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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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『NO ICON』 「三人称視点」


―彼は深い夢の中に落ちていた。

 漆黒と藍色が入り混じった不安定な空間の中に…ゆっくりと自らの身が
沈んでいくような感覚がしていた。
 それはどこまでも優しい安らぎのようにも、死を思わせる静寂とも解釈出来る
場所であった。

(ここに…あまり戻って来たくなかったんだがな…)

 目覚めるまでの一ヶ月間、二人の克哉の意識は…この混沌とした空間の中で
揺らめいていた。
 暗闇の中に、幾つかのカケラが光輝き…まるで夜空に光る星のように瞬いている
光景は…一見すると幻想的に映るだろう。
 だが、その宝石の原石のようにも、鉱石のカケラのように見える一つ一つが…
佐伯克哉という人間の記憶を象徴しているものだった。

 天に昇って輝くカケラがあれば…地に深く埋まって中々掘り出せないカケラもある。
 自分にとって重要な記憶は天に昇り、いらないと判断された情報や記憶は…地に
埋められて忘却の彼方へと送られていく。
 だが…自分の足元に埋められた黒曜石を思わせる石に気づいて…眼鏡を掛けた方の
克哉は苦々しげに舌打ちをしていった。

「…ちっ…こんな記憶、残っていても…何の意味も成さないんだがな…」

 だが、彼は何気なくそれを手のひらに収めて先に進んでいく。
 埋めても埋めても、表に出て来てしまう苦い記憶だったが…どうしても忘れられないの
ならば背負っていくしかない、と半ば開き直ったからかも知れなかった。
 足元が時々激しく揺れているのは…もう一人の自分の意識が目覚めているからだろう。
 それも彼を酷く苛立たせている要因の一つだった。
 どこまであの二人は…自分を憤らせれば気が済むのだろうかと…憎らしく思えてきた。

(…お前達はどこまで、俺を惑わせて苦しませるんだ…?)

 天に輝く星―輝く程、彼らの中で大切に思う記憶は…殆どが、もう一人の自分の方が
所有している記憶のカケラだった。
 それに比べて、自分の思い出の中に…星に昇華する程、大切な記憶など何一つ存在
していなかった。
 …普段はまったく自覚していなかった事だが、夢の世界に堕ちて…その事実を何故か
酷く歯痒く感じてしまっていた。
 顔を上げて、星を見ているだけで…もう一人の自分の想いが流れてくる。
 
 どれだけ太一を特別に想っていたのか。
 八課の仲間を必要としていたのか。
 中学高校時代の友人との思い出を価値のあるものと感じていたのか。
 知りたくない内容のものまで…勝手に流れ込んで、どうしてここまで強く自分が
敗北感を覚えていくのか…理由が判らないまま、彼は苛立っていた。

『太一…』

 もう一人の自分が、泪を流しながら…今日も、そっと名を呼んでいく。
 どこまでも哀切な声の響きの中に…相手への強い想いを感じ取り。
 その声を聞いて…また、眼鏡は怒りを感じていく。

(どうして、お前は…!)

 そこまで彼に執着していながら、あっさりと…自ら奈落の底に堕ちる事を
受け入れようとするのか…理解出来なかった。
 自分とて、そこまでお人好しではない。黙って…自分の方の意識を…もう一人の
<オレ>の為に消してやれる程、自己犠牲的な精神は持ち合わせていない筈だ。

『太一…太一…』

 歌うように、彼は名を呼び続ける。
 それは一種、哀れにすら映る…滑稽な光景でもあった。
 そして…また、閃光のように星が光って…自分の中にその思い出が刻み込まれていく。
 これは眼鏡にとって…一種の暴力にすら等しい行為だった。

『止めろっ…! これ以上、お前の想いを…記憶を、俺に流すな…!』

 だが、起きている時ならばともかく…『両者』の意識が同じ深層世界に存在している
時は、向こうから流出してくる記憶の奔流に逆らう術は存在しない。
 意図せずに流れてくる記憶の波に、眼鏡は必死になって抗おうとする。
 だが…幾ら拒もうとしても…駄目だった。
 そして今夜も…繰り返し思い出される、『克哉』にとって…キラキラと光る記憶の
カケラの中身を見せ付けられていく。

「ち、くしょう…!」

 それは、もう一人の自分にとっては大切な大切な記憶の結晶。
 けれど…それを見せられる度に眼鏡は強い敗北感を覚えさせられていた。
 悔しくて、妬ましくて…つい、唇を噛み切りそうになる。
 だが夢の世界では痛覚はあっても限りなく鈍くしか感じられない為に…意識を
覚醒させるまでには、その痛みは至らなかった。それもまた辛かった。

「もう…良い! 判ったから…それ以上、アイツのその顔を…俺に、見せるな…!
みじめに…なるからっ!」

 自分は本来なら、もっと冷酷な人間の筈なのに。
 太一など、無理やり犯した時点では…何とも思っていない、「もう一人のオレ」に
まとわり付くうっとおしい奴程度の認識しかなかった筈なのに…。

 『笑顔』というのは時に大きな力を持ったり、人を惹きつける魔力を秘めている。
 そう…皮肉な、話だった。
 刺された日から…自分達の肉体の主導権は交替されて、<オレ>の方が眠りに就いて
夢を見る事となった。

 その夢は…繰り返し繰り返し再生されて、いつしか…眼鏡の意識すらも緩やかに変えていく
力があったのだ。
 『克哉』に向けられたひまわりのように生命力に満ち溢れた明るい太一の笑顔は…何度も
反芻される事で彼も接する形となっていた。
 そのせいで…気づいた時には、自分の心は大きく変えられてしまっていたのだ。

「…決して、俺にアイツはそんな笑顔を向けてくれないのに…見せ付けないでくれっ!
お前の夢が流れてくる度に…どうしてか、その事実が胸を締め付けてくる…から、な…」

 そう、佐伯克哉という器が急速に衰弱しているのは…このアンビバレンツな気持ちが
同位しているからだ。
 眠っている方の克哉が強く純粋に「太一」という存在を求めているのに対し…眼鏡の方は
その気持ちを決して認めたくない想いがあった。
 そして太一から向けられる感情も<オレ>の方は彼に世界で一番愛されているのに対して…
眼鏡の方は、むしろ忌み嫌われている。
 
―それが自分の胸を切り裂いている事実など、知りたくなかった。

 目を逸らして気づきたくなかった真実の気持ちを…<オレ>の意識が浮かび上がって
記憶が流れていく度に思い知らされる気持ちだった。

「止めろ…もう、夢など…幸せだった頃の記憶なんて、これ以上再生するな…」

 ぎゅっと黒曜石のような…忌々しい記憶を握り締めながら、克哉は…もう一人の
自分に訴えかけていく。
 だが…それでも止まらない。止む事はない。
 何故なら…克哉の方もまた、自分に残された時間がそんなにないという事を
すでに判っているからだ。
 だから…せめて記憶だけでも抱いて眠れるように、彼は反芻を繰り返して…
心の準備を積み重ねていく。

(せめて…夢くらい、見させて…くれよ…)

 もう一人の自分は、眠りに就いた状態で強く訴えかけていく。
 不毛すぎるやり取りだった。ある種、虚しくさえあった。
 それでも、容赦なく…思い出の中にだけある「彼の笑顔」をまた…見せ付けられていく。
 …その度に掻き毟られるような胸の痛みを、この世界でも覚えさせられていった。

 どうして、もう一人の自分は…。
 これほど強く強く、人を愛して執着していながら…自らを落とされる運命を
受け入れられるのだろうか。
 これほどまでに強く、彼に愛されている癖に。
 自分には…ただの一度も、その笑顔が向けられた事すらもないのに…。

『認めたくない…』

 それでも、ここは心の世界。
 普段は押し殺して目を逸らし続けている己にとっての真実の想いが
白日の下に晒されて暴かれる場所。
 『ひまわりのような笑顔』は…目覚めてから、自分の方に向けられた事は一度もない。
 いつも向けられるのは…彼の否定的な眼差しと、失望の表情。
 そして…今にも泣き出しそうな、切なげな表情ばかりだった。

『お前は…俺がどれだけ望んでも得られないものをすでに持っている癖に…』

 自分の方が仕事も、何もかもが勝っている筈だった。
 だが…今の眼鏡は優越感など、起きた日から殆ど感じられた覚えがなかった。
 何故なら…その夢の記憶を見ている内に…自分にとって一番欲しいと思える
存在がいつの間にか変わってしまっていたからだ。
 
 (どれだけ欲しても、あいつは俺に笑いかける事など…ないんだぞ…!)

