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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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  MGN社を飛び出すと、克哉は真っ直ぐに地下鉄の駅の方へと向かっていった。
 目的地は自宅だが、いつもの電車を使うと後を追ってくる御堂にすぐに目的地を
悟られてしまうからだ。
 一応、御堂に送迎される事が多くなったとは言え、普段は電車通勤が克哉の
基本である。
 克哉が乗り込んだ地下鉄は、人身事故とか天候の関係でいつも使っている路線が
まともに運行しない時だけ使用している線だった。

 これを使えばこれから自分が行こうとしている場所を悟られにくくなるだろう。
 克哉は胸ポケットから通勤用のSuicaの入った定期入れを取り出すと
実にスムーズに改札口を潜り抜けていく。
 御堂もその後に続いたが、普段自家用車で動くのが当たり前になっている人間は
電車を使う必要性もない。
 だから御堂は定期も、Suicaも持っていなかった。
 ついでにGPSを搭載した携帯は持っているが、かなり上限額の高いクレジットカード
を所有していた為に、その機能はついていないのしか持っていなかった。
 ここでSuicaを持っていない事が、決定的な時間ロスとなった。
 克哉の後を追って改札口を通ろうとして、思いっきり赤いランプが点灯してブザーが
ピコンピコンと鳴り響き、機械に遮断されてしまった。
 窓口にいる駅員から渋い顔をされて、注意されていく。

「お客さん、ダメですよ。ちゃんと券売機で切符を買って中に入って
貰いませんと

「くっすみません。慌てていたもので。今、切符を購入して来ます。
お騒がせ、しました

 駅員に窘められると、御堂は一瞬だけ心底屈辱そうな顔を浮かべていた。
 しかしそこら辺は大人だった。
 すぐにいつもの営業スマイルを浮かべて、切符売り場の方に全力で走っていく。
 それを後ろ目に見送って、克哉は心底御堂に申し訳ないと思いつつも、丁度
やってきた電車の車両に飛び乗っていく。

 克哉が車両の奥の方に移動していくのと同時に駅のアナウンスが流れてメロディが
辺りに響き渡っていく。
 切符を購入した御堂が全力で階段を降りてくると目の端に克哉の後姿が入って
その車両に乗り込もうと走り続けたがタッチの差で扉が閉まり締め出される形と
なってしまった。

「くっ!」

 運が悪かった。もう少しだけタイミングが早ければ腕でも何でも挟ませて、扉を
開けさせて中に入る事が出来たものを!
 しかし締め切られてしまえば、どうしようもない。御堂は敢え無く克哉が乗り込んだ
車両を見送る形となってしまった。

克哉。君はどこまで私を翻弄すれば気が済むんだ

 心底、愛しい恋人を恨みながらボソリ、と呟く様は普段のエリート然した御堂から
かけ離れた姿であった。
 その後、どうにか体制を整えた御堂は必死に自分なりに考えて、克哉が一番
向かいそうな場所を、知っている情報を元に割り出そうと試みていった。

                      *

駅で上手く御堂を撒く事に成功した克哉は、そのまま目的の駅で下車して
脇目も
振らずに自分のアパートへと向かっていった。
 固唾を呑んで、自分の部屋へと続く階段を登っていくと其処にはやはり秋紀の
姿が待っていた。
 この部屋の合鍵は、一つしか作られてない上にそれはアパートの管理人さんが
持っている。
 一つしかない鍵を流石にもう一人の自分もこの少年に渡せなかったのだろう。
 朝に見た時のまま赤いパーカーに淡い水色のジーンズという身軽そうな格好を
して秋紀は其処に佇んでいた。
 階段を登り切った直後に、向こうもこちらに気づいたらしい。
 克哉の姿を見つけると、一瞬だけパッと顔を輝かせたがすぐに落胆の表情を
浮かべていく。
 
 目の前の克哉は、眼鏡を掛けていなかったからだ。

「克哉、さん眼鏡は?」

外して来た。御免ね

 唇を震わせて問いかけてくる秋紀の前に、克哉は心底申し訳なさそうに頭を
下げていった。
 恐らく待っている間、秋紀は不安と期待を半々に眼鏡の方を待ち続けていたの
だろう。ここに帰ってくる『佐伯克哉』が、自分にとって愛しい方か、そうでないか
彼は待っている間、ずっと落ち着かなかったに違いない。

やっぱり、そうなんですね。僕の大好きなあの人はどこまでも、幻みたいに
儚い人だったんですね

 秋紀は泣きそうな表情を浮かべながら、克哉を見つめてそう呟いていた。
 その瞳には大きな雫が湛えられている。
 克哉は絶対に彼はどうして! とか何で貴方の方がいるんだ! とか責められる
覚悟でここに来ていたので正直、秋紀のこの反応は予想外だった。

…………

 秋紀はまだまだ、言葉を続けたい様子だったので克哉は沈黙を守っていく。
 自分とこの少年はほんの数回、しかもどれもごく僅かな時間しか言葉をやり取り
した事がない。ようするにどんな事を考えて、何を思うのかまったく情報がないのだ。
 だから相手の言葉を聞き逃さないように構えて、少しでもこの少年の事を
知ろうと、理解しようと試みていた。

何となく、朝にあの人とキスした時もう二度と、僕は大好きな克哉さんの
方に会えないようなそんな予感、していたから

 秋紀は、どこか諦めているような達観しているような切ない表情を浮かべて
いた。それを見て克哉の胸は、引き絞られるような思いになっていた。
 
(こんな切ない表情をするぐらいこの子は、あいつの事を好きだったんだな

 それを目の当たりにして克哉は胸が凄く痛んだ。
 いっそ目を逸らしてしまいたかった。
 しかしその弱気な気持ちを押さえ込んで彼の方からこの少年の元へと
足を踏み込んでいく。
 瞬く間に間合いを詰めてここが、自分が住んでいるアパートの廊下であると
承知の上でその身体をぎゅっと抱きしめて告げていった。

本当に、御免。けれどオレにも、譲れない事があるから!」

 相手の肩口に顔を埋めながら、喉から声を搾り出すようにして告げていく。

オレには、とても大事な人がいます。半年前から付き合っていてその人の
為ならどんな辛い目に遭っても構わない。それぐらい大好きで、大切な存在が
すでにいます。だから、君がもう一人の<俺>の事を本当に好きで、求めて
くれている事は知っている! だけど、オレにはその為にこの人生を君に
与える訳にはいかないんだ!」

 殆ど、懺悔に近い告白だった。
 一昨日と昨日、もう一人の自分は散々この少年を抱いていた。
 その上でこんな残酷な事を、相手に告げているのだ。
 非難は元より覚悟の上で、それでも相手を抱きしめる腕に一切力を緩ませずに
克哉は伝えていく。
 この少年を抱きしめたのは相手から自分が逃げ出さないようにする為だ。
 真正面から、憎しみや恨みの言葉を受け止める覚悟を表していた。
 しかし秋紀はそうしなかった。
 逆に自分の方からも、克哉をぎゅっと抱きしめて瞳からポロポロと涙を溢れさせ
ながら溜息を突いていく。

やっぱり、そうだったんだ。貴方にはすでに僕以外に、大切な
人がいたんですね。だから僕の処にあの人は、来なくなってしまった
それが現実、だったんですね

 少年はその瞬間、酷く大人びた表情をしていた。
 どうして、何故と訴える事もせず静かに克哉の言葉を聞き入れていく。
 あっさりと自分の言い分を相手が受け入れている事に、逆に克哉の方が
驚いてしまうくらいだった。

どうして

 逆に克哉の方が、呟いてしまった。
 自分はこんなにも残酷な事実を突きつけているのにどうして、この少年は
こちらを責めもせずにあっさりとその現実を受け入れてくれているのかと。
 暫く二人の間に沈黙が落ちていく。
 先に破ったのは秋紀の方だった。

あの銀縁眼鏡をくれた、怪しい人に克哉さんが二重人格で、僕が好きな方の
貴方は今、閉じ込められてしまっている。だからこの眼鏡を掛けてどうぞあの人を
解き放って上げて下さい、とそう言われた時は正直、半信半疑だった

「えっそれって、まさか

 あの銀縁眼鏡を与えた怪しい人たったそれだけの情報だが、それに該当する
人物はこの世でたった一人しか存在しない。Mr.Rに間違いなかった。

けれど実際に、貴方に眼鏡を掛けたら本当に別人のようになってずっと探して
いたあの人と再会出来ました。だからその時から、ずっと思っていたんです。
僕は本当に何て儚い人に恋していたんだろうなって。探しても、会える筈が
なかったんです。貴方がずっと生きていたのならどれだけ夜のオフィス街で
あちらの克哉さんを探したって存在、していなかったんだから

 殆どそれは、独白に近い言葉ばかりだった。
 秋紀の涙で、克哉のスーツはしとどに濡れていく。
  恐らく胸の内にある想いを全て吐き出させない事には、自分もこの少年も
一歩を踏み出せないから。それを悟っていたから一言も問う言葉すら発せずに
克哉はただ彼を抱きしめながら、その言葉に耳を傾けた。

あの人と一緒にいられた二日間は、本当に幸せでけど、ずっと僕こうも
思ったんです。あのまま一生、眼鏡を掛けた方の克哉さんに会えないままだったら
どうだったのかなって。そう考えたらたった二日だけでも、あの人の傍にいて
しっかり抱きしめて貰えただけ良かったんだな、と。
 一度も成就しないまま会えないままでいるよりも、ずっとそっちの方が幸せ
だなふと、そんな事を考えていたんです

 秋紀は本当に、眼鏡を掛けた方の克哉を好きだったし慕っていた。
 この人の傍にいられるのなら友達も、家族も学校も今いる環境の全てすら引き換え
にしても構わないと思う程それは強い、想いだった。
 あの人に抱いて貰っている間、秋紀は沢山『好き』と溢れんばかりの想いを伝えていた。
 ぎゅっと強く抱きつき続けてどれだけ激しい行為でも、焦らされても追い上げられても
拒む事なく受け入れ続けていた。

 けれどだから、同時に判ってしまったのだ。
 本当に真摯な思いを抱いてからこそ、判ってしまった真実。
 眼鏡は秋紀を貪るように何回も抱いていた。
 だがその激しい行為の裏にある感情を秋紀は気づいてしまっていた。
 その一言が少年の唇から放たれた時、克哉は自分の心臓が刃物で貫かれたかのような
衝撃を覚えざるを得なかった。

例えあの人が僕の事を愛していなくても

 その一言を言われた瞬間、克哉はハッと息を呑むしかなかった。
 対照的に秋紀の表情は穏やかで静かだった。
 夕暮れの中、二人は静かに立ち尽くしていく。
 呆然とした克哉を…意外な程、優しく秋紀は見つめ返していった―

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 朝の一件があった後、一日中…二人の間には気まずい空気が流れていた。
 克哉が壊れた機械のように謝罪を繰り返し続けて、少し経って冷静になってから…
大急ぎで午前11時の会議に向けての準備をしなければ間に合わない現実に
二人とも気づいたからだ。

 それからは、二人とも…一旦、思考を切り替えて仕事の方に没頭した。
 そうしなければ到底、間に合わなかった。
 だから御堂は頭の中に渦巻く、『何故』という問いを…仕事の間だけは
頭の隅に追いやり、自分の部長としての責務を全うした。

