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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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 ―今までの人生で、ここまで緊張して飲食店の席に座っていた
経験などなかった。
 
 程好い温度に設定された室内で…暖かな御堂の手に包み込まれて
幸福を感じている反面、背後に本多からの突き刺すような視線を
感じているような気がして、非常に落ち着かなかった。

(ど、どうか本多がこの店の中で暴走しませんように…)

 本多は特に、猪突猛進というか向こう見ずな所があって
恐らく自分が正しいと思ったら、克哉の救出という名目の元に
御堂に食って掛かる事ぐらい平気でやってしまうだろう。
 大学時代からの付き合いだ。
 彼のそういう性格は嫌っていう程、良く判っている。
 半ば生きた心地がしない状況で…相槌を打って、食事を
進めていく。

―どうしよう。味が良く判らない…

 せっかくの上等なワインも料理も、この状況では
存分に楽しむ事が出来なかった。
 恐らく背後の怪しい扮装をしている本多の存在に気づく
事がなかったら今頃、この楽しい一時を自分はもっと
満喫出来ていただろう。

(嗚呼…こんなに優しい顔をした御堂さんと接したことなど
殆どなかったからな…。こんな顔、出来たんだ…)

 お互いに胸が詰まっているせいで、殆ど会話は弾まない。
 何を話せば良いのか、迷っている部分があるからだ。
 だから御堂はその想いを…ちょっとした拍子に、克哉に触れたり
真っ直ぐ見つめてくることで伝えてくる。
 その眼差しはドキドキするぐらいに…慈しみが込められていて。
 彼に、こんな風に見られた経験がなかったからこそ…
克哉は眩暈がするくらいに嬉しくなる。

「…佐伯。満足…出来たか?」

 お互いにほぼ同じタイミングでコース料理を食べ終わり、
フォークを置いた瞬間に…御堂が穏やかに問いかけてくる。

「あ…はい。とても、美味しかったです…」

 ドキン、ドキン…ドキン。

 本当に僅かな一挙一足でもときめいて、胸が落ち着かなくなる。
 照れ臭くて、真っ直ぐに見つめ返せない。
 けれどもっとこの人を見ていたい…そんな相反する感情を
抱いていきながら、ふと…瞳を伏せていくと。

「…口元に、ついているぞ…?」

 御堂が静かに笑みながら…克哉の口元についていた
微かなソースの汚れを指先で拭って、カアっと顔が赤くなった。
 御堂に触れられたことと、顔に食べ零しがつくような真似を
してしまったという、二重の意味で恥ずかしかったからだ。

「あっ…は、はい…」

 其処で一気に濃密な空気が漂い始めていくと…。

 ガサガサ…グシャ! ガサッ!!

 背後から、非常に大きな新聞が捲れる音が響き渡っていった。
 それで思わず、正気になる。

(しまったぁぁ! 背後に変装した本多がいたんだった~~!!)

 思わず心の中で叫びそうになったが、どうにか声を出さずに堪えていく。

「…佐伯。どうした? 気分が悪いのか…?」

 しかし、御堂はそんなあからさまな妨害にまったく気にする
様子もなく…平然と尋ねてくる。

(御堂さん…もしかして、後ろに本多がいるの気づいてない…?)

「あの、御堂さん…。後ろの客…」

「…嗚呼、随分とマナーが悪い客だな。この店にそぐなわない奴だが
空気みたいに気にしなければ良いだけの話だ。違うか?」

 あっさりとそう答えられて…謎が解けていく。

(嗚呼、そうか。御堂さん…怪しい格好をしている本多は、最初から
『いないもの』として扱っているから全然気にしていなかったんだ…)

 御堂の今の本多に対しての態度はまさに、アウト・オブ・眼中。
 一応方角的に視界に入っていてもおかしくないのだが…見事な
くらいに御堂は、自分のテーブルと克哉以外を視界に入れないように
他のものはシャットアウトしていた。
 そこまで徹底して、一人の人間を無視して振る舞えるというその豪胆さは
感嘆に値する事だろう。
 間違っても人の顔色を伺う性分である克哉には到底…真似出来そうに
ない振る舞いだった。

「そ、そうですね…。で…この後、どうするんですか。御堂さん…?
コースのメニューの中には、デザートも一応入っていましたけれど…
オレは正直言うと、甘い物は正直苦手なので…」

「嗚呼、それは私も一緒だ。だから最初からデザートに関しては
コースから省いて貰ってある。…もう一杯、付き合う気があるか?
それならとっておきの店にもう一件…案内するが」

「………」

 本音を言うと、はい…と力いっぱい即答したかった。
 だが、ただ移動すれば確実に次の店にも本多は付いて来てしまうだろう。
 正直言うと、克哉は波風を立てたくなかった。
 しかし御堂に事実を言えば、元々犬猿の仲の二人だ。
 確実に言い争いになるのは目に見えていた。

(どうしよう…せっかく御堂さんが本多の存在をシャットアウトして
まだ気づいていないんだ…。この状況をどうにか生かさないと…)

 克哉は、御堂ともっと一緒にいたかった。
 二人きりになって、邪魔されない場所で語らいたかった。
 其処まで考えた時に、覚悟を決めていく。
 本多は、友人だ。
 今夜だってこちらを心配してくれたからこんな真似をしたという事
ぐらいは判っている。
 だが、克哉とて…会いたくて会いたくて堪らない人との時間を
これ以上、邪魔されたくはなかった。
 そこまで自覚した時、ようやく…克哉の決心は固まっていった。

「…気が進まないか? それなら今夜はここで…」

「いいえっ!」

 そういって、克哉は席から立ち上がると…御堂の耳元に向かって
唇を寄せていった。
 突然の出来事に、御堂と…背後に存在していた本多はほぼ同時に
ぎょっとなっていく。
 だが、克哉は…愛しい人以外に決して聞かれることのない音量で、
そっと囁いていった。

―他の店よりも、貴方と二人きりになれる場所に…行きたい、です…。

 かつては関係があった自分達だ。
 この一言がどういう意図で発した言葉か、判らない筈がない。
 すぐに御堂から離れて…目の前に鎮座した克哉の顔は、羞恥の余りに
真っ赤に染まっていた。
 自分でも大胆過ぎる振る舞いであったと思う。
 だが、ホテルなら。
 多少でも本多を撒いて、時間稼ぎして部屋の中にさえ入ってしまえば
これ以上…邪魔は出来ない筈だ。
 そう計算して、克哉はそう申し出ていく。

