鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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『第五十話 いつか会える日を願って―』 「眼鏡克哉」
眼鏡の方が、もう一人の自分と別の肉体を与えられた日から一ヶ月が
経過しようとしていた。
最初の一週間は、渡された免許証を元に…生きていくのに必要な身分証明や
準備を施すだけであっという間に潰れた。
次の週から、就職活動を始めて十日も立たない内に…とある電話業界の会社の
営業としての内定を取得し…働き始めていた。
その間、彼は…秋紀が暮らしているアパートの方に身を寄せさせて貰っていたが、
就職が決定してから…彼は今度は自分の新たな住居を探し始めていた。
現在、秋紀は親元から独立して…高校時代に良く通っていた克哉と出会ったバーの
店長に雇われて、あのバーでバーテンとして働いていた。
彼は、眼鏡がずっとここに留まっても構わないと言っていたので暫くは甘えさせて貰って
いたが…まだ、正式に自分達は恋人同士になった訳ではない。
目覚めた当初は、ずっと想い続けてくれていた事が嬉しかった。感謝もした。
だが自分の胸の中には…未だに、太一ともう一人の自分の事が大きく存在している。
そんな状態で、真剣な気持ちに中途半端に応えて良いのだろうか…と珍しく殊勝な
考えが生じたせいで…この家で一ヶ月生活するようになってから、未だに秋紀と身体を
重ねた事はなかった。
それでも…秋紀は何かと、自分を気遣ってくれるし…目覚めたばかりで不安が大きく
圧し掛かっているこの時期に、ただ一人でも自分の事を知っていて必要としてくれる人間が
いる事は…有難く思えた。
佐伯克哉としての人間関係は、基本的にもう一人の自分のものだ。
同じ人間が二人いると知られても…ややこしい事になるから、これからは…眼鏡の方で
新たな人間関係を作って生きていかなければならない。
ドリンク業界や、それに関係する業種の場合は…彼がマネージャーをしているバンドの曲が
MGNにタイアップで使用されている事から見ても…以前の知り合いと顔合わせる可能性が
高いだろう。
だから…眼鏡は違う業界に飛び込んだ。
自分の実力なら絶対にやっていけるという確信もあるし…何より、面倒な事は
避けたかったから。
それでも新たな環境で生きていくのは、最初の頃は疲れるものだ。
ようやくアパートに帰宅する頃には…克哉は思いっきり疲れた顔を浮かべていた。
(今日も無事に終わったな…)
扉の鍵穴に、鍵を差し込んでいくと…予定外の手応えを感じた。
開錠する方向にキーを回していったが…カチャ、という音が今夜は聞こえなかった。
「ん…? もうすでに開いているのか…?」
怪訝そうに思いながら取っ手に手を掛けていくと…秋紀に笑顔で出迎えられていく。
「あ、克哉さん! お帰りなさい!」
時刻は19時50分。
いつもならば水商売をやっている秋紀はとっくの昔に出勤している時間帯だ。
それなのに満面の笑みを浮かべながら、夕食を作っている姿を見ると…何故、と
いう疑問だけが湧き上がっていく。
秋紀が作っているのは…カルボナーラだ。
スパゲティの類は…バーの賄いや、軽食を任されるようになった時にしっかりと
覚えたらしく…味わいは上々だ。
密かに眼鏡も気に入っていたが…あまり面を向かって褒めた事がない一品だった。
「…お前が平日のこの時間帯にいるのは珍しいな。休みだったのか…?」
「うん。ちょっとね…同僚の子と急に休みを交換する事になったから。週末にどうしても
行かないといけない場所が出来たんだってさ。僕も…週末は克哉さんといっぱいいられる
貴重な機会だから譲りたくなかったんだけどね。
あんなに一生懸命頼まれると断り辛かったから…今回だけ譲ってあげる事にしたんだ。
今日は最近…気になっているバンドが初めて、生で出演する番組の放送もあったからね。
録画するつもりだったけど…リアルタイムで見るのも悪くないかなって思ったし」
そういって説明する秋紀の表情は、自分の記憶にある頃よりも…ずっと大人びていた。
元々、華やかな容姿をしていた少年だったが…二十歳になって立派な青年となった彼は
独特の艶めいた雰囲気を持っていて…水商売をやるにはぴったりになっていた。
「…気になっているバンドって、今…MGNの新製品のCMで、ゴールデンタイムで良く
流されている曲のあれか…? お前が最近は着信音にも設定している…」
「うん! それそれ! あれ…凄いメロディラインが綺麗だしテンポも良いからだから…
僕の周りの人間にも評判高いんだよね。けど…着信音はさっさとダウンロード出来るように
なったけど…未だにCDも発売されていないし、TV出演もないから…今日の生放送は
見たかったんだよね~。克哉さんも後で一緒に見ようよ! 夜八時から始まるし」
「…俺はあまり、音楽番組とかは興味がないんだが…」
「もう! そういって克哉さんが見る番組って株式市場の奴とか、ニュースばっかりで…
全然バラエティとか音楽のとか見ないじゃん! …たまにはそういう若者向けの番組にも
目を向けないと…若い世代とも話が合わなくなって、精神的に早く老けるよ?」
「…余計なお世話だ」
そういって憮然としながらもスーツの上着を脱いでハンガーに掛けていき、夕食の準備を
手伝い始めていく。
秋紀の部屋はそんなに広くはない。2LDKで一間は寝室に…もう一室はリビングに
使用されている。
TVはリビングの方に置かれているので、夕食時になれば必然的に見る形となる。
(…こいつ、狙っていたな…)
恐らく、自分が20時より前に帰ってくれば一緒に興味ある番組を見る為に…その
時間帯に合わせて夕食を用意したのだろう。
まさかこの状況で寝室に食事を持っていって…一人で食べる訳にもいかない。
作為的なものを感じて、少し不快だったが…確かに最近、夕食を一緒に
食べる事すら滅多になかったし…一応、こちらは居候させて貰っている身だ。
今回は相手の策略に乗っかって、一緒に番組を見てやる事にした。
「あ、お手伝い有難うね~克哉さん。もうじき番組が始まるよっ! ほら早く
其処に座ってよっ!」
「あぁ、判った…」
とりあえず秋紀の言う通りに席に座り、一緒にカルボナーラとシーザーサラダ、
それと刻んだ玉ねぎと乾燥ワカメを入れて、コンソメ風に仕上げたスープを他愛無い
談笑をしながら食べ進めていく。
夕食の準備に追われていたせいで、眼鏡は番組の最初の…ゲストとなるアーティストの
紹介の部分を見忘れてしまっていたが、秋紀はしっかりと見ていたらしく…紹介された
順番から見て、番組の終わりの方だろう…と言っていた。
水商売と、電話業界。
異なる環境に身を置いているせいか…お互いにこうして話しているのも、それなりに
刺激があった。
3年前に出会った時は世の中をナメきった生意気な子猫と言った風だった彼も…
実際に働き出して一人暮らしをするようになって、少しは成長したのだろう。
話していて…相手の成長らしきものを感じて、少し嬉しかった。
夕食を食べ終えて、一通り食器類を流しの方に運び終えた頃…ようやく今夜の
メインとなるアーティストの登場となった。
その顔を見た時、克哉は心臓が止まるかと思った。
(太一…っ?)
そう、番組にアップで映されている人物は紛れもなく…太一だった。
肩ぐらいまでの長さの髪を下ろして、「夢と希望」と崩れた英語の筆記体でプリント
されたTシャツと、ややボロボロのジーンズに黒のロングブーツ。
耳元には青いピアス、胸元にはインディアンジュエリー風のネックレスを身に纏って
堂々とした態度でトークをしていた。
彼もまた、三年前に比べると大人びた印象になっていて、離れていた年月を
感じさせていた。
当たり障りのない会話が1~2分程…続けられていくと、ようやく演奏の時間と
なった。まさに今夜のメインイベントだ。
「あっ…もうじき始まるよ! 良~く聞いていてねっ! 克哉さん! これ…本当に
良い曲だからっ!」
秋紀ががっしりと克哉の肩を掴みながら、力いっぱい推薦していく。
一瞬…これ以上、太一の顔を見ているのも複雑な気持ちになるから…疲れた、と
言って寝室に逃げようと思ったが…これでは、逃げられない。
よりにもよって…秋紀の最近のお気に入りのアーティストが太一の率いるバンド
だったとは…運命の皮肉らしきものを彼は感じていた。
(ここは諦めて聞くしかなさそうだな…)
観念し、彼は…秋紀と一緒にTVの前に座って、演奏を見守っていく事にした。
だがいざ…演奏が始まる段階になった時に、異変が生じた。
最初は違和感…だが30秒も曲が流れ始める頃には…例のCMに使用されて
いた曲とテンポもメロディラインも違う事に、観客や視聴者も一斉に気づき始めた。
「えぇ! これ…CMの曲と違わない!? テンポや曲調がまったく合わないよっ!」
眼鏡が疑問に思ったと同時に、秋紀が叫んでいく。
どういう事だ…? と誰もが不思議に感じた瞬間…太一は叫ぶように詩を
歌い始めていた。
―眠り続けていたあんたに口付けを交わして 冷たい眼差しを受けた日から
俺は…知らぬ内に恋、していたのかも知れない…
「…えっ…?」
―酷い態度、優しさなど感じられない言葉ばかりぶつけられた だから若かった
俺も意地を張った 本当はどこかで…惹かれていたのに…
「…これ、凄い…切ないメロディラインだね…。聴いているだけで…胸が潰れ
そうになる…」
最初は文句を言っていた秋紀も、いつしか聞き入っていた。
そう…誰もが愛を賛歌するあの、暖かいラブソングを切望して注目していた
時に…こんな切なげな片思いソングを流す事など…反則以外の何物でもない。
だが、逆に予想もしていなかった展開だけに…そしてその曲に強い想いが
込められているだけに…誰もが釘付けになる。
目を逸らす事も、チャンネルを変える事すら出来なくなる。
―ただ一度も想いを伝えられることなく 俺もまた過ちを犯したその日に
あんたとの絆は断ち切られた それからどれくらいの時間が過ぎただろう
もうあんたは其処にいない 会いたくてもどこにいるのか判らない
そんな状況になって…やっと俺は、判ったよ
判ったよ、の部分から音域が上がっていく。
ここからはサビ、人の心にもっとも染み入る一番の終わりの部分だった。
―意地を張らなければ良かった 笑顔であんたを好きと口にすれば良かった
そうすればか細い縁の糸も断ち切られずに あんたは傍にいてくれたのか
離れてやっと思い知る真実 俺はあんたに…笑って、欲しかった…
その曲は、曲調こそややアップテンポであったが…イメージ的には70年代から
80年代に掛けてのフォークソングのような雰囲気を醸していた。
今まで彼が手がけていた曲が現代に合ったものばかりなら…これはどこか古めかしい
とか青臭い、とかそういう風に受け止められる感じの曲調だろう。
だが、メロディに…歌詞に本気の想いが込められている事は歌っている彼の表情
から見ても十分に伝わってくる。
率直な、飾らない言葉。
だから聴くものの心を…真摯に打つ。
片思いに苦しんだ事がある人間ならば、知らずに共感してしまう事だろう…。
「…うっ、わ…これ…何だろ。凄い古臭い感じすらするのに…何、で…」
秋紀は…知らない間に泣いていた。
眼鏡も、これは自分との事を太一が歌ってくれているのだと…歌詞を聴いていて
すぐに気づいた。
あぁ、何て事だろう。相手も…自分を想ってくれていた事を…まさかこれだけの時間が
過ぎて改めて知る事など、どんな皮肉なんだろうと思った。
そして一番が終わると同時に…曲が緩やかに、自然に変化していき…あっという間に
太一の表情が変化していく。
先程までは届かなかった想いに嘆き、咽ぶように歌っていた青年が…打って変わって
愛に満たされた表情を浮かべて、柔らかく歌い上げていく。
二番からは…皆が期待していた通りの、愛される喜びに満ちたラブソングが演奏
されていった。
それを見ているだけで判る。
片思いに苦しんだ青年は…今、愛する人が傍にいる事で満たされているのだと…
今、この瞬間に聴いている人間全てに訴えかけて伝えていく。
これこそ…太一が、ただ一人の人間に届く事を祈って…組み立てた、計画。
メッセージの全容だ。
一番最初に届かなかった相手への想いを伝え、次に今…自分達は幸せでいると
二番を歌う事で伝えていく。
この国で一番最初に生放送で歌った曲は…そういう編成で組み立てられていた。
一歩間違えば、非難されかねない冒険と言える行動。
だが…太一は、悪評でも好評でも…人の口に上ったり、話題になりさえすれば…
どこかで生きているもう一人の克哉に届くかも知れない、と考えたのだ。
今のご時勢、話題となる場面や映像ならば、動画サイトとかでアップされたり…
多くの人間に目に触れる可能性が高くなる。
だから歌手生命を賭ける事になっても…実行に移したのだ。
自分は今、傍らに居る克哉だけを愛していたんじゃない。
もう一人のあんたも想っていたのだと…その事実を伝える為に。
そしてそれは…紛れもなく、この瞬間に…眼鏡にリアルタイムで届いていた。
(あぁ…そうか。お前も…俺を想っていて、くれたんだな…)
それは詩に込められたメッセージ。曲調こそ違うが…これは、二人の克哉に
捧げたラブソングそのものだ。
その詩を聞いた時…自分の中にあった、太一に対するわだかまりのようなものが
ゆっくりと溶けていくのを感じていた。
ずっと凍り付いていた心が暖かな日の光で水に戻っていくように。
涙は、流さなかった。代わりに…口元に克哉は柔らかい笑みを浮かべていた。
(お互い好きであったのに…あそこまですれ違い続けた俺達は…振り返れば
馬鹿みたいだが、其処に気持ちがあったのならば…俺はお前を赦せる…)
自分の胸に突き刺さり続けていた大きな棘が、やっと抜けたような気分だった。
もう…自分達は一人には戻れない。
そうなってから…やっと想いが通じるなんて、滑稽な話だ。
だが…それは離れたからこそ、生じた結果なのかも知れなかった。
好きだからこそ、期待する。
想う気持ちがあるからこそ、相手の一言一言にすぐ傷つく。
好意がある故に他愛ない一言や態度すらも相手に大きな影響を
及ぼしてしまって誤解や、すれ違いを生む事は…抱いている恋心が強ければ
強すぎるだけ起こり得る…悲しい事実である。
自分達はそれで間違い続けた。
だが…三年と言う月日が流れて、憎しみもお互いに遠くなった今だからこそ…
その奥にあった真実の気持ちに彼らは気づけたのだ。
それはまさにパンドラの箱のようではないか。
思い通りにならない相手を怒り、憎しみ…他の他者が近づけば嫉妬したり
邪推したり…嫌な感情もまた、恋心の裏側には存在する。
負の感情、みっともない想い。それを心に押し込めて表現出来ない内に…
大きな災厄を招く原因にもなりうる。
だが…それを解き放てば時に悲劇もあるだろう。
しかし、全ての怒りを自覚したり…詩や物語、絵や音楽といった芸術方面で
発散された時…悲しいばかりだった恋は、時に人を魅了するだけの光を持った
宝石のように昇華し、輝くことがある。
それはあたかも…箱の奥に希望が出て来たとされるその寓話に良く似て
いないだろうか?
憎しみの果てに…時間が魂を癒した後に、愛という希望が…詩という結晶と
なって伝わる。
それが…この悲劇の幕を下ろす…一条の光、となった。
「…何か、凄いものを見たって気がする。予想外だったよね…今の展開。
けど、あっという間に…時間が過ぎていたね…わっ! 危ないっ!」
5分弱の演奏時間は、あっという間に過ぎたようにも…酷く濃縮された
時間を過ごしたようにも感じられた。
同時に、全力で演奏を終えた太一が…エキサイトし過ぎたのか、その場に
いた観客にサービスしすぎようとステージの前の部分に出すぎたせいなのか
バランスを崩して、観客席に落下しようとしていた。
―危ないっ!
聴き慣れた声がTVのスピーカーから漏れていく。
騒然となる観客席。アクシデントもここまで来るとTV局も迷惑だろう。
だが…その突発事態があったからこそ…一瞬だけカメラは、通常なら写しえない
場面を捉えていった。
「えっ!? えぇぇ…!」
自分が叫ぶと同時に、秋紀が思いっきり叫び声を上げていた。
とっさにカメラが落下した太一を追ってしまったのだろう…。
一瞬だけ、必死の顔をして落下してきた太一を受け止めている…克哉の姿を
映していく。
それで判った。今でももう一人の自分は…太一の傍にいるのだと。
詩だけではなく、事実として…それを受け止める事が出来た。
その後の番組進行はメチャクチャだったが、その映像の後に…すぐに
視界の方へとカメラは戻され、かなり苦しい様子だったが…どうにか時間
通りに番組は終了していった。
アッケに取られたのは視聴者も、番組関係者も観客席にいた人間も同じ
だろう。恐らく…明日には良い意味でも悪い意味でも、アチコチで大騒ぎに
なっているに違いなかった。
「…ったく、本当に…ムチャクチャな処はあいつらしいな…」
気づいたら、知らず…そう呟いていた。
それを聞いて、秋紀がびっくりしたような表情を浮かべる。
「へっ…? 克哉さん。知り合い…だったの?」
「あぁ、昔の…な。三年前から…殆ど、変わってない…」
そう言いながら、苦笑めいた笑みを浮かべていくと…秋紀はぴったりと
くっついていく。
「へえ…そうだったんだ。びっくり…克哉さんって本当に顔広いんだね…」
「あぁ…そう、だな…」
そういって、ぴったりと秋紀が寄り添ってくる。
無条件で懐いてくる青年の髪を…そっと撫ぜてやると…心地よさそうに
瞳を閉じていた。
その後、TVもすぐに消したので部屋の中は静寂に満ちていた。
暫くそうして、相手をあやすように撫ぜて肩を貸していてやると…すぐに秋紀は
安らかな寝息を立てていた。
太一に対してのわだかまりが晴れた瞬間…今までとは世界が違って
感じられた。
どんな形でも自分は、今…こうして生きている。
そして…純粋に慕ってくれている相手もこうして傍にいる。
すぐに同じように秋紀を想うことは無理でも、緩やかに信頼や愛着が育って…
いつかは本気の相手と考えられるようになる日も来るかも知れない。
もしくは…自分と秋紀に、それぞれ別の相手が出来て袂を分かつ日が
来るか…それは今の時点では誰にも判らない事だ。
けれど…過去に拘るのは止めにしようと想った。
相手をいつまでも憎んでいても新しい一歩を踏み出せないし。
得られるであろう可能性も…負の感情に囚われている内には気づけずに
見過ごしてしまうものなのだから。
「…いつまでも、<オレ>と…幸せ、にな…」
届かない相手に向かって、小さく呟いていきながら…克哉もまた、ソファに
ソファに腰を掛けながら一時のまどろみに落ちていく。
心から、今なら…あの二人を祝福出来た。
やっと嫉妬や恨みの気持ちから解放されて…心からそう思えるようになった時、
とても清々しくて…悪くない気分になっていた―
*
その数日後。
例の番組は、反響が凄まじかったらしく…激励と批評、両方の手紙が
大量に届けられていると聞いた。
だからその中に紛らせて、短く本心を記して届けていく。
もしかしたら、埋もれるかも知れない状況下で…それでも届く事があったのならば。
自分達の縁もいつかはまた生まれるのではないか…。
そんなささやかな希望を込めて―
『良い演奏だった。お前の気持ちは確かに俺は聞き遂げた。
いつの日か…会える日が訪れたら、その時は笑顔で初めましてと言って…
良い友人となれると良いな もう一人のオレと幸せにな… 佐伯克哉』
そう記したハガキを、克哉は静かに投函していった。
離れたからこそ、成就する想いもある。
寄り添い…ずっと一緒にいるだけが愛の形ではない。
作品、もしくは手紙、もしくは人づてに聞かされて遠回しに実る恋もまた
この世には存在する。
離れた後、憎しみも恨みも全てを水に流して
ただ相手の幸せを祈ろう
いつか再会出来た日に笑顔で初めまして―と告げて
新たな関係を築ける事を願いながら―
いつかまた彼らに会える日を願って、克哉は静かに…青空を仰いでいった―
経過しようとしていた。
最初の一週間は、渡された免許証を元に…生きていくのに必要な身分証明や
準備を施すだけであっという間に潰れた。
次の週から、就職活動を始めて十日も立たない内に…とある電話業界の会社の
営業としての内定を取得し…働き始めていた。
その間、彼は…秋紀が暮らしているアパートの方に身を寄せさせて貰っていたが、
就職が決定してから…彼は今度は自分の新たな住居を探し始めていた。
現在、秋紀は親元から独立して…高校時代に良く通っていた克哉と出会ったバーの
店長に雇われて、あのバーでバーテンとして働いていた。
彼は、眼鏡がずっとここに留まっても構わないと言っていたので暫くは甘えさせて貰って
いたが…まだ、正式に自分達は恋人同士になった訳ではない。
目覚めた当初は、ずっと想い続けてくれていた事が嬉しかった。感謝もした。
だが自分の胸の中には…未だに、太一ともう一人の自分の事が大きく存在している。
そんな状態で、真剣な気持ちに中途半端に応えて良いのだろうか…と珍しく殊勝な
考えが生じたせいで…この家で一ヶ月生活するようになってから、未だに秋紀と身体を
重ねた事はなかった。
それでも…秋紀は何かと、自分を気遣ってくれるし…目覚めたばかりで不安が大きく
圧し掛かっているこの時期に、ただ一人でも自分の事を知っていて必要としてくれる人間が
いる事は…有難く思えた。
佐伯克哉としての人間関係は、基本的にもう一人の自分のものだ。
同じ人間が二人いると知られても…ややこしい事になるから、これからは…眼鏡の方で
新たな人間関係を作って生きていかなければならない。
ドリンク業界や、それに関係する業種の場合は…彼がマネージャーをしているバンドの曲が
MGNにタイアップで使用されている事から見ても…以前の知り合いと顔合わせる可能性が
高いだろう。
だから…眼鏡は違う業界に飛び込んだ。
自分の実力なら絶対にやっていけるという確信もあるし…何より、面倒な事は
避けたかったから。
それでも新たな環境で生きていくのは、最初の頃は疲れるものだ。
ようやくアパートに帰宅する頃には…克哉は思いっきり疲れた顔を浮かべていた。
(今日も無事に終わったな…)
扉の鍵穴に、鍵を差し込んでいくと…予定外の手応えを感じた。
開錠する方向にキーを回していったが…カチャ、という音が今夜は聞こえなかった。
「ん…? もうすでに開いているのか…?」
怪訝そうに思いながら取っ手に手を掛けていくと…秋紀に笑顔で出迎えられていく。
「あ、克哉さん! お帰りなさい!」
時刻は19時50分。
いつもならば水商売をやっている秋紀はとっくの昔に出勤している時間帯だ。
それなのに満面の笑みを浮かべながら、夕食を作っている姿を見ると…何故、と
いう疑問だけが湧き上がっていく。
秋紀が作っているのは…カルボナーラだ。
スパゲティの類は…バーの賄いや、軽食を任されるようになった時にしっかりと
覚えたらしく…味わいは上々だ。
密かに眼鏡も気に入っていたが…あまり面を向かって褒めた事がない一品だった。
「…お前が平日のこの時間帯にいるのは珍しいな。休みだったのか…?」
「うん。ちょっとね…同僚の子と急に休みを交換する事になったから。週末にどうしても
行かないといけない場所が出来たんだってさ。僕も…週末は克哉さんといっぱいいられる
貴重な機会だから譲りたくなかったんだけどね。
あんなに一生懸命頼まれると断り辛かったから…今回だけ譲ってあげる事にしたんだ。
今日は最近…気になっているバンドが初めて、生で出演する番組の放送もあったからね。
録画するつもりだったけど…リアルタイムで見るのも悪くないかなって思ったし」
そういって説明する秋紀の表情は、自分の記憶にある頃よりも…ずっと大人びていた。
元々、華やかな容姿をしていた少年だったが…二十歳になって立派な青年となった彼は
独特の艶めいた雰囲気を持っていて…水商売をやるにはぴったりになっていた。
「…気になっているバンドって、今…MGNの新製品のCMで、ゴールデンタイムで良く
流されている曲のあれか…? お前が最近は着信音にも設定している…」
「うん! それそれ! あれ…凄いメロディラインが綺麗だしテンポも良いからだから…
僕の周りの人間にも評判高いんだよね。けど…着信音はさっさとダウンロード出来るように
なったけど…未だにCDも発売されていないし、TV出演もないから…今日の生放送は
見たかったんだよね~。克哉さんも後で一緒に見ようよ! 夜八時から始まるし」
「…俺はあまり、音楽番組とかは興味がないんだが…」
「もう! そういって克哉さんが見る番組って株式市場の奴とか、ニュースばっかりで…
全然バラエティとか音楽のとか見ないじゃん! …たまにはそういう若者向けの番組にも
目を向けないと…若い世代とも話が合わなくなって、精神的に早く老けるよ?」
「…余計なお世話だ」
そういって憮然としながらもスーツの上着を脱いでハンガーに掛けていき、夕食の準備を
手伝い始めていく。
秋紀の部屋はそんなに広くはない。2LDKで一間は寝室に…もう一室はリビングに
使用されている。
TVはリビングの方に置かれているので、夕食時になれば必然的に見る形となる。
(…こいつ、狙っていたな…)
恐らく、自分が20時より前に帰ってくれば一緒に興味ある番組を見る為に…その
時間帯に合わせて夕食を用意したのだろう。
まさかこの状況で寝室に食事を持っていって…一人で食べる訳にもいかない。
作為的なものを感じて、少し不快だったが…確かに最近、夕食を一緒に
食べる事すら滅多になかったし…一応、こちらは居候させて貰っている身だ。
今回は相手の策略に乗っかって、一緒に番組を見てやる事にした。
「あ、お手伝い有難うね~克哉さん。もうじき番組が始まるよっ! ほら早く
其処に座ってよっ!」
「あぁ、判った…」
とりあえず秋紀の言う通りに席に座り、一緒にカルボナーラとシーザーサラダ、
それと刻んだ玉ねぎと乾燥ワカメを入れて、コンソメ風に仕上げたスープを他愛無い
談笑をしながら食べ進めていく。
夕食の準備に追われていたせいで、眼鏡は番組の最初の…ゲストとなるアーティストの
紹介の部分を見忘れてしまっていたが、秋紀はしっかりと見ていたらしく…紹介された
順番から見て、番組の終わりの方だろう…と言っていた。
水商売と、電話業界。
異なる環境に身を置いているせいか…お互いにこうして話しているのも、それなりに
刺激があった。
3年前に出会った時は世の中をナメきった生意気な子猫と言った風だった彼も…
実際に働き出して一人暮らしをするようになって、少しは成長したのだろう。
話していて…相手の成長らしきものを感じて、少し嬉しかった。
夕食を食べ終えて、一通り食器類を流しの方に運び終えた頃…ようやく今夜の
メインとなるアーティストの登場となった。
その顔を見た時、克哉は心臓が止まるかと思った。
(太一…っ?)
そう、番組にアップで映されている人物は紛れもなく…太一だった。
肩ぐらいまでの長さの髪を下ろして、「夢と希望」と崩れた英語の筆記体でプリント
されたTシャツと、ややボロボロのジーンズに黒のロングブーツ。
耳元には青いピアス、胸元にはインディアンジュエリー風のネックレスを身に纏って
堂々とした態度でトークをしていた。
彼もまた、三年前に比べると大人びた印象になっていて、離れていた年月を
感じさせていた。
当たり障りのない会話が1~2分程…続けられていくと、ようやく演奏の時間と
なった。まさに今夜のメインイベントだ。
「あっ…もうじき始まるよ! 良~く聞いていてねっ! 克哉さん! これ…本当に
良い曲だからっ!」
秋紀ががっしりと克哉の肩を掴みながら、力いっぱい推薦していく。
一瞬…これ以上、太一の顔を見ているのも複雑な気持ちになるから…疲れた、と
言って寝室に逃げようと思ったが…これでは、逃げられない。
よりにもよって…秋紀の最近のお気に入りのアーティストが太一の率いるバンド
だったとは…運命の皮肉らしきものを彼は感じていた。
(ここは諦めて聞くしかなさそうだな…)
観念し、彼は…秋紀と一緒にTVの前に座って、演奏を見守っていく事にした。
だがいざ…演奏が始まる段階になった時に、異変が生じた。
最初は違和感…だが30秒も曲が流れ始める頃には…例のCMに使用されて
いた曲とテンポもメロディラインも違う事に、観客や視聴者も一斉に気づき始めた。
「えぇ! これ…CMの曲と違わない!? テンポや曲調がまったく合わないよっ!」
眼鏡が疑問に思ったと同時に、秋紀が叫んでいく。
どういう事だ…? と誰もが不思議に感じた瞬間…太一は叫ぶように詩を
歌い始めていた。
―眠り続けていたあんたに口付けを交わして 冷たい眼差しを受けた日から
俺は…知らぬ内に恋、していたのかも知れない…
「…えっ…?」
―酷い態度、優しさなど感じられない言葉ばかりぶつけられた だから若かった
俺も意地を張った 本当はどこかで…惹かれていたのに…
「…これ、凄い…切ないメロディラインだね…。聴いているだけで…胸が潰れ
そうになる…」
最初は文句を言っていた秋紀も、いつしか聞き入っていた。
そう…誰もが愛を賛歌するあの、暖かいラブソングを切望して注目していた
時に…こんな切なげな片思いソングを流す事など…反則以外の何物でもない。
だが、逆に予想もしていなかった展開だけに…そしてその曲に強い想いが
込められているだけに…誰もが釘付けになる。
目を逸らす事も、チャンネルを変える事すら出来なくなる。
―ただ一度も想いを伝えられることなく 俺もまた過ちを犯したその日に
あんたとの絆は断ち切られた それからどれくらいの時間が過ぎただろう
もうあんたは其処にいない 会いたくてもどこにいるのか判らない
そんな状況になって…やっと俺は、判ったよ
判ったよ、の部分から音域が上がっていく。
ここからはサビ、人の心にもっとも染み入る一番の終わりの部分だった。
―意地を張らなければ良かった 笑顔であんたを好きと口にすれば良かった
そうすればか細い縁の糸も断ち切られずに あんたは傍にいてくれたのか
離れてやっと思い知る真実 俺はあんたに…笑って、欲しかった…
その曲は、曲調こそややアップテンポであったが…イメージ的には70年代から
80年代に掛けてのフォークソングのような雰囲気を醸していた。
今まで彼が手がけていた曲が現代に合ったものばかりなら…これはどこか古めかしい
とか青臭い、とかそういう風に受け止められる感じの曲調だろう。
だが、メロディに…歌詞に本気の想いが込められている事は歌っている彼の表情
から見ても十分に伝わってくる。
率直な、飾らない言葉。
だから聴くものの心を…真摯に打つ。
片思いに苦しんだ事がある人間ならば、知らずに共感してしまう事だろう…。
「…うっ、わ…これ…何だろ。凄い古臭い感じすらするのに…何、で…」
秋紀は…知らない間に泣いていた。
眼鏡も、これは自分との事を太一が歌ってくれているのだと…歌詞を聴いていて
すぐに気づいた。
あぁ、何て事だろう。相手も…自分を想ってくれていた事を…まさかこれだけの時間が
過ぎて改めて知る事など、どんな皮肉なんだろうと思った。
そして一番が終わると同時に…曲が緩やかに、自然に変化していき…あっという間に
太一の表情が変化していく。
先程までは届かなかった想いに嘆き、咽ぶように歌っていた青年が…打って変わって
愛に満たされた表情を浮かべて、柔らかく歌い上げていく。
二番からは…皆が期待していた通りの、愛される喜びに満ちたラブソングが演奏
されていった。
それを見ているだけで判る。
片思いに苦しんだ青年は…今、愛する人が傍にいる事で満たされているのだと…
今、この瞬間に聴いている人間全てに訴えかけて伝えていく。
これこそ…太一が、ただ一人の人間に届く事を祈って…組み立てた、計画。
メッセージの全容だ。
一番最初に届かなかった相手への想いを伝え、次に今…自分達は幸せでいると
二番を歌う事で伝えていく。
この国で一番最初に生放送で歌った曲は…そういう編成で組み立てられていた。
一歩間違えば、非難されかねない冒険と言える行動。
だが…太一は、悪評でも好評でも…人の口に上ったり、話題になりさえすれば…
どこかで生きているもう一人の克哉に届くかも知れない、と考えたのだ。
今のご時勢、話題となる場面や映像ならば、動画サイトとかでアップされたり…
多くの人間に目に触れる可能性が高くなる。
だから歌手生命を賭ける事になっても…実行に移したのだ。
自分は今、傍らに居る克哉だけを愛していたんじゃない。
もう一人のあんたも想っていたのだと…その事実を伝える為に。
そしてそれは…紛れもなく、この瞬間に…眼鏡にリアルタイムで届いていた。
(あぁ…そうか。お前も…俺を想っていて、くれたんだな…)
それは詩に込められたメッセージ。曲調こそ違うが…これは、二人の克哉に
捧げたラブソングそのものだ。
その詩を聞いた時…自分の中にあった、太一に対するわだかまりのようなものが
ゆっくりと溶けていくのを感じていた。
ずっと凍り付いていた心が暖かな日の光で水に戻っていくように。
涙は、流さなかった。代わりに…口元に克哉は柔らかい笑みを浮かべていた。
(お互い好きであったのに…あそこまですれ違い続けた俺達は…振り返れば
馬鹿みたいだが、其処に気持ちがあったのならば…俺はお前を赦せる…)
自分の胸に突き刺さり続けていた大きな棘が、やっと抜けたような気分だった。
もう…自分達は一人には戻れない。
そうなってから…やっと想いが通じるなんて、滑稽な話だ。
だが…それは離れたからこそ、生じた結果なのかも知れなかった。
好きだからこそ、期待する。
想う気持ちがあるからこそ、相手の一言一言にすぐ傷つく。
好意がある故に他愛ない一言や態度すらも相手に大きな影響を
及ぼしてしまって誤解や、すれ違いを生む事は…抱いている恋心が強ければ
強すぎるだけ起こり得る…悲しい事実である。
自分達はそれで間違い続けた。
だが…三年と言う月日が流れて、憎しみもお互いに遠くなった今だからこそ…
その奥にあった真実の気持ちに彼らは気づけたのだ。
それはまさにパンドラの箱のようではないか。
思い通りにならない相手を怒り、憎しみ…他の他者が近づけば嫉妬したり
邪推したり…嫌な感情もまた、恋心の裏側には存在する。
負の感情、みっともない想い。それを心に押し込めて表現出来ない内に…
大きな災厄を招く原因にもなりうる。
だが…それを解き放てば時に悲劇もあるだろう。
しかし、全ての怒りを自覚したり…詩や物語、絵や音楽といった芸術方面で
発散された時…悲しいばかりだった恋は、時に人を魅了するだけの光を持った
宝石のように昇華し、輝くことがある。
それはあたかも…箱の奥に希望が出て来たとされるその寓話に良く似て
いないだろうか?
憎しみの果てに…時間が魂を癒した後に、愛という希望が…詩という結晶と
なって伝わる。
それが…この悲劇の幕を下ろす…一条の光、となった。
「…何か、凄いものを見たって気がする。予想外だったよね…今の展開。
けど、あっという間に…時間が過ぎていたね…わっ! 危ないっ!」
5分弱の演奏時間は、あっという間に過ぎたようにも…酷く濃縮された
時間を過ごしたようにも感じられた。
同時に、全力で演奏を終えた太一が…エキサイトし過ぎたのか、その場に
いた観客にサービスしすぎようとステージの前の部分に出すぎたせいなのか
バランスを崩して、観客席に落下しようとしていた。
―危ないっ!
