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正直に思った。
だが、御堂孝典は物事を曖昧にしておくのが何よりも嫌いな
性分だった。
かつての自分の部下でもあった男が口にした―佐伯克哉が
夜の歓楽街で遊んでいるという噂。
それを聞いた時、ショックだった。
自分とて男だ。同性の生理欲求というのは良く判っている。
男性である以上、ストレスが溜まっていたり疲れてくると無性に
快楽を欲する時がある。
それくらいは判っているのだが…「あんたの事も好きだともっと早くに
気づけば良かった…」と、自分にそんな告白を残して消えた男が、自分と
再会したにも関わらず…他の相手と遊んでいるという事実が、どうしても
御堂には腹立たしかった。
あんなのは偶然だと思おうとした。
そんな真似をしでかしている奴なら、さっさと忘れてしまおうとも考えた。
だが…話の真偽を確かめなければ、間違った判断を下してしまう恐れも
あったので…御堂は一人、夜の歓楽街。
例の佐伯克哉が最近、頻繁に出入りしているという新宿二丁目へと
足を踏み入れていった。
目の前に広がる鮮やかなネオンの集まりは、夜の帳が下りた後では圧倒的な
存在感を放ってこちらの目を焼くぐらいだ。
其処に緊張した面持ちでその入り口に立っていくと…御堂は険しい表情を
浮かべながら人の流れを目で追っていた。
(本当にこんな処に…アイツが、いるのか…?)
今までの人生の中で、接待でゲイバーなどを指定してくるクライアントとかも
あったので何度か夜にこの界隈に来た事があったが…一人で歩いたことは
一度もなかった。
―まさかこのような場所に足を踏み入れる事になるなんて、予想もした
事がなかった。
しかし、この近辺を歩いたことがない以上…どの辺りを探せば良いのか
自分には判らなかった。
知識がない以上、どこを歩けば効率が良いのか…どの店に行けば良いかすら
見当がつかない。
だから御堂はともかく、ガムシャラに高速で歩き始めていた。
(ともかく奴を見つけるしかない…)
もし、必死に捜索して見つからなかったとしたら…その時はあの噂は
デマに過ぎなかったと割り切れば良い。
そう考えて、鬼気迫る形相で大股で歩き始めた。
御堂自身はそれで注目を浴びている事などまったく気づいていなかった。
(何をそんなにジロジロと見ている! 私は人探しをしたいだけだっ!)
心の中で苛立ち混じりに叫んでいく。
その瞬間、目元が恐ろしいぐらいに吊り上って更に怖い形相になっていた。
御堂自身、非常に整った容姿の持ち主である。
全身を仕立てがしっかりとしたスーツに身を包んで…髪の毛のセットにも
一部の隙もない。
そんなエリートサラリーマン然をした人物が、夜の街を険しい顔で練り歩いたり
したら目立つことこの上ないのだが、本人にその自覚はまったくなかった。
御堂の硬質な美は、知らず…周囲の男達の視線を集めていく。
だが、余りに顔が怖い状態なので…誰も声を掛けられない状態になっていた。
ジロジロと見られてしまっている事だけは気づいているが、それが余計に
周囲の注目を集めていってしまう。
この時間帯に街を歩くのは目的の店に向かう道筋か、待ち合わせ場所に
向かっているか…もしくは、相手を物色しながらナンパの機会を狙っているか…
そんな感じだ。
御堂に声を掛けたい、と思う男は何人もいたが…恐ろしい速さで歩き
回っている為に誰も声掛けられない。
悪目立ちも良い処であった。
「佐伯、どこだ! どこにいるっ!」
知らない間にそんな言葉を零していきながら…
そんな調子で30分も街中を歩いていたら、疲れて来た。
早足をスーツ姿でそんな長時間続けていたら体力の消耗が激しくて
当然であった。
流石に少し休もうと肩で息をしながら、少しペースを緩めていくと…
近くにいた男が近寄ってくる。
黒髪の、蒼い目をした男だ。カラーコンタクトを使っているのか…
独特の雰囲気があって、少し目を惹く人物だった。
「…おに~さん、美人だね。一人?」
「取り込み中だ。ナンパに応じる気はまったくない」
「あ、そ、そうなんだ…」
「…という訳で失礼する」
相手がこちらに会話の糸口を求めて声を掛けているのに関わらず
一切取り付く暇を見せなかった。
きっぱりと切り捨てるように言い放っていくと…そのまま踵を返す辺り
ナンパしようとする人間の立場すらなかった。
ショボンと黒髪の青年は落ち込んでしまっているようだが…初対面の
人間に必要以上に関わる気はまったくない。
自分が求めるのはただ一人…あの男だけ。
(佐伯…どこにいるんだっ!)
