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確か以前にこんな雨が降った日も克哉にとっては
辛い事が確かにあった。
あの雨の日に…克哉は、御堂との縁が確かに切れてしまった
なら、今度は本多を自分は失うのだろうか?
そう思ったら辛くて、辛くて…涙が零れ続けた
この冷たい雨は、まるで…天が泣いているよう
自分の気持ちに呼応して、雨は降り注ぎ続けていた―
119に通報して、救急車の手配を終えると克哉は慌てて
車のボンネットの上に横たわっている本多の元へと駆けつけていった。
「本多! しっかりしろよ…!」
「…か、つや…か?」
克哉が呼びかけると…本多は弱々しくこちらを振り向いて…笑顔を
刻んでいこうとしていた。
だが激痛の為に、どうしてもそれは引きつったものになってしまっていた。
「そうだよ…! これ、一体何なんだよ! どうしてお前が…ここにいて、
こんな酷い状態になっていなきゃいけないんだよ! どうして…どうしてっ…!」
克哉は混乱していた。
本来ならこの後、御堂とこの付近で合流して…週末を一緒に過ごす予定だった。
最初、この雨だから…と御堂に指定された通り、新しい会社の一階のロビーで
暫く待ち続けていた。
だがいつまで待っても来ないので…問い合わせた処、御堂は自分と入れ違いに
外に出て行ったというのだ。
御堂は当初、克哉を其処で待たせて…会社の前まで車で乗り付ける形で合流
する予定だった。
その準備の最中に、本多と例の元工場長に捕まり…かなりの長い時間をロス
してしまった訳だが、克哉はこの時点ではその事実を知らなかった。
「…はは、御堂の奴が…ここで、車に轢かれそうになってよ。そうなって万が一の
事が、あったら…お前が泣くかな、と思っちまって。気づいたら庇って代わりに
跳ねられちまったよ…格好、悪いよな…」
「御堂さんが…?」
その瞬間、バッと例の男を取り押さえている御堂の姿を仰ぎ見た。
見る限り、御堂は無事そうだ。
上等そうなスーツは雨に濡れてベショベショになっているが…本多と違って
大きな外傷らしきものはない。
それだけが大きな救いであった。
「…御堂は、無事だぜ。俺が直前で…突き飛ばした、からな…」
「…そう、なんだ…。ありがとう…けど、オレはこんなの…望んじゃいなかったよ。
確かに…御堂さんは大切な人だけど、本多も…オレにとっては、大切な友達なんだ。
どっちを失っても…オレには辛いし、苦しいんだ…! それくらいは判れよ…」
ボロボロ、と涙を零しながら…本多の顔を見つめていく。
「…泣く、なよ。俺は…大丈夫、だよ…。死には、しない…。俺の、頑丈さは…
学生時代からの付き合いのお前が、良く…知っている、だろ…?」
本多の声は途切れ途切れで、弱々しくなっていた。
だが、惚れた相手を安心させる為に必死で笑ってみせる。
そう…死ぬつもりなんてない。
ギリギリまで本多は生きる事を諦めるつもりはなかったから。
それに幸いにも、地面に叩き付けられたり轢かれなかったりしたおかげで
かなりのスピードで跳ねられた割には本多の傷は軽度だった。
アバラ骨数本ヒビ割れて、軽い腕の骨折。それと鞭打ちに…背面に大きな
ガラスの破片が幾つか突き刺さっている状態だった。
それだけなら、命に別状はない。
ただ問題なのは…ガラスが突き刺さったことにより微量ながら未だに出血が
続いている事と、冷たい雨に打たれている事だった。
怪我で命を落とす心配がないとは言え、微量とは言え長時間出血が続けて
体温低下を引き起こせば危険な状態に陥るのは明白だった。
「あぁ…でも、凄ぇ、寒いな…。せめて、この雨だけでも…どうにか、
ならない…もの、かな…」
本多も怪我を負った状態で10分以上、この雨に打たれ続けているのは堪えて
いるみたいだった。
その時、克哉はハっとなって…大急ぎで先程落とした自分の傘を拾いに
向かっていく。
―そして自分が濡れるのも構わず、必死の形相で本多の身体の上に傘を
広げて…少しでもその身体が濡れるのを防いでいった。
応急処置をしようにも、その知識も経験がない克哉には無理だった。
それならばせめて…雨で濡れるのを少しでも防いでやりたかった。
ぼんやりとぼやけている視界に、涙を流しながら必死の形相で…こちらに
傘を向けてくれている克哉の姿が入った。
それだけで…どこか、本多は満たされた気持ちになった。
(…お前が、俺の為にそんな風に泣いてくれると…判っただけでも、
充分だな…)
自分は確かに、失恋した。
けれど…馬鹿な真似かも知れないが、その惚れた相手に対して何かを
出来たという事と、克哉が自分の事をここまで案じて…泣いてくれている姿を
見れただけでも、満たされる何かがあった。
「本多! もうじき救急車が来るから…! だからそれまで絶対に持ち堪えてくれ!
お前が死んだら、オレは…泣くからなっ!」
「あぁ、こんな…事で、くた…ばら、ねぇよ…。お前を、泣かせたくないから…な…」
そうして、本多は無意識の内に克哉の顔に手を伸ばして…涙を拭う仕草を
してみせた。
それと同時に…本多は意識を失っていく。
その顔は…どこか、穏やかなものだった。
同時に、遠くの方からパトカーのサイレンが鳴り響いていった。
それを聞いて御堂が取り押さえていた男が…青ざめた顔をして、もがき
まくっていた。
それは男の最後の抵抗。
本来恨んでいた相手ではなく、別の人間を跳ねてしまったとは言え…罪は
罪だった。
だが、男はこれが発覚したら更に妻子に軽蔑されると気づいてしまった。
だから暴れて、抵抗し続ける。
「…大人しくして貰おう! 自分がした事に貴方は責任を持たないつもりか!」
「うるさい! 俺は捕まりたくないんだ…!」
そうして、いきなり…男は全力で四つんばいの状態から立ち上がろうと
試みていく。
その瞬間、男に乗り上げる形で押さえつけていた御堂の身体が不安定に
揺れてしまった。
全力の人間というものは思いがけない力を発揮するものだ。
御堂の身体がフワリと浮いて押さえつける力が緩んだ瞬間を見計らって…
男は逃走し始めていく。
男の身体が、御堂の身体を押しのけていくと…その反動で、御堂は地面に
転がる羽目になった。
それでもすぐに体制を整えて、必死に追いかけていく。
「待てっ!」
逃がすつもりなどなかった。
だから御堂は遮二無二、必死に追いかけ続けていく。
だが駐車場の入り口の時点に差し掛かっていくと…一人の人影が其処に
立っていた。
雨のせいで視界が効かなくなっていたせいで…それが誰だか、咄嗟に
判らなかった。
「その男を…捕まえてくれっ!」
御堂はそれでも必死に、突然現れた人影に向かって声を掛けていく。
だがそれを聞くよりも早く、その人物は自分の方に逃げてきた男に向かって
拳を叩きつけていった。
その拳はみぞおちに吸い込まれて、一瞬にして元工場長であった男は意識を
失って、冷たいアスファルトの上に崩れ落ちていく。
「…随分と甘いですね。御堂さんは…これぐらいの事をしなければ、こういう
往生際の悪い男は…お縄になんてなりませんよ?」
その男はいきなり、自分の名を呼んだ事に御堂は驚いていった。
だが、ようやく近くに辿り着いて…その顔を見た時、信じられないものを
見たような思いになった。
「君は…!」
とっさに、御堂は今来た道を振り返っていった。
やはり大雨のせいで視界が悪いので遠くの方はすでにぼんやりとしか
見えなくなってしまっている。
だが、黒い傘が掲げられているのだけは確認出来た。
あの傘があるという事は、克哉は其処にいる筈だ。
なのに…この現象は何だと言うのだ。
「お久しぶりですね…御堂さん」
そういって、傲然と微笑む男は…かつて、二度だけ見た事があっただろうか?
