しく繋がった場所もそれなりに
ある。
 二人が出向した二社も、これから克哉が打ち立てるプロジェクトに必要不可欠と
判断された…新しく付き合い始める処である。
 繋がりを強化した方が良いと…二人で一緒に訪ねて、たっぷりと時間を掛けて
打ち合わせをしたおかげで…二社共、良い手応えを得る事が出来た。

 二件目の会社を後にした頃には…すっかりと、日が暮れてしまっていた。
 終業時間を迎えて、閑散としていたオフィス街に…帰宅途中のサラリーマンや
OLの姿が現れる時間帯。
 二人はそんな雑踏の中を颯爽と歩いて、最寄駅の方まで向かっていた。

(…この後、どうしようか…。行きたい店があるんだが…)

 御堂は、前を進む克哉の後を着いていきながら…考えあぐねいていた。
 二人で取引先に出向く前に…本日、やるべき仕事は全て終えてある。
 いつもの流れなら…このまま会社の方に戻って、同じビル内にある彼のマンションで
週末の夜を過ごすのだが…今日ばかりは気が進まなかった。
 …この二週間、やっと一緒に仕事に出来るようになったばかりのせいか…
週末は克哉は決して、御堂を離してくれなくなる。
 
 彼から告白されて、去られてから一年。
 再会してからは…一ヵ月半。
 殆ど一緒に過ごす事もなく、共に過ごす時間も大半は…恋人としてではなく
仕事上のパートナーとしてという現状は、一緒にいられる時間を濃密なものに変えて…
先週に至っては、金曜日から土曜日の夜に掛けては…殆どベッドから出ることも
叶わなかったくらいだ。

「どうしたものかな…」

 軽い溜息を突きながら、どうやって克哉に…誘いを断ろうかと考え始めていく。
 御堂とて、自分の恋人と一緒に甘い週末の時間を過ごしたい気持ちがある。
 だが…本日は夕方にチョコレート作成に必要な材料一式が届くし…明日は
実際に上手く作れるように練習に費やしたい。
 …克哉のマンションの方に行ってしまったら、どちらも出来なくなってしまうのは
明白だった。
 ついでに言うと…一度誘いに乗ったら最後、日曜日の夜まで離してくれなく
なってしまうかも知れない。
 そうしたら…こっそりと隠れて練習をする事など不可能になってしまう。
 …初めての季節イベント、どうせなら喜んで貰えるレベルのものを作って
コイツに贈ってあげたい。
 それを考えたら…今回は断るしかないのが、少し…辛かった。
 
 駅に辿り着く間際、やっと前を歩く克哉がこちらの方を振り返り…柔らかい笑みを
浮かべながらこちらに問いかけてくる。

「…御堂、今日は…俺の部屋に、来るか…?」

 問いかける言葉は、一応こちらの意思を尋ねてはいるけれど…声に自信が満ち溢れて
いて…こちらが承諾するのを疑わない響きが込められていた。

「いや…佐伯、すまないが…本日は少し用事がある。自宅に…必要な荷物が届くので
今日は遠慮させて貰おう…」

「そうか。なら…俺の方があんたのマンションに出向こう。それなら構わないだろう…?」

 その切り替えしに、一瞬…グっと言葉に詰まった。
 予想はしていたが…それをやられてしまうと、結局何も変わらない。
 舞台が克哉のマンションではなく、こちらのマンションになってしまっただけの事だ。
 これだけ…逢いたい、と言う気持ちを前面に出している克哉を前に…断りの言葉を
ぶつけるのは少し胸が痛んだ。
 だが…時に、一人になる事が必要な事もあるのだ。
 そう自分に言い聞かせて、更なる言葉を続けていった。

「…いや、すまない。今日の夕方から…明日に掛けては少しやりたいことがあるんだ。
 それが終わったら明日の午後には私の方から…君の部屋に出向いて、一緒の
時間を過ごさせてもらう。だから…本日の夜の誘いは申し訳ないが…遠慮させて
貰おう。悪いな…佐伯」

 苦笑しながら、彼にそう告げていくと…見る見る内に目を見開いていった。
 まさか、御堂が断ることなど予想もしていなかった顔だった。
 この男にそんな顔をさせられた事に少しだけ…優越感のようなものを覚えたが
気を取り直して、そのまま踵を返そうとした時―

 しっかりと克哉に、肩を掴まれてしまっていた。

「…俺よりも優先する事って、一体何だ…? 御堂…?」

「えっ…その、それは…っ!」

 克哉瞳の奥に、ふと…焦燥のようなものを感じて、一瞬背筋がヒヤリとした。
 チラリと見せた鋭い眼差しに…こちらの視線も囚われていってしまう。

「…俺に言えない、やましい事なのか…?」

「そんな訳がないだろう! だが…少し、君から離れて一人になりたいという事も
あるだけだ…。それくらいは良い大人なんだから、理解出来るだろう…?」

(…お前がいる前で、チョコレート作りの練習なんて出来る訳がないだろう…!)

 心の中で半ば叫んでいきながら、それでも諭すような言葉を紡いでいく。

「…判った、と言ってやりたいが…俺は本気で今夜、あんたと一緒に過ごしたいんだ。
ちゃんと理由を言ってもらわない限りは…納得出来そうもない。
 だから言ってくれないか…? 御堂…」

「…言えない。だが少しすればすぐに判る事だ。だから今は…黙って私を見送って
くれないか…佐伯」

「嫌だ」

 きっぱりと言い切られながら、瞳を覗きこまれていく。
 まるで駄々っ子のような彼の聞き分けのなさに…御堂は苛立っていった。

(…お前の為に、今夜は一旦…一人の時間を貰うだけなのに、何故…そんなに
寂しそうな顔をするんだ…?)

 それにかなり…後ろ髪を引かれる思いがしたが…それでも御堂は強い意志を持って
克哉の前から、駆け出して雑踏の方へと向かっていく。
 人波の中に紛れて…それを掻き分けて、御堂は…一旦、克哉を巻く作戦に
出たのだ。

「御堂、待てっ!」

 慌てて克哉が…御堂を追いかけていく。
 だが、彼は決して足を止める事も振り返る事もなく…雑踏の中に紛れ込んで…
すぐに姿が見えなくなった。

(すまない…佐伯。お前にはどうしても…これから向かう店も、マンションにも
一緒に向かわせる訳にはいかないんだ…!)

 そんなの、あまりに恥ずかしすぎるからだ。
 顔を赤く染めながら、相手に心の中で詫びて…御堂は全力で彼から離れていく。
 克哉は、必死に追いかけて…結局、御堂の姿を見失ってしまった時に…
道の真ん中で、懸命に大事な人を追い求めて辛そうな顔を浮かべていた―
 
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 ※この話は現時点ではタイトル未定です。
 今日明日中に正式につけますので少々お待ち下さい。
 後、キチメガの年代設定がはっきり判らんのでこの話の日付設定は
2008年のもので合わせます。予めご了承下さい(ペコリ)

 佐伯克哉と晴れて結ばれて、一緒に新会社を設立してから二週間。
 御堂孝典は自分のマンションの中で、目の前に立ち塞がった最大の試練に関して
…カレンダーと睨めっこしながら思いっきり唸る羽目になった。
 男の視点は真っ直ぐに2月14日の処に釘付けとなっていた。

「…バレンタイン、か…」

 グムム、と唸りながら…自分の部屋の壁に飾られていた日本の美麗な四季折々の
写真が印刷されているカレンダーの日取りを眺めていく。
 2月7日、週末を前にして…彼は思いっきり焦るしかなかった。
 御堂孝典、33歳。
 …MGNでも、知り合いが興した会社でも早々と部長クラスの役職を得てエリート
街道をまっしぐらに生きて来た。
 だから恋人の佐伯克哉に、新しい会社の共同経営者として求められた時だって…
自分の実力なら、それくらいの事は出来ると思っていた。
 だが…これはあまりに未知すぎる世界だったので、困惑するしか―なかった。

「あの一言は…やはり、求められていると判断した方が良いんだろうな…」

 溜息を突きながら、夕方の事を思い出していく。
 本日の業務が完了し、一段落が着いてそろそろ帰宅準備をしようとした時…
いきなり克哉が勢い良く扉を開けて入って来て…いきなり、部屋の中で
キスをされたのだ。
 まだ会社を興したばかりで、自分と彼しかこのフロアにはいない事は
判り切っていたが…突然の事過ぎて、御堂の頭は真っ白になった。

(…幾ら終業時間間際だったとは言え、会社の中で…あんなキスをするのは
反則過ぎるぞ…まったく、あの男は…)

 …克哉のキスは情熱的で、酷く甘くて。
 熱い舌先で口腔全体を、優しく撫ぜ擦っていくかのように…ねっとりとして
深いものだった。
 チュパ、と大きな交接音を立てながら…こちらの瞳を覗き込んで、あの男は
一言…耳元で低い声音で囁いていったのだ。

『…御堂、来週…お前がどんな物を俺に贈ってくれるかを楽しみにしているぞ…?』

 ―それだけ囁いて、さっさと上にある…自分の部屋へと引き上げた残酷な
恋人の事を思い出し…御堂はカ~と赤くなった。
 あんな…腰砕けになるような、甘いキスだけして…それ以上の事を何もせずに
引き上げるなんて…生殺し以外の何物でもない。
 その時の事を思い出して、腰の奥がズクン…と疼く感じがした。
 顔を赤く染めながら…ベッドの上に横たわり…はあ、と溜息を突いていく。

(あの言葉が指しているのは…バレンタイン以外には、ないな…)

 自分の誕生日が九月二十九日。
 そして克哉の誕生日は…未だに知らない。
 
 そもそも自分達の関係は、あんな形から始まっているので…普通の恋人達のように
お互いの誕生日を祝う事も、季節イベントを一緒に過ごした事はまだ、皆無だ。
 クリスマスだって、新年だって…克哉は新しい会社を興す為の準備で忙しくて
自分に連絡を殆ど寄越さずに、途中で一回逢いに来たかと思えば…ミーティングルームで
ヤル事だけさっさとヤッて…会話もせずに立ち去ったりしたぐらいだ。
 そんな自分達が、初めて迎える季節イベントは…ようするに、今年のバレンタインが
最初になる訳だ。