聴き慣れた声がTVのスピーカーから漏れていく。
騒然となる観客席。アクシデントもここまで来るとTV局も迷惑だろう。
だが…その突発事態があったからこそ…一瞬だけカメラは、通常なら写しえない
場面を捉えていった。
「えっ!? えぇぇ…!」
自分が叫ぶと同時に、秋紀が思いっきり叫び声を上げていた。
とっさにカメラが落下した太一を追ってしまったのだろう…。
一瞬だけ、必死の顔をして落下してきた太一を受け止めている…克哉の姿を
映していく。
それで判った。今でももう一人の自分は…太一の傍にいるのだと。
詩だけではなく、事実として…それを受け止める事が出来た。
その後の番組進行はメチャクチャだったが、その映像の後に…すぐに
視界の方へとカメラは戻され、かなり苦しい様子だったが…どうにか時間
通りに番組は終了していった。
アッケに取られたのは視聴者も、番組関係者も観客席にいた人間も同じ
だろう。恐らく…明日には良い意味でも悪い意味でも、アチコチで大騒ぎに
なっているに違いなかった。
「…ったく、本当に…ムチャクチャな処はあいつらしいな…」
気づいたら、知らず…そう呟いていた。
それを聞いて、秋紀がびっくりしたような表情を浮かべる。
「へっ…? 克哉さん。知り合い…だったの?」
「あぁ、昔の…な。三年前から…殆ど、変わってない…」
そう言いながら、苦笑めいた笑みを浮かべていくと…秋紀はぴったりと
くっついていく。
「へえ…そうだったんだ。びっくり…克哉さんって本当に顔広いんだね…」
「あぁ…そう、だな…」
そういって、ぴったりと秋紀が寄り添ってくる。
無条件で懐いてくる青年の髪を…そっと撫ぜてやると…心地よさそうに
瞳を閉じていた。
その後、TVもすぐに消したので部屋の中は静寂に満ちていた。
暫くそうして、相手をあやすように撫ぜて肩を貸していてやると…すぐに秋紀は
安らかな寝息を立てていた。
太一に対してのわだかまりが晴れた瞬間…今までとは世界が違って
感じられた。
どんな形でも自分は、今…こうして生きている。
そして…純粋に慕ってくれている相手もこうして傍にいる。
すぐに同じように秋紀を想うことは無理でも、緩やかに信頼や愛着が育って…
いつかは本気の相手と考えられるようになる日も来るかも知れない。
もしくは…自分と秋紀に、それぞれ別の相手が出来て袂を分かつ日が
来るか…それは今の時点では誰にも判らない事だ。
けれど…過去に拘るのは止めにしようと想った。
相手をいつまでも憎んでいても新しい一歩を踏み出せないし。
得られるであろう可能性も…負の感情に囚われている内には気づけずに
見過ごしてしまうものなのだから。
「…いつまでも、<オレ>と…幸せ、にな…」
届かない相手に向かって、小さく呟いていきながら…克哉もまた、ソファに
ソファに腰を掛けながら一時のまどろみに落ちていく。
心から、今なら…あの二人を祝福出来た。
やっと嫉妬や恨みの気持ちから解放されて…心からそう思えるようになった時、
とても清々しくて…悪くない気分になっていた―
*
その数日後。
例の番組は、反響が凄まじかったらしく…激励と批評、両方の手紙が
大量に届けられていると聞いた。
だからその中に紛らせて、短く本心を記して届けていく。
もしかしたら、埋もれるかも知れない状況下で…それでも届く事があったのならば。
自分達の縁もいつかはまた生まれるのではないか…。
そんなささやかな希望を込めて―
『良い演奏だった。お前の気持ちは確かに俺は聞き遂げた。
いつの日か…会える日が訪れたら、その時は笑顔で初めましてと言って…
良い友人となれると良いな もう一人のオレと幸せにな… 佐伯克哉』
そう記したハガキを、克哉は静かに投函していった。
離れたからこそ、成就する想いもある。
寄り添い…ずっと一緒にいるだけが愛の形ではない。
作品、もしくは手紙、もしくは人づてに聞かされて遠回しに実る恋もまた
この世には存在する。
離れた後、憎しみも恨みも全てを水に流して
ただ相手の幸せを祈ろう
いつか再会出来た日に笑顔で初めまして―と告げて
新たな関係を築ける事を願いながら―
いつかまた彼らに会える日を願って、克哉は静かに…青空を仰いでいった―
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『第四十九話 太一の計画』 「佐伯克哉」
アメリカでそれなりの成功を収めてから、ふとした事で…本多にMGNの新製品の
タイアップ曲の話を持ちかけて貰ったのを契機に太一と克哉は…日本に戻って来て
こちらで当分は積極的に活動する方針を固めていた。
克哉がアメリカに渡ってから、意外なことに…本多と御堂は交流を持つようになったらしい。
海外に渡ってからも…克哉と太一は、例の事件が起こってから何かと手助けをしてくれた
本多と片桐に対して、頻繁に連絡を取っていたし。
克哉のその後が気になった御堂は…本多と連絡を取って、時々…その経過を聞くように
なったのをキッカケに二人は時々ケンカをしながらも酒を飲み交わす間柄になったらしい。
今回の帰国は、そういう繋がりから発生したものだった。
帰国して、ゴールデンタイムに太一達のバンドが作った音楽が流れるようになってから
およそ一ヶ月。
流れてから、反響は徐々に広がっていき…今ではその曲が近々CD化する事も決定して
毎日がその打ち合わせや準備で忙しくなって来た時期だった。
CMではサビの部分が15秒程流れているが…全部は太一が作った曲は世間に流れて
いない。
それを御堂や、MGN側の営業は上手く利用して…話題や、注目を集めてくれていた。
おかげで…本日、生放送の番組にこの曲を二番フルで流せる機会が訪れていた。
控え室に入って…太一と椅子に座ってお互いに向き合う体制で打ち合わせをしている最中、
克哉は素っ頓狂な声を思わず上げてしまっていた。
「…えぇ! それ…太一、本気でやるつもりなのっ?」
太一からたった今聞いたとんでもない計画を聞いて…克哉はつい驚いて椅子から
立ち上がってドン、と机を叩いていってしまう。
それに対して…太一は腕を組みながら自信満々そうな態度で言葉を続けていた。
「うん。大マジだよ。だって…考え方によっては千載一遇のチャンスでしょ? 今夜って…
生で俺達の声が世間に流れるんだしさ…。やっぱりあれは、録画じゃなくて…生で
リアルタイムでやってみたいし…」
「き、気持ちは判るけど…それ、一歩間違えたら大変な事になるよ? ようするに…
クライアントの意向を裏切る形になる訳だし…」
「だから…言っているでしょ? ちゃんとCMに使われている曲も二番には
流すって。実はこの生放送の話が決まってから…バンドの仲間にはちゃんと話して
とっくの昔に打ち合わせも準備も済んでいるんだ。後はとちらずに実行に移すのみの
段階な訳。という訳で…俺は自分の意思を曲げるつもりはないかんね?」
「そ、それは…自殺行為と紙一重だと思うよ。せっかく…日本でも認知度が広まって
結構名前とか知られてきたばかりの頃なのに…そんな無茶な真似をしたら…」
「…克哉さん。俺はまだ…若いし、こっちじゃ特にビックなアーティストって訳じゃない。
その時期に守りに入るのは…早いんじゃないのかな? もし失敗したとしても…
またやり直せば良いだけだし。…成功したら、絶対に観客のインパクトに残るよ。
それは確信持って言える。自信がなかったら…実際にやってみようとは思わないしね」
言い切った太一の表情は…強い意志が感じられた。
それを見て…克哉は深い溜息を突いていく。
この三年…太一のバンドのマネージャー兼、社長に近い立場で…彼をずっと見守って
来たのだ。
こういう顔をしている時の太一が絶対に意思を曲げる事がない事は…何度も体験して
身にしみている。
どれだけ大人としての意見や、考えを述べたとしても…自分が決心した事は頑として
変える事のない芯の強さを秘めている。
それが見知らぬ土地で…太一を成功に導かせた最大の理由でもあるのだから―
「…その顔じゃあ、俺が何を言ったって…意思を変えないだろうね。うん…判った。
太一の好きなようにやっても構わないよ。…もし失敗した場合は…オレがちゃんと
責任を負って謝るから。…その代わりに、ヘマしないように頑張れよ?」
「やった! 克哉さんありがとう! 愛しているっ!」
そういっていきなり椅子から立ち上がって…思いっきり抱きしめられながら唇にキスを
された時は流石に焦った。
今はバンドのメンバーも準備に入って…自分たち二人だけの状態とは言え…今は
生放送番組に出演寸前の、スタンバイしている時である。
いつスタッフに出番を呼ばれて…扉を開けられるか判らない状況下でこんな事を
されたので…克哉は思いっきり動揺していた。
「こ、こら…太一! 誰が来るのか判らない状況の時にこういう事は止めろってば!
もし…関係ない人に見られたらどうするんだ…よっ!わっ…!」
「良いでしょ? だって…あの曲ですでに克哉さんは俺のだって…みんなに公言
しているようなものだし。俺はいつだって…克哉さんとの事を世間に発表しても構わないって
考えているんだけどね。…俺にとって、この世で一番大切な人です…ってね?」
「~~~~っ! 馬鹿っ!」
ポコン、と勢い良く頭を叩きながら太一を全力で引き剥がしていくと同時に
扉が思い切り開かれていく。
そこに立っていたのは…パリっとした背広に身を包んだ長身の男…御堂
孝典、その人だった。
「あぁ…君達、ここにいたのか。向こうに待機しているスタッフ達が…君達を
探していたぞ。そろそろ番組が始まる時間帯だからな…。
後、君達の出番は…中頃だそうだ。まあ…初めてのTV露出になる訳だし…
妥当な扱いだろう。もう出れるだろうか?」
「あ、御堂さん…! TV局のこんな所まで…入って来れるなんて思っても
みなかったから…ちょっと驚きました…。はい、オレ達はいつでも出れます。
ね…太一?」
「あぁ…一応、君達の今回のスポンサーになるのは…我が社だからな。それに
この番組のCM枠にも、ちゃんと君達の曲を使用したものを流して貰っている。
…入って来れない筈がないだろう?」
(うっわ~相変わらず…この人、偉そうでムカつくなぁ…)
本多と御堂はそれなりに今は和解して、仲良くやれるけれども…日本に戻って
から初めて彼と面識を持った太一はあまり馬が合わないらしく…こうして顔を合わせる
度にどうしても反発を持ってしまっていた。
だが、日本にこうして戻って活動出来ているのも…それなりの話題性を持って曲を
世間に流す事が出来たのもMGNという強力なスポンサーがついてくれているからである。
だから露骨に嫌がるような態度は顔には出さないように気をつけている。
…が、どうしても額にうっすらと青筋が浮かんでいるのまでは隠し切れて
いないのだが…。
「そうですね…愚問でした。それじゃあ…太一、そろそろ行こう! 初めての生放送番組
出演で…オレ達のせいで番組の進行に影響出してしまったら…これからのうちのバンドの
活動にも支障出すかも知れないしね…」
「は~い、判りました~。もう俺の方は…準備出来ているから、このままでも出れるよ」
そう言い切った太一の格好はいつもと変わらないラフな服装で。
普段着ならともかく…これから、TVに出演するとは思えないくらいに地味な代物だ。
「えぇっ? それってどう見ても…いつも太一が着ている格好とそんなに変わりがない
じゃないか…! どうしたんだよっ! いつもだったら…曲に合わせてちゃんと衣装を
用意したり…そういうのを怠ったりしない筈なのに…!」
「…曲のイメージが、ちゃんと決まっているならね。けれど…俺が今日…これから
やろうとしている事は、克哉さんにちゃんとさっき話したばかりでしょ?
その計画の為には…服装でイメージが決まってしまう事はむしろマイナスだからね。
だからね…今日は敢えてこれで行く訳。その方が服装によって聞き手に先入観を
与えないで済むからね…」
「…君達は一体、何の話をしているんだ? …傍から聴いている限りでは…何となく
不穏な気配を感じるんだが…? 一応、今回の君達の曲のタイアップは我が社が
担当しているという自覚だけは忘れないでいて貰いたいんだがな…」
「は、はい! それはオレ達も自覚しています。MGNさんの顔に泥を塗るような真似
だけは絶対にしませんから…! それじゃそろそろ時間がヤバそうですから…失礼
しますね! ほら、行こ! 太一…!」
自分でも声が上ずってしまっている自覚はあったが…ここは逃げるしかないと
克哉は判断していた。
もし…さっき太一から聞かされた事を御堂に話してしまったら…絶対にその計画は
阻まれてしまうだろう。それくらいの想像はついていたからだ。
不振がられるのは端から承知だ。だが…太一の意思がすでに決まっている以上…
御堂が何を言っても彼は実行に移すまで気持ちを変える事はない。
それなら…これ以外の最良の選択はない。そう克哉は確信していた。
「わわっ! 克哉さん…そんなに急がなくてもっ…!」
「五分前には持ち場についているのは日本社会では常識の一つだよ! 幾らまともな
社会経験がないからってそういうのは疎かにしちゃダメだ! ほら…!」
そして思いっきり手を引っ張っていきながら…ふと御堂の方を振り返り、小さく
会釈をしていく。
そんな克哉を前に…御堂はニコリ、と柔らかく微笑んでいく。
「…それじゃあ御堂さん、失礼致します!」
「あぁ…君達が良い結果を出してくれるのを…楽しみに見守らせて貰おう…」
満足げに微笑む御堂を尻目に、克哉もまた…嬉しそうに微笑んで…そして太一の
手を引いてその場を去っていく。
その姿を見送って…御堂は切なげに目を細めた。
(すでに…私や本多が入り込む余地などなさそうだな…あの二人には…)
それを感慨深げに想いながら、御堂は二人の背中を見送っていく。
かつて…自分は、佐伯克哉を想っていた。
その事を自覚したのは…彼が退社をして、アメリカに渡ったと…片桐と久しぶりに
顔を合わせた時にその話を聞かされた辺りでの事だった。
それをキッカケに…気まぐれに本多と会ってみようという心境になり…そして、
一度飲んでみたら、本多もまた…無自覚な恋心を眼鏡を掛けていない方の佐伯克哉に
抱いていた事実を何となく感じ取り。
口に出した事がないが…その連帯感のようなものが心地よくて、気づいたら年に
数度程だが…本多と酒を飲み交わすような間柄になっていた。
(あの日…眠っている彼にキスをしてしまった時点で自覚していれば…もしかしたら
何かが変わっていたのかも知れないな…)
三年前、克哉が刺されて病院に運ばれた時。
見舞いに伺った時に自分は…何故か吸い寄せられるようにキスをしてしまった事が
あった。あの当時は何故…あんな事をしてしまったのか、自分でも信じられなかったが…
今なら判る。
自分は…あの時、佐伯克哉を好きだったのだと…。
けれどそれを自覚した時には、彼はアメリカに渡っていて。
…あのCMに登用した曲を聴いた時に確信した。
五十嵐という男と…佐伯は、恋人同士になっているのだと。
そして…もう、自分が入り込む余地などこの三年間で無くなってしまった事を…
この一ヶ月、何度も打ち合わせで顔を合わせる度に思い知らされていた。
「…まあ、過去を嘆いても仕方がないな…。それに上手く行っていない場合なら
ともかく…順調な時に壊すような真似をして…彼に嫌われたくはないからな…」
そう、御堂自身とて過去に幾度かの恋愛経験がある。
だからこそ…すでに上手く行っている二人を無理矢理引き裂くようなみっともない
真似をしたくないし…私情に走って彼らの音楽活動の妨害もしたくはなかった。
知らぬ間に通り過ぎて、終わりを迎えるしかなかった恋心。
その想いが…彼にこうやって佐伯克哉に再び縁を持たせる理由にはなっていた。
だが…これはひっそりと胸の中に秘めて、終わらせようと御堂は心に決めていた。
過去にそういう事もあったのだと…時々、感慨に耽って懐かしむ。
そういう恋の形や、終焉だってあるのだから―
(せめて…有終の美を飾るか…。この恋に対しては…な…)
彼らの姿が消えていく。
暫く廊下に佇みながら、男はそっと瞼を閉じて…太一に対しての嫉妬心を
押さえ込んで…スポンサーとしての自分を思い出していく。
何となく…あの男がとんでもない事をやらかしそうな気配を感じて…大きな
不安が渦巻いているが、彼らの曲をMGNが本腰入れて取り組んでいる…
プロトファイバーに続く期待の新製品のタイアップに起用したのは自分の判断だ。
この一ヶ月で注目度が高まり、すでに多くの発注を見込めているのも…彼らの紡いだ
音楽が大きく貢献している事実を御堂自身も認めていた。
だから見守ろう。これから彼らが起こす出来事を…。
そして生放送の現場に御堂が辿り着いたその時、太一の誇らしげな声が…
場内中に響き渡っていった。
『これから…想いを込めて、俺達はこれから演奏します…! この瞬間を観客の皆さん…
どうぞ…最後まで焼き付けて下さい!』
その瞳を力いっぱい輝かせて、マイクを握り締めて太一が訴えていく。
そして彼が歌うべき場面が巡り、最初のイントロが流れていくと…最初は大歓声。
…間もなく、大きなざわめきがその場を満たしていった。
それは予想していたものと違うものが展開されている困惑そのものだった。
傍らに待機している克哉も…険しい顔をして彼らを見守っている。
想定もしていなかった事態に咄嗟に御堂は…叫びそうになってしまっていた。
(五十嵐…君は一体、何をするつもりだ…!)
御堂が動揺を押し殺し、どうにか見守る立場を貫いた次の瞬間…太一は力の
限り…声を振り絞っていった。
そして…その場の空気の全てを…彼と、その演奏を担当しているバンドの
メンバーが支配したのだった―
アメリカでそれなりの成功を収めてから、ふとした事で…本多にMGNの新製品の
タイアップ曲の話を持ちかけて貰ったのを契機に太一と克哉は…日本に戻って来て
こちらで当分は積極的に活動する方針を固めていた。
克哉がアメリカに渡ってから、意外なことに…本多と御堂は交流を持つようになったらしい。
海外に渡ってからも…克哉と太一は、例の事件が起こってから何かと手助けをしてくれた
本多と片桐に対して、頻繁に連絡を取っていたし。
克哉のその後が気になった御堂は…本多と連絡を取って、時々…その経過を聞くように
なったのをキッカケに二人は時々ケンカをしながらも酒を飲み交わす間柄になったらしい。
今回の帰国は、そういう繋がりから発生したものだった。
帰国して、ゴールデンタイムに太一達のバンドが作った音楽が流れるようになってから
およそ一ヶ月。
流れてから、反響は徐々に広がっていき…今ではその曲が近々CD化する事も決定して
毎日がその打ち合わせや準備で忙しくなって来た時期だった。
CMではサビの部分が15秒程流れているが…全部は太一が作った曲は世間に流れて
いない。
それを御堂や、MGN側の営業は上手く利用して…話題や、注目を集めてくれていた。
おかげで…本日、生放送の番組にこの曲を二番フルで流せる機会が訪れていた。
控え室に入って…太一と椅子に座ってお互いに向き合う体制で打ち合わせをしている最中、
克哉は素っ頓狂な声を思わず上げてしまっていた。
「…えぇ! それ…太一、本気でやるつもりなのっ?」
太一からたった今聞いたとんでもない計画を聞いて…克哉はつい驚いて椅子から
立ち上がってドン、と机を叩いていってしまう。
それに対して…太一は腕を組みながら自信満々そうな態度で言葉を続けていた。
「うん。大マジだよ。だって…考え方によっては千載一遇のチャンスでしょ? 今夜って…
生で俺達の声が世間に流れるんだしさ…。やっぱりあれは、録画じゃなくて…生で
リアルタイムでやってみたいし…」
「き、気持ちは判るけど…それ、一歩間違えたら大変な事になるよ? ようするに…
クライアントの意向を裏切る形になる訳だし…」
「だから…言っているでしょ? ちゃんとCMに使われている曲も二番には
流すって。実はこの生放送の話が決まってから…バンドの仲間にはちゃんと話して
とっくの昔に打ち合わせも準備も済んでいるんだ。後はとちらずに実行に移すのみの
段階な訳。という訳で…俺は自分の意思を曲げるつもりはないかんね?」
「そ、それは…自殺行為と紙一重だと思うよ。せっかく…日本でも認知度が広まって
結構名前とか知られてきたばかりの頃なのに…そんな無茶な真似をしたら…」
「…克哉さん。俺はまだ…若いし、こっちじゃ特にビックなアーティストって訳じゃない。
その時期に守りに入るのは…早いんじゃないのかな? もし失敗したとしても…
またやり直せば良いだけだし。…成功したら、絶対に観客のインパクトに残るよ。
それは確信持って言える。自信がなかったら…実際にやってみようとは思わないしね」
言い切った太一の表情は…強い意志が感じられた。
それを見て…克哉は深い溜息を突いていく。
この三年…太一のバンドのマネージャー兼、社長に近い立場で…彼をずっと見守って
来たのだ。
こういう顔をしている時の太一が絶対に意思を曲げる事がない事は…何度も体験して
身にしみている。
どれだけ大人としての意見や、考えを述べたとしても…自分が決心した事は頑として
変える事のない芯の強さを秘めている。
それが見知らぬ土地で…太一を成功に導かせた最大の理由でもあるのだから―
「…その顔じゃあ、俺が何を言ったって…意思を変えないだろうね。うん…判った。
太一の好きなようにやっても構わないよ。…もし失敗した場合は…オレがちゃんと
責任を負って謝るから。…その代わりに、ヘマしないように頑張れよ?」
「やった! 克哉さんありがとう! 愛しているっ!」
そういっていきなり椅子から立ち上がって…思いっきり抱きしめられながら唇にキスを
された時は流石に焦った。
今はバンドのメンバーも準備に入って…自分たち二人だけの状態とは言え…今は
生放送番組に出演寸前の、スタンバイしている時である。
いつスタッフに出番を呼ばれて…扉を開けられるか判らない状況下でこんな事を
されたので…克哉は思いっきり動揺していた。
「こ、こら…太一! 誰が来るのか判らない状況の時にこういう事は止めろってば!
もし…関係ない人に見られたらどうするんだ…よっ!わっ…!」
「良いでしょ? だって…あの曲ですでに克哉さんは俺のだって…みんなに公言
しているようなものだし。俺はいつだって…克哉さんとの事を世間に発表しても構わないって
考えているんだけどね。…俺にとって、この世で一番大切な人です…ってね?」
「~~~~っ! 馬鹿っ!」
ポコン、と勢い良く頭を叩きながら太一を全力で引き剥がしていくと同時に
扉が思い切り開かれていく。
そこに立っていたのは…パリっとした背広に身を包んだ長身の男…御堂
孝典、その人だった。
「あぁ…君達、ここにいたのか。向こうに待機しているスタッフ達が…君達を
探していたぞ。そろそろ番組が始まる時間帯だからな…。
後、君達の出番は…中頃だそうだ。まあ…初めてのTV露出になる訳だし…
妥当な扱いだろう。もう出れるだろうか?」
「あ、御堂さん…! TV局のこんな所まで…入って来れるなんて思っても
みなかったから…ちょっと驚きました…。はい、オレ達はいつでも出れます。
ね…太一?」
「あぁ…一応、君達の今回のスポンサーになるのは…我が社だからな。それに
この番組のCM枠にも、ちゃんと君達の曲を使用したものを流して貰っている。
…入って来れない筈がないだろう?」
(うっわ~相変わらず…この人、偉そうでムカつくなぁ…)
本多と御堂はそれなりに今は和解して、仲良くやれるけれども…日本に戻って
から初めて彼と面識を持った太一はあまり馬が合わないらしく…こうして顔を合わせる
度にどうしても反発を持ってしまっていた。
だが、日本にこうして戻って活動出来ているのも…それなりの話題性を持って曲を
世間に流す事が出来たのもMGNという強力なスポンサーがついてくれているからである。
だから露骨に嫌がるような態度は顔には出さないように気をつけている。
…が、どうしても額にうっすらと青筋が浮かんでいるのまでは隠し切れて
いないのだが…。
「そうですね…愚問でした。それじゃあ…太一、そろそろ行こう! 初めての生放送番組
出演で…オレ達のせいで番組の進行に影響出してしまったら…これからのうちのバンドの
活動にも支障出すかも知れないしね…」
「は~い、判りました~。もう俺の方は…準備出来ているから、このままでも出れるよ」
そう言い切った太一の格好はいつもと変わらないラフな服装で。
普段着ならともかく…これから、TVに出演するとは思えないくらいに地味な代物だ。
「えぇっ? それってどう見ても…いつも太一が着ている格好とそんなに変わりがない
じゃないか…! どうしたんだよっ! いつもだったら…曲に合わせてちゃんと衣装を
用意したり…そういうのを怠ったりしない筈なのに…!」
「…曲のイメージが、ちゃんと決まっているならね。けれど…俺が今日…これから
やろうとしている事は、克哉さんにちゃんとさっき話したばかりでしょ?
その計画の為には…服装でイメージが決まってしまう事はむしろマイナスだからね。
だからね…今日は敢えてこれで行く訳。その方が服装によって聞き手に先入観を
与えないで済むからね…」
「…君達は一体、何の話をしているんだ? …傍から聴いている限りでは…何となく
不穏な気配を感じるんだが…? 一応、今回の君達の曲のタイアップは我が社が
担当しているという自覚だけは忘れないでいて貰いたいんだがな…」
「は、はい! それはオレ達も自覚しています。MGNさんの顔に泥を塗るような真似
だけは絶対にしませんから…! それじゃそろそろ時間がヤバそうですから…失礼
しますね! ほら、行こ! 太一…!」
自分でも声が上ずってしまっている自覚はあったが…ここは逃げるしかないと
克哉は判断していた。
もし…さっき太一から聞かされた事を御堂に話してしまったら…絶対にその計画は
阻まれてしまうだろう。それくらいの想像はついていたからだ。
不振がられるのは端から承知だ。だが…太一の意思がすでに決まっている以上…
御堂が何を言っても彼は実行に移すまで気持ちを変える事はない。
それなら…これ以外の最良の選択はない。そう克哉は確信していた。
「わわっ! 克哉さん…そんなに急がなくてもっ…!」
「五分前には持ち場についているのは日本社会では常識の一つだよ! 幾らまともな
社会経験がないからってそういうのは疎かにしちゃダメだ! ほら…!」
そして思いっきり手を引っ張っていきながら…ふと御堂の方を振り返り、小さく
会釈をしていく。
そんな克哉を前に…御堂はニコリ、と柔らかく微笑んでいく。
「…それじゃあ御堂さん、失礼致します!」
「あぁ…君達が良い結果を出してくれるのを…楽しみに見守らせて貰おう…」
満足げに微笑む御堂を尻目に、克哉もまた…嬉しそうに微笑んで…そして太一の
手を引いてその場を去っていく。
その姿を見送って…御堂は切なげに目を細めた。
(すでに…私や本多が入り込む余地などなさそうだな…あの二人には…)
それを感慨深げに想いながら、御堂は二人の背中を見送っていく。
かつて…自分は、佐伯克哉を想っていた。
その事を自覚したのは…彼が退社をして、アメリカに渡ったと…片桐と久しぶりに
顔を合わせた時にその話を聞かされた辺りでの事だった。
それをキッカケに…気まぐれに本多と会ってみようという心境になり…そして、
一度飲んでみたら、本多もまた…無自覚な恋心を眼鏡を掛けていない方の佐伯克哉に
抱いていた事実を何となく感じ取り。
口に出した事がないが…その連帯感のようなものが心地よくて、気づいたら年に
数度程だが…本多と酒を飲み交わすような間柄になっていた。
(あの日…眠っている彼にキスをしてしまった時点で自覚していれば…もしかしたら
何かが変わっていたのかも知れないな…)
三年前、克哉が刺されて病院に運ばれた時。
見舞いに伺った時に自分は…何故か吸い寄せられるようにキスをしてしまった事が
あった。あの当時は何故…あんな事をしてしまったのか、自分でも信じられなかったが…
今なら判る。
自分は…あの時、佐伯克哉を好きだったのだと…。
けれどそれを自覚した時には、彼はアメリカに渡っていて。
…あのCMに登用した曲を聴いた時に確信した。
五十嵐という男と…佐伯は、恋人同士になっているのだと。
そして…もう、自分が入り込む余地などこの三年間で無くなってしまった事を…
この一ヶ月、何度も打ち合わせで顔を合わせる度に思い知らされていた。
「…まあ、過去を嘆いても仕方がないな…。それに上手く行っていない場合なら
ともかく…順調な時に壊すような真似をして…彼に嫌われたくはないからな…」
そう、御堂自身とて過去に幾度かの恋愛経験がある。
だからこそ…すでに上手く行っている二人を無理矢理引き裂くようなみっともない
真似をしたくないし…私情に走って彼らの音楽活動の妨害もしたくはなかった。
知らぬ間に通り過ぎて、終わりを迎えるしかなかった恋心。
その想いが…彼にこうやって佐伯克哉に再び縁を持たせる理由にはなっていた。
だが…これはひっそりと胸の中に秘めて、終わらせようと御堂は心に決めていた。
過去にそういう事もあったのだと…時々、感慨に耽って懐かしむ。
そういう恋の形や、終焉だってあるのだから―
(せめて…有終の美を飾るか…。この恋に対しては…な…)
彼らの姿が消えていく。
暫く廊下に佇みながら、男はそっと瞼を閉じて…太一に対しての嫉妬心を
押さえ込んで…スポンサーとしての自分を思い出していく。
何となく…あの男がとんでもない事をやらかしそうな気配を感じて…大きな
不安が渦巻いているが、彼らの曲をMGNが本腰入れて取り組んでいる…
プロトファイバーに続く期待の新製品のタイアップに起用したのは自分の判断だ。
この一ヶ月で注目度が高まり、すでに多くの発注を見込めているのも…彼らの紡いだ
音楽が大きく貢献している事実を御堂自身も認めていた。
だから見守ろう。これから彼らが起こす出来事を…。
そして生放送の現場に御堂が辿り着いたその時、太一の誇らしげな声が…
場内中に響き渡っていった。
『これから…想いを込めて、俺達はこれから演奏します…! この瞬間を観客の皆さん…
どうぞ…最後まで焼き付けて下さい!』
その瞳を力いっぱい輝かせて、マイクを握り締めて太一が訴えていく。
そして彼が歌うべき場面が巡り、最初のイントロが流れていくと…最初は大歓声。
…間もなく、大きなざわめきがその場を満たしていった。
それは予想していたものと違うものが展開されている困惑そのものだった。
傍らに待機している克哉も…険しい顔をして彼らを見守っている。
想定もしていなかった事態に咄嗟に御堂は…叫びそうになってしまっていた。
(五十嵐…君は一体、何をするつもりだ…!)
御堂が動揺を押し殺し、どうにか見守る立場を貫いた次の瞬間…太一は力の
限り…声を振り絞っていった。
そして…その場の空気の全てを…彼と、その演奏を担当しているバンドの
メンバーが支配したのだった―
『第四十八話 魂の詩』 「五十嵐太一」
「嘘、だろ…」
呆然としながら、克哉はバスルームの床に崩れ落ちていく。
どうして…今まで、自分はこの話題を避けていたんだろうと思った。
…眼鏡側の感情は、すでに知っている。
彼が奈落に落ちる寸前にどれだけ深く…自分と、太一を強く想ってくれていたのか…
強烈に流れ込んで来たから。
だが、三年前に…自分が彼が幸せになれるように下した決断が間違いだったとしたら
空回りも良い処、だった。
「克哉、さん…」
太一も…いつしか、涙を浮かべていた。
…それから、言葉もなく…彼の腕の中に抱き込まれていた。
彼は何も言わない。ただ…重い沈黙だけが落ちていく。
「馬鹿、みたいだ…オレたち、「三人」とも…本当に、馬鹿過ぎるよ…。
結局、蓋を開けてみれば…全員…好きあっていたんじゃないか。それなのに、
傷つけあって、ボロボロになって…すれ違い続けて。離れて、手遅れになってから…
その事にやっと気づくなんて…」
「…そうだね。けどさ…克哉さん。俺…失くしたからこそ、やっと気づけた事って
沢山…あるよ。少なくとも、俺にとっては…」
ぎゅっと…濡れて冷えた克哉の身体を、太一が抱きすくめていく。
お互いにびしょびしょで…衣類が肌に張り付いて寒かったけれど…身体が重なりあって
いる部位だけは…少し、暖かかった。
「…このままじゃ冷え切ってしまうから…そろそろ、出ない? …俺も克哉さんも、
これから日本で暫く本格的に活動するんだし。身体が資本っしょ? とりあえず…
上がって着替えようよ…それから、続きの話…しようよ…」
「…そうだね」
優しく背中を撫ぜられながら…克哉は太一の言葉に頷いていった。
それから…二人は濡れた衣類を脱ぎ去って、バスローブを身に纏ってベッドの方へと
戻っていく。
太一はまだ呆然としている克哉を気遣って…インスタントだが、暖かいコーヒーを用意して…
そっと相手に手渡していった。
「はい…克哉さん。あったまるから…飲んでよ…」
「う、ん…有難う…」
だが、コーヒーを飲んでいる時に、二人の間に落ちる沈黙はどこか重苦しくて。
太一の中には…色んな感情が渦巻いて、胸の内側から圧迫されそうなくらいであった
けれど…泣き腫らした目をしている克哉を前にして何も言えなくなっていく。
(…もっと言いたい事、いっぱいあるけど…! こんな克哉さんを前にして…これ以上、
責めるような事は言えないよな…!)
そして多分、どれだけ悔やんでも…何をしても、起こしてしまった過去は変えられない。
克哉を責める言葉を幾ら吐いたって、すでに手放したものは決して…戻らないのだ。
もう…もう一人の克哉と、今の克哉が一人に戻る事はないのだから…。
だが…この時、太一は心の底から…目の前にいる克哉にばかり想いを告げて…ただ一度
だって…眼鏡の方に想いを伝えなかった事を後悔していた。
憎かった。胸の内側が焼き焦げてしまうのではないかと思えるくらいに。
だが…強い憎しみは同時に、相手に対してそれだけ強い関心を抱いていた証でもあるのだ。
他者に強烈な感情を抱いた場合…上手く行っている時は愛や好意と呼ばれるものとなり。
それが負の感情なら、憎しみや憎悪と呼ばれるものとなる。
愛憎というのは、実際は紙一重の表裏一体のものなのだ。
憎んでいたという事は…それだけ、愛されたかった。優しくして欲しかったと相手に
望んでいたという事でもあるのだ…。
(あぁ…そうか。俺は…あんたにも…わ、ら…って…)
やっと気づく、単純明快な答え。
あの時抱いていた反発心の根っこにあったものに…失って太一は初めて自覚出来た。
笑って欲しかった癖に口を突くのは…憎まれ口ばかりで。
最終的に無理矢理手に入れようと強姦しようとしたんじゃ…相手の事ばかり責められは
しない。自分だって…結局同罪だったのだ。
だから…太一は克哉は手に入れられたが…眼鏡の方を失う結果になった。
悔しかった。ただ…自分の弱さやみっともなさに…笑いたい気分だった。
強い衝動が湧き上がる。
自分の中に溢れてくる様々な感情が、出口を求めて暴れ回っているみたいだ。
悲しみ、愛情…憎悪、喪失感…それらの全てが、一斉に太一の内部で競りあがって…
大きな奔流となっていく。
それをどうにか…吐き出したくて、太一は…荷物の中にあったギターに手を伸ばしていった。
「…ち、くしょう…!」
そして、感情のままに…ギターを掻き鳴らしていく。
指を、激情に突き動かされるままに動かして…今、溢れてくる感情を全てぶつけるように
一つのメロディを生み出していく。
それは洗練されたものとは決して言えない。だが…太一の、切ない感情がそのまま…
一曲の詩となって…部屋中に満たされていく。
画家はキャンバスに!
作家は自らが生み出す文章に!
役者は己が演じる物語の中に!
そして歌手は、歌に想いを込めて…!
その心を誰かに伝達していく。
彼は今、この瞬間…すれ違い、届かなかった想いを悔いて心から嘆いた。
その嘆きが…心の内で一つの澄み切った結晶となり…詩という形を持って
象っていた。
克哉を愛していた。どちらの克哉も…やっとその事実に思い至り…手のひらから
零れ落ちた方を初めて、心から得がたく想った。
だが…もう、遠く離れてしまった方にこの想いを直接届けられる保証など
どこにもないのだ。
だから、彼の心は叫びの代わりに詩を生み出す。
初めて…心を揺さぶる音楽に触れた時の感動を思い出す。
その想いが彼を突き動かし、歌手の道を進むことを決意させた。
歌は、詩は…遠く離れた者り文字を読めぬ同士を繋ぐ為に生まれた心の伝達手段だ。
人の口から口へ、記憶から記憶を辿り…時に変節しながらも、伝えられる事によって
生み出した者の心を他者に運んでいく。
―失くしてみて、初めて判ったよ…! 俺は…あんたにも幸せそうに…、笑っていて…
欲し、かったんだ…!
彼は胸を引き絞られるような、やっと気づけた思いに…涙をうっすらと浮かべていき、
奏でられていく調べに即興の歌詞をつけていく。
それは…まだ、完成された曲とは言える代物ではなかった。
だが…傍で聞いていた克哉は、そのメロディと言葉を聴いて…すぐに理解していった。
(あぁ…これは、あいつと…太一の、詩だ…)
聞いていて素直にそう感じた。
失った者を心から想い…その幸せを願う、切ないまでの片思いの詩。
MGNに登用されたCMソングは、克哉への愛情が込められた一曲ならば…これは、
太一の嘆きだ、叫びだ。
そして…伝えられなかった想いが鮮烈なまでに込められている。
―俺は、あんたに笑って欲しかった…!
