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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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 須原秋紀が、愛しい人と涙を飲んで決別した陽から10ヶ月余りが経過して
再び新しい春が訪れようとしていた。
 本日は秋紀の通っていた学校で、卒業式が行われていた。
 秋紀が通っていた成城学園はお金持ちのお坊ちゃんばかりいて…寄付金さえ
積めば、やりたい放題な処があってあまり好きな学校ではなかった。
 だが…それでも無事に卒業出来たとなれば感慨深いものがあった。
 今、秋紀が着ているのは…制服ではなく、克哉が着ていたようなダークグレイの
スーツに、落ち着いた赤のネクタイだった。

 秋紀はとりあえず…なりたい職業も、夢もなかったので…一先ず、大学にでも
通ってサラリーマンになってみようかな、と思っていた。
 あの人がやっていた事を何となく、自分も追ってみたい気になったから。
 そのおかげで秋紀は…学校も真面目に通い、それなりに勉強するようになって
夜遊びも余りしなくなった。
 必死にガリ勉をした訳ではないので…有名で競争率の高い大学には落ちてしまって
いたが…ソコソコのレベルの処には滑り込めた。
 この10ヶ月、それなりに努力してきた自信があった。
 だから…彼は、あの日から一切立ち寄らなかった…克哉のアパートへと向かう
ことにしていた。

(…本当はこれって、女々しい行為だって事は自覚しているんだけどね…)

 自分の恋は、去年の春に終わっている。
 それは承知の上だ。
 だが…あの日決別して以来、克哉がどうしているか…秋紀はまったく知らなかった。
 二日間だけずっと一緒に過ごしていたが…結局携帯電話の番号も、メルアドも
交換しないままだったので…連絡手段がなかったからだ。
 何度か、それでも逢いたいと思った事があった。

 しかし…克哉には大切な人がいる。
 それを言い聞かせて…何度も踏み止まった。
 だが、どうしても…あれから眼鏡を掛けた方の克哉が幸せでいるかどうかが気になって
しまって、本日…卒業式という節目を迎えた事をキッカケに…秋紀は、克哉のアパートを
訪ねる決意を固めたのだった。
 10ヶ月、という月日が過ぎたせいで…アパートの位置の記憶も曖昧になってしまって
少し迷ったが…どうにか辿り着いていく。
 久しぶりに訪れると、つい懐かしくて少し涙ぐみそうになった。
 
(うわ…僕、格好悪いよな…。あの人に関わる事になると…どうしてこんなに…みっともなく
なっちゃうんだろ…)

 それは真剣に恋をした為なのだが、克哉が初恋の相手である少年には…その事に
気づけるだけの恋愛経験がまだ、なかった。
 階段を上がって、克哉の部屋があるフロアに辿り着くと…彼の部屋は開け放たれて
外には沢山のダンボールとか、タンス…分解されたベッドの類が置かれていた。

「えっ…?」

 最初、家具の類が沢山外に出されて置かれている光景にびっくりした。
 これではまるで…引越しする直前みたいではないか。
 そんな事を思いながら、その場に立ち尽くしているとひょいと…部屋の中から
眼鏡を掛けた克哉が顔を出した。

「…克哉さんっ?」

 まさか、眼鏡を掛けた方の彼にこんなにあっさりと会えるとは想定外だった為に
本気で秋紀は驚いて…大声で相手の名を呼んでしまっていた。
 Yシャツ姿にジーンズというラフな格好をした長身の男に…秋紀の視線は釘付けに
なっていく。
 声を掛けられて、ようやく克哉は秋紀の存在に気づいたらしい。
 ゆっくりとこちらの方を向いて…そして両者の視線が、重なり合っていく。

「…お前か。久しぶりだな…」

「は、はい…克哉さんの方こそ、元気そうで…良かった、です…」

 久しぶりに対峙する大好きな人の前に、心臓がドクンドクンと荒く脈動している。
 あぁ…もう、自分の中でこの人の恋人になりたい、という強い気持ちはないつもりだった。
 諦めているつもりだった。
 それでも意思に反して、これだけ胸が高まっている事に…秋紀は苦笑したくなっていた。

「あの…克哉さん、引越し…されるんですか…?」

「あぁ…今、付き合っている奴から…不経済だからそろそろ一緒に暮らそうと切り出され
たんでな…。それで今、荷物を整理してその準備に当たっている…」

 ズッキン。
 その一言を聞いた時、秋紀の胸は大きく軋んでいった。
 あぁ…やはり、今でもこの人は恋人と続いていたのだと、その事実を知って…秋紀は
自分の中にあった微かな望みをすぐに捨て去る事にした。

「そ、う…なんですか。良かったですね…恋人さんと、上手く…行っているんですか…?」

「あぁ…まあ、な。一応それなりに…上手く行っていると俺は思っているがな。…俺の方が
出るといつも過剰な反応してくるし、すぐ動揺したり…叫んだりしてくるが、最近は週末に
俺の方が出ていても…文句を言わなくなってきたからな…」

(…あの克哉さんと、交互に出たり出なかったりしているのかな…?)

 穏やかそうな面立ちの、もう一人の克哉を何となく思い出していく。

「じゃあ…克哉さんは、今…幸せ…ですか?」

 精一杯の勇気を振り絞って、一番気に掛かっていた…その質問を投げかけていく。
 その一言を聞いた瞬間…眼鏡は、ふっと瞳を細めて微笑んでいった。

「…見れば、判らないか…?」

 その顔はとても満ち足りて穏やかで…この人にこんな顔も出来たのだと…驚愕を
秋紀に齎していった。
 十ヶ月前にこの人と二日間を過ごした時は…眼鏡の方は本当に苦しそうな顔を
時折浮かべていて、見ているこちらの方が辛いくらいだった。
 だが…目の前の克哉は、穏やかな雰囲気と瞳になっていて…今、この人が
幸せである事が見ているだけで伝わってくる。

(あぁ…僕の入る隙間なんて、やっぱり…無かったんですね…)

 今日、ここに来た時…少しだけ、期待していた部分があった。
 しかしそんなのは結局、自分の勝手な願望でしかなかった事実を受け入れていく。
 胸はツキン、と少し痛んだが…それを顔に出さないようにして、背筋をシャンと伸ばし…
大好きだった人の顔を真っ直ぐに見据えていく。

「…今日、僕…高校を卒業しました。この春から…大学生になります…」

「…ほう、頑張ったな。以前のお前からしたら…大学に行くなど、夢のまた夢って感じ
だったがな…」

「えぇ、僕自身もそう思います。以前の僕だったら…貴方に逢わなかったら、大学にでも
行ってサラリーマンになろうとも…真面目に学校に通って卒業しようとも思わなかったで
しょうから…」

 それは、紛れもなく事実だった。
 颯爽と仕事をしている雰囲気の克哉に憧れて、今もその印象が秋紀の中に残っているから
それを目指してサラリーマンになりたいと思ったし。
 克哉がとりあえず学校には通っておけ…と、あの二日間に言ってくれてなかったら、それなり
に努力して大学に通おうと思ったり、今日…卒業する事もなかっただろう。
 克哉に出会ったばかりの頃は…世の中は何て退屈だ、と思い…甘く見ていたか、今は
良く判っていた。
 目標もなく暇をただ闇雲に潰して無為に過ごしていた日々は…今となっては、
恥ずかしくなる程のものに秋紀の中では変わっていた。

「…良く、頑張ったな。…一応、褒めてやる…」

 そうして…克哉の方から一歩間合いを詰めて…少年の頭をクシャ、と撫ぜていった。
 まるで愛猫を撫ぜるような…そんな仕草と手つきが懐かしくて…それだけで秋紀は
泣きそうになっていく。
 
 この人が大好きだった。
 吹っ切ったつもりでいても…まだどこか諦め切れなくて、結局…他の人間に眼を
向けたりは未だに出来ないままでいた。
 けれど…この人は今、恋人と上手く行っているのなら…これ以上の我侭を言って
困らせたくない。
 どうにかその意地を発揮して…抱きつきたい衝動を押さえ込んでいった。

「…ありがとう、ございます。貴方にそう言って貰えるのが…一番、僕にとっては
嬉しいですから…」

 それで、泣きそうになるのを寸前で堪えて…初恋の人を見遣っていく。
 その眼はどこまでも優しかった。
 本当に…この人なのか、と疑いたくなるくらいの変貌に…結局自分の出る幕は
ないのだと…その現実を受け入れて、秋紀は一歩…下がっていった。

「僕…貴方のような立派なサラリーマンになります。…結局最後まで、僕の片思いに
過ぎなかったけれど…やっぱり克哉さんは僕の憧れで…格好良いなって、今でも
思っていますから。だから…貴方のように、なりたい。
 それくらいは…目標にして、良いですよね…?」

「…あぁ、構わない。どうせ目指すなら…俺を追い越すつもりでやれ。待っていて
やるよ…」

 その一言が、秋紀を奮い立たせていく。

「えぇ…貴方に勝つなんて、凄い大変そうですけど…ね。僕、頑張りますから…!」

 そう相手に告げて、全力で秋紀は踵を返していった。
 瞳からは…涙が溢れそうになって…これ以上向かい合っていたら、相手の前に
泣き顔を晒すことになってしまうから。
 それだけはみっともない…とそう自分に言い聞かせて、秋紀は克哉から
背を背けていった。

「お元気で! 克哉さん!」

 精一杯の明るい声と表情を作って、それだけ言って…秋紀はその場から
立ち去っていく。
 克哉がこれから、どこに引っ越すのか住所も知らず、連絡手段もない。
 ここで聞き出さなければ、克哉との接点は失われることは承知の上で…それでも
全力で少年はその場から離れて、駆け出していった。

 あの人が幸せなら、自分が入る余地などなく。
 自分の手で、あの人の幸せを壊すはしたくないと。
 そういう意地の方が…寸での処で勝ったからだ。

 大好きだった。
 あの人さえいれば…他のものは何もいらないとすら思えるくらい、大切な人だった。
 だが…それでも、少年は決別を決意して…アパートを後にしていく。
 後はもう…無我夢中で走り続けた。
 どこまで走り続けたか、もう秋紀には判らなかった。

 ただ自分の中の未練が働く余地のないくらいに遠くまで…その一心で
秋紀は走り続けていった。

 そして…気づけばどこかの公園に辿り着き、荒い息を突いていく。

「はあ…はあ…」

 どうにか呼吸を整えて、うっすらと額に滲む汗を手の甲で拭い…周囲を見渡していった。
 何気なく…周囲を見渡していくと、公園には…木蓮の花や、冬の間は…地中に潜って
姿を消していた草花の類が沢山芽吹いていた事に気づいた。

「あっ…」

 退屈だ、と毎日を過ごしていた時は…こんなささやかな春の気配になんて
まったく気づいていなかった。
 樹木の鮮やかな色彩と、微かな良い匂いに…慰められるような気持ちになった。
 空はどこまでも澄み渡って青く…吹き抜ける風は心地よい。

 恋を諦めることは辛い経験であるけれど…同時に、ある種の清々しさを…
秋紀の心の中に齎していた。

「はは、こんなに…公園の中の花って、綺麗に見えるもんなんだ…」

 失恋の経験が、少年の中で…今まで見えなかった視点を見出させていく。
 それは切なくて辛い事であったけれど…紛れもなく彼を成長させてくれる
キッカケになっていった。

「…気持ち良い…」

 涙を、流しながら…吹き抜ける風に身を委ねていく。
 春の気配をここまで…暖かい気持ちで迎えた事など、初めての出来事だった。

(さよなら…僕の初恋…)

 事実を認めて、少年は春の光が降り注ぐ中…微笑んだ。
 その時、秋紀はひどく大人びて…綺麗な表情を…浮かべていた。
 そんな彼を祝福するように…柔らかい風は、そっと…大地に吹き抜けて…
少年の身体を、包み込んでいったのだった―
 

 

 
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―俺はあんたを抱きたいと思っている。御堂孝典…そんな俺を怖いと
思うなら…逃げても構わない。その自由があんたにはある…

 自分自身と対峙して、彼の存在を享受した翌朝。
 克哉の意識が夢現になっている時…もう一人の自分は携帯を片手に持って
留守番電話に、そう簡潔にメッセージを残し…通話を切っていく。

 それは眼鏡の方の嘘偽らざる本心。
 御堂が克哉を心から愛しいと思って抱くように。
 もう一人の自分が心から愛している男を、いつしか眼鏡の方も好意を持ち…
いつしか『抱きたい』という気持ちに発展していった。
 その気持ちを一言、相手に告げて…もう一人の自分もまた再び…深い
眠りの淵へと落ちていく―
 
 窓から差し込む、陽の光だけが…酷く眩しく感じる朝だった―

                             *
 日曜日の夕暮れ。
 眼鏡の方の意識を受け入れて、二日目を迎えていた克哉は深い溜息を突きながら
キッチンに立って夕食の準備を始めていた。

もう、日曜日の夕方だ。オレが提示した週末が終わろうとしている。やっぱり御堂さん
とってオレ達は重すぎたのかな

 週末、受け入れてくれるつもりがあるならこの部屋まで来て下さい。
 来ないようだったらこの恋を諦めるつもりです、と彼に提案したのは自分自身だ。
 覚悟はしていたつもりだった。
 なのに実際に御堂が今まで訪れて来なかった事実は、思いっきり克哉の気持ちを
沈み込ませていた。
 夕暮れの茜色に染まった陽光が…玄関側の窓から微かに差し込んで来ている。
 その扉はまだ、開かれる気配はなかった。

「御堂、さん…」

 知らず、愛しい人の名を呟きながら…ベッドの傍らでうずくまって…無為な時間を
過ごしていく。
 そういえばそろそろ夕食の準備をしなければならない時間帯に差し掛かっていたが
落ち込んでいるせいか、まったく空腹感がない。
 昼間にラーメン一杯を食べたきり…固形物は口にしていないが、それでも明日の
朝までは大丈夫そうなくらいに今の克哉は食欲が湧かなかった。

