鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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『第四十八話 魂の詩』 「五十嵐太一」
「嘘、だろ…」
呆然としながら、克哉はバスルームの床に崩れ落ちていく。
どうして…今まで、自分はこの話題を避けていたんだろうと思った。
…眼鏡側の感情は、すでに知っている。
彼が奈落に落ちる寸前にどれだけ深く…自分と、太一を強く想ってくれていたのか…
強烈に流れ込んで来たから。
だが、三年前に…自分が彼が幸せになれるように下した決断が間違いだったとしたら
空回りも良い処、だった。
「克哉、さん…」
太一も…いつしか、涙を浮かべていた。
…それから、言葉もなく…彼の腕の中に抱き込まれていた。
彼は何も言わない。ただ…重い沈黙だけが落ちていく。
「馬鹿、みたいだ…オレたち、「三人」とも…本当に、馬鹿過ぎるよ…。
結局、蓋を開けてみれば…全員…好きあっていたんじゃないか。それなのに、
傷つけあって、ボロボロになって…すれ違い続けて。離れて、手遅れになってから…
その事にやっと気づくなんて…」
「…そうだね。けどさ…克哉さん。俺…失くしたからこそ、やっと気づけた事って
沢山…あるよ。少なくとも、俺にとっては…」
ぎゅっと…濡れて冷えた克哉の身体を、太一が抱きすくめていく。
お互いにびしょびしょで…衣類が肌に張り付いて寒かったけれど…身体が重なりあって
いる部位だけは…少し、暖かかった。
「…このままじゃ冷え切ってしまうから…そろそろ、出ない? …俺も克哉さんも、
これから日本で暫く本格的に活動するんだし。身体が資本っしょ? とりあえず…
上がって着替えようよ…それから、続きの話…しようよ…」
「…そうだね」
優しく背中を撫ぜられながら…克哉は太一の言葉に頷いていった。
それから…二人は濡れた衣類を脱ぎ去って、バスローブを身に纏ってベッドの方へと
戻っていく。
太一はまだ呆然としている克哉を気遣って…インスタントだが、暖かいコーヒーを用意して…
そっと相手に手渡していった。
「はい…克哉さん。あったまるから…飲んでよ…」
「う、ん…有難う…」
だが、コーヒーを飲んでいる時に、二人の間に落ちる沈黙はどこか重苦しくて。
太一の中には…色んな感情が渦巻いて、胸の内側から圧迫されそうなくらいであった
けれど…泣き腫らした目をしている克哉を前にして何も言えなくなっていく。
(…もっと言いたい事、いっぱいあるけど…! こんな克哉さんを前にして…これ以上、
責めるような事は言えないよな…!)
そして多分、どれだけ悔やんでも…何をしても、起こしてしまった過去は変えられない。
克哉を責める言葉を幾ら吐いたって、すでに手放したものは決して…戻らないのだ。
もう…もう一人の克哉と、今の克哉が一人に戻る事はないのだから…。
だが…この時、太一は心の底から…目の前にいる克哉にばかり想いを告げて…ただ一度
だって…眼鏡の方に想いを伝えなかった事を後悔していた。
憎かった。胸の内側が焼き焦げてしまうのではないかと思えるくらいに。
だが…強い憎しみは同時に、相手に対してそれだけ強い関心を抱いていた証でもあるのだ。
他者に強烈な感情を抱いた場合…上手く行っている時は愛や好意と呼ばれるものとなり。
それが負の感情なら、憎しみや憎悪と呼ばれるものとなる。
愛憎というのは、実際は紙一重の表裏一体のものなのだ。
憎んでいたという事は…それだけ、愛されたかった。優しくして欲しかったと相手に
望んでいたという事でもあるのだ…。
(あぁ…そうか。俺は…あんたにも…わ、ら…って…)
やっと気づく、単純明快な答え。
あの時抱いていた反発心の根っこにあったものに…失って太一は初めて自覚出来た。
笑って欲しかった癖に口を突くのは…憎まれ口ばかりで。
最終的に無理矢理手に入れようと強姦しようとしたんじゃ…相手の事ばかり責められは
しない。自分だって…結局同罪だったのだ。
だから…太一は克哉は手に入れられたが…眼鏡の方を失う結果になった。
悔しかった。ただ…自分の弱さやみっともなさに…笑いたい気分だった。
強い衝動が湧き上がる。
自分の中に溢れてくる様々な感情が、出口を求めて暴れ回っているみたいだ。
悲しみ、愛情…憎悪、喪失感…それらの全てが、一斉に太一の内部で競りあがって…
大きな奔流となっていく。
それをどうにか…吐き出したくて、太一は…荷物の中にあったギターに手を伸ばしていった。
「…ち、くしょう…!」
そして、感情のままに…ギターを掻き鳴らしていく。
指を、激情に突き動かされるままに動かして…今、溢れてくる感情を全てぶつけるように
一つのメロディを生み出していく。
それは洗練されたものとは決して言えない。だが…太一の、切ない感情がそのまま…
一曲の詩となって…部屋中に満たされていく。
画家はキャンバスに!
作家は自らが生み出す文章に!
役者は己が演じる物語の中に!
そして歌手は、歌に想いを込めて…!