「…君は、それはどういう意味で言っているのか…判っているのか…」

「…冗談で、こんな事…オレは、言いません。紛れもなく…本心です…」

 その瞬間、御堂を求めて…克哉のアイスブルーの瞳が、
艶やかに煌いた。
 背後で本多がこれ見よがしに、再び新聞をガサガサガサガサと音を
立て始めたが、克哉もまた完全に無視を決め込んでいく。
 その本心を探るように…御堂もまた、ジっと鋭い眼差しで彼の瞳を
見つめ返していく。

「…そうか。なら、私と気持ちは一緒のようだな。良いだろう…今、
準備をする」

 そういって、手を上げてソムリエを呼んでいくと…ゴールドカードを
財布から取り出して、其れをそっと手渡していく。

「今夜はカードで」

「畏まりました。それでは…こちらに署名をお願い致します」

 そういって、サラサラと差し出された紙に流暢な字で己の名を書いていく。
 その慣れた仕草に…やはり御堂と、自分は住んでいた世界が違うのだと
いう事を思い知らされていく。

「少し待っていろ…」

「はい…」

 支払いを終えると、御堂はそのまま携帯を取り出していって…素早く
二箇所に電話掛けていく。
 どうやら相手先は、タクシー会社と…ホテルのようだった。
 そのやり取りを傍から聴いている間、ドキンドキンと心臓の音が一層
大きくなっていくのを自覚していった。

「…準備は全て整った。行くぞ」

「えっ…」

 5分くらい、待ったかと思いきや…いきなり手を引かれて克哉は
席を立たされた。
 そのまま容赦ない力で…引っ張られて店の外に向かっていくと…
まるでタイミングを見計らったかのように一台のタクシーが目の前に
止まっていく。

「行くぞ」

「えっ…。はい!」

 御堂は迷う事なく、タクシーの扉を開けて中に入っていく。
 そして行き先を告げていく。
 それは…御堂と克哉が、かつて使用していたホテルの名称だった。

「了解しました。ちょっと料金は嵩みますが構いませんか?」

「あぁ、構わない。出来るだけ早く向かってくれ」

 そうして…乗り込んで一分も立たない内にタクシーは動き始めていく。
 どうやら本多が慌てて追いかけてきたらしいが、どうやら会計を終えないで
飛び出そうとしたせいで…ワインバーの店員に思いっきり捕まって
ギャンギャンとやられているようだった。
  あんな妙な変装していただけでも悪目立ちをしていただろうに、それで
無銭飲食まで疑われたらとてもじゃないが…すぐには解放して
貰えないだろう。
 おかげで克哉達は悠々とタクシーに乗る事が出来たのだが、
チラリと見て…地面に転がされて、ソムリエに取り押さえられている
現場を見ると少しだけ胸が痛む想いがした。

(…ちょっと可哀想な気もするけどな…)

 その様子を見て、克哉は苦笑していくと…御堂は悠然と微笑みながら
告げていった。

「…これで、邪魔者は撒けたみたいだな…」

「へっ…?」

 最初、呆然となったが…すぐにその意味を理解していった。
 何てことはない。
 御堂は、とっくの昔に本多の存在に気づいていたのだ。
 だから手早く、タクシーとかを手配することで先手を打って対処
したのである。
 それに気づいて…克哉はクスクスと笑っていく。

「あの…気づいて、いらしたんですか…?」

「まあな。やたらとガタイのでかい怪しい男が私達の方をチラチラ
見ていたり…ガサガサやっていたのは流石に気づいていた。
 …しかしあれは誰だったんだ? 君の知り合いだろうか?」

(あぁ、やっぱりあれが本多とまでは…御堂さん気づいて
いなかったんだ…。そうだよな。じゃなかったら…きっと
店の中で血の雨が降っていたよな…)

「あ、はい…一応…」

 ここで嘘をついて必要以上に勘繰られても仕方ないので
正直に、そこまでは答えていく。

「…やはり、な。君と接近すれば露骨に邪魔するような
真似をしてくるから…君の知り合いだろうとは思ったがな。
随分とモテるじゃないか…。私がいない間にでも、君が
虜にした男か?」

「…冗談は、止めて下さい…!」

 とっさに、そんな事を言われてキッと御堂を見てしまった。
 御堂以外の男を魅了する気も、抱かれる気もまったくない。
 今の克哉には…目の前にいるこの人、だけだ。
 その意思を強い視線で訴えていくと…御堂は、どこか
満足げに微笑みながら克哉の手を握り締めていく。

「…悪かった」

 そう短く告げて…不器用に、御堂は黙って克哉の手を
握り締めていった。
 最初はどうしていいか判らなかったが…相手が素直に
謝っているのに、これ以上蒸し返して怒る訳にもいかなかった。

(本当に…この人は、ずるいな…)

 そうやって素直に謝られたら、こちらは許すしかなくなって
しまう。
 こうして握られている掌はとても温かくて、心地良かった。
 お互いに、言葉はなかった。
 ただ…暗いタクシーの車内の中で、運転手に気づかれないように
黙って手を握り合いながら目的地まで向かっていく。

(暖かい…)

 12月の雨の日。
 外気が冷たいからだろうか。
 …ただ、手が重なっているだけでもとても暖かくて。
 それだけでも、克哉は徐々に幸せな気持ちになっていく。

 そして…沈黙を保ったまま、タクシーは…二人を指定したホテルの
前へと運んでいったのだった―

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 ―雨は浄化する力があるという
 喧騒する街も、傷ついた人の心も
 なら、降り注ぐ雨は街に住まう誰かの涙の代わりと
なるのだろうか…
  その深い悲しみを、癒す為に―

 就業時間を迎えた頃には空は鈍色に染まっていた。
 昨日に続いて、いつ降り出してもおかしくない空模様だった。

(今にも降り出しそうな感じだな…)

 結局克哉は、執拗に問い質してくる本多から上手く逃げ回りながら
キクチ・マーケーティングの玄関の扉を潜っていった。

(よし、本多はいないな…)