詩の終わり、その調べは…その心からの叫びで終焉を迎えていく。
室内が再び静寂に包まれていった。
それは…悲しいまでの、単純で…切ない答え。
お互いにあの時…一緒にいた時に、ただ一度でも…心からの笑顔を浮かべていれば
自分たちの関係は何か変わったのだろうか。
相手も同じ想いを、自分に抱いていた事を知らない太一は…静かに…静かに雫を頬に
伝らせて、演奏が終わった後…糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちていく。
「太一…」
室内に、静寂が落ちていく。
克哉もいつしか…気づかない内に涙を零していた。
すれ違い続けた自分たち。言葉が足りなさ過ぎた事を悔やみながら…も、
太一が、あいつの事を想って…曲を奏でてくれた事を嬉しくも想っていたから。
―ねえ、聴こえるかい…? <俺>
俺達、最後まですれ違い続けていたけれど…。
太一はお前もちゃんと、想ってくれていたんだよ…。
もうお前に二度とオレは一人には戻れないけれど…。
いつか、この詩が…お前の耳に届いてくれる日が来てくれると良い。
そう願いながら…窓をふと、克哉は見遣っていく。
窓の外にはどこまでも深い夜空と、月が浮かんでいる。
眼鏡の方も…すでに、同じ空の下で…どこかで生きているのだろうか。
離れてしまった己の半身。
今はどこにいるのかも、その気配さえもすでに感じられない。
だが…彼はきっと、生きていくだろう。
どれくらい先の未来になるか判らない。
だが…いつか、もう一度…会いたい。
その時、お互いに笑って逢えたら良い。
そして逢えなくても…音楽という形で、太一のこの想いを…もう一人の自分に
伝わってくれれば良いと…克哉は心から願った。
そうすれば…きっと、この悲しい事ばかりだった自分たちの物語も…
少しは救いが生まれるだろう。
克哉はそうして…瞼を閉じていく。
―月の光だけが、どこまでも優しく…彼らを包み込んでいた―
―眼鏡がクラブRで目覚めた頃とほぼ同じ頃。
三年ぶりに東京の土を踏んで、都内でも有名な高級ホテルに…太一と克哉は
宿泊していた。
少し外の空気を吸いに出てくる、と言って戻って来た直後から…克哉の様子は
おかしく、バスルームに消えてから…一時間程が経過しても、シャワーの音がまったく
消えようとしていなかった。
(何かおかしくないか…?)
一応、三年間…恋人同士としてと同時に、歌手とそのマネージャーとしても…自分達は
一緒に過ごしていた。
だから、克哉は基本的にシャワー党で、普段の入浴時間は長くても10~15分程度だし
湯船にゆっくりと浸かる事は滅多にない。
…そんな彼がこんなに長い時間、シャワー室から出てこない事に太一はかなりの違和感を
覚えていた。
最初は随分と迷った。幾ら恋人関係にあったとしても…相手がシャワールームに消えた後に
平気で入り込むような真似はそう簡単にやれるものではない。
だが…迷った末に、太一は…机の上で、新曲用の譜面と睨めっこするのを辞めて…扉の
奥に入る決意を固めていった。
「ねえっ! 克哉さん大丈夫っ? 何かずっとシャワーの音が…聞こえ続けているんだけど?」
心配になって…勢いよく浴室の中に入ると同時に、尋常じゃない光景にぶつかって…一瞬
ぎょっとなる。
克哉は…服を着たまま、シャワーの湯を呆然と浴びていた。
こちらから背を向けたまま…何か身体の芯のようなものを失って…指先から腕に掛けて
ダラリとしている。
崩れそうな身体を壁に凭れさせながら…何かを堪えるかのように、背中を震わせ続けていた。
「克哉、さん…?」
信じられないものを見たような思いで、太一が呟く。
だが…彼の声にも、今の克哉は一切反応しようとしなかった。
「克哉さん! ねえ…克哉さんってばっ! 一体どうしたんだよ! 久しぶりに…日本に戻って
来れたから、ナーバスにでもなっちゃったの? ねえってばっ!」
相手の肩を掴んでこちらを向かせて、必死の形相を浮かべて声を掛けていくと…やっと
克哉の視線がゆっくりとこちらに向けられていった。
「た、いち…?」
「…本当に、どうしたんだよ…! 日本に来るっていう少し前くらいから…克哉さん、随分と
暗い雰囲気漂わせていたけれど…? もしかして、明日には久しぶりに御堂さんとか
本多さんとかと顔合わせるのが心配? それとも…俺の実家の人間が、何か行動を
起こすんじゃないかって不安があるの? お願いだから…何かあるなら、キチンと俺に
話してよっ! 貴方がそんな顔しているのに…俺が、放っておける訳がないじゃんか…!」
自分がびしょびしょになるのも構わず、太一はシャワーの湯を止めると同時に…克哉の
身体を必死に抱きしめながら、そう訴えかけていく。
太一は緑のTシャツにブルージーンズ。克哉は白いYシャツに紺のスーツズボンという
格好であったが…それが大量の水気を帯びて、あっという間に濡れて肌にべったりと
張り付いていく。だが…太一はまったく構わなかった。
「…御免、ちょっと…東京に久しぶりに戻って来て…感傷的になった、だけ…だから。
もう大丈夫だから、心配しなくて…良いよ」
儚い笑顔を浮かべながら克哉がそう言うと…訝しげな顔を浮かべながら、ジッと太一が
こちらを見つめていって…「嘘だね」と小さく呟いて見せた。
「…感傷的になったくらいで、克哉さんがこんな真似すると思えないよ。…ねえ、お願い
だからキチンと俺に言ってくんない? …俺にとって克哉さんは大事な人なんだよ?
その人が…こんなに悲しそうに泣いている姿を見て、黙っているような真似は…俺には
絶対に出来ないし、したくないんだ…! だから…どんな事でも、良い…! 俺に言ってよ!」
―最近の克哉は、どこか不安そうにしている事が多かった。
アメリカに渡って、向こうで生活しながら音楽活動を始めて三年。
地道なライブ活動やコンサートを開催し続けて…ファンが増え始めて、向こうでもそれなりの
知名度を持つようになって…ここ一年ばかりは、音楽活動だけでも十分に生活出来るレベルに
まで彼らは成功していた。
最初の頃は、生きていく為に…そして夢を叶えたい一心で…迷っている暇はなかった。
苦楽を共にして、どんな時も克哉は自分の傍らにいて…支えてくれていた。
だから太一は、懸命に…話してくれ! と強く訴えかけていく。
克哉が苦しんでいる事だったら、分かち合いたい。そして少しでもその悲しみを癒したい。
今の彼には…その想いしかなかったから―
それだけ強く言って、やっと…克哉はこちらに胸の内を伝える決心を…したようだ。
そして語られた内容は…太一を驚愕させるのに足るものだった。
「…今日、たった今…もう一人の<俺>と決別をしたんだ…と言ったら、太一は…
信じて、くれる…?」
「な、に…それ…?」
予想してもいなかった言葉を口にされて、太一は瞠目していく。
だが克哉は自嘲的に笑いながら言葉を続けていった。
「…はは、やっぱり…荒唐無稽な話だって俺だって思うけどね。けれど…本当、なんだ。
三年前から、あいつの心の傷が癒えて…目覚める頃になったら…あいつに、身体を
与えてやって欲しいって…頼んであったんだ。それで…今夜、その人がオレの前に
現れて…オレの中から、もう一人の<俺>を切り離していったんだ…。
とっくに覚悟していた事だったんだけどね…いざ、その日が来たらこんなに動揺して…
オレ、本当にみっともないね…」
「な、んだよ…それ? 克哉さん…マジ、で言っているの…?」
太一は唇を震わせて、信じられないものを見るような眼差しでこちらを凝視していく。
それに力なく微笑みながら、小さく克哉が頷いていった。
誰に話したって正気を疑われそうな内容だった。
だが…これは紛れもない事実。それが…こんなにも克哉の心を深く穿ち、大きな虚ろを
生み出していた。
「うん…大真面目に言っている。けど…同時に、正気を疑われそうな内容である事は…
自分でも自覚がある。だから…言いたくなかったんだ…」
力なく微笑みながら、克哉は…濡れた眼差しでこちらを見据えていく。
潤ったその瞳はとても澄んでいて嘘を言っている気配など一カケラも存在しない。
太一の全身が戦慄いていく。
そして…肩を痛いぐらいに掴まれながら、叫ばれた!
「なん、だよ…! 一体それ…何なんだよ! 訳が判らないよっ! それって…克哉さんの
中に…あの、眼鏡掛けて偉そうにしている方の人格が…もう存在しないって事なのかよ!」
「そうだよ…。けど、どうしたの…太一? 太一は…あいつの方を嫌っていたんじゃないの…?
何で、あいつの方がいなくなったって聞いて…お前が、そんなに…!」
「冷静でなんかいられる訳がないじゃんか! 克哉さんの半分が…無くなってしまったような
ものなんでしょ! そんな話を聞いて…どう、して…!」
そして太一は悲痛そうな表情を浮かべていく。
克哉にとってはますます判らない。
太一は、もう一人の自分の事を嫌っていると…彼自身も思い込んでいた。
だから…三年前に決別する事を決めて…今日、それを実行に移したというのに…彼の
この反応はまるで…。
「な、んで…? 太一はもう一人の<俺>を嫌っていたんじゃないの…? だからオレは…
あいつ、を…オレの中から切り離して…お互いに関係ない距離で生きた方が良いと…
そう考えて、訣別することにしたのに…」
「だからっ! 何で…なんだよ! 確かに…向こうの克哉さんに対して俺が抱いている
感情は複雑だけど…あいつが手が届かない処に行ってしまう事なんて…俺は望んで
いなかったのにっ!」
確かに、自分の中に存在する…眼鏡に関しての感情は複雑で。
克哉は単純に「大好き」で「愛している存在」だ。
けれど…もう一人の克哉には無理矢理犯されたり、冷たい態度や言動しかぶつけられた
記憶はない。だから…今でも思い出すと、ムカムカするし…心中穏やかにはなれない。
だが、そんな状態でも…自分は眼鏡を、嫌いでは…なかったのだ…。
「…なん、で…もっと…それを…早く…言って…くれなかった…んだよっ!」
泣きながら克哉が訴えていく。
だが…太一も負けていなかった。
お互いに苦しそうな顔を浮かべながら…この三年間、敢えて避けていた…もう一人の
克哉に関しての想いをぶつけあっていく。
ケンカは今までも数多くしてきた。
だが…どこかで自分たちの間には遠慮があったのかも知れない。
それをこの瞬間、ぶち壊して…初めて二人は眼鏡に関する事で衝突していった。
「…後、一日…いや、数時間早く言ってくれたら…! オレはあいつを…手放さなかったのに!
どうして…!」
「それはこっちの台詞だよ! 克哉さん…いつもこの件を無意識に避けていたじゃんか!
そのせいで俺はずっとくすぶり続けていたよ…! 俺が克哉さんと初めて結ばれた翌日から
あいつの影は信じられないくらいに感じられなくなって…本当にいたのか疑いたくなった事は
何度もあった。
それで俺も…あいつの事はどうなったのか…ずっと気になり続けていたけれど…克哉さんが
あまり触れて欲しくなさそうだったから…言わなかっただけだよ!」
お互いに今にも泣きそうな…いや、実際にすでに泣いていたのかも知れなかった。
必死に相手に縋り付いて、今にも崩れそうな身体を支えあっていく。
太一は、震え続けていた。克哉も…その場に膝を突いてしまいそうだった。
だが…どうにか持ちこたえて…至近距離で互いの顔を見つめ合っていった。
「…何で、俺に一言でも…相談してくれなかったんだよ…」
「…ご、めん…だけど…」
「…もう、アイツは…克哉さんの中に…本当にいない、の・・・?」
「う、ん…もういない。今頃は…きっと、どこかで目覚めている筈だよ…。あの人の店が
どこにあるかは判らないし…オレから切り離された<俺>が…どこで生活して、どうやって
生きていくのかは…もう、あいつから連絡をくれない限りは…知る術はないから…」
さっき、覚悟を決めて…Mr.Rに…この三年間で貯めておいたもう一人の自分が
暫く食いつないでいける額が入った通帳も一緒に手渡した。
あれと免許証さえあれば…もう一人の自分はきっと生きていける。
そう確信して…笑顔で、送り出してやるつもりだったのに…あいつがいた場所が
あまりにぽっかりと空きすぎていて。
その空虚な感覚に耐え切れなかったので…克哉は、泣いていたのだ。
「馬鹿…! 本当に克哉さんって馬鹿だよ…! 何でそんな重大なことを俺に
一言も相談せずに勝手に決めたんだよ! 俺は…あいつを憎いと思った事あるよっ!
見ているだけで腹が立っていたし…けど、心底…嫌いじゃ…なかったのに!」
「…だって、太一の態度見ていたら…とてもそうには、思えなかった、よ…。
てっきり…嫌っているとしか…」
「そうだね…俺も最初は嫌いだと思っていたよ。あいつ…克哉さんと本当に同一人物
なのかなって疑いたくなるくらいに性格性悪だし…可愛くなさすぎだし。
けれど…あれから、貴方の中に…あいつの影が見えなくなってから…ずっと考えて
いたんだ。あいつを見てて…あれだけ腹が立っていたのは…あいつが、俺を嫌っている
ような冷たい態度しか取らなかったからじゃない、かって…」
「…それ、は…どういう、意味…?」
「…ようするに、克哉さんの一部に…俺は、嫌われているのが悲しかったし辛かった。
だから…俺も、あいつに対しては険しい態度しか取れなくなっていた。
けど内心じゃ…俺、あいつの方にも笑っていて欲しかったんだよ。大好きな人の一部に…
あんなに酷い態度を取られているのが…俺は悲しかった。けれど…どうしようもない事だって
思い込んでいたから、あんな態度を…当時の俺は取るしか…なかったんだよ…」
そう、眼鏡は…紛れもなく克哉の一部だ。
一見するとまったく別人に見える。
こちらに対しての態度は酷いものだったし…最後までそれは変わらなかった。
けれど好きな人のもう一つの心に…嫌われてしまっていたら、それは身を引き裂かれる
くらいに苦しくなるだろう。
当時の太一は…それにずっと苦しんでいた。
好きだと思って冷たい態度を取られるよりも…いっそ嫌いと思い込んでいる方が
耐えられたし…誤魔化している方が気持ちも楽だったのだ。
三年ぶりに東京の土を踏んで、都内でも有名な高級ホテルに…太一と克哉は
宿泊していた。
少し外の空気を吸いに出てくる、と言って戻って来た直後から…克哉の様子は
おかしく、バスルームに消えてから…一時間程が経過しても、シャワーの音がまったく
消えようとしていなかった。
(何かおかしくないか…?)
一応、三年間…恋人同士としてと同時に、歌手とそのマネージャーとしても…自分達は
一緒に過ごしていた。
だから、克哉は基本的にシャワー党で、普段の入浴時間は長くても10~15分程度だし
湯船にゆっくりと浸かる事は滅多にない。
…そんな彼がこんなに長い時間、シャワー室から出てこない事に太一はかなりの違和感を
覚えていた。
最初は随分と迷った。幾ら恋人関係にあったとしても…相手がシャワールームに消えた後に
平気で入り込むような真似はそう簡単にやれるものではない。
だが…迷った末に、太一は…机の上で、新曲用の譜面と睨めっこするのを辞めて…扉の
奥に入る決意を固めていった。
「ねえっ! 克哉さん大丈夫っ? 何かずっとシャワーの音が…聞こえ続けているんだけど?」
心配になって…勢いよく浴室の中に入ると同時に、尋常じゃない光景にぶつかって…一瞬
ぎょっとなる。
克哉は…服を着たまま、シャワーの湯を呆然と浴びていた。
こちらから背を向けたまま…何か身体の芯のようなものを失って…指先から腕に掛けて
ダラリとしている。
崩れそうな身体を壁に凭れさせながら…何かを堪えるかのように、背中を震わせ続けていた。
「克哉、さん…?」
信じられないものを見たような思いで、太一が呟く。
だが…彼の声にも、今の克哉は一切反応しようとしなかった。
「克哉さん! ねえ…克哉さんってばっ! 一体どうしたんだよ! 久しぶりに…日本に戻って
来れたから、ナーバスにでもなっちゃったの? ねえってばっ!」
相手の肩を掴んでこちらを向かせて、必死の形相を浮かべて声を掛けていくと…やっと
克哉の視線がゆっくりとこちらに向けられていった。
「た、いち…?」
「…本当に、どうしたんだよ…! 日本に来るっていう少し前くらいから…克哉さん、随分と
暗い雰囲気漂わせていたけれど…? もしかして、明日には久しぶりに御堂さんとか
本多さんとかと顔合わせるのが心配? それとも…俺の実家の人間が、何か行動を
起こすんじゃないかって不安があるの? お願いだから…何かあるなら、キチンと俺に
話してよっ! 貴方がそんな顔しているのに…俺が、放っておける訳がないじゃんか…!」
自分がびしょびしょになるのも構わず、太一はシャワーの湯を止めると同時に…克哉の
身体を必死に抱きしめながら、そう訴えかけていく。
太一は緑のTシャツにブルージーンズ。克哉は白いYシャツに紺のスーツズボンという
格好であったが…それが大量の水気を帯びて、あっという間に濡れて肌にべったりと
張り付いていく。だが…太一はまったく構わなかった。
「…御免、ちょっと…東京に久しぶりに戻って来て…感傷的になった、だけ…だから。
もう大丈夫だから、心配しなくて…良いよ」
儚い笑顔を浮かべながら克哉がそう言うと…訝しげな顔を浮かべながら、ジッと太一が
こちらを見つめていって…「嘘だね」と小さく呟いて見せた。
「…感傷的になったくらいで、克哉さんがこんな真似すると思えないよ。…ねえ、お願い
だからキチンと俺に言ってくんない? …俺にとって克哉さんは大事な人なんだよ?
その人が…こんなに悲しそうに泣いている姿を見て、黙っているような真似は…俺には
絶対に出来ないし、したくないんだ…! だから…どんな事でも、良い…! 俺に言ってよ!」
―最近の克哉は、どこか不安そうにしている事が多かった。
アメリカに渡って、向こうで生活しながら音楽活動を始めて三年。
地道なライブ活動やコンサートを開催し続けて…ファンが増え始めて、向こうでもそれなりの
知名度を持つようになって…ここ一年ばかりは、音楽活動だけでも十分に生活出来るレベルに
まで彼らは成功していた。
最初の頃は、生きていく為に…そして夢を叶えたい一心で…迷っている暇はなかった。
苦楽を共にして、どんな時も克哉は自分の傍らにいて…支えてくれていた。
だから太一は、懸命に…話してくれ! と強く訴えかけていく。
克哉が苦しんでいる事だったら、分かち合いたい。そして少しでもその悲しみを癒したい。
今の彼には…その想いしかなかったから―
それだけ強く言って、やっと…克哉はこちらに胸の内を伝える決心を…したようだ。
そして語られた内容は…太一を驚愕させるのに足るものだった。
「…今日、たった今…もう一人の<俺>と決別をしたんだ…と言ったら、太一は…
信じて、くれる…?」
「な、に…それ…?」
予想してもいなかった言葉を口にされて、太一は瞠目していく。
だが克哉は自嘲的に笑いながら言葉を続けていった。
「…はは、やっぱり…荒唐無稽な話だって俺だって思うけどね。けれど…本当、なんだ。
三年前から、あいつの心の傷が癒えて…目覚める頃になったら…あいつに、身体を
与えてやって欲しいって…頼んであったんだ。それで…今夜、その人がオレの前に
現れて…オレの中から、もう一人の<俺>を切り離していったんだ…。
とっくに覚悟していた事だったんだけどね…いざ、その日が来たらこんなに動揺して…
オレ、本当にみっともないね…」
「な、んだよ…それ? 克哉さん…マジ、で言っているの…?」
太一は唇を震わせて、信じられないものを見るような眼差しでこちらを凝視していく。
それに力なく微笑みながら、小さく克哉が頷いていった。
誰に話したって正気を疑われそうな内容だった。
だが…これは紛れもない事実。それが…こんなにも克哉の心を深く穿ち、大きな虚ろを
生み出していた。
「うん…大真面目に言っている。けど…同時に、正気を疑われそうな内容である事は…
自分でも自覚がある。だから…言いたくなかったんだ…」
力なく微笑みながら、克哉は…濡れた眼差しでこちらを見据えていく。
潤ったその瞳はとても澄んでいて嘘を言っている気配など一カケラも存在しない。
太一の全身が戦慄いていく。
そして…肩を痛いぐらいに掴まれながら、叫ばれた!
「なん、だよ…! 一体それ…何なんだよ! 訳が判らないよっ! それって…克哉さんの
中に…あの、眼鏡掛けて偉そうにしている方の人格が…もう存在しないって事なのかよ!」
「そうだよ…。けど、どうしたの…太一? 太一は…あいつの方を嫌っていたんじゃないの…?
何で、あいつの方がいなくなったって聞いて…お前が、そんなに…!」
「冷静でなんかいられる訳がないじゃんか! 克哉さんの半分が…無くなってしまったような
ものなんでしょ! そんな話を聞いて…どう、して…!」
そして太一は悲痛そうな表情を浮かべていく。
克哉にとってはますます判らない。
太一は、もう一人の自分の事を嫌っていると…彼自身も思い込んでいた。
だから…三年前に決別する事を決めて…今日、それを実行に移したというのに…彼の
この反応はまるで…。
「な、んで…? 太一はもう一人の<俺>を嫌っていたんじゃないの…? だからオレは…
あいつ、を…オレの中から切り離して…お互いに関係ない距離で生きた方が良いと…
そう考えて、訣別することにしたのに…」
「だからっ! 何で…なんだよ! 確かに…向こうの克哉さんに対して俺が抱いている
感情は複雑だけど…あいつが手が届かない処に行ってしまう事なんて…俺は望んで
いなかったのにっ!」
確かに、自分の中に存在する…眼鏡に関しての感情は複雑で。
克哉は単純に「大好き」で「愛している存在」だ。
けれど…もう一人の克哉には無理矢理犯されたり、冷たい態度や言動しかぶつけられた
記憶はない。だから…今でも思い出すと、ムカムカするし…心中穏やかにはなれない。
だが、そんな状態でも…自分は眼鏡を、嫌いでは…なかったのだ…。
「…なん、で…もっと…それを…早く…言って…くれなかった…んだよっ!」
泣きながら克哉が訴えていく。
だが…太一も負けていなかった。
お互いに苦しそうな顔を浮かべながら…この三年間、敢えて避けていた…もう一人の
克哉に関しての想いをぶつけあっていく。
ケンカは今までも数多くしてきた。
だが…どこかで自分たちの間には遠慮があったのかも知れない。
それをこの瞬間、ぶち壊して…初めて二人は眼鏡に関する事で衝突していった。
「…後、一日…いや、数時間早く言ってくれたら…! オレはあいつを…手放さなかったのに!
どうして…!」
「それはこっちの台詞だよ! 克哉さん…いつもこの件を無意識に避けていたじゃんか!
そのせいで俺はずっとくすぶり続けていたよ…! 俺が克哉さんと初めて結ばれた翌日から
あいつの影は信じられないくらいに感じられなくなって…本当にいたのか疑いたくなった事は
何度もあった。
それで俺も…あいつの事はどうなったのか…ずっと気になり続けていたけれど…克哉さんが
あまり触れて欲しくなさそうだったから…言わなかっただけだよ!」
お互いに今にも泣きそうな…いや、実際にすでに泣いていたのかも知れなかった。
必死に相手に縋り付いて、今にも崩れそうな身体を支えあっていく。
太一は、震え続けていた。克哉も…その場に膝を突いてしまいそうだった。
だが…どうにか持ちこたえて…至近距離で互いの顔を見つめ合っていった。
「…何で、俺に一言でも…相談してくれなかったんだよ…」
「…ご、めん…だけど…」
「…もう、アイツは…克哉さんの中に…本当にいない、の・・・?」
「う、ん…もういない。今頃は…きっと、どこかで目覚めている筈だよ…。あの人の店が
どこにあるかは判らないし…オレから切り離された<俺>が…どこで生活して、どうやって
生きていくのかは…もう、あいつから連絡をくれない限りは…知る術はないから…」
さっき、覚悟を決めて…Mr.Rに…この三年間で貯めておいたもう一人の自分が
暫く食いつないでいける額が入った通帳も一緒に手渡した。
あれと免許証さえあれば…もう一人の自分はきっと生きていける。
そう確信して…笑顔で、送り出してやるつもりだったのに…あいつがいた場所が
あまりにぽっかりと空きすぎていて。
その空虚な感覚に耐え切れなかったので…克哉は、泣いていたのだ。
「馬鹿…! 本当に克哉さんって馬鹿だよ…! 何でそんな重大なことを俺に
一言も相談せずに勝手に決めたんだよ! 俺は…あいつを憎いと思った事あるよっ!
見ているだけで腹が立っていたし…けど、心底…嫌いじゃ…なかったのに!」
「…だって、太一の態度見ていたら…とてもそうには、思えなかった、よ…。
てっきり…嫌っているとしか…」
「そうだね…俺も最初は嫌いだと思っていたよ。あいつ…克哉さんと本当に同一人物
なのかなって疑いたくなるくらいに性格性悪だし…可愛くなさすぎだし。
けれど…あれから、貴方の中に…あいつの影が見えなくなってから…ずっと考えて
いたんだ。あいつを見てて…あれだけ腹が立っていたのは…あいつが、俺を嫌っている
ような冷たい態度しか取らなかったからじゃない、かって…」
「…それ、は…どういう、意味…?」
「…ようするに、克哉さんの一部に…俺は、嫌われているのが悲しかったし辛かった。
だから…俺も、あいつに対しては険しい態度しか取れなくなっていた。
けど内心じゃ…俺、あいつの方にも笑っていて欲しかったんだよ。大好きな人の一部に…
あんなに酷い態度を取られているのが…俺は悲しかった。けれど…どうしようもない事だって
思い込んでいたから、あんな態度を…当時の俺は取るしか…なかったんだよ…」
そう、眼鏡は…紛れもなく克哉の一部だ。
一見するとまったく別人に見える。
こちらに対しての態度は酷いものだったし…最後までそれは変わらなかった。
けれど好きな人のもう一つの心に…嫌われてしまっていたら、それは身を引き裂かれる
くらいに苦しくなるだろう。
当時の太一は…それにずっと苦しんでいた。
好きだと思って冷たい態度を取られるよりも…いっそ嫌いと思い込んでいる方が
耐えられたし…誤魔化している方が気持ちも楽だったのだ。
「嘘、だろ…」
呆然としながら、克哉はバスルームの床に崩れ落ちていく。
どうして…今まで、自分はこの話題を避けていたんだろうと思った。
…眼鏡側の感情は、すでに知っている。
彼が奈落に落ちる寸前にどれだけ深く…自分と、太一を強く想ってくれていたのか…
強烈に流れ込んで来たから。
だが、三年前に…自分が彼が幸せになれるように下した決断が間違いだったとしたら
空回りも良い処、だった。
「克哉、さん…」
太一も…いつしか、涙を浮かべていた。
…それから、言葉もなく…彼の腕の中に抱き込まれていた。
彼は何も言わない。ただ…重い沈黙だけが落ちていく。
「馬鹿、みたいだ…オレたち、「三人」とも…本当に、馬鹿過ぎるよ…。
結局、蓋を開けてみれば…全員…好きあっていたんじゃないか。それなのに、
傷つけあって、ボロボロになって…すれ違い続けて。離れて、手遅れになってから…
その事にやっと気づくなんて…」
「…そうだね。けどさ…克哉さん。俺…失くしたからこそ、やっと気づけた事って
沢山…あるよ。少なくとも、俺にとっては…」
ぎゅっと…濡れて冷えた克哉の身体を、太一が抱きすくめていく。
お互いにびしょびしょで…衣類が肌に張り付いて寒かったけれど…身体が重なりあって
いる部位だけは…少し、暖かかった。
「…このままじゃ冷え切ってしまうから…そろそろ、出ない? …俺も克哉さんも、
これから日本で暫く本格的に活動するんだし。身体が資本っしょ? とりあえず…
上がって着替えようよ…それから、続きの話…しようよ…」
「…そうだね」
優しく背中を撫ぜられながら…克哉は太一の言葉に頷いていった。
それから…二人は濡れた衣類を脱ぎ去って、バスローブを身に纏ってベッドの方へと
戻っていく。
太一はまだ呆然としている克哉を気遣って…インスタントだが、暖かいコーヒーを用意して…
そっと相手に手渡していった。
「はい…克哉さん。あったまるから…飲んでよ…」
「う、ん…有難う…」
だが、コーヒーを飲んでいる時に、二人の間に落ちる沈黙はどこか重苦しくて。
太一の中には…色んな感情が渦巻いて、胸の内側から圧迫されそうなくらいであった
けれど…泣き腫らした目をしている克哉を前にして何も言えなくなっていく。
(…もっと言いたい事、いっぱいあるけど…! こんな克哉さんを前にして…これ以上、
責めるような事は言えないよな…!)
そして多分、どれだけ悔やんでも…何をしても、起こしてしまった過去は変えられない。
克哉を責める言葉を幾ら吐いたって、すでに手放したものは決して…戻らないのだ。
もう…もう一人の克哉と、今の克哉が一人に戻る事はないのだから…。
だが…この時、太一は心の底から…目の前にいる克哉にばかり想いを告げて…ただ一度
だって…眼鏡の方に想いを伝えなかった事を後悔していた。
憎かった。胸の内側が焼き焦げてしまうのではないかと思えるくらいに。
だが…強い憎しみは同時に、相手に対してそれだけ強い関心を抱いていた証でもあるのだ。
他者に強烈な感情を抱いた場合…上手く行っている時は愛や好意と呼ばれるものとなり。
それが負の感情なら、憎しみや憎悪と呼ばれるものとなる。
愛憎というのは、実際は紙一重の表裏一体のものなのだ。
憎んでいたという事は…それだけ、愛されたかった。優しくして欲しかったと相手に
望んでいたという事でもあるのだ…。
(あぁ…そうか。俺は…あんたにも…わ、ら…って…)
やっと気づく、単純明快な答え。
あの時抱いていた反発心の根っこにあったものに…失って太一は初めて自覚出来た。
笑って欲しかった癖に口を突くのは…憎まれ口ばかりで。
最終的に無理矢理手に入れようと強姦しようとしたんじゃ…相手の事ばかり責められは
しない。自分だって…結局同罪だったのだ。
だから…太一は克哉は手に入れられたが…眼鏡の方を失う結果になった。
悔しかった。ただ…自分の弱さやみっともなさに…笑いたい気分だった。
強い衝動が湧き上がる。
自分の中に溢れてくる様々な感情が、出口を求めて暴れ回っているみたいだ。
悲しみ、愛情…憎悪、喪失感…それらの全てが、一斉に太一の内部で競りあがって…
大きな奔流となっていく。
それをどうにか…吐き出したくて、太一は…荷物の中にあったギターに手を伸ばしていった。
「…ち、くしょう…!」
そして、感情のままに…ギターを掻き鳴らしていく。
指を、激情に突き動かされるままに動かして…今、溢れてくる感情を全てぶつけるように
一つのメロディを生み出していく。
それは洗練されたものとは決して言えない。だが…太一の、切ない感情がそのまま…
一曲の詩となって…部屋中に満たされていく。
画家はキャンバスに!
作家は自らが生み出す文章に!
役者は己が演じる物語の中に!
そして歌手は、歌に想いを込めて…!
その心を誰かに伝達していく。
彼は今、この瞬間…すれ違い、届かなかった想いを悔いて心から嘆いた。
その嘆きが…心の内で一つの澄み切った結晶となり…詩という形を持って
象っていた。
克哉を愛していた。どちらの克哉も…やっとその事実に思い至り…手のひらから
零れ落ちた方を初めて、心から得がたく想った。
だが…もう、遠く離れてしまった方にこの想いを直接届けられる保証など
どこにもないのだ。
だから、彼の心は叫びの代わりに詩を生み出す。
初めて…心を揺さぶる音楽に触れた時の感動を思い出す。
その想いが彼を突き動かし、歌手の道を進むことを決意させた。
歌は、詩は…遠く離れた者り文字を読めぬ同士を繋ぐ為に生まれた心の伝達手段だ。
人の口から口へ、記憶から記憶を辿り…時に変節しながらも、伝えられる事によって
生み出した者の心を他者に運んでいく。
―失くしてみて、初めて判ったよ…! 俺は…あんたにも幸せそうに…、笑っていて…
欲し、かったんだ…!
彼は胸を引き絞られるような、やっと気づけた思いに…涙をうっすらと浮かべていき、
奏でられていく調べに即興の歌詞をつけていく。
それは…まだ、完成された曲とは言える代物ではなかった。
だが…傍で聞いていた克哉は、そのメロディと言葉を聴いて…すぐに理解していった。
(あぁ…これは、あいつと…太一の、詩だ…)
聞いていて素直にそう感じた。
失った者を心から想い…その幸せを願う、切ないまでの片思いの詩。
MGNに登用されたCMソングは、克哉への愛情が込められた一曲ならば…これは、
太一の嘆きだ、叫びだ。
そして…伝えられなかった想いが鮮烈なまでに込められている。
―俺は、あんたに笑って欲しかった…!
詩の終わり、その調べは…その心からの叫びで終焉を迎えていく。
室内が再び静寂に包まれていった。
それは…悲しいまでの、単純で…切ない答え。
お互いにあの時…一緒にいた時に、ただ一度でも…心からの笑顔を浮かべていれば
自分たちの関係は何か変わったのだろうか。
相手も同じ想いを、自分に抱いていた事を知らない太一は…静かに…静かに雫を頬に
伝らせて、演奏が終わった後…糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちていく。
「太一…」
室内に、静寂が落ちていく。
克哉もいつしか…気づかない内に涙を零していた。
すれ違い続けた自分たち。言葉が足りなさ過ぎた事を悔やみながら…も、
太一が、あいつの事を想って…曲を奏でてくれた事を嬉しくも想っていたから。
―ねえ、聴こえるかい…? <俺>
俺達、最後まですれ違い続けていたけれど…。
太一はお前もちゃんと、想ってくれていたんだよ…。
もうお前に二度とオレは一人には戻れないけれど…。
いつか、この詩が…お前の耳に届いてくれる日が来てくれると良い。
そう願いながら…窓をふと、克哉は見遣っていく。
窓の外にはどこまでも深い夜空と、月が浮かんでいる。
眼鏡の方も…すでに、同じ空の下で…どこかで生きているのだろうか。
離れてしまった己の半身。
今はどこにいるのかも、その気配さえもすでに感じられない。
だが…彼はきっと、生きていくだろう。
どれくらい先の未来になるか判らない。
だが…いつか、もう一度…会いたい。
その時、お互いに笑って逢えたら良い。
そして逢えなくても…音楽という形で、太一のこの想いを…もう一人の自分に
伝わってくれれば良いと…克哉は心から願った。
そうすれば…きっと、この悲しい事ばかりだった自分たちの物語も…
少しは救いが生まれるだろう。
克哉はそうして…瞼を閉じていく。
―月の光だけが、どこまでも優しく…彼らを包み込んでいた―
『第四十七話 陰日向に咲く花のように』 「Mr.R」
―あれから、三年が経過しました。
いやいや…感服致しました。
人の心は移ろいやすいというのが…私が長らく人を観察していて、達した結論
なのですが…実にあのお二人方は心からあの人を求めていたらしい。
だからその心に免じて…私は、傍観者の立場ではなく…魔法や奇跡と呼ばれる
類の事を一つだけ起こして差し上げる事にしました。
私にとっても…そのままもう一人のご自分の影にあの人が隠れて、自分を押し殺して
生きていくのなど…退屈ですからね。
だから、一度だけ…貴方達が紡いだ悲劇の物語。その観客席から…手を差し伸べて
あげましょう。
幸福とは儚いもの…全力でその手に掴み取らなければ、スルリと零れ落ちてしまう
泡のような代物。
その僥倖を…一生のものにするか、またもや悲劇を招いて破壊してしまうかは…
貴方達の心がけ次第なのですから―
*
目を開けると、視界には鮮やかなまでの赤ばかりが飛び込んできた。
独特のエキゾチックな香りと雰囲気。
怪しいBGMが流れる室内…其処に設置されている豪奢な真紅のソファの上に
眼鏡は横たわっていた。
(ここは…一体、どこだ…?)
しかも…しっかりと、肉体を伴っている感覚があった。
どうしてだろうか…? 自分はすでに、その所有権をもう一人の自分に譲渡して
深い眠りに就いた筈だ。
だが…しっかりと身体が動いているのに、もう一人の<オレ>の気配らしきものは
感じられなかった。
(アイツは…どこに、いったんだ…?)
真っ先に心配したのは、それだった。
何故自分はこんな処にいるのだろうか?