その心を誰かに伝達していく。
彼は今、この瞬間…すれ違い、届かなかった想いを悔いて心から嘆いた。
その嘆きが…心の内で一つの澄み切った結晶となり…詩という形を持って
象っていた。
克哉を愛していた。どちらの克哉も…やっとその事実に思い至り…手のひらから
零れ落ちた方を初めて、心から得がたく想った。
だが…もう、遠く離れてしまった方にこの想いを直接届けられる保証など
どこにもないのだ。
だから、彼の心は叫びの代わりに詩を生み出す。
初めて…心を揺さぶる音楽に触れた時の感動を思い出す。
その想いが彼を突き動かし、歌手の道を進むことを決意させた。
歌は、詩は…遠く離れた者り文字を読めぬ同士を繋ぐ為に生まれた心の伝達手段だ。
人の口から口へ、記憶から記憶を辿り…時に変節しながらも、伝えられる事によって
生み出した者の心を他者に運んでいく。
―失くしてみて、初めて判ったよ…! 俺は…あんたにも幸せそうに…、笑っていて…
欲し、かったんだ…!
彼は胸を引き絞られるような、やっと気づけた思いに…涙をうっすらと浮かべていき、
奏でられていく調べに即興の歌詞をつけていく。
それは…まだ、完成された曲とは言える代物ではなかった。
だが…傍で聞いていた克哉は、そのメロディと言葉を聴いて…すぐに理解していった。
(あぁ…これは、あいつと…太一の、詩だ…)
聞いていて素直にそう感じた。
失った者を心から想い…その幸せを願う、切ないまでの片思いの詩。
MGNに登用されたCMソングは、克哉への愛情が込められた一曲ならば…これは、
太一の嘆きだ、叫びだ。
そして…伝えられなかった想いが鮮烈なまでに込められている。
―俺は、あんたに笑って欲しかった…!
詩の終わり、その調べは…その心からの叫びで終焉を迎えていく。
室内が再び静寂に包まれていった。
それは…悲しいまでの、単純で…切ない答え。
お互いにあの時…一緒にいた時に、ただ一度でも…心からの笑顔を浮かべていれば
自分たちの関係は何か変わったのだろうか。
相手も同じ想いを、自分に抱いていた事を知らない太一は…静かに…静かに雫を頬に
伝らせて、演奏が終わった後…糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちていく。
「太一…」
室内に、静寂が落ちていく。
克哉もいつしか…気づかない内に涙を零していた。
すれ違い続けた自分たち。言葉が足りなさ過ぎた事を悔やみながら…も、
太一が、あいつの事を想って…曲を奏でてくれた事を嬉しくも想っていたから。
―ねえ、聴こえるかい…? <俺>
俺達、最後まですれ違い続けていたけれど…。
太一はお前もちゃんと、想ってくれていたんだよ…。
もうお前に二度とオレは一人には戻れないけれど…。
いつか、この詩が…お前の耳に届いてくれる日が来てくれると良い。
そう願いながら…窓をふと、克哉は見遣っていく。
窓の外にはどこまでも深い夜空と、月が浮かんでいる。
眼鏡の方も…すでに、同じ空の下で…どこかで生きているのだろうか。
離れてしまった己の半身。
今はどこにいるのかも、その気配さえもすでに感じられない。
だが…彼はきっと、生きていくだろう。
どれくらい先の未来になるか判らない。
だが…いつか、もう一度…会いたい。
その時、お互いに笑って逢えたら良い。
そして逢えなくても…音楽という形で、太一のこの想いを…もう一人の自分に
伝わってくれれば良いと…克哉は心から願った。
そうすれば…きっと、この悲しい事ばかりだった自分たちの物語も…
少しは救いが生まれるだろう。
克哉はそうして…瞼を閉じていく。
―月の光だけが、どこまでも優しく…彼らを包み込んでいた―
―眼鏡がクラブRで目覚めた頃とほぼ同じ頃。
三年ぶりに東京の土を踏んで、都内でも有名な高級ホテルに…太一と克哉は
宿泊していた。
少し外の空気を吸いに出てくる、と言って戻って来た直後から…克哉の様子は
おかしく、バスルームに消えてから…一時間程が経過しても、シャワーの音がまったく
消えようとしていなかった。
(何かおかしくないか…?)