 そんな眼鏡の苦しみと葛藤は、より深い階層にいるもう一人の自分には
決して届く事はない。
 だから彼は…誰かに必死に呼びかけられて起こされる瞬間まで…その
記憶の奔流に襲われ続けていた。

 ―愛しても愛しても、決して届く事は有り得ない想い

 そんなモノを抱いて、相手に拒否されるくらいなら…『無い』ものとして
振舞ったほうがプライドだけは守る事が出来た。
 だから目を逸らしていたのに…どうしても、それに徹しきれない。
 それが…彼の心を苛み、痛めつけ続けていた。

『もう…止めて、くれ…!』

 ガラにもなく、眼鏡は…苦しげに訴えていく。
 その瞬間…彼は…。
 自分の手を必死になって握り締めてくれていた誰かの手の暖かさに…
初めて、気づけたのだった―


 
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『御堂孝典』


 御堂孝典は、夜のオフィス街を愛車で走り抜けていた。
 夕暮れは裏道を通ってもかなり混雑しているが…午後七時くらいになれば
一通り交通状態は落ち着いてスイスイと抜けられるようになっていく。
 都内在住で、自家用車を持って仕事でも移動する機会が多い御堂にとっては…
渋滞の類は苛立たせる最たるものだが、ここまで遅くなれば話は別だ。

(今日は…話し合いがやや長引いたのが、幸いしたかな…)

 本日最後にアポを取っていた会社の役員は、向こう側のスケジュールが押して
こちらの待ち時間が長かったせいか…その引け目を逆手に、MGN側にとって
有利な条件で契約を勝ち取れる結果となった。
 待たされた時間もこちらは持っていた書類に目を通して無駄がないように過ごして
いたので…御堂にとって待機時間は左程、苦痛ではなかった。

(これから直帰するとして…本日の夕食はどうするかな…)

 一人暮らしの御堂にとって、特に彼のように忙殺されている事が多い人物に
とっては休日以外に自炊をする余裕などない。
 結果、どこの店で何を食べるかが…平日の夕食の悩みとなる訳だ。
 本日は週末の夜だし、ワインの類を少々飲みすぎても問題ないな…という考えが
ふと過ぎった時、彼の行き先は決まっていた。

「良し。あのワインバーに向かおうか…」

 自分の大学時代の友人たちと集まるワインバーは店の雰囲気も良いし…
何より少々マイナーな銘柄や、希少な物でも集めて…こちらの希望に出来るだけ
沿おうとしてくれる姿勢に好感を持って、良く通っていた。
 その店に向かおうと、公園の裏側の通りに入って…車を走らせていた時。

「なっ…!」

 いきなり、公園の中から人影が飛び出して来て…大慌てでハンドルを切っていく。
 エリート街道を突っ走る御堂にとっては、人身事故など冗談ではない。
 万が一相手を轢き殺したりしたら、一生消えない汚点となって己の人生に刻まれてしまう。
 それを拒むかのように飛び出してきた人物に当たらないように車体を移動させて…
公園の植え込みの壁に前面が突っ込んでいく轟音が周辺に響き渡った。

(ちっ…これは後で修理に出さないと傷が目立つな…)

 出していたスピードがそんなに速くなかった事もあって、衝突の際の衝撃もあまり
強烈なものではなかった。
 エアバックが作動しなかった事を見ても、ガラスが割れていない事から見ても…
その辺は間違いないが、確実に愛車の前面の部分はひしゃげてしまっているだろう。
 ドイツ製のセダン。外車であるだけに…修理代はそれなりに嵩む事は避けられないだろう。
 だがそんな現実的な算段よりも、確実に相手を避けられたのかが不安だった。
 車から出て、今…ぶつかりそうになった人物に声を掛けていく。

「君っ! 大丈夫か…っ!」

 人影はどうやら、高校生くらいの少年のようだった。
 派手な金色の髪が夜の闇の中でも静かに浮かび上がり、顔の作りもかなり派手な
ものである事が判る。
 赤いパーカーが…この少年には良く似合っていたが…彼は身体を震わせながら
目を見開いて、こちらを凝視してきた。

「あっ…は、はい! 僕は大丈夫…ですっ! けど、克哉さんが…克哉さんがっ…!」

 少年はかなり混乱しているようだった。
 その視線もどこか落ち着きが無いし、声も身体も激しく震えている。
 そしていきなり、余裕のない表情でこちらに縋り付かれて時には…御堂もどうして
良いのか判らなくなっていった。

「君、頼むから落ち着け…怪我とか、本当にないのか…?」

 内心の苛立ちを押さえながら問いかけていくと、少年はコクンと頷いて…そして
言葉を続けていった。

「はい…ちょっと打ち身とかすり傷が出来たくらいです。…あの、初対面の方にこんな
事を頼むのはどうかって判っているんですが…お願いです。公園で僕の大事な人が
大怪我をして…かなり苦しそうにしているんです。近くの病院に、大急ぎで搬送して
貰えますか…? 図々しいお願いだって判っているんですが…」

「…どれくらいの容態なんだ?」

「僕には詳しくは判りませんですが…アチコチに怪我していて、胸の辺りを押さえて
本当に苦しそうにしています…」

「…判った。それじゃあ…見た上で判断させて貰おう…」

 正直、厄介ごとに巻き込まれて嘆息したい気持ちの方が強かった。
 だが…こちらにはこの少年をもう少しで轢きそうになってしまったという負い目があるので
この申し出を突っぱねる事は、この状況ではやり辛かった。
 例え相手側が飛び出してきた事が原因でも、事故が発生した場合は…轢かれた方が
被害者となってしまうのだ。
 変に恨まれない為にも…加害者として訴えられるのを避ける為にも…出来るだけこの
少年に恩を売っておいた方が良い。
 そう計算して…彼に案内されるままに公園の奥に進んでいくと…。

「えっ…?」

 信じられないものを見た想いがした。
 其処に倒れていた人物は、自分の良く知っている奴だったからだ。
 さっき、克哉さん…とこの少年が言っていた時、単なる同名だろうと思って気にして
いなかったが…まさか、佐伯克哉本人であった事など予想もしていなかった。

「…かなり酷い状態、だな…」

「はい…」

 途方に暮れた顔をしながら、少年は項垂れていく。
 佐伯克哉の状態は思ったよりも酷い状態だった。
 どこかでケンカか、暴力沙汰にでも巻き込まれたのか…スーツのあちこちが切れて
血とかホコリで薄汚れてしまっている。
 何より…心臓発作でも起こしているのではないか、と疑うくらいに今の彼は苦しそうで
尋常ではない状態なのは伝わって来ていた。

「…君、手を貸してくれ。私一人だけでは…骨が折れる」

「はい! 当然です。僕の手で良かったら幾らでも使ってやって下さい。克哉さんを
…こんな状態で置いてはいけないですからっ!」

(この少年は…佐伯にとって、何なんだ…?」

 友人、というには年が離れすぎているような気がする。
 それに大事な人、と言っていたのも何か引っ掛かっていた。
 一体どのような間柄なのか…つい邪推しそうになったが、思考回路を一旦止めて
彼の介抱作業を始めていく。
 余計な事を考えるのは後だ。まずは彼を病院に搬送するのが先だと判断した。
 そして…名前も知らない少年と二人で協力して、御堂は自分の愛車の後部座席に
佐伯克哉をどうにか押し込めて…助手席に少年を乗せて、この付近にある病院へと
車を走らせていく。

(この辺りで一番近い病院は…彼が入院していた、あの大病院だな…)

 そうして、病院までの道筋を思い起こして…夜の街を通り過ぎていく。
 その間…ただの一度も、佐伯克哉の意識は…目覚めないままだった―


『第二十八話 待ってて克哉さん!』 『須原 秋紀』


―僕はいつまで、こうやって待ち続けているのだろう…。

 須原秋紀は今夜も、儚い望みだという事を自覚していても…いつもの公園に
足を向けていた。
 夜の公園は寂しく、週末の夜には…一層閑散として人気がなかった。
 飲み屋とか、バーとかそういう店に皆、足が向かい…こういう静寂を湛える
場所からは遠のいてしまうからかも知れなかった。
 克哉がこの場所で刺された、と報道されてからおよそ40日が経過している。
 それでも少年は、此処に来ることを止める事が出来なかった。

(…あのクラブや、公園に幾ら通ったって…克哉さんに会える可能性なんて低いって
判っているのに…)

 それでも、彼がどんな会社で働いて…どこで生活しているか、携帯もメルアドも何も連絡
手段を持たない秋紀にとっては…待つ以外の方途はない。
 どれだけ…この40日間、あの一夜を明かした日の内に…彼の連絡先を聞かずに別れて
しまった事を悔やんだのか、すでに自分でも覚えていないくらいだった。

(せめて…会えなくても、元気でいる事だけでも確認出来たら良いのに…!)