 克哉は密かに…この人が真の意味での大人であり、エリートであった事に
心から感謝していた。
 あの人にあんな目に遭わせた上に…大事な会議にまで支障を出させては
申し訳なかったからだ。
 だから克哉も、仕事モードに切り替わってからは…一日、「ごめんなさい」と
いう言葉を言い訳をグっと飲み込んでいった。
 そして…ギリギリの処で間に合い、会議が終わってからは…各部署への
連絡作業や、取引先への必要事項の伝達など…山積みになっていた事を
全力で片付けていったら、あっという間に就業時間を迎えていた。

(今日が…心底、忙しい日で本当に良かった…)

 多分、これだけ多忙でなければ…御堂ともっと二人きりになる時間が増えて
気まずい思いをする羽目になっていた筈だ。
 普段ならこんなに忙しければ、愚痴の一つの零したくなっていただろうが…今日に
関しては心底、克哉は感謝したい気持ちになっていた。
 改めて必要な書類を整理して纏めたファイルケースを…御堂のディスクの付近にある
棚に収めていきながら…ほう、と克哉は溜息を突いていた。

「そろそろ…御堂さんも戻ってくる頃だな…」

 時計の針を見れば、時刻はすでに十六時五十分を指していた。
 MGNの就業時間は…朝の九時から夕方の五時までだった。
 今日はグルグルした思考回路を抑え込んで作業に没頭したおかげで…克哉が
担当するべき仕事は殆ど片付いて、定刻を迎えたのならすぐに帰宅しても
問題はなかった。
 家に帰る…という事に思い至った時、克哉は苦い気持ちに浸っていった。

(あの子にはどう言えば良いんだろう…)

 家に帰れば、恐らく…秋紀がもう一人の自分の事を待っているだろう。
 しかし…すでに克哉は眼鏡を放り出し、もう二度とこれを掛けるつもりはない。
 自分の背広の胸ポケットの処にこっそりと納めてあるが…もし、家の前で自分の
顔に眼鏡がないのを秋紀が見たのなら…あの少年を落胆させる事になるだろう。
 それを考えると…克哉は家に帰るのが憂鬱な気持ちになっていた。

(御堂さんにだって…言わないといけない事が一杯あるし…オレは一体、
これからどうすれば…良いんだ…?)

 心底、こんな事態を巻き起こしてくれた眼鏡の方を恨みたい気分になった。
 けれど同時に…酷く心がモヤモヤしていた。
 恨みたいのに、彼を恨みきれない。
 そんなすっきりしない感情が克哉の心を満たして、余計に気持ちが重くなっていた。

(…ダメだ、恨みたいけれど…あいつの気持ちを知ってしまった今じゃ…もう…)

 眼鏡を掛けてから、今朝に主導権を取り戻すまでの3日間…克哉は閉じ込められながら
もう一人の自分の感情を…僅かながらに覗き見る事が出来ていた。
 自分が御堂との時間を心から幸福に思いながら紡いでいる傍らで、眼鏡はどれだけの
孤独を噛み締めながらこの半年を過ごしていたのか。
 それでどれだけ…あいつの心が冷え切っていたか、今は知ってしまっている。
  …自分がもし、あちらの方の意識が御堂と結ばれて…同じ立場に追いやられていたら
どんな気持ちになっていたか。
 そこまで想像を張り巡らせた時…克哉の中にはもう一人の自分を恨めないし、
憎めなかった。

(待てよ…もしかして、オレが…秋紀っていう子の件も…あいつの気持ちを汲み取る事も
ずっとしないで…逃げ続けていた。だから…こんな事態になったんじゃないのか…?)

 考え続けている内に、ふと…そんな事を気づいた。
 秋紀は自分が眼鏡を掛けなくなった日から…ずっともう一人の自分を探していた。
 しかしそれは…自分が秋紀の事を清算しようとして、彼がいるクラブにでも足を向けて
今付き合っている人がいる事や気持ちに応えられない事を伝えていれば…こんな事には
ならなかった筈なのだ。

 もう一人の自分だって、そうだ。
 自分は正直、彼の存在に怯え続けていた。
 御堂と付き合う傍らで…もし、彼がやっていた事を知られてしまったら…嫌われて
しまうんじゃないか。
  そればかり怯えていて…もう一人の自分の事を思い遣る事など考えられなかった。
 一緒の身体を共有していながら…克哉は眼鏡を恐れるばかりで、あそこまで彼の心が
冷え冷えとして…トゲトゲしくなっていた事に気づこうともしなかった。

(あいつは…秋紀って子に対しては、凄く優しかった。それは…あの子が強い気持ちで
あいつだけを求めていたからだ…)

 けれど、自分と御堂はあいつの存在を必要としなかった。
 御堂は無い者として…克哉だけを必要として、克哉は銀縁眼鏡を放棄する事で彼を
決して表に出さないように封印し続けた。
 だから彼は…あんな真似をしたのだと。克哉は…それに気づいた時、呆然となった。

「…全ての原因は、オレにあるんじゃないか…」

 認めたくなかった。
 最初はあいつが悪いのだと…いっそ責任転嫁したい気分だった。
 しかし克哉は…他人の気持ちを汲み取ったり、共感する能力に長けていた。
 だから全ての発端に…気づいてしまった。
 秋紀や眼鏡の行動の動機がどこから発生していたのか…その根源を発見した時、
克哉は一つの決意をした。
 
「オレがしなければならないのは…全力で御堂さんに謝る事じゃない。まず…
あの二人と向き合う事の方が…先じゃないか…!」

 痛いぐらいに拳を握り締めながら、克哉は呟いていく。
 あの二人の事を片付けてからじゃなければ…今の自分は御堂に向き合う資格すら
ないだろう。
 もうじき、17時を告げるチャイムが社内に鳴り響くであろう直前に…御堂が仕事を
終えて執務室へと戻ってくる。
 室内に入って来た御堂の顔は険しかった。
 すぐにでも事情を聞きたい。その表情と眼差しは紛れも無く…そう訴えていたので
チクリ、と胸が痛くなった。

「克哉…」

 チャイムが鳴る直前、仕事中は「佐伯」と呼ぶことを崩さない御堂が…下の名前の
方で克哉を呼んでいく。
 それは御堂が、今は私人となって克哉と向き合っている何よりの証でもあった。

「…御堂さん。すみません…貴方に事情を話したいのは山々ですけれど…オレは
貴方に謝るよりも先に、行かないと行けない処があります。…本日の八時か九時まで
にはその用事を終えて…必ず、貴方のマンションの方に向かいます。
 ですから今は…オレを行かせて下さい。それからじゃなければ…貴方に謝ったり、
言い訳する資格も…ないですから…」

「何、だと…?」

 一瞬、何を言われたのだが…判らないといった怪訝そうな顔を御堂が浮かべていく。
 しかし克哉は…そんな彼からまったく瞳を逸らさずに、彼に想いを告げた時のように
まったく怯む事なく、真正面から御堂を見据えていく。
 その瞳のあまりの真摯さに、御堂は虚を突かれた形になった。

「ですから…今は失礼します! 必ず、後で貴方の処に向かいますからっ…!」

 必死の想いで気持ちを伝えて、克哉は素早い動作で…御堂の脇をすり抜けていく。
 それと同時に、社内中に…17時のチャイムの音が盛大に響き渡っていった。

 その音に一瞬、足を止めている隙に…瞬く間に克哉の姿は扉の奥に
消えていく。
 バタンという音がすると同時に金縛りが解けて、御堂はワナワナとその場で
震え続けていた。

「…後で必ず、だと…? これだけ私を振り回して…事情を説明する事も、言い訳する
事もせずに…これ以上、私が待てる筈がないだろ…! どうして…君は私の元から
すり抜けていこうとばかりするんだ…!」

 本気の怒りの言葉を、その場で呟いてから…御堂もまた、彼の姿を必死に
追いかけていく。
 もう克哉の姿を見失いたくなかった。
 この手を離したくなかった。
 その一念で、御堂は全力疾走をして…遠ざかっていく克哉の姿を…追い求めていった―
 
 口付けながら、眼鏡が思い浮かべていたのは…もう一人の自分の事だった。
 あいつは…俺の存在を、この男に知られる事を恐れ続けていた。
 それが…どうしようもない苛立ちと憤りを、彼に齎していたのだ。
 お前達はずっと…『俺』の事など、無い者のように振る舞いながら…幸せな日々を
送っていた。
 御堂はあいつだけを見続けて、あいつは俺を封じ続けて表に出さないようにしてて。

 ―それなら、俺の心は何故…以前のように完全に眠り切らずにあいつの心の奥底で
生き続けなければならなかったんだ…?

 もう一人の自分にとって、今…もっとも大事な存在を押し倒していく。
 やっと深い口付けを解いて顔を離していってやると…目の前の男は、信じられないものを
見ているような…そんな表情をしていた。

(あぁ…そういえば、これが俺にとって…あんたとの、ファーストキスって奴に
なるのかな…?)

 自嘲的に笑いながら、そんな事を考えていく。
 もう一人の自分とは、恋人関係になる前からも…付き合ってからも数え切れないくらいに
交わしているだろうに、自分とはこれが初めてになるというのも滑稽だった。
 もう一人の自分は、この男とのキスを好んでいた。
 それだけで幸せそうな心に満たされて…それが遠巻きに伝わってくるぐらいだったのに…
自分の方は、頭の芯で酷く冷めた気持ちになっていく。
 この二人の幸せなど、この手で壊してやりたかった。
 
 ―お前達は、ずっと…俺を無い者として…無視し続けていたのだから。

 誰にも必要とされず。
 認識もされず。
 親しい者もおらず。
 自分が成すべきことも何もなく。
 ただ…他人の幸福と充実した日々をガラス越しに、ただ見せ付けられる日々。
 克哉が眼鏡を掛けなくなってから八ヶ月。
 眼鏡が送り続けていた日常は…そんな、気が狂いそうなものだった。
 いっそ以前のように眠り続けられればまだ楽だった。
 なのにあいつの恐れの感情が、眠ろうとする俺を妙に刺激して…それすらも
叶わなかった。
 だから眼鏡は、もう一人の自分を何よりも憎んでいた。

 ―せめてお前ぐらい、俺が在る事を認めてくれれば…俺はこんな不快な感情を
胸に抱かないでいられたのに…と。そうすれば自分は眠って、必要以上の
苦痛を味あわずにいられたのだから―

「佐伯…! 何を、考えているっ…! ここは朝のオフィスだぞっ…!」

 自分が逡巡している間に、御堂は少し思考出来る程度には回復したらしい。
 唇をワナワナ震わせながら、必死の形相で訴えかけていく。
 今の眼鏡には、この男のそんな表情は妙に愉快だった。
 だから…からかうような口調で、返答していってやる。

「…御堂さん、あんまりデカイ声を出すと…こんな場面を他の誰かに
見られてしまいますよ…?」

「君こそ正気かっ…! 特に今朝は11時から重要な会議が組まれている事は
把握している筈だっ! そんな時に…!」

「…後、三時間もあるじゃないですか。それだけあれば…俺の気が済んだ後でも
書類の確認作業ぐらいは出来ますよ。あんたは有能なんですからね…?」

 張り付いたような笑顔を浮かべながら、ゾッとする冷たい声を眼鏡は出していた。
 其処に剣呑なものを感じたのだろう…。
 御堂の瞳の奥に、一瞬怯えのような光が宿っていった。