それを疑問に思った次の瞬間…誰かに、抱きつかれていた。
「克哉さんっ!」
最初は、誰なのだろうか…と一瞬、感じた。
自分にしがみ付いてくる人物の身体はしなやかで…記憶に残っている誰の
身体情報と一致しない。
だが…こちらの顔を覗き込んでくるその表情に…面影は確かに残っていた。
自分の覚えている容姿よりもずっと成長していて…四肢も随分と延びている。
幼さが完全になりを潜めて…随分と大人びた顔つきになっていた。
「…まさか、秋紀…か?」
「…うん、そうだよ…。僕だよ…克哉、さん…」
秋紀は隠す事なく、ポロポロと大粒の涙を浮かべながら…上半身だけ
赤いソファの上で起こしている克哉の上に覆い被さって抱きついていた。
その温もりは…長らく眠りについていた克哉には温かく、心地よく感じられて
状況の判断が出来ないまでも…暫し、その感覚に身を委ねていく。
『…お久しぶりですね。目覚めの気分は如何でしょうか…?』
久しぶりに聞く、歌うような艶めいた口調。
そちらに視線を向けると…其処にはやはり、Mr.Rが立っていた。
三年という月日で随分と成長していた秋紀と対照的に…この男の方は記憶に
残っている姿と何一つ変わった処がない。
まるで年月などの影響など何も関係ないとでも言わんばかりだ。
「…悪くは無い。だが…一体、ここはどこだ?」
『…何度か貴方様は立ち寄っていらっしゃるでしょう。ここは…私が運営している
クラブRですよ。幾らなんでも貴方様を…そこら辺の道端で目覚めさせる訳には
参りませんから…一応、寝床ぐらいは用意しておきましたけどね…』
「…それは判った。だが…どうして、ここに秋紀がいるんだ…?」
『今夜に限り…私がお招き致しました。貴方を呼び起こすには…傍に、今も
強く想っている存在がいた方が…形と成りやすいですからね…』
そして、男は…ニコリ…と胡散臭く、綺麗に笑んでみせる。
『秋紀様は…三年という年月が過ぎたにも関わらず、貴方への想いを一点も
曇らせずに貫き続けました。…移ろいやすく、壊れやすいのが人の心の常ならぬ
事なのに…それでも、もう一人の貴方と…この秋紀様は貴方を強く想い続けて…
その意思を貫かれました。
ですから…その心に免じて、貴方様に…こうして、身体を差し上げた訳です。
その身体は…もう一人の貴方と、秋紀様の…ある程度の年月の寿命を
代価として…作り上げられています。…本当に、貴方は愛されているんですね…。
流石、と言った処でしょうか…」
「寿命、だと…? あいつも…秋紀も、俺の為に…命を投げ打ったと言うのか…?」
「うん…だって、僕にとっては…幾ら長生きしても…克哉さんに再会出来ないまま
よりも…少しぐらい寿命が無くなってしまっても…貴方と会える方がずっと…
良かったから…。だから…その、克哉さん…気にしないで?」
『はい…本来なら、もう一人の貴方から…半分程、寿命を頂いて…それを代価に
肉体を紡ぎ上げる予定でしたけどね。同じ想いの秋紀様がこうしていらっしゃった…
訳ですから、大体…お二人とも本来生きれる時間の三分の一程度の犠牲で
済んでいらっしゃいます。
人の本来の寿命が最大で百年から120年と換算すれば…三分の一程度なら
削れてしまっても、十分な時間生きれるでしょう。
後は喫煙とか…飲酒とか、身体に悪い習慣を止められさえすれば…天寿は
全う出来ますよ』
「無理だな。タバコも酒も止めるつもりはない。…俺にとってあれは、人生の
貴重な楽しみだからな…」
眼鏡が即答すると同時に…秋紀は思いっきり彼に食って掛かった。
「…もう! 克哉さん。そういうの止めてとは言わないけど…程々にはして
おいてよねっ! せっかく…こうして、克哉さん…いられるようになった訳だし…」
「あぁ…身を持ち崩すほど、酒やタバコに依存するつもりはない。あくまであれは
楽しみの一環だ。だから…拗ねるな…」
そうして、しがみ付いてくる秋紀の背中をそっと撫ぜて…あやしていってやる。
まるで甘えん坊の猫の背を撫ぜてやっているような光景だった。
謎めいた男は…そんな二人の様子を微笑ましげに眺めていたが、ふいに
間合いを詰めて眼鏡の近くへと…歩み寄っていく。
そして、囁きを落としていった。
『斯して…貴方はこうして解き放たれました。これからの人生は…
もう一人の貴方や、五十嵐様の事に囚われずに…ご自分の心のままに
生きても何の問題もありません。こうして…佐伯様から、その心はすでに…
三年前から頂いておりましたけれどね。
…これさえあれば、貴方は問題なく市民権や色々な手続きに必要な身分は
証明出来ると思います。さあ…どうぞ…」
そうしてMrが手渡したのは…<オレ>の写真がついた免許証と
銀行のカードだった。
電車をメインに生きていた奴だったので…車は殆ど乗らずに実質ペーパー
ドライバーだったのだが…身分を証明する上ではこの国ではもっとも重要な
ものだった。
「…これ、は…?」
「佐伯様が…貴方の為に残された身分証明書と、幾許かのお金ですよ。
免許証の方は…私が更新しておきましたから、今でも問題なく使えます。
それさえあれば…貴方様なら、ご自分の力で後は生きていかれるでしょう…?
もう一人の貴方の心が篭った品を…確かに、お渡し致しましたよ…」
そうして…眼鏡は、呆然となりながら…それを見遣っていく。
こうして蘇った自分宛に残された免許証と…銀行のカードは…克哉の気持ちが
確かに強く宿っていた。
それを手のひらに収めながら…つい生じてしまった素朴な疑問を投げかけていく。
「…これは確かに在り難く受け取らせて貰うが…どうやって、免許の更新を
お前がやったのか…非常に気に掛かるんだが…」
「さあ? どうでしょうね…。それは企業秘密とさせて頂きましょう」
ニッコリと楽しげに微笑みながらMr.Rは言い切った。
トコトンまで謎が多すぎる男であった。
『…それよりも、佐伯様。お伝えしておきたい事がありますから…お耳を貸して
頂けますか? あぁ…須原様は少々、離れていて貰えますか? えぇ…そんな顔を
なさらなくても、すぐに済みますよ。これだけお伝えしたら…二人きりにして差し上げます…』
そういって、不満そうな顔を浮かべている秋紀を尻目に…男は眼鏡の傍らに立ち…
そっと甘く歌を口ずさむかのような口調で囁きを落としていく。
『―佐伯様。今の貴方は…人の想いを持って生きている実に不安定な状態です。
貴方様が須原様を裏切って…他の方を選ばれるなら、須原様が差し出した代価は
速やかに持ち主の下に戻り…その分、貴方が生きれる時間は減るでしょう。
それを拒みたいのなら…須原様自身をこれで…殺めなさい。
その代わり発覚すれば…貴方の人生は殺人者として終わりますけどね。
…貴方を現実に具現化させるくらいの強い想いも…貴方が受け入れようとなさらな
ければ…ただの重荷にしかならないでしょう?
ですから…これは、須原様からも離れて…自由になりたい場合の最後の選択肢と
なりますけどね…』
そして男は一本の銀色に輝く小さな折り畳みナイフをそっと…眼鏡のスーツの
内ポケットへと収めていく。
ヒヤリとした冷たい感触に…ゾっと背筋が凍る思いがした。
それは…ようやく訪れたハッピーエンドに、大きな黒い影を落としかねない…悲劇に
導く悪魔の囁きのような…恐ろしい言葉だった。
だが…それを口にした直後の男は相変わらずいつものように飄々と…かつ、悠然と
微笑を浮かべ…僅かな動揺の色さえも見せようとしない。
「…俺がそんな馬鹿な真似をするとでも…思っているのか?」
この身体を得られて、こうして存在出来る事…それ自体が大きな僥倖だと思っている。
その恩を忘れて…相手の想いを邪魔に感じて、殺めるなど…それこそ犬畜生にも
劣る振る舞いそのものだろう。
その言葉を聴いて…眼鏡は強い不快感と憤りを表に表していく。
それを実に楽しそうに…怪しい男は見つめていった。
『あぁ…やはり貴方様は、怒った顔さえも…随分と魅力的ですよ。それでは…私が
伝えたい事は大体、言い終えましたのでそろそろ退散致しますね…。
それでは、再会したばかりの甘い時間帯を…どうかお楽しみ下さいませ…』
そう告げると…その場には眼鏡と秋紀だけが残されていった。
目が痛くなるような赤で覆われた室内。
其処のソファの上に…二人は腰を掛けて、そっと見詰め合う。
「克哉さん…」
心から、愛しいという気持ちを込めて…秋紀は眼鏡の頬を優しく撫ぜていく。
その表情には…一片の曇りもない。
労わるような、慈しむような優しい手つきに…眼鏡は、そっと身を委ねていった。
「…どうして、お前は…待っていたんだ。あれから…どれくらいの月日が流れた…?」
目覚めたばかりの眼鏡には、どれくらいの時間が過ぎたのか把握出来ていない。
自分が負った、あれだけ深かった魂への傷も…癒えるくらい、となったら…2~3年は
最低すぎているだろう。
秋紀の容姿がウンと大人びてしまっているのも、その推測の大きな裏づけとなっていた。
あの子供そのものだった少年が…立派な青年へと変化するくらいの、長い時間。
たった一夜…気まぐれに抱いただけの相手だった。
それが…これだけ長い時間、自分を想い続けるなんて…予想もして、いなかった―
「貴方と最後に会ってからは…もう三年以上、かな…。僕自身も…凄い馬鹿だなって
思ったけどね。想い続けても…貴方に会える保証なんてないし、何度も諦めようかと
考えた事はあるよ。けれど…どんな形でも結局、貴方とケジメつけない限りは…僕は
この気持ちを捨てる事なんて…出来なかった、から。そうしたら…こんなに過ぎちゃって
いたけどね…けど、やっと…こうして会えたから…」
瞳を潤ませながら、今は青年となった相手が微笑む。
その感情は…嘘偽りなく、眼鏡に会えて嬉しいと伝えてくれている。
言葉よりも何よりも雄弁に…こちらを必要とし、求めていてくれた気持ちが感じられる。
それで思い出す。…自分はこんな、ささやかな物を欲していたのだという事実を。
(そうか…俺は結局…)
あの病室で、必死になって縋るように…少年だった頃の秋紀に口付けた日の記憶が
蘇っていく。
俺は…必要とされたかった。愛されたかった。
他ならぬ、<オレ>に…そして、太一に。
けれど…自分が浅慮で犯した罪によって…太一から、こんな風に微笑まれたり気持ちを
伝えられる事は決して、なかった。
だからそんなものは欲しくない。そんな態度を貫いていたけれど…。
こうして向けられて初めて判った。自分の心がどれだけ…こういう温かなものに飢えて
いたのか。欲していたのかも…。
「…お前は、馬鹿…だな…」
呆れたように、感心したように…いや、両方が入り混じった笑顔を向けながら…己を
想い続けてくれた青年の身体をそっと引き寄せていく。
―あれから、三年が経過しました。
いやいや…感服致しました。
人の心は移ろいやすいというのが…私が長らく人を観察していて、達した結論
なのですが…実にあのお二人方は心からあの人を求めていたらしい。
だからその心に免じて…私は、傍観者の立場ではなく…魔法や奇跡と呼ばれる
類の事を一つだけ起こして差し上げる事にしました。
私にとっても…そのままもう一人のご自分の影にあの人が隠れて、自分を押し殺して
生きていくのなど…退屈ですからね。
だから、一度だけ…貴方達が紡いだ悲劇の物語。その観客席から…手を差し伸べて
あげましょう。
幸福とは儚いもの…全力でその手に掴み取らなければ、スルリと零れ落ちてしまう
泡のような代物。
その僥倖を…一生のものにするか、またもや悲劇を招いて破壊してしまうかは…
貴方達の心がけ次第なのですから―
*
目を開けると、視界には鮮やかなまでの赤ばかりが飛び込んできた。
独特のエキゾチックな香りと雰囲気。
怪しいBGMが流れる室内…其処に設置されている豪奢な真紅のソファの上に
眼鏡は横たわっていた。
(ここは…一体、どこだ…?)
しかも…しっかりと、肉体を伴っている感覚があった。
どうしてだろうか…? 自分はすでに、その所有権をもう一人の自分に譲渡して
深い眠りに就いた筈だ。
だが…しっかりと身体が動いているのに、もう一人の<オレ>の気配らしきものは
感じられなかった。
(アイツは…どこに、いったんだ…?)
真っ先に心配したのは、それだった。
何故自分はこんな処にいるのだろうか?
それを疑問に思った次の瞬間…誰かに、抱きつかれていた。
「克哉さんっ!」
最初は、誰なのだろうか…と一瞬、感じた。
自分にしがみ付いてくる人物の身体はしなやかで…記憶に残っている誰の
身体情報と一致しない。
だが…こちらの顔を覗き込んでくるその表情に…面影は確かに残っていた。
自分の覚えている容姿よりもずっと成長していて…四肢も随分と延びている。
幼さが完全になりを潜めて…随分と大人びた顔つきになっていた。
「…まさか、秋紀…か?」
「…うん、そうだよ…。僕だよ…克哉、さん…」
秋紀は隠す事なく、ポロポロと大粒の涙を浮かべながら…上半身だけ
赤いソファの上で起こしている克哉の上に覆い被さって抱きついていた。
その温もりは…長らく眠りについていた克哉には温かく、心地よく感じられて
状況の判断が出来ないまでも…暫し、その感覚に身を委ねていく。
『…お久しぶりですね。目覚めの気分は如何でしょうか…?』
久しぶりに聞く、歌うような艶めいた口調。
そちらに視線を向けると…其処にはやはり、Mr.Rが立っていた。
三年という月日で随分と成長していた秋紀と対照的に…この男の方は記憶に
残っている姿と何一つ変わった処がない。
まるで年月などの影響など何も関係ないとでも言わんばかりだ。
「…悪くは無い。だが…一体、ここはどこだ?」
『…何度か貴方様は立ち寄っていらっしゃるでしょう。ここは…私が運営している
クラブRですよ。幾らなんでも貴方様を…そこら辺の道端で目覚めさせる訳には
参りませんから…一応、寝床ぐらいは用意しておきましたけどね…』
「…それは判った。だが…どうして、ここに秋紀がいるんだ…?」
『今夜に限り…私がお招き致しました。貴方を呼び起こすには…傍に、今も
強く想っている存在がいた方が…形と成りやすいですからね…』
そして、男は…ニコリ…と胡散臭く、綺麗に笑んでみせる。
『秋紀様は…三年という年月が過ぎたにも関わらず、貴方への想いを一点も
曇らせずに貫き続けました。…移ろいやすく、壊れやすいのが人の心の常ならぬ
事なのに…それでも、もう一人の貴方と…この秋紀様は貴方を強く想い続けて…
その意思を貫かれました。
ですから…その心に免じて、貴方様に…こうして、身体を差し上げた訳です。
その身体は…もう一人の貴方と、秋紀様の…ある程度の年月の寿命を
代価として…作り上げられています。…本当に、貴方は愛されているんですね…。
流石、と言った処でしょうか…」
「寿命、だと…? あいつも…秋紀も、俺の為に…命を投げ打ったと言うのか…?」
「うん…だって、僕にとっては…幾ら長生きしても…克哉さんに再会出来ないまま
よりも…少しぐらい寿命が無くなってしまっても…貴方と会える方がずっと…
良かったから…。だから…その、克哉さん…気にしないで?」
『はい…本来なら、もう一人の貴方から…半分程、寿命を頂いて…それを代価に
肉体を紡ぎ上げる予定でしたけどね。同じ想いの秋紀様がこうしていらっしゃった…
訳ですから、大体…お二人とも本来生きれる時間の三分の一程度の犠牲で
済んでいらっしゃいます。
人の本来の寿命が最大で百年から120年と換算すれば…三分の一程度なら
削れてしまっても、十分な時間生きれるでしょう。
後は喫煙とか…飲酒とか、身体に悪い習慣を止められさえすれば…天寿は
全う出来ますよ』
「無理だな。タバコも酒も止めるつもりはない。…俺にとってあれは、人生の
貴重な楽しみだからな…」
眼鏡が即答すると同時に…秋紀は思いっきり彼に食って掛かった。
「…もう! 克哉さん。そういうの止めてとは言わないけど…程々にはして
おいてよねっ! せっかく…こうして、克哉さん…いられるようになった訳だし…」
「あぁ…身を持ち崩すほど、酒やタバコに依存するつもりはない。あくまであれは
楽しみの一環だ。だから…拗ねるな…」
そうして、しがみ付いてくる秋紀の背中をそっと撫ぜて…あやしていってやる。
まるで甘えん坊の猫の背を撫ぜてやっているような光景だった。
謎めいた男は…そんな二人の様子を微笑ましげに眺めていたが、ふいに
間合いを詰めて眼鏡の近くへと…歩み寄っていく。
そして、囁きを落としていった。
『斯して…貴方はこうして解き放たれました。これからの人生は…
もう一人の貴方や、五十嵐様の事に囚われずに…ご自分の心のままに
生きても何の問題もありません。こうして…佐伯様から、その心はすでに…
三年前から頂いておりましたけれどね。
…これさえあれば、貴方は問題なく市民権や色々な手続きに必要な身分は
証明出来ると思います。さあ…どうぞ…」
そうしてMrが手渡したのは…<オレ>の写真がついた免許証と
銀行のカードだった。
電車をメインに生きていた奴だったので…車は殆ど乗らずに実質ペーパー
ドライバーだったのだが…身分を証明する上ではこの国ではもっとも重要な
ものだった。
「…これ、は…?」
「佐伯様が…貴方の為に残された身分証明書と、幾許かのお金ですよ。
免許証の方は…私が更新しておきましたから、今でも問題なく使えます。
それさえあれば…貴方様なら、ご自分の力で後は生きていかれるでしょう…?
もう一人の貴方の心が篭った品を…確かに、お渡し致しましたよ…」
そうして…眼鏡は、呆然となりながら…それを見遣っていく。
こうして蘇った自分宛に残された免許証と…銀行のカードは…克哉の気持ちが
確かに強く宿っていた。
それを手のひらに収めながら…つい生じてしまった素朴な疑問を投げかけていく。
「…これは確かに在り難く受け取らせて貰うが…どうやって、免許の更新を
お前がやったのか…非常に気に掛かるんだが…」
「さあ? どうでしょうね…。それは企業秘密とさせて頂きましょう」
ニッコリと楽しげに微笑みながらMr.Rは言い切った。
トコトンまで謎が多すぎる男であった。
『…それよりも、佐伯様。お伝えしておきたい事がありますから…お耳を貸して
頂けますか? あぁ…須原様は少々、離れていて貰えますか? えぇ…そんな顔を
なさらなくても、すぐに済みますよ。これだけお伝えしたら…二人きりにして差し上げます…』
そういって、不満そうな顔を浮かべている秋紀を尻目に…男は眼鏡の傍らに立ち…
そっと甘く歌を口ずさむかのような口調で囁きを落としていく。
『―佐伯様。今の貴方は…人の想いを持って生きている実に不安定な状態です。
貴方様が須原様を裏切って…他の方を選ばれるなら、須原様が差し出した代価は
速やかに持ち主の下に戻り…その分、貴方が生きれる時間は減るでしょう。
それを拒みたいのなら…須原様自身をこれで…殺めなさい。
その代わり発覚すれば…貴方の人生は殺人者として終わりますけどね。
…貴方を現実に具現化させるくらいの強い想いも…貴方が受け入れようとなさらな
ければ…ただの重荷にしかならないでしょう?
ですから…これは、須原様からも離れて…自由になりたい場合の最後の選択肢と
なりますけどね…』
そして男は一本の銀色に輝く小さな折り畳みナイフをそっと…眼鏡のスーツの
内ポケットへと収めていく。
ヒヤリとした冷たい感触に…ゾっと背筋が凍る思いがした。
それは…ようやく訪れたハッピーエンドに、大きな黒い影を落としかねない…悲劇に
導く悪魔の囁きのような…恐ろしい言葉だった。
だが…それを口にした直後の男は相変わらずいつものように飄々と…かつ、悠然と
微笑を浮かべ…僅かな動揺の色さえも見せようとしない。
「…俺がそんな馬鹿な真似をするとでも…思っているのか?」
この身体を得られて、こうして存在出来る事…それ自体が大きな僥倖だと思っている。
その恩を忘れて…相手の想いを邪魔に感じて、殺めるなど…それこそ犬畜生にも
劣る振る舞いそのものだろう。
その言葉を聴いて…眼鏡は強い不快感と憤りを表に表していく。
それを実に楽しそうに…怪しい男は見つめていった。
『あぁ…やはり貴方様は、怒った顔さえも…随分と魅力的ですよ。それでは…私が
伝えたい事は大体、言い終えましたのでそろそろ退散致しますね…。
それでは、再会したばかりの甘い時間帯を…どうかお楽しみ下さいませ…』
そう告げると…その場には眼鏡と秋紀だけが残されていった。
目が痛くなるような赤で覆われた室内。
其処のソファの上に…二人は腰を掛けて、そっと見詰め合う。
「克哉さん…」
心から、愛しいという気持ちを込めて…秋紀は眼鏡の頬を優しく撫ぜていく。
その表情には…一片の曇りもない。
労わるような、慈しむような優しい手つきに…眼鏡は、そっと身を委ねていった。
「…どうして、お前は…待っていたんだ。あれから…どれくらいの月日が流れた…?」
目覚めたばかりの眼鏡には、どれくらいの時間が過ぎたのか把握出来ていない。
自分が負った、あれだけ深かった魂への傷も…癒えるくらい、となったら…2~3年は
最低すぎているだろう。
秋紀の容姿がウンと大人びてしまっているのも、その推測の大きな裏づけとなっていた。
あの子供そのものだった少年が…立派な青年へと変化するくらいの、長い時間。
たった一夜…気まぐれに抱いただけの相手だった。
それが…これだけ長い時間、自分を想い続けるなんて…予想もして、いなかった―
「貴方と最後に会ってからは…もう三年以上、かな…。僕自身も…凄い馬鹿だなって
思ったけどね。想い続けても…貴方に会える保証なんてないし、何度も諦めようかと
考えた事はあるよ。けれど…どんな形でも結局、貴方とケジメつけない限りは…僕は
この気持ちを捨てる事なんて…出来なかった、から。そうしたら…こんなに過ぎちゃって
いたけどね…けど、やっと…こうして会えたから…」
瞳を潤ませながら、今は青年となった相手が微笑む。
その感情は…嘘偽りなく、眼鏡に会えて嬉しいと伝えてくれている。
言葉よりも何よりも雄弁に…こちらを必要とし、求めていてくれた気持ちが感じられる。
それで思い出す。…自分はこんな、ささやかな物を欲していたのだという事実を。
(そうか…俺は結局…)
あの病室で、必死になって縋るように…少年だった頃の秋紀に口付けた日の記憶が
蘇っていく。
俺は…必要とされたかった。愛されたかった。
他ならぬ、<オレ>に…そして、太一に。
けれど…自分が浅慮で犯した罪によって…太一から、こんな風に微笑まれたり気持ちを
伝えられる事は決して、なかった。
だからそんなものは欲しくない。そんな態度を貫いていたけれど…。
こうして向けられて初めて判った。自分の心がどれだけ…こういう温かなものに飢えて
いたのか。欲していたのかも…。
「…お前は、馬鹿…だな…」
呆れたように、感心したように…いや、両方が入り混じった笑顔を向けながら…己を
想い続けてくれた青年の身体をそっと引き寄せていく。
―あの奈落に落ちた瞬間、もう二度と帰って来れないという恐怖も抱いていた。
戻って来ても…誰にも必要とされないのだろうか。
そう不安を当時は覚えていた。
だからこそ…こうして向けられる感情は酷く心地よくて…嬉しくて。
ごく自然に…眼鏡の胸の中に染み渡り、じんわりと…暖かなものが浮かび
上がってくる。
「ん…そうだね。僕は…馬鹿だよ。たった一度…僕を抱いた、初恋の人を…
ずっと忘れられなかったんだから…」
あっさりと認めながら、秋紀はそっと唇を寄せる。
克哉の髪を穏やかに梳いていきながら…頬に口付けて、嬉しそうに微笑んだ。
それは…三年前当時には気づこうとしなかった、強い想い。
あの時は自分の胸の痛みしか…感じられなかった。
罪悪感と後悔と…苦い想いばかりが心を満たしていた時は…ここまで深く
相手の想いが沁み込んでくる事は無かった。
それは目立たない陰日向にそっと咲くような密やかな想い。
克哉自身も…当時はここまで強く、この青年が想ってくれていた事実に
気づいていなかった。
自分を縛っていた全ての戒めから解放されて…自由になれたこの時だからこそ、
初めて感謝をする事が出来た。
「…だが、そうしてお前が…待ち続けてくれたからこそ、俺は戻って来れた。
感謝する…」
以前の自分だったら、こんなに素直に相手に礼を告げたりはしなかっただろう。
だが…今、こうして微笑んでくれる秋紀を前にだったら…照れくさくて絶対に
軽々しく言えそうにない言葉すら、言えてしまえるのが不思議だった。
そう…好意の笑顔は…時に頑なな相手の態度と心をも解していく。
まるで童話の中の…北風と太陽の、太陽のように。
人の心を暖めるような…純粋な好意と、想いを向ければ…自然と心は通い、
暖かなものが生まれるものなのだ―
そして…眼鏡は、青年を抱き寄せて…優しい声音で告げた。
『ありがとう―』
たった一言の、短い言葉。
けれど…そう言って貰えた瞬間…秋紀は嬉しくて嬉しくて…この瞬間に死んでも構わないと
想う程、喜びが胸を満ちていくのを感じていった。
幸せすぎて、泣けるなんて…今まで知らなかった。
ここまで…強い幸福感を覚えたことなど、決してなかったから―
「克哉さん…」
ぎゅうっと強く抱きついていきながら…秋紀はその歓喜をしっかりと噛み締めていく。
想い続けて良かった。
この人にもう一度会えて良かった。
こうして…自分の想いを邪魔に思わずに、受け入れて貰えて良かったと…。
色んな想いが、己の中で交差して…溢れんばかりの熱い雫が目元からポロポロと
零れ落ちていく。
『大好き、だよ…』
それは…今、抱きついている克哉を肯定し、必要としている気持ちを伝える…
真っ直ぐな一言。
眼鏡は…その言葉を聞いて、自信満々の表情を浮かべていき…そして、そっと
唇を重ねていく。
その想いは誰に知られる事なくても、秘めやかに…彼の胸の咲き続けていた。
そしてようやく実りの日を迎えて…満開になっていく。
大好きな人とようやく…再会出来た幸せを感謝しながら…。
秋紀は、その幸福に…静かに身を委ねていったのだった―
戻って来ても…誰にも必要とされないのだろうか。
そう不安を当時は覚えていた。
だからこそ…こうして向けられる感情は酷く心地よくて…嬉しくて。
ごく自然に…眼鏡の胸の中に染み渡り、じんわりと…暖かなものが浮かび
上がってくる。
「ん…そうだね。僕は…馬鹿だよ。たった一度…僕を抱いた、初恋の人を…
ずっと忘れられなかったんだから…」
あっさりと認めながら、秋紀はそっと唇を寄せる。
克哉の髪を穏やかに梳いていきながら…頬に口付けて、嬉しそうに微笑んだ。
それは…三年前当時には気づこうとしなかった、強い想い。
あの時は自分の胸の痛みしか…感じられなかった。
罪悪感と後悔と…苦い想いばかりが心を満たしていた時は…ここまで深く
相手の想いが沁み込んでくる事は無かった。
それは目立たない陰日向にそっと咲くような密やかな想い。
克哉自身も…当時はここまで強く、この青年が想ってくれていた事実に
気づいていなかった。
自分を縛っていた全ての戒めから解放されて…自由になれたこの時だからこそ、
初めて感謝をする事が出来た。
「…だが、そうしてお前が…待ち続けてくれたからこそ、俺は戻って来れた。
感謝する…」
以前の自分だったら、こんなに素直に相手に礼を告げたりはしなかっただろう。
だが…今、こうして微笑んでくれる秋紀を前にだったら…照れくさくて絶対に
軽々しく言えそうにない言葉すら、言えてしまえるのが不思議だった。
そう…好意の笑顔は…時に頑なな相手の態度と心をも解していく。
まるで童話の中の…北風と太陽の、太陽のように。
人の心を暖めるような…純粋な好意と、想いを向ければ…自然と心は通い、
暖かなものが生まれるものなのだ―
そして…眼鏡は、青年を抱き寄せて…優しい声音で告げた。
『ありがとう―』
たった一言の、短い言葉。
けれど…そう言って貰えた瞬間…秋紀は嬉しくて嬉しくて…この瞬間に死んでも構わないと
想う程、喜びが胸を満ちていくのを感じていった。
幸せすぎて、泣けるなんて…今まで知らなかった。
ここまで…強い幸福感を覚えたことなど、決してなかったから―
「克哉さん…」
ぎゅうっと強く抱きついていきながら…秋紀はその歓喜をしっかりと噛み締めていく。
想い続けて良かった。
この人にもう一度会えて良かった。
こうして…自分の想いを邪魔に思わずに、受け入れて貰えて良かったと…。
色んな想いが、己の中で交差して…溢れんばかりの熱い雫が目元からポロポロと
零れ落ちていく。
『大好き、だよ…』
それは…今、抱きついている克哉を肯定し、必要としている気持ちを伝える…
真っ直ぐな一言。
眼鏡は…その言葉を聞いて、自信満々の表情を浮かべていき…そして、そっと
唇を重ねていく。
その想いは誰に知られる事なくても、秘めやかに…彼の胸の咲き続けていた。
そしてようやく実りの日を迎えて…満開になっていく。
大好きな人とようやく…再会出来た幸せを感謝しながら…。
秋紀は、その幸福に…静かに身を委ねていったのだった―
『第四十六話 決断』 「佐伯克哉」
太一の告白を受け入れてから一ヶ月半が過ぎようとしていた。
あの夕焼けの中で想いを告げた日を境に…ようやく、克哉は太一の家庭の複雑な事情や
悲劇の発端となった、裏サイトを運営していた理由を聞く事が出来た。
それは正直、克哉にとって想像もしていなかった内容ばかりで…驚いてばかりだった。
だが…自分は、彼の想いを受け入れたのだ。
だから…そういった複雑な背景も含めて、克哉は…彼を愛する事にした。
事情を聞いてからも…二人で二週間程、話し合った末に…キチンと克哉がキクチ・
マーケティングを退社した後でアメリカに渡って、音楽活動をする事に決めた。
楽園が崩壊した直後から起こった、身体の麻痺現象は…時々発作のように起こって
時に身体の自由が効かなくなる事があったからだ。
太一は…今すぐにでも一緒に駆け落ちして、海外に渡りたがったけれど…克哉のその
身体事情や、迷惑を掛けたキクチ・マーケティングの人達に少しでも迷惑を掛けたくないと
いう意見はお互い一致したのである程度の期間を設ける形に落ち着いていた。
結局、太一の方は…克哉が正式に退社するまでの一ヶ月の間は…平日は片桐、本多の
家に交互に泊まらせて貰い、週末になると…こっそりと克哉の家に来て貰って一緒に
出来るだけ過ごすようにしていた。
時々、身体の自由が効かなくなる克哉を…太一は良く気遣っていた。
甘い時間の中に潜む後悔と、苦い想い。
だがお互いにその負の感情を表に敢えて出さないようにして…初めて恋人らしい時間を
彼らは共に過ごしていた。
片桐と本多には、自分たちが恋人になった…という話と、太一の実家がヤクザである事
だけは伏せたが…それ以外の、太一は本気で海外で音楽活動に打ち込みたいという夢を
持っていて…克哉はそれを手伝いたいと思うから、退社したい…という旨はキチンと
伝えてあった。
最初は二人共寂しがっていたが…克哉の意思が固いと知ると、二人はこちらの気持ちを
汲んで…協力を惜しまないでくれていた。
自分は…本当に、良い仲間に恵まれていたのだと。
こんな状況に陥って…初めて克哉は強く実感し、その有り難味を噛み締めたまま…旅立ちの
前日を迎えようとしていた。
克哉の自室は、すでに…ここ数日で大きな荷物の殆どは、リサイクルショップや知人に
引き取って貰っていたので…今、部屋の中にあるのは…ベッドとガラステーブル、そして…
パソコンと小さな衣類タンスぐらいの物だった。
残った家具も、数日中に…本多が引取りに来て処分してくれる話になっている。
部屋の片付けも殆ど終わったので…そろそろ、入浴でも済ませて…普段着からパジャマに
着替えようとした頃、克哉は溜息を突きながら…部屋中を見回していた。
(本当に…今日で、日本を発つんだな…)
そう考えると、寂寥感が心中をゆっくりと満たしていく。
この一ヶ月…太一の手を取った事に迷いがまったく生じなかったと言ったら嘘になる。
だが…過去を振り返っても仕方ない。
そう考えて…もう一人の自分に関しての事は、殆ど考えないようにしていた。
「…多分、今日が最後だ。約束の期日は随分と過ぎてしまったけれど…」
そして、彼は…タンスの上にあった銀縁眼鏡をゆっくりと手に取っていった。
これは…もう一人の自分の形見のようなものだ。
かつて、自分の中に…はっきりと息づいていた意識を解放するキッカケとなった…
不思議なアイテム。
それを手に取って…そっと呼び掛ける。
「…遅くなりましたけど、これを貴方に…お返しします。其処に…いらっしゃるんでしょう…?」
銀縁眼鏡を軽く握り締めながら、語りかける。
これを…自分に手渡した、謎めいた男に向かって―
『おやおや…私がいる事に気づかれておりましたか。やはり…貴方は…感覚が鋭敏な
方のようですね…』
久しぶりに聞く、歌うように話す男の声。
「えぇ…貴方は絶対に、今日…来ると思いましたから。オレが刺されてしまったから…随分と
本来の期日よりも延びてしまったけれど…この眼鏡は貸すだけだ、と最初に言っていました
からね…。だから、一度は回収する為に…オレの前に現れると、そんな気はしてたから…」
『なかなかの洞察力ですね。感服致します…。確かにこれは、貴方に差し上げたもの…。
もう一人の貴方様自身を解放する為に必要な、触媒のような代物です。
ですが…もう一人の貴方は深く眠ってしまわれた。その眼鏡を幾ら掛けようとも…
呼び掛けようとも決して目覚めない深い眠りに…。それなら、確かに…貴方にとって、すでに
この眼鏡は…必要ないものなのかも知れませんね…』
「えぇ…オレには必要ないです…」
きっぱりと、強い意志を持って言い返す。
そして…彼はこう続けた。
『それは…もう一人の<俺>が掛けるべき物ですから…』
迷いない口調で克哉がそう言うと…Mr.Rは面白そうな笑みを浮かべていった。
その言葉の真意を…ゆっくりと探っているようだった。
『ほう…? その言葉の真意をお聞かせ願っても構いませんでしょうか…?』
怪しい男がクスクスと笑っていく。
克哉の表情も…真摯なものへと変わっていった。
暫しの睨み合いの末に…ようやく克哉が告げた言葉は…。
「…貴方が、オレの前に現れてくれたら…一つ、お願いしたい事がありました…。貴方なら、
もう一人の俺に…身体を与えられるのでしょう…? 二度もそうして…あいつはオレの前に
現れた事がありましたからね…。 それが出来るなら…どうか、<俺>に…身体を与えて
やって下さい。このままじゃ…あいつの方が、余りに割を食い過ぎてしまっていますから…」
『…確かに、私には…貴方ともう一人の貴方様を同時に存在させる力があります。
ですがそれは…一夜で儚く消える夢のようなもの。一晩だけならば私の力だけで…十分に
出来ますが、ずっと…存在させるとなると、『代価』が必要になります。
…それは魔法と呼ばれる領域の行為となりますが…魔法や、魔術というのは…必ず、
危険と代償を支払う事によって…初めて成り立ちます。
さて…貴方は、私にどんな代償を支払って下さいますか…?』
「…オレの命の半分を。アイツとオレは…一つの身体を共有している。それで…オレばかりが
好きな人間と一緒になって、幸せになるのなんて…不公平すぎるから。
流石に…今のオレには大切な人間がいます。だから…この命を捨ててでも、あいつを存在
させたいとは…口が裂けても言えない。
けれど…寿命なら、自分の残された時間の半分くらいまでなら…あいつの為に差し出しても
構わないと…それくらいの覚悟はあります」
迷いがない口調で、きっぱりと克哉は言い放つ。
そんな彼に向かって、愉しげな笑みを浮かべながら…悪魔のように甘く、蕩けるような
滑らかな口調で男は告げる。
『それ程…大切な存在なら、逆に手放さない方が宜しいのでは…? 確かに、貴方の命の
半分を代価として…あの方に注げば…確かにこの世にずっと存在出来るでしょう。
ですが…それは、貴方の中から…あの方がいなくなる事を意味しています。貴方達二人は…
いわば天秤のようなもの。片方の受け皿にそれぞれの意思が存在している。その受け皿の
片方と…一生、別離する事になっても構わないと…貴方は言われるのですか…?』
「はい。…オレが太一の手を取ったのは、アイツに背中を押されたからですが…同時に、
このまま…オレの中に<俺>を閉じ込めたままでは…アイツは不幸にしかならないから。
…それに、最後の瞬間…アイツの記憶が流れて来て、あの…秋紀っていう子の事を…
<俺>も憎からず想っていた事を…知りました、から…。
アイツにも愛してくれる存在がいるのなら、オレは幸せになって欲しい…! オレばかりが…
幸せで、あいつが不幸にならなきゃいけないなんて…御免なんです。
太一の事は愛している。けれど…恋心を捨てたからと言っても…オレはアイツを大切なのは
変わらないんです! だから…どうかお願いします!」
もう一人の自分の事は、あまり深く考え過ぎないようにしていた。
マトモに考えたら、太一をどこかで恨んでしまいそうだったから。
けれど…同時に、考え続けていた。
どうやったら…皆が幸せになれるだろうか。その道を…。
そして、考え抜いた末に克哉が下した結論は…もう一人の自分に身体を作って貰って、
生きて貰うという事だった。
普通だったら荒唐無稽。
叶えられる筈のない願い。
だが…この不思議な眼鏡を与えてくれた、謎めいた男なら…出来るかも知れない奇跡に、
克哉は掛けてみる事にしたのだ。
自分がもう一人の自分に恋心を抱くキッカケとなった二つの事件は…恐らく、この男が深く
絡んでいる事はもう思い出していたから―
『…本当に、ご自分の生きられる寿命の半分を投げ打っても…後悔なさらないんですね?』
「はい…短くなってしまったのならば…それなら、その時間を精一杯大切に生きる事に
しますから。それにどれだけ長い寿命があったとしても…もし、事故に遭ったり災害に
巻き込まれたりすれば…一瞬で消えるものです。
オレは運良く…太一の父親に刺されていた時に命拾いしたけれど、本来ならあの時に…
死んでいてもおかしくなかったんです。
それなら、今こうして…生きていられる事、それ自体がラッキーなんです。<俺>が…
オレに命を与えてくれなかったら…この時間そのものが存在しなかった。
そう考えれば…奇跡みたいなものでしょう? だから良いんです」
そして、克哉は…はっきりと告げた。
「どうか…アイツに身体を与えて下さい」
しっかりと…淀み一つない口調で、克哉は告げていった。
それを聞いて…男は楽しげに笑う。
とても面白いものを見れた…とでも言うかのように。
その冷たさを孕んだ…綺麗な笑顔に、克哉は背筋が凍るような想いがした。
だが一歩も引く気配を見せないようにした。
ここで…自分が怯んだ様子を見せる訳にはいかない。そんな気がしたから…。
『判りました…あの方が、貴方の中でその魂の傷を癒されたその時…私はもう一度、
貴方の前に現れましょう。佐伯克哉さん…。
それが数年以内か、五年後か…十年後になるかは私にも判りかねますが…
その時まで貴方の気持ちが変わらないようでしたら…私は、貴方の願いを叶えて…
あの方に…肉体を与えて差し上げましょう…』
「…本当、ですか…?」
自分自身でも一か八かの頼みごとだっただけに…あっさりと男が承諾してくれた事に
却って拍子抜けしたくらいだった。
ほっとした顔を浮かべる克哉と対照的に、男はただ…楽しげに怪しく笑い続けていた。
それを見ているこちらの方が…妙に落ち着かない気分になってしまう。
『…しかし、それまで…良く考えて下さいね。本当に…あの方と永遠に袂を分かつ事に
なっても構わないのか。確かに…貴方が選ばれた方は、あの方を酷く嫌悪したり…複雑な
感情を抱いていらっしゃる。ですが…人の心とは変わるもの。
年月が過ぎ去れば、貴方の方と上手く行っていれば…その負の感情も変質して…三人で
上手く行くかも知れない未来も生まれ得るかも知れません。
…五十嵐様が、あの方の存在を受け入れて下さった場合でも…ご自分の寿命を犠牲にして…
あの方との決別を望まれるんですか…?』
それは、非常に意地が悪い問いかけでもあった。
克哉がこの決断を下した理由の一つは…太一と眼鏡とのすれ違いがあったからだ。
複雑な感情を抱いているからこそ…上手くいくのは難しいだろうと思った。
この決断を下した最大の理由はそこにある。だが…それが解消した場合はどうするのか…?