 ニュースというのは一種の暴力だ。
 これだけこちらの胸を掻き毟るような大事件を一方的に報じておいて…その人がどうなった
のか、その後を放送してくれる事など滅多にないのだから。

 もう克哉はこの世にいないのかも知れない…。
 そんな不安に胸を焦がされた事は一度や二度では最早済まない。
 会いたくて、せめて無事だけでも確認したくて…どれだけ切なくて苦しい夜を過ごした事だろう。
 遊んでも、今の秋紀は心が晴れる事がない。

 だから…専ら、最近は…この公園の事件現場の付近で…ベンチに座って一人で過ごしている
事が多くなっていた。
 それが半ば、無駄な行動であることなど承知の上であったが…。

「克哉さん…会いたい、よぉ…」

 瞳にうっすらと泪を浮かべながら、憂い気な表情を浮かべて秋紀は呟いていく。
 こんなにも強く、誰かを想ったことなどなかった。
 たった一夜…共にしただけで、これだけ深く精神にその存在を刻み込まれてしまう事など…
彼に軽い気持ちで声を掛けた時には、まったく予想もしていなかった。
 それが初恋だったと気づいたのは…いつだったのだろうか。
 少年は…初めて覚える強い感情を持て余し、どうやってそれを宥めていけば良いのかすらも
判らずに…今宵も、ざわめく様な夜を過ごしていく。

「克哉、さん…元気、なのかな…。せめてそれだけでも…判れば、良いのに…」

 一目で、良い。
 あの人の姿が見れれば…それで構わない。
 そんな殊勝な事を考えた瞬間―

「えっ…?」

 遠くから、人影がゆっくりと近づいてくる。
 街灯に照らし出されてうっすらとしか見えなかった。
 夜目のせいで…最初ははっきりと据える事が出来なかった。
 だが…暫くして、ゆっくりとこちらの方に近づいて来るその人物が…自分が待ち望んでいる
人とそっくりな気がして…秋紀の胸は、大きく高鳴り始めていく。

「嘘…で、しょ…?」

 これが現実の事なのだろうか、と一瞬疑った。
 だがその人物は、まさに満身創痍といった体で…荒い呼吸を繰り返しながらヨロヨロと
頼りない足取りで歩み寄ってくる。
 何者かに襲われたのだろうか…上質そうな生地であしらわれたスーツは所々に汚れて
いる上に、破れてしまっていた。
 自分がたった一度だけ会った事がある克哉は…自信満々そうで、身なりもしっかりしてて
まさにエリートというか、出来る男といった雰囲気を纏っていた。
 だから一瞬、余りの惨めそうな姿だったので…秋紀は瞠目するしかなかったのだ。

「克哉、さんっ…!」

 それでも、愛しい男性のボロボロの姿を見て…躊躇う事なく、秋紀は駆け出して…
今にも倒れそうな彼を支えようとしていく。
 彼の目はどこか虚空を彷徨い…最初は焦点が合っていなかった。
 夢を見ているのか、意識が朦朧としているのか…秋紀には事情が判らないが、それでも
引き戻したくて必死になって抱きついて、呼びかけ続けていく。

「克哉さんっ! 克哉さんっ! 僕です…! 覚えていないかも知れないけど秋紀ですっ! 
一体…それはどうしたっていうんですかっ!」

 必死に声を掛けるが、それでも苦渋の表情を浮かべて…克哉は胸を押さえるだけだ。
 強い発作か何かを抑えているような、そんな雰囲気だった。

 はあ…はあ、はぁ…は、ぁ…!

 呼吸は断続的で、時々途切れ途切れな状態だった。
 ちょっと見ただけで尋常ではない気配を感じて…少年は猛烈な不安を覚えていく。
 訴えかけても、彼の目は…呆けていて力がない状態のままだった。 
 それに耐え切れずに少年は叫ぶように彼の名を呼び続けて…静寂の公園は一転して
不穏な空気へと変わり始めていく。

「克哉さんっ! 克哉さんっ! お願いですから…正気に戻ってっ! もう大丈夫
だから…! 僕が傍にいるからっ! 克哉さんっ!」

 必死に縋り付くようにその身体を支えていきながら、秋紀は訴える。
 すると…グラリ、と彼の身体が倒れ込み始めて、彼に比べれば小柄な体系である
少年には支えきれなくなり…二人で、その場に転倒していく。
 克哉は…うずくまるような体制になり、相変わらず苦しそうな感じだった。
 もう自分一人では対応出来る状態じゃない…!
 そう思い知らされた少年は、誰か助けを呼びに行こうと決意した。

(このまま…ただ僕がここにいたって、克哉さんを助けられない…! 誰か、誰かを
呼びにいかなきゃ…っ!)

 冷静な状態なら、ここで携帯電話を使って…救急車を呼べば良いとすぐに気づいた
だろうが…ようやく再会出来た、会いたくてあいたくて堪らなかった人物がこんな状態で
あった為に、秋紀はこの時…正常な思考回路ではなくなっていた。
 反射的に彼は駆け出し、まずは公園の入り口の方へと向かい始めていく。

「克哉さん、待ってて…! 今すぐ、助けを呼びに行ってきますから…!」

 そうして、少年は駆け出していく。
 大好きな人を一刻も病院に運んでやりたいという想いだけで一杯になって…
状況判断も何もせずに、衝動的に走り出してしまっていた。
 
(誰か、誰か…誰かっ!)
 
 懸命な表情を浮かべながら、公園の外に一歩出て…大通りの方へと向かおうと
走り出した瞬間に―

「―っ!」

 まるで怪物の目玉のような、大きな車のライトが…宵闇の中に浮かび上がり…
強烈に秋紀の視界に飛び込んでくるっ!

「うわぁぁぁ!」

 耐え切れずに、少年は悲鳴を上げた。
 同時に、クラクションの音と…大きなブレーキ音が鳴り響いた。
 そして程なく…。

 現場に、何かがぶつかるような衝撃音が…響き渡ったのだった―

 
『第二十七話 捕まる訳には…!』 「五十嵐太一」

  太一と本多が、突然走り出した克哉を呆然と見送ったのと同時に、太一は
何者かにいきなり背後から羽交い絞めにされた。

「っ! 何だぁ!?」

 突然の事に必死にもがく太一の耳元に低い男の声が届いていく。
 それを聞いて、ビクっと背筋が凍る思いがした。

「やっと見つけましたぜ…若」

 その一言を聞いた瞬間、祖父の手の人間に自分が見つかったのだと
いう事実を一瞬で理解していく。
 そう…確かに五十嵐組の関係者にとっては、今…太一が居候している
本多の家はまったくノーマークで、その近所くらいなら幾ら歩き回っても
この二週間問題なかった。

 太一がアパートを飛び出してから、克哉の入院期間を合わせてもすでに
一ヵ月半が経過している。
 それで、一日だけ…克哉のお見舞いに行った時以外は見つかった試しが
なかっただけに…油断していたのだ。
 克哉が勤めているキクチ・マーケティングがすでに張り込みの対象に
なっていた事など、少し考えれば判った事なのに…!

「ぐっ…離せっ! 離せよっ! 俺は帰る気なんてまったくないんだかんねっ!」

 自分よりも遥かに体格が勝っている相手に対して、必死になって太一は
抵抗し続ける。
 その様子を見て、傍に立っていた本多は怒りに燃えた眼差しを…背後の
男に向けていく。

「おいっ! 人のダチに何やっているんだよっ! 太一を拉致とかしようとしているなら
容赦しねぇぞ!」

 人のダチに、という言葉に男は反応したのだろう。
 一瞬、太一の友人に手を出すのかどうかという迷いが…腕の力を緩ませていく。
 その隙を見逃す彼ではない!
 全力の力を振り絞って身を捩り、その腕から抜け出していった。

「よっしゃあ!」

 元気の良い掛け声を上げながら、やや腰を屈めた体制で本多の方へと駆けて
向かっていく。

「本多さん! 逃げようっ!」

「あ、あぁ! そうだな! 会社の前で…乱闘騒ぎなんざ、出来る訳がないからな!」

「そうっしょ? だから暴れるのはもう少し離れてからにしよう。本多さんを
懲戒免職にしちゃうのは俺の本意じゃないからねっ!」

 そういって太一は本多の手を掴んで全力で走り始める。
 元来、太一の逃げ足も結構なものだったが…流石、現在でも毎週のように
バレーボールの練習や試合などをこなし、運動を欠かす事のない本多の脚力も
大したものだ。
 あっという間にキクチ・マーケティングの前にいた男たちを引き剥がし、二人は
雑踏の中へと逃げ込んでいく。
 人ごみの中は、自分たちも速度が落ちてしまうが…葉を隠すなら森の中とまったく
同じ原理だ。
 身を隠すなら、人が多い中だ。特にこの時間帯は…本多だけなら十分に目立たせなく
させる力はある。

(あ~あ、でも俺の方がな…)