「…克哉、君は一体…何を…! うあっ!」

 いきなり足を大きく広げられたかと思うと、足の狭間に…克哉のすでに怒りで
昂ぶっていた性器を布地越しに押し当てられる。
 その行為に、薄々と感じていた恐怖が…現実に成されようとしている事を御堂は
理解していく。

「…この体制になって、まだ理解出来ませんか…? 俺はあんたを抱く気なんだよ…
御堂、孝典…」
 
 御堂の耳元で、怒りを押し殺した声で囁いていく。

「ど、うして…!」

「…それをあんたが聞くのか? 御堂…。…最初の頃にあんたが<オレ>に散々した事だろう…?
自分の立場を利用してな…?」

「…っ!」

 その一言は、御堂にとっては泣き所のようなものだった。
 今の眼鏡の言葉は、恋人関係になってからの事ではなく…最初の頃の、まだ嫌がらせの
意味で克哉を抱いて、辱めていた頃を指していた。
 御堂の中では、今では克哉の存在はどんな者よりも大きくなっている。
 そんな彼に…憎しみの篭った口調で、そんな言葉を言われたら…言い返せる訳がない。
 硬直している彼を見下ろしながら…眼鏡は、御堂のスーツズボンのポケットに…
手を忍ばせていく。
 …其処には、いつも彼が愛用している小さな潤滑剤のチューブが入っていた。

「…大丈夫ですよ。これを使ってすぐに済ましてあげますよ…? お互い、職務を
放棄する訳にはいきませんからね…?」

「止めろっ…克哉っ! むぐっ…!」

 再び腕の下で暴れていく御堂の唇を深く塞いで…器用にそのベストとYシャツを肌蹴させて
直接胸の突起を弄っていってやる。
 その間に腰を何度も押し付けて…自分の興奮度合いを突きつけてやると、御堂は何度も
恐怖で身を竦ませているようだった。
 克哉と関係を結んでから八ヶ月。
 自分が抱かれる側に回る事など想像もしていなかったのだろう。
 相手の肉体が強張る度に、眼鏡は…暗い悦びを感じていった。

 グチュ…グチャ…ピチャ…ネチャ…。

 いつもこの男が、克哉にしているように…ねっとりと舌先を口腔中に張り巡らせて
深すぎるキスを施していってやる。
 強い快楽は、愛しているから与えてやるのではない。
 秋紀は自分を必要として、求めてくれていた。だからもう少し優しく扱ってやったが…
この男に対しては、自分に屈服させて支配してやるだけの為に…そうしていた。
 懸命に御堂は、いつもとあまりに態度が違い過ぎる恋人に向かって…目を覚まして
くれと! そう訴えるように唇を喘がせて、抵抗し続けていく。

「御堂…いい加減、観念したらどうだ…? お前が<オレ>にした事を思えば
これくらいの報復は当然とくらい…考えないのか…?」

「そ、れは…!」

 心からの憤りを込めて、その瞳を覗き込みながら…告げていけば、相手も良心の
呵責でも感じたのだろう。
 抵抗が弱まり、今度こそ眼鏡の方のペースになっていく。
 その隙に相手の上等そうなスーツズボンを下着ごと引きずり下ろして…たっぷりと蕾の
周辺に潤滑剤を塗りつけていってやる。
 スーツのジッパーから引きずり出した己の剛直の先端にも…同じように塗りつけて
いってやると、グイっと其処に押し当てていった。

「あんたを…犯してやるよ…」

 それで俺に、屈服すれば良い。
 眼鏡はそう考えて…腰を一気に進めようとした。
 瞬間、とんでもない衝撃が…全身に走り抜けていった。

―止めろぉぉぉぉぉ!!

 この数日間、大人しく自分の中で眠り続けていた筈のもう一人の自分の雄叫びが
脳裏に響き渡った。

―その人に、それ以上…こんな真似をしたら、許さないっ!

 それは…本気の憎しみの篭った言葉と叫びだった。

―誰にも、渡さないっ! この人は…オレにとって本当に大事な人だからっ!
 お前にも、他の誰にも…これ以上は指一本も触らせたくないっ!

 それは…あまりに強い感情と、決意だった。
 今まで克哉は誰かを憎んだり、本気で衝突したりする事を好まなかった。
 否…それを否定したからこそ、彼の意識は形成されたようなものだった。
 だが…今の彼は本気で…御堂にこのような仕打ちをした眼鏡を憎み、憤っていた。
 それが…銀縁眼鏡の力によって齎されていた…眼鏡の意識の優位を奪い…
再び肉体の所有権を取り戻していく。

『お前はっ…!』

 眼鏡の意識が…克哉の手によって、再び暗い場所へと引きずりこまれていく。
 そして…克哉は、身体の自由を取り戻して…自分の目元に掛けられた眼鏡を
勢い良く床に放り出していった。

「御堂…さ、ん…」

 その瞬間、御堂は見た。
 一瞬で…彼らの意識が切り替わり、変貌する様を。
 先程まで別人のように冷たく…憎しみを込めて自分を組み敷いていた男が
瞬く間に…自分の良く知る、穏やかで…腰の引けた『いつもの克哉』に戻っていく様を―

「…本当に、ごめんなさい…」

 瞳から、涙を零しながら…悲痛そうな表情を浮かべて…克哉は御堂に抱きついていく。
 さっきまで御堂を貫こうとしていた性器はすでに力を失い…思いっきり萎えていた。
 突然の事に、御堂の方も頭が回っていかない。
 力なく胸を上下させ…混乱のままに…相手に抱きしめられる以上の事が出来なく
なっていた。

 ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…!

 克哉は壊れた機械のように、ただ御堂に対して謝罪の言葉を紡ぐ事しか出来ない。
 御堂のスーツの肩口に、彼の涙が染み渡っていく。
 ただ…今の御堂に出来た事は、戸惑いながら…呆然としながらも、必死に自分に
懇願して謝り続ける…自分の良く知っている『克哉』を…抱きしめ返してやる事
ぐらいだった―



 
 ※  この話は御堂と克哉が結ばれてから半年後に、眼鏡を忘れられない秋紀が…克哉に
眼鏡を掛けて愛しい方の人格を呼び覚まして…という話です。基本は御堂×克哉です。
 一応眼鏡×御堂ものではないです。ついでに、不穏な空気漂っていますが…それでも
大丈夫な方だけこの期間はお読み下さいませ。注意書きでした(なむ~)

 以前は孤独など感じた事はなかった。
 人の群にいて同調して、ヘラヘラ笑いながら生きるより
 一人で足元をしっかりと踏み締めている方が余程性に合っていた
 いつから…自分の方もあの男に必要にされたいとなど望むようになったのか
 それがどうしても…眼鏡の方には判らなかった

(馬鹿げた感傷だ…)

 MGN本社に出勤する寸前、そんな感傷的な事を考えながら自嘲的な笑みを浮かべる。
 髪をしっかりと右側で大きく分けて、銀縁眼鏡を掛けている克哉は一見すると…
あまりにいつもと雰囲気が違いすぎて、見知った顔と遭遇しても相手は判らない様子だった。
 だから敢えて…今朝に限っては彼の方から朝の挨拶をする事はなかった。
 自分と、あいつは根本的に違うものだと眼鏡の方は認識していても、肉体は
共有している為に他人から見れば同一人物なのである。
 その違いをイチイチ説明して回っていくのも面倒だ…と思ったので沈黙を貫いて…
堂々とした足取りで玄関の方へと向かっていく。
 途中でただ一人の青年だけが、そんないつもと纏う空気が異なる克哉に声を掛けて来た。

「おはようございます! 佐伯…さんですよね?」

 屈託ない、明るい笑顔で…まだ20代前半の青年が挨拶してくる。
 御堂の直属の部下に当たる…今年で入社二年目を迎える、前向きで明るそうな性格を
した男だった。
 確か普段でも御堂に憧れ、もう一人の自分に対しては結構馴れ馴れしく懐いて来ている。
 そんな位置づけの奴だったな…と、記憶を探っていく。

「藤田か…おはよう。あぁ…間違いなく佐伯だが…そう見えないか?」

 どこかつまらなそうな感じで、一応挨拶だけしていってやる。
 それに違和感を覚えたのだろう…瞬く間に藤田と呼ばれた青年の顔が怪訝そうなものへと
変わって行った。
 確かに通常の佐伯克哉なら、「おはよう、藤田君。今日も一日…宜しくね」という感じで、
穏やかに微笑みながら朝の挨拶をしているだろう。
 しかし…自分とあいつは違う。あいつの真似をして今日一日を過ごすというのも嫌だったので
平然な顔をしながら藤田からの訝しげな眼差しをやり過ごしていく。

「えっ…あ、はい。確かに佐伯さん以外の他の人には見えないですけど…何か今朝は
随分と雰囲気が違いますよね。何かありましたか…?」

「あぁ…単なるイメチェン、という奴だ。いつも気弱でウジウジばかりしている自分を変えて
みたくて…いつもと雰囲気を変えてみたんだが、どうかな?」

 軽口を叩きながら、そんな事をのたまっていく。
 それが一番…いつもと雰囲気が異なっている事に対して自然だろう、と判断しての
発言だった。それを聞いて…藤田は少しは納得したのだろう。
 ほんの僅かだが…顔の強張りが解れていったように感じられた。

「あぁ…そうなんですか。確かに佐伯さんって…いきなり他の会社から引き抜かれて、
あの御堂部長の直属になったぐらいですから仕事は本当に出来るんですけどね。
ちょっと押しが弱かったり…気が優しすぎたりする事で舐められたり、
損しているかな~って僕も以前から感じていましたからね。少しぐらい…クールな
態度をするっていうのも、舐めてくる相手の牽制には良いのかも知れません
けど…う~ん…」

 腕を組みながら、いつもと態度の違う克哉の顔をジロジロと見つめてくる。
 正直…その態度と視線が、眼鏡には不愉快だったので…適当に切り上げる。

「あぁ…俺も正直、いつもの自分の腰の引けっぷりには腹を立てていたからな。
だから…少しは変えたかった。ただそれだけの事だ…。じゃあ俺はそのまま部長の
部屋に向かうから…この辺でな…」

 歩きながら会話を続けている内に会社の社員用玄関の処に辿り着いたので…
そこで藤田と別れて、早足でエレベーターに乗り込んでいく。
 藤田もその後を追おうとしたが…すぐに自分の同僚に声を掛けられてしまったらしい。
 彼らと言葉を交わしている間に、克哉はさっさと扉を閉めて上の階へと向かって
いってしまった。
 ビルの上層階は…重要な会議をする為のミーティングルームや、御堂の執務室など…
一定の上の立場の人間の専用の部屋が幾つも立ち並んでいる。
 この半年、通い慣れた御堂の執務室の扉を開けていくと…すぐに、御堂と
対面する形となった。

「おはようございます御堂さん」

 当たり障りのない挨拶をしながら、部屋の中に入り込んでいく。

「佐伯っ! 一体君はこの二日間…どこにいたんだっ!」

 しかし御堂の方はキツイ口調と表情を浮かべながら、いきなり眼鏡を詰問していく。
 その顔色はいつもに比べてかなり悪く、目の下にうっすらと隈が出来ていた。

「さあ…どこにいたんでしょうかね? 一応…こちらのプライベートに関わる事ですから
コメントは控えさせて頂きます」

 にっこりと笑いながら、眼鏡はどこか暗い眼差しを湛えていた。

「ふざけるなっ! この二日間…君がどうしているのか気が気じゃなくて…ずっと私は
探し続けていたんだぞ! 君のアパートに二度ばかり足を向けたが、幾らインターフォンを
押しても出ないし! その時に電気メーターも回っている気配もなかったから…何か
事件にでも巻き込まれて自宅に戻れなかったんじゃないかって心配し続けていたんだぞっ!」