(…何か、ご飯を用意したり食べたりするのも…もう、億劫な感じだな…)

 だが克哉の意思と反して…お腹はグウ、と音を立てていく。
 身体は正直とは、本当の事のようだ。
 意識では食べたくないと思っていても…肉体の方は空腹を訴えて、何かを
胃に入れろとせっついて来る。
 それでも克哉は動く気になれないでいた。

『おい…いつまでヘコんでいるんだ。お前がそんな空腹でいると…俺までその苦痛を
感じなくてはいけないから、非常に迷惑なんだが…』

 そんな自分の姿に焦れたのだろう。
 頭の中に…もう一人の自分の声が響き渡っていく。
 口調からしてかなり不機嫌そうな感じだった。

(…そんな事言っても、食欲が湧かないんだから…仕方ない、だろ…。
今は何も…したくないんだ…)

『ちっ…情けない奴だな。俺が少し…手を貸してやる。それで動いてみろ…』

 ふいに、自分の中に…もう一人の自分の意思が混ざっていくような感覚を覚えた。
 意識は紛れもなく自分の方なのに…身体が何かに操られているように…勝手に動いて
キッチンのと方まで向かい…戸棚を空けて何種類かの穀物やドライフルーツが配合された
シリアルを取り出して、深いガラスの中に放り込んでザカザカと冷たい牛乳を掛けていく。
 それは所要時間1分以内で出来る、最短の食事の用意である。
 
『…それくらいは食べておけ。ただでさえ気持ちが沈んでいる時に…空腹の状態で
いたら、もっと気持ちが沈んでいくぞ…まったく…』

「あ、うん…ありがとう<俺>…」

 そう一言、もう一人の自分に礼を言いながら…スプーンを片手に持って自室に戻り
シリアルをゆっくりと食べ始めていく。
 意識の上では、ご飯などいらないと思っていた。
 だが実際にこうやって食べてみると…いかに自分の身体が食べ物を要求していたかを
思い知らされた気分だった。
 ザクザク、と小気味の良い音を立てながらシリアルを咀嚼して胃の奥へと流し込んで
行くと…身体に少し、気力が戻って来たような気分になった。

「…ん、ご馳走様。用意してくれてありがとうな…」

『…それくらいで礼を言われる言われはない。お前が空腹のままだと…俺までそれを
味わう羽目になるからやったまでだ…』

(ん、判った…そういう事にしておくよ…)

 もう一人の自分の物言いがおかしくて、ついクスクスと笑ってしまうと…思いっきり眼鏡の
方はムクれてしまったようだった。
 一時繋がっていた意識が再び途切れて、彼の声と気配は…克哉の中から消えていって
しまった。

(…あ~また、照れて…拗ねたな。まったく…意外に照れ屋だったんだな、あいつって…)

 あの日から眼鏡の意識が克哉の方を認めてから、自分達の在り方は大きく変化
していた。
 時々、ふっとした時にもう一人の自分の意識とパスが繋がってお互いの意思の
疎通が出来るようになっていた。
 最初はこのような状況になった時にびっくりしたが二日目を迎えて、克哉の方も
徐々にこの状態に適応していた。
 元々、いる事は判っていたのだ。今更この状況に驚いても仕方が無い。

まあ、少しうるさいのが玉に傷だけど四六時中、声が聞こえる訳じゃないしね

 眼鏡の意識も気まぐれで、自分が話したいと思った時にしかこちらも声が聞こえない。
 相手の考えが判らないでモヤモヤしているよりはマシ、と克哉の方もあっさりと
状況を受け入れる事にしていた。

(それに…今の状況じゃあ、一人で黙って待っているよりもずっとマシだしね…)

 静寂を讃えた自室で、一人で御堂がいつ来るかを待っている状況で…それでも
克哉が沈み切らずに済んでいた理由は、眼鏡の方が…こうして時折、こちらを心配して
ぶっきらぼうにだが…声を掛けてくれていた事も大きかった。
 時に親父じみた、セクハラ発言が飛び出す事もあったが…昨日、散々やられた時に
以前に本多がお土産で買って来たセンスが最悪のシャツを着てやる! と脅す事で
どうにか主導権を得ていたおかげで…今日はその類の意地悪な言葉を聞かされずに
済んでいた。

 シリアルを食べ終えて、調理場の洗い桶の中に食器を突っ込んでいく。
 キッチンの窓から差し込んでくる赤みを帯びた夕日の光は…今日という一日が
終わる事を世界に告げている。
 今週末、は…今日で終わりだ。
 昨日一日もやきもきしながら過ごしていたが…本日はそれ以上の気持ちを抱えていた。

「…やっぱり、オレみたいな奴とは…これ以上、付き合えません…よね…」

 その現実を受け入れて、御堂を諦めるように自分に言い聞かせようとした
次の瞬間―この二日間、まったく鳴らなかった…御堂専用の着信音が部屋中に
響き渡っていた。

「…っ!」

 その音を聞いて、脱兎の勢いでベッドの傍のガラステーブルの上に置いてあった携帯に
駆け寄り…通話ボタンを押していく。
 繋がると同時に、バタン! と自動車のドアか何かが勢い良く閉められて、コツコツコツと
上質の革靴が硬い床を歩く音が微かに聞こえていた。
 …どうやら、移動しながら電話を取っている状態のようだった。

「もしもし…!」

『…克哉か。良かった…繋がった。…この二日間、元気だっただろうか…?』

 電話の向こうから聞こえる声は、紛れもなく愛しい相手のものであった。
 それを耳にして…克哉はジィン、と痺れるような幸福感で一杯になっていく。

「はい、どうにか…オレの方は元気にやっていました…孝典さんの方こそ、どうでした…?」

『それを君が…聞くのか? 意地が悪いな…。そうだな…君たちの事ばかり考えて
ずっとグルグルと頭の中が回って身動きが取れない感じだったかな…』

「っ…!」

 その一言を聞いた瞬間、御堂に申し訳なくて…つい肩を竦めていってしまう。
 痛そうな顔を浮かべている間も…恋人からの言葉は受話器越しに続けられていった。

『…昨日の朝、もう一人の君からの留守電を聞いて…私は今までの人生で
一番、と言えるくらいに…凄く悩んだ。悩み続けた。
 …私にとって、君がとても大事な人なのは変わらない。だが…私を抱きたいと
言っているもう一人の君まで私は許容する事が出来るのだろうか…と。
 その一件で、自問自答を繰り返していたよ…』

「…そんなに、悩ませてしまったんですね…すみません…」

『…いや、君が謝ることではない。確かに…困惑はしたが、好きでそうなって
しまった訳じゃない事は…何となくは判るからな…』

「はい…ありがとう、ございます…」

 御堂の言葉を聞いて、克哉はずっと恐縮するしかなかった。
 その緊張を相手の方も感じ取ったのだろう。
 ふいに…フっと…相手が笑っているような、そんな気配を受話器越しに感じた。

『…まったく、君は…本当に生真面目なんだな。其処まで今更…私の前で畏まらなくて
構わないのだがな…』

 唐突に…先程までの硬質な声から…柔らかいトーンのものへと変化していく。
 
『克哉…私には、君が必要だ。散々悩んだ末に…出た結論は、結局…それだった。
君を失いたくない。傍にいて欲しい…それが、この一件を経た後で導き出した…
私の率直な気持ちだ…』

 その一言を聞いた途端に…克哉の涙腺は、制御を失って壊れてしまったかの
ように…頬に涙を伝らせていく。
 一度、堰を切ったら…もう止まらなかった。
 最初は滲んでいた程度のものが、次第に大きな粒になり…とめどなく克哉の頬を
濡らし始めていく。
 後はもう…止める事など、出来なかった―

「た、かのり…さ、ん…」

 あまりに嬉しくて、喉の奥が震えて…声が掠れていく。

『…正直、もう一人の君に抱かれる処までは…怖くない、と言ったら嘘になる。
しかし…私は、彼にも正直、惹かれる部分はあったからな…。初めてうちの会社に
来てプロトファイバーの営業権を勝ち取った時は何と傲慢で…やり手の男だ、と反発心が
湧いたが…今思えば、それも…強烈な関心の裏返しだったかも知れないしな…』

 そう、愛しいという感情こそ…まだないが、もう一人の克哉の存在が…御堂の心の中で
強く印象に残っていたのは事実だった。
 この一件より前に、御堂が彼の姿を見たのはその一回だけしかない。
 だが…そのただ一度だけの邂逅は極めて印象的で、御堂の中で決して色褪せる事は
なかったのだから…。

「ほ、んとう…に、もう一人の…<俺>の方まで…受け入れて、貰える…んですか?
それで…孝典、さんは…良い、んですか…?」

 たどたどしい口調で、涙声になりながらも…懸命に言葉を紡いで…御堂に語り
掛けていく。
 そんな克哉に優しく諭すように…男は返答していった。

『あぁ…本気だ。今、君の部屋の前まで来た…。疑うのなら…扉を開けて、私が
本当にいるかどうかを…見て確認してくれ…』

「えぇ!」

 それと同時に、声と一緒に聞こえていた靴音もピタリと止まっていく。
 事実かどうかを疑って…ゴクリ、と克哉はその場で息を飲んだ。

 トクトクトクトクトク…。

 普段より若干忙しなくなっている自分の鼓動の音が、うるさいくらいだった。
 携帯電話をさりげなく切り、机の上に置いてから…ゆっくりと玄関の扉の方へと
克哉は向かっていった。
 夕焼けがもっとも赤みを帯びて輝いている時間帯。
 克哉は…玄関に立ち、その扉を…慎重に開いていった。

「あっ…」

 其処に、紛れもなく…御堂は、居た。
 逆光のせいで…顔の表情は良く判らなかったけれど、間違いなく…その服装も
シルエットも愛しい人のものだった。
 それに気づいた瞬間、克哉は…御堂の胸に自ら飛び込んでいた。

「孝典さんっ!」

 つい、知らず…声は相手の名前を叫んでいた。
 それに応えるように…御堂もまた、克哉の身体を強く強く抱きしめていく。
 お互いに痛いぐらいに相手の身体をしっかりと抱きしめ…その存在を確認し合っていた。

迎えに来るのが、遅くなってすまない。ギリギリまで、迷っていたから

「いえ良い、んです。貴方がこうして、来てくれただけでそれだけで、オレには
十分ですから

 このまま来てくれずに、この恋を諦めてしまう結末よりも。
 どれだけ遅くてもこの人がこんな自分たちを受け入れてくれた事実の方が
幸せだから
 そう言い聞かせて、ギュウっと強く力を込めていく。
 それは痛いぐらいの抱擁だったけれど二人とも、まったく腕の力を緩める
気配はなかった。
 それだけで言葉を聞かなくてもお互いに答えは伝わっていた。

「ありがとうございます。孝典、さん! こんなオレ達を受け入れて、下さって!」

 本気で、嬉し涙が瞳から溢れて止まらなくなっていった。
 顔はクシャクシャになっていたが今の克哉はそれを止める事など出来ない。
 頬に涙を大量に伝らせている恋人の姿に、胸が詰まるような感情を覚えて御堂は
ゆっくりと、貪るように唇を重ねていった。

 お互いに気持ちが蕩けそうなくらい心地よく、幸せな口付け。
 日が完全に沈み、夜の帳が舞い降りる頃ようやくキスを解いていく。
 その頃には、本当に嬉しそうな笑みを克哉は浮かべていた。
 そして強い覚悟と決意を秘めながら、こうして来てくれたのなら伝えようと
思っていた言葉を、口に上らせていく。

『孝典さん…オレは、貴方を一生…貴方を愛しぬきます

 それは克哉の中の強い想い。
 こんな複雑な事情を抱えている自分を、丸ごと全部受け入れてくれた人に
最大級の感謝の気持ちを込めて、克哉はそう伝えていった。
 その言葉を聞いて、御堂もまた嬉しそうに微笑んでいく。

『あぁ私も、君達を二度と他の誰かに渡すつもりはない。覚悟、しておくんだな

 そうして、二人の影がゆっくりと重なり合う。
 繋がれた手と手が、お互いの想いを伝えていく。
 ようやく、散々迷って苦しんだ末に二人は、不安定な関係から絆を芽生えさせる。

 御堂がこの扉を開けた瞬間に…今までの『二人』の関係は終わりを告げて
新しい関係が始まろうとしていた。
 
 今まで克哉にとって…もう一人の自分の存在を知られる事が怖かった。
 それが露見すれば、御堂を失ってしまうのではないか。
 その恐れが二人の間から安定や信頼を奪い、不安定なものしか築けないでいた。
 だが…今は、違った。

 御堂は彼の罪も…複雑な事情を全て踏まえた上で…佐伯克哉という人間を
もう一つの人格と共に受け入れていく。
 いつもの彼とまったく異なる、別個の意思を備えた有能な能力を持った存在。
 自分を抱きたいと、率直な欲望を伝えてくる傲慢な男。
 その存在を込みの上で…彼らは『三人』で新たな関係をスタートさせていく。

 それに不安がない、と言ったら…嘘になる。
 だが、克哉はもう揺らぐつもりはなかった。
 この人の手を自ら離すつもりもない。
 もう一人の自分の存在も、二度と否定するつもりもなかった。

 自分の人生や、これから先の幸せは…この二人を抜きにしては有り得ない。
 そう確信していたから。
 だから強く強く、克哉は御堂の身体を抱きしめて…己の想いを必死に伝えていく。
 今、この瞬間…御堂の腕の中にいて、誰よりもこの人の近くに在れることに心から
感謝しながら…克哉は、愛しい人間にそっと…身を委ねていったのだった―
 
 