 久しぶりに眼鏡を掛けている方とは言え…克哉と会う、という理由のせいで、今の太一は
髪を下ろした状態で今時の若者らしいラフな格好で出て来てしまっている。
 オシャレで人目を引く服装であったが、オフィス街ではどうしても浮いてしまい…同時に
スーツ姿の人間ばかりの中では嫌でも目立ってしまう事、請け合いだ。

「本多さん、大丈夫? 疲れてないっ!?」

「あぁ、これくらいの走り込みなら日常的にやっているから気にするな! いざと
なったら加勢するから…全力で、行って構わないぞっ!」

「さっすが体育会系! 頼りになるねっ!」

 早くも息を切らせながら、太一は明るい笑顔で相槌を打っていく。
 その間も二人は足を止める事は決してなかった。
 手を繋ぎながら全力で走り…人ごみを必死の思いで駆け抜けていった。

 目指す場所は、キクチ社内よりもやや離れた位置にある地下鉄の入り口だ。
 最寄り駅から直接行ってしまうと…すぐに其処から沿線を調べられて、本多の
実家がある駅までは調べられてしまう恐れがあるからだ。

 五十嵐組のこういう組織力の強さを、太一は子供の頃から嫌という程…
思い知らされている。
 一度、発見されてしまったのなら…トコトン、慎重になった方が良い。
 だから二駅先の地下鉄入り口までは、わざと人ごみを抜けて…太一は向かって
いくつもりであった。 

(克哉さん…!)

 それでもふとした瞬間に思い描くのは、あの人の事。
 どうして、自分たちの元から駆け出していったのか。
 追いかけられなかった事実に歯噛みしたくなりながらも…太一は風を
切るように速く、速く人波の中をすり抜けていった。
 こんな状況では、すでに克哉の足取りを掴む事など…到底無理だ。

「あの手を…使う、しか…ないかな…」

「ん? 何だ?」

「ううん、大した事じゃないよ…! さっ、もうちょい頑張って本多さんっ!」

 そうしてぎゅっと手を握り締めて、更に加速していく。
 克哉の友人であるこの人に、必要以上に迷惑を掛けたくない。
 だから決して捕まる事など出来ないのだ。
 そう決意して、心臓がはち切れそうになりながらも…太一は足を動かし続けていた。
 
(克哉さんが…携帯を、持ってくれていれば…)

 病院にいた頃、克哉の意識がなかった事もあって…一時的に片桐が預かって
克哉の携帯は、社内の彼のディスクの中に収められていた事は…この二週間の内に
本多から聞かされていた。
 だから…あの時は、使っても意味がなかった。
 だが…今は克哉も目覚めて、仕事にも復帰している。
 なら…あの手が使える筈だ。

(それにはまず、無事に…本多さんの家に辿り着かないとね…!)

 キッっと口元を引き締めながら、太一は決意していく。
 後で絶対に克哉を見つけ出すと決心しながら…遮二無二、死ぬような苦しい
思いをしながら…彼は、夕暮れの街並みを走り抜けたのだった―
 『眼鏡克哉』


  ここ暫く、体調が悪いのを隠して…俺はどうにか普段と変わらないように
仕事をこなし続けていた。
 だが…日増しに、もう一人の自分から流れる感情と記憶の量は増え続けていて。
 俺自身も気づかない内に、その記憶にかなり呑み込まれていってしまっていた。

(何故だ…どうして、お前ごときの感情にこの俺が影響されなければならないんだ…)

 その事実に苛立ちながら、パソコンの前で検索作業を続けて…今、手元に持っている
資料の裏づけを取り続けていく。
 プロトファイバーの売り上げは、期限を越えてからも好調なままで。
 実際は俺達が担当する当初の期間は三ヶ月だったが、MGNの方からの正式な
要望もあり、今も…営業は続けていた。
 すでに国内でこの数字を叩き出した商品は存在しない領域での空前の大ヒット
商品になった事で、営業八課の評価もキクチ社内においては高まっていた。

 最初はあれだけ嫌味な態度を取っていた御堂も…今では俺達に一目を置くように
なったのか、最初の頃のように侮蔑して上から見下ろすような真似はしなくなった。
 そう、仕事は順調だった。それなのに…。

(どうして俺の胸の中から、言いようのない焦燥感が消えないんだ…?)

 パソコンの前で自問自答をしながら、胸の辺りを押さえていく。
 胸の痛みも、日ごとに酷くなっている。
 それでもどうにか…一日、気力を振り絞れば動ける範囲だが…毎晩、部屋に帰って
一人になった時の反動のようなものが増していった。

「…もう、潮時なのかもな…」

 決断を下さなければ、自分も巻き込まれる事ぐらいは承知していた。
 なのに…こんなに迷う事など、俺らしくなかった。
 だが…やらねばならない事を実際に行ったら…恐らくアイツ、は…。

「くっ…」

 想像しただけで、胸が引き連れる想いがした。
 …くそ、どうして…俺がこんな情に引きずられなければならないんだ。
 らしく無さ過ぎて、歯痒ささえ覚えていた最中…本多から能天気な口調で声を掛けられた。

「よお! 克哉…! 今晩時間取れるか?」

「…あぁ、一応…多少は取れるが。一体なんだ…? 飲みへの誘いか…? 悪いが…
今は身体を少しでも休ませたいから、あまり遅くまでは付き合えないがな…」

「そんなの判っているって! …今のお前、本気で忙しそうだもんな。だから…夜通しで
付き合えとかそんな無茶な要求は最初からするつもりはねえよ。…夕飯ぐらい、一緒に
食おうって誘いたかっただけだって」

「…あぁ、良いぞ。夕飯ぐらいなら俺も付き合える。それで…どこに食べに行く予定だ」

「ん~それは、その時の気分で決めても良いと思う。という訳で…夕方までには何を
食べたいか考えておいてくれなっ! それじゃ…俺は一旦、資料室の方で…色んな
データーの裏づけになりそうなファイルとか探して来る。じゃあ…夕方なっ!」

 言うだけ言って、本多はそのまま…全力で資料室の方へと向かっていった。
 こちらは溜息を突きながら、その様子を暫く眺めて…こちらも作業を再開していく。
 …アイツも最近は、デスクワークをやる機会が格段に増えたせいで…打ち込み速度が
それなりに早くなって使えるようになっていた。

 それ以前までのアイツは、正直…あまりに打ち込みスピードが遅すぎて効率が悪すぎた
ので<オレ>が黙って代わりにやっていたみたいだが…正直、俺はそんなに暇じゃない。
 人の分の仕事をやって、自分がやらなければならない事が出来なくなるのは馬鹿らしい
からな。
 だから俺は復帰してからもアイツの分の打ち込みをやるような真似はしなかった。
 そうしたら…ようやく、自分でやらなければ! という意識が芽生えたらしい。
 どうにかここ最近の本多は、デスクワークでも使えるようになって進歩していた。

「さて…今夜はどの店に行くかな…」

 そう考えながら、俺は夕方まで仕事に打ち込んでいく。
 美味い物のことを考えている間は…胸の痛みもさほど覚える事もなく。
 本日は非常に安定した状態で…就業時間を迎えていた。
 
 それから…アフターファイブの時間帯になると、週末という事もあって残業を
せずに本多と二人でタイムカードを押して退社していく。
 キクチ社内を出てから数分後、俺は…予想もしていなかった人物に遭遇していった。

「本多さ~ん、克哉さ~ん! こっちこっち!」

 ―こちらに駆け寄ってくる人影は、紛れも無く太一、だった。
 久しぶりに見るアイツの顔に…俺は驚愕に見開かれていく。
 先程の本多の誘いの中には、一言もアイツが来るなんて単語が含まれていなかったから
予想外のことでガラにもなく…動揺していく。

(ちっ…どうして、一言…太一が来ると言わなかったんだ…。知っていれば最初から
断ったのに…)

 正直、頻繁にもう一人の自分が見る夢の記憶が流れてくるようになってからは…
俺は太一の顔を見たくない気持ちでいっぱいになっていた。
 …アイツに関する夢を見る度に胸がざわめき、モヤモヤした気持ちでいっぱいになって
苛立つからだ。

「よおっ! 太一…どうにか迷わずに来れたみたいだな。んじゃ…三人でどの店に
食べに行くか早速決めようぜ!」

「そんなの決まっているじゃないですか! まずはラーメン! 何かこの辺りで最近
オープンしたばかりの新しいラーメン屋さんがあるらしいんで…俺、絶対に一回は
其処に行きたいって思っているんだよね~! という訳で…其処、良いっすか?」

「おう! 俺は構わないぜ。ラーメンは俺も好きだし…太一がこの間作ってくれた
奴もマジで美味かったしな。お前がそういう研究や新規開拓に余念がないっていうのは
もう知っているから…付き合うぜ!」