 常々、お節介な友人だなと思っていたが…本日ほど、それを痛感
させられた日はなかった。
 特に本多は出会いが出会いだけに、御堂の事を著しく敵視している部分が
あるので…恐らく、全てを話しても克哉の気持ちは判って貰えないだろう。
 むしろ余計な反感を抱くのは目に見えていた。
 だから、心配してくれるのは嬉しい。
 その想い自体は在り難く思っていても、どうしても本多に御堂に関係する
事は話せないというジレンマを抱いていた。
 問い質されればされるだけ、答えられないという苦い思いを経験する
ことになるので…特に今夜は克哉は友人から逃げ続けていたのだ。

「これから…御堂さんと会うって言ったら、絶対に邪魔されるのは
目に見えているからな…」

 はあ、と深く溜息を突きながらカバンから折り畳み傘を取り出していく。
 天気予報によれば、今夜は雨の勢いは強いがそんなに風はないとのことなので
これでも充分に持ちこたえられると思う。
 そうして…克哉は、地下鉄へ向かって…御堂が以前連れてってくれたワインバー
へと向かい始めていった。

 ―その背後に、身を潜めた本多が着けて来ていた事も未だ気づかずに…。

                            *

 MGN社からそう遠くない位置にある、駅前のワインバー。
 ここはワインの品揃えがかなり良く、御堂孝典は以前から友人達を
招いて何度かこの店に訪れていた。
 小さい店ながら置いてある商品の銘柄の多さもさることながら、料理の質も
かなりの物なので…値段は張るが、彼のお気に入りの店の一つであった。
 その奥の席に腰を掛けながら…御堂はどことなく落ち着かない様子で
佐伯克哉を待っていた。

(そろそろ…だな…)

 携帯電話を取り出して、チラリ…とそのディスプレイを眺めていく。
 時刻は19時50分と表示されている。
 待ち合わせの時間よりも、まだ十分早い。
 それでも…御堂は念の為に20分前にはここに辿り着くように行動
していたのだ。

「もうじき、か…」

 こんなに、誰かと会うのにソワソワした気分を味わった事など…
ついぞ記憶にない。
 彼と関係を持っていた時だって、こんな浮ついた気持ちを味わった事は
今までなかった筈だった。
 けれど…大隈に全ての責任を被らされてMGNを退社してから、
自然と佐伯克哉との関係も立ち消えてしまって。
 この一ヶ月それで…何度も、何度も彼の事を考えてしまっていた。
 それで…気づいてしまったのだ。
 
―少なくとも自分は、克哉にもう一度会いたいと願っている事に…。

 今まで彼にした事を思えば、自分がそんな事を思っているなど
図々しいにも程があると思う。
 だが、ダメ元で出したメールに返信が…しかも彼の携帯のものと思われる
ものから送信されているのに気づいた時、反射的に返事をしてしまっていた。
 あのスピードは自分でもびっくりしたぐらいだ。
 こんな感情は、青臭い学生時代以来のような気がする。
 
「もう…そろそろ、時間だな…」

 ディスプレイが19時55分を示したその時。
 店の扉が開け放たれていった。

「こんばんは…あの、御堂さんはいらっしゃるでしょうか…?」

 どうやら、雨が降っていたらしく…克哉は微かに濡れていた。
 その様子を見て、ふいに…彼が立ち尽くしていた夜の記憶が
御堂の中で蘇っていく。
 後、もう少し…自分が彼に気づくのが早かったならば。
 躊躇わずにあの日、克哉の元に行っていたら…この一ヶ月間
持て余していたモヤモヤした気持ちを抱かずに済んでいたのだろうか?
 つい、御堂は克哉を凝視していく。
 
 以前にも克哉と面識があるソムリエは優しく微笑みながら、頷いて
いくと…御堂のテーブルの方へと克哉を案内していった。

「それでは…お寛いで当店での一時を楽しんで下さいませ」

 ソムリエはそう告げていくと…恭しくお辞儀して一旦彼らの前から
立ち去っていった。

「…久しぶりだな。まさか本当に…君がこうして来てくれるとは、
思ってもいなかった…」

「オレ、もです。まさかこうして…貴方に、今日…早速会えるなんて
思ってもみませんでした…」

 お互いにまるでお見合いしているような緊張っぷりで…応対していく。
 御堂も克哉も、久しぶりに会えてテンションが高くなっているせいか
軽く顔を赤らめていた。
 だが…照れ臭くて、すぐにまともに相手の顔を見れなくなる。
 限りなく新婚っぽいというか、バカップルオーラが垂れ流しに
なっていたが当人達はまったく気づいた様子はなかった。

「…私もだ。あぁ、早く席についた方が良い。いつまでも立ち話を
しているのも…何だろうしな」

「あっ…はい。すみません…!」

 御堂に指摘されて、すぐにハっとなって向かい側の席に着席
していく。
 御堂が予約した席は奥のソファ席だ。
 二人に対して、4人分の座席が用意されている形だが…
この場合は向かい合うのが正しいだろう。
 …少しだけ、御堂の隣に座りたいという望みもあったけれど。
 それと同時に、背後で新しい客が訪れたような気配を感じる。
 まあ元々…良い店なのだ。自分達以外の客がいても当然だし
その時点では克哉はあまり意識することなく…真っ直ぐに御堂だけを
見つめ続けていた。

「佐伯…まずは飲み物のメニューだ。今夜は何を飲みたいかまずは
君が選ぶと良い。多少高いものでも…構わないぞ。
最初の一本は私から誘ったのだし…奢らせて貰おう」

「えっ…そんな、悪いですよ…! せめて割り勘で…」

「…今夜の再会を祝して、だ。それなら良いだろう…」

「…祝、杯…ですか…?」

 御堂からの言葉に、ちょっと驚きながら反芻していく。
 だが克哉が呆然として…微動だにしないことに気づいていくと、
御堂は仕方なく…メニューを奪い取って、自分で注文していった。
 恐らくこの様子では克哉に選ばせたら、絶対に遠慮して味ではなく
値段の安いものを選ぶのは目に見えていたからだ。
 どうせなら、今夜は美味しい物が飲みたい。
 その気持ちを優先して…御堂はさっさとリードすることに決めた。