「へえ、御堂さん…。わざわざ俺の安アパートまで来て下さったんですか。応対出来なくて
申し訳なかったですね。丁度立て込んでいましたから…」

 そうして、克哉は意地の悪い笑みを浮かべていく。
 …あの二日間、御堂があの家に足を向けていた事は知っていた。
 だが…克哉はわざと出なかったし、居留守を使い続けていた。
 それに二回とも…遅い時間帯に尋ねて来たから、丁度自分は…秋紀を抱いていて
「取り込み中」だったからだ。
 まあ…この真面目な男は、自分の恋人がまさか…自分の部屋に、他の人間を連れ込んで
楽しんでいたから応対しなかったのだと、想像もしてないに違いない。
 そう考えると、妙に愉快な気持ちになっていた。

「立て込んでいた、だと…! 私がこの二日間…どんな気持ちでいたか、君には
判らないだろう…!」

 克哉と正式に付き合いだしてから半年、週末に一切連絡なく…約束をボイコットされたのは
初めての経験だった。
 これがケンカとか、不穏な空気が漂っていて…こういう事態が起こったのなら、御堂とて…
もう少し納得出来ただろう。
 しかし先週の週末まで、自分達の関係は良好だった。
 金曜日の夕方だって…最後に見た克哉に妙な気配はなかった筈なのだ。

 それなのに…いきなり、克哉からの連絡が途絶えて…この二日間、どれだけ手を尽くしても
彼の足取りは追えなかった。
 理由がまったく判らない、見当もつかなかったが故に…御堂の憔悴ぶりは酷かった。
 みっともない、情けないと思っても…気が気じゃなかったのだ。
 それを平然とした顔で、こちらに悪いと思っていもいなさそうな態度で…あっさりと言われて
御堂はガラにもなく感情的になっていた。
 
「へえ…貴方はそれくらい<オレ>を愛して下さっているんですね。そんな事で…それだけ
憔悴して、冷静でいられなくなるくらいに…」

 ふいに、それが非常に不快に感じた。
 お互い、一定の距離を保って会話を続けていたが…眼鏡の方から急に間合いを詰めて
御堂の方へと近づいていく。
 自分の直属の上司に当たる男は、険しい顔を浮かべながらこちらを凝視していく。
 こちらも…負けじと、その気丈そうな瞳を睨み返してやった。

「…佐伯。会社では間違ってもそのような発言をするな。…一応私個人に与えられた
部屋と言っても、突然誰が来て聞かれるかも判らないからな…」

「へえ? 以前この部屋で<オレ>に悪戯を仕掛けて…良いようにしてくれた貴方が
言う言葉とも思えませんね?」

「佐伯っ!」

 御堂が感情的になって机から立ち上がると同時に、そのまま眼鏡が一歩彼の方へと
踏み込んで、その身体を引き寄せていく。
 そのまま噛みつくように唇を奪っていってやると…深いキスを施していってやった。

「っ…!」

 突然の事態に、御堂は頭が真っ白になっていた。
 咄嗟に反応出来ずに…眼鏡の成すがままに唇を貪られていく。

(あんたが、悪いんだ…)

 冷たい顔を浮かべながら、そう心の中で呟いていく。
 …あんたが、あいつばかりを必要として…俺の方など気にかけなかったから。
 だから…こんなに、俺の中では憤りが膨らんで…いつしか、あんたが憎くなった。
 …その責任は、あんた自身に取って貰おう。
 ごく自然に、そんな物騒な事を考えながら…眼鏡は、獰猛な笑みを浮かべていく。
 キスをしているせいか、御堂の方はまだ…その猛々しい彼の表情に気づく様子は
なかったが…。

 きつくその身体を抱きしめていってやる。
 男はまだ呆けているのか、抵抗する気配はなかった。
 御堂の反応がない事を良い事に…眼鏡はそのまま、大きな執務机の上に…この
偉そうな男の身体を組み敷いていった―
 秋紀の手によって、克哉のもう一つの人格が呼び起こされてから二日が経過していた。
 その頃には…眼鏡は自分の意識の方が優先して表に出ている事に慣れて、自分の
部屋で二日間を過ごしていた。
  気だるげな様子でベッドから身体を起こし、傍らの透明なテーブルの上に置いといた
携帯で時間を確認していく。
 そろそろ、出勤するのなら…朝の準備を始める時間帯だった。

「…良くこれだけ、掛けられるものだな…」

 二日前からバイブ設定にしておいた携帯電話には、沢山の着信履歴が残されていた。
 その主は全て「御堂孝典」。
 …平凡で弱気な性格をしている自分の恋人である男からだった。
 数十件にも及ぶ履歴は、それだけ…いつもなら週末に来ている克哉が一切の連絡もせずに
顔を出さなかった事による焦燥を表していた。
 それを見て…つい、愉快な気持ちになった。

「…それだけ今のあんたは、もう一人の<オレ>に対して執着しているって事なんだな…」

 ククっと喉の奥で笑いながら、ベッドから身体を起こすと…自分の傍に秋紀がいない事に
やっと気づいていく。
 いつもなら自分が起きるまでべったりと…胸元から離れない状態だったのに…。

「…何か音が聞こえるな。台所の方か…?」

 まだどこか寝ぼけて、頭と気分がすっきりしないまま…キッチンの方へと足を伸ばしていく。
 そこには、自分のシャツを一枚だけ羽織った格好で調理台に立つ秋紀の姿があった。
 ジュージューと香ばしい音と匂いを立てながら、フライ返しを片手に…何かフライパンで
作っているようだった。

「あっ…! 克哉さん、おはようございますっ! 今…朝食を作っているから
少し待ってて下さいっ!」

 秋紀が本当に嬉しそうに、幸福そうに笑いながら…フライパンの上の目玉焼きと必死に
格闘していた。
 さっきまで蓋をして蒸らした目玉焼きは…黄身の部分にうっすらと白い膜が張っていて
丁度食べ頃を迎えていた。
 ここまでは一応…中学の調理実習で教わった通りだ。
 後は先に焼いてあったベーコンを乗せた皿の上に綺麗に盛り付けられるかどうかである。
 ベーコンの方も少し焦げ気味であったが…どうにか食べれるレベルの焼き加減だ。
 その傍らに美味く目玉焼きをスライドさせようとしたが…。

「んんっ…! 張り付いて上手く…いかない。わっ! 破れたっ!」

 慎重に手を動かしたにも関わらず、卵をフライパンに落とすタイミングを少し間違えていた
おかげで…底がべったりと鍋に張り付いてしまっていたらしい。
 調理経験が浅い秋紀は、それを上手く剥がせずに黄身を破いて…ドロリと半熟の部分を
溢れさせてしまった。

「貸せ…もう一個のは俺がやってやる…」

「えっ…? 克哉さん…」

 克哉の為に作った朝食を失敗してしまった事で…秋紀は少し悲しそうな顔を浮かべていた。
 それが見てられない気分になったので、彼を押しのけて…眼鏡は自分がフライ返しと
フライパンを持って、べったりと鍋底に張り付いた目玉焼きを剥がしに掛かる。
 目玉焼きの底の方はパリパリの状態になっていたが…克哉がやると鮮やかに剥離して、
綺麗な形で皿の上に収まっていた。

「ほら…出来たぞ」

「うわっ! 克哉さん凄いっ! 僕なんて全然上手くいかなかったのに…!」

「これくらい、そんな驚く事でもないだろ…。一応…一人暮らしの経験は長いからな…」

 一応、佐伯克哉は大学に入った頃から一人暮らしを続けている。
 だから自分で身の回りの事はある程度は片付けられるし、料理だって簡単なものばかり
だがある程度の物は作れる。
 しかし秋紀にとっては、自分が苦戦していた事をあっさりとやってのける克哉をカッコイイと
感じたのだろう。その目はキラキラと輝いていた。

「ほら…せっかくの目玉焼きが冷めるぞ。早く他の準備をして来い…」

「はい! そうしますっ!」

 そうして…机の上にはうっすらとバターを塗ったトーストと…粉末状のコーンスープを
マグカップに入れてお湯を注いだスープ、それとレタスとトマトだけの簡単なサラダが
並べられていた。
 どれも料理と呼べる代物ではなかったが、普段…自分で調理の類をしない少年に
とってはこれでも頑張った部類に入った。
 レタスとトマトの大きさはマチマチで、形も崩れているし…トーストに至っては
隅の方が真っ黒に焦げている。

(俺が自分でやった方が遥かにマシだな…)

 と、その状態を見て思ったが…さっきの目玉焼きを作っている様子を見てこれでも
秋紀は必死になって作ったのだろう。
 だから敢えて…言わないでおいてやる事にした。
 二人にテーブルを前に向き合う形で椅子に座って、食事を開始していった。

「あれ? 僕の方に…綺麗に出来た方が…?」

「…こっちはお前が頑張ったんだろ。俺が食べてやる…」

 秋紀に綺麗な形の方を譲ってやると…克哉はその上にクレイジーソルトを掛けて
目玉焼きを箸で切り分けて、口に運んでいく。
 端の方の半熟卵が掛かっている部分をトーストの上に乗せていくと…服を汚さない
ように気をつけながら食べ進めていく。

(…もう一人の<オレ>は、服装のセンスは最悪だが…揃えてある調味料の類は
悪くないな…)

 クレイジーソルトは、様々な香辛料が混ぜ込まれている塩系の調味料の一種である。
 外国では、サラダや目玉焼き、ちょっとした料理の味付けに使われる事も多い
調味料の一種である。
 あいつがやっていた通りに試してみたが、これはこれで悪くはない。
 秋紀もそれを真似して、これを目玉焼きの上に掛けて食べていくが…表情を見る限り
彼も気に入ったようだった。

「へえ…僕、目玉焼きって醤油を掛けるのが当たり前だと思っていたけど…こういうのを
掛けるのも有なんですね」

「あぁ…悪くないだろ?」

 眼鏡自身も、これで食べるのは初めてだったが…敢えてその事実は伏せて相槌を
打っていった。
 暫く二人で、食べる方に集中していく。
 しかし…この二日間で、眼鏡の方も…秋紀に少しは情らしきものも湧いてきていたので
この沈黙も悪いものではなかった。

「…ご馳走様。それなりに食べれたぞ…」

「本当ですかっ! 克哉さん…。アチコチ焦げたり、形とか上手く出来ないものばっかり
だったから不安だったけど…そう言って貰えて良かったです…」
 
 秋紀にしてみれば、この出来で克哉に美味しいと言って貰えることは端から諦めていた。
 マズイ、と言われればそれでも傷ついていただろうから…この物言いでも、充分…
少年にとっては嬉しい一言だったのだ。

「…慣れてない内は仕方ないさ。<オレ>だって一人暮らしを始めたばかりの頃は…
正直、食えないレベルの代物を作ってしまった事は沢山あったしな…」

 もう一人の自分の、大学時代の記憶を少し思い出しながら…苦笑に似た笑みを
浮かべていく。
 しかし秋紀は…そんな眼鏡の複雑な心境までは察する事は出来なかったらしい。
 ただその一言で気持ちを浮上させて、ニコニコと微笑んでいた。