(節分の時は…アイツ、元の会社の人間の飲み会に誘われたっていうので…
逢えなかったしな…)

 毛布を引き寄せて、自分の身体の上に掛けていきながら…天井を何気なく見遣っていく。
 ぼんやりと室内を照らす蛍光灯の明かりを眺めながら…脳裏に、あの…意地悪で傲慢で
身勝手で…こちらを振り回すだけ振り回す、自分の恋人の顔を思い描いていく。

「…男にチョコを贈るなんて経験、初めてだぞ…私にとっては…」

 そう、毎年…学生時代でも、MGNに勤めていた頃も…前の会社でも、御堂はその容貌と
実力の為に沢山のチョコレートを贈られる立場にいた。
 近寄りがたい雰囲気があった為に、対面しながら贈ってくる女性こそあまりいなかったが…
当日ともなれば、自分の私室や…自宅に直接、チョコレートが届けられていた事も
かなりの回数あった。

 あんまり甘い物を食べる習慣がない御堂にとっては、どうやって処理するかが毎年の
頭痛の種になっていて…良い印象がなかった日。
 それなのに…今年は、初めて自分がチョコレートを相手に贈る立場になってしまって…
どんな準備をしていけば良いのか判らなかった。

「…豪華なチョコレートをどっかから取り寄せるか…? それとも…自分で作れば
良いのか。…こんな事、今までやった事がないから…どうすれば良いのか本気で
判らない。私にどうしろって言うんだ…アイツは…まったくっ!」

 ベッドの上でゴロンゴロンと転がりながら…思いっきり恋人に向かって悪態を突いていく。
 
「…だが、楽しみにしていると言うのなら…やはり、私が自らの手で作るべきなのか…?」

 自分がキッチンに立って、チョコレートを作っている姿を想像して…寒い気持ちになった。
 …エプロンをして、佐伯の為にチョコを作ってラッピングして―
 この年になって、そんな恥ずかしい真似をしろと…そう言いたかったのだろうか…アイツは。
 そう考えると…自然と額に青筋が浮かび上がっていた。

『御堂、楽しみにしているぞ…?』

 無理だ、と思って否定しようとした瞬間…鮮明に昼間の彼の声音が…自分の頭の中に
再生されてしまう。
 その瞬間…顔がカァっと熱くなって…押し黙るしかなかった。

「うぅ…ううっ! 本当に…あの男は…目の前にいない時さえも、どうして…こんなに
私を惑わせるんだ…!」

 再会するまでの間だってそうだった。
 こっちが忘れようと必死になっていたのに…何かの拍子に、最後の…自分に対しての
労わりながら告白した時の記憶が思い出されて…結局、出来なかったのだ。
 期待されているのに、出来合いのチョコレートを渡して…がっかりしたような顔を
浮かべる克哉の姿を想像してしまい…ズキン、と胸が痛んでいった。
 そこら辺で御堂は…思いっきり開き直るしかなかった。

「…くっ…! 仕方がない! …私が自ら、今年は…作るしか、ないか…」

 瞳をギュっと瞑り…目元に掌を宛がいながら…ようやく観念していく。
 特に…まだ自分達の関係は極めて不安定で、危うい。
 せっかく想いを確かめ合って…新しい会社まで設立して、公私ともに大切な
パートナーになったばかりの時期なのだ。
 …相手との関係を固める為の努力はした方が良い。
 自分に何度もそう言い聞かせて…これから、目標に向かって…どんな行動を
取れば良いのか…自分の中で何度もシュミレーションしていく。

 ―あの男はどれくらい、自分に変革を齎せば気が済むのだろう

 そんな事を考えながら…暖かい布団の中に包まれて…御堂の意識はゆっくりと
…眠りの淵へと落ちていった―
 
 
 須原秋紀が、愛しい人と涙を飲んで決別した陽から10ヶ月余りが経過して
再び新しい春が訪れようとしていた。
 本日は秋紀の通っていた学校で、卒業式が行われていた。
 秋紀が通っていた成城学園はお金持ちのお坊ちゃんばかりいて…寄付金さえ
積めば、やりたい放題な処があってあまり好きな学校ではなかった。
 だが…それでも無事に卒業出来たとなれば感慨深いものがあった。
 今、秋紀が着ているのは…制服ではなく、克哉が着ていたようなダークグレイの
スーツに、落ち着いた赤のネクタイだった。

 秋紀はとりあえず…なりたい職業も、夢もなかったので…一先ず、大学にでも
通ってサラリーマンになってみようかな、と思っていた。
 あの人がやっていた事を何となく、自分も追ってみたい気になったから。
 そのおかげで秋紀は…学校も真面目に通い、それなりに勉強するようになって
夜遊びも余りしなくなった。
 必死にガリ勉をした訳ではないので…有名で競争率の高い大学には落ちてしまって
いたが…ソコソコのレベルの処には滑り込めた。
 この10ヶ月、それなりに努力してきた自信があった。
 だから…彼は、あの日から一切立ち寄らなかった…克哉のアパートへと向かう
ことにしていた。

(…本当はこれって、女々しい行為だって事は自覚しているんだけどね…)

 自分の恋は、去年の春に終わっている。
 それは承知の上だ。
 だが…あの日決別して以来、克哉がどうしているか…秋紀はまったく知らなかった。
 二日間だけずっと一緒に過ごしていたが…結局携帯電話の番号も、メルアドも
交換しないままだったので…連絡手段がなかったからだ。
 何度か、それでも逢いたいと思った事があった。

 しかし…克哉には大切な人がいる。
 それを言い聞かせて…何度も踏み止まった。
 だが、どうしても…あれから眼鏡を掛けた方の克哉が幸せでいるかどうかが気になって
しまって、本日…卒業式という節目を迎えた事をキッカケに…秋紀は、克哉のアパートを
訪ねる決意を固めたのだった。
 10ヶ月、という月日が過ぎたせいで…アパートの位置の記憶も曖昧になってしまって
少し迷ったが…どうにか辿り着いていく。
 久しぶりに訪れると、つい懐かしくて少し涙ぐみそうになった。
 
(うわ…僕、格好悪いよな…。あの人に関わる事になると…どうしてこんなに…みっともなく
なっちゃうんだろ…)

 それは真剣に恋をした為なのだが、克哉が初恋の相手である少年には…その事に
気づけるだけの恋愛経験がまだ、なかった。
 階段を上がって、克哉の部屋があるフロアに辿り着くと…彼の部屋は開け放たれて
外には沢山のダンボールとか、タンス…分解されたベッドの類が置かれていた。

「えっ…?」

 最初、家具の類が沢山外に出されて置かれている光景にびっくりした。
 これではまるで…引越しする直前みたいではないか。
 そんな事を思いながら、その場に立ち尽くしているとひょいと…部屋の中から
眼鏡を掛けた克哉が顔を出した。

「…克哉さんっ?」

 まさか、眼鏡を掛けた方の彼にこんなにあっさりと会えるとは想定外だった為に
本気で秋紀は驚いて…大声で相手の名を呼んでしまっていた。
 Yシャツ姿にジーンズというラフな格好をした長身の男に…秋紀の視線は釘付けに
なっていく。
 声を掛けられて、ようやく克哉は秋紀の存在に気づいたらしい。
 ゆっくりとこちらの方を向いて…そして両者の視線が、重なり合っていく。

「…お前か。久しぶりだな…」

「は、はい…克哉さんの方こそ、元気そうで…良かった、です…」

 久しぶりに対峙する大好きな人の前に、心臓がドクンドクンと荒く脈動している。
 あぁ…もう、自分の中でこの人の恋人になりたい、という強い気持ちはないつもりだった。
 諦めているつもりだった。
 それでも意思に反して、これだけ胸が高まっている事に…秋紀は苦笑したくなっていた。

「あの…克哉さん、引越し…されるんですか…?」

「あぁ…今、付き合っている奴から…不経済だからそろそろ一緒に暮らそうと切り出され
たんでな…。それで今、荷物を整理してその準備に当たっている…」

 ズッキン。
 その一言を聞いた時、秋紀の胸は大きく軋んでいった。
 あぁ…やはり、今でもこの人は恋人と続いていたのだと、その事実を知って…秋紀は
自分の中にあった微かな望みをすぐに捨て去る事にした。

「そ、う…なんですか。良かったですね…恋人さんと、上手く…行っているんですか…?」

「あぁ…まあ、な。一応それなりに…上手く行っていると俺は思っているがな。…俺の方が
出るといつも過剰な反応してくるし、すぐ動揺したり…叫んだりしてくるが、最近は週末に
俺の方が出ていても…文句を言わなくなってきたからな…」

(…あの克哉さんと、交互に出たり出なかったりしているのかな…?)