 最初、眼鏡から包丁を手渡された時はびっくりしたけれど…すぐに克哉は
冷静さを取り戻していった。
 これ見よがしに…手に持った凶器を相手の前に翳していくと…さも当然の
ようにあっさりとそれをベッドの上に放り投げていった。

「…それで、こんな事で…オレの決意が揺らぐと思っていたの? ねえ…<俺>」

 克哉は驚いてこそいたが…ほんの少しの未練もなく、眼鏡の持ち出した
提案を否定していく。
 ここまで躊躇いも見せずに断ってくるとは予想していなかっただけに…もう
一人の自分は呆気に取られていたようだった。

「…ちっ。先程までの世迷いごとも…本気で言っていたみたいだな。それは
認めてやる事にしよう…」

「…あははっ! 確かに…オレがさっきから言っていた事は…お前にとっては
世迷い事にしか聞こえてなかったかも知れないね。けど…オレは本気だから…」

 柔らかく微笑みながら、もう一人の自分の手に…そっと自分の手を重ねていく。
 春先だというのに…眼鏡の指先は、どこか冷たかった。
 いつもと変わらない、シニカルで冷静な態度。
 だが…今の提案をする事で、多少は彼も緊張していた。
 …克哉がもし、本気で包丁を持ち出して自分を殺す方を選択するか…迷いを
見せていたら、どうなっていたのだろうか。
 このどこか血の通っていない指先はもっと冷たいものになっていたんではないか。
 そんな事を…ふと、感じた。

「…本当に、お前ってさ。臆病…だよね」

「…何、だと…っ!」

 その一言は聞き捨てならなかったらしい。
 眼鏡の顔に再び怒りの感情が滲み出していく。
 だが…もう、克哉は彼が憤っている姿を見ても…殆ど慌てる事なく、真摯に相手の顔を
見据えていきながら言葉を続けていった。

「…今のは、オレの言葉が本気がどうかを試したかったんだろ? …お前はすぐに
人の言葉を疑って掛かるから…試さずにはいられなかった。
 甘い言葉にすぐ飛びついて…裏切られて、傷つけられるのは沢山だから。
 …アイツの時のように、表面は良い事ばかり言って親友面して…裏で、糸を引かれて
いたような。そんな真似を…されるのはもう嫌だ、と思っている。
 だからお前は…誰も信じない。オレさえも信じられない…そうじゃないのか…?」

「…お前は、アイツの事も…思い出したのか…?」

「…あぁ、もう誰も傷つけたくなかった。自分の持っている能力も才能も全てを
封じて目立たないように生きれば…もう二度とあいつみたいに誰も追い詰めたり
知らずに傷つけるような真似はしないで済むと思った。
 だからオレの方は…素質が同じでも、平凡な奴になってしまったんだろうけどね。
…けれど、お前を理解しようと思ったら…アイツの一件を抜きには語れない。
 違うかな…<俺>」

「…ちっ、そうだ。俺は誰も信じてない。…信じて痛い目に遭うのはもう沢山だからな。
 あれだけ心を寄せて、信じていたのに…あっさりと裏切る奴って影で笑って
いる奴がいる。そんな奴を親友だと思っていた。
 そんな馬鹿げた…道化のような立場になるのはもう御免だ。
 だから俺はもう誰も信じない。俺が信じるのは…『俺』だけだ…」

 その瞬間…眼鏡の顔は、12歳の時の自分の顔に重なった。
 
(やっぱり…コイツはあの一件を眠り続けていた事で…しっかりと覚えてしまって
いたんだ…オレが忘れる事を選んだ事を…)

 忘れる事を選択した自分とは違い、本当に大切な人を…知らずに追い詰めてしまって
いた苦い記憶を抱え続ける事で…もう一人の自分の人格は形成されてしまっていた。
 それが眼鏡の核の部分。
 誰も信じない、と…信じられるのは自分だけだ。
 そんな寂しい事を言う男の中に潜む…真実。

 やっと掴めた。
 ようやく…こいつの心の奥に踏み込む事が出来た。
 そう確信して…克哉は、目の前にいるもう一人の自分の身体に腕を伸ばして
もう一度…自分の方から強い力で抱きしめていく。
 その抱擁は…あの辛い記憶を抱きかかえて、今も…心の奥底で泣いている
子供の部分を残した…もう一人の自分の傷を癒す為のものだった。

「…ねえ、<俺> お前がオレを信じなくても…オレは、お前を信じて受け入れるよ…」

 とても優しく、穏やかな声で…諭すように伝えていく。
 それを聞いて、一瞬…眼鏡は瞠目して、その腕を突き飛ばす事が出来なかった。

「…オレは、本気だよ。…だって…お前は自分自身でもあるから。自分を信じられない
人間が…幸せになれるとは思えないから。
 このまま…誰も信じないでいれば、お前は…もうあの時のように傷つかなくても
済むかも知れない。けれど…決して、幸せにはなれないよ。
 …そんなの、せっかく生きているのに…悲しすぎないかな…?」

 信じる、という行為はリスクが伴う行為だ。
 信じている相手から裏切られた時の傷の痛みは、とてつもなく…時に人格に大きな
弊害を残す事すらある。
 だが…相手が信じているのに、こちらが疑って掛かれば…人の気持ちは離れていく。
 どんな人間でも自分が相手に疑われている、信じられていなければ…傷ついていつしか
傍から離れていく事だろう

 ―裏切られるかも知れない。そんな危険を冒してでも…時に、相手を信じるという行為を
通じてしか…人との絆など生まれはしない。
 今の克哉は、御堂という存在を経て…その真実を知っている。
 だから…もう一人の自分に優しく、子供に言い聞かせるように諭していく。
 …コイツにも、幸せになって貰いたいから。
 そんな無私の心で―

「…お前は、バカ…だな…」

「そうだよ、知らなかったの…?」

 お互いの顔を見つめ合っていく。
 気づけば…克哉の瞳は、軽く潤んでいた。
 そんなお人好し過ぎるもう一人の自分を見て…腹が立つのと同時に、少し羨ましい気持ちに
なったのが不思議だった。
 自分はコイツだけが幸せでいる事が不快だった。
 だからその幸福を壊してやるような行為を幾つも重ねて来た。
 その上でももう一人の自分は報復するような真似をせずに…自分の存在を受け入れて
あまつさえに、『信じる』という。
 それは到底、合理的な思考回路を持つ眼鏡には理解出来ない考え方だった。

 ―だが、そのせいで…自分の心が大きく変革したのも、事実だった。

「なら…お前は俺を裏切らないと。そう誓えるのか? お前がそう誓って…守り通すと
いうのなら…信じてやらん事もないが…どうする?」

「そんなの決まっている。誓うよ…オレはもう、お前の存在を蔑ろにするような真似は
絶対にしない。だから…オレを、信じて…」

 その問いに、克哉は一瞬の迷いも見せずに即答していく。
 …今夜は何度、コイツに自分は驚かされたか…眼鏡にはすでに判らなくなっていた。
 弱くて優柔不断な、どうしようもない奴だと思い込んでいた。
 それなのに…今夜のコイツはどうなのだろう。
 ほんの少しの迷いも見せずに、自分が出す無理難題をあっさりと看破して…ドカドカと
眼鏡の心の奥へと入り込んで来る。
 …その言葉を聞いて、やっと眼鏡も…決意していく。
 ここまで言われているのに、相手の言葉を撥ね付けるような真似をしたら…それこそ
みっともないだろうから―

「…判った、お前を信じて…やるよ…」

 そうして、眼鏡がゆっくりと…克哉の方に顔を寄せていく。
 その行動に思わずぎょっとなって、少し身を引いていくが…その腰をしっかりと
抱きかかえて決して逃がしてやらなかった。

「…って、ちょっと待って! 何でオレの方に顔を寄せてくるんだ…?」

「…誓う時は、キスするのが当たり前じゃないのか…?」

「それは結婚式の誓いだろっ! オレとお前はそんなんじゃ…」

「…これから先、一生…お前と一緒に歩んでいくんだから、意味としては
同じだろ? それとも…さっきまでの言葉の数々は…俺を騙す為の甘言だった
事を認めるか? それなら…それでも良いけどな?」

 意地悪な表情を浮かべながら、愉しげにそんな事を言ってのけるもう一人の
自分が恨めしかった。
 だが…こいつは、確かにこういった。
「これから先、一生お前を歩んでいくんだから…」と。
 その言葉の意味に気づいた時、克哉は渋々と言った感じで…受け入れていく。
 恋人は、御堂だけだ。
 けれど…こいつもまた、自分にとっては…人生の一部でもあるのだ。
 もう一人の自分の存在失くして、佐伯克哉という人間は完成しない。
 どれだけ性格が違っても、考え方が異なっていても…紛れもなく彼は…
自分の中から生まれ出た、もう一人の自分なのだから―

「誰が…認める、かよ…! オレは本気で言っているんだからっ! 
もう良い…お前の、好きにしろよ…。それでお前が…オレを信じてくれるなら…
安い買い物、だから…」

「あぁ…好きにさせて貰うぞ。喜べ…俺は義理堅いから、一度誓えば…決して
俺の方からは裏切ったりはしないさ…」

 クスクスと笑いながら、眼鏡がこちらの方へと唇を寄せてくる。
 月光が降り注ぐ藍色の室内で…二人の影が再び、重なり合う。
 それは触れるだけのささやかな口付けだったけれど…唇が重なり合った
瞬間…もう一人の自分の輪郭が…緩やかにぼやけ始めていった。

「んっ…」

 唇を離して、もう一人の自分を見遣る。
 涙を瞳に讃えていたせいかも知れないけれど…瞬く間に眼鏡の姿が
遠く感じられていく。
 その輪郭が曖昧になり…ゆっくりと半透明に変化していく。
 こんな不思議な光景に遭遇するのは…生まれて始めてで、最初はぎょっと
なったが…すぐにその現実を受け入れて、克哉は…穏やかな笑みを浮かべていく。

(…お前が、オレの中に…還って来ている…)

 目の前の自分の姿が、透明になればなるだけ…自分の中で欠けていた
部分が次第に埋まっていく。
 それで確信した。
 今の口付けで…眼鏡の意識は、克哉の中に戻る事を選んでくれた事を…。

 そして…瞬く間に、もう一人の自分の姿が…闇の中に溶けていく。
 同時に、酷く心は満ち足りていた。
 克哉は自分の胸元に…手をそっと宛がい、その存在を確かめていった。

(…間違いない。…確かに、お前は…ここに在る…)

 それを確信して、克哉は知らず…微笑んでいた。
 そして…もう一人の自分に向かって、優しく語り掛けていく。

『おかえりなさい…<俺>』

 そう告げた次の瞬間…
 もう一人の自分が不貞腐れて、舌打ちをする音が…聞こえたような気がした―

 克哉の方から、相手の腕の中に飛び込んだことで…眼鏡は虚を突かれる形に
なっていた。
 一瞬、何が起こったのか状況が判断出来ずに…克哉の成すがままに
抱きしめられ続けていく。
 さっきまでこちらから逃げていた癖に、この行動は一体どういう意図で取っている
かが本当に読めずに、怪訝そうな顔になるしか…なかった。

「…どういうつもりだ…? <オレ>」

 不機嫌そうな声で問いかけていくが、相手は答える気配がない。
 ただ骨がしなるくらいに強い力で、こちらを抱きしめていくのみだ。
 ますます…相手の考えが読めなくて、眉を顰めていく。
 そんな状態で…どれくらいの時間が過ぎただろうか。
 ふと…窓の外を見上げると、銀色に輝く真円の月がとても…綺麗である事に
眼鏡は気づいた。
 月に視線が釘付けになり…どこか遠い眼差しになっていく。
 その頃になってようやく、沈黙し続けていた克哉が口を開いていった。

「…お前こそ、いつまで…セックスに逃げるつもりなんだ…?」

 腕の力が弱まり、見つめ合う体制になっていく。
 お互いの鼓動と呼吸が感じられるくらいの、間近な距離で二人は向き合い…
視線と思惑を交差させていった。

「…どういう事だ? 俺が…逃げているだと…?」

「…あぁ。お前は苛立つと…いつも、その怒りを発散する為にセックスを求めている。
…お前が秋紀っていう子や、御堂さん…それにオレにまで節操なく手を出してくる理由が
最初は判らなかった。どんな男でも、お前にとっては欲望の発散の対象になり得るし…
それがオレが、お前の存在を恐いと思う理由だった。だけど…」

 克哉はキュっと唇を引き絞りながら、次の言葉を口にする覚悟を決めていった。

「…今はその理由が、良く判った。だから…オレは恐くない。だって…お前は、寂しくて
苦しくて…それで一時、その辛さから逃れたくて…誰かの体温を欲していると
それがやっと判ったから…」

「…何だと!」

 その一言に、眼鏡は怒りを露にした。
 思いっきり襟元を掴まれて、強引に相手の方に引き寄せられる。
 爛々と輝く瞳は憤りに輝き…不謹慎だが、それを綺麗だと思ってしまった。

「…お前ごときが、俺の何を判ったというんだ…? おこがましい事を言うのもいい加減
にしておけっ…!」

「へえ? それなら…何故、お前はそんなに怒っているのかな…? <俺>?
オレの言っている事が本当に見当違いだというのなら…お前は怒ったりなどせずに
こちらの言葉など、一笑に伏せば良いだけの事じゃないかな…?」

「…黙れ」

 克哉の言い分は、正しかった。
 もし相手の言っている事がバカらしいとか、見当違いだというのなら…適当に流して
まともに受け止めなければ良いだけの事だからだ。
 だが…相手が怒るという事は、それだけ…今言った事が事実に近い事を認めている
ようなものだった。