「克哉さんにもそんな時代があったんですね。それなら僕も…頑張りますっ!」

 秋紀はどこまでも前向きな態度を、見せていた。

「よし…それじゃあ、俺はそろそろ出勤準備を始める。お前も…学校に行く準備を
するならしておけ…」

「えぇ! 克哉さん…会社に、行ってしまうんですかっ?」

「…当然だ。俺はこう見えて、真面目なサラリーマンだからな。この二日間はたまたま
週末だったからお前とずっと一緒に過ごしていたが…そもそも働かなければ、収入は
どこから得られると思っているんだ…?」

「それは、そう…ですけど…」

 秋紀の方はすでに学校をサボって、克哉と一日を過ごすつもりだったらしい。
 あからさまに落胆した様子を見せていた。
 やっと…九ヶ月も掛けて、この人と再会出来たのだ。
 だから秋紀としては…一分一秒でも長く、この人と一緒にいたかった。
 このどこまでも幸せな夢のような現実は…いつまで続くか、判らなかったから。
 だから…秋紀は、学校という現実に戻る事を拒んでいた。戻りたくなかった。
 離れてしまったら…この儚い幸せは、あっという間に自分の掌をすり抜けて…
また彼のいない現実に戻されてしまう予感がしていたから―

「…心配するな。俺はちゃんとここに帰って来てやる。だから…安心して
ここで俺の帰りを待つなり、学校に行け。…当分は俺も…消えてやる
つもりはないからな…」

「…その言葉、信じて良いんですよね…克哉、さん…」

 秋紀が、縋るような眼差しでこちらを見つめてくる。
 その瞳は…まるで、迷子の子猫のようだ。
 探し続けて…やっと、自分の飼い主の元に辿り着けたのに…また離れてしまうのでは
ないか。そんな不安を隠しきれない…そんな瞳をしていた。

「あぁ…俺を信じろ。お前だけが…『俺』の方を必要としてくれていた。そんなお前を
簡単に置いて…消えたりはしないさ…」

 そうして、少年の細い身体を引き寄せて…深いキスをしていってやる。
 秋紀は…それで少しだけ、不安が解れたらしかった。
 強く強く、大好きな人の身体にしがみ付いて…この現実を確かなものにしようと
していた。

 泣きそうになりながら…秋紀は、眼鏡の温もりに包まれていく。
 いつか覚める夢だと半ば覚悟しながら。
 それでも、どうか一秒でも長くこの人の傍にいさせて下さいと…。
 小さな祈りを胸に秘めて…切ない幸福の中に浸り続けていた―

 四月の中旬、週末の夜。
 今週は珍しく…仕事上がりに御堂のマンションに直行せずに、自分のアパートの
方へと戻っていた。
 付き合いだしてからの週末は…二人で協力して、ほぼ同じくらいの時間帯に
仕事を片付けて…御堂の自家用車でマンションにという流れが基本だった為に
珍しい事態と言えた。

「月曜の朝に必ず必要な書類を…部屋に忘れるなんて、オレ…マヌケすぎるよな…」

 そう、平日は自分のアパートで寝泊りしているのだが…昨晩仕上げて、本日に
渡す筈だった重要書類をうっかり忘れてしまっていたのだ。
 月曜の朝には必ず必要になるので、御堂のマンションに向かう前には回収して
おかなければならなかった。
 恐らく、御堂は今頃はすでに自室に戻って…克哉がいつ来ても良いように
準備をしてくれている事だろう。
 アパートの階段を登りながら、例の書類を部屋のどこに置いたかを思い出して…
そして、その場に固まった。

「えっ…?」

 階段を登り切ると同時に、克哉はその場に立ち尽くすしかなかった。
 部屋の前に…予想もしていなかった人物が立っていたからだ。
 これが片桐や本多とか、八課にいた頃の仲間とかだったら…自分の部屋の前に
誰かが立っていてもここまで驚かなかっただろう。
 しかし…其処に立っていたのは、一人の綺麗な少年だった。
 自分の記憶よりも少し大人びた雰囲気になって…より、人目を惹くようになった…
その少年の姿を見かけて、克哉は…ゴクン、と息を呑むしかなかった。

(どうして…あの子がオレの部屋の前にいるんだっ…?)

 其処に立っていたのは、秋紀だった。
 九ヶ月前、眼鏡を掛けた克哉が気まぐれに抱いた…一夜の相手。
 お互いに名前以外の情報を殆ど交換していないのに、自宅になど辿りつける筈が
ない相手が…間違いなく其処に存在していた。
 階段の前で、凍りつくしか出来なかった。
 何故、この少年がここを見つけ出したのか…どうやって自分の住居まで探り出した
のかがまったく見当がつかない。

 ドクン、ドクン、ドックン、ドックン…!

 最初は荒くなった鼓動が、次第に激しいリズムを刻み始めていく。
 背中から冷や汗が伝い、悪寒にも似た感覚が全身を走り抜けていった。
 それくらい…今の克哉は驚き、緊張状態に陥っていた。

「あ…克哉さんっ! 本当に…本物、だ…!」

 最初一目見た時は、確証が持てなかった秋紀も…今…階段を登ってきた
人物の顔を見て、ようやくそれが待ち人である事に気づいていく。
 思い描いた印象よりも気弱そうで…髪も下ろしてあるし、眼鏡もなかったけれど
間違いない。
 九ヶ月前に出会った、佐伯克哉本人である事は間違いなかった。
 そう確信した秋紀は、真っ直ぐに愛しい相手の胸に向かって飛び込んで…
勢い良く抱きついていった。

「良かった! 僕…ずっと貴方を探していたんだよっ! 会えて…本当に
嬉しいっ!」

 無邪気な顔をしながら、秋紀は自分の胸元に擦り寄っていた。
 その姿は…本当に愛らしくて、可愛いと思う。
 しかし今の克哉には…その整った風貌に見蕩れたり、感心したり出来る
心境とは程遠かった。

(どう、して…今になって、この子が…オレの部屋の前に…?)

 克哉にとって秋紀は、自分の罪の象徴たる存在だった。
 眼鏡を掛けて、自我を失っていた時に抱いてしまった…一夜の相手。
 その事を後悔こそすれ、愛しいという感情とは無縁の存在だった。
 なのに…あれからこれだけ長い時間が過ぎていても、この少年は一途に
自分を思い続けて…ついに自分を見つけ出したのだ。
 今の克哉の胸にあるのは、これ程までにもう一人の自分を想ってくれていた
相手を九ヶ月も…何のけじめもつけずに放っておいてしまった、後悔だけだ。

「…ねえ、どうして…何も、言ってくれないの…?」

 無言のまま、抱きしめ返すこともせずに…立ち尽くす克哉を訝しげに思った
のだろう。少し拗ねた顔をしながらこちらに問いかけてくる。
 
「…御免。まさか…君が部屋の前にいるとは、思わなかったから…本当に
びっくり、して…」

 とりあえず、本当に思った事だけを口にしていく。
 心底驚いたのは事実だったからだ。

「うん…僕も本当に貴方がここに帰ってくるか…半信半疑だったから。
怪しい眼鏡の人が僕に色々…貴方の事を教えてくれたんだけど、とても
信じられないような内容ばかりだったし。
 だから…ここが貴方の部屋かどうかも判らなかったし、不安になりながら…
ここで待っていたんだけど。『眼鏡』を掛けていない貴方でも…
会えて、本当に良かった…」

「えっ…?」

 その言葉を聞いた瞬間、秋紀からヒヤリとした空気が流れた気がした。
 ぎょっとなって…自分の胸元に抱きついて来ている秋紀が…本当に、こちらが
陶然となるくらいに綺麗な笑みを、顔に刻んでいった。

 それに一瞬、虚を突かれる形になっていた。

「眼鏡を掛けていない克哉さん、久しぶりに会えて…嬉しかったよ。
けど…僕が本当に会いたくて堪らないのは、眼鏡を掛けた方の貴方だから…。
だから、こうさせて貰うね?」

「うわっ!」

 とびっきり無邪気な笑顔を浮かべながら、いつの間にか銀縁眼鏡を掛けさせられていた。
 それと同時に、克哉の身体から…一気に力が抜けていく。
 この感覚には、覚えがあった。
 初めて…この銀縁眼鏡を掛けた時も、意識がゆっくりと遠くなって…それから頭が
すっきりと冴え渡るような感覚が走っていった。
 それと同時に…克哉の意識が、ゆるやかに閉ざされ始めていって―。

「嫌だっ! 止めろっ! …これを、外して…くれっ!」

 克哉の身体が、その場に崩れ落ちて…壁に凭れかかって、どうにか倒れ込む事だけは
阻止していた。
 目の前の秋紀の顔を見つめながら、必死になって懇願する。
 しかし…秋紀は、相変わらず愛らしい笑顔だけを浮かべて、サラリと言ってのける。

「ダメだよ。僕は…眼鏡を掛けた方の克哉さんをこの九ヶ月…必死になって探し続けた
んだから…。貴方じゃなくて、あの人に僕は会いたいんだ。だから…ね? 判って…?」

 秋紀は相変わらず、綺麗に微笑み続ける。
 その顔には…克哉に眼鏡を掛ける事の罪悪感など、一片も見当たらない。
 自分がした事が、どのような結果を招く事になるのかも…全て承知の上でこの少年は
克哉に眼鏡を掛けたのだと…その顔を見れば、嫌でも判った。

(御堂さん、御堂さんっ…御堂さぁぁぁん!!)

 必死になって、愛しい人の顔を思い出して…自分の意識を繋ごうと試みていく。
 それでも、次第に克哉の意識は遠くなっていった。
 眼鏡を振り外そうにも、すでに両腕は鉛のように重くなっていて…ただ手を顔の前に
持って来て、それを外すという簡単な動作すらも困難になっていた。

 はあ、はあ…はあ…!

 それでも、ギリギリまで克哉は粘った。
 自分を取り戻す為に…競り上がってくるもう一つの意思に対して反抗し続けていた。
 だが…それも、無駄な努力だった。
 ふいに…克哉の背筋に…猛烈なまでの快感が走り抜けて、その瞬間…ガクリと
膝から力が抜けて…その場に崩れ落ちていく。

 その瞬間、全てが逆転した―

『もう良いだろ…<オレ> お前はこの半年間…ずっと俺を差し置いて生き続けていた。
ここまで…俺を望んでくれる人間がいるのに、お前は…自分の都合で…俺をここに
閉じ込め続けるつもりなのか…?』

 それは怒っているような、無感情のような静かな声。
 しかし…その一言を聞いた瞬間に、克哉は自分が…身体の奥に閉じ込められて
いくような感覚を味わっていた。
 今まで感じていた世界が、まるで間に大きなガラスが立ちふさがってしまったかのように
遠いものに感じられていく。
 そう、今までは自分が…<彼>を閉じ込め続けていた。
 あの例の銀縁眼鏡を放棄する事によって。
 だから…これは、当然の結末だったというのだろうか?