一応、三年間…恋人同士としてと同時に、歌手とそのマネージャーとしても…自分達は
一緒に過ごしていた。
だから、克哉は基本的にシャワー党で、普段の入浴時間は長くても10~15分程度だし
湯船にゆっくりと浸かる事は滅多にない。
…そんな彼がこんなに長い時間、シャワー室から出てこない事に太一はかなりの違和感を
覚えていた。
最初は随分と迷った。幾ら恋人関係にあったとしても…相手がシャワールームに消えた後に
平気で入り込むような真似はそう簡単にやれるものではない。
だが…迷った末に、太一は…机の上で、新曲用の譜面と睨めっこするのを辞めて…扉の
奥に入る決意を固めていった。
「ねえっ! 克哉さん大丈夫っ? 何かずっとシャワーの音が…聞こえ続けているんだけど?」
心配になって…勢いよく浴室の中に入ると同時に、尋常じゃない光景にぶつかって…一瞬
ぎょっとなる。
克哉は…服を着たまま、シャワーの湯を呆然と浴びていた。
こちらから背を向けたまま…何か身体の芯のようなものを失って…指先から腕に掛けて
ダラリとしている。
崩れそうな身体を壁に凭れさせながら…何かを堪えるかのように、背中を震わせ続けていた。
「克哉、さん…?」
信じられないものを見たような思いで、太一が呟く。
だが…彼の声にも、今の克哉は一切反応しようとしなかった。
「克哉さん! ねえ…克哉さんってばっ! 一体どうしたんだよ! 久しぶりに…日本に戻って
来れたから、ナーバスにでもなっちゃったの? ねえってばっ!」
相手の肩を掴んでこちらを向かせて、必死の形相を浮かべて声を掛けていくと…やっと
克哉の視線がゆっくりとこちらに向けられていった。
「た、いち…?」
「…本当に、どうしたんだよ…! 日本に来るっていう少し前くらいから…克哉さん、随分と
暗い雰囲気漂わせていたけれど…? もしかして、明日には久しぶりに御堂さんとか
本多さんとかと顔合わせるのが心配? それとも…俺の実家の人間が、何か行動を
起こすんじゃないかって不安があるの? お願いだから…何かあるなら、キチンと俺に
話してよっ! 貴方がそんな顔しているのに…俺が、放っておける訳がないじゃんか…!」
自分がびしょびしょになるのも構わず、太一はシャワーの湯を止めると同時に…克哉の
身体を必死に抱きしめながら、そう訴えかけていく。
太一は緑のTシャツにブルージーンズ。克哉は白いYシャツに紺のスーツズボンという
格好であったが…それが大量の水気を帯びて、あっという間に濡れて肌にべったりと
張り付いていく。だが…太一はまったく構わなかった。
「…御免、ちょっと…東京に久しぶりに戻って来て…感傷的になった、だけ…だから。
もう大丈夫だから、心配しなくて…良いよ」
儚い笑顔を浮かべながら克哉がそう言うと…訝しげな顔を浮かべながら、ジッと太一が
こちらを見つめていって…「嘘だね」と小さく呟いて見せた。
「…感傷的になったくらいで、克哉さんがこんな真似すると思えないよ。…ねえ、お願い
だからキチンと俺に言ってくんない? …俺にとって克哉さんは大事な人なんだよ?
その人が…こんなに悲しそうに泣いている姿を見て、黙っているような真似は…俺には
絶対に出来ないし、したくないんだ…! だから…どんな事でも、良い…! 俺に言ってよ!」
―最近の克哉は、どこか不安そうにしている事が多かった。
アメリカに渡って、向こうで生活しながら音楽活動を始めて三年。
地道なライブ活動やコンサートを開催し続けて…ファンが増え始めて、向こうでもそれなりの
知名度を持つようになって…ここ一年ばかりは、音楽活動だけでも十分に生活出来るレベルに
まで彼らは成功していた。
最初の頃は、生きていく為に…そして夢を叶えたい一心で…迷っている暇はなかった。
苦楽を共にして、どんな時も克哉は自分の傍らにいて…支えてくれていた。
だから太一は、懸命に…話してくれ! と強く訴えかけていく。
克哉が苦しんでいる事だったら、分かち合いたい。そして少しでもその悲しみを癒したい。
今の彼には…その想いしかなかったから―
それだけ強く言って、やっと…克哉はこちらに胸の内を伝える決心を…したようだ。
そして語られた内容は…太一を驚愕させるのに足るものだった。
「…今日、たった今…もう一人の<俺>と決別をしたんだ…と言ったら、太一は…
信じて、くれる…?」
「な、に…それ…?」
予想してもいなかった言葉を口にされて、太一は瞠目していく。
だが克哉は自嘲的に笑いながら言葉を続けていった。
「…はは、やっぱり…荒唐無稽な話だって俺だって思うけどね。けれど…本当、なんだ。
三年前から、あいつの心の傷が癒えて…目覚める頃になったら…あいつに、身体を
与えてやって欲しいって…頼んであったんだ。それで…今夜、その人がオレの前に
現れて…オレの中から、もう一人の<俺>を切り離していったんだ…。
とっくに覚悟していた事だったんだけどね…いざ、その日が来たらこんなに動揺して…
オレ、本当にみっともないね…」
「な、んだよ…それ? 克哉さん…マジ、で言っているの…?」
太一は唇を震わせて、信じられないものを見るような眼差しでこちらを凝視していく。
それに力なく微笑みながら、小さく克哉が頷いていった。
誰に話したって正気を疑われそうな内容だった。
だが…これは紛れもない事実。それが…こんなにも克哉の心を深く穿ち、大きな虚ろを
生み出していた。
「うん…大真面目に言っている。けど…同時に、正気を疑われそうな内容である事は…
自分でも自覚がある。だから…言いたくなかったんだ…」
力なく微笑みながら、克哉は…濡れた眼差しでこちらを見据えていく。
潤ったその瞳はとても澄んでいて嘘を言っている気配など一カケラも存在しない。
太一の全身が戦慄いていく。
そして…肩を痛いぐらいに掴まれながら、叫ばれた!
「なん、だよ…! 一体それ…何なんだよ! 訳が判らないよっ! それって…克哉さんの
中に…あの、眼鏡掛けて偉そうにしている方の人格が…もう存在しないって事なのかよ!」
「そうだよ…。けど、どうしたの…太一? 太一は…あいつの方を嫌っていたんじゃないの…?