 眼鏡は本気で怒っていた。
 そんな彼を…克哉はようやく、荒ぶる心を抑えて…静かな気持ちで向き合っていく。
 …彼の存在を認めていれば、もしくはどうして自分達の心が二つに分かれて
しまったのか。
 どちらかと克哉が向き合っていれば、この一件は回避出来たことなのだ。
 憤怒の光を瞳に宿す…もう一人の自分の頬を、そっと優しく撫ぜて…その髪を
梳いていく。
 そして、克哉の方から再び…その身体を抱きしめていく。

「…謝って済む事じゃないと思っている。けれど…本当に、御免な…<俺>
お前の存在を…否定していた事、済まなく思っている…」

 あまりにも真っ直ぐに、謝罪の言葉を言われて…眼鏡は黙るしかなくなった。
 …今まで降り積もっていた怒りの矛先を、どこに向ければ良いのか判らなくなって
しまったからだ。
 こいつが、自分の事を否定したままなら…憎み続けられた。
 だが、こんな風にバカ正直に謝られてしまったら、これ以上…こちらも酷い事をして
コイツに思い知らせてやろう…という凶暴な気持ちを抱けなくなってしまっていた。
克哉の衣服は未だに乱れて…傍から見て、かなり挑発的な格好をしているのに…それを
目にしていても、さっきのように犯してやろうという気持ちが湧いて来ない。
  毒気を抜かれた顔を浮かべた眼鏡を…克哉は微笑ましい気持ちで見つめていく。
 やっと…本当のコイツに、自分は気づく事が出来たからだ。

(やっぱり…そうなんだな。こいつは…)

 御堂を守ろうと、こいつの意識を奈落に突き落とした瞬間。
 あの時…一瞬だけ、もう一人の自分の顔が…12歳の頃の自分の顔に被って
見えたのだ。
 その光景を見た時から…克哉は自分なりに、必死になってその理由を考え続けていた。
 理解しようと意識が傾いた辺りから、ずっと封印し続けていた12歳前後の頃の記憶を
掘り起こし…克哉はやっと、昨日の夜に…自分達が二人に分かれたその原因となる
事件の記憶を思い出せたのだ。
 あの一件を機に、あいつの意識は深層意識の底で眠りに付き…代わりに自分が
生きる事となった。

 25年間の人生を、佐伯克哉として歩んできた。
 だが…あいつは子供時代の12年間を行き、中学に上がってから社会人になるまでの
13年間は…自分の方が生きていた。
 だから、そうなのだ。何でも出来る力を持っていて…自分よりも物事を見極める能力が
あって凄い奴だと思っていた。
 その実力の高さに密かに憧れていたくらいだった。
 しかし…こいつは…12の時から、眠りについていた。
 だから純粋な子供特有の残酷さと、恋愛の仕方の一つも知らない「子供同然」の部分も
持ち合わせていた事実に克哉はずっと気づけなかったのだ。

(お前は…愛し方を、知らないんだ。だから…征服という形でしか、人と繋がりを
持てない。酷い抱き方をして…快楽を与えて、相手の身体を支配する…。こいつは
こういう方法でしか…人を求められない奴、だったんだな…)

 二人で月光の降り注ぐ部屋の中で…両者のシルエットが重なり合う。
 相手をしっかりとその腕に抱きしめていきながら…精一杯の気持ちを、克哉は
眼鏡に伝えていった。
 それは…御堂に注いでいる気持ちとは異なる、家族に向ける愛情に近いものだった。

「…なあ、<俺>。…オレには、すでにとても大事な人がいる。その人と同じようには
お前の事を愛せない…。けど、オレは…お前の存在を受け入れたい。…お前の存在込みで
あの人と一緒に…『三人』でこれから先を歩んでいけたら…オレ、そんな事を願って
いるんだ…。おかしい、かな…」

「…『三人』で、だと…そんな事が可能だと…本気で思っているのか…?」

「…うん。それって…御堂さんに凄い負担が掛かってしまう事だっていうのは判っている。
けれど…お前は、オレの一部だから。やっと…お前の寂しいという気持ちも、こんな真似を
した動機も理解出来たから。…お前を蔑ろにしてまで、自分だけが幸せになろうとする
事は…もう出来ないし、したくないんだ…」

 泣きそうな顔になりながら、克哉はもう一人の自分に訴えていく。
 その顔を見て…本心で相手がそんな事をのたまっているのだという事実を認める
しかなかった。
 
「…それで、御堂と別れる事になってもか…?」

「…あぁ。そうだよ…。オレは本気で…あの人を愛しているし、別れたくなんてない。
だけど…オレの中にお前がいるのは事実なんだ。その事実から目を逸らしてまで…
どうしてオレだけが幸せに浸って生きれるというんだよっ!」

 克哉は…本気で、そんな馬鹿げた事を言っていた。
 最初はその言葉を疑った。
 こいつは正気か…? と頭の中を覗いてやりたい気分にすらなった。
 だが…この顔を見れば、嫌でも判る。
 これを演技で出来る程…もう一人の自分は器用な性分を持ち合わせていない。
 …眼鏡は、だから信じるしかなかった。
 今、コイツが言っているのは紛れもなく本心である事を…。

(…本気で、バカだな…コイツは…)
 
 いっそ、呆れるくらいだった。
 それと同時に…コイツに抱いていた憎しみや憤りが、次第にどうでも良いものに
変わっていく。
 その心境の変化は…いっそ清々しいものすら感じられた。
 毒気が抜かれた、という表現が一番正しいだろうか。
 だからこそ…眼鏡は少し、こんなふざけた事ばかり言う克哉を…試してやりたい。
 そんな気分になっていく。

「…お前は馬鹿か? 今なら…もっと簡単な手段で、幸せを掴めるだろう…?」

「えっ…?」

 お互いに密着しあう体制で…眼鏡の一言で、克哉はバッと顔を上げていく。
 それを見て…意地悪してやりたい気持ちになっていった。
 ―今から提案する事に対して、こいつがどんな答えを導き出すのか…
想像すると少し愉快、だった。

 相手の身体から、静かに離れていく。
 そのまま…眼鏡は真っ直ぐにキッチンの方に向かい…ステンレス製の包丁を
一本手に持って…部屋の方に戻ってくる。
 薄暗い室内でも、月の光を反射させて…包丁の刃がキラリ、と輝いて
自己主張をしていた。

「…な、んで…」

 そんなものを持ち出された事に…克哉は目を見開いて立ち尽くすしかなかった。
 眼鏡は…呆けているもう一人の自分の顔を、愉しげに見つめながら…悪魔の
囁きを口にしていく。

『今なら…俺たちはこうして、別々に存在している。…それなら、御堂と別れるリスクを
犯してまで…俺の存在まで受け入れて貰おうとしなくても良い。
 …この状態で、お前の手で…俺を殺して、消してしまえば良いだけの話だ。
 そうすれば…御堂とこのまま…幸せな日々を続けられるかも知れないぞ?
 さあ…どうする? <オレ>…?」

 そう、今なら…確かに眼鏡の意識は克哉の中で生きている訳ではない。
 Mr.Rの柘榴の実の魔力を借りて…別々の肉体を持って同時に存在出来ている。
 この状態なら…自分達は一蓮托生ではない。
 克哉がもし、眼鏡の意識を殺す事を選べば…同一存在ではなく、「他人」として
彼の存在を葬り去る事が出来るだろう。
 それを踏まえた上で…眼鏡は提案していった。

 そうして眼鏡はもう一人の自分の手に今持ってきた包丁を、そっと握らせていく。
…そのまま克哉の前で目を閉じて…身を差し出すように…その場に立ち尽くしていった

 体中が、痺れている上に…頭がボウっとなって自由が利かなくなっていた。
 洗面所に凭れかかる格好から、どうにか立て直そうと…腕と足に力を込めていくが
まったく動けない状態になっていた。

(なんだよ、これ…金縛りにあったみたいに、動けない…!)

 その現実に愕然となりながらも、相手の姿はゆっくりとこちらの方に歩み寄り…背後から
覆い被さっていく。
 首筋に…鋭い痛みを感じて、ギュっと目を瞑った。

「やめっ…!」

「…あれだけ強く、俺を呼んでいた癖に…随分と連れない態度だな…<オレ>…?」

 そうしている間に、ふいに胸の辺りを弄られて…Yシャツのボタンを外されながら
胸の突起を弄られて…全身に鋭い快感が走っていく。
 優しく其処を摘まれて、捏ねられていきながら…ふいに強く押し潰されるように
刺激を与えられて、克哉は思わず身体を跳ねさせてしまった。

「んぅ…バカ、止めろってば…! こんな事を、したくて…オレは、お前を…呼んだ訳…
じゃない…!」

「…そうか? お前は今…柘榴を齧って、以前に俺とどんな時間を過ごした事があるのか
思い出したんじゃないのか…?」

 耳元で、そんな言葉を囁かれながら…胸板全体を揉みしだかれるように愛撫を
施されていく。
 気づけば相手に抱き起こされる格好になり…自分の脇の下に、相手の両腕が通されて
鏡の中にお互いの顔が映っていた。
 上気して、真っ赤になっている自分の顔と…楽しげに口元を歪ませている相手の顔が
同時に映されていて…余計に羞恥が強まっていく。
 身体は、何かの呪縛に遭ってしまったかのように…まったく自由が効かなかった。
 だから今の克哉は…相手の成すがままになるしかない。
 必死になって身体の自由を取り戻そうと…試みていく。
 そうしている間に、眼鏡の手は…克哉のズボンのフロント部分を彷徨い…ジッパーを
引き下ろして…克哉の性器を其処から取り出していった。

「っ…!」

「…ほら、な…。身体は…正直だ…。俺とどれだけ気持ち良い時間を過ごした事が
あるのかを思い出して、思いっきり…勃っているぞ…?」

 相手の言う通り、鏡の中には…しっかりと勃ち上がった己の性器と…握り込まれて
先端の割れ目を執拗に弄られて…蜜を溢れさせている様が如実に映し出されていく。
 こんな光景…目を逸らしたいのに、まったく逸らせない。 
 逆に何かに魅入られたかのように…相手の手が、ネチャネチャと糸を引かせて…
己の性器と胸の突起を鏡の前で弄る様から、目を離せなくなってしまった。

「やだ…止めろ、ってば…! あぁ…!」

 だんだんと追い上げられて、呼吸が荒くなっていく。
 それでも反射で身体が震えるだけで…克哉の意思では、指一本動かす事も抵抗
する事も出来ない状況が続いていた。
 相手の手が…早くなり、克哉の全身がビクビクビク…と絶え間なく震える。
 鏡の中の自分の感じる部位と、相手の弄られる場所から…視線を逸らすことすら
出来ずに…克哉の意思とは関係なく、身体は追い詰められていく。

「ひゃあ…!」

 布地越しに、ダイレクトに相手の昂ぶりを蕾に感じて…ゾクリ、と背筋に
悪寒に似た感覚が走り抜けていく。
 それが…合図となって、ついに堪えきれずに…宙に綺麗な放物線を描いていきながら
鏡に目掛けて…熱い精が解き放たれていく!

「…ほう。随分と勢い良く放ったじゃないか…? そんなに、悦かったのか…?」

 自分の背後から、凶悪な微笑を浮かべながら…もう一人の自分が羞恥を煽る
言葉を告げていく。
 克哉は答えられずに…ただ俯いて、この現状に愕然とするしかなかった。
 鏡の中に映る相手の冷たく怜悧な瞳に…こちらは縛り付けられているような、そんな
感覚だった。

(オレ…このまま、もしかして…コイツに、犯されてしまうのか…?)

 その現実に、一瞬心が挫けそうになった。
 相手の手が…ゆっくりと自分の下肢の衣類を外しに掛かっているのに気づいて
ぎょっとなった。
 瞬間…脳裏に描かれたのは…数日前に見た、恋人の御堂の本気で
怒った顔だった。

(ダメだっ! このまま流されたら…この間の二の舞じゃないかっ! これ以上は…
あの人を裏切るような真似…出来る訳が、ないっ!)

 その瞬間、口の端から血が滲み出るくらいに激しく己の唇を噛み締めていく。
 鋭い痛みが…一瞬だけ、ずっと立ちこめていた頭の中の白いモヤを吹き飛ばしてくれた。
 強い意志によって…僅かな時間だけ、克哉の呪縛は解けて…弾かれたように、その身を
翻して、相手の身体を思いっきり突き飛ばして自分の部屋の方へと駆け込んでいく。

「くっ…!」

 克哉の突然の反撃が意外だったのか…眼鏡は短く呻きながら壁に激突していった。
 窓からは煌々とした月光が静かに指し込み、暗い室内を淡い光が照らし出していた。
 ベッドに飛び乗って、その上に身体を転がり込ませていく。
 スプリングが軋む音が部屋中に響き、ゴロゴロと転がっていきながら…どうにか、その身を
起こして…荒い息を突いていった。

 はあ…はあ…はあ…はあ…!

 肩で呼吸をしていきながら、静寂を讃えた室内に…克哉の乱れた呼吸の音だけが
響き渡っていく。
 その中で…相手の黒いシルエットが…ゆっくりと闇の中に浮かび上がり…輪郭を
形作っていく。
 急ぐ事なく、一歩一歩…確実にこちらに歩み寄ってくるもう一人の自分の姿に
克哉の胸は…ドックン、ドックンと…乱れていくのを感じていた。

(…思い出すんだ! あの時…オレはあいつの本当の姿を見た筈だ…! それを
キチンと信じるんだ…!)