男はその問題点を、率直に克哉に投げかけていた。
「それは…! …そうですね、その問いかけは…その時になってみないと判りません。
確かに…太一が、あいつの存在も受け入れてくれた時には…無理に決別をする必要性は
ないと思います。ですが…それは、あいつが目覚めた時の状況次第で決める事です。
今は判断するべき時ではないと考えます…」
『…それが貴方の問いですか。判りました…。実際にそれを実行に移すかどうかは…
状況次第で…という形で構いません。私も…貴方達二人が、一番良い形になるように…
収まって頂きたいですからね。では…今宵は私もそろそろ失礼致しますよ…。
あぁ…そういえば、実行に移す事になった時には…一つ、貴方から譲り受けておきたい物が
ありましたね。…これを一枚、失敬しますよ』
そういって…男は貴重品やら何やらが入っていたカバンの方に近づいていくと…銀行の
カードや身分証明書が纏められている束の中から…一枚のカードを取り出していった。
『…これは貴方には、実質…無くても大丈夫な物でしょうから…構いませんでしょう?
外国で入用になった時はまた新しく取り直せば済むものでしょうからね…』
「えぇ、それがあいつと身体に分けた時に必要となるのなら…持って行っても構いません。
どうせ今のオレには…意味の無い代物ですからね…」
『…快く協力して下さってありがとうございます。おかげで私の方もその方が作業が楽に
なってやりやすくなりますからね…。それでは…そろそろ、ごきげんよう佐伯克哉さん。
貴方のこれから歩む道筋に幸があらん事を…願っていますよ…』
そう告げて…一枚のカードを手に持ちながら…男の姿はあっという間に夜の闇に紛れていく。
克哉はMr.Rを見送ると同時に…フっと気が抜けてその場に崩れ落ちていった。
膝が笑っている。
何度も男に問い返された時に…自分でもこれで良いのか、迷っていた部分があったから…
身体にそれが思いっきり現れたのである。
「…本当に、それで…構わないんですか…か…」
迷っていない、と言ったら嘘になる。
実際に…心の中に存在していた『楽園』を失い…もう一人の自分の気配をどこにも
感じられないだけで…こんな麻痺状態が起こってしまっているくらいなのだ。
それでも…それが寂しいとか、辛いと思っても…克哉は、彼に幸せになって欲しいと…
強く願ったのだ。
もう一人の自分は…太一と、自分が幸せになる事を祈って…己が身を奈落に落とした。
だから…今度は、自分が代価を払う番だと…素直に思ったのだ。
自分だけが幸せになるなんて…耐え切れない事だから。
二人共幸せにならなきゃ、嘘だ…と。そう感じたから克哉は決断したのだ。
それが…永遠に、一つには戻れなくなる事だと…理解した上で。
(…離れる、のは…怖いよ。けれど…アイツにだって…想ってくれる人がいるのなら…。
これが…最良、だと…思ったんだ。オレには…もう、太一がいるんだから…)
あの夕焼けの瞬間、自分は眼鏡に関しての恋心は捨てる事を決意した。
恋心とは…いわば、執着心だ。
相手の心を手に入れて、もっと近づきたいと願う純粋な欲望。希求する感情。
だが…克哉はその感情を捨てた。
代わりに…手放すことになっても、離れても…彼が自由に生きてくれる事を。
眼鏡を心から愛してくれる存在と寄り添える可能性がある道を…選んだのだ。
胸を引き絞られそうになっても…。
―どうか、幸せになって下さい。自由に生きて下さい
願うのはただ…これだけ。
今の状態のままでは…自分が生きている限り、もう一人の自分を閉じ込めて…
我慢をさせているようなものだから。
アイツが自分の中から…いなくなると思うとぽっかりと空虚な気持ちになりそうだけれど…
克哉は辛くても、彼を解き放つ道を選択した。
彼の感情は、あの瞬間に大量に流れ込んで知っていたから。
どれだけ自分や太一への複雑な想いで苦悩し、罪悪感を抱き続けていたのか…すでに
判っているから。
もう苦しまないで欲しいのだ。自分たちから離れて…彼を解き放ち。
そして…罪の意識で心を切り裂かれているような彼ではなく…自分が良く知っている
自信満々に、傲慢に微笑む彼に戻って欲しいと…そう願ったから。
「目覚めた時に…オレや、太一に囚われないで…欲しい、からな…」
だから決めた。
この結末を。
そして…克哉は月を仰ぐ。
日本を発つ前日…彼が最後に見た月夜はとても綺麗だった。
それに心を洗われるような想いを抱きながら…克哉は一滴の涙を頬に伝らせていく。
―愛しているよ…<俺>
恋心は捨てたとしても、自分の中には…その気持ちだけは今も強く残っている。
その気持ちだけは…決して、誰にも消せない。
…自分を犠牲にしてでも、こちらの幸せを願ってくれた奈落に落ちる事を選択した…
彼の姿を、自分は一生…忘れる事など出来ないのだから。
だから…この命の半分を、お前に。
オレは残された命で、その人生を全うするから。
強く強く…克哉は願う。
いつか彼が目覚めたその時…その傍らに、彼を本当に強く思って大事にしてくれる
存在が寄り添ってくれている事を―
太一の告白を受け入れてから一ヶ月半が過ぎようとしていた。
あの夕焼けの中で想いを告げた日を境に…ようやく、克哉は太一の家庭の複雑な事情や
悲劇の発端となった、裏サイトを運営していた理由を聞く事が出来た。
それは正直、克哉にとって想像もしていなかった内容ばかりで…驚いてばかりだった。
だが…自分は、彼の想いを受け入れたのだ。
だから…そういった複雑な背景も含めて、克哉は…彼を愛する事にした。
事情を聞いてからも…二人で二週間程、話し合った末に…キチンと克哉がキクチ・
マーケティングを退社した後でアメリカに渡って、音楽活動をする事に決めた。
楽園が崩壊した直後から起こった、身体の麻痺現象は…時々発作のように起こって
時に身体の自由が効かなくなる事があったからだ。
太一は…今すぐにでも一緒に駆け落ちして、海外に渡りたがったけれど…克哉のその
身体事情や、迷惑を掛けたキクチ・マーケティングの人達に少しでも迷惑を掛けたくないと
いう意見はお互い一致したのである程度の期間を設ける形に落ち着いていた。
結局、太一の方は…克哉が正式に退社するまでの一ヶ月の間は…平日は片桐、本多の
家に交互に泊まらせて貰い、週末になると…こっそりと克哉の家に来て貰って一緒に
出来るだけ過ごすようにしていた。
時々、身体の自由が効かなくなる克哉を…太一は良く気遣っていた。
甘い時間の中に潜む後悔と、苦い想い。
だがお互いにその負の感情を表に敢えて出さないようにして…初めて恋人らしい時間を
彼らは共に過ごしていた。
片桐と本多には、自分たちが恋人になった…という話と、太一の実家がヤクザである事
だけは伏せたが…それ以外の、太一は本気で海外で音楽活動に打ち込みたいという夢を
持っていて…克哉はそれを手伝いたいと思うから、退社したい…という旨はキチンと
伝えてあった。
最初は二人共寂しがっていたが…克哉の意思が固いと知ると、二人はこちらの気持ちを
汲んで…協力を惜しまないでくれていた。
自分は…本当に、良い仲間に恵まれていたのだと。
こんな状況に陥って…初めて克哉は強く実感し、その有り難味を噛み締めたまま…旅立ちの
前日を迎えようとしていた。
克哉の自室は、すでに…ここ数日で大きな荷物の殆どは、リサイクルショップや知人に
引き取って貰っていたので…今、部屋の中にあるのは…ベッドとガラステーブル、そして…
パソコンと小さな衣類タンスぐらいの物だった。
残った家具も、数日中に…本多が引取りに来て処分してくれる話になっている。
部屋の片付けも殆ど終わったので…そろそろ、入浴でも済ませて…普段着からパジャマに
着替えようとした頃、克哉は溜息を突きながら…部屋中を見回していた。
(本当に…今日で、日本を発つんだな…)
そう考えると、寂寥感が心中をゆっくりと満たしていく。
この一ヶ月…太一の手を取った事に迷いがまったく生じなかったと言ったら嘘になる。
だが…過去を振り返っても仕方ない。
そう考えて…もう一人の自分に関しての事は、殆ど考えないようにしていた。
「…多分、今日が最後だ。約束の期日は随分と過ぎてしまったけれど…」
そして、彼は…タンスの上にあった銀縁眼鏡をゆっくりと手に取っていった。
これは…もう一人の自分の形見のようなものだ。
かつて、自分の中に…はっきりと息づいていた意識を解放するキッカケとなった…
不思議なアイテム。
それを手に取って…そっと呼び掛ける。
「…遅くなりましたけど、これを貴方に…お返しします。其処に…いらっしゃるんでしょう…?」
銀縁眼鏡を軽く握り締めながら、語りかける。
これを…自分に手渡した、謎めいた男に向かって―
『おやおや…私がいる事に気づかれておりましたか。やはり…貴方は…感覚が鋭敏な
方のようですね…』
久しぶりに聞く、歌うように話す男の声。
「えぇ…貴方は絶対に、今日…来ると思いましたから。オレが刺されてしまったから…随分と
本来の期日よりも延びてしまったけれど…この眼鏡は貸すだけだ、と最初に言っていました
からね…。だから、一度は回収する為に…オレの前に現れると、そんな気はしてたから…」
『なかなかの洞察力ですね。感服致します…。確かにこれは、貴方に差し上げたもの…。
もう一人の貴方様自身を解放する為に必要な、触媒のような代物です。
ですが…もう一人の貴方は深く眠ってしまわれた。その眼鏡を幾ら掛けようとも…
呼び掛けようとも決して目覚めない深い眠りに…。それなら、確かに…貴方にとって、すでに
この眼鏡は…必要ないものなのかも知れませんね…』
「えぇ…オレには必要ないです…」
きっぱりと、強い意志を持って言い返す。
そして…彼はこう続けた。
『それは…もう一人の<俺>が掛けるべき物ですから…』
迷いない口調で克哉がそう言うと…Mr.Rは面白そうな笑みを浮かべていった。
その言葉の真意を…ゆっくりと探っているようだった。
『ほう…? その言葉の真意をお聞かせ願っても構いませんでしょうか…?』
怪しい男がクスクスと笑っていく。
克哉の表情も…真摯なものへと変わっていった。
暫しの睨み合いの末に…ようやく克哉が告げた言葉は…。
「…貴方が、オレの前に現れてくれたら…一つ、お願いしたい事がありました…。貴方なら、
もう一人の俺に…身体を与えられるのでしょう…? 二度もそうして…あいつはオレの前に
現れた事がありましたからね…。 それが出来るなら…どうか、<俺>に…身体を与えて
やって下さい。このままじゃ…あいつの方が、余りに割を食い過ぎてしまっていますから…」
『…確かに、私には…貴方ともう一人の貴方様を同時に存在させる力があります。
ですがそれは…一夜で儚く消える夢のようなもの。一晩だけならば私の力だけで…十分に
出来ますが、ずっと…存在させるとなると、『代価』が必要になります。
…それは魔法と呼ばれる領域の行為となりますが…魔法や、魔術というのは…必ず、
危険と代償を支払う事によって…初めて成り立ちます。
さて…貴方は、私にどんな代償を支払って下さいますか…?』
「…オレの命の半分を。アイツとオレは…一つの身体を共有している。それで…オレばかりが
好きな人間と一緒になって、幸せになるのなんて…不公平すぎるから。
流石に…今のオレには大切な人間がいます。だから…この命を捨ててでも、あいつを存在
させたいとは…口が裂けても言えない。
けれど…寿命なら、自分の残された時間の半分くらいまでなら…あいつの為に差し出しても
構わないと…それくらいの覚悟はあります」
迷いがない口調で、きっぱりと克哉は言い放つ。
そんな彼に向かって、愉しげな笑みを浮かべながら…悪魔のように甘く、蕩けるような
滑らかな口調で男は告げる。
『それ程…大切な存在なら、逆に手放さない方が宜しいのでは…? 確かに、貴方の命の
半分を代価として…あの方に注げば…確かにこの世にずっと存在出来るでしょう。
ですが…それは、貴方の中から…あの方がいなくなる事を意味しています。貴方達二人は…
いわば天秤のようなもの。片方の受け皿にそれぞれの意思が存在している。その受け皿の
片方と…一生、別離する事になっても構わないと…貴方は言われるのですか…?』
「はい。…オレが太一の手を取ったのは、アイツに背中を押されたからですが…同時に、
このまま…オレの中に<俺>を閉じ込めたままでは…アイツは不幸にしかならないから。
…それに、最後の瞬間…アイツの記憶が流れて来て、あの…秋紀っていう子の事を…
<俺>も憎からず想っていた事を…知りました、から…。
アイツにも愛してくれる存在がいるのなら、オレは幸せになって欲しい…! オレばかりが…
幸せで、あいつが不幸にならなきゃいけないなんて…御免なんです。
太一の事は愛している。けれど…恋心を捨てたからと言っても…オレはアイツを大切なのは
変わらないんです! だから…どうかお願いします!」
もう一人の自分の事は、あまり深く考え過ぎないようにしていた。
マトモに考えたら、太一をどこかで恨んでしまいそうだったから。
けれど…同時に、考え続けていた。
どうやったら…皆が幸せになれるだろうか。その道を…。
そして、考え抜いた末に克哉が下した結論は…もう一人の自分に身体を作って貰って、
生きて貰うという事だった。
普通だったら荒唐無稽。
叶えられる筈のない願い。
だが…この不思議な眼鏡を与えてくれた、謎めいた男なら…出来るかも知れない奇跡に、
克哉は掛けてみる事にしたのだ。
自分がもう一人の自分に恋心を抱くキッカケとなった二つの事件は…恐らく、この男が深く
絡んでいる事はもう思い出していたから―
『…本当に、ご自分の生きられる寿命の半分を投げ打っても…後悔なさらないんですね?』
「はい…短くなってしまったのならば…それなら、その時間を精一杯大切に生きる事に
しますから。それにどれだけ長い寿命があったとしても…もし、事故に遭ったり災害に
巻き込まれたりすれば…一瞬で消えるものです。
オレは運良く…太一の父親に刺されていた時に命拾いしたけれど、本来ならあの時に…
死んでいてもおかしくなかったんです。
それなら、今こうして…生きていられる事、それ自体がラッキーなんです。<俺>が…
オレに命を与えてくれなかったら…この時間そのものが存在しなかった。
そう考えれば…奇跡みたいなものでしょう? だから良いんです」
そして、克哉は…はっきりと告げた。
「どうか…アイツに身体を与えて下さい」
しっかりと…淀み一つない口調で、克哉は告げていった。
それを聞いて…男は楽しげに笑う。
とても面白いものを見れた…とでも言うかのように。
その冷たさを孕んだ…綺麗な笑顔に、克哉は背筋が凍るような想いがした。
だが一歩も引く気配を見せないようにした。
ここで…自分が怯んだ様子を見せる訳にはいかない。そんな気がしたから…。
『判りました…あの方が、貴方の中でその魂の傷を癒されたその時…私はもう一度、
貴方の前に現れましょう。佐伯克哉さん…。
それが数年以内か、五年後か…十年後になるかは私にも判りかねますが…
その時まで貴方の気持ちが変わらないようでしたら…私は、貴方の願いを叶えて…
あの方に…肉体を与えて差し上げましょう…』
「…本当、ですか…?」
自分自身でも一か八かの頼みごとだっただけに…あっさりと男が承諾してくれた事に
却って拍子抜けしたくらいだった。
ほっとした顔を浮かべる克哉と対照的に、男はただ…楽しげに怪しく笑い続けていた。
それを見ているこちらの方が…妙に落ち着かない気分になってしまう。
『…しかし、それまで…良く考えて下さいね。本当に…あの方と永遠に袂を分かつ事に
なっても構わないのか。確かに…貴方が選ばれた方は、あの方を酷く嫌悪したり…複雑な
感情を抱いていらっしゃる。ですが…人の心とは変わるもの。
年月が過ぎ去れば、貴方の方と上手く行っていれば…その負の感情も変質して…三人で
上手く行くかも知れない未来も生まれ得るかも知れません。
…五十嵐様が、あの方の存在を受け入れて下さった場合でも…ご自分の寿命を犠牲にして…
あの方との決別を望まれるんですか…?』
それは、非常に意地が悪い問いかけでもあった。
克哉がこの決断を下した理由の一つは…太一と眼鏡とのすれ違いがあったからだ。
複雑な感情を抱いているからこそ…上手くいくのは難しいだろうと思った。
この決断を下した最大の理由はそこにある。だが…それが解消した場合はどうするのか…?
男はその問題点を、率直に克哉に投げかけていた。
「それは…! …そうですね、その問いかけは…その時になってみないと判りません。
確かに…太一が、あいつの存在も受け入れてくれた時には…無理に決別をする必要性は
ないと思います。ですが…それは、あいつが目覚めた時の状況次第で決める事です。
今は判断するべき時ではないと考えます…」
『…それが貴方の問いですか。判りました…。実際にそれを実行に移すかどうかは…
状況次第で…という形で構いません。私も…貴方達二人が、一番良い形になるように…
収まって頂きたいですからね。では…今宵は私もそろそろ失礼致しますよ…。
あぁ…そういえば、実行に移す事になった時には…一つ、貴方から譲り受けておきたい物が
ありましたね。…これを一枚、失敬しますよ』
そういって…男は貴重品やら何やらが入っていたカバンの方に近づいていくと…銀行の
カードや身分証明書が纏められている束の中から…一枚のカードを取り出していった。
『…これは貴方には、実質…無くても大丈夫な物でしょうから…構いませんでしょう?
外国で入用になった時はまた新しく取り直せば済むものでしょうからね…』
「えぇ、それがあいつと身体に分けた時に必要となるのなら…持って行っても構いません。
どうせ今のオレには…意味の無い代物ですからね…」
『…快く協力して下さってありがとうございます。おかげで私の方もその方が作業が楽に
なってやりやすくなりますからね…。それでは…そろそろ、ごきげんよう佐伯克哉さん。
貴方のこれから歩む道筋に幸があらん事を…願っていますよ…』
そう告げて…一枚のカードを手に持ちながら…男の姿はあっという間に夜の闇に紛れていく。
克哉はMr.Rを見送ると同時に…フっと気が抜けてその場に崩れ落ちていった。
膝が笑っている。
何度も男に問い返された時に…自分でもこれで良いのか、迷っていた部分があったから…
身体にそれが思いっきり現れたのである。
「…本当に、それで…構わないんですか…か…」
迷っていない、と言ったら嘘になる。
実際に…心の中に存在していた『楽園』を失い…もう一人の自分の気配をどこにも
感じられないだけで…こんな麻痺状態が起こってしまっているくらいなのだ。
それでも…それが寂しいとか、辛いと思っても…克哉は、彼に幸せになって欲しいと…
強く願ったのだ。
もう一人の自分は…太一と、自分が幸せになる事を祈って…己が身を奈落に落とした。
だから…今度は、自分が代価を払う番だと…素直に思ったのだ。
自分だけが幸せになるなんて…耐え切れない事だから。
二人共幸せにならなきゃ、嘘だ…と。そう感じたから克哉は決断したのだ。
それが…永遠に、一つには戻れなくなる事だと…理解した上で。
(…離れる、のは…怖いよ。けれど…アイツにだって…想ってくれる人がいるのなら…。
これが…最良、だと…思ったんだ。オレには…もう、太一がいるんだから…)
あの夕焼けの瞬間、自分は眼鏡に関しての恋心は捨てる事を決意した。
恋心とは…いわば、執着心だ。
相手の心を手に入れて、もっと近づきたいと願う純粋な欲望。希求する感情。
だが…克哉はその感情を捨てた。
代わりに…手放すことになっても、離れても…彼が自由に生きてくれる事を。
眼鏡を心から愛してくれる存在と寄り添える可能性がある道を…選んだのだ。
胸を引き絞られそうになっても…。
―どうか、幸せになって下さい。自由に生きて下さい
願うのはただ…これだけ。
今の状態のままでは…自分が生きている限り、もう一人の自分を閉じ込めて…
我慢をさせているようなものだから。
アイツが自分の中から…いなくなると思うとぽっかりと空虚な気持ちになりそうだけれど…
克哉は辛くても、彼を解き放つ道を選択した。
彼の感情は、あの瞬間に大量に流れ込んで知っていたから。
どれだけ自分や太一への複雑な想いで苦悩し、罪悪感を抱き続けていたのか…すでに
判っているから。
もう苦しまないで欲しいのだ。自分たちから離れて…彼を解き放ち。
そして…罪の意識で心を切り裂かれているような彼ではなく…自分が良く知っている
自信満々に、傲慢に微笑む彼に戻って欲しいと…そう願ったから。
「目覚めた時に…オレや、太一に囚われないで…欲しい、からな…」
だから決めた。
この結末を。
そして…克哉は月を仰ぐ。
日本を発つ前日…彼が最後に見た月夜はとても綺麗だった。
それに心を洗われるような想いを抱きながら…克哉は一滴の涙を頬に伝らせていく。
―愛しているよ…<俺>
恋心は捨てたとしても、自分の中には…その気持ちだけは今も強く残っている。
その気持ちだけは…決して、誰にも消せない。
…自分を犠牲にしてでも、こちらの幸せを願ってくれた奈落に落ちる事を選択した…
彼の姿を、自分は一生…忘れる事など出来ないのだから。
だから…この命の半分を、お前に。
オレは残された命で、その人生を全うするから。
強く強く…克哉は願う。
いつか彼が目覚めたその時…その傍らに、彼を本当に強く思って大事にしてくれる
存在が寄り添ってくれている事を―
『第四十五話 夕焼けと笑顔』 「五十嵐太一」
朝にホテルで目覚めて、克哉からのメールを見た彼は大きくショックを受けていた。
同時に動かない身体で無理して出勤した彼を本気で心配したし、どうして…という
想いもあった。幾ら社会人だからって、そんな時まで真面目でなくても良いのに…と。
だが…昼過ぎ頃に、本多から…克哉の状態を伝えるメールを貰った頃には…
太一の心中も少しは落ち着いていた。
やはり本日の克哉は、仕事が出来る状況ではないと判断されて…医務室で
休んでいると教えて貰った時は安堵した。
それから…色んな事を考えた。
どうして、結ばれてから…克哉がまた暫く目を覚まさなかったのか。
何故、昨日から続いていた麻痺が残っている状態で…克哉が、出て行ったのか…
その意味を。
(やっぱり…薬とか盛った俺に対して、不信感があったのかな…。あの症状も…
もしかしたら、俺が使った親父の秘薬の影響だったかも知れないし…。眼鏡を掛けた
克哉さんの方を…俺が嫌い続けた、から…?)
ホテルの中で、何度も煩悶した。
自分の方にも後ろ暗い事があると、余計な不安が生まれ続ける。
…だが、生来の太一は暗い事やウジウジした事が大嫌いな性分である。
夕方近くまで考え抜いた頃には、最早否定的な事を考え続けるのも面倒くさいという心境になり…
別の思考回路が生まれていった。
もうこうなったら正面突破以外の方法などない、と。
自分と克哉との間に壁が出来ているのなら、ぶち壊す。
溝が出来ているのなら、埋めていくしかない。
散々悩んだ末に出た答えの中で、その二つ以上に最良のものなど存在しないように…
思えた。
「…もう! グルグルと考え続けても仕方ないな…。まず、俺のこの気持ちを
もう一回…克哉さんに伝えるっきゃ、ない…!」
信じて貰えないのなら、信じて貰えるまで。
不安を抱かせてしまったのなら、不安なんて粉々に砕けるまで。
自分は克哉が欲しいと思った。今でも心から愛しているとはっきりと言い切れる。
…正直、眼鏡に対しての負の感情は…今も拭い切れない部分がある。
だが…それを遥かに上回るくらいに、克哉を想う気持ちがあるのなら…もう自分は
迷いたくない。
自分は、音楽と…克哉の存在だけは絶対に失くしたくないものなのだ!
それに気づいた太一は、克哉にメールしていた。
そろそろ就業時間の17時を迎える頃だ。今日の克哉は体調不良だから…絶対に
残業させられたり、残らされる事はない。
そう判断して…キクチ・マーケティングとこのホテルの中間の位置にある大きな公園を
指定していった。
『克哉さんへ 今日…絶対に貴方に話したいことがあるから…仕事終わったら
克哉さんの会社の付近にある大きな公園の中で待ってて貰える? 自販機とベンチが
ある付近でね。俺、待っているから…じゃあ、また後でね!』
そう文章を綴って、送信していく。
そして彼はホテルを後にして…公園の方へと向かっていった。
*
結局、定時まで医務室のベッドにお世話になっていた克哉は…タクシーを呼んで
指定された公園までどうにか辿り着く事が出来た。
昼間に大笑いをして、心が少し軽くなってからは…また、少し身体の状態は…
楽になっていた。
どうやら…自分の麻痺症状は、今まで…もう一人の自分を失ってしまった事による
精神的なものから来たらしかった。
…だから、起きた当初は指一本動かなかったものが…太一の気持ちや、片桐…本多、
そして八課のメンバーに心配されたり、思い遣られたりする事で少しずつ回復していった。
眼鏡の方も含めて、八課のメンバーは最近…自分の事を心配してくれていた事を
出勤したからこそ、実感出来た。
これ以上…足を引っ張りたくない、しっかりしなくては…と休む事を快く許してくれる
仲間に囲まれたからこそ、強く感じている事だった。
それが…ぎこちなくなった身体を再び動かしていく原動力になっていく。
一人になる時間も出来て、片桐に話を聞いてもらって…別の視点を与えて貰えた事で
心の整理もついて…随分と迷いも晴れていた。
…今朝、ホテルから逃げるように出勤した時に比べて…克哉は真っ直ぐに
太一と向き合える心境になれていた。
だから、足取りこそはゆっくりだが…重くはなく、確実に一歩、一歩足を踏みしめていきながら
指定された場所に向かっていった。
鮮やかな夕暮れが…辺り一面を赤く染め上げていく。
その中に…彼は立っていた。
赤い夕日を背後に讃えて、強い意志を秘めた眼差しをしながら…柔らかく微笑んで、
こちらに手を振ってくれていた。
「あっ…」
その時の彼の髪の色が、凄く鮮やかな真紅に見えて…凄く綺麗に見えた。
元々、太一は明るい髪の色をしている。
それが…まるで紅玉のようにキラキラと煌いていて…不覚にも胸が大きく高鳴っていた。
(何でだろ…太一が、凄く…格好良く、見える…)
それは、彼の心にも迷いがなくなったから。
そして…克哉の心にあった否定的な感情や想いを、意識の上に上らせて整理を
したからこそ…昨日、一日顔を突き合わせていた時よりも…素直に相手の表情や心の
動きを感じ取れるようになったからだ。
人は時に、好きだからこそ…相手の前で、相手に対して否定的な感情や…ネガティブな
気持ちを封じて、良い顔をしようと無理をしてしまう。
だが…好きな相手だからこそ、身近に感じる相手だからこそ…時に、否定的な感情を
抱いてしまうのは仕方ない事なのだ。
それを無理に押さえつけて…「臭いものに蓋」をするように…自分の気持ちから目を逸らして
しまうと…抑えるのに必死になって、相手の心を素直に信じられなくなる。
―昨日、克哉が目覚めたばかりの頃の二人が…まさにそれだった。
一人になって考えて…自分の中にある感情を見据えて、時に正直になる事も。
第三者に…自分の心情や弱みを伝えて、聞いてもらう事も…気持ちに余裕を作ったり、
相手を客観的に見る為には欠かせない過程なのだ―
「克哉さん!」
目いっぱい手を振りながら…太一が駆け寄ってくる。
そして…そのまま、迷いない動作で強く抱きしめられていった。
こんなまだ日がある時間帯に…誰が通りかかるのか判らない公園の敷地内で、こんな
振る舞いをされて…克哉は一瞬、ぎょっとなったが…太一は尚も腕に力を込めて…彼を
逃さないように閉じ込め続けていく。
一切の迷いのない抱擁に、克哉は驚いていく。
それから…すぐに唇を塞がれた。
誰に見られているのか判らないのに、という感情が湧く暇もないくらいに…自然な
口付けで、それから…ずっと見る事が出来なかった以前の太一のひまわりのような笑顔が…
目の前にあった。
「太、一…どう、して…?」
「…俺が克哉さんに、こうしたいと思ったから。貴方が大好きだから…」
一切の逡巡もなく、ストレートに太一は言ってのける。
余りの臆面のなさに…克哉の方が、びっくりしてしまったぐらいだ。
浮かんだ笑顔は、あの…自分が刺される以前までは良く見慣れていた明るい笑顔で。
それを久しぶりに…見る事が出来て、懐かしさと…愛しさが込み上げていく。
(あぁ…思い出せた気がする…)
自分は、この太陽のような…彼の笑顔にいつの間にか惹かれていたのだという事実を。
全身で、こちらを大好きと態度で伝えて来てくれて…そんな彼の傍らを、心地よいと
いつしか自分も感じるようになった。
その笑顔こそ…自分の想いの原点だと、やっと…思い出せた。
「大好きだよ、克哉さん…大好き…!」
男同士だとか、色んなしがらみも事件も今は関係ない。
もう一人の克哉に対しての嫉妬や…憤りも、今は捨てる。
ただ…自分の中に存在している、一番強い想いだけを…真っ向からぶつけて、
自分たちの間に出来た壁や溝を取り除きたかった。
―全身全霊を掛けて、貴方に…想いを伝えよう!