何で、あいつの方がいなくなったって聞いて…お前が、そんなに…!」
「冷静でなんかいられる訳がないじゃんか! 克哉さんの半分が…無くなってしまったような
ものなんでしょ! そんな話を聞いて…どう、して…!」
そして太一は悲痛そうな表情を浮かべていく。
克哉にとってはますます判らない。
太一は、もう一人の自分の事を嫌っていると…彼自身も思い込んでいた。
だから…三年前に決別する事を決めて…今日、それを実行に移したというのに…彼の
この反応はまるで…。
「な、んで…? 太一はもう一人の<俺>を嫌っていたんじゃないの…? だからオレは…
あいつ、を…オレの中から切り離して…お互いに関係ない距離で生きた方が良いと…
そう考えて、訣別することにしたのに…」
「だからっ! 何で…なんだよ! 確かに…向こうの克哉さんに対して俺が抱いている
感情は複雑だけど…あいつが手が届かない処に行ってしまう事なんて…俺は望んで
いなかったのにっ!」
確かに、自分の中に存在する…眼鏡に関しての感情は複雑で。
克哉は単純に「大好き」で「愛している存在」だ。
けれど…もう一人の克哉には無理矢理犯されたり、冷たい態度や言動しかぶつけられた
記憶はない。だから…今でも思い出すと、ムカムカするし…心中穏やかにはなれない。
だが、そんな状態でも…自分は眼鏡を、嫌いでは…なかったのだ…。
「…なん、で…もっと…それを…早く…言って…くれなかった…んだよっ!」
泣きながら克哉が訴えていく。
だが…太一も負けていなかった。
お互いに苦しそうな顔を浮かべながら…この三年間、敢えて避けていた…もう一人の
克哉に関しての想いをぶつけあっていく。
ケンカは今までも数多くしてきた。
だが…どこかで自分たちの間には遠慮があったのかも知れない。
それをこの瞬間、ぶち壊して…初めて二人は眼鏡に関する事で衝突していった。
「…後、一日…いや、数時間早く言ってくれたら…! オレはあいつを…手放さなかったのに!
どうして…!」
「それはこっちの台詞だよ! 克哉さん…いつもこの件を無意識に避けていたじゃんか!
そのせいで俺はずっとくすぶり続けていたよ…! 俺が克哉さんと初めて結ばれた翌日から
あいつの影は信じられないくらいに感じられなくなって…本当にいたのか疑いたくなった事は
何度もあった。
それで俺も…あいつの事はどうなったのか…ずっと気になり続けていたけれど…克哉さんが
あまり触れて欲しくなさそうだったから…言わなかっただけだよ!」
お互いに今にも泣きそうな…いや、実際にすでに泣いていたのかも知れなかった。
必死に相手に縋り付いて、今にも崩れそうな身体を支えあっていく。
太一は、震え続けていた。克哉も…その場に膝を突いてしまいそうだった。
だが…どうにか持ちこたえて…至近距離で互いの顔を見つめ合っていった。
「…何で、俺に一言でも…相談してくれなかったんだよ…」
「…ご、めん…だけど…」
「…もう、アイツは…克哉さんの中に…本当にいない、の・・・?」
「う、ん…もういない。今頃は…きっと、どこかで目覚めている筈だよ…。あの人の店が
どこにあるかは判らないし…オレから切り離された<俺>が…どこで生活して、どうやって
生きていくのかは…もう、あいつから連絡をくれない限りは…知る術はないから…」
さっき、覚悟を決めて…Mr.Rに…この三年間で貯めておいたもう一人の自分が
暫く食いつないでいける額が入った通帳も一緒に手渡した。
あれと免許証さえあれば…もう一人の自分はきっと生きていける。
そう確信して…笑顔で、送り出してやるつもりだったのに…あいつがいた場所が
あまりにぽっかりと空きすぎていて。
その空虚な感覚に耐え切れなかったので…克哉は、泣いていたのだ。
「馬鹿…! 本当に克哉さんって馬鹿だよ…! 何でそんな重大なことを俺に
一言も相談せずに勝手に決めたんだよ! 俺は…あいつを憎いと思った事あるよっ!
見ているだけで腹が立っていたし…けど、心底…嫌いじゃ…なかったのに!」
「…だって、太一の態度見ていたら…とてもそうには、思えなかった、よ…。
てっきり…嫌っているとしか…」
「そうだね…俺も最初は嫌いだと思っていたよ。あいつ…克哉さんと本当に同一人物
なのかなって疑いたくなるくらいに性格性悪だし…可愛くなさすぎだし。
けれど…あれから、貴方の中に…あいつの影が見えなくなってから…ずっと考えて
いたんだ。あいつを見てて…あれだけ腹が立っていたのは…あいつが、俺を嫌っている
ような冷たい態度しか取らなかったからじゃない、かって…」
「…それ、は…どういう、意味…?」
「…ようするに、克哉さんの一部に…俺は、嫌われているのが悲しかったし辛かった。
だから…俺も、あいつに対しては険しい態度しか取れなくなっていた。
けど内心じゃ…俺、あいつの方にも笑っていて欲しかったんだよ。大好きな人の一部に…
あんなに酷い態度を取られているのが…俺は悲しかった。けれど…どうしようもない事だって
思い込んでいたから、あんな態度を…当時の俺は取るしか…なかったんだよ…」
そう、眼鏡は…紛れもなく克哉の一部だ。
一見するとまったく別人に見える。
こちらに対しての態度は酷いものだったし…最後までそれは変わらなかった。
けれど好きな人のもう一つの心に…嫌われてしまっていたら、それは身を引き裂かれる
くらいに苦しくなるだろう。
当時の太一は…それにずっと苦しんでいた。
好きだと思って冷たい態度を取られるよりも…いっそ嫌いと思い込んでいる方が
耐えられたし…誤魔化している方が気持ちも楽だったのだ。
三年ぶりに東京の土を踏んで、都内でも有名な高級ホテルに…太一と克哉は
宿泊していた。
少し外の空気を吸いに出てくる、と言って戻って来た直後から…克哉の様子は
おかしく、バスルームに消えてから…一時間程が経過しても、シャワーの音がまったく
消えようとしていなかった。
(何かおかしくないか…?)