『秋紀…久しぶりだな。良い子にしていたか…?』

『うん! 僕…良い子にしていたよ! そして…貴方が最後に言った…それ相応の
態度で振舞えって意味も考え続けていた…。聞いてくれますか?』

『良いだろう…言ってみろ。聞いてやるよ…!』

『…! ありがとうございます…。克哉さん、お願いします…どうか、どうか…僕を
貴方のものにして、下さい…!』

 意識が遠くなる寸前、そんな二人のやり取りを聞いていた。
 秋紀は必死になって克哉の身体に縋りつき、必死の形相で…もう一人の自分に
お願いし続けていた。

(止めろっ! これ以上…オレに罪を重ねさせないで、くれっ…!)

 九ヶ月前は、克哉には恋人といえる存在はいなかった。
 しかし今は違う。
 身も心も結ばれた、とても大事な人がいるのだっ!
 だから止めてくれっ! 応えないでくれっ! とガラスの向こうに広がる世界に
懸命に訴えかけていく。 
 だがその声が…二人に届く事はなかった。

『秋紀…お前だけは、<俺>を求めてくれるんだな…。それなら、お前の
望む通りに…して、やるよ…』

 そうして、二人の唇が重なり…そのまま、アパートの部屋にもつれ込んでいく。
 克哉はもう、声が涸れるまで叫び続けるしかなかった。

―止めてくれぇぇ!!!

 しかし…もうすでに克哉の意識と、肉体は…眼鏡を掛けた事をキッカケに完全に
分断され、主導権は眼鏡を掛けた自分の方に移ってしまっていた。

 そうして…まだ、克哉の意識が微かに繋がっている夜―
 秋紀は、愛しい人の腕の中で…幸せな時間を九ヶ月ぶりに過ごしたのだった―

 
 夜の街の中を秋紀は必死になって逃げ続けていた。
 息が切れても、心臓が破れそうな程になっても…必死になって足を動かし続ける。
 かつての悪友達から立ち昇る気配は、嫌なものだったからだ。
 夜のオフィス街を彷徨うようになってから何度も晒された、品定めをするような…
こちらを欲望の対象にして淀んでいたり、変にギラついていたりする…そんな眼差しを
していたから。

 だから秋紀は本能的に察して、彼らの元から飛び出した。
 捕まったら恐らく、ただでは済まない。
 元々自分の中でも…彼らに対して好意がある訳じゃなかった。
 退屈だったから、何となくつるんでいた程度の人間達だ。
 自分に対してそんな事はしない、と言い切れる程の信頼感も友情も何もなかった。

(絶対…あいつらに何て捕まりたくない…! 僕に触れて良いのは…克哉さんだけだっ!)

 この九ヶ月、どれだけ格好良い人間に誘われても…秋紀はあの日のように、他の
人間に付いて行くような真似はしなかった。
 酷い目に遭わされそうになった事も、何度もあった。
 それでも運良く、最初の頃は誰かが助けてくれたおかげで…寸での処で助かった。
 おかげで今では護身用にスタンガンくらいは携帯するようになっていた。
 しかし…一対一ならともかく、追いかけてくる悪友達は全部で4人。
 秋紀一人で応対するにはかなり分が悪い上に…全員が秋紀よりも体格的に
勝っている男達ばかりだ。

(どこかに…身を隠せる場所があれば良いのに…!)

 オフィス街にある公園から、ここがどこか判らずに無我夢中で走るだけだった。
 いつの間にかどこか見知らぬ路地裏に自分は紛れ込んでいた。
 土地勘がない為に、身を隠してやり過ごせるような場所をなかなか見出せず、
その間に四手に分かれた男達がどんな処からやってくるのかを予測すら出来なく
なっていた。

「どうしよう、このままじゃ…捕まっちゃう…! そんなの、絶対…嫌、なのに…!」

 秋紀は絶望的な気持ちで呟く。
 あんな奴らに好き放題にされるのなんて、死んでも御免だ!
 そう思うのに…今の自分は、活路を見出せないでいる。
 どうすれば良いのか判らず、秋紀はその場に立ち尽くすしかない。
 脳裏にはただ…会いたいと望む、ただ一人の男性だけが浮かび続けていた。

「克哉さん、貴方以外の奴に…何て、僕は…嫌だぁ…!」

 殆どそれは、懇願だった。
 自力では状況を打破する能力を持たないものの、悔し涙。
 瞳から透明な涙がポロポロと零れ落ち、走り続けて乱れた呼吸の合間から
搾り出された、どこまでも切ない願い。
 その瞬間、バタン! と大きく扉が開く音がした。

「何っ?」

 それは…まるで闇の中にいきなり、扉が現れたような感覚だった。
 先程まで壁しかなかった場所に…突如、木製の立派な扉が現れて…両扉が
開いて…秋紀を招いていた。

「…あんな処に、扉なんて…なかった筈、なのに…」

 呆然としながら、秋紀はその扉の奥を凝視し続けていく。
 扉の奥には赤いビロードのカーテンが…まるで赤い舌先のように靡いて…
フワリフワリと風に揺られていた。
 その奥に何があるのか…この位置からは、計り知れない。
 妙にそれが不気味で…秋紀は立ち尽くすしかない。
 しかし…次の瞬間、耳に聞こえた声に…覚悟を決めた。

『秋紀ぃ! どこにいるんだぁ? この辺りにいる事は間違いないんだろ?いい加減…
観念したらどうだぁ?』

 それは自分を追いかける男達の、厭らしい呼びかけ。
 このまま…ここに立ち尽くしているだけでは、いずれ捕まってしまう。
 捕まりたく、なかった。あいつらに見つかりたくはなかった。
 あの男達に追いかけられている時とは別の警鐘が頭に鳴り響いていく。
 だが、同時に…あの扉に逃げ込めば少なくともあいつらを撒けそうだった。

(克哉、さん…っ!)

 脳裏に描いた、大切な人の面影が秋紀に勇気を与える。
 そして…次の瞬間、その得体の知れない扉に…彼は飛び込んでいった。
 赤いカーテンは少年の身体をふんわりと包み込むように纏わりついた。
 秋紀が飛び込んだ瞬間、扉は壁からゆっくりと姿を消して…見えなくなっていく。
 勢い良く赤い絨毯の上に転がり、あちこち身体をぶつけていった。

「っ…! ここは…?」

 部屋中にエキゾチックな香りが満たされていた。
 こうして…匂いを嗅いでいるだけで頭の芯がボウっとなりそうになるくらいに濃密で
蟲惑的な薫りが…その室内には漂っていたのだ。
 全てが赤に満たされた異様な空間に…秋紀は魅入られる。

「いらっしゃいませ…須原秋紀様。クラブRにようこそ…」

 いきなり、歌うような軽やかな口調で…フルネームで呼びかけられていく。
 ぎょっとなってその方向を見遣ると其処には長い金髪をした…黒衣の男が悠然と秋紀に
微笑みかけていた。

「貴方、は…? どうして、僕の名前を知っているんですか…?」

 秋紀が驚愕の表情を浮かべながら問いかけても、それも最初から予測済みだったと
ばかりに…平然とした態度で答えていく。

「…それは、貴方の心の奥底にある欲望の声を聞いて…今夜私が、貴方を主賓として
お招きしたからですよ…?」

 黒衣の男は楽しげに笑いながら、秋紀をじっと見つめていく。
 底の知れない不気味な眼差しだった。
 それなのに笑顔だけはまるで能面のようにその顔に張り付いている。

「僕の…欲望の、声…?」

 男の眼差しに、見透かされそうだった。
 そう…自分には確かに一つの強い欲望がある。
 なのに…初対面の人間がそれを知っている筈が…。

「…貴方は佐伯克哉さんにお逢いになりたい…。違いますか?」

「どうして…! 貴方が克哉さんの名前をっ?」

 自分が望んでいるただ一人の名を、正確に言い当てられて…秋紀は信じられない、と
いう眼差しを男に向けていく。

「…佐伯克哉さんもまた、当店のお客様の一人ですからね…。良く存じ上げて
おります…」

「…ならっ! 教えて…! あの人は今…どこにいるのっ? 僕…ずっとこの半年…
克哉さんを探し続けていたんだっ! 知っているのなら…お願いだから、教えてよっ!」

 この男は得体の知れない人物だった。
 信用してはいけない。そう頭の隅では警鐘が鳴り続けていた。
 しかし…やっと得る事が出来た、あの人への手がかりを前に…秋紀の理性は一時
吹き飛んでいた。
 目の前の謎多き男に、必死に縋り付きながら…愛しい人の所在を聞き出そうと
していた。
 それはまるで…飼い主を捜し求めている愛玩動物を彷彿させる。
 少なくとも…黒衣の男には、今の秋紀の姿はそう映っていた。

「困りましたねぇ…一応、当店にはお客様に対してのプライバシーの保護というものが
ありまして…。いきなり聞かれてもそう簡単にお答えする訳にはいかないのですよ…」

「そ、んな…けど、知っているのなら…ヒントだけでも、ダメ…なんですか…?」

 男の言葉に、秋紀は愕然としながら…ショックを受けたような顔になっていく。
 それでも簡単には引き下がらずに…少しでも情報を得ようとしていた。
 
「…ですが、私のお願いを聞いて下さるというのなら…貴方に佐伯克哉さんがどこで
どう過ごしているか…教えても構いません? そんな取引はどうですか…?」

 男は、誘惑の囁きを口にしていく。
 今の秋紀が…その言葉を飲まないでいられる訳がなかった。

「判ったっ! 聞くよ…! あの人に繋がるというのなら…僕はどんな事だって
するつもりだっ!」

 内容を聞かずとも、迷いない口調で秋紀が答えていく。
 その言葉に…黒衣の男は心から楽しそうに笑みを浮かべていた。

「…良い覚悟です。それなら…お聞き下さい…。貴方に頼みたい事は…」

 そうして、男は秋紀の耳元で…自分の「願い事」を口にしていく。
 この日…秋紀の魂は確かに、闇の中に落ちていく。

 ただ一人を求める愚鈍なまでの欲求が、彼から物事の善悪や…疑う心を
奪い…悪魔のように甘い誘惑の言葉を鵜呑みにさせていく。

 その日から数日間…秋紀の姿は、夜のオフィス街から…静かに消えていった―

 須原秋紀は夜の繁華街を一人、彷徨い歩いていた。
 長身の背広姿の20~30代くらいの年齢の男性を見つけると、つい目で追ってしまい…
その度に探している人物でない事に落胆していく。

(克哉さん…一体、どこにいるの…?)