 奈落に相手を落とす瞬間に一瞬だけ見た「あいつの姿」
 それが…恐らく、相手の本質を現していた筈だ。
 必死になってその事実を思い出し…己の心臓の音を鎮めていく。
 今、犯されそうになった現実は…克哉に恐怖の感情を与えていたが…それでも
勇気を奮い立たせて、キっと相手の顔を藍色の闇の中で…見据えた。

「ほう…? まだ…そんな顔をする気力があるとは…な…。今夜のお前は
随分と骨がありそうだ…。こちらも楽しめそうだ…」

 ククっと喉の奥で笑いながら、ベッドの手前で…相手がこちらを見下ろしてくる。
 その目の光が…恐かったし、身が竦む想いがした。
 二人の強い視線が、空中で交差して…緊張した空気が室内に充満していく。
 ギシリ、と音を立てて…眼鏡がベッドの上に乗り上げていく。
 その瞬間、克哉は…覚悟を決めた。

(ここで勇気を出さないでこいつのペースに流されたままじゃあ…オレはあの人に
一生顔向け出来なくなる…!)

 ずっと、こいつに逢えたら絶対に伝えよう。
 そう決めていた言葉を何度も何度も復唱して…決意していく。
 これ以上、快楽に流されない為に。
 こいつを暴走させない為に。
 今、この瞬間に…自分が対峙して「実際のコイツの姿」を受け入れてやらなければ
何も解決しないのだから…!

「おい、<俺>!」

「…なっ?」

 強い口調で、相手を睨んで…克哉は呼びかけていく。
 それに一瞬だけ相手は虚を突かれて、呆けた顔を浮かべていった。
 その瞬間を見計らい―克哉は、自ら…相手の胸の中に飛び込み、
眼鏡の身体を強く強く…痛い位の力を込めて抱きしめていった―

  御堂に、もう一人の自分を込みで…受け入れてくれるかどうか、問いかけをしてから
すでに三日が過ぎようとしていた。
 今夜も自室で…銀縁眼鏡をしっかりと握り締めていきながら、洗面所の鏡の前で
克哉は深い溜息を突いていた。

「…どうしよう」

 もし、受け入れてくれるあのなら週末にこの部屋に来て下さいと、彼に言った。
 それまでにどうにかもう一人の自分と話して結論つけておくとも…だが、今の克哉は
それを何一つ果たせずに無為にこの三日間を送る羽目になっていた。

「…これだけ、オレが問いかけているにも関わらず…全然、あいつの方から
返答がない。眼鏡を掛けても…あいつの方が出る気配もないし…」

 もう一度、鏡の前で眼鏡を掛けて…自分の顔を凝視していくが、まったく人格が変わる
兆候すら感じられなかった。
 眼鏡を掛けても、自分は自分のままだし…今までに何度も感じていた、あの気が遠くなる
ような…頭がどこまでも冴え渡っていくような感覚は訪れてくれない。
 ただ眼鏡を掛けた、いつもの自分の顔が…鏡の中に映っているのみだ。

「…やっぱり、あの時…暗い穴の中にあいつの意識を放り込んでしまった事が
影響があったのか…?」

 月曜日の朝に…あいつが出ていた時。今にも御堂を犯そうとしていた時は、無我夢中だった。
 阻止する事以外、何も考えられなかった。
 だから勘定のままに相手から主導権を奪って、あいつを…奈落の底へと突き落としていって
やり過ごしたが…そのおかげが、この数日間…何を考えて、訴えかけようと…もう一人の
自分からまったくの返答がないままだった。
 すでに秋紀との間には、けじめがつけられている。
 後は…彼の言葉を聞いて、これからどうしていくか。
 それを問いかけたいのに…もう一人の自分の気配すら、今の心の中には感じられない。
 その事実に克哉は本気で歯噛みしたくなった。

「…どうして、まったく答えてくれないんだよっ! お前の事を…オレはちゃんと、今度からは
認めていきたいのに…! どうしてここまで、何も言ってくれないんだよっ!」

 眼鏡を外して、それを強く握り締めていきながら…克哉が叫んでいく。
 だがそれでも、部屋の中には重い沈黙が落ちていくのみだった。
 あいつの孤独をすでに知ってしまった。
 あれだけ心を凍えさせたのは、自分が彼の存在を認めようとしないで否定し続けたから
だという現実をすでに克哉は受け入れている。
 だからあんな孤独は二度と味あわせない。
 そう強い決意の元に、この三日間ずっと彼に心の中で訴えかけて続けているのに…
一言も言わず、気配も感じられない状態は…切なかった。
 そこまで自分は、彼に今は拒絶されているのだという現状を突きつけられている感じだった。

「くそっ…!」

 鏡を思いっきり叩いて、悔しげな表情を浮かべていく。
 手が痛くなるぐらいの力を、とっさに込めてしまっていた。

「どうして…! お前は何も言ってくれないんだよ…<俺>!」

 ついに堪えきれずに、克哉は叫んでしまう。
 いつまでも沈黙を保ち続けているもう一人の自分に、心底苛立ちを覚えながら―

―そんなにも強く、あの方を望んでいるのでしたら…お助けしましょうか?

 ふいに部屋中に、歌うような軽やかな声が響き渡っていく。
 その声だけが反響して、一瞬にして室内の空気は一変していった。

「…Mr.Rっ…?」

―えぇ、お久しぶりですね…佐伯克哉さん。お元気そうで何よりですよ…

 とっさに周囲を見回して、リビングの方までざっと視線を張り巡らせていったが…
声はこれだけはっきりするにも関わらず、謎の男の気配はまったく感じられなかった。

―どうやら、貴方はもう一人のご自分を今はどこまでも強く求めていらっしゃるようですね。
あまりにけなげな姿でしたので…少しだけ手助けをする気になったんですよ。
 …本当に、もう一人のご自分と対面なさりたいと…そう願うのなら、どうぞ…それを
一口齧りなさいませ…。甘美な味と体験を…貴方に齎すでしょう…

 まるで決められた演目の中の台詞を述べていくように、スラスラスラとまったく言いよどむ
気配も見せずに…男は軽やかに告げていく。
 その瞬間、克哉の目の前がボワっと淡い光を放っていき…陽炎のような揺らめきが短い
間だけ生じて、消えていく。
 そして…赤い柘榴の実が、其処に浮かび上がって…しっかりと存在していた。

「…柘榴が…?」

 あまりの不思議な光景に、つい克哉は息を呑んで…その果実を凝視していく。

―さあ、どうぞ。その実を齧れば…貴方が望む方との対面を果たせますよ…?

 迷う克哉を前に、謎の男は更に促していく。
 突然の事態に、惑い…混乱しながら、鼓動が随分と荒く忙しいものへとなっていく。

 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン…。

 自分の心臓の音がいつもよりもはっきりと強く自覚出来る。
 気づけば喉はカラカラで、強く握りこんだ掌には汗すらうっすらと滲み始めている。
 まさか…こんな形でもう一人の自分との会話が実現する事になるとは、克哉の予想の
範疇を超えていて…躊躇う気持ちの方が最初は強かった。

「…だけど、これ以上迷っていてもしょうがない…! 何よりのチャンスだと思って…
受け入れよう…!」

 キッっと鏡の中の自分を睨んでいきながら、決意して…その突然目の前に現れた
赤い果実を握り込んでいく。
 パクリと割れている断面から、思い切り一口…実を齧っていくと…鮮烈なまでの
酸味が、脳髄にまで駆け抜けていった。

 瞬間、ぐにゃり…と世界が歪んでいくような錯覚と感覚が…克哉を襲っていった。
 これは何度か、経験があった。
 その時、今まで意識の底に封じ込められていた記憶の数々が喚起されて…脳裏に
蘇って、克哉は愕然となっていた。

「この記憶は…そ、んな…!」

 だが叫び声が零れると同時に、体中から力が抜けていく。
 意識が、瞬間…遠くなり、洗面台の前で彼の身体は崩れ落ちていった。
 何も考えられない、指一本動かすのも…少しの間、億劫になっていく。

『おい…いつまでそんな処にヘタりこんでいるんだ…<オレ>』

 ふいに、聞き覚えのある声が…背後から聞こえてくる。
 ノロノロした動作でどうにか…相手の方を向き直っていくと…そこには、
スーツをきっちりと着込んでいたもう一人の自分の姿が…確かに、鏡に映って…
しっかりと、自分の後ろに存在していたのだった―

  ―あれから何度、御堂の情熱を身体の奥に注ぎ込まれたのか…目覚めた時、
克哉は覚えていなかった。
 窓から朝日が差し込んで、それによって克哉の意識が覚醒していく。
 時計の針は七時近く…いつもの起床時間になろうとしていた。

(…起きなきゃ、今日は…仕事があるんだし…)

 確か本日は、まだ火曜日…週末には程遠い筈だった。
 数時間前まで、絶え間なく抱かれ続けていたおかげで…体中に鈍い痛みと
筋肉痛が走っている。
 体中がお互いの体液と汗でベタベタした感じがするし、自分の中には…御堂の
精がまだしっかりと残されているのを自覚して…克哉の顔がカァ~と赤くなった。
 隣に横たわっている御堂の眠りは深いらしく、彼がゴソゴソと身動きしたくらいでは
起きる気配がなかった。

「…本当、昨日は…そのまま、死んじゃうかな…って少し、不安になったかな…」

 相手の安らかな寝顔を見て、そんな事を呟きながらその唇に小さくキスを落として…
それから、ベッドから降りていった。

「…このままじゃ幾らなんでも、会社に行けないしな…。シャワーくらいは…浴びておこう…」

 そうして、克哉は裸のままバスルームへと足を向けていく。
 程なくして、浴室の方から…シャワーの水音と湯気がゆっくりと立ち昇り始めていった―

                             *

 御堂が目を覚ました時…自分の傍らに克哉の姿がなかったので一瞬、ぎょっとなった。
 慌てて相手の姿を探していくが…ベッドの上には温もりすら残されていなかったので…
すぐに身を起こして、シャツだけを羽織った格好で克哉を探し始めていく。
 洗面所の方を見たが、すでに上がっているらしく…ガラス戸には水蒸気が残っているが
その向こうに人影は見られない。
 キッチンの方へと向かうと…そこにはYシャツ一枚だけを羽織った、何とも目のやり場に
困る格好で克哉は朝食の支度を整えていた。

「…あ、おはようございます…。御堂さん。今…オレもシャワーを浴び終わったばかり
なんですが…貴方も良かったら、さっぱりして来て下さい。食事はオレの方で…
用意しておきますから…」

「…あぁ、なら…その言葉に甘えさせて貰おう…」

 一瞬、そんな際どい格好でキッチンに立つ克哉の姿を背後から抱きすくめたいという
衝動に駆られたが、今の自分は…昨夜の行為の名残で、肌は汗でベタベタした感触が
残っている状態である。
 風呂に入り終わったばかりの人間に、現状では抱きつくのは嫌がらせに近いだろうと…
辛うじて理性を働かせて、彼もシャワーを浴びに向かった。
 …昨晩、胸の中に燻っていた憤りやモヤモヤも、散々…貪るように克哉を何度も抱いた事と
暖かいシャワーの湯を浴びた事でかなり晴れていた。
 さっぱりした状態でキッチンに戻ってくると…テーブルの上には二人分の朝食が並べられて
ほんわりと湯気を立てていた。

「美味しそうだな…昨晩は夕食を食べる暇すらなかったから、流石に空腹だしな…」

「…っ! えっ…まあ、そうですね。だから…朝ですけど、結構ボリューム多めに作って
おきました。…オレも、ちょっとお腹空いていますし…」

「…そうだな。あれだけ激しい運動をしておきながら、夕食ナシだったのはキツかったな。
昨日はその辺を考慮しなくて…すまなかったな、克哉」

 激しい運動、という言葉に…耳まで克哉の顔は赤く染まっていく。
 それはとても可愛くて…キスの一つでもしたい心境になったが…ここで彼にキスしたら
また妙に滾ってしまいそうなので寸での処で押さえ込んでいく。
 テーブルの上にはバターを塗った物と、ハムと蕩けるチーズを乗せてカリっと焼き上げられた
トーストが各一枚ずつ皿に並べられている。
 もう一つの皿には半熟の目玉焼きとベーコン二枚、それと切れ目を綺麗に入れられた
ソーセージが二本ずつ。
 もう一つの皿の上には大根とワカメ、ちりめんじゃこを散らして青じそドレッシングが
掛けられている和風テイストのサラダ。
 それに玉ねぎとニンジンのみじん切りをさっと煮込んで作られたコンソメスープがついていた。
 朝食にしては結構なボリュームがあって…良い感じだった。

「…孝典さん、味はどうですか…?」

「あぁ…美味しい。特に今は空腹だから…有難い。作ってくれてありがとう…克哉…」

「いえ、その…オレにはこれくらい、しか…出来ないですから…」

 そうやって頬を染めて、照れくさそうに言う様は…自分が良く知るいつもの克哉だ。
 昨日の朝に見た、冷徹な表情を浮かべて強引に抱こうとした眼鏡を掛けた彼や…ベッドの
上で淫乱と言えるぐらいに乱れて喘いでいる姿は、其処からは想像出来ない。

「うっ…」

「…どうしました?」

「いや…何でもない…」

 とっさに、昨日の克哉の艶っぽい姿を思い出して鼻血が出そうになった…とは
いい年した男が口が裂けても言える訳がないので、適当に流す事にした。
 サラダを食べる度にシャキシャキ、と大根を噛み砕く小気味の良い音が聞こえる。
 こういう時、彼が自炊にそれなりに慣れていて…そこそこ美味しい料理を作ってくれる
事に御堂は感謝を覚えていた。
 そのまま二人で無言のまま…朝食を食べ進めていく。
 いつもの自分たちに戻れたような…そんな錯覚すら覚えていく。
 だが…目が合った瞬間に見せる克哉の表情は、やはりどこか儚いままで…
見ている御堂の気持ちを落ち着かなくさせていった。
 そして…食事を食べ終わり、お互いに食器を皿の上に置いていく。
 其処で改まった態度で、克哉がこちらに語りかけて来た。