すっかりと弱々しく、穏やかに微笑む彼ばかりに接していたので…すでに
御堂の中では遠くなってしまった顔。
自信に満ち溢れて、自分が知っている克哉の声よりも随分と低く迫力が
ある声音で…こちらの名前を呼んでいく。
「…どう、して…君が、ここにいるんだ…?」
克哉は、本多の前で傘を掲げていた筈なのに…こちらに先に回りこんで
あの男の先手を打つなど「二人」いなければ不可能な筈だった。
不可解な現象に御堂は困惑した顔を浮かべていく。
―そして、強気な笑みを刻みながら…目の前の男は口を開いていったのだった―
―最初は何が起こったのか、良く判らなかった。
轟音が周囲に木霊すると同時に、目の前には…一台の車の上に
人間が落下というという惨状が広がっていた。
「本多、君…?」
とんでもないものを目撃したかのように、御堂の全身が震えていく。
たった今、目の前で起こった事がとても現実の事とは思えなかった。
自分達を目掛けて突撃してきた車のフロントガラスからボンネットの
部分にかけて落下した本多の巨体は、車体の前面部分を大きくひしゃげ
させて…盛大にガラスを破壊していった。
フロントガラスは盛大にひび割れて、ボンネットの上やその周辺に
大きな破片が散らばっている。
何個か、その大きな破片は本多の身体の奥深くに突き刺さり…辺りを
血に染めていく。
だが、車の上で本多は苦悶の声を漏らし…時折、身体を震わせている。
それだけで…彼は即死は免れた事に気づいて安堵していった。
運転している男は、突然の事態に混乱しているようだ。
ピタリ、と車が止まっているのを確認すると…御堂は本多を介抱すべく
その手前まで駆け寄っていった。
「…どう、して…! 私など庇った! 君は私の事を嫌っているんじゃ…
なかったのか…!」
車の上に仰向けで倒れている本多に向かって、やや険しい表情を
浮かべながら問いかけていく。
大声で声を掛けていくことで…本多の意識も覚醒したらしい。
普段に比べると随分と弱々しい笑顔を浮かべながら…男は、
答えていった。
「…あ、ぁ…ずっと、前からあんたの事は、取り澄ました…嫌な奴だと
思って、いたぜ…」
「…なら、どうして庇った! あの状況で私を突き飛ばしたりなどしたら
自分がどうなるか判らなかったのか…!」
御堂は、本気で憤りながら本多に訴えていく。
嫌悪している相手に、こんな風に庇われるなど目覚めが悪くて
しょうがなかった。
本多の行動が理解出来ないとばかりに怪訝そうな視線を投げかけて
何故、と問いかけてくるばかりだ。
…まあ、その方が御堂らしいと思った。
ここで自分に対して素直に感謝の言葉を言う御堂など、逆に気持ち悪くて
仕方ないだろう…。
「…俺だって、馬鹿な真似したなと思っている、さ…。だけど、あの瞬間…
克哉の顔が浮かんだ、んだ…。あんたの事を好きだって、切なそうな顔
して俺に答えてくれた…あいつの、顔がな…。それを思い出したら、
あんたに何かあったら…きっと、克哉は泣いて悲しそうにし続けるんだろうって
そう思っちまって…そしたら、反射的に庇っちまったんだ…」
それは普段の彼の声の大きさに比べれば、まさに蚊の鳴くような
弱々しいものだった。
そう、本多がとっさに御堂を庇って代わりに跳ねられた理由。
それは…もしあれで、この男が命を落としたりなんかしたら…克哉は
きっと泣いて、嘆いて…正気でいられなくなるだろう。
とっさに、そう考えたからだった。
「…あんたの為、じゃねえよ…克哉の為だ…。俺が、あんたを
庇っちまったのは…な…。俺にとって、どれだけあんたが嫌な奴で
いけすかなくても…克哉にとって、あんたは…大事な、人間なんだ…。
なら、ダチの為に身体を張るのは…当然、だろ…?」
この時、本多は敢えて克哉を「ダチ」…ようするに友人と言い切った。
克哉を特別な存在として想う気持ちはあった。
けれどそれを必死に押し殺し…あくまで、ここで御堂を庇ったのは
友人の為と言い切るのはかなりの精神力を要した。
御堂は、それで少しだけ納得したような顔を浮かべるが…すぐに
頭を切り替えて、今度は…ジタバタしながら、足をもつれさせた状態で
車を飛び出して来た「犯人」を捕まえようと駆けていった。
「うわぁぁ…! 目が、目が…何も、見えねぇ! 何が起こったんだ…!」
男は、車内にいた状態でフロントガラスが盛大に粉砕し、大きな破片が
飛び散った事で…何枚かの破片で頭部を出血してしまい、自らの血が
目に入ったことで視界を失っていた。
頭部は負傷すると、傷の大きさの割に大量に出血する部位だ。
溢れんばかりに自分の頭から血が流れ続けている事で軽いパニック
状態に陥っているらしい。
そんな男の肩を、御堂は乱暴に引き掴んでいくと…雨で濡れたアスファルトの
地面の上に引き倒していく。
「…観念しろ! 今…警察を呼ぶ! …こちらに対する殺人未遂でな!」
「…っ! その声は御堂か! 何でお前が無事なんだ…! 俺は確かに
あんたを狙って…!」
「…その、声は…! もしかして貴方は…工場長か? 風の噂で…
私が解雇されたのと同じ時期に、責任を取らされて首を切られたとは
聞いていたが…! 何故、こんな真似をした!」
男の風体はかなりみずぼらしくて、ヨレヨレの灰色のコートに水色のワイシャツ。
それとゆったりしたサイズのライトブラウンのズボンを穿いていて…目元を隠す
ように毛糸の帽子を深く被っていたから…この男性に関しては作業服のイメージが
強かっただけに最初は判らなかった。
だが、MGNでの商品の殆どは彼が工場長を勤めていた工場で生産していた
訳だから…声は聞き覚えがあったのだ。
「…うるせえ! お前がそれを聞くのか! 俺たちに責任をなすりつけて
とんでもない事を引き起こした癖に…責任を取って辞めたあんたはあっさりと
新しい会社で良いポストに就いて…! 俺なんて…定年退職まで本当に後、
数年の処まで来たのに長年かけて築いたポストも、当てにしていた退職金も
退職後のプランも全部奪われて…散々な目に遭っているっていうのに、
あんただけノウノウと暮らしているのが…許せなかっただけだ!」
「…誰がノウノウと暮らしている…だと? 私だって長年努力して
築いた部長という肩書きを失墜させられたのは同じだ! それが
理由でこんな真似をしたというのなら貴方は甘えているし…
こちらに対して逆恨みをしているだけだ! いい年をして恥ずかしく
ないのか!」
「何だと! 責任をこちらに押し付けて来たのはあんた達の方だろうが!」
「違う! 例の発注ミスは…工場側の確認ミスで起こっている。
ようするに…大隈専務が言っていたように、子会社であるキクチ側の
社員の責任ではない。君の部下の一人の間違いによって起こっている!
貴方はそれを知らなかったのか?」
「…っ!」
この工場長と御堂が解雇される原因となった一件。
それは…新商品の大量の発注ミスだった。
大量の商品を、小口の処に。
代わりに大手の処にごく少数の商品しか届かなかった事は
会社の信用問題にも関わる大きな失敗であった。
だが、MGNの大隈専務は…その責任をキクチになすりつけようとして
御堂がそれを阻止し。
そして結果…その失敗の穴を埋める事が出来なかった御堂は
MGNを去ることになった。
それ以後、大騒動となってしまった事で御堂一人だけでは足りなくなって
結果…この工場長と営業、広報を担当していた責任者がそれぞれ
首を切られる結果となったのだ。
「・・・それは、本当なのか…? 本当に…ウチの工場の人間が
間違えて…?」
「…恐らく、貴方は失敗したキクチの社員を私が庇って失墜することに
なったという噂の方を耳にしたのだろう。だが…事実は違う。
あの一件は「工場側」の確認ミスで起こっている。断じて…キクチ側の
責任ではなかった。貴方はその事実を知らなかったから…湾曲して
物事を捉えてしまったんだな…」
「…あぁ、そうだ! あんたがいなくなってから色んな憶測や噂が
飛び交ったよ! 俺は特にあんたを信頼していたからな…。キクチの
人間なんて庇って、失墜した時に失望したし…その癖、自分はあっさりと
他の会社の役職について…。結局あれはあんたがMGNを陥れて
別の会社に移籍する為の茶番に過ぎなかったという噂を聞いた直後に…
俺の首切りも決定した! だから…俺はあんたが憎くて仕方なかったんだ!