「やった! んじゃ克哉さんも…って、どうした…ん、すか…?」

 上機嫌で暫く本多とやり取りを続けた後、ふと…冷めた目をしながらこちらに
視線を向けて問いかけてくる。
 その一瞬の表情の変化に、何故か…胸がズキリ、と痛んでいく。

(また…胸の痛み、が…)

 それは、目覚めてからすでに馴染みになっている…アイツの領域が毒となって
侵食していく感覚だった。

「何でもない…俺に、構うな…」

 胸を押さえながら、どうにか普通の態度を保とうとしたが…駄目だった。
 太一の顔を久しぶりに見た途端に、通常よりも強い発作のような襲ってくる。
 そのせいで…気力を振り絞っても、取り繕うことすら出来ずに…俺は無様にも
その場に膝をついていった…。

「克哉! どうした…大丈夫か!」

「克哉さんっ…?」

 二人が慌てて駆け寄ってくるが…俺にはそう声掛けられる事も今は癪、だった。
 特に太一が俺の傍に寄って来た事に腹が無性に立った。
 だから恫喝して…寄せ付けないように試みていく。

「うるさい! 暫くすれば収まる…! だから俺に、構うな…!」

 我ながら、脂汗を流しながらそんな事を言っても説得力が何も無い事は判っていたがな。
 だが、今は太一の顔を見たくない気持ちで一杯だった。
 
「克哉、さん…」

 泣きそうな顔を、太一が浮かべていく。
 その瞬間に…胸の痛みは、最骨頂を向かえていく。

「ぐっ…うぁぁぁ!!」

 その瞬間。
 自分の身体が其処から裂けてしまうんじゃないかって思うぐらいの強烈な激痛が
胸から走り抜けていった。
 耐え切れずに俺の喉から声が零れ、その場に手をも突いて身体を支える事しか
出来なくなった。
 もう、我慢など出来ない。一刻も早く離れなければ、と思った。

 コノママ…ソバニイタラ、オレノココロハキットコワレル―

 その、支離滅裂な心の声に従って、気づいたら俺は駆け出していた。
 無意識の内に、全力の力を振り絞って。
 まさか…突然、俺がこんな行動を取るとは…二人も予想していなかったのだろう。
 奴らが呆けている間に俺は距離をどんどん稼いで。
 そのまま、夕暮れの街を全力で駆け抜けていく。

 少しでも太一から今は離れて…この胸の痛みを鎮める為に。
 命懸けで俺は、足を動かし続けていた―
「本多憲二」

 克哉の知り合いを預かってから二週間近くが経過しようとしていた。
 最初の頃こそ、ちょっと戸惑う事も多かったけれど…元々、人懐こい
性質なのか、克哉の写真を焼き増しした日以来…警戒心を解いて
くれたのか人懐こい笑みを浮かべてくれるようになっていた。
 俺は平日は恩恵に預かれないけれど、意外にラーメンとかサンドイッチとか
そういう類の料理が得意だそうでうちの親とかは昼飯作って貰えて助かって
いるんだとさ。
 
 あぁ…そういえば先週の土曜日に一回だけ、ラーメンを作ってもらって一緒に
食べたんだけど…それ、マジで美味くてびっくりしたんだよな!
 何か上京して以来…ラーメン屋巡りが趣味になっていたらしく、三年余りで
関東圏内のラーメン屋を百件以上回っているとか聞いた時には驚いたけどな。
 それでラーメンの味にはうるさくなったというか、拘るようになったらしい。

 鶏がらと昆布、鰹節…それと幾つか隠し味も使ってあったらしいけど…太一が
試行錯誤を繰り返したという力作のラーメンは本気で唸ってしまった。
 麺の茹で加減がちょっと柔らかすぎたかな…というのが残念な所だったけれど
スープの味は上々で、そのまま店を出しても通用するんじゃないかと思ったくらいだ
 面向かってそう褒めたら、照れくさそうな顔をして謙遜していたけどな。
 自宅でこれだけの味を食べれるとは予想外だったよ。

 その二件があったから結構親しくなれたし…突然、面識もない状態で一緒の
屋根の下で生活するようになった割には俺たちは良好な関係を築けたと思う。
 けれど…太一って時々、凄く寂しそうな目をしているんだよな。
 顔はいつも笑っているんだけど…憂いを帯びているっていうか。
 マジで切なそうな顔して、さ。
 克哉も…退院してから本調子じゃないのか、時々…仕事が終わった後とか
凄く苦しそうにゼイゼイやっている時、あるしな。
 
 …うん、克哉が今…体調悪い状態で必死になって山積みになっていた仕事を
消化している大変な時期だっていうのは承知している。
 だが…事情があって家出をしている太一を二週間近くも放っておくのは…俺は
正直、薄情すぎるなと思った。
 夢を追って上京して…それを貫く為に家出まで決行しているような奴を…殆ど
面識がなかった俺に押し付けてそのまま…というのは酷いんじゃないか?
 そう思ったから、俺は決めたんだ。
 太一と克哉が一緒に話せる機会の一つでも設けようと。

 だから…俺は、太一に週末の夜に直接キクチ・マーケーティングの方に来て
もらうように頼んだ。そのまま三人で夕食でも食べようという算段だ。
 どこにあるのか詳しく説明しようと思ったんだが、太一は元々…その周辺は
常連客の配達をやっていたおかげでそれなりに知っていたらしい。

 …どんな事情があるのか、二人ともまったく話してくれないので…俺は事情は
まったく判らない。
 けれど…何となく、太一が眼鏡を掛けてからの『今の克哉』の方を良く
思っていない事だけは判っていた。
 …大学時代の、穏やかなで控えめな克哉の方の話は積極的に俺から必死に
引き出そうとする癖に、俺が会社の近況話をすると…凄く辛そうな表情を
浮かべるんだよな。

 …何か友人とか、知り合いとか…仲間とか、そういう間柄でさ。
 わだかまりが生じてしまうのって、しんどくないか?
 俺もバレー部のかつての仲間たちと…大きな溝を作ってしまった時にその
辛さは身に沁みたけどな。
 …俺にとって、どっちの克哉でも大事な仲間だと思っているし…あいつが入院
してから抱えている苦しみみたいなのも、美味いもん食べて酒飲んで騒げば
少しは晴れるかな、と考えた。
 
 …その提案をした理由を話した時の太一の微妙そうな顔を思い出すと
もしかしたら余計な事をしちまったのかな、と少し不安を覚えたが。
 俺が太一に美味いラーメンを食わせてもらった事をキッカケに距離が縮まった
ように…美味しい物、というのは人の心の警戒心とかを解す力はあると思うんだ。
 二人がギシシャクしているようなら…少しでも仲直り出来るキッカケを作って
やるのも良いだろ?
 
 そう思っての提案だった。
 だが…まさか、あんな展開になろうとは…この時点では
俺はまったく予想もしていなかったのだった―

 

『第二十四話 命の砂時計』 『Mr.R』

  さて、あの人が刺された日から…およそ40日が経過しました。
  …予想よりも長く、あの方が保っておられる事に私は感嘆していました。
  私の見立てでは。恐らく今頃には…限界が来て、すでに身動きが取れない状態に
なっていてもおかしくないと思ったんですけどね。
 最初の二週間程は…どちらの意識も落ちたままだったのが幸いしたようですね。
 もう少しだけ…佐伯克哉さん達には時間が残されている模様です。

 ふふ、人とは面白いものですね。
  人を愛する余りに盲目になっている者。
 他愛無い日常を平穏に静かに送る者。
 何も変化に気づかずに、兆候が目の前にあっても見過ごしてしまう者。
 秘められた恋心を己で自覚する事なく、欲望を抑えてしまっている者。
 ただ一度の邂逅を忘れられず…僅かな縁に縋り付きながら待つ者。
 愛し合う恋人たちを必死に引き裂こうとする者。

 これらの多種多様な人達の思惑に包まれながら…あの方にはどのような
結末が待ちうけているんでしょうかね。
 ですが…色んな役割を演じるコマが立ち並んでいるのも、また…物語に
深みを出す為には必要な要素なのかも知れません。

 幸せな日常を送っている者が、絶望を感じている人と接触する事によって
災いに巻き込まれたり。
 逆に追い詰められて今にも死を選びたくなるくらいの心境の人間が…
平和な日常を送る人間の暖かさに触れて、生きる気力を取り戻す事もあります。
 思わぬ人と人との接点が、時に…異なる絵の具の色同士を混ぜ合わせて
新たな色彩が生み出されるように…予想もしていなかった展開を紡ぎだす事は
世の中には多々あることですからね…。

 …貴方が、もう一人の克哉さんを其処に留めたままで動ける期間は…後、
十日もないでしょう。
 それまでに貴方は決断を下さなければなりません。
 
 もう一人の克哉さんか、貴方かが…奈落の底に落ちて眠るのかの選択を。
 あぁ…ですが、私の良く知る貴方でしたら、もう一人のご自分を優先して…
自らが飛び込むような真似はなさらないでしょうね。
 …余程の事情が存在しない限りは。

 ですが…あぁ、やはり貴方の苦しみは…私にとっては極上の美酒に等しい。
 もっとも欲しいと願っている存在に、決して自分自身が必要とされる事はなく。
 自分の存在を通して、もう一人の自分だけを求められるその苦悩。煩悶。
 その想いが極まって、淀んだ欲望へと変質した時…果たしてどのようなドラマが
繰り広げられる事なのでしょうか?