今の太一は、それしか考えなかった。
克哉を失いたくなかったから。
この瞬間…己の腕にいる愛しい人を絶対に離したくなどなかった。
人目も、何も関係ない。
…今はただ、この情熱と気持ちだけを…相手に、ぶつけたかった。
「太一…」
恥ずかしいから、止めて欲しい…という言葉は、喉の奥に消えていった。
今の太一の腕の中からジンワリと伝わる、暖かさと…強い気持ちに、そんな言葉さえも
遮られていく。
「俺、克哉さんと…音楽だけは、絶対に捨てられないし…手放したくない。
それだけをキチンと伝えたかった。だから…呼び出したんだ…」
瞳を真っ直ぐ覗き込みながら、簡潔に伝える。
余計な言葉などいらない。
直球過ぎる気持ちはそのまま…克哉の中に沁み込んでいく。
その瞬間…やっと、もう一人の自分の最後の言葉の意味を理解した。
(あぁ…オレは、こんなに…太一に、想われていたんだ…だから…)
アイツは、行けと…送り出したのだ。
土壇場で自分の代わりに落ちたのも…何もかも、太一のこの強い気持ちがあったから。
それを思い知った眼鏡は…だから、自分の方を生かす選択をしたのだ。
今日は一体、何度泣いているんだろうか…。
アイツの事を想って、そして太一の気持ちを強く感じて…涙腺がまるで完全に壊れて
しまったかのようだった。
ポロポロポロポロと…涙が零れて止まらない。
その涙を、太一は優しく拭ってくれている。
動作や、表情の一つ一つに…こちらへの感情が込められていて、切なくなって。
…だから、克哉は…覚悟を決めた。
(さようなら…<俺>…)
やっと、自己愛も混ざっていた…もう一人の自分への想いを捨てる覚悟を決めていく。
この真っ直ぐな気持ちに対して…両方への想いを抱くような中途半端な真似をしたくないと。
今でも…幸せになる事を願っている。
大切だと想う気持ちは残っている。
けれど…もう一人の自分に対しての「恋心」だけは…もう抱くまいと決めた。
これだけ強く強く…自分を求めて、愛してくれている人の対して…不実な事はしたくない。
そしてそれが…眼鏡の願いでも、あったのだから…。
いつか会える。
彼が目覚めた頃に。
その時に…自分は太一の手を取って、その傍らで笑っていようと決めた。
この…直球の想いと、大好きだった笑顔を久しぶりに見れた…この時に。
夕焼けが燃えるように赤く輝いている。
太一の髪が、まるで…炎のように真紅に燃えているその瞬間を…自分は恐らく、
一生忘れないだろうと思った。
「…ありがとう、太一…。こんなオレを…凄く、愛してくれて…」
「こんなオレ、じゃないよ…。俺にとって克哉さんはマジで…一番大切な人だから…。
だからそんな自分を卑下するような言い方はしないで…ね?」
「ん、判った。オレも…大好き、だよ…」
一昨日の夜、抱き合った時は…もう一人の自分に対しての想いを抱いていて、
どこか後ろめたさを覚えていたけれど…太一が、朗らかな笑顔を浮かべながら言って
くれた事で…ようやく、素直な心境で気持ちを伝える事が出来た。
想いと想いは響きあう。
素直な言葉は、素直な感情を引き出し。
後ろめたさや、嘘…そして負の感情を抑えての言葉は、同じ暗さを相手の心から
引き出していってしまう。
けれど…太一が迷いを捨てた事で、克哉もようやく…迷いを捨てて、原点の気持ちに
気づく事が出来た。
それは間違い続けた自分たちがどうにか土壇場で掴めた…真実の気持ち。
『好きだよ』
シンプルなその一言。
けれど、すれ違った状況ではなかなか口にする事が困難になる言葉。
それでも…伝える事が出来るならば…。
全ての状況をひっくり返す、魔法の言葉にもなりうる…メッセージ。
どちらが先に言ったのか、判らない。
その一言は、同じタイミングで重なって…つい、クスクスとおかしくて…お互いに
夕暮れの中、笑ってしまう。
見つめあい、抱き合い…そして。
赤々と燃える太陽を背に…二人のシルエットはもう一度、重なり合う。
触れる唇、温かい吐息。荒い鼓動に…伝わる温もり。
相手の全てを感じ取り、やっと二人は…幸福と充足感を味わっていく。
この手に…愛しい人をようやく…収める事が出来た喜びを―
『第四十四話 希望があるだけ…』 「片桐稔」
―お茶を飲んでから、出勤してきた本多の顔を見た辺りで…やはり本日は
満足に働けるコンディションじゃないと片桐からも判断されて、結局克哉は…午前中いっぱいは
医務室のお世話になる事となった。
100人規模のソコソコ大きな会社な為に、一応…仮眠室と半分兼任した形で医務室は
存在していた。
克哉はその部屋のベッドに横たわりながら…深い溜息を突いていた。
(医務室なんて…厄介になるの学生時代の頃以来だな…)
さっきまで一応医務室の奥に待機していた保険医は…昼休み間近だったので
昼食を買ってくる…とこちらに一言断って、外出していた。
今、そこそこ広い室内にいるのは…克哉一人だけだった。
一度は帰宅する事を薦められたが、何となく…アパートにも、太一が滞在しているで
あろうホテルにも戻る気になれずに…半ば甘える形で、ここに来たのだが…。
(何か色んな感情がグルグルして、定まっていないよな…)
朝方までずっと長い時間…眠り続けていたせいだろうか。
浅い眠りを繰り返しながら、すっきりしない心中を持て余していく。
浮かぶのは…もう一人の自分の事と、太一の事。
…あれだけ逢いたいと思っていた太一。自分の意識が目覚めた事を心から喜んで
くれていた彼の顔を…今は、少し見たくないと思ってしまうのは…。
(あいつの方の感情が…流れてしまったからだろうな…。あの時に…)
もう一人の自分から、マグマを飲み込まされるようなキスを施された時…剥き出しの
彼の感情も一緒になって流れ込んで来たのだ。
その胸に秘められていたもう一人の自分の…太一に対しての複雑な心中を…
知った為に、どうして良いのか…克哉は判らなくなってしまった。
太一の事は愛している。けれど…悲しい。
理由は…もう一人の自分を、太一が忌避している事実を知っているからだ。
確かに彼が…眼鏡の方を嫌う理由や事情は判っている。
無理矢理犯されて、冷たい態度ばかりを取られて…嫌うな、と言う方が無茶だと
いう事も理解している。それでも…。
「オレにとっては…どっちも大切だったから…。だから、いがみ合って欲しくなかった…。
そっか…ずっと、無意識の内にオレはそう感じていたんだ…」
太一の傍にいると、今は居たたまれないような気持ちになるのは…だからだ。
アイツは土壇場に、自分の背中を押してくれた。
お前の事を太一は望んでいるんだから…お前が生きろ、と。
そう言ったもう一人の自分の事を思い出すと…何度も、「貴方の方が戻って来て良かった」
と繰り返している太一に苛立ちのようなものさえ感じていた。
彼が嫌っているもう一人の自分が…自分に生きるように発破を掛けてくれた事など…
話していないのだから、太一が知る由もない。
でも…あぁ、そうだ。今朝…ホテルを黙って抜け出して来てしまったのは…こうやって
自分の心を整理したかったから、なのだ。
…やっと、一人になれて…克哉は自分の心を理解出来たのだった。
太一が常に昨日から傍にいてくれて…嬉しかったのと同時に、どこか煩わしいと
感じてしまっていたのは…こうやって、一人になって考える時間が欲しかったからだ。
どれだけ愛しい相手でも、時に自分の心を覗き見て…整理する為に一人になりたいと
望む時には、うっとおしく感じる時もある。
克哉はまず…心の世界で起こった出来事を自分の中で整理して、納得する時間が…
自分は欲しかっただという事を理解した。
それは…好きな相手だろうと、立ち入れられない領域であるのだから…。
「あぁ…やっと、自分の気持ちが見えた気がする…。オレは…太一が…<俺>を
嫌っていた事や…オレが戻って来た事ばかりを大げさに喜んで…あいつの事なんて
どうでも良いという態度を取られていた事に…ムカムカしていたんだな…」
それは…自分の家族や、兄弟が…好きな相手に良く思われなくて…板ばさみに
なってしまっている心境に良く似ていたのかも知れない。
どちらも好きで…大切で、けど…その当人同士はすれ違っていてしまっていて…
仲良くして欲しいのに、お互いに好感を持って上手くコミュニケーションを取って貰いたい
のに…それが果たせなくて切ない…という感じだった。
まあ、もう修復しようにも…眼鏡の方の意識は数年は戻って来れない。
だから余計に…克哉はすっきりしない気持ちを抱くしかなかったのだった。
それだけ理解すると、スっと気持ちが楽になったような気がした。
すると同時に…ドアをノックする音が何度か響いて…扉が開けられていく。
その向こうに立っていたのは…片桐だった。
「佐伯君…こんにちは。具合の方は如何ですか…?」
「あっ…はい、少しは…良くなりました…」
「あぁ…無理に身体を起こさなくても構いませんよ。今日の佐伯君は…体調が
芳しくないという事は判っていますから。どうかそのままの体制でいて下さい…」
「お気遣い、有難うございます…」
そういって貰えたのは正直、有難かった。
原因不明の麻痺状態は…まだ、軽く続いていたからだ。
身体を動かせないまでではないが…今はどこかかったるくて…身体を動かすのも
どこか億劫な状況が続いているので片桐の心遣いに内心、感謝していく。
「…お昼、一応…外でサンドイッチとおにぎりを佐伯君の分も買って来たんですが…
如何ですか?」
「あ、その…今はまだちょっと食欲が湧かないので…後で貰う形で…良いですか?」
「えぇ…当然、構いませんよ。これは佐伯君の分ですから…君の好きな時にでも
食べてやって下さい」
そうしていつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべながら…片桐はニコニコと
微笑んで、傍らに置いてあった椅子に腰掛けていた。
自分を心配して、ここに来てくれたのだろう。
片桐は上司として、覇気がないのが玉に傷だが…克哉は彼のこういう優しさに
以前から何度も救われた事があった。
だからだろうか…ふと、こんな事を…口にしてしまったのは…。
「あの…片桐さん。少し…尋ねても、良いですか…?」
「はい…良いですよ。僕に答えられる範囲の事だったら、喜んで答えさせて
貰いますよ…?」
優しい口調でそういって貰えて、つい…気が緩んでしまっていた。
これは甘えの感情が含まれている事は自覚していた。
けれど…今、問い尋ねたい気分だったのだ…。
「あの…例えば、自分にとって…大事な人間を失ってしまった時って…
一体どうすれば良いんでしょうか…。もう、次に逢えるのは…何年後か
十何年後になるのか…判らない時って、一体…どう、すれば…」
終わりの方は不覚にも言葉にならなかった。
…嗚咽が混じってしまったからだ。
その大事な人間は…もう一人の自分の事を指している。
眼鏡を嫌っている彼の前では…決して言えない問い。
けれど今…誰かに、答えを貰いたくて聞きたいと願っていた問いを口に
上らせて…ポロリ、と感情が零れてしまっていた。
「わわっ…大丈夫ですかっ! そんなに…辛い事が…あったんですか…?」
泣き始めてしまった自分を前に…片桐は今朝と同じように少し動揺の色を
見せていたけれど…すぐにこちらの頭をポンポンと叩いてくれていた。
「はい…メドは立っていないんです…。下手をすれば…もう逢えないのかも
知れないと思うと…どうすれば良いのか、判らなくて。みっともないんですけど…
そういう場合…片桐さんならどうするのか…聞かせて貰って良いですか…?」
すると…片桐は暫く口を噤んで考え始めていった。
そして…次に放たれた言葉は、克哉が予想もしていなかった視点だった。
「…待っていて、逢える可能性があるだけ…とても幸せだと思います。僕は…
逢いたいと望む存在には、もう二度と会える事はないですから…」
「っ!」
思っても見なかった視点を言われて、克哉はハッとなった。
「…佐伯君に僕の話ってあまりした事なかったですけど…僕は、まだ若かった
時分…君とそう年が変わらなかった頃に…結婚して、子供が一人いたんですよ。
僕にとって…あの子はとても大切な存在でした。けれど…事故で亡くなって
しまいましてね…。あの時は…どれ程悔やんだか、もう一度…生きているあの子と
逢えれば良いのに…と願ったか判りませんでした…」
そう語る片桐の口調はどこか淡々としていて。
けれど長い年月の果てに…自分の心を整理して、どうにか折り合いを付けてきた
ような…そんな雰囲気を持っていた。
当然、事故で子供を亡くしてしまったを後悔しなかった日はなかったのだろう。
静かな声で自分に言い聞かせるように語る片桐を見ていると…どこか切なげで。
けれど…同時に、その悲しみにばかり囚われていない強さのようなものも…
感じ取れた。
「…片桐さんに、そんな過去があったなんて…知りませんでした…オレ、は…」
「えぇ…あまり人にベラベラとしゃべる事ではないですからね…。けれど…佐伯君の
大切な人は…ウンと遠い未来になってしまうかも知れなくても、まだ…逢える可能性は
残されているのでしょう? それなら…僕は、亡くして二度と会えなくなってしまうよりは…
とても幸せだと思いますよ。そう考えた方が…良くありませんか…?」
それは実際に、家族を失くした経験がある者だからこそ…言葉に重みがあった。
「そうですね…望みを捨てなければ、まだ…アイツとは、逢える可能性が…残されて
いるんですよね…。そう考えれば、二度と逢えないよりも…確かに、幸せ…ですよね…」
今の片桐の言葉に、天啓を得たような想いがした。
そうだ…逢える可能性が残されているだけ、幸せなのだ。
二度と会えないとまだ決まっていない。
もう一人の自分は…まだ、永遠に失われた訳じゃない。
そう考えられるだけで…スッと心が晴れていくようだった。
『お~い、克哉! 大丈夫かっ!」
その次の瞬間、医務室のドアの外から本多の声が聞こえて来た。
どうやら…克哉を心配して、外回りの帰りに…大急ぎで帰って来てこちらの様子を
伺いに来てくれたらしい。
「本多…」
「こんにちは本多君。おかえりなさい…」
「ただいま戻りました、片桐さん! で…ほら、お前の分の昼食。体調悪いならやっぱり
身体に活を入れた方が良いと思ってな…これ買って来た!」
そうして…ビニール袋に入った何かをベッドの傍らに置かれる。
其処から漏れる独特の芳香に克哉は思いっきり顔を顰めていった。
「本多…これ、もしかして…カレー?」
「あぁ…しかも特大大盛りカツカレーだ! 身体に力が入るぜっ?」
「…あの、本多君。佐伯君は一応…病人なんですから、身体に優しいものを買って来て
あげた方が良かったんじゃないですか…?」
そう言われて、本多はハっとなったらしい。
どうも自分自身を基準にして買って来られたようだった。
「…あの、もしかして…その事をまったく考慮していなかったのか…?」
恐る恐る、こちらが尋ねていくと…本多は微妙に…気まずそうな表情を浮かべた。
どうやら図星だったらしい。
その様子を見て…つい克哉は吹き出してしまっていた。
本多らしい、ピントのズレまくった気遣いを見て…つい面白すぎて、克哉は笑いたい
気分になってしまったのだ。
「は、ははははっ…!」
その瞬間、克哉は思った。
自分は本当に…良い仲間に恵まれていたのだと言う事を。
さっきの片桐の言葉を聞いて。
本多のズレているが…こっちを気遣ってくれているのを実感して…胸に暖かさな
想いが満ちてくるのを感じていた。
(オレは…ここに戻って来れて、本当に良かった…)
それはもう一人の自分と何年も会えなくなる悲しさと背中合わせだったけれど…。
仲間の暖かい気持ちに触れて、やっと引け目なく…その喜びを克哉は噛み締める
事が出来たのだった―
―お茶を飲んでから、出勤してきた本多の顔を見た辺りで…やはり本日は
満足に働けるコンディションじゃないと片桐からも判断されて、結局克哉は…午前中いっぱいは
医務室のお世話になる事となった。
100人規模のソコソコ大きな会社な為に、一応…仮眠室と半分兼任した形で医務室は
存在していた。
克哉はその部屋のベッドに横たわりながら…深い溜息を突いていた。
(医務室なんて…厄介になるの学生時代の頃以来だな…)
さっきまで一応医務室の奥に待機していた保険医は…昼休み間近だったので
昼食を買ってくる…とこちらに一言断って、外出していた。
今、そこそこ広い室内にいるのは…克哉一人だけだった。
一度は帰宅する事を薦められたが、何となく…アパートにも、太一が滞在しているで
あろうホテルにも戻る気になれずに…半ば甘える形で、ここに来たのだが…。
(何か色んな感情がグルグルして、定まっていないよな…)
朝方までずっと長い時間…眠り続けていたせいだろうか。
浅い眠りを繰り返しながら、すっきりしない心中を持て余していく。
浮かぶのは…もう一人の自分の事と、太一の事。
…あれだけ逢いたいと思っていた太一。自分の意識が目覚めた事を心から喜んで
くれていた彼の顔を…今は、少し見たくないと思ってしまうのは…。
(あいつの方の感情が…流れてしまったからだろうな…。あの時に…)
もう一人の自分から、マグマを飲み込まされるようなキスを施された時…剥き出しの
彼の感情も一緒になって流れ込んで来たのだ。
その胸に秘められていたもう一人の自分の…太一に対しての複雑な心中を…
知った為に、どうして良いのか…克哉は判らなくなってしまった。
太一の事は愛している。けれど…悲しい。
理由は…もう一人の自分を、太一が忌避している事実を知っているからだ。
確かに彼が…眼鏡の方を嫌う理由や事情は判っている。
無理矢理犯されて、冷たい態度ばかりを取られて…嫌うな、と言う方が無茶だと
いう事も理解している。それでも…。
「オレにとっては…どっちも大切だったから…。だから、いがみ合って欲しくなかった…。
そっか…ずっと、無意識の内にオレはそう感じていたんだ…」
太一の傍にいると、今は居たたまれないような気持ちになるのは…だからだ。
アイツは土壇場に、自分の背中を押してくれた。
お前の事を太一は望んでいるんだから…お前が生きろ、と。
そう言ったもう一人の自分の事を思い出すと…何度も、「貴方の方が戻って来て良かった」
と繰り返している太一に苛立ちのようなものさえ感じていた。
彼が嫌っているもう一人の自分が…自分に生きるように発破を掛けてくれた事など…
話していないのだから、太一が知る由もない。
でも…あぁ、そうだ。今朝…ホテルを黙って抜け出して来てしまったのは…こうやって
自分の心を整理したかったから、なのだ。
…やっと、一人になれて…克哉は自分の心を理解出来たのだった。
太一が常に昨日から傍にいてくれて…嬉しかったのと同時に、どこか煩わしいと
感じてしまっていたのは…こうやって、一人になって考える時間が欲しかったからだ。
どれだけ愛しい相手でも、時に自分の心を覗き見て…整理する為に一人になりたいと
望む時には、うっとおしく感じる時もある。
克哉はまず…心の世界で起こった出来事を自分の中で整理して、納得する時間が…
自分は欲しかっただという事を理解した。
それは…好きな相手だろうと、立ち入れられない領域であるのだから…。
「あぁ…やっと、自分の気持ちが見えた気がする…。オレは…太一が…<俺>を
嫌っていた事や…オレが戻って来た事ばかりを大げさに喜んで…あいつの事なんて
どうでも良いという態度を取られていた事に…ムカムカしていたんだな…」
それは…自分の家族や、兄弟が…好きな相手に良く思われなくて…板ばさみに
なってしまっている心境に良く似ていたのかも知れない。
どちらも好きで…大切で、けど…その当人同士はすれ違っていてしまっていて…
仲良くして欲しいのに、お互いに好感を持って上手くコミュニケーションを取って貰いたい
のに…それが果たせなくて切ない…という感じだった。
まあ、もう修復しようにも…眼鏡の方の意識は数年は戻って来れない。
だから余計に…克哉はすっきりしない気持ちを抱くしかなかったのだった。
それだけ理解すると、スっと気持ちが楽になったような気がした。
すると同時に…ドアをノックする音が何度か響いて…扉が開けられていく。
その向こうに立っていたのは…片桐だった。
「佐伯君…こんにちは。具合の方は如何ですか…?」
「あっ…はい、少しは…良くなりました…」
「あぁ…無理に身体を起こさなくても構いませんよ。今日の佐伯君は…体調が
芳しくないという事は判っていますから。どうかそのままの体制でいて下さい…」
「お気遣い、有難うございます…」
そういって貰えたのは正直、有難かった。
原因不明の麻痺状態は…まだ、軽く続いていたからだ。
身体を動かせないまでではないが…今はどこかかったるくて…身体を動かすのも
どこか億劫な状況が続いているので片桐の心遣いに内心、感謝していく。
「…お昼、一応…外でサンドイッチとおにぎりを佐伯君の分も買って来たんですが…
如何ですか?」
「あ、その…今はまだちょっと食欲が湧かないので…後で貰う形で…良いですか?」
「えぇ…当然、構いませんよ。これは佐伯君の分ですから…君の好きな時にでも
食べてやって下さい」
そうしていつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべながら…片桐はニコニコと
微笑んで、傍らに置いてあった椅子に腰掛けていた。
自分を心配して、ここに来てくれたのだろう。
片桐は上司として、覇気がないのが玉に傷だが…克哉は彼のこういう優しさに
以前から何度も救われた事があった。
だからだろうか…ふと、こんな事を…口にしてしまったのは…。
「あの…片桐さん。少し…尋ねても、良いですか…?」
「はい…良いですよ。僕に答えられる範囲の事だったら、喜んで答えさせて
貰いますよ…?」
優しい口調でそういって貰えて、つい…気が緩んでしまっていた。
これは甘えの感情が含まれている事は自覚していた。
けれど…今、問い尋ねたい気分だったのだ…。
「あの…例えば、自分にとって…大事な人間を失ってしまった時って…
一体どうすれば良いんでしょうか…。もう、次に逢えるのは…何年後か
十何年後になるのか…判らない時って、一体…どう、すれば…」
終わりの方は不覚にも言葉にならなかった。
…嗚咽が混じってしまったからだ。
その大事な人間は…もう一人の自分の事を指している。
眼鏡を嫌っている彼の前では…決して言えない問い。
けれど今…誰かに、答えを貰いたくて聞きたいと願っていた問いを口に
上らせて…ポロリ、と感情が零れてしまっていた。
「わわっ…大丈夫ですかっ! そんなに…辛い事が…あったんですか…?」
泣き始めてしまった自分を前に…片桐は今朝と同じように少し動揺の色を
見せていたけれど…すぐにこちらの頭をポンポンと叩いてくれていた。
「はい…メドは立っていないんです…。下手をすれば…もう逢えないのかも
知れないと思うと…どうすれば良いのか、判らなくて。みっともないんですけど…
そういう場合…片桐さんならどうするのか…聞かせて貰って良いですか…?」
すると…片桐は暫く口を噤んで考え始めていった。
そして…次に放たれた言葉は、克哉が予想もしていなかった視点だった。
「…待っていて、逢える可能性があるだけ…とても幸せだと思います。僕は…
逢いたいと望む存在には、もう二度と会える事はないですから…」
「っ!」
思っても見なかった視点を言われて、克哉はハッとなった。
「…佐伯君に僕の話ってあまりした事なかったですけど…僕は、まだ若かった
時分…君とそう年が変わらなかった頃に…結婚して、子供が一人いたんですよ。
僕にとって…あの子はとても大切な存在でした。けれど…事故で亡くなって
しまいましてね…。あの時は…どれ程悔やんだか、もう一度…生きているあの子と
逢えれば良いのに…と願ったか判りませんでした…」
そう語る片桐の口調はどこか淡々としていて。
けれど長い年月の果てに…自分の心を整理して、どうにか折り合いを付けてきた
ような…そんな雰囲気を持っていた。
当然、事故で子供を亡くしてしまったを後悔しなかった日はなかったのだろう。
静かな声で自分に言い聞かせるように語る片桐を見ていると…どこか切なげで。
けれど…同時に、その悲しみにばかり囚われていない強さのようなものも…
感じ取れた。
「…片桐さんに、そんな過去があったなんて…知りませんでした…オレ、は…」
「えぇ…あまり人にベラベラとしゃべる事ではないですからね…。けれど…佐伯君の
大切な人は…ウンと遠い未来になってしまうかも知れなくても、まだ…逢える可能性は
残されているのでしょう? それなら…僕は、亡くして二度と会えなくなってしまうよりは…
とても幸せだと思いますよ。そう考えた方が…良くありませんか…?」
それは実際に、家族を失くした経験がある者だからこそ…言葉に重みがあった。
「そうですね…望みを捨てなければ、まだ…アイツとは、逢える可能性が…残されて
いるんですよね…。そう考えれば、二度と逢えないよりも…確かに、幸せ…ですよね…」
今の片桐の言葉に、天啓を得たような想いがした。
そうだ…逢える可能性が残されているだけ、幸せなのだ。
二度と会えないとまだ決まっていない。
もう一人の自分は…まだ、永遠に失われた訳じゃない。
そう考えられるだけで…スッと心が晴れていくようだった。
『お~い、克哉! 大丈夫かっ!」
その次の瞬間、医務室のドアの外から本多の声が聞こえて来た。
どうやら…克哉を心配して、外回りの帰りに…大急ぎで帰って来てこちらの様子を
伺いに来てくれたらしい。
「本多…」
「こんにちは本多君。おかえりなさい…」
「ただいま戻りました、片桐さん! で…ほら、お前の分の昼食。体調悪いならやっぱり
身体に活を入れた方が良いと思ってな…これ買って来た!」
そうして…ビニール袋に入った何かをベッドの傍らに置かれる。
其処から漏れる独特の芳香に克哉は思いっきり顔を顰めていった。
「本多…これ、もしかして…カレー?」
「あぁ…しかも特大大盛りカツカレーだ! 身体に力が入るぜっ?」
「…あの、本多君。佐伯君は一応…病人なんですから、身体に優しいものを買って来て
あげた方が良かったんじゃないですか…?」
そう言われて、本多はハっとなったらしい。
どうも自分自身を基準にして買って来られたようだった。
「…あの、もしかして…その事をまったく考慮していなかったのか…?」
恐る恐る、こちらが尋ねていくと…本多は微妙に…気まずそうな表情を浮かべた。
どうやら図星だったらしい。
その様子を見て…つい克哉は吹き出してしまっていた。
本多らしい、ピントのズレまくった気遣いを見て…つい面白すぎて、克哉は笑いたい
気分になってしまったのだ。
「は、ははははっ…!」
その瞬間、克哉は思った。
自分は本当に…良い仲間に恵まれていたのだと言う事を。
さっきの片桐の言葉を聞いて。
本多のズレているが…こっちを気遣ってくれているのを実感して…胸に暖かさな
想いが満ちてくるのを感じていた。
(オレは…ここに戻って来れて、本当に良かった…)
それはもう一人の自分と何年も会えなくなる悲しさと背中合わせだったけれど…。
仲間の暖かい気持ちに触れて、やっと引け目なく…その喜びを克哉は噛み締める
事が出来たのだった―
『第四十三話 一杯のお茶』 「佐伯克哉」
克哉が心の世界から戻って来て、意識を覚醒してから16時間程が
経過しようとしていた。
昨日目覚めた時から身体が殆ど動かなくなってから、ずっと意識はウツラウツラと
眠りと覚醒を繰り返し…せっかく現実に帰って来たにも関わらず、相変わらず…
夢の世界を彷徨っているような状態なのは皮肉だった。
(あぁ…もう、朝なんだな…)
窓の向こうに広がる空が、朝焼けで赤く染まっているのを見て…そんな事を考えて
克哉はぎこちなく身体をベッドから起こしていく。
ベッドの傍らには、太一が…腕を組んだ状態で顔を伏せて眠りこけていた。
…こちらが心配で付きっ切りでこうして傍にいてくれたらしい。
それを見て胸がジィンとしたが…起こしたくないので、出来るだけ大きな音を
立てないように配慮して、洗面所まで向かっていった。
「…昨日に比べれば、自力で…動かせるようになっただけ…マシ、だな…」
昨日の時点では殆ど満足に動かせなくなって…結局、入浴も用を足すことも
太一の介助なしには満足に出来なくて。
それでいやらしい事まで仕掛けられた訳ではないが…頭から湯気が出そうな
くらいに恥ずかしくて、つい…思い出して顔を赤らめてしまっていた。
(何を思い出しているんだ…オレは…)
それでも全身に力が入らないし、身体の半分はまるで麻痺をしているような
現状は何一つ変わらない。
夢の終わりでは全力疾走を繰り返していたのが嘘のようだ。
身体は鉛のように重く、自分の身体でなくなってしまったような感覚さえする。
色んなものに縋り付き、凭れ掛かりながら…どうにか洗面所まで向かい、用を
足して手と顔を洗って…喉の奥に冷たい水を流し込んでいく。
たったこれだけの動作が、大変に思うくらい…自分の身体の自由が効かなく
なっている事に、愕然となりそうだった。
(…まあ、あれだけショックを受けるような事が立て続けに起これば…無理もない
かも知れないけれど…)
自分の胸の中に、楽園や奈落…そしてもう一人の自分が占めていた部分が
ぽっかりと空洞が出来ているような、逆に均されて画一化されてしまったような
奇妙な感覚を覚えていく。
恐らく、精神世界の急激な変化に…身体の方がまだついていけていないのだ。
少しずつでも肉体は回復しているし…起きた時に比べれば良くなっている。
だが…お世辞にも、元通りとは言い難い状態だ。
深い溜息を突くと同時に…部屋中に自分の携帯電話のアラーム音が響き
渡っていった。
「うわっ…早く、止めないと…太一が、目を覚ましてしまう…!」
部屋の入り口の辺りに纏めてあった自分や太一の荷物の中から…携帯電話を
探し出して慌てて止めていく。
時計の時刻は朝の六時半。
そして…アラームが鳴るのは平日の朝だけだ。
土日は休日出勤が入らない限りはこの時間に鳴らないようにしてあるので…
それでやっと、会社に行かなくてはいけない…という現実を認識していった。
「そうだ…今日は…会社、行かないと…行けない、んだっけ…」
こんな体調で満足に働けるかどうか判らない。
一瞬…休んでしまおうか、という思いも浮かんだが…結局、彼は行く事にした。
『生きろ…!』
そう、もう一人の自分に背中を押されて…自分は戻って来た。
だからこの麻痺も、自分が負うべき負債のようなものなのだ。
いつになったら回復するのかメドはまったく立たないけれど…それでも、働くことを
放棄したり…簡単に休んだりそういう事はしていけない気がした。
「御免…太一、オレ…会社に行って来るね…」
眠っている愛しい相手に向かって、小さく呟いていくと…太一が予め用意してくれて
いたスーツとYシャツの換えを身に纏い…ネクタイを改めて締め直していく。
赤いネクタイだけは…金曜日の夜から変わっていないがその辺を指摘されない事を
願うばかりだった。
(まあ…土日を挟んであるから大丈夫だとは思うけれど…)
そして…携帯と財布をスーツのズボンに放り込んで、彼は部屋を後にしていく。
その足取りは相変わらずぎこちないが…だが、彼は足を止めなかった。
ホテルの外に出ると…克哉は、ホテル内のタクシー乗り場へと真っ直ぐと向かい…
そのままキクチ・マーケーティング社内へと向かい始めていった。
流れていく窓の外の景色を目で追っている内に、15分程で会社に付いていく。
朝七時。会社に来るには若干早い時間帯だ。
だが…彼は、少し…一人になりたい心境だった。
身体の自由があまり効かないせいか…ロビーを通り過ぎてエレベーターに乗り込み
八課の部屋に行くだけでも普段の三倍以上の時間が掛かってしまう。
自分のディスクに辿り着く頃には…7時15分を回ろうとしていた。
(何か…いつも、身体を使うことなんて当たり前のように感じていたけど…
こういう時に、自由が効くって素晴らしい事だったんだなって実感する…)
まるで高熱を出して、関節の類がギシギシと言っている時のように…自分の
四肢は今、ぎこちなくなってしまっている。
深く息を吐いていきながら…携帯電話からメールを開き、震える指先を
どうにか抑えながら…太一に短い文章を打っていく。
『今日は会社があるので…一応、出勤します。今…自分の会社にいるから
心配しないで。どうかその間…太一も身体を休めて、ゆっくりしていて下さい。
オレは…大丈夫だからね…』
そう、自分がいたら…太一は絶対にこちらを世話を焼くことを優先して…
身体を休められないだろうから。
だから克哉は決断して…こうして会社に出勤してきた訳だが…この有様で本当に
満足に働くことが出来るのだろうか。
その無意識下の不安がまた…彼の身体の自由を緩やかに奪っているのだが…
そう簡単に負の感情が消えてくれる訳ではなかった。
暫くすると…就業時間まで少し間があるので…克哉はそのまま、ディスクに
突っ伏して少し休んでおく事にした。
身体を使ったおかげで…疲れていたのか、すぐに意識は浅い眠りへと落ちていき…
そして静かな口調で声掛けられていた。
「佐伯君…おはようございます…。起きていますか…?」
時計の針が八時を回った頃…八課の中で一番出勤してくるのが早い片桐が
穏やかな声で克哉に語りかけていく。
「…あっ、片桐…さん…おはようございます…」
どこか寝ぼけながら応対すると…スっとその身体が離れていき…すぐに
お盆の上に二つの湯のみが乗せられて来た。
「ふふ…まだ、佐伯君とても眠そうですね…。良かったら眠気覚ましに…熱いお茶の
一杯でも如何ですか?」
それは…八課ではいつものワンシーンのようなものだ。
この課の中では片桐は一番偉い責任者であるにも関わらず…彼はこうして
毎朝、みんなに暖かいお茶を淹れて振舞ってくれる。
昨日まで非現実過ぎる状況下に置かれ続けていたせいか…いつもは当たり前の
ように感じて流している日常の光景が酷く暖かく感じられて。
気づけば…どこか強張っていた顔が少し緩んで、こちらも穏やかに微笑みながら
頷いていた。
「えぇ…是非、頂かせて貰います。片桐さん…ありがとうございます…」
「いいえ、大した事ではありませんよ…では、どうぞ…」
そうして、緑茶をそっと目の前に差し出されていく。
どこかぎこちない指先を動かして…火傷しないように気をつけてお茶を喉に流し
込んでいく。
…その時、自分の身体がどれだけ強張って…冷え切っていたのかを思い知った気がした。
たった一杯のお茶。
いつもは当たり前のように飲んでいるもの。
それがどれだけ…片桐の暖かい気持ちが込められたものなのか…いつもよりも深く
感じられて。
思わず…たったそれだけの事で泣きそうになっていく。
その時になって…やっと、実感出来たのだ…。
(あぁ…オレは、帰って来れたんだ…この、日常の中に…現実、に…)
やっと自分の日常だった光景に触れられて、麻痺していた心が…安堵を覚えている
事を実感していく。
そうして…やっと強張っていた心が解れて、自分の身体が自由になっていくような
気持ちになった。
「さ、佐伯君! どうしたんですか…! 熱かったんですかっ!」
泣いている自分を見て、片桐は慌てふためいていく。
そんな彼の反応すら、今は懐かしくて…微笑ましかった。
だから…克哉は、柔らかく笑みながら答えていく。
「いえ…色々あったので、この一杯を飲んで…凄くほっとしたんです。そうしたら…
気づいたら、泣いてしまっていただけですから…」
「そう、なんですか…。まあ…そういう事もありますよね。…じゃあ、もう一杯…
如何ですか? 佐伯君…」
片桐もまた、優しく笑みながら…急須を持ってきてくれてそう問いかけてくれていた。
その声に向かって、克哉は小さく頷き。
「えぇ…是非、お願いします…」
そうして…日常に戻ってこれた喜びを深くかみ締めながら…おかわりの
お茶をもう一杯、喉に流し込んでいったのだった―
克哉が心の世界から戻って来て、意識を覚醒してから16時間程が
経過しようとしていた。
昨日目覚めた時から身体が殆ど動かなくなってから、ずっと意識はウツラウツラと
眠りと覚醒を繰り返し…せっかく現実に帰って来たにも関わらず、相変わらず…
夢の世界を彷徨っているような状態なのは皮肉だった。
(あぁ…もう、朝なんだな…)
窓の向こうに広がる空が、朝焼けで赤く染まっているのを見て…そんな事を考えて
克哉はぎこちなく身体をベッドから起こしていく。
ベッドの傍らには、太一が…腕を組んだ状態で顔を伏せて眠りこけていた。
…こちらが心配で付きっ切りでこうして傍にいてくれたらしい。
それを見て胸がジィンとしたが…起こしたくないので、出来るだけ大きな音を
立てないように配慮して、洗面所まで向かっていった。
「…昨日に比べれば、自力で…動かせるようになっただけ…マシ、だな…」
昨日の時点では殆ど満足に動かせなくなって…結局、入浴も用を足すことも
太一の介助なしには満足に出来なくて。
それでいやらしい事まで仕掛けられた訳ではないが…頭から湯気が出そうな
くらいに恥ずかしくて、つい…思い出して顔を赤らめてしまっていた。
(何を思い出しているんだ…オレは…)
それでも全身に力が入らないし、身体の半分はまるで麻痺をしているような
現状は何一つ変わらない。
夢の終わりでは全力疾走を繰り返していたのが嘘のようだ。
身体は鉛のように重く、自分の身体でなくなってしまったような感覚さえする。
色んなものに縋り付き、凭れ掛かりながら…どうにか洗面所まで向かい、用を
足して手と顔を洗って…喉の奥に冷たい水を流し込んでいく。
たったこれだけの動作が、大変に思うくらい…自分の身体の自由が効かなく
なっている事に、愕然となりそうだった。
(…まあ、あれだけショックを受けるような事が立て続けに起これば…無理もない
かも知れないけれど…)
自分の胸の中に、楽園や奈落…そしてもう一人の自分が占めていた部分が
ぽっかりと空洞が出来ているような、逆に均されて画一化されてしまったような
奇妙な感覚を覚えていく。
恐らく、精神世界の急激な変化に…身体の方がまだついていけていないのだ。
少しずつでも肉体は回復しているし…起きた時に比べれば良くなっている。
だが…お世辞にも、元通りとは言い難い状態だ。
深い溜息を突くと同時に…部屋中に自分の携帯電話のアラーム音が響き
渡っていった。
「うわっ…早く、止めないと…太一が、目を覚ましてしまう…!」
部屋の入り口の辺りに纏めてあった自分や太一の荷物の中から…携帯電話を
探し出して慌てて止めていく。
時計の時刻は朝の六時半。
そして…アラームが鳴るのは平日の朝だけだ。
土日は休日出勤が入らない限りはこの時間に鳴らないようにしてあるので…
それでやっと、会社に行かなくてはいけない…という現実を認識していった。
「そうだ…今日は…会社、行かないと…行けない、んだっけ…」
こんな体調で満足に働けるかどうか判らない。
一瞬…休んでしまおうか、という思いも浮かんだが…結局、彼は行く事にした。
『生きろ…!』
そう、もう一人の自分に背中を押されて…自分は戻って来た。
だからこの麻痺も、自分が負うべき負債のようなものなのだ。
いつになったら回復するのかメドはまったく立たないけれど…それでも、働くことを
放棄したり…簡単に休んだりそういう事はしていけない気がした。
「御免…太一、オレ…会社に行って来るね…」
眠っている愛しい相手に向かって、小さく呟いていくと…太一が予め用意してくれて
いたスーツとYシャツの換えを身に纏い…ネクタイを改めて締め直していく。
赤いネクタイだけは…金曜日の夜から変わっていないがその辺を指摘されない事を
願うばかりだった。
(まあ…土日を挟んであるから大丈夫だとは思うけれど…)
そして…携帯と財布をスーツのズボンに放り込んで、彼は部屋を後にしていく。
その足取りは相変わらずぎこちないが…だが、彼は足を止めなかった。
ホテルの外に出ると…克哉は、ホテル内のタクシー乗り場へと真っ直ぐと向かい…
そのままキクチ・マーケーティング社内へと向かい始めていった。
流れていく窓の外の景色を目で追っている内に、15分程で会社に付いていく。
朝七時。会社に来るには若干早い時間帯だ。
だが…彼は、少し…一人になりたい心境だった。
身体の自由があまり効かないせいか…ロビーを通り過ぎてエレベーターに乗り込み
八課の部屋に行くだけでも普段の三倍以上の時間が掛かってしまう。
自分のディスクに辿り着く頃には…7時15分を回ろうとしていた。
(何か…いつも、身体を使うことなんて当たり前のように感じていたけど…
こういう時に、自由が効くって素晴らしい事だったんだなって実感する…)
まるで高熱を出して、関節の類がギシギシと言っている時のように…自分の
四肢は今、ぎこちなくなってしまっている。
深く息を吐いていきながら…携帯電話からメールを開き、震える指先を
どうにか抑えながら…太一に短い文章を打っていく。
『今日は会社があるので…一応、出勤します。今…自分の会社にいるから
心配しないで。どうかその間…太一も身体を休めて、ゆっくりしていて下さい。
オレは…大丈夫だからね…』
そう、自分がいたら…太一は絶対にこちらを世話を焼くことを優先して…
身体を休められないだろうから。
だから克哉は決断して…こうして会社に出勤してきた訳だが…この有様で本当に
満足に働くことが出来るのだろうか。
その無意識下の不安がまた…彼の身体の自由を緩やかに奪っているのだが…
そう簡単に負の感情が消えてくれる訳ではなかった。
暫くすると…就業時間まで少し間があるので…克哉はそのまま、ディスクに
突っ伏して少し休んでおく事にした。
身体を使ったおかげで…疲れていたのか、すぐに意識は浅い眠りへと落ちていき…
そして静かな口調で声掛けられていた。
「佐伯君…おはようございます…。起きていますか…?」
時計の針が八時を回った頃…八課の中で一番出勤してくるのが早い片桐が
穏やかな声で克哉に語りかけていく。
「…あっ、片桐…さん…おはようございます…」
どこか寝ぼけながら応対すると…スっとその身体が離れていき…すぐに
お盆の上に二つの湯のみが乗せられて来た。
「ふふ…まだ、佐伯君とても眠そうですね…。良かったら眠気覚ましに…熱いお茶の
一杯でも如何ですか?」
それは…八課ではいつものワンシーンのようなものだ。
この課の中では片桐は一番偉い責任者であるにも関わらず…彼はこうして
毎朝、みんなに暖かいお茶を淹れて振舞ってくれる。
昨日まで非現実過ぎる状況下に置かれ続けていたせいか…いつもは当たり前の
ように感じて流している日常の光景が酷く暖かく感じられて。
気づけば…どこか強張っていた顔が少し緩んで、こちらも穏やかに微笑みながら
頷いていた。
「えぇ…是非、頂かせて貰います。片桐さん…ありがとうございます…」
「いいえ、大した事ではありませんよ…では、どうぞ…」
そうして、緑茶をそっと目の前に差し出されていく。
どこかぎこちない指先を動かして…火傷しないように気をつけてお茶を喉に流し
込んでいく。
…その時、自分の身体がどれだけ強張って…冷え切っていたのかを思い知った気がした。
たった一杯のお茶。
いつもは当たり前のように飲んでいるもの。
それがどれだけ…片桐の暖かい気持ちが込められたものなのか…いつもよりも深く
感じられて。
思わず…たったそれだけの事で泣きそうになっていく。
その時になって…やっと、実感出来たのだ…。
(あぁ…オレは、帰って来れたんだ…この、日常の中に…現実、に…)
やっと自分の日常だった光景に触れられて、麻痺していた心が…安堵を覚えている
事を実感していく。
そうして…やっと強張っていた心が解れて、自分の身体が自由になっていくような
気持ちになった。
「さ、佐伯君! どうしたんですか…! 熱かったんですかっ!」
泣いている自分を見て、片桐は慌てふためいていく。
そんな彼の反応すら、今は懐かしくて…微笑ましかった。
だから…克哉は、柔らかく笑みながら答えていく。
「いえ…色々あったので、この一杯を飲んで…凄くほっとしたんです。そうしたら…
気づいたら、泣いてしまっていただけですから…」
「そう、なんですか…。まあ…そういう事もありますよね。…じゃあ、もう一杯…
如何ですか? 佐伯君…」
片桐もまた、優しく笑みながら…急須を持ってきてくれてそう問いかけてくれていた。
その声に向かって、克哉は小さく頷き。
「えぇ…是非、お願いします…」
そうして…日常に戻ってこれた喜びを深くかみ締めながら…おかわりの
お茶をもう一杯、喉に流し込んでいったのだった―
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「第四十二話 楽園の崩壊」 「眼鏡克哉→佐伯克哉→五十嵐太一 三者視点」
彼は自分の身体がゆっくりと、闇の中に落ちていく感覚を味わっていた。
奇妙な浮遊感すら感じながら…彼は深い、奈落の底へと堕ちていく。
不思議と…自分の心の中に、後悔は何もなかった。
むしろ…最後の最後で、過ちを犯さずに済んだという…ある種の清々しささえも
あった。
叫び声が聞こえる。
もう一人の自分の声。
それを聞きながら苦笑し…眼鏡はゆっくりと瞼を閉じていった。
(…これで良かったんだ…だから、もう泣くな…)
そう一言、直接言ってやれたら…という気持ちはあるが、もう自分の気持ちも声も
相手に伝える術はない。
どれくらいの時間、そうやって自分は穴の底へと落下していたのだろうか。
次第に…自分と言う存在の意識の境界線が曖昧になっていった。
―ついに、眠りに落ちる瞬間が…訪れようとしていた。
(まったく…悔いがないと言ったら嘘になるがな…)
だが、自分はこのまま…この闇の中に自分を完全に溶かしてやるつもりなどない。
必ず帰ってくると、アイツとも約束した。
自分はあくまで、自分の犯した罪の清算をする為に…そしてこの傷ついた心を
一時休める為だけに…堕ちる決断を下しただけなのだから。
そう自分の罪を自らの手でこうやって正したのなら…何年後、何十年後になるか
判らないが…次に目覚めた時に眼鏡は罪悪感でもう、心を痛める事はないだろう。
過ちは犯してしまう事、それ自体が罪ではない。
やってしまった事から目を逸らしたり…自らの手で正そうとしなかったり…次に
その経験を生かそうとしない、そういう姿勢こそが真の罪なのだ。
逃げ続けていた時、彼の心は切り裂けそうになっていた。
だが…土壇場で彼は、ようやく自らの罪を認めて…それを贖った。
この闇は…心の死ではなく、安息を彼に確実に齎す事だろう。
―彼は、癒す為に眠りに落ちるのだから…。
走馬灯のように、今まで自分が関わってきた人間の顔が…瞬く間に沢山浮かび上がり
通り過ぎていく。
そしてある人物の顔を浮かべた時…闇の中に、鮮烈な光が放たれる。
「―っ!」
それはまるで、宇宙空間に北極星や…太陽が燃え盛っているかのような鮮やかな焔。
もしくは、彷徨える旅人に道標を示してくれる一番星のように光り輝いていた。
…眼鏡にはその光が、まるで…その人物が自分に戻って来いと訴えかけているように
すら感じられていた。
そう、それは彼が感じているように…今、思い浮かべた人物が心の底から願っている
祈りの気持ちの象徴。
眼鏡と二度と会えないなんて御免だっ! と願っている人物達の気持ちの結晶が
闇の中を強烈に照らし出していく。
(あぁ…必ず、戻ってくる…だから、お前も…)
その日まで、祈っていてくれるのだろうか…?