時に強引な指示を出すあんたを信じてここまでずっとやって来たのに…
そんな真似をしたっていうのなら…それで、本来俺が得る筈だったもの
全てを奪われたのなら許せないと…そう、思ってな!」
「…そう、か。その辺まで…気が回っていなかったのは…私の失態で
あったかも知れない。だが…貴方がどう勘違いをして、このような事を
引き起こしたのか…同情の余地はあるかも知れないが、罪は罪だ。
警察の裁きは受けて貰おう…」
そのまま…暴れる男を必死になって押さえつけながら、御堂は…
どうにか片手で携帯を懐から取り出し、警察に連絡をつけていった。
だが、男が抵抗し続けるので…救急車の手配にまではどうしても
手が回り切れなかった。
「離せっ! 離せぇぇ!」
「…大人しくしていろ! これだけの事をして…罪を逃れようとするなど
絶対に許さない!」
本気の怒りを込めながら、御堂は工場長を押さえつけていった。
だが…そのおかげで、本多の方を介抱出来ない。
あの重態で、この大雨の中に晒され続けていたら…恐らく
じきに危険な状態になる。
せめてあの車の上から下ろすぐらいの事はしたかったが…今の自分は
この男を押さえつけるだけで精一杯だった。
(誰か…! 頼むから来てくれ…!)
このままでは本多が、自分を庇って大怪我をしてしまった男の
命すら危うくなってしまう。
今まで御堂にとって本多とはうっとおしいだけの態度のでかい男に
過ぎなかった。
だが、あいつは…克哉がこちらを想っているから、という理由でこっちを
庇うような馬鹿な真似をする奴なのだ。
…このまま、その馬鹿が命を落とすような事態になるのだけは
勘弁して貰いたかった。
だから、真剣に御堂が祈っていくと…新たな人影が、駐車場に現れていく。
「…嘘、だろ…」
その人物は呆然としながら、目の前の惨状に直面していく。
目は大きく見開かれ、呆けた表情を浮かべながら…手に持っていた傘を
地面に落としていった。
其処に立っていたのは、御堂と今夜約束を交わしていた佐伯克哉だった。
御堂の方もそれに気づいていく。
「何で、本多が…」
「克哉! 今は呆然としている場合ではない! 早く救急車の手配を…!
事は一刻を争うんだ! 早く電話を!」
「えっ…あ、はい…!」
ビクン、と震わせながら御堂の一喝しながら指示された事の通りに…
自らの携帯電話から119へと掛けて、ここの住所を告げていく。
それが終わると同時に、克哉は慌てて…本多の元に駆け寄っていく。
―そんな彼らに、ただ…12月の冷たい雨は降り注ぎ続けていた―
―その日の夕方は、しとしとと雨が降り続けていた。
多くの人間の思惑が交差して、予想もつかない筋書きが生まれつつあった。
その主役となるのは、悪役となるのは果たしてドラマに出ている誰なのか…
誰もこの時点で予想がついていなかった
本多憲二は、営業先から真っ直ぐに…現在、御堂が勤務している会社の
駐車場に辿り着いていた。
MGN程ではないが、此処もかなりの大手企業らしい。
駐車場は二階建て方式とは言え、50~60台ぐらいは置けそうなくらいの
敷地は確保されていた。
まだ就業時間を迎えた直後であるせいか、駐車場の殆どのスペースに
車が止まったままだった。
雨が降っているのと相まって、この周辺の見渡しは随分と悪くなっていた。
克哉にメールと、携帯アドレスが書かれたハガキが届いた日、御堂は
片桐と本多の二名にも儀礼的な挨拶文を書いたものを送り付けていた。
そのおかげで本多は、今の彼がどこで働いているのか知る事が
出来たのだが…。
(まず、あいつの事だから俺の事は歓迎しないだろうなぁ…)
最初は玄関で待ち伏せしようと思ったが、其処だと他の人間の目にも
付きやすいし…変に目立ったり、恥を掻かせたりしたらあの陰険な性格の
御堂の事だ。
こちらの事など完全にスルーして帰ってしまうに違いない。
それで本多なりに考えた結果、駐車場の方で待つ事にしたんだが…。
「…あ~あ、随分と良い車を乗り回しているなぁ…」
MGNで仕事をしていた時代、本多は御堂が乗っていたドイツ製のセダンを何回も
見ていたので…すぐにそれは見つかった。
スタンダードでシンプルなラインを描いているその車を眺めながら、大きめの
黒い傘を差して本多は一人、御堂を待っていった。
時刻は17時10分。就業時間を終えて少し過ぎた頃…と言った処か。
当然、御堂が残業等をしていればもしかしたら何時間も待つ羽目になるかも
知れない。
その懸念はあったが…本多はどうしても、御堂に直接聞きたい事があった。
(御堂が本当に…克哉を大切にしてくれる奴だと、そう確信出来たなら…
きっと諦める事が出来るだろうからな…)
自覚したばかりの恋心は、本多の中で未だに暴れまわっている。
本当は今日の昼間、屋上で話していた時も何度も抱き締めたくなったり
キスしたい衝動を抑え込んでいたのだ。
こんなのは本多の性に合わない。自分でもその自覚がある。
けれど片桐に諭された事をしっかりと噛み締めたら…どうしても、感情のままに
御堂と別れて俺の処に来い! と言ってはいけない気がしたのだ。
克哉は本気で御堂に惚れている。
少し冷静になって観察した時に悔しいがその事実を思い知らされたのだ。
―本多はどうしても聞きたかった。御堂が克哉を愛しているかどうかを…
それさえ聞ければ、充分だった。
それだけの為にアポなしの状態でここまで乗り込んできたのだ。
雨足が次第に増して、周囲の水音が更に大きくなっていく。
満足に視界が効かなくなって目を凝らさないと詳細が判らなくなる…それくらいの
状況になって、ようやく駐車場に人影がやってきた。
最初はそれが誰だか、本多には判らなかった。
だが、その人物は少しずつ近づいて来て…輪郭を捉える事が出来るようになると
本多は待ち人である事を確信していく。
相手も同じだったのだろう…。
駐車場で自分の車の前に待っていた人物が本多である事を知ると…怪訝そうに
眉を潜めて言葉を漏らしていった。
「…どうして、君がこんな処にいる…?」
「…お久しぶりですね。御堂さん…ちょっとそちらに聞きたい事があったもんで…」
一応、いない処では『御堂』と呼び捨てにしていたが…MGNに彼が所属していた頃は
本多の上司に当たる人物であった事は間違いない。
敬語で応対していくと…ますます、御堂の表情は不可解だと訴えているような表情に
変わっていった。
「…わざわざこんな処に足を向けてまで、君が私に聞きたい事が…? 別に構わないが…
この後に予定が入っているのでな…。出来れば手短に頼みたい…」
「えぇ、そんなに込み入った話じゃないですから。俺が貴方に聞きたい事はただ
一つです。御堂さんは克哉の事を…どう思っているんですか?」
いきなりストレートに、本多は本題に入っていった。
それを聞いて御堂の顔が警戒心に満ちた険しいものへと変わっていく。
今の質問の意味する処は何か、と恐らく考えているに違いない。
本多と違い、御堂は必ず人の言動の裏…隠された意図を読み取ろうとしてしまう
習慣がある。
良い言い方ならば用心深く慎重。
悪い言い方をすれば相手の言葉の裏を読もうと身構えて、常に疑って掛かって
いるという事でもある。
本多は裏の意図などまったく込めなかった。直球に本心を尋ねて来たのだ。
だが、御堂にとっては…同性の相手である克哉を想っている、恋人同士に
なっているという事実は周囲に知られたら厄介な事になる事実でもあるのだ。
「…それはどういう意図で君は聞いているんだ…? そこら辺が判りかねるが…」
「言葉の通りです。御堂さんが克哉に対して抱いている気持ちを、正直に話して
頂けたら…と思って聞いているだけです」
本多としてはかなり下出に出たつもりだった。
だが、御堂としても…いきなり現れて久しぶりに顔出した本多に対して、いきなり
其処まで正直に話せるものではなかった。
安易に本心を話したり、噂話を吹聴することは…時に自分の身を危うくするくらいの
隙を生み出す恐れがある事を御堂はすでに経験として知っている。
それが御堂と本多の大きな価値観の隔たりでもあった。
これまで、御堂と本多は反発はすれど友好的に話したことなど一回も無い。
そんな相手に、いきなり胸襟を晒す事など御堂には無理だ。
だから冷たい言葉しか、其処からは返って来なかった。
「…何故それを、君に話さなくてはいけないんだ?」
その声の響きは、ゾっとするぐらいに冷たかった。
本多はそれを聞いて、頭に血が昇っていくのを感じた。
(…ちくしょう、人がこんなに下出に出ているっていうのに…! 克哉はどうして
こんなインケン野郎に惚れたんだよ…!)