念じるように、心の中で叫んでいく。
強く、激しく…まるで焦がれているかのように!
その強い念が功を成したのか…ふと、行き交う人波の狭間に…一瞬だけ
あの男の後姿を見たような気がした。
誰か、見知らぬ人間を連れて二人で歩いている姿を見て…御堂は
思わず追いかけていってしまった。
「佐伯っ!」
声を掛ける、だが振り向く気配はない。
御堂の声は、夜の街の喧騒に掻き消されてしまって少々声を
張り上げたぐらいでは届かなかった。
だが、それでも御堂は諦めない。
必死の表情をしながら…佐伯克哉と思しき人物の背中を追いかけ始めていく。
―その後に、どんな運命が待ち受けているかも未だ知らずに―
相反する感情が、時に同じ強さを持って反発し…心の中でせめぎあう。
愛と憎しみは特に、相手への関心が強いから生まれる。
他者への強い関心はプラスの方向に転じれば愛と呼ばれ。
マイナスの感情が伴えば憎しみと名をつけられるようになる。
なら、今…この胸に巣食う感情はどちらなのだろうか。
一人の男へと抱く想いは、愛か憎しみか。
それとも別の名前で呼ばれる気持ちなのか…未だに彼には
判らないままだ。
ただ、一つだけはっきりと言えるのは…。
その答えが知りたくて、自分は…あの男に会いたいと願っている事だった―
―季節はもうすぐ、冬を迎えようとしていた。
いつもと変わらない、都内近郊の駅の光景。
多くの人間が朝から行き交い、一つの大きな波のようになって流れていく。
御堂孝典は例の駅の中で、電車で通勤する日は佐伯克哉の姿を
ずっと探し続けていた。
だが、そんな日々を何週間も続けても…あの日以降、彼の姿を見かけることは
一度としてなかった。
「佐伯…」
知らない間に、探している男の名前を呟いていた。
朝の時間は、貴重だ。
物の本によれば活力が満ちている朝の時間は…夜の2~3倍は生産能力が
勝っているという。
そんな時間を割いてまであの男を探して何の意味があるというのか?
(私をあんな目に遭わせた男に…もう一度会いたいなど、一体何を考えている
んだろうな…)
自分でも、ついそんな自嘲的な想いに囚われてしまっていた。
それでも…逢えない期間、彼に会いたいと願う気持ちは募っていく。
静かに降り注ぐ雪が、いつしか厚い層を成すように…御堂自身が気づかない内に
彼への気持ちは、日増しに増していった。
(この辺りでつい足を止めて…あいつの姿を探すようになって、どれくらい
経ったのだろうか…?)