 求める存在は、ただ一人。
 九ヶ月前にクラブで出会い…熱い一夜と、蕩けるようなキスだけを秋紀の記憶に
残して、姿を消してしまった人。
 佐伯克哉、覚えているのは…颯爽とした身のこなしと自信満々そうな態度。
 そして…その面影と、忘れられない二つの思い出だけだった。

「あ…」

 似たような髪形の人物を見つけて、一瞬胸が跳ねていく。
 しかし良く観察すれば…微妙に違う処が多いし、ふと相手の顔を見れば別人で
ある事はすぐに判った。
 期待しては、すぐに落胆する。
 いつの間にか、いつもつるんでいた仲間達と距離を置いて…夜のオフィス街で
あの人の姿を探す。
 それがいつしか…ここ半年の、秋紀の日課になっていた。

(克哉さん、克哉さん…克哉さん…お願いだから、もう一度で良いから…
僕は、貴方に…逢いたい…)

 逢えなくなればなるだけ、眼鏡を掛けたあの人の存在は…遠くなる処か、日増しに
大きくなって溢れそうになる。
 キスをされた時、欲しいものがあるのならそれ相応の態度をするんだな…と言われた
日から、必死になって考え続けていた。
 それで…やっと、自分なりの回答を見出して…毎晩のようにクラブに通った。
 あの人に会うことを目的にして、すぐに連れ出されても良いように一人で
飲むようになって…。

(けれど、あの人は…二度と店に顔を出さなかった―)

 一月が過ぎ、二月が過ぎ…あの店で待っているだけでは会えないと悟った時、
いつの間にか常につるんでいた仲間達とは一緒に過ごさなくなっていた。
 それから…以前に職業を尋ねた時に「ただのしがない営業マンだ」という言葉だけを
頼りにオフィス街を回り始めた。
 仕事が終わり、アフターファイブへと入った人影を目で追って…偶然でも何でも
良いから、あの人とばったり会える事を願って。

 しかし…秋紀は知らなかった。
 今の克哉は御堂と恋人関係になった事をキッカケにキクチ・マーケーティングからMGNに
移籍して…今では車での送迎が多くなっているから、この近隣を歩く事がめっきり…
激減していた事を。
 そのおかげで…この半年、眼鏡を掛けていない克哉ですら…ただの一回も遭遇
する事なく過ぎ去っていたのだ。
 
 あの日から九ヶ月が過ぎて、秋紀は高校三年生に進級していた。
 その期間に誕生日を迎えて…17歳になった秋紀は随分と大人びていた。
 克哉と出会った頃よりも少し髪が伸びて、顔から幼さが抜けて…少しだけ背も
高くなっていた。
 子供から大人に代わる、過渡期に入った秋紀は…恋をしたことにより…少しだけ
以前よりも大人っぽい雰囲気を纏うようになっていた。
 少なくとも、夢中で恋しい相手を探すようになってからは…暇を持て余して、クラブで
くだらない連中と一緒にヘラヘラと過ごすような時間の使い方をしなくなった。
 それだけでも少年にとっては大きな変化、と言えた。

「あの…あ、すみません…。人違いでした…」

 また一人、克哉に似た人間を見つけて声を掛けていくが…人違いだった事を
素直に詫びて、離れていく。
 今夜は三人くらい、そうかな…と思える人物に遭遇していたが、どれも外していたので
結局秋紀は疲れて…この付近の公園のベンチに足を向けていった。
 この公園は、オフィス街を頻繁に歩くようになってから知ったスポットだった。
 意外に敷地も広く、緑も豊かで…一度フラリと足を向けてから妙に気に入って…克哉を
探すのに疲れると、何気なく立ち寄って身体を休める事も多くなっていた。
 ここに来る途中で購入したミネラルウォーターの入ったペットボトルに口をつけながら、
ベンチに腰を掛けて…深い溜息を突いていく。

「あ~あ、今夜も収穫なし…か。本当に克哉さん、どこにいるんだろう…」

 自宅も、働いている会社も…携帯番号も、メルアドも何も知らない。
 知っているのは…佐伯克哉、という名前だけだ。
 名前だけを手がかりにこの広い都会で人を探すのはかなり大変だった。
 それでも秋紀は…諦めたくなかった。

 今までの人生であの人ほど、一目会っただけで自分の心に入り込んできた存在は
いなかったから。
 容姿に恵まれていた秋紀は、男女問わず…色んな人間が寄ってきていた。
 けれど…自分からこれだけ激しく求めたのは、克哉ただ一人だけだった。
 恋人になりたいとか、そういうのじゃないけれど…あの日から自分の中に灯った想いは
会えない日々が重なる程、募っていって。
  その想いが彼を夜の街へと、彼を駆り立てている状態だった。

「…一目だけで良いんだ。あの人に…どうしても、会いたいんだ…それ以外に
僕が望む事なんて、ない…」

 項垂れながら、秋紀はうっすらと涙を浮かべて呟いていく。
 この九ヶ月…どれだけ、あの人を想って泣きたく衝動に駆られただろう。
 あんなセックスとキスの記憶だけを残して…幻のように自分の前から姿を消した
あの薄情な男をどうして、自分は未だに忘れられないんだろう…と思う。

 秋紀はふと、月を仰いだ。
 その姿は…酷く様になっていて、見ているものを一目で虜にするぐらいに…
整った風貌をしていた。
 綺麗な花は、それに引き寄せられる虫をも大量に呼び込む。
 そして秋紀は、酷く他者の目を引いた。
 一度見たら忘れられないくらいに印象的な、優美な顔立ち。
 だから…秋紀は、知らず呼び込んでいた。
 自分にとって…決して望ましくない存在を。

「秋紀…久しぶりだなぁ…」

 ふと、ねっとりした口調で声を掛けられていく。
 そちらの方に視線を向けると…かつて自分がつるんでいた男達が
秋紀の座っているベンチを囲むように立っていた。

「…お前達は…」

 かつては毎晩のように、一緒に過ごしていた…悪友たちだった。
 声を掛けられたので、とっさに挨拶しようとしたが…ふと、彼らから立ち昇る
気配に嫌なものを感じて、身構えていく。
 するとジリジリと間合いを詰められて…閉じ込められるような形になっていった。

「何だよぉ、久しぶりに会うダチにそんなツラする事はないだろ…?」

 男達の顔には、一応笑顔が浮かんでいる。
 しかし…その表情に、秋紀の中で警鐘が鳴り響いていった。
 そう…この半年、沢山のサラリーマンに声を掛けてきたことで…多少なりとも
危険な目に遭いそうになった事は何度もあった。
 その経験が…一緒にいる時には気づかなかった、男達のどす黒い欲望を感知
させていたのだ。

(逃げなきゃ…! 何かコイツら、凄い嫌な感じがする…)

 男達をキっと睨んでいくと、一瞬だけ目の前の男が立ちすくんでいった。
 その隙を逃さずに、秋紀は素早くベンチから立ち上がって…素早く男達の
脇をすり抜けていった。
 それは小柄な体格の秋紀だからこそ出来る芸当でもあった。
 全力で走り、その場から逃げていくと…10メートル程度、離れてからやっと
男達も現状を理解して秋紀を追いかけ始めていく。

「てめぇ! 秋紀っ! それがダチに対して取る態度か!? えぇ!」

 激昂した男の一人が、口汚く秋紀を罵る言葉を吐いていきながら…逃げる
彼を追いかけて来た。
 他の人間も、それに必死になって続いていく。

 そうして…男達と、秋紀の鬼ごっこは…幕を開けたのだった―
 

  熱い交歓が終わってから、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか?
  身体の節々が軋むような感覚を覚えながら、ゆっくりと克哉はベッドの上で
意識を取り戻していく。

「ん…あれから、どれくらい…過ぎたんだろ…」

 肉体に残るのは心地よい疲労感と、満足感。
 御堂に愛されるといつも酷く啼かされて…喉が枯れたり、頬が涙の痕でカビカビに
なってしまう時もあるけれど…同時に毎回、満たされていた。
 自分の両手首に残る赤い痕は…今夜が拘束されながら抱かれたという
確かな証だ。

「少し擦り切れているけど…これくらいなら平気、かな…?」

 そう克哉が手首を眺めながらしみじみと呟いていくと…隣で眠っていた御堂が
身じろぎした。

「…起きたのか?」

「…孝典さん、こそ…。眠っていなかったんですね…」

「あぁ…まだ、君を抱いた興奮が過ぎ去っていないんでな。…恋人のあれだけ扇情的な
姿を見せられたら…なかなか脳裏から消えるものでは、ないな…?」

 ふっと笑いながら、凄く際どい発言を言われて…瞬く間に克哉の顔は真っ赤に
染まっていく。

「せ、扇情的って…! そ、そんな…」

 御堂からの一言で、先程の情事の記憶を鮮明に思い出してしまい…見る見る内に
克哉の顔は茹でダコのように赤く変化していく。

「…今夜の君は、凄く…艶っぽかったぞ?」

「…あっ」

 そんな克哉が可愛くて、御堂はグイっと肩に腕を回して…自分の方に
彼を引き寄せて…唇を塞いでいく。
 すぐにキスは深いものへと変わり…クチュ…という水音がお互いの脳裏に
響き渡っていく。

「…ん、はぁ…」

 キスの合間に克哉は熱っぽい声を漏らし…自分からも懸命に熱い舌先を
絡めていった。
 情熱的な、恋人同士しかしないであろう深い深いキス。
 すぐにお互い、その行為に夢中になって…相手の口腔を貪りあっていた。

(もっとだ…)

 付き合ってから、半年。
 相手によっては飽きてきてもそろそろおかしくない時期だ。
 なのに…克哉相手に至っては、未だにそんな兆候はない。
 仕事場も同じで、私生活もかなりの時間を彼と共有している。
 毎週欠かさずセックスして、週末ともなれば…一日中お互いにベッドから
殆ど出ない日すらあるぐらいだ。
 なのに…克哉の全てを手に入れたような、そんな充足感はない。
 
(…克哉。どうして…これだけ君を抱いていても、まだ私は足りないと思ったり…
君を丸ごと手に入れられたような満足感がないんだ…?)

 息が苦しくなるぐらいにキツク、相手の舌の根を吸い上げながら…そんな
逡巡をしていく。
 克哉はこれだけ、自分に対して真っ直ぐな気持ちと眼差しを向けてくれて
いるのに。
 恋人同士になってから、拗ねたり…笑ったり、照れたり…ただ仕事上の
付き合いだけしかなかった頃に比べて、沢山の表情を見ているのに。
 ふとした時…思い浮かぶのは、初めて顔を合わせた時の…眼鏡を掛けた途端に
別人のような態度と口調になった…克哉の姿だった。

(あれは一体…君の、何だったんだ…?)

 それは…この半年。誰よりも彼と同じ時間を共有してきたからこそ…思い浮かぶ
疑問でもあった。
 初めて会った時以来、克哉のその変貌振りは目にしていない。
 24時間以上一緒にいる日でさえ、あの日の片鱗すら…克哉の中には存在しない。

「っ…は、ぁ…孝典、さん…。どうしたんですか…?」

 思考に夢中になっている最中、キスの方が疎かになってしまっていたらしい。
 そっと唇を離して…克哉が怪訝そうに問いかけてくる。
 綺麗で澄んだ、自分に全幅の信頼を寄せてくれている眼差し。
 それを見て…御堂は、自嘲気味に笑った。

「いや…何でもない。先程のセックスが激しかったせいで…私も少し疲れて、
眠気が出てしまっているだけだ…」

「…そう、ですか…。それなら…良いんですけど…」

 御堂の言葉や態度から、それが本心じゃない事は薄々と感じているのだろう。
 それでもそれ以上の言及をせずに、克哉は大人しく引き下がっていった。

「…今夜はこれくらいで、寝ておこう。もう少し君を味わいたい気がするが…
途中で力尽きてしまったら、申し訳ないからな…」

「…そうですね、もうこんな時間ですし…」

 時計の針をチラリ、と見れば…すでに午前二時を回っていた。
 週末の夜、仕事明けにそのまま御堂のマンションに向かった訳だから…今夜は
一週間の疲れも残っている状態だ。
 これ以上遅くなるのは確かにまずかった。

「…今夜も君は、可愛かった。おやすみ…克哉…」

「…もう、オレは可愛く、なんて…。はい…おやすみなさい、孝典…さん…」

 可愛い、という単語に反論しようとしたが…敢え無く唇を再び塞がれてしまって
その言葉を吸い取られていってしまう。
 触れ合うだけのキスだけでも、酷い幸福感で満たされていく。
 さりげなく御堂に腕枕をされていきながら…布団を掛けなおして、お互いに眠る
体制を整えていった。
 