 穏やかそうな面立ちの、もう一人の克哉を何となく思い出していく。

「じゃあ…克哉さんは、今…幸せ…ですか?」

 精一杯の勇気を振り絞って、一番気に掛かっていた…その質問を投げかけていく。
 その一言を聞いた瞬間…眼鏡は、ふっと瞳を細めて微笑んでいった。

「…見れば、判らないか…?」

 その顔はとても満ち足りて穏やかで…この人にこんな顔も出来たのだと…驚愕を
秋紀に齎していった。
 十ヶ月前にこの人と二日間を過ごした時は…眼鏡の方は本当に苦しそうな顔を
時折浮かべていて、見ているこちらの方が辛いくらいだった。
 だが…目の前の克哉は、穏やかな雰囲気と瞳になっていて…今、この人が
幸せである事が見ているだけで伝わってくる。

(あぁ…僕の入る隙間なんて、やっぱり…無かったんですね…)

 今日、ここに来た時…少しだけ、期待していた部分があった。
 しかしそんなのは結局、自分の勝手な願望でしかなかった事実を受け入れていく。
 胸はツキン、と少し痛んだが…それを顔に出さないようにして、背筋をシャンと伸ばし…
大好きだった人の顔を真っ直ぐに見据えていく。

「…今日、僕…高校を卒業しました。この春から…大学生になります…」

「…ほう、頑張ったな。以前のお前からしたら…大学に行くなど、夢のまた夢って感じ
だったがな…」

「えぇ、僕自身もそう思います。以前の僕だったら…貴方に逢わなかったら、大学にでも
行ってサラリーマンになろうとも…真面目に学校に通って卒業しようとも思わなかったで
しょうから…」

 それは、紛れもなく事実だった。
 颯爽と仕事をしている雰囲気の克哉に憧れて、今もその印象が秋紀の中に残っているから
それを目指してサラリーマンになりたいと思ったし。
 克哉がとりあえず学校には通っておけ…と、あの二日間に言ってくれてなかったら、それなり
に努力して大学に通おうと思ったり、今日…卒業する事もなかっただろう。
 克哉に出会ったばかりの頃は…世の中は何て退屈だ、と思い…甘く見ていたか、今は
良く判っていた。
 目標もなく暇をただ闇雲に潰して無為に過ごしていた日々は…今となっては、
恥ずかしくなる程のものに秋紀の中では変わっていた。

「…良く、頑張ったな。…一応、褒めてやる…」

 そうして…克哉の方から一歩間合いを詰めて…少年の頭をクシャ、と撫ぜていった。
 まるで愛猫を撫ぜるような…そんな仕草と手つきが懐かしくて…それだけで秋紀は
泣きそうになっていく。
 
 この人が大好きだった。
 吹っ切ったつもりでいても…まだどこか諦め切れなくて、結局…他の人間に眼を
向けたりは未だに出来ないままでいた。
 けれど…この人は今、恋人と上手く行っているのなら…これ以上の我侭を言って
困らせたくない。
 どうにかその意地を発揮して…抱きつきたい衝動を押さえ込んでいった。

「…ありがとう、ございます。貴方にそう言って貰えるのが…一番、僕にとっては
嬉しいですから…」

 それで、泣きそうになるのを寸前で堪えて…初恋の人を見遣っていく。
 その眼はどこまでも優しかった。
 本当に…この人なのか、と疑いたくなるくらいの変貌に…結局自分の出る幕は
ないのだと…その現実を受け入れて、秋紀は一歩…下がっていった。

「僕…貴方のような立派なサラリーマンになります。…結局最後まで、僕の片思いに
過ぎなかったけれど…やっぱり克哉さんは僕の憧れで…格好良いなって、今でも
思っていますから。だから…貴方のように、なりたい。
 それくらいは…目標にして、良いですよね…?」

「…あぁ、構わない。どうせ目指すなら…俺を追い越すつもりでやれ。待っていて
やるよ…」

 その一言が、秋紀を奮い立たせていく。

「えぇ…貴方に勝つなんて、凄い大変そうですけど…ね。僕、頑張りますから…!」

 そう相手に告げて、全力で秋紀は踵を返していった。
 瞳からは…涙が溢れそうになって…これ以上向かい合っていたら、相手の前に
泣き顔を晒すことになってしまうから。
 それだけはみっともない…とそう自分に言い聞かせて、秋紀は克哉から
背を背けていった。

「お元気で! 克哉さん!」

 精一杯の明るい声と表情を作って、それだけ言って…秋紀はその場から
立ち去っていく。
 克哉がこれから、どこに引っ越すのか住所も知らず、連絡手段もない。
 ここで聞き出さなければ、克哉との接点は失われることは承知の上で…それでも
全力で少年はその場から離れて、駆け出していった。

 あの人が幸せなら、自分が入る余地などなく。
 自分の手で、あの人の幸せを壊すはしたくないと。
 そういう意地の方が…寸での処で勝ったからだ。

 大好きだった。
 あの人さえいれば…他のものは何もいらないとすら思えるくらい、大切な人だった。
 だが…それでも、少年は決別を決意して…アパートを後にしていく。
 後はもう…無我夢中で走り続けた。
 どこまで走り続けたか、もう秋紀には判らなかった。

 ただ自分の中の未練が働く余地のないくらいに遠くまで…その一心で
秋紀は走り続けていった。

 そして…気づけばどこかの公園に辿り着き、荒い息を突いていく。

「はあ…はあ…」

 どうにか呼吸を整えて、うっすらと額に滲む汗を手の甲で拭い…周囲を見渡していった。
 何気なく…周囲を見渡していくと、公園には…木蓮の花や、冬の間は…地中に潜って
姿を消していた草花の類が沢山芽吹いていた事に気づいた。

「あっ…」

 退屈だ、と毎日を過ごしていた時は…こんなささやかな春の気配になんて
まったく気づいていなかった。
 樹木の鮮やかな色彩と、微かな良い匂いに…慰められるような気持ちになった。
 空はどこまでも澄み渡って青く…吹き抜ける風は心地よい。

 恋を諦めることは辛い経験であるけれど…同時に、ある種の清々しさを…
秋紀の心の中に齎していた。

「はは、こんなに…公園の中の花って、綺麗に見えるもんなんだ…」

 失恋の経験が、少年の中で…今まで見えなかった視点を見出させていく。
 それは切なくて辛い事であったけれど…紛れもなく彼を成長させてくれる
キッカケになっていった。

「…気持ち良い…」

 涙を、流しながら…吹き抜ける風に身を委ねていく。
 春の気配をここまで…暖かい気持ちで迎えた事など、初めての出来事だった。

(さよなら…僕の初恋…)

 事実を認めて、少年は春の光が降り注ぐ中…微笑んだ。
 その時、秋紀はひどく大人びて…綺麗な表情を…浮かべていた。
 そんな彼を祝福するように…柔らかい風は、そっと…大地に吹き抜けて…
少年の身体を、包み込んでいったのだった―
 

 

 

―俺はあんたを抱きたいと思っている。御堂孝典…そんな俺を怖いと
思うなら…逃げても構わない。その自由があんたにはある…

 自分自身と対峙して、彼の存在を享受した翌朝。
 克哉の意識が夢現になっている時…もう一人の自分は携帯を片手に持って
留守番電話に、そう簡潔にメッセージを残し…通話を切っていく。

 それは眼鏡の方の嘘偽らざる本心。
 御堂が克哉を心から愛しいと思って抱くように。
 もう一人の自分が心から愛している男を、いつしか眼鏡の方も好意を持ち…
いつしか『抱きたい』という気持ちに発展していった。
 その気持ちを一言、相手に告げて…もう一人の自分もまた再び…深い
眠りの淵へと落ちていく―
 
 窓から差し込む、陽の光だけが…酷く眩しく感じる朝だった―

                             *
 日曜日の夕暮れ。
 眼鏡の方の意識を受け入れて、二日目を迎えていた克哉は深い溜息を突きながら
キッチンに立って夕食の準備を始めていた。

もう、日曜日の夕方だ。オレが提示した週末が終わろうとしている。やっぱり御堂さん
とってオレ達は重すぎたのかな

 週末、受け入れてくれるつもりがあるならこの部屋まで来て下さい。
 来ないようだったらこの恋を諦めるつもりです、と彼に提案したのは自分自身だ。
 覚悟はしていたつもりだった。
 なのに実際に御堂が今まで訪れて来なかった事実は、思いっきり克哉の気持ちを
沈み込ませていた。
 夕暮れの茜色に染まった陽光が…玄関側の窓から微かに差し込んで来ている。
 その扉はまだ、開かれる気配はなかった。

「御堂、さん…」

 知らず、愛しい人の名を呟きながら…ベッドの傍らでうずくまって…無為な時間を
過ごしていく。
 そういえばそろそろ夕食の準備をしなければならない時間帯に差し掛かっていたが
落ち込んでいるせいか、まったく空腹感がない。
 昼間にラーメン一杯を食べたきり…固形物は口にしていないが、それでも明日の
朝までは大丈夫そうなくらいに今の克哉は食欲が湧かなかった。

(…何か、ご飯を用意したり食べたりするのも…もう、億劫な感じだな…)

 だが克哉の意思と反して…お腹はグウ、と音を立てていく。
 身体は正直とは、本当の事のようだ。
 意識では食べたくないと思っていても…肉体の方は空腹を訴えて、何かを
胃に入れろとせっついて来る。
 それでも克哉は動く気になれないでいた。

『おい…いつまでヘコんでいるんだ。お前がそんな空腹でいると…俺までその苦痛を
感じなくてはいけないから、非常に迷惑なんだが…』

 そんな自分の姿に焦れたのだろう。
 頭の中に…もう一人の自分の声が響き渡っていく。
 口調からしてかなり不機嫌そうな感じだった。

(…そんな事言っても、食欲が湧かないんだから…仕方ない、だろ…。
今は何も…したくないんだ…)

『ちっ…情けない奴だな。俺が少し…手を貸してやる。それで動いてみろ…』

 ふいに、自分の中に…もう一人の自分の意思が混ざっていくような感覚を覚えた。
 意識は紛れもなく自分の方なのに…身体が何かに操られているように…勝手に動いて
キッチンのと方まで向かい…戸棚を空けて何種類かの穀物やドライフルーツが配合された
シリアルを取り出して、深いガラスの中に放り込んでザカザカと冷たい牛乳を掛けていく。
 それは所要時間1分以内で出来る、最短の食事の用意である。
 
『…それくらいは食べておけ。ただでさえ気持ちが沈んでいる時に…空腹の状態で
いたら、もっと気持ちが沈んでいくぞ…まったく…』

「あ、うん…ありがとう<俺>…」

 そう一言、もう一人の自分に礼を言いながら…スプーンを片手に持って自室に戻り
シリアルをゆっくりと食べ始めていく。
 意識の上では、ご飯などいらないと思っていた。
 だが実際にこうやって食べてみると…いかに自分の身体が食べ物を要求していたかを
思い知らされた気分だった。
 ザクザク、と小気味の良い音を立てながらシリアルを咀嚼して胃の奥へと流し込んで
行くと…身体に少し、気力が戻って来たような気分になった。