「…その様子だと、君は遠慮して絶対に安いのしか選ばないだろうな。
どうせなら…旨いと思えるものが飲みたい。だから私が決めさせて貰おう」

 そういって、メニュー表を眺めていくと暫く思案していきながら…。

「1985年もののロマネ・サン・ヴィヴァンを」

「かしこまりました…」

 いつの間にかさりげなく立っていたソムリエにそう告げていくと…
御堂は静かに克哉の方を向き直っていく。
 こういう場面で慣れた様子でリードしてくれる姿は格好良くて、
同時に頼もしかった。
 だが…ふと気になって机の上に置かれたメニュー表を眺めていくと…。

「っ…!」

 驚きのあまりに、声が出なかった。
 たった今、御堂が告げたワインの値段は…15万円と出ていたからだ。
 動揺の色を濃く浮かべながら御堂を見つめて抗議しようとすると…。

「…値段は気にしなくて良い。どうせなら、君と旨いワインを飲みたいと
思って私が勝手にした事だ。祝杯だ…と言っただろう」

「け、けど…」

 こんなに高い酒を奢って貰うのはやはり…気が引けた。
 しかも、こんなに優しい顔の御堂を見た記憶は殆どないから…尚更だった。
 今まで見て来た御堂の顔は、意地悪だったり強気で隙のないものばかり
だったから、こんなにこちらを真摯に見つめて微笑んでいるような顔など…
まったく知らなかった。

「こんなに、高いものを…」

 そういって、断りの言葉を紡ごうとした瞬間…机の下で、御堂にしっかりと
手を握られていた。
 突然、相手の温もりに包み込まれてぎょっとなる。
 だがそれは…強い力で握られていて、少々の事では振り解けそうにない。
 困惑していると…ふいに、指を絡めるように強く、強く握りこまれていく。

「あっ…」

 かつて、身体の関係が在った頃の記憶が唐突に思い出されていく。
 御堂にほんの少し触れられるだけでザワザワザワ…と怪しい疼きが
背筋に走り抜けていくようだった。

「佐伯…」

 熱っぽい目で、見つめられていく。
 こんな眼差しをした御堂など、知らない。
 手を握られて…相手に瞳を覗き込まれているだけだ。
 それなのに、こんなに身体が熱くなって…ドキドキしている。

「御堂、さん…」

 ギュっと目を伏せながら、克哉からも手をしっかりと握り締めていく。
 ただそれだけの事なのに…心臓が破裂してしまいそうだ。
 けれど、同時に途方も無い幸福感が胸の奥から湧き上がってくる。
 手を繋ぐ、たったそれだけの事で御堂と深く繋がることが出来たような
気がして…興奮していく。
 
「…っ!」

 耳まで赤く染まっていくのが判る。
 それと同時に身体が反応を始めていって、下半身が硬く張り詰め始めて
いくのが判った。

(ヤバイ…っ!)

 飲食店にいる時に、下半身を勃起させるような真似をする訳には
さすがにいかなかった。
 慌てて御堂から意識を逸らそうとして明後日の方向に向いていくと…。

「っ…!?」

 余計に克哉はパニックに陥る事になった。
 まさに心臓が凍るような想いとはこの事だ。
 
(な、何で…こんな処に…!)

 思わず泣きそうになってしまった。
 ここまで友人が執念深いとは予想もしていなかったからだ。
 今までは克哉が、店の入り口に背を向けている格好なのでまったく
気づいていなかったが…彼らの後ろに位置する席には明らかに不審
人物が其処に鎮座していた。

 その人物の格好は、まさにルパン三世に出てくる銭形刑事のような
帽子とコートを羽織っていた。
 それだけならまだ良い。だがそれにサングラスを掛けて、パーティー用の
髭眼鏡についているような、チョビ髭が口元についていて怪しい事この上
なかった。
 そんな人物がこちらを伺うように新聞紙をあからさまに広げて、チラチラと
こちらを眺めているのだが…一つだけ変装しても隠せない部分があった。
 
―その立派な体格だ。

 本人は頑張って変装しているのだろうが、その体格の頑健さと立派な
部分だけは隠しようがない。
 むしろ190センチ近い筋肉質の体格の男が、そんな怪しい服装を
しているという事で悪目立ちしまくっている。
 言うまでもない。幾ら変装しようと…克哉がその人物を見間違える
事などなかった。

(何で本多がこんな処にいるんだよ~~!)

 心の中で真剣に泣きそうになりながら、克哉はどうにかそれでも…
御堂の手をしっかりとテーブルの下で握り締め続けていた。
 だが、さっきまでみたいにその感覚にうっとり…なんて事はすでに
出来る心境ではなかった。

 心底、自分の友人の事を恨みながら…克哉は、ワインが来るまで
その体制で御堂と共に待ち続けていたのだった―
  ―御堂から一通のハガキとメールが来たのは、その姿を目撃した
翌日の事だった。
 彼が姿を消したその時から空虚な日々を送っていた克哉にとっては
立て続けにショックな出来事が襲い掛かって来ていて…本気で
困惑してしまった。

 ハガキの方に関しては…本多や、片桐の方にも同じ文面の
素っ気無い挨拶が記載されている。
 だが、克哉宛のだけは…090で始まる電話番号がしっかりと
手書きで記されていたのだ。
 それを見ただけで…心臓がバクンバクン言って落ち着かなかったと
いうのに…PCのアドレスの方に、御堂の携帯のものらしいメルアドから
一通、メールが届いていて…余計にショック死するかと思った。

(ど、どうして…御堂さんが、俺のパソコンアドレスを…?)

 今まで、御堂と携帯同士でプライベートなやり取りをした記憶は
なかった。
 プロトファイバーの件で仕事上の連絡を取っていた時も…会社の
PCのメール同士でしかしてこなかった筈だ。
 だが、MGNに所属していた頃とは違うアドレスだったが…
「元気だろうか 御堂」と言う題名のメールを見て…明らかに
克哉は動揺していた。
 いや、良く考えれば…社内のPC同士でのやり取りはやっていたのだから
知っていてもおかしくはない。
 だが御堂はすでにMGNを退社している。
 となると…このアドレスに送信してきたという事は克哉のメルアドを、
あの御堂が控えていたという事になる。
 それ以外の理由は考えられなかった。
 余計に…混乱した。

(あの人は一体…何を、考えているんだ…?)