決して交差する筈のない、お互いの通勤圏内。
それを押してまで、御堂が彼に声を掛けるまであの男は恐らく朝早くから
この駅に足を向けて…御堂を遠くから眺めていた。
その行為の意味を、あいつの口からはっきりと聞きたかった。
そうしなければ、このすっきりしない気持ちは決して晴れないだろう。
何故、離れてもあの男はここまでこちらの気持ちを掻き乱すのか。
答えはもう、自分の中で殆ど出てしまっている。
…ただ、御堂自身が認めたくないだけだった。
「…ここまで待っても逢えないなら、これ以上は無駄だな。そろそろ…」
一応、御堂の中でここで立って克哉を待つ時間は15分…と決めてあった。
それくらいの時間なら、朝…喫茶店でモーニングセットを頼んで食べ終わるまで
の時間の範囲で済むからだ。
リミットはもう訪れていたので…踵を返して、その場を立ち去ろうとした瞬間。
信じられない声の主に遭遇した。
「…御堂さん?」
「っ…!」
あまりに懐かしい声だったから、声を掛けられた御堂自身が驚いた。
慌ててそちらの方に振り返ると…其処にはMGNに在籍していた時代に自分の
直属の部下であった藤田が立っていた。
そういえば藤田の自宅からMGNに行く途中に、確か彼も乗り換えでこの
駅を利用していたことを思い出した。
…MGNを強制的に退社させられてすでに一年以上が経過していたので
すっかりとその事は失念していたが。
「…うわっ! 本当に御堂さんだ! まさか…こんな処に会えるなんて思って
いませんでした…! お久しぶりです!元気でしたか?」
「あ、あぁ…君こそ元気そうで何よりだった。…君はまだMGNにいるのか?」
「御堂さんこそ今はどちらにおられるんですか? えぇ、こちらはまだMGNに
在籍して…御堂さんの後釜の佐伯部長の補佐についています」
「っ…! そうか…今の佐伯君の補佐は、君なのか…」
良く考えたら、あの男は自分の就いていた役職をそのまま奪ったのだ。
そうなれば…そのまま、藤田があの男の補佐役に就くのはむしろ当然だった。
それでも、佐伯という名前を聞くだけで自分の心は大きくざわめいてしまっている。
ドクンドクンドクン…。
自分のかつての部下と話しているだけなのに、どうしてこんなに緊張しなければ
ならないのだろう。
知らず鼓動は早鐘を打ち、うっすらと汗ばんで来てしまいそうなぐらいだった。
「はい…佐伯部長の下で、働かせて頂いていま、す…」
…瞬間、藤田の顔が著しく曇っていった。
何か悩みがあるような、そんな険しい表情を浮かべたのと…いきなり声のトーンが
下がったことに御堂は気づいていった。
「…佐伯の下で働いていて、何か問題でも起こったのか?」
「い、いえっ! そんな事ないです…! 気のせいですよ!」
そういって無理に笑顔を使って明るそうに振る舞ったが、どうしても不自然な
印象を拭えなかった。
御堂はそれに酷く引っ掛かるものを覚えた。
…今、佐伯克哉がどうしているのか。
まず…今の彼は、それを知りたいと思った。
ここで現れた藤田はまさに、その絶好の機会そのものでしかない。
「…藤田君。何か悩みがあるのなら…とりあえず口に出してみたらどうだ?
あまり重要な問題を人に吹聴するのは問題があるが、抱え込んでしまっていては…
精神の衛生上、非常に悪いと思う。すでに私は他社の人間であるし…一応は
君の直属の上司でもあった。かつての部下が悩んでいるのなら…無視は
出来ない。良かったら話して貰えるか…?」
MGNでの部長職時代に、こんなに自分の部下に対して親身になって
相談に乗ってやろうという姿勢を御堂が見せた事など一回もなかった。
自分でも良く言うものだ…と思ったぐらいだ。
だが、それでも御堂は必死だったのだ。
ほんの僅かでもあの男の情報を得たいと思った。
そしてその熱意は…藤田の方にも伝わっていく。
密かに憧れていた尊敬する上司。
その人物が真摯な表情を浮かべながら自分を案じてくれたのなら…どうして
申し出を撥ねつける事が出来ようか…。
「…本当なら、御堂部長に…このような事を漏らすのは…補佐、失格でしょうね…。
けど、俺には…どうしたら良いのか…判らなくて…」
上司の例の噂の件は、ここ半月ばかり藤田を深く悩ませていた。
本来は他社の人間になった御堂に漏らすべき問題じゃない事も承知している。
だが一人で抱えるのは正直…重すぎて、苦しすぎて…まだ歳若い彼には
辛いものがあったのだ。
暫くそれでも迷い続けていた。
だが、ようやく重い口を彼は開いていく。
―そして御堂にとって信じたくない衝撃的な内容がかつての部下の
口から静かに明かされたのだった―
明け方に歓楽街のホテルの一室で眠りに落ちていた最中、そんな声が
頭の中に鮮烈に響いて、意識が覚醒していった。
「…朝、か…」
たった今、聞こえた声に対して…苦いものを滲ませながら克哉は
呟いていった。
整えられたビジネスホテル風の、素っ気無い内装の室内。
窓から朝日が差し込み、その窓の向こうにはネオンが消えた歓楽街の
光景が広がっている。
昨晩も、凶暴な衝動を自分の中から逃す為に…適当な相手に声を
掛けて一夜を共にした。
隣に寝ている青年は色素の薄い髪をした、いかにも遊び慣れた雰囲気を
漂わせていた。
何となく初めて眼鏡を掛けた日に抱いた、『秋紀』とか言う少年に似ている
気がしたが…今の彼にはそんな事はどうでも良かった。
隣に眠っている青年は眠っているというよりも、ぐったりとして意識を
失っているといった感じで…全身にこちらが噛み付いたキズや、痛みが
伴うぐらいに吸い上げた痕が刻みつけられている。
それは昨晩も…克哉が欲望と衝動のままに行きずりの人間を犯し
まくった証でもあった。
―代わりじゃ、物足りない癖に。本当に欲しいものを食べない限りは…
お前の欲望は決して満たされないよ…?