「…ん、ご馳走様。用意してくれてありがとうな…」

『…それくらいで礼を言われる言われはない。お前が空腹のままだと…俺までそれを
味わう羽目になるからやったまでだ…』

(ん、判った…そういう事にしておくよ…)

 もう一人の自分の物言いがおかしくて、ついクスクスと笑ってしまうと…思いっきり眼鏡の
方はムクれてしまったようだった。
 一時繋がっていた意識が再び途切れて、彼の声と気配は…克哉の中から消えていって
しまった。

(…あ~また、照れて…拗ねたな。まったく…意外に照れ屋だったんだな、あいつって…)

 あの日から眼鏡の意識が克哉の方を認めてから、自分達の在り方は大きく変化
していた。
 時々、ふっとした時にもう一人の自分の意識とパスが繋がってお互いの意思の
疎通が出来るようになっていた。
 最初はこのような状況になった時にびっくりしたが二日目を迎えて、克哉の方も
徐々にこの状態に適応していた。
 元々、いる事は判っていたのだ。今更この状況に驚いても仕方が無い。

まあ、少しうるさいのが玉に傷だけど四六時中、声が聞こえる訳じゃないしね

 眼鏡の意識も気まぐれで、自分が話したいと思った時にしかこちらも声が聞こえない。
 相手の考えが判らないでモヤモヤしているよりはマシ、と克哉の方もあっさりと
状況を受け入れる事にしていた。

(それに…今の状況じゃあ、一人で黙って待っているよりもずっとマシだしね…)

 静寂を讃えた自室で、一人で御堂がいつ来るかを待っている状況で…それでも
克哉が沈み切らずに済んでいた理由は、眼鏡の方が…こうして時折、こちらを心配して
ぶっきらぼうにだが…声を掛けてくれていた事も大きかった。
 時に親父じみた、セクハラ発言が飛び出す事もあったが…昨日、散々やられた時に
以前に本多がお土産で買って来たセンスが最悪のシャツを着てやる! と脅す事で
どうにか主導権を得ていたおかげで…今日はその類の意地悪な言葉を聞かされずに
済んでいた。

 シリアルを食べ終えて、調理場の洗い桶の中に食器を突っ込んでいく。
 キッチンの窓から差し込んでくる赤みを帯びた夕日の光は…今日という一日が
終わる事を世界に告げている。
 今週末、は…今日で終わりだ。
 昨日一日もやきもきしながら過ごしていたが…本日はそれ以上の気持ちを抱えていた。

「…やっぱり、オレみたいな奴とは…これ以上、付き合えません…よね…」

 その現実を受け入れて、御堂を諦めるように自分に言い聞かせようとした
次の瞬間―この二日間、まったく鳴らなかった…御堂専用の着信音が部屋中に
響き渡っていた。

「…っ!」

 その音を聞いて、脱兎の勢いでベッドの傍のガラステーブルの上に置いてあった携帯に
駆け寄り…通話ボタンを押していく。
 繋がると同時に、バタン! と自動車のドアか何かが勢い良く閉められて、コツコツコツと
上質の革靴が硬い床を歩く音が微かに聞こえていた。
 …どうやら、移動しながら電話を取っている状態のようだった。

「もしもし…!」

『…克哉か。良かった…繋がった。…この二日間、元気だっただろうか…?』

 電話の向こうから聞こえる声は、紛れもなく愛しい相手のものであった。
 それを耳にして…克哉はジィン、と痺れるような幸福感で一杯になっていく。

「はい、どうにか…オレの方は元気にやっていました…孝典さんの方こそ、どうでした…?」

『それを君が…聞くのか? 意地が悪いな…。そうだな…君たちの事ばかり考えて
ずっとグルグルと頭の中が回って身動きが取れない感じだったかな…』

「っ…!」

 その一言を聞いた瞬間、御堂に申し訳なくて…つい肩を竦めていってしまう。
 痛そうな顔を浮かべている間も…恋人からの言葉は受話器越しに続けられていった。

『…昨日の朝、もう一人の君からの留守電を聞いて…私は今までの人生で
一番、と言えるくらいに…凄く悩んだ。悩み続けた。
 …私にとって、君がとても大事な人なのは変わらない。だが…私を抱きたいと
言っているもう一人の君まで私は許容する事が出来るのだろうか…と。
 その一件で、自問自答を繰り返していたよ…』

「…そんなに、悩ませてしまったんですね…すみません…」

『…いや、君が謝ることではない。確かに…困惑はしたが、好きでそうなって
しまった訳じゃない事は…何となくは判るからな…』

「はい…ありがとう、ございます…」

 御堂の言葉を聞いて、克哉はずっと恐縮するしかなかった。
 その緊張を相手の方も感じ取ったのだろう。
 ふいに…フっと…相手が笑っているような、そんな気配を受話器越しに感じた。

『…まったく、君は…本当に生真面目なんだな。其処まで今更…私の前で畏まらなくて
構わないのだがな…』

 唐突に…先程までの硬質な声から…柔らかいトーンのものへと変化していく。
 
『克哉…私には、君が必要だ。散々悩んだ末に…出た結論は、結局…それだった。
君を失いたくない。傍にいて欲しい…それが、この一件を経た後で導き出した…
私の率直な気持ちだ…』

 その一言を聞いた途端に…克哉の涙腺は、制御を失って壊れてしまったかの
ように…頬に涙を伝らせていく。
 一度、堰を切ったら…もう止まらなかった。
 最初は滲んでいた程度のものが、次第に大きな粒になり…とめどなく克哉の頬を
濡らし始めていく。
 後はもう…止める事など、出来なかった―

「た、かのり…さ、ん…」

 あまりに嬉しくて、喉の奥が震えて…声が掠れていく。

『…正直、もう一人の君に抱かれる処までは…怖くない、と言ったら嘘になる。
しかし…私は、彼にも正直、惹かれる部分はあったからな…。初めてうちの会社に
来てプロトファイバーの営業権を勝ち取った時は何と傲慢で…やり手の男だ、と反発心が
湧いたが…今思えば、それも…強烈な関心の裏返しだったかも知れないしな…』

 そう、愛しいという感情こそ…まだないが、もう一人の克哉の存在が…御堂の心の中で
強く印象に残っていたのは事実だった。
 この一件より前に、御堂が彼の姿を見たのはその一回だけしかない。
 だが…そのただ一度だけの邂逅は極めて印象的で、御堂の中で決して色褪せる事は
なかったのだから…。

「ほ、んとう…に、もう一人の…<俺>の方まで…受け入れて、貰える…んですか?
それで…孝典、さんは…良い、んですか…?」

 たどたどしい口調で、涙声になりながらも…懸命に言葉を紡いで…御堂に語り
掛けていく。
 そんな克哉に優しく諭すように…男は返答していった。

『あぁ…本気だ。今、君の部屋の前まで来た…。疑うのなら…扉を開けて、私が
本当にいるかどうかを…見て確認してくれ…』

「えぇ!」

 それと同時に、声と一緒に聞こえていた靴音もピタリと止まっていく。
 事実かどうかを疑って…ゴクリ、と克哉はその場で息を飲んだ。

 トクトクトクトクトク…。

 普段より若干忙しなくなっている自分の鼓動の音が、うるさいくらいだった。
 携帯電話をさりげなく切り、机の上に置いてから…ゆっくりと玄関の扉の方へと
克哉は向かっていった。
 夕焼けがもっとも赤みを帯びて輝いている時間帯。
 克哉は…玄関に立ち、その扉を…慎重に開いていった。

「あっ…」

 其処に、紛れもなく…御堂は、居た。
 逆光のせいで…顔の表情は良く判らなかったけれど、間違いなく…その服装も
シルエットも愛しい人のものだった。
 それに気づいた瞬間、克哉は…御堂の胸に自ら飛び込んでいた。

「孝典さんっ!」

 つい、知らず…声は相手の名前を叫んでいた。
 それに応えるように…御堂もまた、克哉の身体を強く強く抱きしめていく。
 お互いに痛いぐらいに相手の身体をしっかりと抱きしめ…その存在を確認し合っていた。

迎えに来るのが、遅くなってすまない。ギリギリまで、迷っていたから

「いえ良い、んです。貴方がこうして、来てくれただけでそれだけで、オレには
十分ですから

 このまま来てくれずに、この恋を諦めてしまう結末よりも。
 どれだけ遅くてもこの人がこんな自分たちを受け入れてくれた事実の方が
幸せだから
 そう言い聞かせて、ギュウっと強く力を込めていく。
 それは痛いぐらいの抱擁だったけれど二人とも、まったく腕の力を緩める
気配はなかった。
 それだけで言葉を聞かなくてもお互いに答えは伝わっていた。

「ありがとうございます。孝典、さん! こんなオレ達を受け入れて、下さって!」

 本気で、嬉し涙が瞳から溢れて止まらなくなっていった。
 顔はクシャクシャになっていたが今の克哉はそれを止める事など出来ない。
 頬に涙を大量に伝らせている恋人の姿に、胸が詰まるような感情を覚えて御堂は
ゆっくりと、貪るように唇を重ねていった。

 お互いに気持ちが蕩けそうなくらい心地よく、幸せな口付け。
 日が完全に沈み、夜の帳が舞い降りる頃ようやくキスを解いていく。
 その頃には、本当に嬉しそうな笑みを克哉は浮かべていた。
 そして強い覚悟と決意を秘めながら、こうして来てくれたのなら伝えようと
思っていた言葉を、口に上らせていく。

『孝典さん…オレは、貴方を一生…貴方を愛しぬきます

 それは克哉の中の強い想い。
 こんな複雑な事情を抱えている自分を、丸ごと全部受け入れてくれた人に
最大級の感謝の気持ちを込めて、克哉はそう伝えていった。
 その言葉を聞いて、御堂もまた嬉しそうに微笑んでいく。

『あぁ私も、君達を二度と他の誰かに渡すつもりはない。覚悟、しておくんだな

 そうして、二人の影がゆっくりと重なり合う。
 繋がれた手と手が、お互いの想いを伝えていく。
 ようやく、散々迷って苦しんだ末に二人は、不安定な関係から絆を芽生えさせる。