 MGNを退社して、音沙汰なくなってから一ヶ月が過ぎている。
 その間…連絡しようとすれば、幾らだって出来た筈なのに…あの人は
何も克哉に言ってくれないまま姿を消してしまった。
 それなのに、昨日は大雨の中…会社の前で待っていて。
 翌日にはハガキとメールでの打診だ。
 …少し考えれば、御堂がこちらと会いたいと思ってくれたから働きかけて
くれた、というのが妥当な所だが…あの御堂が自分に対して、そんな想いを
持ってくれていたのだろうか…?

「…どうしよう。考えれば考えるだけ…判らなくなってくる…」

 頭を抱えながら、PCの前で呻いていると…外回りから帰って来たらしい
本多が丁度、八課のオフィス内に戻って来た。

「今戻ったぜ。MGNの方から…新商品に関しての説明や概要を書いた
書類を受け取って来たから…今からそれに関して、皆に報告をさせて
貰いたいんだが…良いか?」

 本多がいつものように大声で、勢い良くそういうと…課全体が活気づいて
いくようだった。
 プロトファイバーの一件以来、社内での八課の評判は上々で…以前の
ように軽んじられたり馬鹿にされるようなことは激減していた。
 売り上げ数そのものに関しては凡庸な結果に陥ってしまったけれど…
準備期間があれだけ短かった商品で…という前置きがついていたので
それなりの評価に結びついていたのだ。

「ああ、本多君。今日も寒いというのに…本当にお疲れ様でした。さあ…
暖かいお茶を用意しましたから、ズズっとどうぞ…」

 本多が入って来ると同時に、給湯室の方に消えていた片桐がお盆を
持ちながら戻って来る。
 その上には現在、八課のオフィス内で事務作業を担当している人数分の
湯のみが乗っかっていた。

「あ、片桐さん。ありがとうございます。ええ…もう冬ですもんね。やっぱり…
外に出ると相当に寒いから、お茶凄い在り難いっすよ。頂きます」

 豪快に笑いながら、片桐が淹れた美味しいお茶をそっと受け取り…火傷
しないように慎重に飲み始めていった。
 だがそんなやり取りを他の人間がしているのにもかかわらず、克哉は
相変わらずPC前で硬直していたので…ついに不審がられて、本多が
湯のみを片手に持ちながら、こちらの方まで近づいて来た。

「よう、克哉…。さっきから何、ボーと見ているんだ?」

「えっ…あっ…」

 本多に間近で声を掛けられて、やっと正気に戻った時にはすでに遅かった。
 克哉がたまたま、そのメールを開いたまま…画面を止めていたので、
本多は見てしまったようだった。
「元気にしているか? 御堂」と書かれたその題名を…。

 それを見た瞬間、ピクリ…と本多の眉がつりあがるのに気づいて、克哉は
困惑してしまった。
 以前から、本多と御堂の仲はかなり険悪で…お世辞にも仲が良いとは
言い難い部分があった。
 何度か、御堂に嫌がらせをされているんじゃないかと勘繰られたこともあった。
 二週間前にもわざわざ呼び出しを受けて、問い詰められたぐらいなのだ。

「おいおい…! どうして御堂からのメールなんて…届いているんだ?」

「あ、今日…ハガキで、転職した事の挨拶が届いていたから…その補足、みたいな
ものじゃない…かな。以前は同じプロジェクトに関わっていたんだし…」

「あいつがそんなに、人間らしいタマか? 俺らに対しての扱いなんて常に見下した
感じで高圧的だっただろうが…。お前、そんなに御堂と個人的に親しくしていたのか?」

「えっ…。まあ、何度か二人で…」

 と、言いかけてはっとなった。
 ホテルに行った事がある何て事…口が避けたって言える訳がないのに、一体何を
口走ろうとしたのだろうか。
 ハッとなって慌てて口元を手で覆っていくと…余計に不審そうな目で本多に
睨まれていた。

「二人で…何だ?」

「あの…ワインバーに連れていって貰ったりとか、朝食をご馳走になったとか
それくらいなら…あるから…」

 辛うじて、差しさわりのない内容をとっさに口にしていく。
 だが、朝食という単語が本多的には何か引っ掛かったらしい。

「…朝食? お前…御堂とそんなに朝早くに顔合わせたことあったのか…?」

 ギクン!

(…其処を突っ込むなよ…)

 …御堂に朝食を振る舞われたのは、初めて抱かれた朝の事だ。
 いつもなら行為が終わるとさっさと出ていく癖に、その日から共に朝を
迎えるようになって…何故か自分がシャワーを浴びている間に…
ルームサービスを頼んでいてくれていた。
 その日の事を思い出してつい、顔が赤くなってしまうが…それが
余計に挙動不審の態度に繋がって、本多の疑念を更に深いものに
変えていってしまう。

「ああ、たまたま偶然…顔合わせたことがあって。それだけの話だよ…。
どうして本多はそんなに、御堂さんの事に対して突っ込んで来るんだよ」

「あぁ…確かに、な。けど…何か、お前の御堂に対しての反応って妙に
引っ掛かるというか釈然としないものがあってな。それが気になるから
ついくどくなっていたかも…悪いな」

「あ、うん…謝ってくれれば、いいんだけど…」

 素直にこう謝られると、それ以上文句をいう事も出来ない。
 チラリと横目に…PCの画面と、御堂から来たハガキに記された
携帯番号を眺めて克哉は考えあぐねいていく。

(…どちらに連絡すれば、良いんだろう…)

 これが御堂の携帯のアドレスからであるなら、自分もプライベートな
携帯のメルアドから返信を出した方が良いのだろうか…?
 そんな事をつい考えてしまって、ハっとなっていく。

(って…何、そんな甘いことを考えているんだ…! 御堂さんがどういう
意図でオレに連絡してくれたのか、まだ判っていないのに…)

 けれど、御堂と言う名前を見ただけで逸る心は…疑いようもない。
 あの人の声が聴ける…顔が見れる、と思うだけで鼓動が落ち着かなく
なるのは紛れもない事実なのだ。
 PCの前で御堂の事を考えて一人百面相をしていると…この一ヶ月
空虚で何に対しても反応がなかったのが嘘のように思えてくる。