もし自分が目覚めるその日が来るまで…この光が輝いていてくれているのならば…
自分は必ず、この穴から這い上がり…もう一度、戻って来れる事だろう。
そして彼が最後に浮かべたのは…太一と、克哉の事だった。
―その時、お前達は俺を果たして笑顔で出迎えてくれるだろうか…?
そんな未来が訪れてくれれば良いと、都合の良い事を考えながら…もう身体の
感覚が遠くなっていくのを感じられた。
―凄く、単純な事だったんだな。…お互いいがみ合うんじゃなくて、好意を持って…
笑顔で接することが出来てさえいれば…俺達は、ここまで抉れる事はなかった。
そんな簡単なことに、やっと気づいたんだな…俺は…。
どこかでもう一人の自分を取られてしまう嫉妬めいた気持ちがあると同時に…
酷く羨ましいと望む羨望の感情も潜んでいた。
お前達のように、お互いに愛し愛される関係を…俺も、誰かと築きあいたかった。
だが…自分と克哉の身体は、共有されているし…意識は二つあっても、肉体は「一つ」
しか存在しない。
だから片方が誰かを選べば…もう片方は、それを諦めるしかない。それが摂理だ。
(ずっと…俺の方も身体を持つ事が叶って…アイツと幸せになれれば良いのに…)
あの謎めいた男の力を用いれば、自分も限られた時間だけもう一つの肉体を
得る事が出来るのはすでに実証済みだ。
だが…あの男は言っていた。短い時間なら、自分だけの魔力で済むが…ずっと
自分に身体を与え続けるには相応の「対価」が必要だと。
その内容を聞いて…無理だと、思った。そこまで自分以外の誰かに期待するのは
図々しいとも感じた。
眼鏡は、だから期待しなかった。その対価を…誰か他の人間が払う事までは…。
だが…最後の瞬間、剥き出しの純粋な願いを心に浮かべていく。
―俺にも、<オレ>にも…それぞれ、大事な人間が出来て…全員が…笑顔を
浮かべている未来が存在して…欲しかった…。
そうすれば…俺と太一はきっと…ここまでいがみ合う事なく、せめて…
友人くらいにはなれたのかも知れない。
他愛無い話をしながら…笑い合える…そんな関係も、在り得たのかも知れない…。
(マヌケだな…ここまでいがみ合うくらいだったら…せめて、アイツと友人になりたかったと…
それが、俺のささやかな願いだった…なんてな…)
そんな本心に苦笑しながら、彼の思考はブラックアウトしていく。
だが、それは…最後の瞬間に浮かべた小さな希望そのものであった。
叶うことがないと判っていても、せめて夢見たい…そんなささやかな望みを胸に
抱きながら彼は落ち続けていく。
その瞬間、彼自身は楽園を閉ざす決意をしていく。
もう自分達に…逃避する為の場所などいらないのだから。
余計なエネルギーを消費しない為にも、心の中にもう一つの世界などいらない。
もう自分達は子供ではないのだ。
…今の克哉には、太一がいる。
かつて…この楽園を作った頃の自分のように、一人ではない。
だから楽園そのものを壊して…そして、深く開いてしまった奈落を塞ごうと…
主人格である彼自身が決意する事により、大きく世界そのものが揺らぎ始めていく。
眼鏡の身体も、鮮烈な光そのものへと変わっていく。
この深い闇の底までも照らし出す程の閃光。
全てを一つへと戻そうと…世界が変革を始めて胎動していく。
それは楽園も、奈落も…全てを壊して溶かして…もう一人の自分が生きられるエネルギー
へと変える為の行動。
これをやる為に、自分は奈落へと落ちた。
それでも…男は諦めない。自分は…まだやるべき事があるのだから。
だから己の残された精神力の全てを燃やし尽くして、穴の底から…楽園を揺るがして…
その地盤を破壊していった。
全てを終えたその時、彼はようやく深い眠りに落ちていく…。
―自らの魂に負った深い傷を癒す為の安息へと―
その顔は己のやるべき事をやった満足感に満ちていたのだった―
*
激震が地面中を走り抜けるのと同時に、どこかから轟音が響き渡っていた。
その音から少しでも遠ざかる為に佐伯克哉は全力で走り続けていた。
突然の事態に混乱しながらも、足元に大きな亀裂と断裂が走る中…どうにか足を
動かし続けて其処から克哉は逃れ続けていた。
「一体これ…何だって言うんだよっ…!」
もう一人の自分が落ちた事で、もう死にそうなくらいに泣きたい心境だというのに…
すぐにこんな事態に襲われたのでは、泣いている暇すらなかった。
むしろ…そんな悠長な真似をしていたら、亀裂の中に飲み込まれてしまうのがオチ
だろう。
「うわぁ! …良く、映画とかそういうので…クライマックスのシーンで…建物とか
大地が崩壊するっていうのあるけど…まさか、それと一緒なの、かな…っ?」
そうだとしたら、自分は出口まで全力で走らなければならないのだが…ざっと周囲を
見回しても、それらしきものはまったく見えない。
どちらの方向に逃げれば良いのか道標すらなく、こんな事態に巻き込まれて克哉は
パニックに陥っていた。
顔中には涙の痕がくっきりと残って目元も赤く腫れていたが…今は最早、そんな事を
構っている暇すらない。
全力でせめて亀裂に足を取られないように、逃げ続ける以外の術はなかった。
「くそっ…! どっちに逃げれば良いんだ…! このままじゃ…逃げ切れないっ…!
出口は、どこにあるんだよっ! <俺>!」
恐らく、この崩壊は…もう一人の自分が引き起こしているに違いないと半ば確信しながら
思わず叫んでしまっていた。
「確かに…もう、俺達に逃げる場所なんて…いらないって気持ち判るけど、ぶっ壊すなら
オレがここを出てからにしろよっ! オレはスタントマンでも、役者でも何でもない…
しがないサラリーマンにしか過ぎないんだからなっ!」
全身全霊を込めてもう一人の自分に対して文句を言い放ちながら、定期的に
大きく揺れ続ける大地を駆け続ける。
時折起こる大きな揺れに足を取られて、思わず転んでしまったり…大地に大きく走って
いく断裂に飲み込まれそうに何度もなりながらも、彼は諦めることなく…脱出出来る場所が
どこかにないか…探し続けていった。
「うわっ!」
突然、足元が裂けて…克哉の右足が其処に飲み込まれていく。
全身で踏ん張って、土に爪すら立てながら…己の身体を支えて踏ん張って…ギリギリの
処で落下を免れる。
「諦める…もんかぁ! 絶対に…オレは太一の処に戻るんだぁ!」
そう強い意志を持って叫んだ瞬間、灰色の雲の向こうに…光の柱が現れていった。
一目見て、確信していく。
あれこそが…恐らく、この世界から出る為の…出口そのものである事を…。
「あそこかっ…?」
その光は、もう一人の自分が示してくれているような気がした。
落下する寸前、彼はあれだけ…強い意志を込めて自分の背中を押してくれていたのだ。
それなら…あの光が罠である筈がないと感じられた。
だから克哉は迷わず、光に向かって…歯を食いしばりながら走る。走り続ける。
こんな楽園の崩壊に巻き込まれて堪るかっ! という…最後の意地を胸に抱きながら―
その瞬間…最大の大きな揺れが地面を襲い…光の柱の手前の地面が、大きく
割れてしまい…其処に至るまでの道筋が壊されてしまっていた。
このままでは…とても通る事など出来ない。
それがまさに、克哉に立ち塞がる…最後の難関となっていった。
「…冗談、だろ…?」
余りの事態に、一瞬どうすれば良いのか立ち尽くしていく。
だが…あまり長い時間、こうしている訳はいかない。
このままただ待っているだけでは…いずれ崩壊に巻き込まれて、自分自身も
断裂に飲み込まれてしまうのがオチだろう。
それでは…何の為にもう一人の自分が代わりに落ちてくれたのか…判らなくなる。
(うわっ…でも、凄い深い…! けど…今なら、全力で走って飛べば…向こう岸に
渡れる範囲かも知れない…!)
裂けたばかりの大地は、ゆっくりと遠ざかっているが…まだ、距離的には
2メートル行くか行かないかくらいだ。
だが…躊躇っていては、その距離はゆっくりと広がり段々と飛び越えるには
厳しくなっていくだろう。
自分はかつて、運動部に所属していたし…体力もジャンプ力もソコソコある。
自信さえ持って挑めば、確実に飛べる距離だ。
だが失敗を恐れて身を竦ませれば…確実に落ちてしまう距離とも言えた。
(迷っている暇はないのは判っているけど…怖い、な…)
目の前に広がる穴の深さをうっかり見てしまい、ゴクンと息を呑んでいく。
あまりに心臓に悪すぎる光景だった。
だが…その瞬間、鮮烈に天空中に…声が響き渡った。
『―克哉さん』
その一言を聞いた時、思わず涙が出そうになってしまった。
太一の、声だった。
彼が…心から、自分を呼んでくれていた。
克哉は…太一からの呼びかけを聞いて、己の迷いは晴らしていく。
もう…立ち止まる訳にはいかなかった。
(逃げて堪るか…っ! ここで負けたら、何の為にもう一人の俺が…オレに生命力を
与えてくれたのか判らなくなるし…! 何より、太一に逢えなくなるなんて…嫌だっ!)
そう決意し、キッっと対岸を見つめて…克哉は一旦後ろへと下がり…全力で助走を
付けてその断裂を飛び越えようと、踏み出していく。
「いっけぇぇぇ!!」
ありったけの勇気を振り絞っての跳躍は…その瞬間、心臓が壊れてしまうんじゃないかと
いうくらいに荒い鼓動を刻んでいた。
喉はカラカラで、全身が震えてしまいそうだった。
だが…全力を出して彼は宙を飛んでいく。そして…無事、飛び越えていく!
「よしっ!!」
片膝をつきながら、対岸に着地していく。
若干、地面に膝が擦れたが今は最早そんな痛みに拘っている暇などない。
すぐに光の柱を目掛けて走り抜けていくと…もう一度、鮮明に…太一の声が聞こえていった。
『克哉さん! 起きてよっ! 貴方の声が聞きたいんだっ!』
それは心からの太一の叫び、そして望み。
克哉は彼の想いに応えるべく、走り抜けて…その光の中に身を躍らせていく。
その瞬間、己の身体が熔けるような…不思議な感覚を覚えていった。
(あぁ…オレは帰るんだ…この世界を後にして…現実、へと…)
フワリ、と浮遊感を感じながら…彼の身体はゆっくりと空へ上昇していく。
そして…彼は見た。
かつて楽園といわれていた場所が…崩壊し、荒廃していく様を…。
それは、この世界を作り出した眼鏡自身が望んだ事。
かつては…深い森に包まれ、清浄な水を湛えた泉と…美しい花畑で構成されていた
楽園と呼ばれる場所は、今では草木の一本すら生えない剥き出しの赤土の地面を晒し、
所々に大きな裂け目が刻み込まれていた。
それももうじき…完全に壊れ、そして…跡形もなく消える事だろう。
彼は…その場所が壊れる様を、消えていく様を…網膜に焼き付けていく。
ここは…そう、自分が生まれた場所なのだから。
小さかった、主人格である彼が…望み、自分を生み出した…云わば故郷に近い場所。
その崩壊を呆然と眺めながら…彼は、意識が遠ざかっていくのが判った。
この世界から…彼の存在が消えていく。
それはすなわち、現実に意識を帰していくのと同義語。
ようやく…彼は帰っていく。
もう一人の自分に強く背中を押されて「生きろ!」と言われ、心に生きる意志を
強く宿した状態で…愛しい相手の元へと。
そして…彼の身体もまた、光と同化して…その輪郭を失っていったのだった―
*
五十嵐太一は…受話器を置いていくと…険しい表情を浮かべていた。
克哉の着替えと、食料の類を購入し終えた直後…彼は覚悟を決めて、自分の
母親に電話をしたからだった。
…太一の母は巨大な企業やグループを総括して動かしているぐらいに…
表、裏世界…共に名が知れ渡っている大物である。
子供の頃から、どれくらい…自分はこの人に手玉に取られて来たか最早…
数え切れないくらいだった。
そんな相手を、一世一代の大芝居を打って…自分はダマし通したのだ。
自分がまさか…克哉の為なら、そこまで勇気を持ってやれてしまえた事に…
彼は脱力しながら…ベッドの上に、ヘナヘナと腰を掛けていった。
「はは…やった。親父なら…ともかく、あの母さんに…はっきりと逆らった上で…
嘘の情報を掴ませるなんて、俺…かなり、頑張った、よな…」
太一は今、自分はヤクザの跡目にも…母親の後継者になる事もきっぱりと断った上で
母親に遠回しに…本来向かうべき方角と逆の場所に行くように仄めかしたのだ。
立場上、嘘を嗅ぎ分ける能力が鋭い母を過去に太一が騙せた経験は殆どない。
大抵は確実に見破られるだけだ。
だが…彼はそうしなければ、母や父を欺いて…克哉の周辺に付けられている追っ手達を
どうにかしない事には普通の生活を送らせてやる事も、都内から逃げ出す事も容易では
なくなるだろう。
だから騙した。彼は本来は…都内から南に下って羽田空港から…海外に抜け出すルートを
導き出していた。
だが…母には、遠回しに…他の交通機関を使って、北を目指すとも取れる発言をして…そして
曖昧に濁したままで受話器を下ろせたのだ。
母は恐らく、自分は…「私に対しては嘘をつけない」という印象を長年抱いていた筈だ。
だから、その情報を元に全力で捜索をするだろう。
あの非合法の裏サイトを作っていたのも…自分が自由を得る為だと誤魔化していたけれど
突き詰めれば…極道をやっている祖父や、経済界の大物をやっている偉大な母親に逆らう
事が出来なかった弱さがあったから…言いなりになっていたに過ぎなかった。
そんな彼が、祖父や母の意思に逆らい…自分の意思を貫く為に行動するというのはまさに
一種の革命的行為に等しいことだった。
そこまでしてでも、太一にとって克哉と離れる事は耐え難い事だった。
どんな事をしても、結果的に母や祖父を怒らせる事になっても…もう二度と、言いなりになった
状態で夢を諦めるようなみっともない事を…太一は、したくなかったのだ。
「やれば…出来た、んだな…。眼鏡掛けた克哉さんに問い詰められた時は…俺の
事情なんて知らない癖に…って反発してた、だけだったけど…。今なら、判る。
俺は…逃げていた、だけだったんだな…」
出来たのに、やらなかった。
今…行動を起こしてみて、彼ははっきりと…その自分のみっともない姿を直視する事となった。
それはとても怖くて…耐え難いことだったけれど、この先…夢を元に未来予想図を描く為には
欠かせない工程でもあった。
いつもの克哉も、眼鏡を掛けた克哉も…同じ一人の人間であると思うよりも、別人とか…
まったく違うものとして切り離していた方が判りやすかったから、一人の人間を…「二人」いる
ように解釈していたり。
ただ逃げ回って捕まらないようにしているだけで…具体的な行動を何もしないで40日以上も
過ごしていたのも…結局は彼の弱さから起因していた。
「克哉さん…俺、やっと判った。…あの時、克哉さんが…俺を本気で怒った
意味を…。ここまで間違えて…遠回りして、やっと…少しだけ…理解出来てきたよ…」
そう眼鏡が過ちを犯していたように、彼自身もまた…事態を悪化させるだけの行動や
態度しかしてこなかった。
それが…愛しい方の克哉を追い詰めてしまっていた現実を…逢えなかった40日もの
期間中に…ようやく気づけたのだ。
失くすかも知れない。二度と会えないかも知れない。
それはその現実を前にして…やっと見えた解答だった。
彼はベッドサイドに腰を掛けながら…シーツの上に横たわる愛しい人を見つめていく。
…克哉はまだ、目覚めない。
もう彼が意識を失ってから12時間以上が経過するのに…目覚める気配を見せない彼に
向かって小さくキスを落としていく。
「克哉さん…」
大きな声で呼び掛けて、その寝顔を見つめていく。
その瞬間…ビクっとその身体が反応したように見えた。
…太一は、自分の声が彼に伝わっているように感じられて…今度ははっきりとした
声で気持ちを伝えていく。
「克哉さん! 起きてよっ! 貴方の声が聞きたいんだっ!」
そう叫んだ時…彼の身体は、大きくシーツの上で跳ねていった。
急激な変化に戸惑いながら…太一は暴れる克哉の身体を強く抱きしめて…
自分の意思を、体温を必死に伝えていく。
「起きて! 克哉さん! 俺は…俺は…貴方がいなければ…ダメなんだっ!
もう失いたくない! だから…起きてくれっ!」
強い願いを込めて、想いを告げていく。
その瞬間…長く閉ざされていた克哉の睫毛が揺れて…その青い綺麗な
瞳がゆっくりと開かれていった。
「克哉さんっ!」
心からの喜びを込めて、相手に微笑んでいく。
克哉もまた…微笑んでいく。
唇が…自然と重なり合い、お互いの瞳を覗き込んでいった。
胸に広がる幸福な気持ち。
それだけで…満ち足りた気持ちになり…笑顔で告げていく。
「お帰り…克哉さん…」
「ただいま…」
クスっとお互いに笑いながら…克哉が身体を起こそうとした刹那。
その笑顔が…固まっていった。
「あれ…どうしたの? 克哉さん…?」
その問いかけに、克哉の表情が固まっていく。
ふいに空気が硬直していくのを感じて…太一が、怪訝そうな顔を浮かべいくと…。
「…御免、オレ…身体が動かないみたい…なんだ…」
どこか悲しそうな顔を浮かべながら、ようやく観念して克哉は告げていく。
そう…半身を失い、楽園が崩壊した強烈なショックのせいで…彼は今、心と身体の連結に
大きな支障を来たしてしまっていて…指の一本も満足に動かせなくなっていたのだった―
「第四十二話 楽園の崩壊」 「眼鏡克哉→佐伯克哉→五十嵐太一 三者視点」
彼は自分の身体がゆっくりと、闇の中に落ちていく感覚を味わっていた。
奇妙な浮遊感すら感じながら…彼は深い、奈落の底へと堕ちていく。
不思議と…自分の心の中に、後悔は何もなかった。
むしろ…最後の最後で、過ちを犯さずに済んだという…ある種の清々しささえも
あった。
叫び声が聞こえる。
もう一人の自分の声。
それを聞きながら苦笑し…眼鏡はゆっくりと瞼を閉じていった。
(…これで良かったんだ…だから、もう泣くな…)
そう一言、直接言ってやれたら…という気持ちはあるが、もう自分の気持ちも声も
相手に伝える術はない。
どれくらいの時間、そうやって自分は穴の底へと落下していたのだろうか。
次第に…自分と言う存在の意識の境界線が曖昧になっていった。
―ついに、眠りに落ちる瞬間が…訪れようとしていた。
(まったく…悔いがないと言ったら嘘になるがな…)
だが、自分はこのまま…この闇の中に自分を完全に溶かしてやるつもりなどない。
必ず帰ってくると、アイツとも約束した。
自分はあくまで、自分の犯した罪の清算をする為に…そしてこの傷ついた心を
一時休める為だけに…堕ちる決断を下しただけなのだから。
そう自分の罪を自らの手でこうやって正したのなら…何年後、何十年後になるか
判らないが…次に目覚めた時に眼鏡は罪悪感でもう、心を痛める事はないだろう。
過ちは犯してしまう事、それ自体が罪ではない。
やってしまった事から目を逸らしたり…自らの手で正そうとしなかったり…次に
その経験を生かそうとしない、そういう姿勢こそが真の罪なのだ。
逃げ続けていた時、彼の心は切り裂けそうになっていた。
だが…土壇場で彼は、ようやく自らの罪を認めて…それを贖った。
この闇は…心の死ではなく、安息を彼に確実に齎す事だろう。
―彼は、癒す為に眠りに落ちるのだから…。
走馬灯のように、今まで自分が関わってきた人間の顔が…瞬く間に沢山浮かび上がり
通り過ぎていく。
そしてある人物の顔を浮かべた時…闇の中に、鮮烈な光が放たれる。
「―っ!」
それはまるで、宇宙空間に北極星や…太陽が燃え盛っているかのような鮮やかな焔。
もしくは、彷徨える旅人に道標を示してくれる一番星のように光り輝いていた。
…眼鏡にはその光が、まるで…その人物が自分に戻って来いと訴えかけているように
すら感じられていた。
そう、それは彼が感じているように…今、思い浮かべた人物が心の底から願っている
祈りの気持ちの象徴。
眼鏡と二度と会えないなんて御免だっ! と願っている人物達の気持ちの結晶が
闇の中を強烈に照らし出していく。
(あぁ…必ず、戻ってくる…だから、お前も…)
その日まで、祈っていてくれるのだろうか…?
もし自分が目覚めるその日が来るまで…この光が輝いていてくれているのならば…
自分は必ず、この穴から這い上がり…もう一度、戻って来れる事だろう。
そして彼が最後に浮かべたのは…太一と、克哉の事だった。
―その時、お前達は俺を果たして笑顔で出迎えてくれるだろうか…?
そんな未来が訪れてくれれば良いと、都合の良い事を考えながら…もう身体の
感覚が遠くなっていくのを感じられた。
―凄く、単純な事だったんだな。…お互いいがみ合うんじゃなくて、好意を持って…
笑顔で接することが出来てさえいれば…俺達は、ここまで抉れる事はなかった。
そんな簡単なことに、やっと気づいたんだな…俺は…。
どこかでもう一人の自分を取られてしまう嫉妬めいた気持ちがあると同時に…
酷く羨ましいと望む羨望の感情も潜んでいた。
お前達のように、お互いに愛し愛される関係を…俺も、誰かと築きあいたかった。
だが…自分と克哉の身体は、共有されているし…意識は二つあっても、肉体は「一つ」
しか存在しない。
だから片方が誰かを選べば…もう片方は、それを諦めるしかない。それが摂理だ。
(ずっと…俺の方も身体を持つ事が叶って…アイツと幸せになれれば良いのに…)
あの謎めいた男の力を用いれば、自分も限られた時間だけもう一つの肉体を
得る事が出来るのはすでに実証済みだ。
だが…あの男は言っていた。短い時間なら、自分だけの魔力で済むが…ずっと
自分に身体を与え続けるには相応の「対価」が必要だと。
その内容を聞いて…無理だと、思った。そこまで自分以外の誰かに期待するのは
図々しいとも感じた。
眼鏡は、だから期待しなかった。その対価を…誰か他の人間が払う事までは…。
だが…最後の瞬間、剥き出しの純粋な願いを心に浮かべていく。
―俺にも、<オレ>にも…それぞれ、大事な人間が出来て…全員が…笑顔を
浮かべている未来が存在して…欲しかった…。
そうすれば…俺と太一はきっと…ここまでいがみ合う事なく、せめて…
友人くらいにはなれたのかも知れない。
他愛無い話をしながら…笑い合える…そんな関係も、在り得たのかも知れない…。
(マヌケだな…ここまでいがみ合うくらいだったら…せめて、アイツと友人になりたかったと…
それが、俺のささやかな願いだった…なんてな…)
そんな本心に苦笑しながら、彼の思考はブラックアウトしていく。
だが、それは…最後の瞬間に浮かべた小さな希望そのものであった。
叶うことがないと判っていても、せめて夢見たい…そんなささやかな望みを胸に
抱きながら彼は落ち続けていく。
その瞬間、彼自身は楽園を閉ざす決意をしていく。
もう自分達に…逃避する為の場所などいらないのだから。
余計なエネルギーを消費しない為にも、心の中にもう一つの世界などいらない。
もう自分達は子供ではないのだ。
…今の克哉には、太一がいる。
かつて…この楽園を作った頃の自分のように、一人ではない。
だから楽園そのものを壊して…そして、深く開いてしまった奈落を塞ごうと…
主人格である彼自身が決意する事により、大きく世界そのものが揺らぎ始めていく。
眼鏡の身体も、鮮烈な光そのものへと変わっていく。
この深い闇の底までも照らし出す程の閃光。
全てを一つへと戻そうと…世界が変革を始めて胎動していく。
それは楽園も、奈落も…全てを壊して溶かして…もう一人の自分が生きられるエネルギー
へと変える為の行動。
これをやる為に、自分は奈落へと落ちた。
それでも…男は諦めない。自分は…まだやるべき事があるのだから。
だから己の残された精神力の全てを燃やし尽くして、穴の底から…楽園を揺るがして…
その地盤を破壊していった。
全てを終えたその時、彼はようやく深い眠りに落ちていく…。
―自らの魂に負った深い傷を癒す為の安息へと―
その顔は己のやるべき事をやった満足感に満ちていたのだった―
*
激震が地面中を走り抜けるのと同時に、どこかから轟音が響き渡っていた。
その音から少しでも遠ざかる為に佐伯克哉は全力で走り続けていた。
突然の事態に混乱しながらも、足元に大きな亀裂と断裂が走る中…どうにか足を
動かし続けて其処から克哉は逃れ続けていた。
「一体これ…何だって言うんだよっ…!」
もう一人の自分が落ちた事で、もう死にそうなくらいに泣きたい心境だというのに…
すぐにこんな事態に襲われたのでは、泣いている暇すらなかった。
むしろ…そんな悠長な真似をしていたら、亀裂の中に飲み込まれてしまうのがオチ
だろう。
「うわぁ! …良く、映画とかそういうので…クライマックスのシーンで…建物とか
大地が崩壊するっていうのあるけど…まさか、それと一緒なの、かな…っ?」
そうだとしたら、自分は出口まで全力で走らなければならないのだが…ざっと周囲を
見回しても、それらしきものはまったく見えない。
どちらの方向に逃げれば良いのか道標すらなく、こんな事態に巻き込まれて克哉は
パニックに陥っていた。
顔中には涙の痕がくっきりと残って目元も赤く腫れていたが…今は最早、そんな事を
構っている暇すらない。
全力でせめて亀裂に足を取られないように、逃げ続ける以外の術はなかった。
「くそっ…! どっちに逃げれば良いんだ…! このままじゃ…逃げ切れないっ…!
出口は、どこにあるんだよっ! <俺>!」
恐らく、この崩壊は…もう一人の自分が引き起こしているに違いないと半ば確信しながら
思わず叫んでしまっていた。
「確かに…もう、俺達に逃げる場所なんて…いらないって気持ち判るけど、ぶっ壊すなら
オレがここを出てからにしろよっ! オレはスタントマンでも、役者でも何でもない…
しがないサラリーマンにしか過ぎないんだからなっ!」
全身全霊を込めてもう一人の自分に対して文句を言い放ちながら、定期的に
大きく揺れ続ける大地を駆け続ける。
時折起こる大きな揺れに足を取られて、思わず転んでしまったり…大地に大きく走って
いく断裂に飲み込まれそうに何度もなりながらも、彼は諦めることなく…脱出出来る場所が
どこかにないか…探し続けていった。
「うわっ!」
突然、足元が裂けて…克哉の右足が其処に飲み込まれていく。
全身で踏ん張って、土に爪すら立てながら…己の身体を支えて踏ん張って…ギリギリの
処で落下を免れる。
「諦める…もんかぁ! 絶対に…オレは太一の処に戻るんだぁ!」
そう強い意志を持って叫んだ瞬間、灰色の雲の向こうに…光の柱が現れていった。
一目見て、確信していく。
あれこそが…恐らく、この世界から出る為の…出口そのものである事を…。
「あそこかっ…?」
その光は、もう一人の自分が示してくれているような気がした。
落下する寸前、彼はあれだけ…強い意志を込めて自分の背中を押してくれていたのだ。
それなら…あの光が罠である筈がないと感じられた。
だから克哉は迷わず、光に向かって…歯を食いしばりながら走る。走り続ける。
こんな楽園の崩壊に巻き込まれて堪るかっ! という…最後の意地を胸に抱きながら―
その瞬間…最大の大きな揺れが地面を襲い…光の柱の手前の地面が、大きく
割れてしまい…其処に至るまでの道筋が壊されてしまっていた。
このままでは…とても通る事など出来ない。
それがまさに、克哉に立ち塞がる…最後の難関となっていった。
「…冗談、だろ…?」
余りの事態に、一瞬どうすれば良いのか立ち尽くしていく。
だが…あまり長い時間、こうしている訳はいかない。
このままただ待っているだけでは…いずれ崩壊に巻き込まれて、自分自身も
断裂に飲み込まれてしまうのがオチだろう。
それでは…何の為にもう一人の自分が代わりに落ちてくれたのか…判らなくなる。
(うわっ…でも、凄い深い…! けど…今なら、全力で走って飛べば…向こう岸に
渡れる範囲かも知れない…!)
裂けたばかりの大地は、ゆっくりと遠ざかっているが…まだ、距離的には
2メートル行くか行かないかくらいだ。
だが…躊躇っていては、その距離はゆっくりと広がり段々と飛び越えるには
厳しくなっていくだろう。
自分はかつて、運動部に所属していたし…体力もジャンプ力もソコソコある。
自信さえ持って挑めば、確実に飛べる距離だ。
だが失敗を恐れて身を竦ませれば…確実に落ちてしまう距離とも言えた。
(迷っている暇はないのは判っているけど…怖い、な…)
目の前に広がる穴の深さをうっかり見てしまい、ゴクンと息を呑んでいく。
あまりに心臓に悪すぎる光景だった。
だが…その瞬間、鮮烈に天空中に…声が響き渡った。
『―克哉さん』
その一言を聞いた時、思わず涙が出そうになってしまった。
太一の、声だった。
彼が…心から、自分を呼んでくれていた。
克哉は…太一からの呼びかけを聞いて、己の迷いは晴らしていく。
もう…立ち止まる訳にはいかなかった。
(逃げて堪るか…っ! ここで負けたら、何の為にもう一人の俺が…オレに生命力を
与えてくれたのか判らなくなるし…! 何より、太一に逢えなくなるなんて…嫌だっ!)