 御堂がこの扉を開けた瞬間に…今までの『二人』の関係は終わりを告げて
新しい関係が始まろうとしていた。
 
 今まで克哉にとって…もう一人の自分の存在を知られる事が怖かった。
 それが露見すれば、御堂を失ってしまうのではないか。
 その恐れが二人の間から安定や信頼を奪い、不安定なものしか築けないでいた。
 だが…今は、違った。

 御堂は彼の罪も…複雑な事情を全て踏まえた上で…佐伯克哉という人間を
もう一つの人格と共に受け入れていく。
 いつもの彼とまったく異なる、別個の意思を備えた有能な能力を持った存在。
 自分を抱きたいと、率直な欲望を伝えてくる傲慢な男。
 その存在を込みの上で…彼らは『三人』で新たな関係をスタートさせていく。

 それに不安がない、と言ったら…嘘になる。
 だが、克哉はもう揺らぐつもりはなかった。
 この人の手を自ら離すつもりもない。
 もう一人の自分の存在も、二度と否定するつもりもなかった。

 自分の人生や、これから先の幸せは…この二人を抜きにしては有り得ない。
 そう確信していたから。
 だから強く強く、克哉は御堂の身体を抱きしめて…己の想いを必死に伝えていく。
 今、この瞬間…御堂の腕の中にいて、誰よりもこの人の近くに在れることに心から
感謝しながら…克哉は、愛しい人間にそっと…身を委ねていったのだった―
 
 

 最初、眼鏡から包丁を手渡された時はびっくりしたけれど…すぐに克哉は
冷静さを取り戻していった。
 これ見よがしに…手に持った凶器を相手の前に翳していくと…さも当然の
ようにあっさりとそれをベッドの上に放り投げていった。

「…それで、こんな事で…オレの決意が揺らぐと思っていたの? ねえ…<俺>」

 克哉は驚いてこそいたが…ほんの少しの未練もなく、眼鏡の持ち出した
提案を否定していく。
 ここまで躊躇いも見せずに断ってくるとは予想していなかっただけに…もう
一人の自分は呆気に取られていたようだった。

「…ちっ。先程までの世迷いごとも…本気で言っていたみたいだな。それは
認めてやる事にしよう…」

「…あははっ! 確かに…オレがさっきから言っていた事は…お前にとっては
世迷い事にしか聞こえてなかったかも知れないね。けど…オレは本気だから…」

 柔らかく微笑みながら、もう一人の自分の手に…そっと自分の手を重ねていく。
 春先だというのに…眼鏡の指先は、どこか冷たかった。
 いつもと変わらない、シニカルで冷静な態度。
 だが…今の提案をする事で、多少は彼も緊張していた。
 …克哉がもし、本気で包丁を持ち出して自分を殺す方を選択するか…迷いを
見せていたら、どうなっていたのだろうか。
 このどこか血の通っていない指先はもっと冷たいものになっていたんではないか。
 そんな事を…ふと、感じた。

「…本当に、お前ってさ。臆病…だよね」

「…何、だと…っ!」

 その一言は聞き捨てならなかったらしい。
 眼鏡の顔に再び怒りの感情が滲み出していく。
 だが…もう、克哉は彼が憤っている姿を見ても…殆ど慌てる事なく、真摯に相手の顔を
見据えていきながら言葉を続けていった。

「…今のは、オレの言葉が本気がどうかを試したかったんだろ? …お前はすぐに
人の言葉を疑って掛かるから…試さずにはいられなかった。
 甘い言葉にすぐ飛びついて…裏切られて、傷つけられるのは沢山だから。
 …アイツの時のように、表面は良い事ばかり言って親友面して…裏で、糸を引かれて
いたような。そんな真似を…されるのはもう嫌だ、と思っている。
 だからお前は…誰も信じない。オレさえも信じられない…そうじゃないのか…?」

「…お前は、アイツの事も…思い出したのか…?」

「…あぁ、もう誰も傷つけたくなかった。自分の持っている能力も才能も全てを
封じて目立たないように生きれば…もう二度とあいつみたいに誰も追い詰めたり
知らずに傷つけるような真似はしないで済むと思った。
 だからオレの方は…素質が同じでも、平凡な奴になってしまったんだろうけどね。
…けれど、お前を理解しようと思ったら…アイツの一件を抜きには語れない。
 違うかな…<俺>」

「…ちっ、そうだ。俺は誰も信じてない。…信じて痛い目に遭うのはもう沢山だからな。
 あれだけ心を寄せて、信じていたのに…あっさりと裏切る奴って影で笑って
いる奴がいる。そんな奴を親友だと思っていた。
 そんな馬鹿げた…道化のような立場になるのはもう御免だ。
 だから俺はもう誰も信じない。俺が信じるのは…『俺』だけだ…」

 その瞬間…眼鏡の顔は、12歳の時の自分の顔に重なった。
 
(やっぱり…コイツはあの一件を眠り続けていた事で…しっかりと覚えてしまって
いたんだ…オレが忘れる事を選んだ事を…)

 忘れる事を選択した自分とは違い、本当に大切な人を…知らずに追い詰めてしまって
いた苦い記憶を抱え続ける事で…もう一人の自分の人格は形成されてしまっていた。
 それが眼鏡の核の部分。
 誰も信じない、と…信じられるのは自分だけだ。
 そんな寂しい事を言う男の中に潜む…真実。

 やっと掴めた。
 ようやく…こいつの心の奥に踏み込む事が出来た。
 そう確信して…克哉は、目の前にいるもう一人の自分の身体に腕を伸ばして
もう一度…自分の方から強い力で抱きしめていく。
 その抱擁は…あの辛い記憶を抱きかかえて、今も…心の奥底で泣いている
子供の部分を残した…もう一人の自分の傷を癒す為のものだった。

「…ねえ、<俺> お前がオレを信じなくても…オレは、お前を信じて受け入れるよ…」

 とても優しく、穏やかな声で…諭すように伝えていく。
 それを聞いて、一瞬…眼鏡は瞠目して、その腕を突き飛ばす事が出来なかった。

「…オレは、本気だよ。…だって…お前は自分自身でもあるから。自分を信じられない
人間が…幸せになれるとは思えないから。
 このまま…誰も信じないでいれば、お前は…もうあの時のように傷つかなくても
済むかも知れない。けれど…決して、幸せにはなれないよ。
 …そんなの、せっかく生きているのに…悲しすぎないかな…?」

 信じる、という行為はリスクが伴う行為だ。
 信じている相手から裏切られた時の傷の痛みは、とてつもなく…時に人格に大きな
弊害を残す事すらある。
 だが…相手が信じているのに、こちらが疑って掛かれば…人の気持ちは離れていく。
 どんな人間でも自分が相手に疑われている、信じられていなければ…傷ついていつしか
傍から離れていく事だろう

 ―裏切られるかも知れない。そんな危険を冒してでも…時に、相手を信じるという行為を
通じてしか…人との絆など生まれはしない。
 今の克哉は、御堂という存在を経て…その真実を知っている。
 だから…もう一人の自分に優しく、子供に言い聞かせるように諭していく。
 …コイツにも、幸せになって貰いたいから。
 そんな無私の心で―

「…お前は、バカ…だな…」

「そうだよ、知らなかったの…?」

 お互いの顔を見つめ合っていく。
 気づけば…克哉の瞳は、軽く潤んでいた。
 そんなお人好し過ぎるもう一人の自分を見て…腹が立つのと同時に、少し羨ましい気持ちに
なったのが不思議だった。
 自分はコイツだけが幸せでいる事が不快だった。
 だからその幸福を壊してやるような行為を幾つも重ねて来た。
 その上でももう一人の自分は報復するような真似をせずに…自分の存在を受け入れて
あまつさえに、『信じる』という。
 それは到底、合理的な思考回路を持つ眼鏡には理解出来ない考え方だった。

 ―だが、そのせいで…自分の心が大きく変革したのも、事実だった。

「なら…お前は俺を裏切らないと。そう誓えるのか? お前がそう誓って…守り通すと
いうのなら…信じてやらん事もないが…どうする?」

「そんなの決まっている。誓うよ…オレはもう、お前の存在を蔑ろにするような真似は
絶対にしない。だから…オレを、信じて…」

 その問いに、克哉は一瞬の迷いも見せずに即答していく。
 …今夜は何度、コイツに自分は驚かされたか…眼鏡にはすでに判らなくなっていた。
 弱くて優柔不断な、どうしようもない奴だと思い込んでいた。
 それなのに…今夜のコイツはどうなのだろう。
 ほんの少しの迷いも見せずに、自分が出す無理難題をあっさりと看破して…ドカドカと
眼鏡の心の奥へと入り込んで来る。
 …その言葉を聞いて、やっと眼鏡も…決意していく。
 ここまで言われているのに、相手の言葉を撥ね付けるような真似をしたら…それこそ
みっともないだろうから―

「…判った、お前を信じて…やるよ…」

 そうして、眼鏡がゆっくりと…克哉の方に顔を寄せていく。
 その行動に思わずぎょっとなって、少し身を引いていくが…その腰をしっかりと
抱きかかえて決して逃がしてやらなかった。

「…って、ちょっと待って! 何でオレの方に顔を寄せてくるんだ…?」

「…誓う時は、キスするのが当たり前じゃないのか…?」

「それは結婚式の誓いだろっ! オレとお前はそんなんじゃ…」

「…これから先、一生…お前と一緒に歩んでいくんだから、意味としては
同じだろ? それとも…さっきまでの言葉の数々は…俺を騙す為の甘言だった
事を認めるか? それなら…それでも良いけどな?」

 意地悪な表情を浮かべながら、愉しげにそんな事を言ってのけるもう一人の
自分が恨めしかった。
 だが…こいつは、確かにこういった。
「これから先、一生お前を歩んでいくんだから…」と。
 その言葉の意味に気づいた時、克哉は渋々と言った感じで…受け入れていく。
 恋人は、御堂だけだ。
 けれど…こいつもまた、自分にとっては…人生の一部でもあるのだ。
 もう一人の自分の存在失くして、佐伯克哉という人間は完成しない。
 どれだけ性格が違っても、考え方が異なっていても…紛れもなく彼は…
自分の中から生まれ出た、もう一人の自分なのだから―