―どうやらその後も、本多は色々と克哉に向かっていっていたようだが
考えに耽っている間は見事に聞こえていなかった。

「…って、おい。克哉…聞いているのか?」

 ついに本多がその件に関して、ちょっと憤っていくと…やっと克哉は
正気に戻っていく。

「嗚呼、うん…聞いていたよ。じゃあ…オレはちょっと席外すから」

「…って全然聞いてないじゃないか! 今の俺の忠告、やっぱり全然
耳に入ってなかっただろう!」

 いきなり、本多が吼えていったので…オフィス中の人間がビクリ、と
震えていった。
 そう、克哉が聞き飛ばしていた内容は…コンコンと、いかに御堂のような
人間に心許したら酷い目に遭うかを諭している内容だったのだ。
 だが、見事に思考に耽っていた克哉は馬耳東風状態で…その忠告を
聞き飛ばしていたのであった。
 それを今の叫びで察したが、本多に何を言われようとも…すでに克哉の
心は決まっている。
 いや、むしろ…本多が邪魔をしようとすればするだけ、止めようとすれば
するだけ…心が熱く燃えていくのを感じていた。

 そうしている間に、克哉は素早く御堂からのメルアドをコピーペーストして
自分の携帯宛のメール本文に移していく。
 これでこちらの携帯から、御堂の携帯に送れるようになる筈だ。

「…そんな事言われたって、本多にそこまで口を出される言われはないよ!
オレが御堂さんと連絡を取るかどうかは…オレの自由な訳だし。
この間から心配してくれているのは在り難いけど、必要以上に口を出されて
指示されるのは本当に心外なんだけど!」

 珍しく克哉が強い口調で言い返すと…その場にいた全員がアッケに
取られていた。
 克哉は基本的に、今では仕事が出来るという評価に変わっていたが…
人当たりの良さや気弱な所はほぼ、以前と変わっていなかった。
 なのに…本多に対してそんなに強い口調で言い返すことなど、長年
殆ど見た事がない場面だった。
 本多自身も驚いてしまっていたらしい。
 どう言い返せばいいのか迷っている内に…素早く克哉はPCを素早く終了
させていくと…勢い良く席を立っていく。

「…片桐さん。ちょっと資料取って来ます」

「…あ、はい。行ってらっしゃい…佐伯君」

 上司である片桐に向かってそう声を掛けていくと、素早く克哉はオフィスの外へと
出ていった。
 そのまま…素早く駆け出していって、物陰に隠れていくと…。

「克哉っ! 待てよ! まだ話は終わってないぞ!」

 と、正気に戻った本多が全力で扉から飛び出して来て…克哉を探し始めていた。

(やっぱり予想通りだ…)

 だが、伊達に長年付き合って来た訳じゃない。
 本多の行動パターンは克哉は予測済みだった。
 だからこそPCもキチンと閉じて出て来た訳だし、こうして物陰に隠れたのだ。
 そのまま克哉に気づかず真っ直ぐに資料室に向かって突進していく本多を
やり過ごしていくと…克哉は素早く、御堂に対してメールしていった。

『連絡、どうもありがとうございました。とても嬉しかったです。
新しい職場が見つかられたようで何よりです。…これはオレの携帯の
番号とメルアドになります。良かったら連絡下さい』

 と素早くその文面の後に携帯番号とメルアドを打ち込んでいって、
相手へと送信していく。
 ガラにもなくその間、心臓はドキドキし通しだった。

(…こんなに、ドキドキしてる…)

 あの人から連絡があった。
 ほんの僅かでも連絡が取れた。
 たったそれだけの事でもこんなに高揚している自分が不思議だった。

(嗚呼、そうか…)

 けれど、素早く…本当に5分も経たない内に御堂から来た返信の
内容を見て、気づいていく。

(オレは…こんなに、貴方が好きで…堪らなかったんだ…)

『なら、今夜19時に…君を以前連れて行ったワインバーで待っている。
其処で会おう』

 簡潔でそっけない文章。
 けれど…すぐに場所と時間を指定されて…一層、鼓動が早くなった。

(御堂さんも…オレに会いたいと、思ってくれていた…?)

 その対応のあまりの素早さに、そんな馬鹿げた事を考えていってしまう。
 それがどうしようもなく嬉しくて仕方なくて…。
 克哉はギュウっと…自分の携帯を強く握り締めながら、そのメールの
本文を飽きる事なく眺め続けていたのだった―

―佐伯克哉が、就業時間後に本多憲二に呼び出しを受けたのは
今から二週間程前。
 御堂がMGNを退社したと聞かされてから二週間以上が経過した
頃の話だった。

 その日の夜も、夜空を曇天が覆っていて酷くすっきりしない
空模様であった。
 すでに12月の初旬に差しかかろうとしていた時期だったので、
扉を潜って屋上に足を踏み入れた時、外気がとても冷たく…
こちらの身を引き裂くようであった事を良く覚えていた。
 吐く息が白じむ中、克哉は…先に待ち合わせの場所を訪れていた
本多に向かって軽く微笑んで見せていく。

「…こんばんは。少し待たせちゃったかな。…今日も外回り、お疲れ様」

 正直、この時期の克哉は…まだ御堂が突然、MGNを退社した事。
 それによって今までの自分達の関係がなし崩し的になかったものに
された事に対してのショックが色濃かった。
 それでも心配させまいと気丈に笑みを見せて、挨拶を交わしていく。
 だが本多は…そんな彼の気遣いが、却って苦しいと言わんばかりの表情を
浮かべながらそっと克哉の方へ向き直っていった。

「いや、良いぜ。むしろ…俺の方が、お前を急に呼び出した訳だし。
…ほら、あったかい缶珈琲買っておいたぜ。少なくともホッカイロの
代わりぐらいにはなるだろ…」

「あ、ありがとう。寒いと思ってたから丁度…」

 良かった、と言おうとして渡された缶の銘柄を見て苦笑していく。
 其処には思いっきり「ミルクたっぷりカフェオレ。ほんのりとしたマイルドな甘さ」
と書かれていたのに気づいて苦笑したくなった。
 克哉は正直、あまり甘いのが得意ではない。
 珈琲ならノンシュガーか、もしくは微糖程度の物なら嬉しかったのが本音だが
ホッカイロ代わりに使うならそれで差し支えないだろう。
 後で片桐か、八課の別の女の子辺りにでもこっそりと譲ろう…と考えて
いきながらそれをそっと懐にしまっていった。