本多は、この時点で平静とは程遠い精神状態をしていた。
だから自分の説明が足りなかったからこの事態になった事に気づかない。
ただ、こちらの問いに関して素直に返してくれなかったことに腹を立てて…御堂が
克哉の方の世間体も気にして安易に心中を話さないとまでは察せる状態ではなかった。
「…克哉が、あんたの事を好きだからです。…だから、あんたも同じ気持ちを
抱いているのか…どうしても、聞きたかっただけです…!」
それでも悔しさを堪えて、必死に平静を取り繕う。
「…君は、どこまで知っている?」
「…さあ、どこまででしょうね?」
だが、この時点で…御堂はこちらの事を探り始めているのを何となく察していく。
本多もまた、トボけて見せたがそれは御堂の不興を買ったらしい。
急速に冷めた眼差しを浮かべながら御堂は本多の脇をすり抜けて…自分の愛車の
方へと向かおうとしていた。
「…って! ちょっと待てよ! こちらの質問にまったく答えないで逃げるつもりかよ!」
「…逃げるも何も、待ち伏せも私に対しての押し問答も、私の都合も考えずに…君が
勝手にやっていた事だ。何故、答える必要がある?」
必死になって肩に掴み掛かる本多に対し、御堂の対応はどこまでも冷ややかだ。
その瞬間、本多の持っていた傘はその場に放り投げられて地面に落下していく。
「…ほんっきで、ムカつく男だな…! 確かにその通りなんだが…どうしてそう、
人の神経を逆なでにするような言い回ししかあんたは出来ねぇんだよ!」
克哉の大切な人間なのだから、手荒い態度はするまい…とここに来る時に
密かに誓っていた。
だが、人の感情というものは伝染する。
相手に対して好意を抱けば好意が、嫌悪や敵意を持てば相手からも大抵は
同じ感情が返ってくるものだ。
それは本多と御堂に対しても例外ではなかった。
幾ら好意的に接しようと、以前から犬猿の仲に近かった二人がいきなり改善出来る
訳がない。
売り言葉に買い言葉というように、御堂の態度から…本多の態度や口調も次第に
荒れたものになっていく。
―その瞬間の事だった
「うわっ!」
「な、何だっ!」
いきなり、車のライトが二人に向かって照射されていった。
あまりの眩さに両者の視界はホワイトアウトし、どんな状況になっていたのかを…
短い瞬間、判断が出来なくなる。
雨が降り注ぐ中、狭い駐車場内で…一台の車が勢い良く彼らに目掛けて突進を
始めていく。
―そして、その車は御堂の方に確実に狙いをつけてスピードを上げていく。
御堂は突然の事に動けない。
本多もまた、動き出すまで暫くの時間を費やした。
彼らの位置からは、搭乗者の顔は見えない。
一定のリズムで動くワイパーと、大雨のせいで一瞬の間に判別することは
不可能に近かったからだ。
キキキキキッ!!
ドンッ!!
大きなブレーキ音の後に、大きな激突音が続いていった。
そして次の瞬間、一人の人影が大地を舞っていった。
ガシャアアアアアアン!!
―ガラスが盛大に割れる音と車の前面部が潰れてひしゃげる音が
その場に響き渡っていったのだった―
…本日は朝から外耳炎&中耳炎併発して半分死んでました。
まあそれでも今日締め切りの友人のゲスト原稿は気合で終わらせました
けれど、そこで一旦限界来たんで病院に駆け込んで治療行って来ました。
痛み止めと化膿止めがやっと効いて…打てるコンディションになったんで
これから書きます。
…ここ二週間ぐらい休みがちだったし、土日は若干長い場面でも時間を
掛けて書けるチャンスなんでやりますわ。
今、連載中の話ももうそろそろ終わりが見えて来ました。
良かったら最後まで付き合ってやって下さい(ペコリ)
次の話は…メガミドになるか、克克になるか少々迷っていますが…
基本的な部分は共通しています。
どっちのCPにして始めるかはその時、書きたい方で決まると思います。
眼鏡を狼に見立てた話になるのだけは決定。
羊をノマにしようか、御堂さんにしようか迷い中…って感じです。
んじゃ…日付は越えますが23日分、今から書いて参ります。
では、また後で…。
御堂孝典は昼休みが終わってからも精力的に働き続けていたが
窓の外から聞こえてくる水音がダンダンと大きくなっているのに気づいて
少しの間だけ手を止めて、外を眺めていく。
「…雨、か…」
最近、雨ばかりが続いている。
12月としては相当に珍しい事だ。
今の彼は、雨を見る度に一ヶ月前のあの日の事を思い出してしまう。
(感傷だな…)
あの日のマンションの下で立ち尽くして待っていた克哉。
声を掛けられなかった自分。
二日前に想いを確かめられた筈なのに…あの日、御堂の胸に刺さった
後悔という苦い棘は…未だにチクチクと胸を痛めていた。
過去は変えられない。
どうやっても変更出来ないものならばその後悔を未来に生かす
他はない。
誰よりも現実的な思考回路の持ち主である御堂は…それを信条に
して生きて来た筈だ。
後ろを振り返って生きて何の意味があると…今までの自分なら一蹴
してきた行為を、佐伯克哉に関する事だけは知らずに繰り返してしまっている。
(克哉…君はどうして、私などを好きという…?)
それだけがどうしても判らなかった。
あの決別の日以前。
自分達の関係の終わりの頃辺りから…御堂は何となく、克哉の方からの
好意らしきものを感じ取り始めていた。
最初はまさか、と思った。
自分が彼にしてきたことを思えば、到底ありえない話だと思ったし…彼の立場を
こちらに置き換えてみれば、絶対にそんな事は在り得ない事だったからだ。
けれど、その想いに呼応するように…こちらの心もゆっくりと変質していって
会わない日々を積み重ねていく事で、御堂もまた…自らの気持ちに気づかざるを
得なかった。
―もう二度と会わない方が良い
自分が弄り続けて来た男が、こちらを好きになる事なんてないと思う反面。
―もう一度君に会いたい
そう強く願う自分も確かにいた。
その事に気づいて、ふと自分の手に視線を落とす。
(たった二日前の事なのに…あの夜の事が幻か、夢のように感じられるな…)
あの時間は御堂にとっても幸せだった。
夢なら覚めないと欲しいと強く願った一時だった。
だが、その時間が遠くなれば遠くなるだけ…確かに克哉と両想いになって
結ばれたのだという実感が遠くなっていき、儚いものに感じられた。
それを確認したくて、今日も誘いを掛けてしまったのだが…克哉の方は
あの夜をどう思っているのだろうか。
みっともないが…つい、そんな弱気な事を考えてしまう。
「…本当に君は、どこまでも私を乱していくな…」
フッと目を細めながら微笑する、その表情はどこか柔らかかった。
恐らく御堂自身も、自分がそんな顔をしているなんて気づいて
いないだろう。
御堂は、そのまま窓の外の曇天の空と…雨を見遣る。
―御堂さん
そう呼びかけながら、立ち尽くす克哉の幻が一瞬だけ見えたような
気がした。
再会して、想いを確かめ合っても…御堂の中の克哉は、消えない
残像のように…雨の中で一人、立ち尽くす。
―そして、泣き続けていた
あの日、マンションの窓から見下ろす形で克哉を見ていた筈だから…
彼の涙など見ていない筈なのに、離れてからも…雨が降る度に御堂は
その幻を見ていた。
切ない顔で、今にも涙を零しそうな脆い顔を浮かべながら…ただ
名前を呟きながらこちらを見つめてくる残影。
(泣くな…)
その顔を見て放っておけない気持ちになって、つい手を伸ばしたくなる。
雨の日の度に繰り返される場面とやりとり。
「嗚呼、そうか…。君に逢いたいと願った一番の理由は…この幻に
出てくる君の涙を止めたいと…らしくない事を考えてしまったからかも
知れないな…」
自嘲的に笑いながら、灰色の空の中に克哉の面影を描いていく。
瞬間、甘いものが胸の中に広がっていく。
いつから…自分の中にこんな気持ちが生じたのか御堂自身にも
判らない。
けれど、いつしか彼を想うようになっていた。
強く求めるようになっていた。
―今もただ、一刻も早く君に逢いたい
その事だけを願いながら…御堂は書類に視線を戻していく。
昨日一日、積極的に仕事をこなしたおかげで…本日は定時で帰る事
ぐらいは出来そうだった。
すでに克哉と約束を取り付けてある。
この会社の最寄り駅か、自分の会社のどちらかに立ち寄って…そのまま
合流しよう、とそこまでは話を取り付けてある。
「…恐らく、君ともう一度会ったら私は抑えられないな…」
もっと、君が欲しい。
強く克哉を感じ取りたい。
この泣き顔を浮かべた克哉の残影が消えて。
胸の中に広がる苦い後悔が…自然に溶ける事を願って。
強く強く、自分は今夜も君を求めるだろう…。
その時間が早く来る事を願いながら…御堂は後顧の憂いを絶つべく
自らの役割を果たす方に意識を向け始めていく。
―窓の外では雨が打ちつけるように降り注いでい
全てを隠すかのように不穏の雲は天を覆う