(また…お前か。いい加減、黙れ…)
甘くねっとりと誘惑の言葉を囁く自分に対して、苛立ち混じりに頭の中で
克哉は答えていく。
―あっはっは…! 嫌だね! 僕だってお前だもの…! こうやって自己主張を
したり言葉を発する権利ぐらいはあるからね! それよりも…認めなよ。
あの男が欲しいって! あの甘美な肉体の味をもう一度味わいたくって堪らないって
気づきなよ! 自分の欲望に忠実なのが…お前なんじゃなかったの?
頭の中のもう一人の自分の姿が、ゆっくりと浮かんでいく。
それは…気弱で自信がない、うだつの上がらないもう一人の自分ではなかった。
其処に立っていたのは12歳の頃の自分。
今の克哉と、弱い彼の元となった…存在。
色に例えるなら、今の克哉が青で…弱い方の克哉を黄色と例えるなら
原色の緑に当たる部分が、この12歳の自分だった。
御堂を愛し、解放するまで…ごく自然に自分の中に溶け込んで存在していた。
けれど彼を愛して、欲望を抑えるようになった頃から…自然と分離して、そしてこんな
誘惑の言葉をまるで悪魔のように囁く存在になっていた。
(…そうだな。欲望に忠実に生きて来たのが…俺だ。だが…お前の言葉はそれでも
却下させて貰おう。俺はそれでも…二度と、御堂の元に現れるつもりはない…)
―あ~あ、随分とお前…つまらない奴になったよねぇ。御堂って奴を本気で
犯して監禁して、乗馬鞭で打ちつけたりしていた頃のお前の方が輝いていたのに…。
おかげで僕は退屈でしょうがないよ…。その辺の奴をどれだけ犯そうが、貪り
尽くそうが…今のお前の欲しいものはすでに心が決まっているんだ。
代わりで、その飢えは癒されないよ。それでも…お前はそんなバカな真似を
繰り返すつもりなのかなぁ…?
子供特有の、残酷な一面を覗かせながら…頭の中で、少年のままの自分が
嗤(わら)っていた。
だが…そんな自分の声に抗うように、克哉は首を横に振っていく。
(バカで結構だ…それでも、俺は誓った。二度と御堂を傷つけないと…。
一度、あいつの生活も人生もグチャグチャにした。同じ過ちを二度…俺は
繰り返すつもりはない…!)
―バ~カ…。そんな自分に嘘ついて生きたら、窮屈でつまらないだけじゃないか?
お前はすでに自分の欲望と本能のままに生きて、解放される楽しさを存分に
知っているんだろ? それなのにそのやせ我慢…どこまで出来るのかなぁ
どこまでも厭らしく、少年はこちらを嘲り続ける。
その声こそ、御堂を傷つけたくないと強く望む心と同時に存在する…自分の
本音でもあるのだろう。
(一生でも、してやるさ…)
それがやせ我慢である事は承知の上だ。
―つまんないねぇ。本気でそんな事をするつもりなのぉ…?