 あぁ…五十嵐様。
 貴方も今の内に…せいぜい、己の気持ちを伝えておかれると宜しいですよ。
 …後、十日以内で…恐らく、貴方の愛する方は長い眠りに就かれるでしょう。
 今なら泣き叫べば、必死に訴えれば届く階層に身を置かていますが…深層意識の
方へと身を移された場合は…最低数年は、決して貴方の声は届かなくなりますから。

 えっ? 私はどのような立場でいるか…ですって?
 …判りませんか? 傍観者ですよ。
 この先に待っているのが悲劇でも喜劇でも、滑稽な結末でも衝撃的な終局になろうとも
ただ静かに最後まで見届ける観客席の一人に過ぎません。
 あぁ…でも、よりドラマチックな展開になるのでしたら…ほんの少しだけ、運命という舞台
演目の中で躍る彼らの為に力添えをするのも悪くないかも知れませんがね。

 我が主になりえるかも知れない御方は…どのようにして…この先のシナリオを
演じて下さるのでしょうね。
 まあ…あの方の事ですから、もしかしたら…私の思惑や予想とはまったく異なる
筋書きを無理やり紡ぎだす…なんてやるかも知れませんね。
 それまで、せいぜい…私を楽しませて下さい。

 この運命の砂時計の、残り時間を示す砂が…完全に落ち切るまでは―
  『二十三話 良かったねご主人様』 『もんてん丸&静御前』

(本日はオカメインコ達の会話を翻訳してお伝えします。予めご了承下さい)

『ねえねえ、もんてん丸。今日…ご主人様、凄いご機嫌だよね~。何か楽しい事が
あったのかなぁ?』

『ん~最近、ずうっと…暗い顔ばかりしていたもんね~。こんなに嬉しそうなご主人様を
見れたの久しぶりだよねぇ、静御前』

 二匹がぴったりと寄り添ってさえずっていると、とても嬉しそうな顔を浮かべながら
片桐稔は二匹に餌をやり始めた。

「今日も遅くなってすみませんね~二匹共~。今日は君たちが大好きな新鮮な
小松菜を買ってきましたから許して下さいね~」

 何よりも愛情を注いで大切にしているせいか…片桐はオカメインコ達に与える食事に
関しては凄く気を使っていた。
 配合飼料や、市販のオカメインコ用の餌も組み合わせているが…出来るだけキャベツ、
レタス、ほうれん草、小松菜など生の野菜類も食べさせるように配慮を欠かさなかった。
 二匹は好物を用意されて凄く嬉しそうにカゴの中で飛び跳ねて、我先へと…野菜の方へと
飛んで向かっていった。

『わ~い! 僕の大好きな小松菜だぁ! って…何でキックしてくるんだよっ! 痛い…
痛いってば!』

『うるさいわね! 私だって小松菜大好きなのよ! あんた…普段私に餌の一つも
用意してくれない甲斐性なしなんだから…先に譲ってくれたって良いでしょ!』

『そんなぁ! 静御前が先に食べちゃったらお腹いっぱいになるまでいつも僕に
食べさせてくれなくなるじゃんか。僕だってこれは好きなんだから嫌だよ! 
せめて一緒に食べようよ…』

『ええぃ! うるさいわねっ! ただでさえ私はお腹が空いているのよっ!』

 もんてん丸がピーチクと鳴いて…静御前の理不尽な言い分に逆らっていくと
二匹のオカメインコは相手の顔をくちばしで突いたり、キックして威嚇したりと…
まったく譲り合う気配はなかった。
 人間でも鳥でも、好物に関しては拘ったり…より多く食べたがる所は一緒である。
 二匹の攻防は暫く続いたが…片桐はその様子を微笑ましげに眺めていた。

「二匹共、今日も仲良しさんですねぇ…。そんなに慌てなくても、足りないなら
小松菜のおかわりをあげますからケンカしなくても良いですよ…」

 それを聞いて、ちょっとだけ二匹は首を傾げる仕草をしていくと…大人しくなって
仲良く小松菜を啄ばみ始めた。
 どうやらケンカして相手を牽制しようという気持ちよりも…食欲の方が勝ったらしい。
 大好きなものを食べるとご機嫌になるのは鳥だって一緒なのだ。
 最初は牽制していた二匹も、いざ食べ始めてしまえば…すぐにそれに夢中になる。

「ふふ…今日は二匹とも、凄く沢山良く食べてくれますね。見ているだけで…嬉しく
なります…」

 自分の息子を幼い内に事故で亡くした事によって、妻にも離縁された片桐にとって…
この二匹のオカメインコだけが孤独を癒してくれる存在だった。
 もんてん丸と静御前が仲良く寄り添って、こうやって…美味しそうに自分の餌を食べて
くれる姿を見る事は、彼の元気の素でもあった。

「…ふふ、二匹共聞いてくれます? 佐伯君がやっと仕事に戻ってきて…八課も
抱えていた膨大な仕事が片付いたんですよ。僕たちが全力で取り掛かっても到底
片付かないぐらいの量だったのに…。眼鏡を掛けている時の彼は…以前とは別人の
ような時があるんですけど、本当にあの仕事ぶりは凄いなと感服しちゃいます。
 彼のような人が…八課にいてくれた事を、僕は誇りに思いますよ…」

 穏やかな顔をしながら、部下の事を語る口調は本当に穏やかで。
 逆に刺されてから克哉が退院するまでの期間は…落ち込みまくって、自分ばかり
責めている姿を見ていた二匹にとっては…その片桐の姿を見て、どこか安心したようだった。

『へえ~。何かご主人様が言っていた人…やっと戻って来たんだ。良かったねぇ~』

『そうだね~静御前。これであんまりご主人様の落ち込んだ顔、見なくて済むよね~』

『そうそう、私たちじゃ…落ち込んだ時、傍にいてあげるくらいしか出来ないしね。だから…
元気になってくれて本当に良かった~。私たち、ご主人様大好きだしね。ね? もんてん丸』

『うんうん、そうだよね。やっぱりご主人様が笑っている姿のが僕も好きだし』

 あらかた、小松菜を啄ばみ終えると…二匹は満足そうに餌の傍から離れて…代わりに
入り口のゲージ付近に近づいて、扉の端をクチバシで挟んで…上げ下げをするような
仕草をし始めていく。
 実際にクチバシで挟んで持ち上げた所で、鳥たちだけの力では逃げれる訳ではないのだが…
これは出たいから出してくれ、という彼らなりの意思表示であった。

「あぁ…二匹共、お外に出たいんですね。運動不足になっちゃうでしょうから…はい、
もんてん丸、静御前…どうぞ出て下さい」

 そうして、二匹のオカメインコを外に出していく。
 出た瞬間、バタバタバタと部屋中を飛び回り思いっきり羽を伸ばしていく。
 狭いカゴから解き放たれたばかりの鳥の姿は本当に壮観だ。
 自由に飛ばせると思いもよらぬ所にフンをしてしまったりと、案外大変だが…片桐は
短い時間だけでも家の中で好きなようにさせてやろうと、二匹を自由にさせていく。
 すると…暫く飛んだ事で満足したのか、ほぼ同時に二匹共…片桐の肩や腕に止まり、
頬ずりをするような仕草をして懐いていく。

「ん、静御前。くすぐったいですよ…今日は本当に甘えん坊さんですね…」

 自分の項の辺りにチョンチョン、という感じで啄ばんできて…そのくすぐったさについ
身を捩ってしまう。
 この一ヶ月、憂いを感じていた件がやっと落ち着いて…今の片桐は、愛すべき平和な
日常を感謝しながら過ごしていた。
 八課に克哉や本多がいて、プロトファイバーの売り上げの成果によって…リストラされる
のも時間の問題だった課が、今ではキクチ中の注目を集めるようになったエース的な
課にまでなった事で…今の片桐は非常に満足していた。
 主人の嬉しそうな顔を見て、オカメインコ達も嬉しくなったのだろう。
 ご機嫌の様子で片桐に懐き倒して、暫く暖かい時間が流れていく。