御堂自身、これから自分を待つ運命に未だ気づかない
今はただ、雨音だけが強く室内に響き渡るのみであった―
常に流動的でいないと淀んだり濁ったりしてしまう。
人と過ごし、語らい…色んな出来事を通じて心を動かしていく事で
そのバランスを健全な方へと保つことが出来る。
逆に憎しみや嫉妬、悪意などを心に溜めて吐き出さないでいれば
あっという間に汚れて、悪臭すら放つようになる。
それでも、いつも心を保つことは難しい。
清濁併せ持つというように、人の心は常に綺麗なものも汚いものも
同時に存在するのだから。
強い感情を抱いても間違えずに…正しいことを取れる人間は
本当に一握り。
果たしてどれくらいの人間が、愛や憎悪を抱いた時にその想いに
振り回されずに…自分が取るべき行動や節度を守れるのだろうか―
その日の空模様も随分と不安定なものであった。
クリスマスを目前に控えていると言うのに、都内の空は連日…曇りか
雨のどちらかしか讃えていなかった。
この時期にしては珍しい事であった。
そして本多が早朝から倒れて…医務室で一日を過ごした翌日。
彼は片桐に心中を吐露して労わって貰えた事で、心に余裕を取り戻し
翌朝には普通に出勤して…今は昼休みを迎えていた。
(そろそろ…来るかな)
本多は、今…屋上で一人、克哉を待っていた。
一応家を出てくる前にも確認をしたが…本日にはあの、パンダのような
大隈は目元に浮かんでいなかった。
どこか落ち着かない様子で自分の同僚を待っていくと…ようやく屋上の
扉が開いていって、其処から克哉の姿が現れていった。
「御免、本多…遅れて! とりあえずおにぎりだけは腹に入れておこうと
思って出かけたら遅くなっちゃった…」
「いや、良いよ。俺は朝から…お前に話したいと思って予め昼食を
用意してあったけど…お前は、出社してから俺にこうやって声を掛けられた
んだからそうスムーズに行く訳ないし。わざわざ来てくれてありがとうな」
「ん、そう言ってくれると助かるけれど…それで、話って何? 本多が
こうやって改めて話したい事って…やっぱり、御堂さん絡みの事かな…?」
二週間程前の、終業後にこうやって本多にここに呼び出された事があった。
その時も、御堂の事を問いかけられたから…克哉の方は大体の見当が
ついているみたいだった。
「…あぁ、どうしても…お前に確認しておきたい事があったからな…」
そう、呟いた本多の表情はどこか切なかった。
…同時に、何かを決意しているような…そんな硬さも感じられた。
(…本多、少しだけ…雰囲気が変わった?)
その理由は、克哉にはまだ判らない。
けれど…何となくだが、二週間前にここで会った時とは少しだけ…
本多の纏う空気が異なっているように感じられたのだ。
「…聞きたい事って、何…?」
「…お前が、御堂の事をどう想っているか…はっきりと聞かせて欲しい」
「どうして、そんな事を…聞きたがるんだよ」
少しずつ、克哉の表情が強張っていくのが判った。
恐らくこの問いに答えれば、二日前にこちらの後を追いかけていたように
執拗に問い詰め返されるような気がしたから。
…難しい顔をして、克哉は口を噤んでいく。
「…ンな顔、すんなよ。俺はただ…お前の気持ちだけでも正直な事を
聞かせて欲しいだけなんだよ…。俺は、お前に惚れているって…あの日に
判っちまったから…」
「えっ…!」
予想外の事を言われて、克哉がハっと顔を上げていく。
困惑した表情だった。
だが、それに反して…本多は困ったような笑みを浮かべていく。
「…どうして、お前と御堂の事がこんなに気になるのか…自分でも
判んなかったけどよ。大学時代から、お前の事が気になってしょうがなかった
理由は…どんな形であれ、俺はお前に好意と関心を抱いているんだって事を…
お前と御堂を見失った後に、気づいちまった…。
だから、答えて欲しいんだよ。お前がどんな想いを御堂に抱いているのか…
お前の口から、ちゃんと聞いておかねえと…諦めが、つけられそうにないから…」
「そ、んなのって…本多が、オレの事を好きって…嘘、だろ…」
克哉が信じられないという風に肩を震わせて呟いていく。
彼にとって本多は、自分の大事な友人であり同僚だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
特に克哉にとっては…たった二日前に御堂と結ばれたばかりで…
其処には他の男が入る余地などまったくない。
だから言われても困惑するしかなかった。
だが、克哉のその反応は…本多にとってすでに予測済みのものだった。
「…俺は嘘で、こんな事は言わないって。それは…長い付き合いなんだから
判っているだろ…」
「……うん」
そのまま、二人の間に沈黙が落ちていく。
克哉は、迷っているようだった。
けれど本多は…惚れている相手に、こんな顔をさせたくなかった。
だから彼の方から、言葉を伝えていく。
「…正直、俺もどうして良いか…判んねえよ。同性の相手に、まさか
こんな気持ちを抱いていたなんて…予想外だったから。
けれど気づいてしまった以上、どんな形でもケリはつけないと…いつか
膨れ上がってとんでもない事になるような気がするから。
身勝手だって判っているけど…だから、お前の口からはっきりと聞いて
この気持ちに終止符を打ちたいんだ…頼む、克哉…!」
真剣な様子で、本多が訴えていく。
それを聞いて…克哉はやっと覚悟を決めていった。
真摯にこちらに向き合っている相手に…いい加減な誤魔化しや
嘘をついたら、却って余計な傷を作るような気がしたから―
「…判った。正直に言う。オレは…御堂さんを、特別な意味で好きだよ。
最初はオレ自身もまさか…と思う部分はあった。…初めの頃は酷い
扱いも受けたし…憎んでいた時期もあったけれど、それ以外の部分に
触れて…気づいたら、好きになっていた。だから…御免。
…本多、お前の気持ちは…受け入れられない。本当に…御免…」
本気で、申し訳なさそうに謝りながら口元を手で覆い…克哉は
あの日の本多の問いと、今の告白に対しての答えを返していく。
それは、予想通りの答えだった。
皮肉にも…同時に、二日前に見せられた映像が…真実であった事を
裏付ける回答でもあった。
御堂に対して、怒りが湧いた。
あんな酷いことをしていたことに対しての憤りと…自分の想い人の
気持ちをそれでいて捉えていた事に。
けれど…それを必死に抑え込んで、理性を総動員させていく。
克哉は、今にも泣きそうな様子だったから。
やせ我慢と判っていても、本多は…笑って見せた。
それが苦笑に近い形になっていても―
「サンキュ、な。ちゃんと答えてくれて…俺は、それが聞きたかった…」
そうして少しだけ間合いを詰めて、克哉の方に歩み寄っていく。
そして…唐突に抱き締めていった。
「…だから、もう…泣くなよ。俺は大丈夫だから…」
「…け、ど…オレ、本多を傷つけただろう…?」
「バ~カ、気にすんなよ…。俺がお前に勝手に惚れていただけだ…。
お前がそんなに罪悪感を感じる事はないんだよ。だから…泣くな…」
「…泣いて、ないよ…」
けれど、それでも本多は克哉を離さなかった。
その時、唇を奪いたい衝動に駆られたけれど…それを抑え込んでいく。
必死になって、片桐が言った言葉を思い出していく。
―好きな人にとって一番良い行動を取ってあげたら良いんじゃないで
しょうか…
諦めるのは、正直…辛かった。
奪い取りたいという欲望がないではなかった。
けれどそれはきっと、克哉は望んでいない事なのだ。
今の反応を見れば良く判ったから…
「わりぃ…少しだけ、こうさせていてくれ…。これで、踏ん切りつけるから…」
「…う、ん…」
もしこれで、それ以上の行為を本多が望んでいる気配を見せたら
克哉は拒んだだろう。
けれど…本多の抱擁は、欲望の色は感じられなかった。
だから克哉は許していった。
(…何か、辛いよな…これだけ好きな相手を諦めるのって…)
けれど、腕の中の克哉は…今にも泣きそうな気配があった。
泣かせたくなかった。
だから…強がりを承知で告げていく。
「…泣くなよ。俺は大丈夫だ…」
それは本多なりの思いやりで、気遣いであった。
克哉はその言葉を聞いた瞬間…俯いて…小さく御免、とこちらに
告げていった。
そんな自分の友人に対して、本多は…そのまま、頭をポンポンと叩いて
そっと労わりの気持ちを伝えていく。
―それは、昨日…片桐が本多にしてみせたように、相手を思いやり
気遣う仕草そのものであった―
昼休み、医務室で寝ていた最中…訪ねてきた片桐につい、自分の心中を
打ち明けた時、そう言われてしまった。
その一言に確かに、自分よりも長い人生を生きて来たという重みも感じ
させられたけど、やはり…まだ自分は若輩者、未熟者と言われた気がして
知らない内にムっとした顔を浮かべてしまっていた。
「あっ…すみません! もしかして気を悪くしてしまいましたか…!