「誰が…認める、かよ…! オレは本気で言っているんだからっ! 
もう良い…お前の、好きにしろよ…。それでお前が…オレを信じてくれるなら…
安い買い物、だから…」

「あぁ…好きにさせて貰うぞ。喜べ…俺は義理堅いから、一度誓えば…決して
俺の方からは裏切ったりはしないさ…」

 クスクスと笑いながら、眼鏡がこちらの方へと唇を寄せてくる。
 月光が降り注ぐ藍色の室内で…二人の影が再び、重なり合う。
 それは触れるだけのささやかな口付けだったけれど…唇が重なり合った
瞬間…もう一人の自分の輪郭が…緩やかにぼやけ始めていった。

「んっ…」

 唇を離して、もう一人の自分を見遣る。
 涙を瞳に讃えていたせいかも知れないけれど…瞬く間に眼鏡の姿が
遠く感じられていく。
 その輪郭が曖昧になり…ゆっくりと半透明に変化していく。
 こんな不思議な光景に遭遇するのは…生まれて始めてで、最初はぎょっと
なったが…すぐにその現実を受け入れて、克哉は…穏やかな笑みを浮かべていく。

(…お前が、オレの中に…還って来ている…)

 目の前の自分の姿が、透明になればなるだけ…自分の中で欠けていた
部分が次第に埋まっていく。
 それで確信した。
 今の口付けで…眼鏡の意識は、克哉の中に戻る事を選んでくれた事を…。

 そして…瞬く間に、もう一人の自分の姿が…闇の中に溶けていく。
 同時に、酷く心は満ち足りていた。
 克哉は自分の胸元に…手をそっと宛がい、その存在を確かめていった。

(…間違いない。…確かに、お前は…ここに在る…)

 それを確信して、克哉は知らず…微笑んでいた。
 そして…もう一人の自分に向かって、優しく語り掛けていく。

『おかえりなさい…<俺>』

 そう告げた次の瞬間…
 もう一人の自分が不貞腐れて、舌打ちをする音が…聞こえたような気がした―

 克哉の方から、相手の腕の中に飛び込んだことで…眼鏡は虚を突かれる形に
なっていた。
 一瞬、何が起こったのか状況が判断出来ずに…克哉の成すがままに
抱きしめられ続けていく。
 さっきまでこちらから逃げていた癖に、この行動は一体どういう意図で取っている
かが本当に読めずに、怪訝そうな顔になるしか…なかった。

「…どういうつもりだ…? <オレ>」

 不機嫌そうな声で問いかけていくが、相手は答える気配がない。
 ただ骨がしなるくらいに強い力で、こちらを抱きしめていくのみだ。
 ますます…相手の考えが読めなくて、眉を顰めていく。
 そんな状態で…どれくらいの時間が過ぎただろうか。
 ふと…窓の外を見上げると、銀色に輝く真円の月がとても…綺麗である事に
眼鏡は気づいた。
 月に視線が釘付けになり…どこか遠い眼差しになっていく。
 その頃になってようやく、沈黙し続けていた克哉が口を開いていった。

「…お前こそ、いつまで…セックスに逃げるつもりなんだ…?」

 腕の力が弱まり、見つめ合う体制になっていく。
 お互いの鼓動と呼吸が感じられるくらいの、間近な距離で二人は向き合い…
視線と思惑を交差させていった。

「…どういう事だ? 俺が…逃げているだと…?」

「…あぁ。お前は苛立つと…いつも、その怒りを発散する為にセックスを求めている。
…お前が秋紀っていう子や、御堂さん…それにオレにまで節操なく手を出してくる理由が
最初は判らなかった。どんな男でも、お前にとっては欲望の発散の対象になり得るし…
それがオレが、お前の存在を恐いと思う理由だった。だけど…」

 克哉はキュっと唇を引き絞りながら、次の言葉を口にする覚悟を決めていった。

「…今はその理由が、良く判った。だから…オレは恐くない。だって…お前は、寂しくて
苦しくて…それで一時、その辛さから逃れたくて…誰かの体温を欲していると
それがやっと判ったから…」

「…何だと!」

 その一言に、眼鏡は怒りを露にした。
 思いっきり襟元を掴まれて、強引に相手の方に引き寄せられる。
 爛々と輝く瞳は憤りに輝き…不謹慎だが、それを綺麗だと思ってしまった。

「…お前ごときが、俺の何を判ったというんだ…? おこがましい事を言うのもいい加減
にしておけっ…!」

「へえ? それなら…何故、お前はそんなに怒っているのかな…? <俺>?
オレの言っている事が本当に見当違いだというのなら…お前は怒ったりなどせずに
こちらの言葉など、一笑に伏せば良いだけの事じゃないかな…?」

「…黙れ」

 克哉の言い分は、正しかった。
 もし相手の言っている事がバカらしいとか、見当違いだというのなら…適当に流して
まともに受け止めなければ良いだけの事だからだ。
 だが…相手が怒るという事は、それだけ…今言った事が事実に近い事を認めている
ようなものだった。

 眼鏡は本気で怒っていた。
 そんな彼を…克哉はようやく、荒ぶる心を抑えて…静かな気持ちで向き合っていく。
 …彼の存在を認めていれば、もしくはどうして自分達の心が二つに分かれて
しまったのか。
 どちらかと克哉が向き合っていれば、この一件は回避出来たことなのだ。
 憤怒の光を瞳に宿す…もう一人の自分の頬を、そっと優しく撫ぜて…その髪を
梳いていく。
 そして、克哉の方から再び…その身体を抱きしめていく。

「…謝って済む事じゃないと思っている。けれど…本当に、御免な…<俺>
お前の存在を…否定していた事、済まなく思っている…」

 あまりにも真っ直ぐに、謝罪の言葉を言われて…眼鏡は黙るしかなくなった。
 …今まで降り積もっていた怒りの矛先を、どこに向ければ良いのか判らなくなって
しまったからだ。
 こいつが、自分の事を否定したままなら…憎み続けられた。
 だが、こんな風にバカ正直に謝られてしまったら、これ以上…こちらも酷い事をして
コイツに思い知らせてやろう…という凶暴な気持ちを抱けなくなってしまっていた。
克哉の衣服は未だに乱れて…傍から見て、かなり挑発的な格好をしているのに…それを
目にしていても、さっきのように犯してやろうという気持ちが湧いて来ない。
  毒気を抜かれた顔を浮かべた眼鏡を…克哉は微笑ましい気持ちで見つめていく。
 やっと…本当のコイツに、自分は気づく事が出来たからだ。

(やっぱり…そうなんだな。こいつは…)

 御堂を守ろうと、こいつの意識を奈落に突き落とした瞬間。
 あの時…一瞬だけ、もう一人の自分の顔が…12歳の頃の自分の顔に被って
見えたのだ。
 その光景を見た時から…克哉は自分なりに、必死になってその理由を考え続けていた。
 理解しようと意識が傾いた辺りから、ずっと封印し続けていた12歳前後の頃の記憶を
掘り起こし…克哉はやっと、昨日の夜に…自分達が二人に分かれたその原因となる
事件の記憶を思い出せたのだ。
 あの一件を機に、あいつの意識は深層意識の底で眠りに付き…代わりに自分が
生きる事となった。

 25年間の人生を、佐伯克哉として歩んできた。
 だが…あいつは子供時代の12年間を行き、中学に上がってから社会人になるまでの
13年間は…自分の方が生きていた。
 だから、そうなのだ。何でも出来る力を持っていて…自分よりも物事を見極める能力が
あって凄い奴だと思っていた。
 その実力の高さに密かに憧れていたくらいだった。
 しかし…こいつは…12の時から、眠りについていた。
 だから純粋な子供特有の残酷さと、恋愛の仕方の一つも知らない「子供同然」の部分も
持ち合わせていた事実に克哉はずっと気づけなかったのだ。

(お前は…愛し方を、知らないんだ。だから…征服という形でしか、人と繋がりを
持てない。酷い抱き方をして…快楽を与えて、相手の身体を支配する…。こいつは
こういう方法でしか…人を求められない奴、だったんだな…)

 二人で月光の降り注ぐ部屋の中で…両者のシルエットが重なり合う。
 相手をしっかりとその腕に抱きしめていきながら…精一杯の気持ちを、克哉は
眼鏡に伝えていった。
 それは…御堂に注いでいる気持ちとは異なる、家族に向ける愛情に近いものだった。

「…なあ、<俺>。…オレには、すでにとても大事な人がいる。その人と同じようには
お前の事を愛せない…。けど、オレは…お前の存在を受け入れたい。…お前の存在込みで
あの人と一緒に…『三人』でこれから先を歩んでいけたら…オレ、そんな事を願って
いるんだ…。おかしい、かな…」

「…『三人』で、だと…そんな事が可能だと…本気で思っているのか…?」

「…うん。それって…御堂さんに凄い負担が掛かってしまう事だっていうのは判っている。
けれど…お前は、オレの一部だから。やっと…お前の寂しいという気持ちも、こんな真似を
した動機も理解出来たから。…お前を蔑ろにしてまで、自分だけが幸せになろうとする
事は…もう出来ないし、したくないんだ…」

 泣きそうな顔になりながら、克哉はもう一人の自分に訴えていく。
 その顔を見て…本心で相手がそんな事をのたまっているのだという事実を認める
しかなかった。
 
「…それで、御堂と別れる事になってもか…?」

「…あぁ。そうだよ…。オレは本気で…あの人を愛しているし、別れたくなんてない。
だけど…オレの中にお前がいるのは事実なんだ。その事実から目を逸らしてまで…
どうしてオレだけが幸せに浸って生きれるというんだよっ!」