『良かったね、ご主人様』

『うん、笑顔が戻って来てくれて本当に良かった~』

 多分、鳥たちの気持ちは…片桐に正確に伝わる事はないだろうけれど。
 彼らがこちらの喜びを受け止めてくれている事だけは気配で察したのだろう。
 二匹の愛鳥を傍らに置いて、心底嬉しそうに彼は微笑んでいく。
 あの事件が起こったからこそ…こうやって平凡な日常をゆったりした気持ちで
送れる事に感謝しながら…。
 彼は、二匹の気が済むまで…部屋の中で自由に振舞わせていったのだった-
 

 

 『第二十二話 昔の克哉さん』 『五十嵐太一』


 

 本多さんの人に下宿をさせて貰って、五日程が経過した。
 最初、克哉さんにこの人の所に連れて来られた日に、丸ごとカレーの件で
二人が言い争いを始めた時には本気で上手くやっていけるかどうか不安を
感じまくったけど、ね。
 この人、暑苦しい部分もあるけど基本的に良い人だって事はその日の内に
判ったのでこちらも翌日には気軽に過ごせるようになった。
 ま、典型的な体育会系っていうのは否定出来ないけどね。

 本多さんの家族も、結構明るい感じで。
 俺としては予想外に過ごしやすい感じで助かっていた。
 まあ居候させて貰っている立場として何にもしないのは心苦しいので
朝早くに起きて本多さんの分のお弁当を作ったり、洗い物とか家事をチョコチョコ
手伝ったりして、結構重宝がられていた。

 木曜日の夜に帰宅した本多さんと一緒の時間に合わせてご飯を食べると
話題はやっぱり克哉さんの話になった。
 まあこの人と俺の場合共通ワードと言ったらやっぱりあの人の事以外になく。
 俺の事も結構聞かれたけど、実家の話をあんまりする訳にはいかないので
大学に通っていた事とバンドをやっている事。
 そして家出の理由は本格的にミュージシャンを目指しているのを実家に反対を
されたからという事にしておいた。
 この人をゴタゴタに巻き込むことは俺としても本意じゃないからね。

「ねえ本多さんって、克哉さんと大学一緒だったんでしょ? それなら昔の
克哉さんの写真とか持っていないっすか?」

ん? 持っているぞ。あいつ三年の初めにはいなくなってしまったし、あんまり
人付き合いも積極的な方じゃなかったからそんなにないけど。何枚かくらいなら
アルバムの方にあった筈だが」

「あ、それ見たい! 俺克哉さんと知り合ったのここ数ヶ月の事なものだから
それ以前のあの人の事は殆ど知らないもんで

「おう、良いぞ。それじゃメシ食ったら後で大学時代のアルバムを見せてやるよ」

「やったっ! 約束ですよ本多さん。絶対に見せて下さいね!」

 本多さんが写真を見せてくれる事を承諾してくれたので、すっごい嬉しかった。
 あ~あ、やっぱり俺って克哉さんに恋しちゃっているんだなって実感した。
 あの人の昔を知る事が出来るってだけでこんなに喜んじゃっているんだから。
 それで片付けを終えて、本多さんの部屋に行くとソファに一緒に腰掛けながら、
この人の大学時代の写真が収められたアルバムを4冊持ってきてくれた。
 本多さんってアクティブな人だったんだろうな。
 色んな場所に合宿行ったり、旅行していたらしく写っている風景も様々でバラエティに
富んでいた。

 その中で一際目を引いたのはどこか憂い気な表情を浮かべて、バレー選手の
ユニフォームに身を包んだ状態で膝を抱え込んでいる克哉さんの写真だった。

「うわっ! 本当に克哉さんバレーやっていたんっすね。けど、この写真の
克哉さん少し寂しそうな感じだ

「あぁ克哉って、リバロとしてのセンスも良かったし実力があったんだけどな。何か人に
遠慮するっていうか、人付き合いに対して積極的じゃない部分があってな
 こんな風にポツン、と一人でいる事も結構多かった。俺は高校時代にたまたま、あいつの
プレイを見ていてコイツは選手として一流だ。欲しいなと思っていたんだけどな。
 どうしても周りから少し浮いちまっていたせいで結局、仲間と上手くいかなくて
こいつの才能が目が出ないままだったのは本気で勿体無い、と思ったぜ

あ~克哉さんって本気でそんな感じですよね。人に配慮しすぎっていうか、考えすぎと
いうかマジでそんな感じで。
 俺も話聞いているとあの人の説明って判りやすいし、聞いてて楽しいから営業を
やる人として克哉さんって結構、良いんじゃないかな~と思っているんだけど当の本人は
凄く自信なさげなんだよね。俺もそこら辺は勿体無いって思っていたっす」

「おお! その通りなんだよなっ! あの自信がない部分が本気で克哉はもったいないな~と
以前から俺も感じていたんだよっ! まあ俺は結局、あいつと同じ会社にたまたま就職して
その後の付き合いも続いたから思う事なんだけど
 退院してからの克哉は結構自信がついてきたみたいで良かったと思っているがな」

 その言葉を聞いた時、ピクンと俺は震えた。
 退院してからの克哉さんは、あの眼鏡を掛けている方なのだ。
 それを良かったと言う本多さんに少し反発を覚えていく。

退院してからの克哉さんって以前と違うっていうか全然違う人みたいじゃないすか?
それでも本多さんはマジで良かったと思っているんですか?」

 この問いだけ、結構険を含んでいた。
 あぁでもこの本多さんって人はマジで鈍いというか、空気が読めない人なんだろうな。
 俺がそんな態度で尋ねたにも関わらず、相変わらず豪快な笑みを浮かべながら
答えていった。

「あぁたまにプレー中に、今のあいつのような部分がチラっと覗いていたからな。
あの克哉の姿も、以前から本来あったものだと俺は思っている。
 最初別人みたいになった時には違和感は俺も覚えたけどな。それでもそういう
一面もアイツの一部なんだから、俺は受け入れているけどな

「そう、なんですか

(まあこの人は俺みたく、人格変わった克哉さんに犯された訳じゃないだろうしな

 俺はそれ以上どう言葉を紡げば良いのか判らなくて、パラパラとアルバムのページを
捲っていく。
 すると一枚だけ、植え込みの前で綺麗に微笑んでいるものを見つける事が出来た。
 柔らかい表情を浮かべて、目元を細めて凄く優しい顔をしながら桜を眺めているものだ。
 それに目を留めた時、本多さんは楽しげに笑っていた。

「あぁその一枚、良いだろ? たまたま通りかかった時に珍しいなと思って撮影
してしまったんだがな。ま、克哉は恥ずかしいだろ! とかびっくりしたんだけどって
言って少し怒っていたがコイツがこういう顔をしていると、目を引くよな。
俺は結構その写真の克哉、気に入っているんだがな

「えぇ凄く可愛いなって。やっぱりこの人可愛いですよね。守ってあげたいって
いうか…あの、この写真を焼き増し出来ないですか? …どうしても、これは
欲しいんですけど…」

「ん? 構わないぞ? 確かネガがその辺にあったと思うから。ちょっと待ってろな…」

 そういってソファから立ち上がると…本多さんは収納庫の方に向かい…何やらゴソゴソと
探り始めていく。
 少しすると、大きな段ボール箱を抱えて俺の方に戻ってきた。

「確かこの箱の中に大学時代に撮影した写真のネガは全部纏めておいたと思う。
この中に…さっきの克哉の写真のネガもあったと思うが、どれがどれだか…まったく
探してみない事には判らんな…」

「うっわ…これ、凄い膨大な量あるっすね。…確かにこれは大変そうだけど、この中に
さっきの克哉さんの写真あるんですよね? それなら探しますよ」

 そういって、ネガを一枚手に取っていくと…フィルムに収められたネガを光に透かして
探し始めていく。

「…お前、そんなに克哉の写真欲しいのか。よっぽど仲が良いんだな」

「えぇ、俺…克哉さん大好きですから。だからあの人の写真は欲しいです」

 ちょっとストレート過ぎたかな、と思ったけど…別段、本多さんは変わった様子はなく
さっきまでと同じく、楽しそうに微笑んでいた。
 …反応からして、友人として好きだと思われているんだろうなと判ったので…ちょっとだけ
ほっとしていく。
 大学時代から一緒で、今も同じ職場に働いていて…少しその境遇に嫉妬を覚えたけど
この人が『そういう意味』で克哉さんを意識していないって、顔と表情を見れば判ったから。
 俺が必死になって探していると、本多さんも手伝ってくれた。
 そうやって30分くらい、反転して見づらい写真のネガと睨めっこしていると…。

「あっ! これだ! 構図からして…さっきの写真に間違いない! 後…その下の段に
膝抱えているのも一緒に映っている。これ…二枚とも下さいっ!」

「そっか! 良かったな! やっと見つかったか…! けど…探してみたけど、本当に
克哉の写真って少ないな。バレー部の全体集合写真とか、みんなで撮った奴なら…
それっぽいの結構映っているんだけど、あいつ単体で撮影した写真がこんなにないとは…」