「…孝典さん。そのままで良いですから…オレの話、聞いて貰えますか…?」

「…あぁ、構わない」

 短くそう答えて、御堂は克哉の話を聞く体制を整えていく。
 スッと…その表情が変化して、引き締まったものに代わり…こちらを真っ直ぐに
見つめて来た。

「…ありがとうございます。…どうしても、貴方に言いたい事があったから…。
貴方は今、オレの事をどう思っているか…判らないけれど。もし…もう一つの
人格がある事を受け入れられない、と思うのなら…どうぞ、オレと別れて下さい。
それをお願いしたかったから…」

「何っ…!」

 食卓の椅子から、血相を変えて御堂が立ち上がっていく。
 だが…克哉の表情は、どこか達観しきったような静かなものだった。

「…君には、あれだけ抱いても…私の気持ちが伝わっていないのかっ! 別れたいなどと
思っている相手をあんな風に抱ける訳がないだろっ!」

「…えぇ、判っています。シャワーを浴びた後に鏡を見て…昨夜はどれだけ、貴方が
オレを愛してくれたか…驚いたくらいですから。けど…貴方が愛しているのは、あくまで
<オレ>の方だけであって…あちらは、そうじゃないんでしょう?
 けど…オレはもう知ってしまったから。もう一人の<俺>がどれだけ…貴方がオレだけを
愛している事で、苦しんでいたか…を…。だから…せめて…貴方に、あいつの存在を容認
して貰わない限りは…あいつはこれからも苦しみ続ける。
 けれど…あんな事をしたあいつを、貴方が受け入れられないというのなら…その時は、
別れる事も仕方ないと…オレは考えました…」

「そ、んな…」

 その言葉に、御堂は肩を震わせる事しか出来なかった。
 だが克哉の瞳は…強い意思を宿して、輝いている。
 
「…孝典さん。オレは…貴方を愛している。だからこそ…貴方を自分のエゴで縛りたく
ないんです。…あいつをひっくるめて、受け入れて欲しいと望む気持ちを押し付けるような
そんな真似をしたくないんです…。貴方にも、選択の自由はあると思うから…」

 泣きそうな顔をしながら、それでも瞳を逸らさずに…克哉は御堂に気持ちを伝え
続ける。今にも涙が溢れそうな…切ない表情を浮かべながら…こちらに選択を
する余地を与えようとする恋人の姿に…御堂は胸が引き攣れるような思いになった。

「…君はどこまで…残酷な問いを私に投げかけるんだな…」

 私にとって、残酷な問いかけと…選択を迫るのだろう。
 君だけならば、私の答えは決まっている。
 決して…君を自分から手放したりなどしない。それは誓って言える。
 だが…昨日、自分にあんな振る舞いをした…まったく別の意識の方までを容認出来るか?
 二重人格である事実までを全て受け入れてこれからも変わらず…付き合っていけるのか、
確かに自分でも迷う部分があった。
 その惑う部分を感じ取っているのだろう。
 克哉は…柔らかく微笑みながら、愛しい人に告げていく。

「…すみません。けど…この件をもうこれ以上、曖昧になど…したくなかったですから…。
…オレも週末までにはどうにかもう一人の自分の件をケリつけておきます。
ですから…もし、あいつの存在込みでこれからもオレと付き合って下さると…そう思えたの
なら、今週の週末にこの部屋にもう一度…来て下さい。
 貴方が来ないままでしたら…オレはそれで、この恋を潔く諦めます、から…」

 瞳を閉じて、何もかも観念したような…そんな顔を克哉が浮かべていく。
 全てをこちらの選択に委ねて、克哉はその運命を受け入れると言い張った。
 その言葉の奥にある真意の重さに…御堂は、呻くしかなかった。

「克哉…」

 だが、御堂もまた…それ以上の言葉を続けられなかった。
 眼鏡の方の意識も込みで、君を受け入れる。
 そう即答出来ない自分に腹が立ってしょうがなかった。
 だが…昨日の朝の、あまりに豹変した克哉に無理やり組み敷かれた時の恐怖や
惑いの感情が…彼の思考を鈍くさせていく。
 …悔しいが、確かに…落ち着いて考える時間が今の自分達には必要なのは
事実、だった。

(…あいつを受け入れなければ、私は…君まで失う、というのか…?)

 御堂はその事実に愕然となりながら…克哉を見つめていく。
 あれだけ昨晩は腕の中に抱きしめ続けたのに、愛しいと思いながら情熱を
注ぎ込み続けたのに…今は、互いの心がどこまでも遠く感じられていく。

「…ごめんなさい。それは貴方にとって…酷な事だとは承知しています。
けれど…あいつもまた、紛れも無いオレの心の一部なんです。それを恐れたり
蔑ろにしたから…あいつは暴走して、こんな事態を招いてしまった。
 だからオレは…心の中にあいつが存在している。その事実から逃げる事は
もう止めたいんです…。其処にいるのに、存在を否定され続ける。
 それはどんな人間だって…辛くて、仕方ない事でしょうから…」

 一筋の涙を頬に伝らせながら、克哉は…穏やかな声で告げていく。
 その一言に、御堂ははっとなる。
 だが…今はまだ、グルグルと迷いが生じて…はっきりした答えを出せずにいた。

(愛している、のに…! 私は…こんなに、君を…!)

 歯噛みしながら、自分達の間に今広がっている…溝の大きさに御堂は憤るしか
なかった。
 朝の光が注ぐ中…二人の間に、沈黙が落ち続ける。

『君もあいつも、全て受け入れる!』

 今、この瞬間にその覚悟を決めて…彼にそう言ってやれない自分の器の狭さと
弱さに、本気で御堂は怒りを覚えていた。
 そんな彼を…克哉は、席を立ってフワリと抱きついて口づけていく。
 
 心を通わすキスじゃなく、それは惑い苦しむ御堂の心を少しでも慰める為の口付け。
 
 その口付けを受けて…とりあえず身体の力を抜いて、その優しい感触に御堂は
身を委ねていく。
 こうして触れ合っていても…今はまだ、どこかお互いの心が遠い現実が…
少し、悲しかった―
 相手を腕の下に組み敷きながら、自分はどれだけ…先週の週末から、この年下の
青年に翻弄され続けているのだろうか…と自嘲したくなった。
 週末に彼が連絡なく、自分の下に来なかった時は…まさか事件に巻き込まれたんじゃ
ないかと気が気じゃなくて、警察に秘密裏にまで捜索を依頼していた程だし。
 今日、定刻が終わるとすぐに飛び出した彼を追いかけて…地下鉄で撒かれた時は
自分なりに必死になって…彼が一番、立ち寄る可能性が高い場所はやはり自宅だろうと
踏まえて…何時間かここで粘って克哉を待ち構えるつもりでいた。

(まさか着いた早々…あんな場面に遭遇するとは思ってもみなかったがな…)

 御堂が立ち会ったのは、会話の途中からだった。
 階段を登って…克哉の部屋へ向かおうとした矢先に…恋人が見知らぬ美少年を
必死に抱きしめて…怪しい人物から眼鏡を…という会話が始まった辺りから
御堂は一部始終、二人のやり取りを眺めていた。
 話している内容は、信じがたいものばかりだった。
 今朝の一件がなければ…御堂は一笑に付して、二人の正気を疑っていた事だろう。
 だが…別人のような態度と口調になっていた時の彼に、無理やり抱かれそうになったが
為に…御堂は、克哉の打ち明け話を信じる気になっていた。
 
「克哉…」

 憤りと愛しさを込めた口調で、相手に呟いていく。
 シャツの上から、乱暴に胸の突起を弄りながら…噛み付くようなキスを暫く続けていった。

「ん…ぁ…たか、のり…さ、んっ…」

 唇の周辺を、充血するくらいに歯で食んでいって…濃厚に熱い舌先を這わせ続ける。
 相手を煽るようなキスを続けていく度に、己の中に…凶暴な衝動が育って、抑えが段々と
効かなくなって来る。
 乱暴な手つきで相手のシャツの襟元に手を掛けて、ボタンが弾け飛ぶぐらいの力を
込めて…Yシャツを破いていった。
 其処から露になる…首筋と胸元。その周辺に…まだ生々しい色合いの、自分がつけた
記憶がない赤い痕を見つけて…一瞬、御堂は本気で怒りを覚えた。

「…それ、は…。その赤い痕は…何だ…?」

「…っ!」

 思わず呟いてしまった瞬間、瞬く間に克哉の顔が蒼白に変わっていく。
 その反応で…大体判ってしまった。
 これは…もう一人の克哉が出ている時に、あの少年が必死になって…この身体に刻み
込んだ痕だ。
 傍から見ていていじらしい態度を取っていた子だ。
 彼なりに必死になって…自分の痕跡を、この身体に残そうとしたのだろう。
 そこら辺の事情は読めるし、汲み取れる。だが…。

(これは…私のだ…)

 そう、今は…克哉の恋人は、紛れもなく自分だ。
 他の誰かが刻んだものなど、決して許してやるつもりはない。
 御堂にとって、今は…克哉は絶対に手放したくないぐらいに愛しく、大事な存在だ。
 だから…彼の首筋に思いっきり吸い付いて、上書きしていってやる。
 …他の誰かが残したモノなど、一片もこの身体に残しておきたくはないから―

「っ…痛っ…あ、はっ…」

 何度も何度も吸い付かれながら、やや乱暴な手つきで充血しきった胸の突起を
こねくり回されていく。
 その度に…克哉の顔は赤く染まり…苦しげな呼吸を繰り返していきながら…
腰を何度もくねらせていった。

「…我慢するんだ。他の誰かがつけた痕を…君に残しておきたくなど、ないから…」

「…ぁ…。は、はい…。貴方の、好きなように…して、下さい…」

 低い声音で囁いた御堂に、克哉は大人しく自分の身体を投げ出していった。
 今夜、男も可愛い恋人も互いに行為に対して積極的だった。
 相手の足の間に…何度も何度も、己の欲望を擦り付けて煽っていくと…克哉の方も
身体が期待して疼いているのだろう。
 その度に自分からも擦りつけ返して、こちらを挑発するような動きを取っていく。
 だから…相手の足から下着ごと、一気にズボンを引きおろして…M字開脚するような体制に
なると同時に…相手の両手首を身体の前でタオルで縛って固定してしていく。

「た、かのり…さん! 何を…!」

「…お前が今夜は、好きにして良いと言った。大人しくしていろ…」

 その一言を出されたら、今の克哉には逆らう術がない。
 …結局、御堂の成すがままになって…今夜も手首を縛られる形になっていた。
 こうされると…彼に抱きつく事も、疼く部分を自分でさりげなく弄ることすら出来なく
なってしまうので…克哉としてはもどかしくて仕方ない。
 だが…御堂の瞳の奥に、ゾクリとするくらいに獰猛なものを発見して…その眼差しに
晒されているだけで…克哉はゾクゾクして堪らなくなる。

「…良い格好だ。君はいつも…私にここを触られると、堪らないって顔をするな…」

「あっ…はっ!」

 御堂が、克哉の顔と下肢を交互に見つめながら…枕元にこっそりと置いてあった
ローションをたっぷりと肌の上に落としていく。
 ジェル上の冷たい液が…自分の肌に落とされて、一瞬その冷たさに皮膚が粟立つ。
 だが…すぐに御堂にペニスと蕾を同時に弄られて、身体の奥に熱が灯ってそれ
処ではなくなっていった。

「もう…ヒクついているぞ…。ここは本当に淫乱で、貪欲だな…」

「ひっ…ぃ…!」

 反り返るぐらいに張り詰めたペニスの先端と、アヌスの奥の…すでに知り尽くされた
前立腺の部位を指の腹で同時に責められて、克哉の身体がビクリと震える。
 だがそんな反応くらいで御堂は容赦してやるつもりなどない。
 そのまま…性急に指の数を増やして、相手の蕾の中を擦り上げていってやる。
 相手が感じる場所を念入りに擦り上げていってやれば…その度に克哉の身体は
活きの良い海老か何かのように跳ね上がって、御堂の腕の下で悶え続ける。

「やぁ…そこ、ばかり…し、ないで…っ! おかしく、なります…から…!」

 あまりにも強烈な感覚が全身を走り抜けていくのに、それだけじゃ物足りなくて
克哉は腰を揺らしながら…相手の顔を真っ直ぐに見つめて懇願していく。
 その瞬間にギュっと性器を握り込まれて…痛みと快感が入り混じった強烈過ぎる
感覚が背筋を走り抜けていく。

「いっ…っ…!」

「…いっそ、おかしくなれば良い。他の事など、一切考えずに…君はただ、私が
与える感覚だけに悶えて…善がり続けていろ…」

 低く、凶暴ささえ孕んだ声で…耳元に囁いて、耳朶に思いっきり歯を立てていく。
 そのまま耳の奥まで舌先で犯されながら…性器とアヌスを同時に弄られる。

 ピチャ…クチュ、チュクチュク…と脳裏に厭らしい水音がダイレクトに響き渡る中で
部屋中に響くぐらいに激しく先走りを性器に塗り込められて、蕾の奥にたっぷりと
ローションを送り込まれて…執拗に掻き回され続ける。
 こんな状況で正気でいろ、という方が無理だ。
 瞬く間に御堂の与える感覚だけに支配されて…克哉は顔を真っ赤に染めていく。
 大事な人の顔は…この段階になっても、いつものように優しく微笑む事などまったくなく…
瞳と表情に張り詰めたものを感じさせていた。

(やっぱり…孝典さん、本気で怒っているんだな…)

 相手の強張った表情を見て、それだけでズキリと胸が痛んで…瞳に涙が浮かんでくる。
 それでも…自分に泣く資格など、ない。そう言い聞かせて…御堂が与えてくる感覚に
だけ集中していった。
 自分の性器は、先端から黒ずんだ穴が見えるぐらいにギチギチに張り詰めていて。
 御堂の指で責められ続けたアヌスは…貪婪に相手の指を締め付け始めている。
 前立腺ばかりを執拗に擦られ続けたら、もう駄目だ。
 痛いぐらいに相手の指を食んで、自分の意思とは関係なく…御堂の骨ばった綺麗な
指先を決して離そうとしなくなっていた。