(あぁ…本気だ。だからお前の戯言に付き合ってやるつもりはない…だから、
失せろ…)
―ふ~ん、そう? それなら僕の勝手にさせてもらうよぉ?
つまらなそうに少年が呟くと同時に、また…強烈な衝動が湧き上がってくる。
心を焼き焦がすぐらいに激しく、自我を失ってしまうぐらいに強く…性衝動や、憤りに
似た強烈な感情が、胸の底から溢れ出してくるようだった。
それは…彼の心の悲しみや痛みから生まれ出ずるもの。
―誰よりも飢えているくせに、そのやせ我慢がどこまで続くかを…僕は
ここで見守っていてやるよ。
人は愛を求めて、時に飢える。
本当に欲しいものが手に入らない時。
自分の本心や本性を捻じ曲げて、理性で生きている時。
それに抗うように…激しい衝動が湧き出て、コントロールを失わせてしまう
時がある。
今の克哉はまさにそんな状態で…いつ、心の中の欲望と衝動の爆弾が
爆発して、自分の予期せぬ結果を招くのか判らない不安定な状態がずっと
続いていた。
それでも、御堂を襲わない為に。
会社や、周囲の人間に影響が出ないように。
男達が集う歓楽街を彷徨い歩く社会的なリスクを背負ってでも…今の
克哉にはそうやって、自分の心を逃がす以外に術はなかった。
行きずりのどんな男性遍歴を持っているのか判らない相手と寝る時は
克哉も必ずコンドームをつけるように配慮している。
それもまた、性欲の発散を中途半端なものにしている要因になって
いるのだが。
御堂の内部のあの熱さと、キツさと…甘美さを鮮烈に覚えている
克哉にとっては、どんな相手も…あの存在の代わりになどならない。
他のを知れば知るだけ、満たされぬ想いは募り…彼を焼き焦がしていった。
―正直になれば、楽になるのになぁ…
出勤時間まで、まだ随分と時間があった。
だからもう一寝入りしようと横になった途端、残念そうな少年の頃の自分の声が
響き渡っていく。
残酷な部分を残したままの、自分自身。
愛を知って、相手を傷つけたくないと知ったから自分と乖離してしまった部分。
それが彼の内側から、常に誘惑の言葉を吐き続ける。
克哉はそれでも…それに対して抗い続けていた。
だが、御堂を想う心が強くなればなるだけ…欲求もまた激しくなり、日増しに
こちらの殻を突き破ってしまいそうなぐらいに膨れ上がっていく。
それでも、それに負けてなるものかと…克哉は短く呟いていった。
『うるさい。少し黙れ…』
そう、あっさりと冷たく言い放ち、一時のまどろみに落ちていく。
そんな彼の中で…少年のこちらを嘲笑する声が、けたたましく響き続けて
いたのだった―
経過していた。
一定の睡眠時間を確保するようには心がけていたが、それ以前の
生活に比べて睡眠時間が常に1~2時間足りない生活を続けていれば
身体に負担が来てもおかしくはなかった。
MGNの企画部長室。
かつて御堂が在籍していた頃は、彼が使っていた部屋で…克哉は
一年近く仕事を続けている。
正式にキクチからMGNに移籍した時期から、藤田と言う青年が
補佐役につけられていた。
藤田は裏表が無く、良く言えば誠実な人柄…悪く言えば人の裏を読んだり
策を巡らすのが苦手そうな性格の持ち主だった。
その日の克哉は顔色がどこか悪く、血の気が失せていた。
青白い顔をしながら険しい表情で仕事をこなしている姿はどこか
鬼気迫るものがあった。
「…あの、佐伯部長。体調が優れないようなら…早退なさった方が
良いのでは…ないでしょうか?」
部下の藤田が恐る恐る、こちらの顔色を伺うようにこちらに声を
掛けてくる。
それに対して、冷たく一瞥を返しながらきっぱりと告げた。
「…問題はない。軽い頭痛がしているだけだ…」
「それなら…」
「すでに新しいプロジェクトの準備期間は始まっている。それをただ…
軽い頭痛ぐらいで滞らせろというのか?」
「…それは、その通りですが…」
自分の上司が言う言葉は正論だ。