「…同じ部活の仲間だったんですよね? それなのにどうしてこんなに無いんですか…?」

「…あぁ、その…これが理由だ」

 そういって、本多さんは二枚の写真を…定期入れから取り出して俺に見せてくれた。
 一枚はお互いにバレーのユニフォームに身を包んでいる姿で、もう一枚は…社会人に
なってスーツ姿で居酒屋らしき場所で肩を組んで映っている写真だった。
 ただ…どちらの写真も、本多さんはいつものように豪快な笑顔を浮かべているのに対し
克哉さんの方は困っているようなはにかんでいるような…笑顔というには程遠い顔を
浮かべていた。

「…何か本多さんの表情に比べて、克哉さん…浮かない顔しているっすね」

「あぁ…それは俺が頼んでどっちも、大学入学当初と、キクチに入社した時期の歓迎会で
撮影したモンなんだが…出来上がった時の克哉の表情見てな。
あまりこいつは写真とか得意じゃないんだな…というのが態度で判ったので、あんまり
克哉と写真を一緒に撮影するって機会がなかったんだ」

「そう、なんすか…」

 そういえば俺も、会社帰りの克哉さんとたまたま合流した時に…通りかかったゲーセンで
プリクラの一枚でも撮りません? と聞いた時に丁寧に断られたような気がする。
 携帯で…どうにか一枚、撮影させて貰ったけれど…その時も、はにかんだような…
そうだ、この本多さんが見せてくれた写真と、そっくりな顔をして映っていた気がした。

「そう考えると…この写真って、本当に貴重な一枚なんすね」

「そうだな…俺も克哉がそんな笑顔を浮かべている姿は、滅多に見た事ないからな。
…メチャクチャ貴重かもな」

「なら、絶対に焼き増しして下さいね! こんな顔した克哉さんは俺も…あんまり
見た事ないから、ね…」

「あぁ、明日出勤する時に出して来てやるよ…。おっ、今日はもうこんな時間か。
そろそろ風呂に入ったりしないと寝るのが遅くなってしまうんで…今日はこの辺でな。
克哉が戻ってきてくれた事で少しは楽になったが…まだまだ、やらないといけない仕事は
山積みの状態なもんでな…」

「えぇ…俺がアルバムとネガを片付けておきますので、本多さん…お風呂に行って来て
下さいよ」

「お、その言葉に甘えさせて貰うな。それじゃ宜しく」

 本多さんはそういうと、さっさと着替えを持って浴室の方へと向かっていった。
 そしてアルバムを戻していく最中に…例の二枚をそっと抜き取っていく。

(焼き増しした分を後でこっそりと戻しておけば問題ないよな…)

「へへっ…この克哉さん、本当に可愛い。あ~あ…同じ年で、一緒の大学に
通っていたなら良かったのにな…」

 現実的に克哉さんと俺の年って、四つは離れているから…どうやっても
同じ大学に通うことは…克哉さんが留年でもしてくれない限りは無理だし。
 ついでに専攻している学部とかそういうのも違うだろうから絶望的なんだけどね。
 でも…だから、一緒の大学で同じ部活で過ごしていた本多さんに…猛烈な嫉妬を
覚えてしまう。

「克哉さん…」

 会いたい、と強く思った。
 この写真のような笑顔を浮かべている貴方に。
 桜を眺めながら優しく微笑んでいる克哉さんの写真を眺めている内に…。
 何故か、俺の目から…一筋の泪が、そっと零れていったのだった―
 
 『第二十一話 優柔不断』 『


  卵の中には一人分しか孵す栄養しかありません。
  けれどその中に二つの黄身が入っています
  殻の中にあるのは、一人を満足に生育する分だけ
  さあ…二人が満足な状態で殻を突き破る方法などあるのでしょうか?

(出来ない…)

 夢を見る合間に、克哉が呟く。
 あの日…もう一人の自分にこの泉に放り込まれた日から、ずっと克哉は
迷い続けていた。
 自分が取るべき道は一つしかないって判っているのに…その手段を選びきる
事も出来ずにグズグズしている事に、克哉自身も焦燥を感じていた。

(…俺には、どちらの道を取る事も出来ないよ…)

 本当なら、こんな夢を見るくらいに浅い場所ではなく…もっと深い処。
 誰の心の中にも空いている、精神の奥に潜む奈落の穴。
 弱っていたり、苦しんでいたりする時に断裂を広げて。
 夢をみる事さえもない…深い眠りに誘う場所。
 今の自分はそちらの方に向かわないといけないのに、そちらに
飛び込む勇気すら持てずに一ヶ月の月日が経過していた。

(…本当に情けないよな、俺って…だから今…表に出ているのは
あいつの意識になってしまっているんだよな…)

 傲慢で自信に満ち溢れているもう一人の自分。
 例えるなら…刺される前まで自分たちには100の力があった。
 それだけあれば二つの意識を所有していても何の問題なく身体を
動かせたし、片方が浅い場所にいても支障なかった。
 だがあの時に、自分たちの生命力は一旦…50、半分程度に
まで落ちてしまったのだ。

 …50の場合、もう一つの意識にまで回す力がない。
 自分の身体を動かし、生命を維持するのが精一杯で…これが
ゼロになれば、精神はどちらも『死』にもっとも近い状態になる。
 肉体はそういう時、生きる力が満ちている方を選ぶ。

 だから片方の意識をシャットアウトして…眼鏡というキーアイテムを
掛けたり外したりしなくても、一つの意識だけが出る状態を選択し…
余分な力を消耗しないようにしていったのだ。
 それでも、深い場所に行かない限りは…少しずつでも、毎日…
消耗していく。
 なのに、何故…もう一人の<俺>は自分がここにいる事を
許してくれているのか、その理由が判らなかった。

(…二人が生き延びる道を選ぶなら、本来ならもっと早くに…
決断しなければ、ならなかったのに…)

 自分が、奈落の底に飛び込まない限り…少しずつ、彼の方にまで
消耗が及んでいく。
 だが…そうすれば、いつ目覚めるか判らなくなる。
 自分が元に戻れるまで…どれくらいの月日、何年か十何年か…
もしくはもっと掛かってしまうのか、それすらも読めない。
 それを承認すれば、徐々にでも回復していく。
 だが…そうなれば。

(もう太一には会えなくなる…)

 それだけが心残りで、決断し切れなかった。
  彼と言葉の一つを交わす事も出来ずに…底に飛び込む事だけは
どうしても出来ずに、ここに留まり続けている。

 たった一言でも良い。
 彼に対して直接謝って…この想いをせめて伝えておきたい。
 そうすれば…いつ起きれるか判らない死にもっとも近い夢を見る事に
なっても…悔いは残さないで覚悟を決められる。
 だが…彼に会えないままなのは、嫌だったのだ。
 それが自分の我侭だと判っていても…みっともないと承知の上でも
克哉は…受け入れる事が出来なかったのだ。

(けれど…オレにはもう一つの選択肢を選ぶ勇気すらない…)

 歯噛みしながら、克哉は泣いていく。
 深い泉の底で…泪を溢れんばかりに溢して…その現実に
胸が引き絞られそうだった。
 たった一つ…この事態を覆す方法は、存在する。
 だが…それは、もう一人の自分の生命力を奪って…彼を
代わりにこの奈落の穴に叩き込む事だ。

 この精神の世界では二人同時に存在する。
 その彼から生命力を無理やり奪う事は、彼を殺す事に等しい。
 そして奈落の穴に代わりに叩き込めば、相手の方を…いつ目覚めるか
判らない眠りに追い込む事になる。

 この克哉の心は優しかった。
 佐伯克哉という人間の、「誰も傷つけたくない」という感情から生まれた人格。
 そんな彼に、どうして…自分の為に「人を傷つけたり、殺めたり」する事など
出来ようか。

 優しいという事は、優柔不断でもある。
 人を傷つけることを承認出来る者は、同時に決断力を持っているという事でもある。
 己のエゴの為に、もう一人の自分を殺す。
 そうしなれば…状況をひっくり返して、代わりに今の彼が…『今すぐ』に表に出る
手段は存在しない。
 だから彼は泣き続ける。

 今の自分がどれだけ情けなくてみっともないか…自覚はあっても。
 一番大好きな人と、もう一人の自分自身を天秤に掛けて…片方だけを選ぶ事は
この段階ではどうしても…出来なかった。

 たった一度で良い。
 どうかどうか…太一と言葉を交わす機会を下さい。
 それさえ叶ってくれれば…。
 自分は奈落の底に堕ちても構いませんから-

 そう願いながら、彼は今も眠る。
 狂おしいまでの…後悔の念と、強い恋慕に身を焦がしながら…。
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自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
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 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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