「んんっ…やっ…! ダメ、です…! いっ…ぁ…!」

「もう良いな。抱くぞ…」

 克哉の身体の震えが大きなものに変わっていくのと同時に…御堂は指を一気に
引き抜いて…問答無用でその身体に熱く猛った性器を捩じ込んでいく。
 すでに何度も身体を繋げてきた間柄だ。
 あっさりと御堂の怒張したモノを、克哉の内部は受け入れていってしまう。

「ひぁっ…!!」

 最奥まで突き入れられると同時に、早くも激しく腰を打ち付けられていく。
 パンパン! とお互いの肉がぶつかりあう音が…藍色の闇に染め上げられた部屋中に
響き渡っていく。
 御堂の熱い性器が、克哉の弱い処を容赦なく攻め立てていく。
 その度に克哉は…息すらも苦しくなって、必死になって口を喘がせていった。

「ん、くっ…! 待って、下さい…! いきなり、そんな…の、は…!」

「黙るんだ…今は、君を食い尽くしてやりたい…ぐらいの、気持ちだからな…!」

 そのまま根元まで埋め込まれて、ズンと体重を掛けられていく。
 余りの衝撃に、克哉は…全身を身悶えさせる。
 拘束された不自由な手で…どうにか自分の肌に爪を立てて、甘美な責めに
どうにか耐えていくしかない。
 耳元を犯していた御堂の舌が、今度は克哉の唇を再び強引に塞いで…上も下も
彼だけで満たされていく。

「んんっ…ふっ…ぅ…!」

 時々、舌の根まできつく吸い上げられて…口元に血が滲むぐらいに…激しい
キスが続けられていく。
 ここまで荒々しく抱かれるのは…自分が想いを告げた時以来の事で。
 だからこそ…克哉は御堂の与える熱に、夢中になって追いすがっていく。
 自分の内部に、御堂の脈動をしっかりと感じ取り。
 重なり合った肌からはドクンドクンと、荒く強い血潮の音が伝わってくる。
 埋め込まれた楔は…どこまでも克哉を甘く、激しく奔走させて。
 接合部からは…お互いの体液とローションが入り混じって…物凄く
淫靡な音を其処から響かせ続けていく。

 ヌプ…グプっ…グチャリ…ネチャ…!
 
 粘性のものが絡まりあう濃厚な水音に、それだけで耳を塞いでしまいたくなる。
 それでも…今の自分にはそれすらも叶わない。
 イヤイヤするように頭だけを振り続けて…克哉は御堂が与えてくる感覚に必死に
なって耐えていくしかなかった。

「克哉…克哉っ!」

 御堂が切羽詰った声音で自分の名を呼び続ける。
 自分もまた、彼の名を呼び返したいのに…漏れるのは荒い呼吸と、喘ぎ声ばかりで…
まともな言葉になってくれなかった。

「た、…ハア・・・! か…んぁ…! のり…ぅ…さ、…あぁ!!」

 自分の身体の奥で、もう限界寸前まで相手が膨張しているのが伝わってくる。
 先走りがジュワっと、内部で滲んでいるのを感じるだけでもう駄目だ…。
 こちらの身体も歓喜に震え、期待しているように震え続ける。
 
「いっ…あっ…!」

 全身に、いつもと同じ…いや、遥かに強い快楽の波が走り抜けていく。
 あまりの強烈な感覚に、頭が真っ白になって…もう何も考えられなくなる。
 お互いの肉がぶつかりあい、絡み…激しい律動となって…一体になっていく感覚に
克哉は飲み込まれ、もうそれ以外の事など一時…頭の中からぶっ飛んでいく。

「ダメ…たか、のり…さっ…! オレ、もぅ…ダメ、ですっ…!」

 もう最後の方は快楽の涙を溢れさせながらの懇願だった。
 それでも御堂は決して容赦などしてくれない。
 こちらの意識が途絶えるくらいに、激しい責めを最後まで続けて…そして、
最奥に熱い精を注ぎ込んでいく!

「いやぁ…あぁ!!」

 首を大きく仰け反らせながら、克哉はその強烈な感覚を享受していった。
 あまりに感じすぎて、喉もカラカラで…全身のアチコチが痛いぐらい、だった。

(もう…ダメ、だ…意識…が…)

 あまりの疲労感と、快感に…克哉の意識は今夜もまた、一時途絶えていく。
 …意識が落ちる瞬間に、それでも御堂の唇を…一瞬だけ感じ取れた事が
少しだけ、嬉しかった。

(まだ…貴方はオレに、執着して…くれているんですね…)

 自分の罪の意識で苦しいぐらいだったけれど。
 激しく責められるように抱かれて。
 最後の小さな優しいキスで少しだけ…克哉は救われていく。

 そのまま…大きな波に浚われていくかのように…。
 一時、克哉の意識は闇の中に飲み込まれていった―

 

 


 
 

 昼と夜の狭間である逢魔ヶ時。
 黄金と橙に彩られた日暮れと、藍色の夜の帳が混ざり合い…空の中で複雑な
グラデーションが作られていた。
 克哉がその場に座り込んでから、どれくらいの時間が経過した事だろうか。
 ふいに自分の目の前に大きな人影が立ちはだかっていた。

「立て…」

 その人物の声は極めて不機嫌そうで、思わずハッとなって顔を上げていく。
 相手の顔を見て愕然となる。
 唇を震わせながら、克哉は信じられないという表情になった。
 其処に立っていたのは…紛れもなく、自分の恋人の御堂だったからだ。
 恋人関係になってから、ここまで不機嫌そうな彼は見かけなくなっていただけに
一瞬、克哉はその場で竦んでしまっていた。

「…どう、して…」

「…良いから、立て。ここでこれ以上の話はマズイだろう」

「っ…!」

 強引に二の腕の部分を掴まれて、その場から立ち上がっていくと…御堂は部屋の
前まで克哉を連れていく。

「鍵を貸せ」

「は、はい…」

 有無を言わせる隙すらない御堂に、克哉は逆らう事なく…自分のスーツのポケットから
自宅の鍵を取り出して渡していく。
 それを使ってやや乱暴に部屋の鍵を開けていくと…痛い位の力を込めて、克哉の腕を掴んで
室内に駆け込んで、鍵を内側から掛けていく。
 カチャリ、という音に淫靡なものを感じて…つい、克哉は息を呑んでいった。

 ドカドカドカっ!

 平素の御堂からは考えられないくらいに乱暴な足取りでベッドまでの道のりを
進んでいく。
 そのまま手荒な動作で寝具の上に引き倒されていくと…御堂は容赦なく克哉の上に
乗り上げて…きつい顔をしながら、やっと本題を口にしていく。

「…あの少年は何だ…?」

 怒りを押し殺した声で、御堂が問いかけてくる。
 その言葉を聞いて、克哉の顔は蒼白になっていった。

(御堂さんに…もしかして、見られて…いた…?)

 あの自分が秋紀に対してけじめをつけていた時を、この人に見られていたのだろうか?
 そうでなければ…後から来た御堂が、秋紀の事を話題に上らせる訳がない。
 その事実に気づいて、克哉は…顔を強張らせるしかなかった。

「…聞こえなかったのか? 君が…部屋の前で抱き合って、顔をクシャクシャにしながら
全力で謝って…キスしていたあの少年は一体、何だ? 信じられない事ばかりを
君たちは話していたが…」

 今度はかなり具体的に、御堂が問いかけてくる。
 それを口に出されて、最早…観念するしかなかった。
 克哉は後で必ずこの人の処に行って、事情を話すつもりでいた。
 だが…秋紀との話が終わった直後にこの人が現れて、こんな事を尋ねられるのは
正直想定外の事で…克哉はその場に黙り込むしかなかった。
 しかしそこまで見られていたのなら、誤魔化す事など出来ないだろう。
 覚悟を決めて…御堂に真実を話していく。

「…九ヶ月前に、眼鏡を掛けた<俺>と…一夜を過ごした子です。それであの子は…
ずっと<俺>の事を忘れられずに…先週の週末に、この家まで押しかけて…
<俺>に会いに来たんです…」

「…先週の週末、に? …という事は、まさか…君は…」

「…はい。御堂さんの処に行かず…眼鏡を掛けた<俺>は…週末をあの子と
二人きりで過ごしていました…」

 その言葉を発した瞬間、御堂の瞳の奥に…憤りの光が宿っていた。
 しかし…怒鳴り散らしたい衝動を押さえ込んで、もう一つ…御堂の中で燻り続けていた
大きな疑問を克哉に投げかけていった。

「…そうか。じゃあ…もう一つ聞かせて貰う。…今朝の眼鏡を掛けた君は…何だったんだ?」

「…オレのもう一つの姿。…以前、貴方に相談した時は信じて貰えませんでしたけど…
あの銀縁眼鏡を掛ける事で現れる、もう一人の<俺>です…。物凄い有能だけど傲慢で、
意地悪で…人を支配したり、踏みつけたりする事を躊躇わない…そんな存在です…」

「君が言っていた…『もう一人の自分』という奴か…? 本当に…そんな物が君の中に
いたというのか…。いや、正直聞かされた時は半信半疑だったし、一度見ていたが…
あの今朝の変貌振りは…信じざるを、得ないな…」

 そうして…間近で、お互いの瞳を覗き合う。
 自分の上に圧し掛かっている御堂との間に流れる空気は…こんな状況でも決して
甘いものではなく…むしろ、ほんの僅かにバランスを崩しただけで釣り合いが取れなくなる
天秤のような危うさがあった。

「…では、もう一つ…。あの少年と君は…どんな関係だ?」

「…もう一人の<俺>にとっては…一夜を過ごした相手。そしてオレにとっては…
その件で罪悪感を感じざるを得なかった存在です…」

 それでも、真摯な相手の問いかけに…一切目を逸らすことなく克哉は正直に
答えていく。
 本当は、出来る事なら決して知られたくなかった自分の罪。
 この人を好きだからこそ…それを知られるのが恐かった。
 付き合い始めてからの半年、密かに暴かれてしまうのを怖れていた。
 だが…もう、こうなった以上は隠し通す事など出来やしない。
 覚悟を決めて、克哉は…御堂と向き合っていた。

 その後…二人の間には張り詰めた空気が訪れる。
 ただ…夕暮れの光が強烈に差し込む室内で、二人は…お互いの肌が触れ合う
距離で…相手の瞳を凝視していく。
 先に、動いたのは…御堂の方だった。

「くそっ…!」

 御堂の顔が、苦痛そうに歪んでいく。
 これが現実だという事は、判っていた。
 自分の下に彼が来なかった理由も…突然、彼が別人のように豹変して…このような事態が
起こった事ぐらいは判っていた。
 だが頭がグルグルして…思考が纏まらない。
 自分の胃の奥から、不快な感情が迫り出して来て…胸までムカムカしていった。
 ここまで克哉相手に憤りを、強い怒りを覚えたのは…交際してからは初めての経験で、
その強い感情に御堂自身も戸惑うしかなかった。

「…君を、責めたってどうしようもない事ぐらい…判っているっ! だが…どうして、も…
許せないっ! 君に私以外の人間が触れた事を…!」

「…っ!」

 そのまま御堂は噛み付くように克哉の唇を塞いでいく。
 行為の荒々しさに、一瞬…身が縮みそうになった。
 克哉が怯んでいる事は、御堂自身も感じ取っていたが…それで止めてやる気配など
一切見せてやらず…相手の中に舌を乱暴に差し入れて…問答無用で口腔を犯していく。
 グチャグチュ…と濡れた水音が脳裏に響き渡る。
 一息突く暇すらなく、呼吸できなくて肺が悲鳴を上げそうだった。
 それくらいにいつになく激しいキスを施されて、克哉は必死にもがいて…僅かな隙間が
生じた時に、苦しげに訴えていく。

「…っ! はぁ…御堂、さん…苦しいっ…!」

「黙っていろ…。この責任は…君に取ってもらう…。今は、到底…これ以上の言葉は
冷静に聞けそうなど、ない…! だから…!」

 足を開かされて、その間に…御堂の身体が割り込んでくる。
 下肢の狭間に…あからさまな欲望を感じて、克哉は一瞬竦んだが…すぐに気を取り直して
自分の方から、御堂の身体を抱きしめ返していく。

「…判りました。貴方の怒りの原因は…全てオレにあります…! だから…貴方の好きな
ようになさって下さい…孝典、さん…」

 そうして、克哉の方からも御堂に口付けて…荒々しい口付けに応えていく。
 二人分の体重のせいで、克哉のベッドはギシリと重い軋み音を立てていた。
 両者の空気が極めて濃密になるのと同じ頃…窓の外では完全に日が暮れて、空に
真円を描いた月が静かに浮かび始めていた―
 

  陽はかなり傾いて、周囲が夕暮れに染め上げられる頃。
沈黙し続ける二人の間に、優しい風がそっと吹きぬけていく。
 まるで花が綻ぶように…柔らかい笑みを浮かべながら秋紀が言葉を続けていった。
 
あは、克哉さんってば本当に驚いていますね。けどそれくらいの事ぐらい
判りますよ。だって僕、この二日間沢山、あの人に大好きって言ったんですよ。
けどその度に、あの人は曖昧に微笑むだけで同じ言葉は、一度も返して
くれなかったから嫌でも、判っちゃいました

「そう、なんだ

僕の事を好きなら、絶対に同じ言葉を返してくれる筈だしそれ以前に
九ヶ月も僕は待つ事なかったと思う。曖昧に微笑むあの人を見て僕、やっと
その現実を受け入れられたんです