そう決意し、キッっと対岸を見つめて…克哉は一旦後ろへと下がり…全力で助走を
付けてその断裂を飛び越えようと、踏み出していく。
「いっけぇぇぇ!!」
ありったけの勇気を振り絞っての跳躍は…その瞬間、心臓が壊れてしまうんじゃないかと
いうくらいに荒い鼓動を刻んでいた。
喉はカラカラで、全身が震えてしまいそうだった。
だが…全力を出して彼は宙を飛んでいく。そして…無事、飛び越えていく!
「よしっ!!」
片膝をつきながら、対岸に着地していく。
若干、地面に膝が擦れたが今は最早そんな痛みに拘っている暇などない。
すぐに光の柱を目掛けて走り抜けていくと…もう一度、鮮明に…太一の声が聞こえていった。
『克哉さん! 起きてよっ! 貴方の声が聞きたいんだっ!』
それは心からの太一の叫び、そして望み。
克哉は彼の想いに応えるべく、走り抜けて…その光の中に身を躍らせていく。
その瞬間、己の身体が熔けるような…不思議な感覚を覚えていった。
(あぁ…オレは帰るんだ…この世界を後にして…現実、へと…)
フワリ、と浮遊感を感じながら…彼の身体はゆっくりと空へ上昇していく。
そして…彼は見た。
かつて楽園といわれていた場所が…崩壊し、荒廃していく様を…。
それは、この世界を作り出した眼鏡自身が望んだ事。
かつては…深い森に包まれ、清浄な水を湛えた泉と…美しい花畑で構成されていた
楽園と呼ばれる場所は、今では草木の一本すら生えない剥き出しの赤土の地面を晒し、
所々に大きな裂け目が刻み込まれていた。
それももうじき…完全に壊れ、そして…跡形もなく消える事だろう。
彼は…その場所が壊れる様を、消えていく様を…網膜に焼き付けていく。
ここは…そう、自分が生まれた場所なのだから。
小さかった、主人格である彼が…望み、自分を生み出した…云わば故郷に近い場所。
その崩壊を呆然と眺めながら…彼は、意識が遠ざかっていくのが判った。
この世界から…彼の存在が消えていく。
それはすなわち、現実に意識を帰していくのと同義語。
ようやく…彼は帰っていく。
もう一人の自分に強く背中を押されて「生きろ!」と言われ、心に生きる意志を
強く宿した状態で…愛しい相手の元へと。
そして…彼の身体もまた、光と同化して…その輪郭を失っていったのだった―
*
五十嵐太一は…受話器を置いていくと…険しい表情を浮かべていた。
克哉の着替えと、食料の類を購入し終えた直後…彼は覚悟を決めて、自分の
母親に電話をしたからだった。
…太一の母は巨大な企業やグループを総括して動かしているぐらいに…
表、裏世界…共に名が知れ渡っている大物である。
子供の頃から、どれくらい…自分はこの人に手玉に取られて来たか最早…
数え切れないくらいだった。
そんな相手を、一世一代の大芝居を打って…自分はダマし通したのだ。
自分がまさか…克哉の為なら、そこまで勇気を持ってやれてしまえた事に…
彼は脱力しながら…ベッドの上に、ヘナヘナと腰を掛けていった。
「はは…やった。親父なら…ともかく、あの母さんに…はっきりと逆らった上で…
嘘の情報を掴ませるなんて、俺…かなり、頑張った、よな…」
太一は今、自分はヤクザの跡目にも…母親の後継者になる事もきっぱりと断った上で
母親に遠回しに…本来向かうべき方角と逆の場所に行くように仄めかしたのだ。
立場上、嘘を嗅ぎ分ける能力が鋭い母を過去に太一が騙せた経験は殆どない。
大抵は確実に見破られるだけだ。
だが…彼はそうしなければ、母や父を欺いて…克哉の周辺に付けられている追っ手達を
どうにかしない事には普通の生活を送らせてやる事も、都内から逃げ出す事も容易では
なくなるだろう。
だから騙した。彼は本来は…都内から南に下って羽田空港から…海外に抜け出すルートを
導き出していた。
だが…母には、遠回しに…他の交通機関を使って、北を目指すとも取れる発言をして…そして
曖昧に濁したままで受話器を下ろせたのだ。
母は恐らく、自分は…「私に対しては嘘をつけない」という印象を長年抱いていた筈だ。
だから、その情報を元に全力で捜索をするだろう。
あの非合法の裏サイトを作っていたのも…自分が自由を得る為だと誤魔化していたけれど
突き詰めれば…極道をやっている祖父や、経済界の大物をやっている偉大な母親に逆らう
事が出来なかった弱さがあったから…言いなりになっていたに過ぎなかった。
そんな彼が、祖父や母の意思に逆らい…自分の意思を貫く為に行動するというのはまさに
一種の革命的行為に等しいことだった。
そこまでしてでも、太一にとって克哉と離れる事は耐え難い事だった。
どんな事をしても、結果的に母や祖父を怒らせる事になっても…もう二度と、言いなりになった
状態で夢を諦めるようなみっともない事を…太一は、したくなかったのだ。
「やれば…出来た、んだな…。眼鏡掛けた克哉さんに問い詰められた時は…俺の
事情なんて知らない癖に…って反発してた、だけだったけど…。今なら、判る。
俺は…逃げていた、だけだったんだな…」
出来たのに、やらなかった。
今…行動を起こしてみて、彼ははっきりと…その自分のみっともない姿を直視する事となった。
それはとても怖くて…耐え難いことだったけれど、この先…夢を元に未来予想図を描く為には
欠かせない工程でもあった。
いつもの克哉も、眼鏡を掛けた克哉も…同じ一人の人間であると思うよりも、別人とか…
まったく違うものとして切り離していた方が判りやすかったから、一人の人間を…「二人」いる
ように解釈していたり。
ただ逃げ回って捕まらないようにしているだけで…具体的な行動を何もしないで40日以上も
過ごしていたのも…結局は彼の弱さから起因していた。
「克哉さん…俺、やっと判った。…あの時、克哉さんが…俺を本気で怒った
意味を…。ここまで間違えて…遠回りして、やっと…少しだけ…理解出来てきたよ…」
そう眼鏡が過ちを犯していたように、彼自身もまた…事態を悪化させるだけの行動や
態度しかしてこなかった。
それが…愛しい方の克哉を追い詰めてしまっていた現実を…逢えなかった40日もの
期間中に…ようやく気づけたのだ。
失くすかも知れない。二度と会えないかも知れない。
それはその現実を前にして…やっと見えた解答だった。
彼はベッドサイドに腰を掛けながら…シーツの上に横たわる愛しい人を見つめていく。
…克哉はまだ、目覚めない。
もう彼が意識を失ってから12時間以上が経過するのに…目覚める気配を見せない彼に
向かって小さくキスを落としていく。
「克哉さん…」
大きな声で呼び掛けて、その寝顔を見つめていく。
その瞬間…ビクっとその身体が反応したように見えた。
…太一は、自分の声が彼に伝わっているように感じられて…今度ははっきりとした
声で気持ちを伝えていく。
「克哉さん! 起きてよっ! 貴方の声が聞きたいんだっ!」
そう叫んだ時…彼の身体は、大きくシーツの上で跳ねていった。
急激な変化に戸惑いながら…太一は暴れる克哉の身体を強く抱きしめて…
自分の意思を、体温を必死に伝えていく。
「起きて! 克哉さん! 俺は…俺は…貴方がいなければ…ダメなんだっ!
もう失いたくない! だから…起きてくれっ!」
強い願いを込めて、想いを告げていく。
その瞬間…長く閉ざされていた克哉の睫毛が揺れて…その青い綺麗な
瞳がゆっくりと開かれていった。
「克哉さんっ!」
心からの喜びを込めて、相手に微笑んでいく。
克哉もまた…微笑んでいく。
唇が…自然と重なり合い、お互いの瞳を覗き込んでいった。
胸に広がる幸福な気持ち。
それだけで…満ち足りた気持ちになり…笑顔で告げていく。
「お帰り…克哉さん…」
「ただいま…」
クスっとお互いに笑いながら…克哉が身体を起こそうとした刹那。
その笑顔が…固まっていった。
「あれ…どうしたの? 克哉さん…?」
その問いかけに、克哉の表情が固まっていく。
ふいに空気が硬直していくのを感じて…太一が、怪訝そうな顔を浮かべいくと…。
「…御免、オレ…身体が動かないみたい…なんだ…」
どこか悲しそうな顔を浮かべながら、ようやく観念して克哉は告げていく。
そう…半身を失い、楽園が崩壊した強烈なショックのせいで…彼は今、心と身体の連結に
大きな支障を来たしてしまっていて…指の一本も満足に動かせなくなっていたのだった―
『第四十一話 最後の矜持』 「眼鏡克哉」
― 幻想とは何故産まれるのだろう
それは狂気に堕ちる程、傷付き病んだ人間の為の救い―
かつて大切な人間に裏切られた彼は絶望した彼は自らの心に救いの場所を紡ぎ出す
この楽園と奈落を造り出したのはそう―幼い頃の彼だった…
『心配いらないよ。君はずっと眠っていて構わない。…オレは君を護る為に
生まれたのだから―』
ようやく思い出す。
遠い夢の彼方に存在していた記憶を…。
そして知る。
自分達の本来課せられていた役割を―
それは狂気に堕ちる程、傷付き病んだ人間の為の救い―
かつて大切な人間に裏切られた彼は絶望した彼は自らの心に救いの場所を紡ぎ出す
この楽園と奈落を造り出したのはそう―幼い頃の彼だった…
『心配いらないよ。君はずっと眠っていて構わない。…オレは君を護る為に
生まれたのだから―』
ようやく思い出す。
遠い夢の彼方に存在していた記憶を…。
そして知る。
自分達の本来課せられていた役割を―
眼鏡は全力で、逃げ続けるもう一人の自分を追い続けていた。
罪悪感によって蝕まれた状態では、足を動かすのも辛かったけれど…ここで彼に
追いつけずに食い止める事が出来なかったら、恐らく自分の魂は一生掛けて、生き
腐れていくような気がした。
アイツを追い詰めたのも、全ての不幸を招いたのは…他人の都合も思惑も、何も
慮る事なく。
自分が欲望のままに行動した結果だった事実を…この土壇場になって彼はようやく
認めていく。
己の罪を、認める事は苦しかったし…最初はみっともないと思った。
だが…人は、罪を犯して罪を知る。
大切な人間を傷つけたり、泣かせたり…追い詰めて、ようやく人間は…自分のやって
しまった行動の重さを…間違いを思い知らされるものなのだ。
(…このまま…お前を犠牲にして、俺の方がノウノウと生き延びたら…それこそ、救いようの
ないクズと成り果てる…!)
そんな人生は御免だと思った。
目覚めてからずっと襲い続けていた胸の痛みは、彼の良心の叫び。
太一と…もう一人の自分を不幸に陥れ、その事実から目を逸らして…自分を守ろうと
した結果だった。
自分にそんな甘っちょろいものが存在し、心が引き裂かれてしまうなど…笑い話にも
ならないと最初は思ったが。
最後にアイツが泣きながら自分に想いを告げて、立ち去った瞬間…もうそんな事など
言っていられなくなった。
―俺はお前を犠牲にしたくない。
俺の罪を許し、一言も詰りもしなかった時…初めて男は、自分がやってしまった浅慮な
行動の数々を心から悔いた。
だから…死ぬような思いで走り続けて…どうにか奈落に続く穴の手前で…もう一人の
自分に追いついた時…彼は、迷わなかった。
…ここで躊躇するような、情けない振る舞いは…どうしてもしたくなかったから―
罪悪感によって蝕まれた状態では、足を動かすのも辛かったけれど…ここで彼に
追いつけずに食い止める事が出来なかったら、恐らく自分の魂は一生掛けて、生き
腐れていくような気がした。
アイツを追い詰めたのも、全ての不幸を招いたのは…他人の都合も思惑も、何も
慮る事なく。
自分が欲望のままに行動した結果だった事実を…この土壇場になって彼はようやく
認めていく。
己の罪を、認める事は苦しかったし…最初はみっともないと思った。
だが…人は、罪を犯して罪を知る。
大切な人間を傷つけたり、泣かせたり…追い詰めて、ようやく人間は…自分のやって
しまった行動の重さを…間違いを思い知らされるものなのだ。
(…このまま…お前を犠牲にして、俺の方がノウノウと生き延びたら…それこそ、救いようの
ないクズと成り果てる…!)
そんな人生は御免だと思った。
目覚めてからずっと襲い続けていた胸の痛みは、彼の良心の叫び。
太一と…もう一人の自分を不幸に陥れ、その事実から目を逸らして…自分を守ろうと
した結果だった。
自分にそんな甘っちょろいものが存在し、心が引き裂かれてしまうなど…笑い話にも
ならないと最初は思ったが。
最後にアイツが泣きながら自分に想いを告げて、立ち去った瞬間…もうそんな事など
言っていられなくなった。
―俺はお前を犠牲にしたくない。
俺の罪を許し、一言も詰りもしなかった時…初めて男は、自分がやってしまった浅慮な
行動の数々を心から悔いた。
だから…死ぬような思いで走り続けて…どうにか奈落に続く穴の手前で…もう一人の
自分に追いついた時…彼は、迷わなかった。
…ここで躊躇するような、情けない振る舞いは…どうしてもしたくなかったから―
永い永い接吻を施して、自分の残された命を譲渡していく。
それは…己の中に存在している、マグマにも似た…生命の滾りを相手の中に
注ぎ込む為の行為だった。
火酒でも飲むように…己の中から熱いものを、克哉の口内に流し込み。
炎の塊を相手の喉の奥に嚥下させるような感覚だった。
「んっ…ぁ…や、め…ろっ…! 何、を…!」
腕の中の相手が必死になってもがき続ける。
だが逃がしてやらない。
残された全ての力を掛けて、抱きしめて…己の腕の中に拘束し続ける。
それは…命を掛けて施す、人工呼吸。
今は愛された直後で一時的に元気なように見えるが…その相手に生命力を
注ぎ込んで安定させる為に…自分に残されていた命の全てを送り込む為に
施す、命懸けの行為だった。
「黙って…受けていろ…!」
恐ろしい形相で、もう一人の自分を睨み付ける。
その瞬間の眼鏡の鬼気迫る表情に…克哉は、立ちすくんでいく。
強引に顎を捕まれて、熱い舌と同時に…喉を灼いていくような…熱すぎる感覚が
流れ込んでくる。
それはまるで、マグマを飲み込んでいるよう。
…ドロドロと煮え滾る熱い血潮を口移しで飲み込まされているような…甘さなど
何一つないキスだった。
そして…眼鏡の方は今にも倒れそうなくらいに蒼白になり。
代わりに注ぎ込まれた克哉の方は、己の内側から気力が漲るような感覚を覚えて
ぎょっとなっていく。
それで…今、施されたキスが…どういう意図でされたものなのかを理解して…
克哉は気づけば泣き叫んでしまっていた。
「ど、うして…何で! お前は…こんな事を…するんだよっ!」
瞳に涙を溜めていきながら、克哉は訴えていく。
「…覚えて、ないのか…?」
問いかけに、眼鏡は消え入りそうな声で逆に…尋ねてくる。
「何をだよっ…!」
「…十年近く前に、この場所で起こった事を…」
「…お前、何を言って…いる、んだよ…」
いきなり予想もしていなかった事を口走られて、克哉はどうして良いか…
戸惑いの表情を浮かべていく。
「…今、お前を必死に…なって、追いかけていたら…フイ、に思い出したんだ…。
この楽園が何故…生まれたのか、あの奈落の穴がどうして出来たのか…。
そして俺達がどうして…『二人』になったのか…その原因、を…」
「だから、何をお前は…言いたい、んだよ…?」
話についていけず、克哉は肩を震わせながら呟く。
目の前の眼鏡は…今にも倒れてしまいそうなぐらいに…弱々しくなっていて…
口元にはうっすらと赤いモノがこびり付いていた。
「…全ては、俺が望んだんだな…。アイツに…かつての親友に裏切られていたと
いう事実を知った時に。あの男から銀縁眼鏡を与えられて…深い眠りに就く事に
なった時に…全て、俺自身が望んで…生み出した、モノ…だった事を…ようやく…
思い出した、よ…」
楽園は、傷ついた魂を守る為に。胸に宿った憎しみを純度な状態で保つ為に。
奈落の穴は、深い絶望を知った事によって生まれ。
そして…もう一人の自分は、眠る自分の代わりに…現実を生きて貰う為に
作り出した、無防備な状態の彼を守る為の番人。
何度か、自分たちは夢の中で逢っていた。
そして…アイツは、眠っている俺に向かって…いつもバカみたいに同じ言葉
ばかりを繰り返していた。
『良いよ…君は…とても傷ついているんだから。だから…オレが代わりに
生きるから。だから…君はここで眠っていて…良いんだよ…』
その記憶を思い出した時、彼は…覚悟を決めたのだ。
…かつて自分を守ると言った<オレ>の為に…今度は自分が、彼を救う
番だな、と…ごく自然に思ったから。だからこうした。
昔の記憶を思い出し、その事を…克哉に告げていくと…彼の目は大きく
見開かれて唇を震わせていた。
「…あぁ、お前も…その記憶…思い出して、しまったんだ…」
「…そうだ。だから…今度は、俺が…お前を守ってやる…」
「どう、やって…?」
「…さあな。それは…後で知った方が…驚ける、だろう…?」
そして眼鏡は…不敵に笑う。
そのまま…強く克哉の身体を抱きしめていった。
最初は強張っていた相手の身体も…暫くすると少しだけ柔らかくなっていって。
オズオズと…どこかぎこちなく、もう一人の自分の身体を抱きしめていく。
―自分たちの中に在る想いは、どこまでが他者を想うような感情で。
どこまでが…自己愛の延長なのだろうか。
愛しているのか、どこまでがナルシストチックな感情なのか…その境目が判らず。
そこに肉親のような感情まで入り混じっているから本当に複雑で。
太一を想っている時のような甘さも、情熱もない。けれど紛れも無く…自分たちは
己の半身を…今、大切に想い…愛していた。
「…お前が、生きろ…<オレ>。太一は…お前の方を強く望んでいる…」
「嫌だ、よ…。お前が…オレを作ったんだ。お前が…主人格の筈だろ…?
それなのに後から作り出された方が生き延びるなんて…おかしい、よ…。
オレは…その為にいるんじゃ…なかったのか…?」
「どちら、でも良い…どちらも…『佐伯克哉』なのだから…。俺は…お前のように、
誰かと愛し愛されるような関係を…築けなかった、から…」
一瞬だけ、秋紀の顔が想い浮かんだが…すぐに振り払っていく。
向こうが本気で想ってくれていたのは判っていたが…一度も自分から愛しているとも
好きだとも言った事はなかった。
それは…太一を想っていた時も同じ、だった。
先程…この二人が結ばれていた時のように、想いを告げて確認しあうような行為は
自分は結果的に一度も経験する事なく。
同時に、自分と太一は…お互い、嫌いじゃないのだろうが…恋愛関係を取り結ぶ事
は出来ないとも感じていた。
「…それに、あいつと…俺じゃあ、『恋』は…出来ない。…アイツはお前しか見えて
いないし…俺も、お前をアイツに取られる嫉妬みたいな感情を…抱いて、いるから…」
そう…やっと判った。
太一と自分は…克哉を挟んで、取り合っているライバルみたいなものだった。
だから克哉の想いが流れ込んで…いつしか想うようになっていても。
彼に…一番に愛されることは決してない。
太一は、本当に本当に純粋にもう一人の<オレ>だけを真っ直ぐ見つめていて。
眼鏡の中には…この二人のような関係になりたかったと望む気持ちと同時に…
もう一人の自分をコイツに取られて憤っている相反する感情が存在していたから。
「…あいつ、の…恋人は、お前だけだ…。そして…俺は…自分のした、事で…
散々お前たちを…追い詰めて、不幸にした…。それで自分だけ…幸せになろうと…
する、なんて…そんな、浅ましい真似…絶対にプライドが…許せない、だけだ…」
損とか得とか、そういう話ではなく。
気づいてしまった以上、もう…克哉は自らの行いの落とし前を…自分自身で
付けなければ気が済まない心境になっていた。
自分自身に誇りを抱く為に。
真っ直ぐに見据えて生きる為に…彼は、自らの方を奈落の穴に沈ませる覚悟を
すでに決めていた。
「オレだって…同じ、気持ちだって…言った、だろ…!」
自分たちは、バカだなと想った。
お互いが…相手の為に自分を投げ打っても良いという気持ちを抱いていたのだと
いう事を…この最終局面を迎えるまでまったく気づいてもいなかったのだから…
本当に滑稽なくらいだった。
克哉はポロポロと涙を零して…眼鏡の身体に縋り付いていく。
「嫌だよ…っ! オレは…一人、になんて…なりたく、ない…! お前と…
もう二度と話せなくなる…なんて、嫌…なんだっ! 本当は…オレもお前も
どちらも飛び込まないで助かる方法があれば良いって…どれだけ、望んでいたと
思っているんだよ…馬鹿野郎っ!」
恥も外聞もなく、克哉は己の本心を吐露しながら…痛いぐらいの力を込めて
自分の半身を抱きしめていく。
…自分たちは、あの日からずっと…意識しなくても、同じ身体を共有して…「二人」で
存在していた。
今は、その事実を知ってしまっているし…執着のようなものも抱いてしまっていた。
その別離の瞬間が、もう間近に迫ってきている。
この世界が揺れ始め、ゆっくりと足場も…狭まってきている。
奈落の穴は…時間の経過と共に徐々に広がり、この世界を巻き込んでいく。
この穴は誰の心の中にも存在する。
…誰でも人生に絶望し、傷ついて打ちしがれる時はあるだろう。
そういう時に…心の穴は大きく広がり、絶望に染め上げて…その人間の
心を食いつくし、『自殺』に追いやっていく。
もう自分は生きる価値などないのだと…自己嫌悪に陥らせ。
胸の痛みを完全に打ち消すために…永遠の安息を望む、そんな時に…
これは広がっていく。
『死にたい』『消え去りたい』と望む…人の心に呼応するように―
だが…同時に、魂が休息を求めている時…自らの中にある死に飛び込む事に
よって人は救われる。
死は絶望と同時に救いを齎し。
本当に心が苦しくて仕方ない罪人にとっては…それは心を救う為には必要な
安息となる。
そして…休息を本当に望んでいるのは―罪を犯した眼鏡の方なのだから…。
「…二度と、会えないと…決まっている訳では、ない…。この穴の奥で
眠って…回復したら、俺は絶対に…這い上がって、くるさ…。だから…信じて、
待っていろ…」
「そんなの、無理だよ…! オレに…さっき、生命力を流し込んだ癖に…!
それで、飛び込んだりしたら…お前が、本当に…消えて、しまう…」
「…俺は、そんなにお人よし…じゃあない。まだ…生きる事に、執着がある…。
だから何年か、眠るだけだ…。そうじゃなければ…飛び込んでやったり、なんか…
しない。俺を…信じろ、よ…」
そして、苦しそうな呼吸を繰り返しながらも…男は不適に笑う。
何故、この土壇場で…こんなに傲慢で、自信に満ち溢れている表情など…
浮かべられるのだろうか。
それは彼が…強情っぱりであり、強い意志を持っているから。
最後の最後で…もう一人の自分を前にして、みっともない真似や態度を取る
事を良しとしない…強い矜持が今…彼を支えていた。
「…判った、信じる…から…! だから…絶対に帰って来い、よ…。そのまま…
消えたり、したら…承知…しない、からな…っ!」
泣き叫びながら、克哉は…やっと、眼鏡の身体から腕を放していく。
同時に男は、口元に笑みを刻み。
真っ直ぐにこちらを見据えていきながら…背面に向かって身体を傾けて、
深い穴の方へと投げ出していく。
ゆっくりと、彼が落ちていく。
無意識の内に手を差し伸べていたが、眼鏡は決して腕を自ら伸ばそうとしなかった。
そして…克哉の指先も届かない位置に身体が辿り着いた時に…今更になって、
彼は己の本心を口にしていく。
「…俺も、お前を…愛していた…。だから…生きろ…!」
そして…どうか願わくば、幸せになってくれ。
俺が後一歩で引き裂いてしまいそうだった…太一との絆をしっかりと握り締めて。
ここから現実に戻っても…お前が笑ってくれているように。
最後の願いを込めて…彼は、言葉を告げていく。
瞬間…克哉は耐え切れないとばかりに顔を大きく歪ませて…大粒の涙を
浮かべて…彼が消えた穴を覗き込んでいく。
徐々にその姿が遠くなり、動作の全てがスローモーションのようにゆっくりと
映っていく。
そして…30秒も過ぎた頃には完全に深い闇の底に彼の身体は呑み込まれて。
堰を切ったように…克哉は、慟哭の声を喉の奥から迸らせる。
「あっ…うぁ…! うぁぁぁぁっー!」
抑えようとしても、声は留まってくれなかった。
感情のままに泣き叫び、口の中がカラカラになるくらいに…声が溢れ続けていた。
覚悟はしていたつもりでも、ショックの余りにその場にへたり込んで…尻餅を
突いていき。全身から、指先まで…ガタガタガタ、と小刻みに震え続けていく。
その次の瞬間…穴の底から…眩いまでの光が競り上がって来て…
楽園の地を揺るがす程の激震が、一気に襲い掛かっていった―
それは…己の中に存在している、マグマにも似た…生命の滾りを相手の中に
注ぎ込む為の行為だった。
火酒でも飲むように…己の中から熱いものを、克哉の口内に流し込み。
炎の塊を相手の喉の奥に嚥下させるような感覚だった。
「んっ…ぁ…や、め…ろっ…! 何、を…!」
腕の中の相手が必死になってもがき続ける。
だが逃がしてやらない。
残された全ての力を掛けて、抱きしめて…己の腕の中に拘束し続ける。
それは…命を掛けて施す、人工呼吸。
今は愛された直後で一時的に元気なように見えるが…その相手に生命力を
注ぎ込んで安定させる為に…自分に残されていた命の全てを送り込む為に
施す、命懸けの行為だった。
「黙って…受けていろ…!」
恐ろしい形相で、もう一人の自分を睨み付ける。
その瞬間の眼鏡の鬼気迫る表情に…克哉は、立ちすくんでいく。
強引に顎を捕まれて、熱い舌と同時に…喉を灼いていくような…熱すぎる感覚が
流れ込んでくる。
それはまるで、マグマを飲み込んでいるよう。
…ドロドロと煮え滾る熱い血潮を口移しで飲み込まされているような…甘さなど
何一つないキスだった。
そして…眼鏡の方は今にも倒れそうなくらいに蒼白になり。
代わりに注ぎ込まれた克哉の方は、己の内側から気力が漲るような感覚を覚えて
ぎょっとなっていく。
それで…今、施されたキスが…どういう意図でされたものなのかを理解して…
克哉は気づけば泣き叫んでしまっていた。
「ど、うして…何で! お前は…こんな事を…するんだよっ!」
瞳に涙を溜めていきながら、克哉は訴えていく。
「…覚えて、ないのか…?」
問いかけに、眼鏡は消え入りそうな声で逆に…尋ねてくる。
「何をだよっ…!」
「…十年近く前に、この場所で起こった事を…」
「…お前、何を言って…いる、んだよ…」
いきなり予想もしていなかった事を口走られて、克哉はどうして良いか…
戸惑いの表情を浮かべていく。
「…今、お前を必死に…なって、追いかけていたら…フイ、に思い出したんだ…。
この楽園が何故…生まれたのか、あの奈落の穴がどうして出来たのか…。
そして俺達がどうして…『二人』になったのか…その原因、を…」
「だから、何をお前は…言いたい、んだよ…?」
話についていけず、克哉は肩を震わせながら呟く。
目の前の眼鏡は…今にも倒れてしまいそうなぐらいに…弱々しくなっていて…
口元にはうっすらと赤いモノがこびり付いていた。
「…全ては、俺が望んだんだな…。アイツに…かつての親友に裏切られていたと
いう事実を知った時に。あの男から銀縁眼鏡を与えられて…深い眠りに就く事に
なった時に…全て、俺自身が望んで…生み出した、モノ…だった事を…ようやく…
思い出した、よ…」
楽園は、傷ついた魂を守る為に。胸に宿った憎しみを純度な状態で保つ為に。
奈落の穴は、深い絶望を知った事によって生まれ。
そして…もう一人の自分は、眠る自分の代わりに…現実を生きて貰う為に
作り出した、無防備な状態の彼を守る為の番人。
何度か、自分たちは夢の中で逢っていた。
そして…アイツは、眠っている俺に向かって…いつもバカみたいに同じ言葉
ばかりを繰り返していた。
『良いよ…君は…とても傷ついているんだから。だから…オレが代わりに
生きるから。だから…君はここで眠っていて…良いんだよ…』
その記憶を思い出した時、彼は…覚悟を決めたのだ。
…かつて自分を守ると言った<オレ>の為に…今度は自分が、彼を救う
番だな、と…ごく自然に思ったから。だからこうした。
昔の記憶を思い出し、その事を…克哉に告げていくと…彼の目は大きく
見開かれて唇を震わせていた。
「…あぁ、お前も…その記憶…思い出して、しまったんだ…」
「…そうだ。だから…今度は、俺が…お前を守ってやる…」
「どう、やって…?」
「…さあな。それは…後で知った方が…驚ける、だろう…?」
そして眼鏡は…不敵に笑う。
そのまま…強く克哉の身体を抱きしめていった。
最初は強張っていた相手の身体も…暫くすると少しだけ柔らかくなっていって。
オズオズと…どこかぎこちなく、もう一人の自分の身体を抱きしめていく。
―自分たちの中に在る想いは、どこまでが他者を想うような感情で。
どこまでが…自己愛の延長なのだろうか。
愛しているのか、どこまでがナルシストチックな感情なのか…その境目が判らず。
そこに肉親のような感情まで入り混じっているから本当に複雑で。
太一を想っている時のような甘さも、情熱もない。けれど紛れも無く…自分たちは
己の半身を…今、大切に想い…愛していた。
「…お前が、生きろ…<オレ>。太一は…お前の方を強く望んでいる…」
「嫌だ、よ…。お前が…オレを作ったんだ。お前が…主人格の筈だろ…?
それなのに後から作り出された方が生き延びるなんて…おかしい、よ…。
オレは…その為にいるんじゃ…なかったのか…?」
「どちら、でも良い…どちらも…『佐伯克哉』なのだから…。俺は…お前のように、
誰かと愛し愛されるような関係を…築けなかった、から…」
一瞬だけ、秋紀の顔が想い浮かんだが…すぐに振り払っていく。
向こうが本気で想ってくれていたのは判っていたが…一度も自分から愛しているとも
好きだとも言った事はなかった。
それは…太一を想っていた時も同じ、だった。
先程…この二人が結ばれていた時のように、想いを告げて確認しあうような行為は
自分は結果的に一度も経験する事なく。
同時に、自分と太一は…お互い、嫌いじゃないのだろうが…恋愛関係を取り結ぶ事
は出来ないとも感じていた。
「…それに、あいつと…俺じゃあ、『恋』は…出来ない。…アイツはお前しか見えて
いないし…俺も、お前をアイツに取られる嫉妬みたいな感情を…抱いて、いるから…」
そう…やっと判った。
太一と自分は…克哉を挟んで、取り合っているライバルみたいなものだった。
だから克哉の想いが流れ込んで…いつしか想うようになっていても。
彼に…一番に愛されることは決してない。
太一は、本当に本当に純粋にもう一人の<オレ>だけを真っ直ぐ見つめていて。
眼鏡の中には…この二人のような関係になりたかったと望む気持ちと同時に…
もう一人の自分をコイツに取られて憤っている相反する感情が存在していたから。
「…あいつ、の…恋人は、お前だけだ…。そして…俺は…自分のした、事で…
散々お前たちを…追い詰めて、不幸にした…。それで自分だけ…幸せになろうと…
する、なんて…そんな、浅ましい真似…絶対にプライドが…許せない、だけだ…」
損とか得とか、そういう話ではなく。
気づいてしまった以上、もう…克哉は自らの行いの落とし前を…自分自身で
付けなければ気が済まない心境になっていた。
自分自身に誇りを抱く為に。
真っ直ぐに見据えて生きる為に…彼は、自らの方を奈落の穴に沈ませる覚悟を
すでに決めていた。
「オレだって…同じ、気持ちだって…言った、だろ…!」
自分たちは、バカだなと想った。
お互いが…相手の為に自分を投げ打っても良いという気持ちを抱いていたのだと
いう事を…この最終局面を迎えるまでまったく気づいてもいなかったのだから…
本当に滑稽なくらいだった。
克哉はポロポロと涙を零して…眼鏡の身体に縋り付いていく。
「嫌だよ…っ! オレは…一人、になんて…なりたく、ない…! お前と…
もう二度と話せなくなる…なんて、嫌…なんだっ! 本当は…オレもお前も
どちらも飛び込まないで助かる方法があれば良いって…どれだけ、望んでいたと
思っているんだよ…馬鹿野郎っ!」
恥も外聞もなく、克哉は己の本心を吐露しながら…痛いぐらいの力を込めて
自分の半身を抱きしめていく。
…自分たちは、あの日からずっと…意識しなくても、同じ身体を共有して…「二人」で
存在していた。
今は、その事実を知ってしまっているし…執着のようなものも抱いてしまっていた。
その別離の瞬間が、もう間近に迫ってきている。
この世界が揺れ始め、ゆっくりと足場も…狭まってきている。
奈落の穴は…時間の経過と共に徐々に広がり、この世界を巻き込んでいく。
この穴は誰の心の中にも存在する。
…誰でも人生に絶望し、傷ついて打ちしがれる時はあるだろう。
そういう時に…心の穴は大きく広がり、絶望に染め上げて…その人間の
心を食いつくし、『自殺』に追いやっていく。
もう自分は生きる価値などないのだと…自己嫌悪に陥らせ。
胸の痛みを完全に打ち消すために…永遠の安息を望む、そんな時に…
これは広がっていく。
『死にたい』『消え去りたい』と望む…人の心に呼応するように―
だが…同時に、魂が休息を求めている時…自らの中にある死に飛び込む事に
よって人は救われる。
死は絶望と同時に救いを齎し。
本当に心が苦しくて仕方ない罪人にとっては…それは心を救う為には必要な
安息となる。
そして…休息を本当に望んでいるのは―罪を犯した眼鏡の方なのだから…。
「…二度と、会えないと…決まっている訳では、ない…。この穴の奥で
眠って…回復したら、俺は絶対に…這い上がって、くるさ…。だから…信じて、
待っていろ…」
「そんなの、無理だよ…! オレに…さっき、生命力を流し込んだ癖に…!
それで、飛び込んだりしたら…お前が、本当に…消えて、しまう…」
「…俺は、そんなにお人よし…じゃあない。まだ…生きる事に、執着がある…。
だから何年か、眠るだけだ…。そうじゃなければ…飛び込んでやったり、なんか…
しない。俺を…信じろ、よ…」
そして、苦しそうな呼吸を繰り返しながらも…男は不適に笑う。
何故、この土壇場で…こんなに傲慢で、自信に満ち溢れている表情など…
浮かべられるのだろうか。
それは彼が…強情っぱりであり、強い意志を持っているから。
最後の最後で…もう一人の自分を前にして、みっともない真似や態度を取る
事を良しとしない…強い矜持が今…彼を支えていた。
「…判った、信じる…から…! だから…絶対に帰って来い、よ…。そのまま…
消えたり、したら…承知…しない、からな…っ!」
泣き叫びながら、克哉は…やっと、眼鏡の身体から腕を放していく。
同時に男は、口元に笑みを刻み。
真っ直ぐにこちらを見据えていきながら…背面に向かって身体を傾けて、
深い穴の方へと投げ出していく。
ゆっくりと、彼が落ちていく。
無意識の内に手を差し伸べていたが、眼鏡は決して腕を自ら伸ばそうとしなかった。
そして…克哉の指先も届かない位置に身体が辿り着いた時に…今更になって、
彼は己の本心を口にしていく。
「…俺も、お前を…愛していた…。だから…生きろ…!」
そして…どうか願わくば、幸せになってくれ。
俺が後一歩で引き裂いてしまいそうだった…太一との絆をしっかりと握り締めて。
ここから現実に戻っても…お前が笑ってくれているように。
最後の願いを込めて…彼は、言葉を告げていく。
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浮かべて…彼が消えた穴を覗き込んでいく。
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プロフィール
HN:
香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
鬼畜眼鏡にハマり込みました。
当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)
当ブログサイトへのリンク方法
URL=http://yukio0201.blog.shinobi.jp/
リンクは同ジャンルの方はフリーです。気軽に切り貼りどうぞ。
…一言報告して貰えると凄く嬉しいです。
当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)
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…一言報告して貰えると凄く嬉しいです。
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