そんな事言う僕も…そんなに沢山の恋愛経験がある訳じゃないです!
ただ、色んな人の恋愛の相談とかを聞いている内に…そう、思うように
なったというだけですから…!」
「相手にとって一番良い行動を取るように考える事が、ですか?」
「…はい。上手く行く恋愛って…その視点があるなって。ふと気づいたんですよ。
人って皆…恋をすると浮かれて、悪い言い方をすれば…自分本位に
なっちゃいますから。。
相手を好きになればなるだけ、要求が多くなって…脅したり泣いたり、
宥めすかしたりして…相手を操作しようとする人っているでしょう。
思い通りにしたいって欲求に駆られてしまいましてね…。
けど、その通りにしちゃう人って…最初は上手く行っても、長く付き合っている内に
相手は辛くなっちゃうみたいで…長続きをしないパターンばかりなんですよ。
逆に相手の都合を考えたり、自分の考えを押し付けて思い通りにしようとしない
人は…一人の相手と長続きするし、恋が実らなかったとしてもその相手と良い
関係でいられる。何となくそんな風に人の話を聞いて感じたんですよ…」
「はあ、成程。確かに片桐さんなら…色んな人が、相談したくなりますよね」
片桐は上司としては頼りにならないタイプかも知れない。
けれど美味しいお茶を淹れてくれたり、絶対に八つ当たりや理不尽な真似はしない
…人として信頼出来る暖かさのようなものがあるのだ。
恐らく、今までもこの人は今の本多のように弱っている人間を放って
おけなかったに違いない。
だから片桐自身に恋愛経験は無くても、話を聞く事によって…幾つかの
ケースを聞いて知っているのだろう。
だから、その言葉は実感が篭っていた。
「…相手の都合を考えたり、自分の考えを思い通りにしないで…接する、か…」
その言葉は妙に、自分にとっては耳が痛いものがあった。
本多は自分の信念、考えをしっかりと持っているタイプだ。
良く言えば芯がしっかりしている。
悪く言えば、自分の考えを滅多な事では変えない頑固者だという事だ。
弱っているせいだろうか。
今の片桐の言葉は本多にとって凄く身に沁みるものがあった。
(…もし、体調不良で倒れてなかったら…俺は今朝、克哉に…御堂と何て
二度と会うな! って突きつけてしまっていたかも知れないな…)
今朝、あの銭形衣装が自分のディスクの上に置いてなかったら。
こちらの顔を見て克哉が笑い出して、思いがけずに朗らかな顔を見る
機会がなかったら…きっと自分は顔を合わすなり、そう言ってしまって
いただろう。
昨晩のあの映像が本当にあった事なのか、本多には正直判らない。
けれど事実だったら許せないと思った。
だが今朝の克哉は幸せそうだった。
…酷いことしかされてない男に、再び会いたいと思ったり…その翌日に
あんな風に笑っていられるんだろうか?
「…それに、今…その子が相手と一緒にいて笑っているという事は…
今はその人の傍にいて幸せだという事じゃないでしょうか?
…確かに本多君からしたら、その相手に好きな相手が酷い目に遭わされたと
知ったら心穏やかにはいられないと思います。
けれど…酷いことをし続ける相手と一緒にいて幸せそうに笑っている事は
在り得ないと思うんです。
人間だって動物だって、愛情や好意なく…酷い仕打ちをし続けていたら
絶対に懐くことはありませんから…」
―その言葉は、本多自身が思っている事とほぼ一緒の見解だった。
「そう、っす…よね…」
力なく、本多は呟いていく。
それを事実だと認めるのは…克哉に対しての恋心を自覚した直後なので
とても辛いものがあった。
だが、恐らく…それが答えなのだ。
あの映像は本当だったかも知れない。
実際に御堂に過去にあんな風に、八課のことを人質にされて酷い事をされた
過去があるのかも知れない。
けど、それだけだったら…克哉はきっと、御堂にあんな風に会いたいと
望むことはなかっただろう。
あんな風に嬉しそうな、朗らかな顔をする事は…なかっただろう。
(…何か、切ないよな。あいつの事を特別に想っていた事を自覚した直後に…
失恋っていうのは…)
自分がどうして、克哉が気になっていたか。
放って置けなくて関わり続けていたのか。
その理由はどんな類の感情とは言え、自分が克哉を好きだったからだ。
けれどこれだけ長い時間一緒に過ごしても自分達は意識しあう事はなかった。
「同僚」や「親友」として…過ごしていた。
…本多自身だって、ずっとこの感情が恋心に近いものであった事を自覚せずに
大学時代から一緒にいたのだ。
それを諦めるのは…辛い。気づいたら本多の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
―けれど、多分…克哉が求めているのは御堂の方なのだ。
アイツが消えた時から、克哉はいつも寂しそうだった。
屋上で気になって話を聞こうとしたらポロポロと泣き出してしまうくらい…
不安定になっていた。
例のワインバーで食事を食べている間も、背中向きだったので確証は持てないが
傍から見てとても楽しそうに見えた。
けれど、それが偽ざる事実なのだ…。
「…その相手が求めているのは、俺じゃなくて…その相手、何ですよね。
認めたくなかったけれど…それが、事実…なんだよ、な…」
本当は誰かの前で涙を流すなんてみっともない真似、したくなかった。
けれど昨日からショックで…本多の心は荒れ狂っていて…その暴れる心が
冷却水を求めるように…涙を零させていた。
悲しいとか、ショックだからではない。
本能的に…今、このやり場のない感情を発散させる為に無意識に…身体が
涙を零すことを要求しているのだ。
怒りも、悲しみも…ある程度泣くことによって発散して人は落ち着きを取り戻せる。
だから今の彼は無意識にそれを求めて…涙を零し続けていたのだ。
「…本多君は本当に、その子が好きだったんですね…」
思いがけず、片桐がそっと本多の頭を撫ぜてくれていた。
こんな振る舞いを成人になってからされたのがこれが初めてだ。
…本多は人一倍、人に弱みを見せることが苦手なタイプだった。
だからこそ…最初は、こんな振る舞いを受けるのに戸惑いがあった。
けれど今の弱りきった心と身体には、その手は優しすぎて…跳ね除ける事が
出来ないでいた。
「…片桐さん、みっともないですから…止めて、下さいよ…」
「…気にしなくて良いですよ。どんな人だって…弱ってしまう事はあるでしょうから…。
僕だって、君よりもうんと年上ですが…クヨクヨしてしまったり、迷ったりして…
誰かに優しくして欲しい時ってありますから…」
「…そう、なんすけど…やっぱり…」
抵抗はあった。
けれど、大人しく片桐の手に撫ぜられ続けていた。
まともに眠れないぐらいに悩み続けて、心が疲弊しきっている時は…誰かの
手の温もりというのは凄く暖かく感じられてしまったのだ。
「…何か、ヤバイ…かも…」
本多は高校を出て以来、こんな風に誰かに弱みを晒す事はなかった。
いつだって一人で抱え込んで、処理し続けた。
いい年した男が、他人に助けを求めたり当てにするなんてみっともないし…
格好悪いと思っていたから。
だが、それは逆に…彼がこうなるまで、今までの人生で弱った事が殆ど
なかったからに過ぎない。
どんな人間でも、気力や努力と言った精神面だけでは立ち上がることが
出来なくなる時がある。
「…みっともないとか、格好悪いとか思わないで…本当に辛い時は泣いて
良いんですし…素直に感情を出して良いんです。
…時々、正直にならないと…参ってしまいますから。今は気にしないで…
思いっきり、泣いて良いんですよ。僕で良ければ傍にいますから…」
そうして、子供をあやすみたいな手つきで…慈しむように、片桐は
本多の傍に居続けた。
こんな姿を、この上司に晒す日が来るなんて本多は考えた事もなかった。
けれど…泣くことによって、荒れ果てた心が…潤っていくのを感じた。
少しずつ、余裕が出てくる。
そうする事で…本多は、現状を少しずつ受け入れ始めていく。
(克哉…お前にとっては、御堂の傍にいる事が一番なんだな…)
認めたくなかった悔しい現実を、受け止め始めていく。
本当に克哉が笑っていてくれる為に必要な事は何なのか…それでやっと
考えられるようになっていた。
(俺が何をしたら…お前の笑顔を、守れるんだろう…)
初めて、所有欲とか独占欲とか離れて…惚れた相手に対して、そういう事を
考え始めた。
諦めるのは辛かった。どんな形でも自分にとっては克哉は大事な人間で
それをあんな陰険な男に取られてしまうのは悔しかったけれど…。
さっきまでと違って、頭ごなしに御堂を否定する感情は消えうせていた。
本多は、それでも泣いている姿を見せたくなくて…顔を伏せてベッドの上に
横たわっていたけれど…それでも飽く事なく、片桐は傍に居続けた。
片桐がこちらを心から案じてくれているのが判る。
それが…判ったからこそ、本多は少しだけ心に余裕が出来た。
時に人は迷う時がある。
辛くて泣いてしまいそうに葛藤する時がある。
けれどそんな人間を励ますのは…そんな大した事はしなくて良い。
ただ黙って傍にいる事と、相手の話を聞く事だけ。
それをしてくれる相手がいるだけで、人は救われるものなのだ。
―この日、初めて本多憲二は…弱さを知った。
労わられる事で救われる気持ちを理解出来た。
それはいつも己を鼓舞して、心を強く持っていたが為に人の弱さを判り切れて
いなかった彼にとっては、貴重な体験となったのだった―
夜に掲載しますと言いましたが…仕事中に、明日が冬コミの
申し込みである事を思い出し…。
帰宅後にちょっと焦って書類を準備していたら、用意していたカットを
ざっくりとカッターで切り裂いて修復不能。
…もう一枚、別に用意する羽目になったので大幅に
時間を食ってしまいました。
まあ、結果的に以前に自分が描いたCGを丁度いいサイズに調整して
打ち出したもの使った方が綺麗な仕上がりになったので結果オーライ
でしたが。
そういう理由で時間無くなったので…19日分、潔く休んでおきます。
無理すれば書けるけど、あんまり睡眠不足な状態で職場行くと
仕事に影響出るもので…。
(現在、製品の検査がメインなので支障が出る…)
その代わり、明日はちょっと早起きして確実に掲載するように
しておきます。
…要領悪い奴ですみません。
では本日はおやすみなさいませ(ペコリ)
(本多、大丈夫かな…?)