「それで…どうしたんだ? いきなりオレを呼び出しだなんて…。
何か話したい事とか、他の人に聞かれたくない相談事でもあったのかな?」

「いや…俺がお前に相談事があるんじゃなくて…その…」

 いつもはっきり白黒をつけたがる性分の本多にしては、歯切れの悪い物言いで
克哉は少し怪訝そうな顔を浮かべていく。
 言いよどむその姿は、言葉を選んでいるかのようだった。
 だが…いつまでもまごついていても仕方ない。
 彼は考えが纏まると、言いづらい事を直球で問いかけて来たのだった。

「…率直に聞く。なあ…克哉、お前は御堂と何があったんだ? あいつが
消えたっていうのなら…八課在籍の俺たちにしたら、本来ならあのムチャクチャ
言って来る奴が消えたことを喜ぶべきなのに…どうして、ずっとお前は
浮かない顔をし続けているんだ…?」

 ふいに、真っ直ぐに瞳を覗き込まれていきながら…図星を突かれて
克哉が瞠目していく。
 その反応を見て、本多は苦々しく溜息を突いていった。

「…そ、んな事ないよ…。御堂さんが辞めたことと、オレが落ち込んでいるのは
深く関係なんか…ないから」

「嘘だな」

 克哉の言い訳は、あっという間に本多に一刀両断されていく。
 それで余計に、何を言えば良いのか判らなくなってしまった。
 二人の間に沈黙が落ちていく。
 何とも言いがたい硬直した空気に…克哉は本気でどうすれば良いのか
判らなくなってしまった。

(本多に…オレと、御堂さんとの間に何があったか何て…口に出して
言える訳がないじゃないか…。オレだって、正直混乱しているのに…)

 けれど、そんな誤魔化しは許さないとばかりに…本多の目は
真っ直ぐにこちらを見つめ続けてくる。
 そうだ、この目だ。やましいことがあると…本多の実直で情熱的な
性分はこちらにとってはもっとも厄介なものとなる。
 
 大学時代からこちらの事を知っている同僚に、どうしてあんな
出来事を話せるというのだろうか。
 最初は嫌がらせを散々受けて、脅迫されたも同然の形で身体の
関係を持つ事になり…それを何ヶ月も続けられている内に会えない事が
切なくなってしまっているだなんて。

 あんな風に辱められて、貶められて。
 半ば犯されるように何度も身体を貫かれたことすらある。
 一歩間違えばこちらの社会人生命すら脅かされるような振る舞いを
受けたにも関わらず…そんな男に会いたくて、会いたくて気が苦しそうに
なっている事実なんて、どうして話せるというのだ!

 ふっとそこまで考えて…克哉は、つい感情が昂ぶって…瞳から
涙を潤ませていってしまった。
 そんな事で涙を流す自分が情けなくて、みっともなくて…余計に惨めに
感じられてしまった。
 逆に本多は…いきなり、危うい表情で…克哉が泣き始めたことに大きく動揺
してしまったようだ。
 鋭い眼差しが見る見る内に…動揺が滲み始めて、急に情けない表情に
なってしまっていた。

「わっ…克哉! どうして、泣くんだよ…! お前にとってそんなに…御堂との
事は辛いことばかりだったのか? 思い出したら泣いてしまうような…
そんな扱いをお前はあいつに受け続けて来たっていうのかよ!」

「ちが、う…そんな、事…ない!」

 泣きじゃくりながら、必死になって克哉は否定していく。
 御堂と過ごした全ての時間が…嫌なものじゃなかったからこそ、克哉は
混乱してしまっているのだ。
 本当なら、あんな風に扱われて悔しい筈なのに。屈辱的な筈なのに。
 それなのに…十日会えないだけで、あの人のマンションの前に大雨の中で
立ち尽くしながら待つなんて振る舞いをしてしまった。
 あの人が辞めた、と聞かされてからは心が避けそうで…同時にぽっかりと
大きな空洞が空いてしまったようで、どうすれば良いのか自分の心を
持て余し続けているのだ。

「全部が、嫌な訳じゃなかった…だから、その…ぽっかりと大きな穴が
空いてしまっているみたいで…どうすれば良いのか、判らないんだ…!」

 そう、呟いていると…御堂の事を語っていると…更に自分の意思と
関係なく…涙が零れ続けていく。
 嗚呼、まるで今の自分は御堂の事に関してだけ、涙腺とか理性が
ぶっ壊れてしまっているみたいだ。
 とめどなく…詰問されるだけでこんな風に泣くなんて。
 あまりに情けなくて、必死になって…袖でゴシゴシと涙を拭っていく。

「…克哉…」

 本多は、その様を見て大きなショックを受けているようだった。
 長年の付き合いである克哉がこんな風に…自分の前で大泣きを
している姿を見たのはこれが初めての経験だったので…本多自身も
どんな対応をすれば良いのか呆然として判りかねているようだった。

「御免…本多が、オレの事を心配して…今夜、ここに呼び出した事は
判っている。けど…お前が聞きたいことって、オレにとってもまだ…
正直整理仕切れていないもので…どう、答えれば良いのか…まだ、
判らないんだ…。だから…!」

 そう言って、泣き顔を隠すように俯いていきながら克哉が踵を返していく。

「ちょっと…待てよ! 克哉…!」

 相手が立ち去る気配を濃厚に感じて、慌てて本多が引き止めようとその肩に
指先を伸ばしていくが…寸での処で掠めるだけで、すうっとすり抜けていく。

「御免、今は聴かないで…おやすみ…」

「…っ!」

 その時、見た克哉の泣いているような…笑っているような、儚い表情を
目の当たりにして本多は言葉を失っていった。
 余りのショックに、声すらまともに出ないくらいだったのだ。
 切なくて…儚くて。見ているだけで男の庇護欲を酷く掻き立てるような
そんな顔しながら…立ち去られて、こっちに一体どうしろというのだろうか…!