 ショックを隠しきれない克哉を前に、出来るだけ明るい口調で秋紀は言葉を
続けていった。
 それは想い続けていた秋紀にとっては、耐え難いぐらいに切ない現実だった。
 ただそれも最初に告げた、このまま会えないままだったらという視点で考えれば
まだマシな事だった。
 自分を抱いていた眼鏡はどこか悲しげで、苦しそうな顔をしていたから。
 胸の中にある憤りや、やり場のない感情を自分の身体の奥に注ぎ込んで、その
苦痛に耐えている。そんな気がしたから

ほんの少しでもこの人の痛みを癒せるならそれで良い

 少年はそんな極地に至って、相手の曖昧さを結局赦したのだ。
 その事を思い出しながらも。顔を苦しげに歪ませることなく瞳から透明な涙を
溢れさせながら自分自身の感情を整理していく為に、秋紀は言葉を紡ぎ続ける。

良く考えれば、最初からあの人は僕に対してそっけなかったし。
 あの後に二回クラブに顔出してくれた時もどちらも冷たくて、突き放すような
態度と言葉しかしてくれなかったし!」

 その時の事を思い出して、悔しくて一瞬だけ眉根を寄せていく。
 一度は抱いた癖に、あんなに冷たい態度ばかりを取る克哉が信じられなかった。
 自分の容姿は男女構わずに、沢山の人間がチヤホヤしてくれていた。
 それに慣れていた秋紀に取って、自分が最後まで許したにも関わらずにあんな酷い
物言いと態度を取る眼鏡は理解出来なかったし、信じられなかった。

『勘違いするな。俺とお前は、ただ行きずりでセックスを楽しんだだけの関係だ。
それ以上でも、それ以下でもない。俺が何をしようとお前には関係ない筈だ』

 そんな冷たい事を言う男だった。
 一度抱かれた夜から、自分の胸の中はこの人のことでいっぱいだったのにその
相手に突き放されるような事を言われて、秋紀は絶望に追いやられていた。
 直後に、蕩けるようなあんなに甘いキスを道端でされて腰が抜けそうになって
二度と忘れる事が出来なかった。

 もう一度会えた時には、あの人の言うそれ相応の態度という奴をしよう。
 あんな当てつけみたいな態度や、拗ねたりしないでもうちょっとだけ可愛い態度を
取るようにしよう。
 そんな殊勝な事を考えながら秋紀はあのクラブで二ヶ月以上も、一人で飲んで
克哉を待ち続けていた。
 だがその日以来、ぷっつりとあの人は来なくなった。影も見かけなくなった。
 会えない日々が気づけば秋紀の中で幻想を育んでいたのだ。

 克哉と両思いになる幻想を

 本気で自分はあの人の事を好きなのだから、見つけ出せばきっとあの人はこの
気持ちに応えてくれる筈だと。
 眼鏡を探して追い求めている間、その気持ちは膨れ続けていった。
 どうしてあの人が自分の下に来なくなったのか。その理由を考えたり想像したりせずに
自分にとって都合の良い幻想だけを抱いて酔っていた。
 秋紀はこの二日間で、その事実に薄々と気づき始めていたのだ。

「けど、だから僕はあの人に優しくされたかった。僕だけを見て僕だけを
愛してくれて、ずっと一緒にいる日を夢見て、いました

 秋紀の言葉に、ズキンと克哉は胸が痛くなった。
 それは自分が、御堂に抱いていた感情と極めて酷似していたからだ。
 自分と御堂の関係も、随分と酷い処からスタートしていた。
 こんな冷たい男だったと、どれくらい絶望して最初は傷つけられた事だろう。
 だからこそほんの少し見せてくれた優しさが嬉しくて、どんな人間よりも
自分の心の中に入っていった。
 気づけば自分の中で存在が大きくなって、たった十日会えないだけで苦しくて
気が狂いそうになっていた。
 秋紀は、自分よりもうんと長い時間あの苦しい気持ちを抱き続けていたのだ。
 そこまで思いを馳せた瞬間克哉はただ、泣くだけの事しか出来なくなっていた。

(本当に、御免秋紀、君!)

 もう、何も言えなかった。
 御免なさいと言う資格すら自分にはないような気がして、克哉はただ涙で
頬を濡らし続けた。
 それを肩口に感じて秋紀は切なそうに瞼を閉じる。
 どれくらいお互い言葉もなく相手を抱きしめ続けていたのだろうか。
 先に口を開いたのは、少年の方からだった。

僕の為に、貴方はこんなに泣いてくれるんですね。参ったなこれじゃあ
貴方を恨みたいのに、僕恨めなくなっちゃいます、ね

 どこまでも力なく、秋紀が呟いていく。
 やっとお互い相手の肩口から顔を離して、向き合っていった。
 両者とも泣きはらして目も赤くて、グチャグチャの顔だった。
 克哉のその顔を見て秋紀は思いがけず、フワリと笑った。

「克哉さん一つだけ、僕の最後のお願い聞いてくれますか?」

オレに出来る事だったら、何でもするよ。オレにはそれくらいしか君に
報いる事が出来ないから

ありがとう、ございます。本当は貴方にこんな事を頼むのは凄く残酷だって
いう事くらい判っているんですけどね。最後にもう一度だけで良いんです。
眼鏡を掛けた克哉さんの方に会わせて、お別れを言わせて下さい。
それで僕は、この恋を諦め、ます

 その一言は、秋紀にとって断腸の思いで告げた言葉だった。
 これだけ愛しく、強く想っている男を諦める一言を諦めることは秋紀にとっても
身が引き裂かれるような思いだった。
 本音を言えば、何を犠牲にしたって一緒にいたかった。
 離れたくなど、なかった。

 けれど目の前の克哉は確かに言ったのだ。
 自分の方には、大切な人間がいると。だから自分の気持ちには応えられないと
はっきり最初に言い切っていた。
 本心を言えばその言葉に反発しなかったと言ったら嘘になるだろう。
 責めたい気持ちも、文句をぶつけたい気持ちも溢れんばかりにあった。
 だが秋紀はそれをぐっと飲み込んで、妥協案を口にしていった。
 自分をこんな風に抱きしめて、ボロボロと泣く克哉の顔を見ていたら妙に毒気が
抜かれて、自然と許せる心境になってしまっていたから。

本当に、それで良いの? オレにもっと文句を言ったり責めたりしても
良いんだよ? 君にはその資格があるし

僕にだって意地がありますから。最後にあの人に会うのならせめて終わりくらい
笑顔で終わらせたい。自分の想いが叶わなかったからって相手を恨んだり
責めたりする姿って凄くみっともないと思うしそんな無様な姿を…あの人の前で
これ以上
晒したくないから…」

 そう、秋紀は容姿に恵まれてきた分だけ沢山言い寄られてきたし、告白も受けてきた。
 興味のない相手に言い寄られても困るだけなので全てそれは断ってきたのだが中には
それで秋紀を逆恨みをしたり、嫌がらせをするような輩もいた。
 表面は良い顔していても、裏で秋紀の悪口を広めるような真似をした人間もいた。
 好きだと言われた事自体は悪い気はしなかったが、こちらが振った後でそういう態度を
取る
相手を秋紀は何度も冷めた目で眺めていた。
 だから自分も最後に最悪の態度を取って本当に好きになった人にそんな冷たい目で
見られる
ことになるのは嫌だった。
特に秋紀にとって、八ヶ月前に…最後に眼鏡を顔を合わせた時の態度は後悔しかなかった。
そんな思いはもう、二度としたくなかったから。
 だから少年は胸を張る。文句を全て飲み込んで笑顔でいる為に。

「僕今までに何度も、振ってきた相手にそういう事をされ続けてきました。その度に
ばっかみたいとか勝手な奴としかその相手に印象を抱けなかったから。
 そんな奴らと同列になる事も、あの人にそんな姿を最後に晒すのは御免なんです。
 最後ぐらい僕にその意地を、通させてよ!」

「判った。オレが君に出来る事といえばきっとそれくらいだろうから。
今から君に、もう一人の<俺>に会わせてあげるよ

 正直、もう一度眼鏡を掛けて自分を見失ってしまう事は最初は恐かった。
 だが自分にはそんな事を言う資格はないと思い直し克哉は胸ポケットから銀縁眼鏡を
取り出して再び自分の顔に掛けていく。
 その瞬間、馴染みの感覚が全身に走っていった。
 だが克哉はしっかりと足を踏み締めてその感覚に負けるまいと踏ん張っていく。
 すると奇跡は初めて起こった。
 頭が冴え渡るような感覚はするのに、克哉は自我を保ったままで秋紀に応対していった。

前回はフイを突かれた形だったけど、今回まで飲み込まれたり乗っ取られる訳には
いかないから!)

 この後に、必ず御堂の元に行くと自分は約束した。
 これ以上、もう一人の自分にあの人を傷つけさせる訳にはいかない。
 その強い気持ちが初めて、克哉に勝利を齎していく。
 だから克哉は全身全霊で演技をする。
 今彼が応対しているのは「愛しい方の克哉」であるように振舞う為に
 これ以上、あいつを野放しにして秋紀を弄んで必要以上に傷つけたりしない為に
けじめをつける為に真っ直ぐ克哉は対峙、した。

「秋紀
 
 出来るだけ、低い声を出して伏し目がちの表情を作っていく。
 鏡の中で何度か見た事があるもう一人の自分の表情と仕草をそのままトレースして
そうであるかのように克哉は振舞った。

克哉、さん

 ぎゅう! と秋紀は克哉の首元に両腕を回して抱きついていく。
 少しでも愛しい男の事を自分の心に刻み込むように強く、強く。
 それに応えるように克哉もまた、無言で抱きしめ続けていた。
 
 「僕貴方が、本当に好きでした

 「知っている

 「けど僕、あちらの克哉さんも嫌いじゃないんです。だからさよなら。克哉さん
どうか、お元気

 身体を目一杯震わせながら、そんないじらしい事を言う秋紀を克哉は初めて、愛しい
と思った。
 それは恋愛感情を伴うものではなかったけれどもう一人の自分がどうして、この
二日間秋紀を傍に置き続けたのか、その理由を少し理解出来た気がした。
 孤独に凍えていた彼にとっては、心から想ってくれる秋紀の存在は手放しがたい
ものだったのだろう

この二日間、俺の傍にいてくれた事を感謝する。どうかお前も幸せ、にな

 その一言が秋紀にとって、どれだけ残酷なのか判っていたにも関わらず
心の底から願って、克哉はそう告げていく。
 顔がお互い、自然に寄せられていく。
 相手が瞼を閉じると同時に克哉もまた躊躇う事無く瞳を伏せてそっと
唇を寄せていった。

 これは気持ちを確かめ合ってする口付けでなく、秋紀の気持ちに踏ん切りを
つけさせる為に必要な儀式だと、克哉は受け入れていた。
 一瞬だけ、脳裏に御堂の顔が浮かんでいく。
 それにどうしようもない胸の痛みを覚えながらそれでも、その痛みと罪を
受け入れて少年と唇を重ねていく。

すまなかった。

 その瞬間、一瞬だけ自分の唇からそんな言葉が零れていく。
 克哉は自分が紡いだ自覚はなかった。
 まるでその瞬間だけもう一人の自分に操られるようにその言葉を
呟いていた。
その瞬間…もう一人の自分と一瞬だけシンクロ出来たような…そんな奇妙な錯覚を
覚えていった。

僕の方こそこの二日間、幸せだったから良いよ。克哉さん

 秋紀もまた、綺麗な笑みを浮かべて愛しい男の残酷な罪を赦していく。
 気づけば日はすっかりと傾いてどこまでも鮮やかに世界を染め上げていく。
 黄昏の光に照らし出されながら二つの影は静かに重なりコンクリートの
床の上に二人の影が浮かび上がっていく。
 触れるだけの口付けは、秋紀から求められて息が詰まるぐらいの激しいキス
へと変わっていく。
  克哉はその瞬間、もう一人の自分のやり場のない悲しみと痛みを感じていく。

  触れるだけの優しいキスは克哉の意思。
  この情熱的な抱擁と深いキスはもう一人の彼が望んだものであった。
  苦しくて、眩暈がした。
  胸が引き連れて、出血しているような錯覚さえ覚える。
  それでも克哉は手綱をしっかりと握り締めて自分のコントロール権を決して
失うまいと抗い続けていた。
 そして、気が遠くなるくらいに長い口付けが終わりを告げていく。

 夕焼けに秋紀の金髪が黄昏時の様々な色合いを帯びている光に映し出されて
凄く綺麗に映っていた。
 泣き腫らした目に、クシャクシャの顔。
 それでも秋紀の心には相手を憎む気持ちはこれっぽちもなかったせいで精一杯、
少年が浮かべていた顔を、克哉は本当に美しいと感じていた

 克哉さん、大好きでしたバイバイ

 そういって、自分の想いを過去形にして・・・クルリと踵を返して克哉の身体から
全力で離れていく。
 踊るような軽やかで優雅なステップを刻み、たった今まで自分の腕の中にいた少年は
瞬く間にこの腕の中をすり抜けて遠ざかっていった。
 一瞬、それを名残惜しく思って追いかけたい衝動に駆られた。
 同時に慌ててそんな感傷を克哉は押し止めてその場に立ち尽くしていく。

 この頬に伝う涙は、自分かそれとももう一人の自分が流しているものなのか。
 今の克哉にはそれすら、判らなかった。

『ありがとう』

 それでも消えていく少年の背中に向かって、克哉は叫ぶようにその言葉を
投げかけていく。
 そしてその姿が完全に消えた後克哉はその場にヘタリ込んで、眼鏡がカラリと
床に転がっていた。

あれだけ長い時間、眼鏡を掛けたままでもオレのままでいられた

 それに安堵しながら、大きく肩で息を突いていく。
 一仕事を終えた彼の顔には、とめどなく流れ続けた涙の痕と微かな笑みだけが
静かに讃えられていたのだった

 
 
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HN:
香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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