 克哉は…本気で、そんな馬鹿げた事を言っていた。
 最初はその言葉を疑った。
 こいつは正気か…? と頭の中を覗いてやりたい気分にすらなった。
 だが…この顔を見れば、嫌でも判る。
 これを演技で出来る程…もう一人の自分は器用な性分を持ち合わせていない。
 …眼鏡は、だから信じるしかなかった。
 今、コイツが言っているのは紛れもなく本心である事を…。

(…本気で、バカだな…コイツは…)
 
 いっそ、呆れるくらいだった。
 それと同時に…コイツに抱いていた憎しみや憤りが、次第にどうでも良いものに
変わっていく。
 その心境の変化は…いっそ清々しいものすら感じられた。
 毒気が抜かれた、という表現が一番正しいだろうか。
 だからこそ…眼鏡は少し、こんなふざけた事ばかり言う克哉を…試してやりたい。
 そんな気分になっていく。

「…お前は馬鹿か? 今なら…もっと簡単な手段で、幸せを掴めるだろう…?」

「えっ…?」

 お互いに密着しあう体制で…眼鏡の一言で、克哉はバッと顔を上げていく。
 それを見て…意地悪してやりたい気持ちになっていった。
 ―今から提案する事に対して、こいつがどんな答えを導き出すのか…
想像すると少し愉快、だった。

 相手の身体から、静かに離れていく。
 そのまま…眼鏡は真っ直ぐにキッチンの方に向かい…ステンレス製の包丁を
一本手に持って…部屋の方に戻ってくる。
 薄暗い室内でも、月の光を反射させて…包丁の刃がキラリ、と輝いて
自己主張をしていた。

「…な、んで…」

 そんなものを持ち出された事に…克哉は目を見開いて立ち尽くすしかなかった。
 眼鏡は…呆けているもう一人の自分の顔を、愉しげに見つめながら…悪魔の
囁きを口にしていく。

『今なら…俺たちはこうして、別々に存在している。…それなら、御堂と別れるリスクを
犯してまで…俺の存在まで受け入れて貰おうとしなくても良い。
 …この状態で、お前の手で…俺を殺して、消してしまえば良いだけの話だ。
 そうすれば…御堂とこのまま…幸せな日々を続けられるかも知れないぞ?
 さあ…どうする? <オレ>…?」

 そう、今なら…確かに眼鏡の意識は克哉の中で生きている訳ではない。
 Mr.Rの柘榴の実の魔力を借りて…別々の肉体を持って同時に存在出来ている。
 この状態なら…自分達は一蓮托生ではない。
 克哉がもし、眼鏡の意識を殺す事を選べば…同一存在ではなく、「他人」として
彼の存在を葬り去る事が出来るだろう。
 それを踏まえた上で…眼鏡は提案していった。

 そうして眼鏡はもう一人の自分の手に今持ってきた包丁を、そっと握らせていく。
…そのまま克哉の前で目を閉じて…身を差し出すように…その場に立ち尽くしていった

  午後22時現在、これから本日分の執筆に入ります(エヘ)
  …昼間に若干、リクしたのを執筆していたっていう理由もありますが…(汗)
 ちょっと昨日、風邪移されまして…殆ど一日、寝て終わっちゃいましたが
真相だったりします。(十時間ぶっ続けで眠りこけていた…)

 おかげで回復して…今は頭も身体もしっかりしてますけどね。
 つ~訳で本日分の掲載もギリギリになります。
 毎度お待たせして申し訳ない。
 けど、ここが正念場なんで…全力で書きますです(ムン!)
 …なので、また拍手返信遅れます。
 地道に返していくので、もうちょい待ってやって下さい。ではでは~!

 P.S リク小説は合間を縫って、今月中に完成させるのを目標に仕上げるので
もうちょい待ってやって下さいね(私信)
 体中が、痺れている上に…頭がボウっとなって自由が利かなくなっていた。
 洗面所に凭れかかる格好から、どうにか立て直そうと…腕と足に力を込めていくが
まったく動けない状態になっていた。

(なんだよ、これ…金縛りにあったみたいに、動けない…!)

 その現実に愕然となりながらも、相手の姿はゆっくりとこちらの方に歩み寄り…背後から
覆い被さっていく。
 首筋に…鋭い痛みを感じて、ギュっと目を瞑った。

「やめっ…!」

「…あれだけ強く、俺を呼んでいた癖に…随分と連れない態度だな…<オレ>…?」

 そうしている間に、ふいに胸の辺りを弄られて…Yシャツのボタンを外されながら
胸の突起を弄られて…全身に鋭い快感が走っていく。
 優しく其処を摘まれて、捏ねられていきながら…ふいに強く押し潰されるように
刺激を与えられて、克哉は思わず身体を跳ねさせてしまった。

「んぅ…バカ、止めろってば…! こんな事を、したくて…オレは、お前を…呼んだ訳…
じゃない…!」

「…そうか? お前は今…柘榴を齧って、以前に俺とどんな時間を過ごした事があるのか
思い出したんじゃないのか…?」

 耳元で、そんな言葉を囁かれながら…胸板全体を揉みしだかれるように愛撫を
施されていく。
 気づけば相手に抱き起こされる格好になり…自分の脇の下に、相手の両腕が通されて
鏡の中にお互いの顔が映っていた。
 上気して、真っ赤になっている自分の顔と…楽しげに口元を歪ませている相手の顔が
同時に映されていて…余計に羞恥が強まっていく。
 身体は、何かの呪縛に遭ってしまったかのように…まったく自由が効かなかった。
 だから今の克哉は…相手の成すがままになるしかない。
 必死になって身体の自由を取り戻そうと…試みていく。
 そうしている間に、眼鏡の手は…克哉のズボンのフロント部分を彷徨い…ジッパーを
引き下ろして…克哉の性器を其処から取り出していった。

「っ…!」

「…ほら、な…。身体は…正直だ…。俺とどれだけ気持ち良い時間を過ごした事が
あるのかを思い出して、思いっきり…勃っているぞ…?」

 相手の言う通り、鏡の中には…しっかりと勃ち上がった己の性器と…握り込まれて
先端の割れ目を執拗に弄られて…蜜を溢れさせている様が如実に映し出されていく。
 こんな光景…目を逸らしたいのに、まったく逸らせない。 
 逆に何かに魅入られたかのように…相手の手が、ネチャネチャと糸を引かせて…
己の性器と胸の突起を鏡の前で弄る様から、目を離せなくなってしまった。

「やだ…止めろ、ってば…! あぁ…!」

 だんだんと追い上げられて、呼吸が荒くなっていく。
 それでも反射で身体が震えるだけで…克哉の意思では、指一本動かす事も抵抗
する事も出来ない状況が続いていた。
 相手の手が…早くなり、克哉の全身がビクビクビク…と絶え間なく震える。
 鏡の中の自分の感じる部位と、相手の弄られる場所から…視線を逸らすことすら
出来ずに…克哉の意思とは関係なく、身体は追い詰められていく。

「ひゃあ…!」

 布地越しに、ダイレクトに相手の昂ぶりを蕾に感じて…ゾクリ、と背筋に
悪寒に似た感覚が走り抜けていく。
 それが…合図となって、ついに堪えきれずに…宙に綺麗な放物線を描いていきながら
鏡に目掛けて…熱い精が解き放たれていく!

「…ほう。随分と勢い良く放ったじゃないか…? そんなに、悦かったのか…?」

 自分の背後から、凶悪な微笑を浮かべながら…もう一人の自分が羞恥を煽る
言葉を告げていく。
 克哉は答えられずに…ただ俯いて、この現状に愕然とするしかなかった。
 鏡の中に映る相手の冷たく怜悧な瞳に…こちらは縛り付けられているような、そんな
感覚だった。

(オレ…このまま、もしかして…コイツに、犯されてしまうのか…?)

 その現実に、一瞬心が挫けそうになった。
 相手の手が…ゆっくりと自分の下肢の衣類を外しに掛かっているのに気づいて
ぎょっとなった。
 瞬間…脳裏に描かれたのは…数日前に見た、恋人の御堂の本気で
怒った顔だった。

(ダメだっ! このまま流されたら…この間の二の舞じゃないかっ! これ以上は…
あの人を裏切るような真似…出来る訳が、ないっ!)

 その瞬間、口の端から血が滲み出るくらいに激しく己の唇を噛み締めていく。
 鋭い痛みが…一瞬だけ、ずっと立ちこめていた頭の中の白いモヤを吹き飛ばしてくれた。
 強い意志によって…僅かな時間だけ、克哉の呪縛は解けて…弾かれたように、その身を
翻して、相手の身体を思いっきり突き飛ばして自分の部屋の方へと駆け込んでいく。

「くっ…!」

 克哉の突然の反撃が意外だったのか…眼鏡は短く呻きながら壁に激突していった。
 窓からは煌々とした月光が静かに指し込み、暗い室内を淡い光が照らし出していた。
 ベッドに飛び乗って、その上に身体を転がり込ませていく。
 スプリングが軋む音が部屋中に響き、ゴロゴロと転がっていきながら…どうにか、その身を
起こして…荒い息を突いていった。

 はあ…はあ…はあ…はあ…!

 肩で呼吸をしていきながら、静寂を讃えた室内に…克哉の乱れた呼吸の音だけが
響き渡っていく。
 その中で…相手の黒いシルエットが…ゆっくりと闇の中に浮かび上がり…輪郭を
形作っていく。
 急ぐ事なく、一歩一歩…確実にこちらに歩み寄ってくるもう一人の自分の姿に
克哉の胸は…ドックン、ドックンと…乱れていくのを感じていた。

(…思い出すんだ! あの時…オレはあいつの本当の姿を見た筈だ…! それを
キチンと信じるんだ…!)