「待てよ…! 克哉…!」

 だが、克哉は振り返らない。
 バタン、と大きく音を立てて屋上の扉が閉められていくと…その広々とした
空間には本多一人だけが取り残されていった。

「…あんな顔、見せておいて…俺に放っておけっていうのかよ…馬鹿、野郎…。
俺ら、仲間じゃなかったのか…。ダチが、辛そうにしているのに…放っておけって
いうのかよ…!」

 拳に爪が食い込むくらい強く、強く手を握り締めていきながら呟いていく。
 どうにかしてやりたかった。
 せめて聞き役になる事で…少しは楽にしてやりたかった。
 そういう意図で呼び出した筈なのに…今夜の邂逅は、御堂に対しての
疑念を一層深く強めるだけだった。

「御堂の野郎…克哉に一体、何を言ったんだよ…! あいつを、あんな顔を
させるような…内容を…」

 本気の怒りを込めながら、空を仰いでいく。
 その夜…本多は、せめて克哉の傍にいて少しでも…楽にするように
努力することを誓っていく。

 …その想いが、予想もつかない流れを引き起こしてしまうことなど…
まったく思いもせずに、彼はただ…大切な友人の事を想い続けていたのだった―

 ―雨の音を聞く度に思い出す
  あの日、窓の下で立ち尽くしていた君の姿を
  私を待っていた君の元に私が駆け寄っていたのならば
  …君との関係は、今とは大きく変わっていたのだろうか…?

 声を掛けようか迷っていた。
 そうして葛藤している間に、君の姿を見失った。
 あの日から消えない後悔の念
 それなのに途切れてしまった関係を取り戻したいと願う私は
 もしかしたら浅ましいのかも知れない―

 御堂孝典は、キクチ・マーケーティングのビルに一人、立ちながら…
1ヶ月前の出来事を反芻していた。
  11月の冷たい雨の日の記憶。
 それと同時に、いつの間にか消えてしまった佐伯克哉との関係。
 MGNを去ったのを機に、もう彼とは関わるまいと…一度は思った。
 忘れて、お互いに今までの日常に帰ろうと考えた。
 だが、雨が降る度に過ぎる…あの日の克哉の姿に、どうしても…
御堂は後ろ髪が引かれる想いがして、結局…こうして、今日は彼が今でも
勤めている会社の前まで足を向けてしまった。

「18時…か…」

 普通の会社なら、残業さえなければとっくの昔に退社していても
おかしくない時間だ。
 御堂が今勤めている会社でも、17時半が基本退社時間なので…アポなしで
この時間帯に訪れるのは、入れ違いになる可能性があるのは判っている。
 けれど仕事の関係上で、この近くに来た時に…知らない間に、この会社の
方へと足が向いてしまったのだ。

(今更…どんな顔して、君に逢えると言うんだ…?)

 かつて、彼に対して酷い振る舞いをしていたという自覚はある。
 あんな風に半ば脅迫じみた形で身体の関係を持って、犯して。
 何度も何度も、それを繰り返し続けていた。
 そんな男が、今更…逢いたい、などと言って再び顔を出したら
どんな顔をするのだろうか。

「今更…図々しいと思われるのがオチだな。彼の中ではきっと…私に対しての
印象は最悪、だろうからな…」

 自嘲的な笑みを浮かべていく。
 MGNを退職して、新しい職場に勤め始めてから…まだ日が浅いせいも
あるかも知れない。
 感傷的になっている自分に気づいて、苦笑したくなった。
 何故、もう一度…克哉に会いたいと願ってしまったのだろう。
 あの日に、どうして…声を掛けれなかったことをこんなに悔やんでいるのだろう。

 雨雫が、絶え間なく傘を伝って地面に落ちていく。
 自分がMGNを退社するキッカケが起こった日も、こんな風に大雨が降り注いで
いた夜だった。
 あの雨の中、どうして…君は、私を待っていたんだ?
 それともあれは他の誰かで…私は都合の良い解釈をしているだけの
話なのか?
 
 それをはっきりさせたくて…目立たない位置に立ちながら、ただ…玄関の
方へと目を向けていく。
 佐伯克哉は、もう帰ってしまったのだろうか?
 ここへは…無駄足を踏んだだけだったのだろうか?
 そんな事を考えて、この場からもう立ち去るか…否かを迷い始めていた
その時、待ち人の姿が現れていった。

「あっ…」

 思わず、声が漏れた。
 一ヶ月ぶりに、克哉の顔を見たせいだった。
 憂いを帯びた顔をしながら…キクチ・マーケーティングの玄関の処に
立って、傘を広げていく。
 容姿が整っているせいだろうか…そんな姿も様になっている気がしてつい
見惚れていく。
 久しぶりに見た克哉は…妙に色香が漂っているような気がした。
 気だるげな仕草に、伏せられた瞼。
 小さな動作の一つ一つにさえ…妙に目を奪われてしまった。

(…気のせいか? 酷く佐伯が…色っぽく見える気が…する…)

 つい、克哉を凝視してしまっていた。
 こちらの目線に気づいたのだろう。
 暫くすると…克哉がふと、こちらの方を振り向いて…瞳を大きく
見開いていった。

「…っ!」

 信じられないものを見たような、そんな顔をされて…御堂はすぐに
ハっとなっていった。
 彼を一目みたいという想いで…ここまで来てしまったが、彼と会話を
するまで心の準備が出来ていなかった。
 御堂自身も、どうしてここに足を向けてしまったのか…自分の本心が
判らない状態だったからだ。
 だから、逃げるように踵を返していく。

「待って下さいっ…!」

 背後から、克哉の呼び止める声が聞こえた。
 だが、それを振り切るように…背を向けたまま足を進めていく。

「御堂さん、でしょう…! 待って、下さい…!」

 そうして克哉が御堂を追いかけようと駆け出し始めたその時。

「御堂がどうしたんだ…?」

 大きな声を出しながら、克哉の肩を掴んで足を止める一人の
男がいた。
 克哉の大学時代からの友人であり、同僚でもある本多だった。

「えっ…いや、その…」

「あいつが、来ていたのか…?」

「う、うん…」

 克哉が、言いよどんでいる隙に…御堂は、その場を離れていく。
 だが、その心は落ち着かないままだった。
 ほんの少し、他の男が克哉と話している姿を見るだけでも…どうして
ここまで心が掻き乱されているのか、自分でも不思議だった。

 距離を置いたせいで、それ以上の彼らのやり取りが御堂の耳に
届くことはなかった。
 けれど胸の中にぽっかりと…空虚なものが広がっていく。

「克哉…」

 知らず、彼の名を呟いたが…その優しい呼びかけは、大きな雨音によって
掻き消されていってしまう。
 何故か、心が酷く切なかった。

 ―それから数日後、彼は…一通のメールを克哉に送信していく
 そうして再び、御堂と克哉の交流はゆっくりと再開していったのだった―

 

 
  
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プロフィール
HN:
香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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