一応、三年間…恋人同士としてと同時に、歌手とそのマネージャーとしても…自分達は
一緒に過ごしていた。
だから、克哉は基本的にシャワー党で、普段の入浴時間は長くても10~15分程度だし
湯船にゆっくりと浸かる事は滅多にない。
…そんな彼がこんなに長い時間、シャワー室から出てこない事に太一はかなりの違和感を
覚えていた。
最初は随分と迷った。幾ら恋人関係にあったとしても…相手がシャワールームに消えた後に
平気で入り込むような真似はそう簡単にやれるものではない。
だが…迷った末に、太一は…机の上で、新曲用の譜面と睨めっこするのを辞めて…扉の
奥に入る決意を固めていった。
「ねえっ! 克哉さん大丈夫っ? 何かずっとシャワーの音が…聞こえ続けているんだけど?」
心配になって…勢いよく浴室の中に入ると同時に、尋常じゃない光景にぶつかって…一瞬
ぎょっとなる。
克哉は…服を着たまま、シャワーの湯を呆然と浴びていた。
こちらから背を向けたまま…何か身体の芯のようなものを失って…指先から腕に掛けて
ダラリとしている。
崩れそうな身体を壁に凭れさせながら…何かを堪えるかのように、背中を震わせ続けていた。
「克哉、さん…?」
信じられないものを見たような思いで、太一が呟く。
だが…彼の声にも、今の克哉は一切反応しようとしなかった。
「克哉さん! ねえ…克哉さんってばっ! 一体どうしたんだよ! 久しぶりに…日本に戻って
来れたから、ナーバスにでもなっちゃったの? ねえってばっ!」
相手の肩を掴んでこちらを向かせて、必死の形相を浮かべて声を掛けていくと…やっと
克哉の視線がゆっくりとこちらに向けられていった。
「た、いち…?」
「…本当に、どうしたんだよ…! 日本に来るっていう少し前くらいから…克哉さん、随分と
暗い雰囲気漂わせていたけれど…? もしかして、明日には久しぶりに御堂さんとか
本多さんとかと顔合わせるのが心配? それとも…俺の実家の人間が、何か行動を
起こすんじゃないかって不安があるの? お願いだから…何かあるなら、キチンと俺に
話してよっ! 貴方がそんな顔しているのに…俺が、放っておける訳がないじゃんか…!」
自分がびしょびしょになるのも構わず、太一はシャワーの湯を止めると同時に…克哉の
身体を必死に抱きしめながら、そう訴えかけていく。
太一は緑のTシャツにブルージーンズ。克哉は白いYシャツに紺のスーツズボンという
格好であったが…それが大量の水気を帯びて、あっという間に濡れて肌にべったりと
張り付いていく。だが…太一はまったく構わなかった。
「…御免、ちょっと…東京に久しぶりに戻って来て…感傷的になった、だけ…だから。
もう大丈夫だから、心配しなくて…良いよ」
儚い笑顔を浮かべながら克哉がそう言うと…訝しげな顔を浮かべながら、ジッと太一が
こちらを見つめていって…「嘘だね」と小さく呟いて見せた。
「…感傷的になったくらいで、克哉さんがこんな真似すると思えないよ。…ねえ、お願い
だからキチンと俺に言ってくんない? …俺にとって克哉さんは大事な人なんだよ?
その人が…こんなに悲しそうに泣いている姿を見て、黙っているような真似は…俺には
絶対に出来ないし、したくないんだ…! だから…どんな事でも、良い…! 俺に言ってよ!」
―最近の克哉は、どこか不安そうにしている事が多かった。
アメリカに渡って、向こうで生活しながら音楽活動を始めて三年。
地道なライブ活動やコンサートを開催し続けて…ファンが増え始めて、向こうでもそれなりの
知名度を持つようになって…ここ一年ばかりは、音楽活動だけでも十分に生活出来るレベルに
まで彼らは成功していた。
最初の頃は、生きていく為に…そして夢を叶えたい一心で…迷っている暇はなかった。
苦楽を共にして、どんな時も克哉は自分の傍らにいて…支えてくれていた。
だから太一は、懸命に…話してくれ! と強く訴えかけていく。
克哉が苦しんでいる事だったら、分かち合いたい。そして少しでもその悲しみを癒したい。
今の彼には…その想いしかなかったから―
それだけ強く言って、やっと…克哉はこちらに胸の内を伝える決心を…したようだ。
そして語られた内容は…太一を驚愕させるのに足るものだった。
「…今日、たった今…もう一人の<俺>と決別をしたんだ…と言ったら、太一は…
信じて、くれる…?」
「な、に…それ…?」
予想してもいなかった言葉を口にされて、太一は瞠目していく。
だが克哉は自嘲的に笑いながら言葉を続けていった。
「…はは、やっぱり…荒唐無稽な話だって俺だって思うけどね。けれど…本当、なんだ。
三年前から、あいつの心の傷が癒えて…目覚める頃になったら…あいつに、身体を
与えてやって欲しいって…頼んであったんだ。それで…今夜、その人がオレの前に
現れて…オレの中から、もう一人の<俺>を切り離していったんだ…。
とっくに覚悟していた事だったんだけどね…いざ、その日が来たらこんなに動揺して…
オレ、本当にみっともないね…」
「な、んだよ…それ? 克哉さん…マジ、で言っているの…?」
太一は唇を震わせて、信じられないものを見るような眼差しでこちらを凝視していく。
それに力なく微笑みながら、小さく克哉が頷いていった。
誰に話したって正気を疑われそうな内容だった。
だが…これは紛れもない事実。それが…こんなにも克哉の心を深く穿ち、大きな虚ろを
生み出していた。
「うん…大真面目に言っている。けど…同時に、正気を疑われそうな内容である事は…
自分でも自覚がある。だから…言いたくなかったんだ…」
力なく微笑みながら、克哉は…濡れた眼差しでこちらを見据えていく。
潤ったその瞳はとても澄んでいて嘘を言っている気配など一カケラも存在しない。
太一の全身が戦慄いていく。
そして…肩を痛いぐらいに掴まれながら、叫ばれた!