朝に顔を見た時は、あのコスプレ衣装と…パンダみたいに縁取られた
クマの両方の要因でつい笑ってしまったけれど、あんな風にヨレヨレに
なっている本多というのを克哉は見た事、なかった。
…まあ、昨日の銭形衣装と良い何とも予想外の事ばかりやらかして
くれている訳だが。
キーンコーンカーンコーン
昼休みを告げるチャイムが鳴り響いていくと…克哉は入力作業を中断して
パソコンを終了していった。
窓の外では、本日もまた…灰色の雲が広がっていた。
(最近、雨が続いているな…)
昨日も、雨だったように記憶している。
今夜もまた、もうすぐ降るのだろうか?
そういえば天気予報では、今日と明日は大雨が降る予定だから傘は
必ずお持ちくださいとか言っていたのを思い出す。
(こんな日は…どうしても、あの日を思い出すな…)
昨晩、御堂と結ばれた。
その喜びは今でもはっきりと克哉の脳裏に刻み込まれている。
だが、それ以上に…御堂の家の前に立ってひたすら待ち続けていた
雨の日の記憶が、克哉の中では鮮明に刻み込まれていた。
―ずっと想っていた人と再会して、肌を重ねたっていうのに…何でこんなに
不安なんだろう。
今朝までは、浮かれていた。
けれど…その興奮が落ち着いた今となっては、あまりに儚い夢のようだった
気がしてくる。
あまりに幸せだったからこそ、その反動のように漠然とした不安がジワジワ…と
溢れ出て来ていた。
「御堂、さん…」
いつの間にか、本多の事は頭の中から弾き出されて、想うのはただ…あの人の
事だけになっていた。
そういえば、昨日は食事を一緒にしたけれど…近況報告みたいなものは
殆どしなかったように思う。
当たり障りなく、料理とワインの話ばかりしていたような…。
「…そういえば、あの人がどんな会社に移籍したのかもまだ聞いて
なかったよな…」
一晩、一緒に過ごした筈なのに自分達が交わした言葉の数はひどく
少ないもののように思えた。
会えなくてどこで何をしているのか判らなかった時の事を思えば、
抱き合えただけでも僥倖なのだ。
それなのに克哉の心は欲深く、もっとあの人の事を知りたいと…会話を
したいと訴え始めている。
(欲張りだな…オレは…)
―認めろよ
ふいに、幻聴が聞こえた気がした。
(えっ…?)
考え事をしている内に気づかない内に…窓際の方に一人、歩み寄って
しまっていたようだった。
窓の外がすでに薄暗くなっているせいか、窓ガラスは鏡のようにくっきりと
克哉の顔を映していた。
―その顔が一瞬だけ、眼鏡を掛けた自分の顔に見えた気がした。
「っ…!」
つい、瞠目していくと…今度は、はっきりと聞こえた。
―…聞こえなかったのか? ならもう一度言ってやろう。お前は実際は…相当に
欲深くて我侭なんだよ。誰の気持ちを踏みにじる事になっても我を張るような…
そんな罪深い奴なのに、何を自分だけは綺麗な人間なつもりでいるんだ…?
嘲るように、眼鏡は嗤(わら)う。
一瞬にして、肝が冷えるような気がした。
もう一人の自分の眼差しはどこか冷たくて、ゾっとした。
何でこんなに硝子玉のような無機質な色を讃えているのだろうか?
声はまだ、続いていく。
…その言葉の端々に、悪意のようなものが感じられるのは気のせいだろうか?
―お前は、相変わらず自分に対して正直ではないな。
遠慮していたら、永遠に御堂を失うぞ? 欲望に正直になれ…。
じゃなければ、お前は…御堂を悪意から守れない。今のように
フラフラと揺れて自分の足場も覚束ない状態ではな…。
「…お前、何を言っているんだよ…?」
何でもう一人の自分が突然現れて、こんな事を言い出したのか理解が
出来なかった。
だが、眼鏡の顔は…相変わらず、強気で傲慢そうなものであった。
浮かれている克哉の心を引き締めるように…不穏な事を告げていき。
―警戒しろ。雨が、全てを覆い隠すかも知れない。『何か』をするには…
視界が効かない日の方が好都合だからな…。
「だから、何言っているんだよっ!」
オフィスの中には、皆…食堂や外に食事を求めて出払っているので
克哉一人しか存在しない。
―忠告だ。御堂に抱かれて浮かれているようなお前に対してな…。
「今のが、忠告…だって…?」
―意味は、自分で考えろ。俺はもうそろそろ行く…じゃあな
「待てよっ! せめて今…言った事の意味ぐらい教えていけよっ!」
そういって、窓硝子に映ったもう一人の自分に訴えかけていくが…間もなく
あっという間にその姿は掻き消えていった。
残った克哉は、青ざめた表情を浮かべながらポツリ、と呟いていく。
「…何であいつは、あんなに不吉な事を…?」
呆然としながら呟いていくと…ふいに着信を受けて、克哉の携帯電話が
鳴り響いていく。
その名前表示に、ドキリとなった。
―其処には御堂孝典と出ていたからだ。
だから、反射的にその電話を取っていく。
「もしもしっ!」
『…あぁ、繋がったようで良かった。…今、大丈夫だろうか?』
声の主は、間違いなく御堂だった。
その落ち着いた声音を聞く事が出来て…克哉は安堵の息を
零し始める。
同時にジィン、と暖かいお茶を飲んだ時のような心が解れるような
思いを感じていった。
「あっ…はい、大丈夫です。今はウチは昼休みですから…」
『そうか。だが、君が昼食を食べ損ねてしまわないように…用件は手短に
伝えるとしよう。…明日の週末、君は時間を取れるだろうか?』
「はい、大丈夫です」
迷う事なく、克哉は即答していった。
今の彼は…一分でも一秒でも長く御堂と一緒に過ごしたかった。
だから、迷う事はなかった。
急遽、残業を頼まれることがあっても今の彼ならば…きっぱりと跳ね付けるぐらい
今の克哉にとっては御堂と過ごす事を最優先としていた。
『そうか…私の方は、恐らく仕事が立て込んでいるので…それが一段落つくのは
明日の18時から、19時くらいまで掛かるだろう。手間を掛けさせてすまないが
君の方から…私の会社の方に赴いて貰えるか? その方が早く…君と合流
出来ると思ったからな。構わないか…?』
「えぇ、大丈夫です。…御堂さんの今の会社はどこにあるんですか?」
『詳細はメールにて送信する。キクチからはそんなにアクセスは大変では
ない筈だ。では…明日、君と会えるのを楽しみにしている…』
では、より後の言葉が思いがけず優しい声音だったので、つい胸が
小さく跳ねていってしまう。
「…はい、オレも凄い楽しみにしています…。御堂さんもお仕事、頑張って
下さい…」
克哉が臆面もなくそう告げると、電話の向こうで御堂が小さく咳払いをしている声が
聞こえて来た。恐らく照れ隠しだろう。
それに気づくと、少し微笑ましい気持ちになってクスクスと笑っていく。
『では、また明日…』
そう、最後の言葉を残して通話が切れていった。
途端に…さっきまで感じていた多幸感ではなく…漠然とした不安が広がっていく。
―今日の午後から明日に掛けて、都内では大雨になるでしょう
そんな予報を朝に聞いた。
―警戒しろ。雨が、全てを覆い隠すかも知れない。『何か』をするには…
視界が効かない日の方が好都合だからな…。
そんな事を、もう一人の自分がたった今、告げていった。
そのせいで…克哉は怖かった。
虫の知らせ、という奴だろうか。