(…暖かい…)

 瞼を閉じれば、御堂の体温と鼓動、息遣いが間近に感じられて…自然と胸が
ドキドキしてきた。
 未だに、この人の傍にいると…どこか気持ちが落ち着かない。
 一緒にいるだけで胸の鼓動が跳ねて、動悸が激しくなっていた。

(今…オレは紛れもなく幸せなのに…どうして、こんなに…不安があるんだろう…)

 それは御堂と両想いになってからも、常に克哉の心の中にこびりついていた
不安感だった。
 御堂と縁が出来たのは…例のプロトファイバーの営業権をもぎ取った時からだ。
 その日の記憶が…未だに、自分の中では深い澱のように沈んでいて、決して
晴れる事はない。
 
(…この人は、あの日…オレがした事を知ったら…どんな顔をするのだろうか…)
 
 付き合ってから、半年。
 幸せになればなるだけ…あの日、記憶がない状態でしてしまった事が重く
自分の中に圧し掛かっていく。
 御堂と出会う前日に、自分はMr.Rから眼鏡を受け取り…初対面の少年と
一夜を明かしていた。
 それは眼鏡を掛けた自分が行った事。
 しかし…あの日から九ヶ月が経過した今も、一言も誰にも明かす事が出来なかった。
 そのせいで未だに…克哉の中には消えずに鮮明に残っている過ちの記憶でもあった。

(…貴方にだけは、あの事は知られたくない…。貴方に嫌われたら、オレは…)

 多分、死んだほうがマシだからだ。
 同時に…あの少年は、今はどうしているのだろうかと思う。
 もう一度…眼鏡を掛けて、あの少年に会いに行って以来、自分は恐くなって…
ずっと例の銀縁眼鏡を封印したままだった。
 自分の部屋の引き出しにしまい、ずっとこの九ヶ月…使われることがなかった眼鏡。
 もう一人の自分も、それ以来…表に出ていない。
 …これだけの時間が過ぎているのだ。
 あの少年もきっと…こちらの事など、忘れている。
 何度も、何度もそう考えて…頭の隅に追いやろうとしていた。

(ダメだ…気になって、仕方がない…)

 けれど、探しに行く勇気もない。
 もう一度…眼鏡を掛ける気にもなれない。
 だからせめて…克哉は、祈るしかなかった。
 眼鏡を掛けた自分が気まぐれに抱いたあの少年が…今は、元気でいるように。
 そう祈りながら…一時のまどろみに落ちていく。
 
 その瞬間…自分の心の奥底で、何かが脈動している感覚が…した―

 御堂と結ばれて、半年程度が経過した、ある春の日。
 週末にいつものように…恋人である御堂の部屋に訪れて、克哉は
熱い時間を共に過ごしていた。
 時計の針はすでに日付変更間際に達している時間帯。
 仕事から上がって、真っ直ぐ部屋に戻った途端にベッドに連れ込まれ…
克哉はシャツ一枚の格好で…後ろで両手を拘束されて…アイマスクをされた
状態で…ベッドの上で大きく足をM字開脚させられていた。

「良い眺めだ…克哉。君のモノが厭らしく蜜を垂らして…欲しい、欲しいって
私に強請っているかのようだな…?」

「そ、そんな…事、は…んぁ!」

 ペニスの先端を握りこまれて、カリの部分を執拗に擦り上げられると
克哉の身体は大きく悶え始めていく。
 快楽の度合いが強まる度に扇情的に赤く染まっていく肉体に…
御堂は魅了されていた。

 グッチャ…ネチャ…ヌチャ…グチュ…

「孝典、さん…ヤダ、音…」

 イヤイヤするように克哉が頭を振るが…御堂はそんな仕草をしても
逆に強請られているようにしか感じられなかった。

「…今、ここで止めたら…君のコレは…もっと嫌だと思うんだがな…?
私の手の中ではもっと…と強請り捲くっているぞ…?」

 言葉での責めに、更に克哉の顔が耳まで赤くなっていった。
 それ以上、快楽で頭がぼうっとなって…反論の言葉が思いつかずに
荒い呼吸だけを繰り返して、喘いでいく。

 はあ…はあ…はあ…はあ…。

 完全に視界が閉ざされた状態で、自分の荒い吐息だけが…
部屋中に木霊していた。
 今の克哉は、アイマスクを施されて…自分の身体がどんな事になっているのか
何も見る事が敵わない。
 見えないせいか、感覚が鋭敏になっている気がする。
 まるで全身が性感帯に変わってしまったかのようだ。

「克哉…物凄く震えているな…。そんなに感じているのか…?」

「はっ…ぁ…」

 自分の股間に熱い吐息と、声が掛かっていく。
 そのまま太股の内側に吸い付かれて…そのまま足の付け根から
鼠経部にかけてをやんわりと撫ぜ擦られて…自分の大きく膨張した
ペニスの先端を含まれて、軽く吸い上げられていく。

「ひゃう!」

 たったそれだけの刺激に克哉の身体は大きく跳ねていく。

「…相変わらず、感度が良いな…君は。それに目隠しをしてて…
いつもよりも敏感になっているんじゃないのか…?」

「……ん、はっ…そんな、事は…」

「嘘つきだな…ここはこんなに、ビショビショにしている癖に…」

「―っ!」

 自分の足の間にそそり立っているモノを、唇を窄められて…もっとも
感じる部位を強く刺激されればそれだけでどっと先走りが溢れていく。
 御堂の唾液と…自分の蜜が交じり合う音が酷く淫靡だ。

「…んんっ! やっ…気持ち、良い…!」

「…やっと嫌、ではなくて…素直になってきたな…。そうだ…そうやって…
君は私の与える快楽を享受して…よがっていれば良い…」

「…あっ!」

 足を大きく開かれると、そのまま強引に身体が割り込んでくる感覚がする。
 自分の上に覆い被さってきている御堂の吐息もまた、酷く熱く荒く感じられて…。
 今は顔を見る事が敵わなくても、その気配と呼吸音だけで…自分の痴態を
見て…この人が欲情してくれている事が伝わってくる。

「…触れてもいないのに、君のここは…淫らに収縮を繰り返しているな…。
これなら、すぐにでも挿れて大丈夫そうだ…」

「そ、んな事は…ひゃあっ!」

 入り込んできた御堂のペニスはたっぷりとローションで潤っていたせいか…
すんなりと克哉の中に入り込んでくる。
 今ではすっかり受け入れ慣れた相手のペニスを…克哉の内部はあっさりと
ズブズブと飲み込み…早くもキツく締め付けていった。

「…もう私をこんなに深く飲み込んで…。本当に…君のココは…貪欲で
いやらしいな…」

「そ、んな…事…はっ…! 孝典、さんの…だから、です…っ! オレが…
貴方を、欲しいと…思ってる、から…っ!」

 御堂の下で悶えながら、必死の様子で…そんな殺し文句を訴えていく姿は
本当に愛らしくて仕方なくて。
 こうやって抱いている最中…このまま抱き殺してやりたくなるくらいに…
こちらの心を煽っていく。

「…本当に君は、可愛いことを言うな…。そんな事を言われると、もっと…追い詰めて
啼かせてやりたくなる事くらい…判らないか…?」

「えっ…あはっ!! や…其処…擦りながら、弄らないで…っ!」

 御堂が、前立腺の部位を探り当てて其処を念入りに擦り上げるのと同時に…
ギチギチに張り詰めた性器を弄り始めたものだから…克哉にとっては堪った
ものではなかった。

「違うな…君はもっと、ここを…と身体では訴えている癖に…嘘つきな唇だな…」

 相手が追い詰められて、自分の腕の中でよがればよがるだけ…御堂の中の
欲望や嗜虐心の類は満たされていく。
 さっきから、否定的な言葉ばかり言う唇を強引に塞ぎ…口腔も同時に
熱い舌先で犯していく。

「んっ…んはっ…ぅ…ううっ!」

 深い愉悦が繋がっている場所から瞬く間に広がって…苦しそうにしながら、必死に
その強烈な感覚に耐えていく。
 快楽を与えれば与えるだけ…克哉の中は淫らに、激しく…体内にある御堂のモノを
締め付けてくる。
 甘美な感覚が、脊髄を走り抜けて…相手がもっと欲しくなっていく。
 乱暴に掻き抱いていくと…その度に、ビクビクビクと…克哉の全身が震え上がっていった。

「…やっ…! 孝典、さん…も、腕…解いて…っ!」

 御堂の体重が掛かる度に、後ろで一つに纏められた両腕の…縛られた箇所が
食い込んで痛みを訴えていく。
 それにこんな風にされていたら…愛しいこの人にしがみつけない。
 そう思って…懸命に頼み込んでいくが…今は克哉を貪るのに夢中になっている御堂が
そんな申し出を聞いてやれる訳がない。

「駄目だ…今は、君のココを…たっぷりと味わいたい、からな…っ! 止めてなど、
やれる訳が…ないっ!」

「そ、んなっ…やっ! ダメ…ですっ! 其処ばかりだと、オレ…もう…おかしく…っ!」

 御堂の手の中にある克哉の性器が限界を訴えて、激しく震えていく。
 それと同時に…締め付けも厳しくなって、内部に納まっている御堂の性器も…大きく
膨張して、大量の先走りを内部に溢れさせていた。
 腰を動かす度に…接合音が激しく室内中に響き渡り…お互い、全身は汗でびっしょりに
なっていた。
 それでも…お互い衝動のままに腰を使い、快楽を追い続けていく。

「おかしく…なれば、良い…! 君が乱れる様を…私は、見たいのだからなっ…!」

「んはっ!!」

 一層奥深くを抉られるように突き上げられれば、克哉は耐え切れずに一足先に
達していく。
 その瞬間…ペニスの先からドバっと大量の白濁を放出して…御堂の腹部を
汚していった。
 同時に凶悪なくらいにこちらを締め付けて…脊髄が蕩けるのではないかと思うくらいに
御堂にも強烈な射精感が襲い掛かってきた。

「克哉っ…もう、イクぞ…っ!」

 そう宣言して、眉を歪めて…彼もまた、熱い精を克哉の中に解放していく。

「ふっ…はぁぁぁっ!」
 
 達して間もない内に、自分の最奥に御堂の精を注ぎ込まれて…克哉の身体が
歓喜に震え続けていた。

「あっ…ぁ…」

 あまりに強烈な感覚に…克哉は、頭が真っ白になっていくのを感じた。

(ダメだ…意識が、少し…朦朧、とする…)

 今夜の彼はいつもよりも少しだけ意地悪で…その分だけ深い快楽を
感じてしまっていた。
 縛られた腕は酷く痛むし、ミシミシと訴えているけれど…アイマスクを
しているせいで、目を凝らしても黒い闇だけしか広がっていない。

(今、孝典さん…どんな、顔を…しているの、かな…?)

 自分をこんなに酷く抱いた男が、イった直後にどんな顔をしているのかが
少しだけ気になったが…外したくても、両手の自由が利かない状態では
それも敵わない。

(良いや…少し、だけ…)

 もがいて、腕に巻かれたタオルを取るように少し足掻いてみたが…外れる
気配を見せなかったので…結局克哉は…快楽の余韻に浸りながら…一時、
静かに意識を手放していった―

 
 

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プロフィール
HN:
香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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