「なん、だよ…! 一体それ…何なんだよ! 訳が判らないよっ! それって…克哉さんの
中に…あの、眼鏡掛けて偉そうにしている方の人格が…もう存在しないって事なのかよ!」
「そうだよ…。けど、どうしたの…太一? 太一は…あいつの方を嫌っていたんじゃないの…?
何で、あいつの方がいなくなったって聞いて…お前が、そんなに…!」
「冷静でなんかいられる訳がないじゃんか! 克哉さんの半分が…無くなってしまったような
ものなんでしょ! そんな話を聞いて…どう、して…!」
そして太一は悲痛そうな表情を浮かべていく。
克哉にとってはますます判らない。
太一は、もう一人の自分の事を嫌っていると…彼自身も思い込んでいた。
だから…三年前に決別する事を決めて…今日、それを実行に移したというのに…彼の
この反応はまるで…。
「な、んで…? 太一はもう一人の<俺>を嫌っていたんじゃないの…? だからオレは…
あいつ、を…オレの中から切り離して…お互いに関係ない距離で生きた方が良いと…
そう考えて、訣別することにしたのに…」
「だからっ! 何で…なんだよ! 確かに…向こうの克哉さんに対して俺が抱いている
感情は複雑だけど…あいつが手が届かない処に行ってしまう事なんて…俺は望んで
いなかったのにっ!」
確かに、自分の中に存在する…眼鏡に関しての感情は複雑で。
克哉は単純に「大好き」で「愛している存在」だ。
けれど…もう一人の克哉には無理矢理犯されたり、冷たい態度や言動しかぶつけられた
記憶はない。だから…今でも思い出すと、ムカムカするし…心中穏やかにはなれない。
だが、そんな状態でも…自分は眼鏡を、嫌いでは…なかったのだ…。
「…なん、で…もっと…それを…早く…言って…くれなかった…んだよっ!」
泣きながら克哉が訴えていく。
だが…太一も負けていなかった。
お互いに苦しそうな顔を浮かべながら…この三年間、敢えて避けていた…もう一人の
克哉に関しての想いをぶつけあっていく。
ケンカは今までも数多くしてきた。
だが…どこかで自分たちの間には遠慮があったのかも知れない。
それをこの瞬間、ぶち壊して…初めて二人は眼鏡に関する事で衝突していった。
「…後、一日…いや、数時間早く言ってくれたら…! オレはあいつを…手放さなかったのに!
どうして…!」
「それはこっちの台詞だよ! 克哉さん…いつもこの件を無意識に避けていたじゃんか!
そのせいで俺はずっとくすぶり続けていたよ…! 俺が克哉さんと初めて結ばれた翌日から
あいつの影は信じられないくらいに感じられなくなって…本当にいたのか疑いたくなった事は
何度もあった。
それで俺も…あいつの事はどうなったのか…ずっと気になり続けていたけれど…克哉さんが
あまり触れて欲しくなさそうだったから…言わなかっただけだよ!」
お互いに今にも泣きそうな…いや、実際にすでに泣いていたのかも知れなかった。
必死に相手に縋り付いて、今にも崩れそうな身体を支えあっていく。
太一は、震え続けていた。克哉も…その場に膝を突いてしまいそうだった。
だが…どうにか持ちこたえて…至近距離で互いの顔を見つめ合っていった。
「…何で、俺に一言でも…相談してくれなかったんだよ…」
「…ご、めん…だけど…」
「…もう、アイツは…克哉さんの中に…本当にいない、の・・・?」
「う、ん…もういない。今頃は…きっと、どこかで目覚めている筈だよ…。あの人の店が
どこにあるかは判らないし…オレから切り離された<俺>が…どこで生活して、どうやって
生きていくのかは…もう、あいつから連絡をくれない限りは…知る術はないから…」
さっき、覚悟を決めて…Mr.Rに…この三年間で貯めておいたもう一人の自分が
暫く食いつないでいける額が入った通帳も一緒に手渡した。
あれと免許証さえあれば…もう一人の自分はきっと生きていける。
そう確信して…笑顔で、送り出してやるつもりだったのに…あいつがいた場所が
あまりにぽっかりと空きすぎていて。
その空虚な感覚に耐え切れなかったので…克哉は、泣いていたのだ。
「馬鹿…! 本当に克哉さんって馬鹿だよ…! 何でそんな重大なことを俺に
一言も相談せずに勝手に決めたんだよ! 俺は…あいつを憎いと思った事あるよっ!