 奈落に相手を落とす瞬間に一瞬だけ見た「あいつの姿」
 それが…恐らく、相手の本質を現していた筈だ。
 必死になってその事実を思い出し…己の心臓の音を鎮めていく。
 今、犯されそうになった現実は…克哉に恐怖の感情を与えていたが…それでも
勇気を奮い立たせて、キっと相手の顔を藍色の闇の中で…見据えた。

「ほう…? まだ…そんな顔をする気力があるとは…な…。今夜のお前は
随分と骨がありそうだ…。こちらも楽しめそうだ…」

 ククっと喉の奥で笑いながら、ベッドの手前で…相手がこちらを見下ろしてくる。
 その目の光が…恐かったし、身が竦む想いがした。
 二人の強い視線が、空中で交差して…緊張した空気が室内に充満していく。
 ギシリ、と音を立てて…眼鏡がベッドの上に乗り上げていく。
 その瞬間、克哉は…覚悟を決めた。

(ここで勇気を出さないでこいつのペースに流されたままじゃあ…オレはあの人に
一生顔向け出来なくなる…!)

 ずっと、こいつに逢えたら絶対に伝えよう。
 そう決めていた言葉を何度も何度も復唱して…決意していく。
 これ以上、快楽に流されない為に。
 こいつを暴走させない為に。
 今、この瞬間に…自分が対峙して「実際のコイツの姿」を受け入れてやらなければ
何も解決しないのだから…!

「おい、<俺>!」

「…なっ?」

 強い口調で、相手を睨んで…克哉は呼びかけていく。
 それに一瞬だけ相手は虚を突かれて、呆けた顔を浮かべていった。
 その瞬間を見計らい―克哉は、自ら…相手の胸の中に飛び込み、
眼鏡の身体を強く強く…痛い位の力を込めて抱きしめていった―

 突発企画に多数の申し込みして頂き、誠にありがとうございました。
 …え~と、企画者は2~3人来れば良いかな~と思っていたんですが、予想外に
多くの応募者が出て驚いております(汗)
 今回のアミダクジの当選確率は14分の1でした…。

 で、栄えある当選者に輝いたのは…水城様の『克克、黒太一から奪還もの』
でございます! 
 おめでとうございます!
 こちらはサービスで、書き上げた方に完成したら一番に読んで頂く権利が発生します。
  サイトやブログをお持ちでしたら…当然掲載もOKです。
 こちらの方でHPスペースにアップして、読みやすい形に整えてから…URLを
送信する形か、メールに添え付けして…か、どちらかの方法でそちらにお渡しするので
出来れば、水城様…拍手でこそっとメルアドか何かを教えて下さると嬉しいですv

 …で、思ったよりも多くのリクエスト者が出たので…もう一回、抽選をやらせて
頂きました。
 これは次の連載小説の掲載CPだけを、リク希望して下さった方の意見を
尊重して優先させて頂く…というものです。
 で…二回目のアミダに当選者は「むい」様です~!
 という訳で次の連載もののCPはメガミドになります。 
  後、次の連載ものを気に入った場合は…お持ち帰りもOKですよ。
 
 後の方は残念ですが…落選です。
 多数のご応募、本当にありがとうございました。コメとかついている人の場合はまた
明日辺りにでも返信やらせて貰います。
 もう少しお待ち下さいませv
 試しに三回目やったら、思いっきり知り合いが出たので…家出ものはそちらの誕生日に
コソっと贈らせてもらうかもです…(私信)

 後、これから午後に掛けて今日は出かけますので…本日分の掲載は夜遅くになります。
 帰って来てから書く形になるので…日付変更間際に思いっきりなりそうです。
 …思いっきり疲れが出たので、午後十二時過ぎまで眠りこけていたせいです。はい。
 毎週日課の遠赤外線サウナに行って…10歳のお子様とドタバタ遊んで参りますわ…。
 先週行ってないから、今日は強烈だろうな~と思いつつ…これからちょいと行って来ます。
 ではでは~。
 

  御堂に、もう一人の自分を込みで…受け入れてくれるかどうか、問いかけをしてから
すでに三日が過ぎようとしていた。
 今夜も自室で…銀縁眼鏡をしっかりと握り締めていきながら、洗面所の鏡の前で
克哉は深い溜息を突いていた。

「…どうしよう」

 もし、受け入れてくれるあのなら週末にこの部屋に来て下さいと、彼に言った。
 それまでにどうにかもう一人の自分と話して結論つけておくとも…だが、今の克哉は
それを何一つ果たせずに無為にこの三日間を送る羽目になっていた。

「…これだけ、オレが問いかけているにも関わらず…全然、あいつの方から
返答がない。眼鏡を掛けても…あいつの方が出る気配もないし…」

 もう一度、鏡の前で眼鏡を掛けて…自分の顔を凝視していくが、まったく人格が変わる
兆候すら感じられなかった。
 眼鏡を掛けても、自分は自分のままだし…今までに何度も感じていた、あの気が遠くなる
ような…頭がどこまでも冴え渡っていくような感覚は訪れてくれない。
 ただ眼鏡を掛けた、いつもの自分の顔が…鏡の中に映っているのみだ。

「…やっぱり、あの時…暗い穴の中にあいつの意識を放り込んでしまった事が
影響があったのか…?」

 月曜日の朝に…あいつが出ていた時。今にも御堂を犯そうとしていた時は、無我夢中だった。
 阻止する事以外、何も考えられなかった。
 だから勘定のままに相手から主導権を奪って、あいつを…奈落の底へと突き落としていって
やり過ごしたが…そのおかげが、この数日間…何を考えて、訴えかけようと…もう一人の
自分からまったくの返答がないままだった。
 すでに秋紀との間には、けじめがつけられている。
 後は…彼の言葉を聞いて、これからどうしていくか。
 それを問いかけたいのに…もう一人の自分の気配すら、今の心の中には感じられない。
 その事実に克哉は本気で歯噛みしたくなった。

「…どうして、まったく答えてくれないんだよっ! お前の事を…オレはちゃんと、今度からは
認めていきたいのに…! どうしてここまで、何も言ってくれないんだよっ!」

 眼鏡を外して、それを強く握り締めていきながら…克哉が叫んでいく。
 だがそれでも、部屋の中には重い沈黙が落ちていくのみだった。
 あいつの孤独をすでに知ってしまった。
 あれだけ心を凍えさせたのは、自分が彼の存在を認めようとしないで否定し続けたから
だという現実をすでに克哉は受け入れている。
 だからあんな孤独は二度と味あわせない。
 そう強い決意の元に、この三日間ずっと彼に心の中で訴えかけて続けているのに…
一言も言わず、気配も感じられない状態は…切なかった。
 そこまで自分は、彼に今は拒絶されているのだという現状を突きつけられている感じだった。

「くそっ…!」

 鏡を思いっきり叩いて、悔しげな表情を浮かべていく。
 手が痛くなるぐらいの力を、とっさに込めてしまっていた。

「どうして…! お前は何も言ってくれないんだよ…<俺>!」

 ついに堪えきれずに、克哉は叫んでしまう。
 いつまでも沈黙を保ち続けているもう一人の自分に、心底苛立ちを覚えながら―

―そんなにも強く、あの方を望んでいるのでしたら…お助けしましょうか?

 ふいに部屋中に、歌うような軽やかな声が響き渡っていく。
 その声だけが反響して、一瞬にして室内の空気は一変していった。

「…Mr.Rっ…?」

―えぇ、お久しぶりですね…佐伯克哉さん。お元気そうで何よりですよ…

 とっさに周囲を見回して、リビングの方までざっと視線を張り巡らせていったが…
声はこれだけはっきりするにも関わらず、謎の男の気配はまったく感じられなかった。

―どうやら、貴方はもう一人のご自分を今はどこまでも強く求めていらっしゃるようですね。
あまりにけなげな姿でしたので…少しだけ手助けをする気になったんですよ。
 …本当に、もう一人のご自分と対面なさりたいと…そう願うのなら、どうぞ…それを
一口齧りなさいませ…。甘美な味と体験を…貴方に齎すでしょう…

 まるで決められた演目の中の台詞を述べていくように、スラスラスラとまったく言いよどむ
気配も見せずに…男は軽やかに告げていく。
 その瞬間、克哉の目の前がボワっと淡い光を放っていき…陽炎のような揺らめきが短い
間だけ生じて、消えていく。
 そして…赤い柘榴の実が、其処に浮かび上がって…しっかりと存在していた。

「…柘榴が…?」

 あまりの不思議な光景に、つい克哉は息を呑んで…その果実を凝視していく。

―さあ、どうぞ。その実を齧れば…貴方が望む方との対面を果たせますよ…?

 迷う克哉を前に、謎の男は更に促していく。
 突然の事態に、惑い…混乱しながら、鼓動が随分と荒く忙しいものへとなっていく。

 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン…。

 自分の心臓の音がいつもよりもはっきりと強く自覚出来る。
 気づけば喉はカラカラで、強く握りこんだ掌には汗すらうっすらと滲み始めている。
 まさか…こんな形でもう一人の自分との会話が実現する事になるとは、克哉の予想の
範疇を超えていて…躊躇う気持ちの方が最初は強かった。

「…だけど、これ以上迷っていてもしょうがない…! 何よりのチャンスだと思って…
受け入れよう…!」

 キッっと鏡の中の自分を睨んでいきながら、決意して…その突然目の前に現れた
赤い果実を握り込んでいく。
 パクリと割れている断面から、思い切り一口…実を齧っていくと…鮮烈なまでの
酸味が、脳髄にまで駆け抜けていった。

 瞬間、ぐにゃり…と世界が歪んでいくような錯覚と感覚が…克哉を襲っていった。
 これは何度か、経験があった。
 その時、今まで意識の底に封じ込められていた記憶の数々が喚起されて…脳裏に
蘇って、克哉は愕然となっていた。

「この記憶は…そ、んな…!」

 だが叫び声が零れると同時に、体中から力が抜けていく。
 意識が、瞬間…遠くなり、洗面台の前で彼の身体は崩れ落ちていった。
 何も考えられない、指一本動かすのも…少しの間、億劫になっていく。

『おい…いつまでそんな処にヘタりこんでいるんだ…<オレ>』

 ふいに、聞き覚えのある声が…背後から聞こえてくる。
 ノロノロした動作でどうにか…相手の方を向き直っていくと…そこには、
スーツをきっちりと着込んでいたもう一人の自分の姿が…確かに、鏡に映って…
しっかりと、自分の後ろに存在していたのだった―

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HN:
香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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