嫌な予感が…ジワジワ、と広がり始めて彼を侵食していく。
「気のせい、だよな…」
そう呟いて、チラリ…と窓ガラスを覗いていくと其処には何も映っては
いなかった。
けれど、何故か…もう一人の自分が、舌打ちをしているようなそんな
気がしてしまった―
憤りながらその書類を壁に叩きつけていった。
五十代後半のその男の頭髪にはかなり白いものが混じり始めている。
若い頃はそれなりにモテただろうというのが偲ばれる顔立ちをしていて…
目元や口元には年齢に見合ったシワがくっきりと刻み込まれていた。
以前はノリが効いてパリっとしていたワイシャツやズボンも…今では
アイロン掛けなんてしなくなったものだから、かなりヨレヨレした印象に
なっていた。
「くそっ…! 冗談じゃねえぞ!」
築30年は軽く越える、全体的にどこか薄汚く古臭いカプセルホテルの一室。
それが60の定年を間近に控えていた男の、現在の自分の城だった。
その書類の中には、一人の美丈夫と言える年齢の男の写真が添えられていた。
男は、その写真を憎々しげに睨みつけていくと…大きく舌打ちをしていった。
「…俺と同じように責任を取らされた癖に、自分は別の会社にさっさと就職先を
見つけただと…! しかもそこでも部長待遇でなんて…ふざけんじゃねえよ!
同じように責任を取らされた俺なんかはどうすれば良いんだよっ!」
ほんの二ヶ月前なら、男は衣服や身だしなみの類には相当に気を使い…
清潔感を出すように務めていた。
だが、一ヵ月半くらい前に…いきなり御堂が責任を取らされて、新商品であるプロト
ファイバーの担当を外されて辞職。
それに伴って、生産工業の責任者を任されていた自分も強引に…増産を求められて
いた時期にそれに対応が出来なかった事。
生産量が受注量に追いつかない対応の悪さや、その混乱に起こった幾つかのミスの
責任を負わされる形で、彼の他に営業や広報を担当していた者も首切りされていた。
大隈専務は、社運を掛けて打ち出した新商品が起動に乗らなかったことを知ると
キクチ・マーケーティングに無理矢理過失を押し付けたと同じ理由で、何人かの
人間を強引に解雇することで対面を保ったのだ。
そして定年を後数年に控えていた男は…不運にも白羽の矢を当てられて
後もう少し我慢すれば得られた多額の退職金の大半をフイにされる形で仕事すらも
失ってしまったのだ。
密かに描いていた退職後のプランも全て白紙にされ。
この歳で再就職先を探す羽目になり。
妻とも気まずい感じになって、この一ヶ月程はこのカプセルホテルが彼の住居に
等しくなってしまっていた。
それでも男は、なけなしのお金を払って…探偵を雇い、御堂のその後…どうしているかを
知る為に調べて貰っていたのだった。
許せない! 許せない…! 許せない…!
かつての彼は、御堂はいけ好かない上司ではあったが…その手腕は
認めていた。
元工場長と御堂の付き合いは、10年程にもなる。
人間的に合う合わないの問題は確かにあったが、それでも…表面的にはさほど
問題もなく彼らは連携して、一緒の仕事を何度も担当していたのだ。
だが…人は、当たり前のように得られると信じ込んでいたものを唐突に奪われたら
本気で怒るものだ。
実際に裏で糸を引いて、責任逃れを行ったのは大隈の方である。
だが、長い付き合いがある…御堂には「仕事に関する事」だけは信頼を
置いていた事からこそ、恨みは深くなってしまっていた。
人は窮地に立たれた時、自分のせいだと己を責めて反省して次回の失敗に生かすか
自分を守る為に他人に全てをおっ被せるか、この2パターンに陥るの場合が殆どだ。
男は生真面目で朴訥な人柄だった。
人に裏切られたり、そういう事に無縁な人生を送っていた。
―ここまでの挫折を味わった事がなかったからこそ、男の心は荒れに荒れ狂っていた。
MGNという大手の会社の生産工場を任されていた男は、無断欠勤も遅刻もしない。
誠実な仕事をする人間だった。
なのに、あまりに理不尽な理由で…『御堂』とそれなりに親交があったというだけで
大隈に目をつけられて、解雇されてしまうというのは…あまりにショックで。
定年後に妻と移住して、ゆったり暮らすプランも立てられていたのに…それを
直前で奪われた悔しさは、男の心根を大きく歪めてしまっていた。
「…あんただけが、あっさりと新しい職を得て…何もなかった事にして今までと同じ
エリートコースを歩み続けるだなんて…ふざけるんじゃねえよ…」
唇から、押し殺した声が漏れていく。
その瞳は、憎悪によって強く輝いていた。
御堂が恨めしかった。
本気で憎くて堪らなくなっていた。
最初の頃は、そんな負の感情に負けたくなくて押さえ込んでいたが…男の胸の中に
宿るのは若くて有能な御堂に対しての強烈な嫉妬だった。
―俺には、就職先など…ロクな条件の場所しかないのに!
嫉妬は時に、強烈なエネルギーになるが…人を間違った方向に進ませる
諸刃の剣のような一面もある。
一ヶ月経たない内にMGNに負けずとも劣らない会社に就職してそこでも
高待遇を得ているのが許せなかった。妬ましくて死にそうなくらいだった。
「…あんたの巻き添えになる形で、こっちはあんな目に遭ったっていうのに…
あんただけが幸せになるなんて許せるかよっ!」
グシャ、と書類を握りつぶしながら禍々しく男は笑っていく。
この報告書のおかげで、やっと今の御堂の会社の所在地を知る事が出来た。
それは男にとって、千載一遇のチャンスを生み出す貴重な情報内容であった。
―これで、目に物を見せてやれる…!
男は、危うく笑っていく。
人は真面目すぎると、視野が狭いと…すぐに極端な方向へと突き進むものだ。
まさに…この男性はその典型であった。
嫉妬という強烈な感情に突き動かされて、恐ろしい計画を練り上げていく。
人は…孤立すると、感情を極端な方へと揺れ動かしていく。
間違った考えを抱いても、それにブレーキを掛けることすら出来なくなる。
「…もし、務め始めの会社で入社そうそう…事故か何かで休んだりしたら、
困らせるだろうな…! はは、良い気味だっ!」
自分の中の身勝手な妄想に身を焦がしながら、男は安いカップ酒を煽って
あっという間に飲み干していく。
男の中で、凶悪なシナリオはチャクチャクと展開されていた。
今まではそれが、御堂の所在が判らないという理由でブレーキが辛うじて利いて
いたが…今は知ってしまった以上、歯止めが聞かなかった。
嫉妬が心を歪にし、間違った方向へと踏み外させていく。
―窓の向こうには本日も鈍色の空が広がり続けている。
陰鬱で、重苦しい空を見つめていきながら…男は、凶悪な考えを
頭の中で考えて楽しんでいく。
ゆっくりと…御堂も、克哉も、本多も誰もあずかり知らない処で…事態は
悪い方へと突き進み始めていったのだった―
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当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)
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…一言報告して貰えると凄く嬉しいです。