見ているだけで腹が立っていたし…けど、心底…嫌いじゃ…なかったのに!」
「…だって、太一の態度見ていたら…とてもそうには、思えなかった、よ…。
てっきり…嫌っているとしか…」
「そうだね…俺も最初は嫌いだと思っていたよ。あいつ…克哉さんと本当に同一人物
なのかなって疑いたくなるくらいに性格性悪だし…可愛くなさすぎだし。
けれど…あれから、貴方の中に…あいつの影が見えなくなってから…ずっと考えて
いたんだ。あいつを見てて…あれだけ腹が立っていたのは…あいつが、俺を嫌っている
ような冷たい態度しか取らなかったからじゃない、かって…」
「…それ、は…どういう、意味…?」
「…ようするに、克哉さんの一部に…俺は、嫌われているのが悲しかったし辛かった。
だから…俺も、あいつに対しては険しい態度しか取れなくなっていた。
けど内心じゃ…俺、あいつの方にも笑っていて欲しかったんだよ。大好きな人の一部に…
あんなに酷い態度を取られているのが…俺は悲しかった。けれど…どうしようもない事だって
思い込んでいたから、あんな態度を…当時の俺は取るしか…なかったんだよ…」
そう、眼鏡は…紛れもなく克哉の一部だ。
一見するとまったく別人に見える。
こちらに対しての態度は酷いものだったし…最後までそれは変わらなかった。
けれど好きな人のもう一つの心に…嫌われてしまっていたら、それは身を引き裂かれる
くらいに苦しくなるだろう。
当時の太一は…それにずっと苦しんでいた。
好きだと思って冷たい態度を取られるよりも…いっそ嫌いと思い込んでいる方が
耐えられたし…誤魔化している方が気持ちも楽だったのだ。
「嘘、だろ…」
呆然としながら、克哉はバスルームの床に崩れ落ちていく。
どうして…今まで、自分はこの話題を避けていたんだろうと思った。
…眼鏡側の感情は、すでに知っている。
彼が奈落に落ちる寸前にどれだけ深く…自分と、太一を強く想ってくれていたのか…
強烈に流れ込んで来たから。
だが、三年前に…自分が彼が幸せになれるように下した決断が間違いだったとしたら
空回りも良い処、だった。
「克哉、さん…」
太一も…いつしか、涙を浮かべていた。
…それから、言葉もなく…彼の腕の中に抱き込まれていた。
彼は何も言わない。ただ…重い沈黙だけが落ちていく。
「馬鹿、みたいだ…オレたち、「三人」とも…本当に、馬鹿過ぎるよ…。
結局、蓋を開けてみれば…全員…好きあっていたんじゃないか。それなのに、
傷つけあって、ボロボロになって…すれ違い続けて。離れて、手遅れになってから…
その事にやっと気づくなんて…」
「…そうだね。けどさ…克哉さん。俺…失くしたからこそ、やっと気づけた事って
沢山…あるよ。少なくとも、俺にとっては…」
ぎゅっと…濡れて冷えた克哉の身体を、太一が抱きすくめていく。
お互いにびしょびしょで…衣類が肌に張り付いて寒かったけれど…身体が重なりあって
いる部位だけは…少し、暖かかった。
「…このままじゃ冷え切ってしまうから…そろそろ、出ない? …俺も克哉さんも、
これから日本で暫く本格的に活動するんだし。身体が資本っしょ? とりあえず…
上がって着替えようよ…それから、続きの話…しようよ…」
「…そうだね」
優しく背中を撫ぜられながら…克哉は太一の言葉に頷いていった。
それから…二人は濡れた衣類を脱ぎ去って、バスローブを身に纏ってベッドの方へと
戻っていく。
太一はまだ呆然としている克哉を気遣って…インスタントだが、暖かいコーヒーを用意して…
そっと相手に手渡していった。
「はい…克哉さん。あったまるから…飲んでよ…」
「う、ん…有難う…」
だが、コーヒーを飲んでいる時に、二人の間に落ちる沈黙はどこか重苦しくて。
太一の中には…色んな感情が渦巻いて、胸の内側から圧迫されそうなくらいであった
けれど…泣き腫らした目をしている克哉を前にして何も言えなくなっていく。
(…もっと言いたい事、いっぱいあるけど…! こんな克哉さんを前にして…これ以上、
責めるような事は言えないよな…!)
そして多分、どれだけ悔やんでも…何をしても、起こしてしまった過去は変えられない。
克哉を責める言葉を幾ら吐いたって、すでに手放したものは決して…戻らないのだ。
もう…もう一人の克哉と、今の克哉が一人に戻る事はないのだから…。
だが…この時、太一は心の底から…目の前にいる克哉にばかり想いを告げて…ただ一度
だって…眼鏡の方に想いを伝えなかった事を後悔していた。
憎かった。胸の内側が焼き焦げてしまうのではないかと思えるくらいに。
だが…強い憎しみは同時に、相手に対してそれだけ強い関心を抱いていた証でもあるのだ。
他者に強烈な感情を抱いた場合…上手く行っている時は愛や好意と呼ばれるものとなり。
それが負の感情なら、憎しみや憎悪と呼ばれるものとなる。
愛憎というのは、実際は紙一重の表裏一体のものなのだ。
憎んでいたという事は…それだけ、愛されたかった。優しくして欲しかったと相手に
望んでいたという事でもあるのだ…。
(あぁ…そうか。俺は…あんたにも…わ、ら…って…)
やっと気づく、単純明快な答え。
あの時抱いていた反発心の根っこにあったものに…失って太一は初めて自覚出来た。
笑って欲しかった癖に口を突くのは…憎まれ口ばかりで。
最終的に無理矢理手に入れようと強姦しようとしたんじゃ…相手の事ばかり責められは
しない。自分だって…結局同罪だったのだ。
だから…太一は克哉は手に入れられたが…眼鏡の方を失う結果になった。
悔しかった。ただ…自分の弱さやみっともなさに…笑いたい気分だった。
強い衝動が湧き上がる。
自分の中に溢れてくる様々な感情が、出口を求めて暴れ回っているみたいだ。
悲しみ、愛情…憎悪、喪失感…それらの全てが、一斉に太一の内部で競りあがって…
大きな奔流となっていく。
それをどうにか…吐き出したくて、太一は…荷物の中にあったギターに手を伸ばしていった。
「…ち、くしょう…!」
そして、感情のままに…ギターを掻き鳴らしていく。
指を、激情に突き動かされるままに動かして…今、溢れてくる感情を全てぶつけるように
一つのメロディを生み出していく。
それは洗練されたものとは決して言えない。だが…太一の、切ない感情がそのまま…
一曲の詩となって…部屋中に満たされていく。
画家はキャンバスに!
作家は自らが生み出す文章に!
役者は己が演じる物語の中に!
そして歌手は、歌に想いを込めて…!
その心を誰かに伝達していく。
彼は今、この瞬間…すれ違い、届かなかった想いを悔いて心から嘆いた。
その嘆きが…心の内で一つの澄み切った結晶となり…詩という形を持って
象っていた。
克哉を愛していた。どちらの克哉も…やっとその事実に思い至り…手のひらから
零れ落ちた方を初めて、心から得がたく想った。
だが…もう、遠く離れてしまった方にこの想いを直接届けられる保証など
どこにもないのだ。
だから、彼の心は叫びの代わりに詩を生み出す。
初めて…心を揺さぶる音楽に触れた時の感動を思い出す。
その想いが彼を突き動かし、歌手の道を進むことを決意させた。
歌は、詩は…遠く離れた者り文字を読めぬ同士を繋ぐ為に生まれた心の伝達手段だ。
人の口から口へ、記憶から記憶を辿り…時に変節しながらも、伝えられる事によって
生み出した者の心を他者に運んでいく。
―失くしてみて、初めて判ったよ…! 俺は…あんたにも幸せそうに…、笑っていて…
欲し、かったんだ…!
彼は胸を引き絞られるような、やっと気づけた思いに…涙をうっすらと浮かべていき、
奏でられていく調べに即興の歌詞をつけていく。
それは…まだ、完成された曲とは言える代物ではなかった。
だが…傍で聞いていた克哉は、そのメロディと言葉を聴いて…すぐに理解していった。
(あぁ…これは、あいつと…太一の、詩だ…)
聞いていて素直にそう感じた。
失った者を心から想い…その幸せを願う、切ないまでの片思いの詩。
MGNに登用されたCMソングは、克哉への愛情が込められた一曲ならば…これは、
太一の嘆きだ、叫びだ。
そして…伝えられなかった想いが鮮烈なまでに込められている。
―俺は、あんたに笑って欲しかった…!
詩の終わり、その調べは…その心からの叫びで終焉を迎えていく。
室内が再び静寂に包まれていった。
それは…悲しいまでの、単純で…切ない答え。
お互いにあの時…一緒にいた時に、ただ一度でも…心からの笑顔を浮かべていれば
自分たちの関係は何か変わったのだろうか。
相手も同じ想いを、自分に抱いていた事を知らない太一は…静かに…静かに雫を頬に
伝らせて、演奏が終わった後…糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちていく。
「太一…」
室内に、静寂が落ちていく。
克哉もいつしか…気づかない内に涙を零していた。
すれ違い続けた自分たち。言葉が足りなさ過ぎた事を悔やみながら…も、
太一が、あいつの事を想って…曲を奏でてくれた事を嬉しくも想っていたから。
―ねえ、聴こえるかい…? <俺>
俺達、最後まですれ違い続けていたけれど…。
太一はお前もちゃんと、想ってくれていたんだよ…。
もうお前に二度とオレは一人には戻れないけれど…。
いつか、この詩が…お前の耳に届いてくれる日が来てくれると良い。
そう願いながら…窓をふと、克哉は見遣っていく。
窓の外にはどこまでも深い夜空と、月が浮かんでいる。
眼鏡の方も…すでに、同じ空の下で…どこかで生きているのだろうか。
離れてしまった己の半身。
今はどこにいるのかも、その気配さえもすでに感じられない。
だが…彼はきっと、生きていくだろう。
どれくらい先の未来になるか判らない。
だが…いつか、もう一度…会いたい。
その時、お互いに笑って逢えたら良い。
そして逢えなくても…音楽という形で、太一のこの想いを…もう一人の自分に
伝わってくれれば良いと…克哉は心から願った。
そうすれば…きっと、この悲しい事ばかりだった自分たちの物語も…
少しは救いが生まれるだろう。
克哉はそうして…瞼を閉じていく。
―月の光だけが、どこまでも優しく…彼らを包み込んでいた―
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香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
鬼畜眼鏡にハマり込みました。
当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)
当ブログサイトへのリンク方法
URL=http://yukio0201.blog.shinobi.jp/
リンクは同ジャンルの方はフリーです。気軽に切り貼りどうぞ。
…一言報告して貰えると凄く嬉しいです。
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