社会人である以上、己の体調管理もまた仕事の一環である。
部長という役職に就けば当然、一般の平社員に比べて圧し掛かってくる
責任は段違いに重いものがある。
多少の頭痛や腹痛ぐらいで早退したり、休んだりするなど…言語道断
以外の何物でもない。
それぐらいのことは藤田にだって判っていた。
(…俺だって、この人にそんな事を言うなんておこがましいという
自覚ぐらいはあるさ…。けど、佐伯部長…最近、見てられないっていうか…
放っておいたら、怖いことになりそうで…)
藤田が密かに尊敬していた上司、御堂の突然の無断出勤。
連絡もなく、足取りも掴めず…上層部は何枚も何十枚も御堂の自宅に
FAXを送ったり、秘密裏に探偵を雇って足取りを掴もうとしたが…連絡を
突然絶った御堂がどこに消えたのか何ヶ月も判らないままだった。
その後、他者から引き抜かれた佐伯克哉という…藤田とそう歳の変わらない
青年が御堂の後釜として抜擢されて、自分の直属の上司となった。
最初から部長待遇でこの会社に来ただけあって…彼は本当に有能で、
強気で自信に満ち溢れている男だった。
だが、ここ一ヶ月ほど…克哉の様子は随分と変化してしまったように
感じられた。
溜息を突いていたり、遠い目をしてぼんやりとしている事が多くなったり…
かと思えばいきなり丁寧語になって、酷く優しい表情を浮かべてこちらに
声掛けて来たりして…様子がおかしい、と思える事が多々あった。
何があったのか…? そう疑問に思う心が渦巻いているが、素直に聞いても
克哉は決して答えてくれなかった。
「…俺ごときが、貴方にそんな事を言うのはおこがましいっていうのは
重々承知しています。けど…傍で見ていても最近の部長は、ボーとしている事や
お疲れの様子である事が多いように見受けられますので…つい言わずには
いられませんでした…それ、に…」
克哉の様子が変わり始めた時期とほぼ重なる頃。
社内には信じがたい一つの噂が立ち上っていた。
確かに上司として、その傲慢さが鼻に突いたり反発を覚えたりもした事は
何度もあったが、藤田にとって克哉は尊敬出来る上司であった。
だからこそ信じたくない。そう願っていたのだが…。
「それに、なんだ…?」
「…最近、部長がいかがわしい場所に出入りしている…と。そういう噂が
流れていますので…。あまり睡眠不足だったり、体調が優れない状態が
続かれるようですと…その噂が事実、だと信じる輩も出てくるかも…知れない
ですから。だから…身体には、どうか気をつけて下さい。
…俺は、貴方を尊敬出来る上司だと思っていますから…」
その言葉を聞いた時、佐伯克哉は黙り込んだ。
能面のような無表情になって黙り込むと同時に…不意に、口角を上げて
強気の笑みを浮かべていた。
「…そんな噂が流れていたのか?」
「…はい。信じ難いことですが…」
神妙な顔をしながら、藤田が頷いていく。
その顔は悔しそうなものだった。
「…判った。それなら…今度からはもう少し人目がつかないように
遊ぶことにしよう」
「…っ! 部長っ…?」
たった今、放たれた言葉を信じたくなくて藤田は瞠目し…唇をワナワナと
震わせながら大声を上げていく。
だが、克哉は疲れたような皮肉的な笑みを浮かべて…短く、そう答えていった。
「…俺とて、男だ。そういう慰めを欲する時期もある…」
「ぶ、部長…」
…そう言われたら、藤田とて…それ以上反論は出来なかった。
ただ心底悔しそうに唇を噛み締めていく。
噂が事実である事よりも、たった今…放たれた言葉で、克哉がとても
傷ついているのを彼は察してしまったのだ。
けれど、自分には何も出来ない。
そして部長もまた期待していない。
その事実が悲しくて悔しくて…今にも泣きそうな顔を浮かべていく。
「…そんな顔をするな。…MGNの評判を落とすような振る舞いはしない。
特にこれから動かすことになるプロジェクトは大きなものになるからな。
それに対して支障は出ないようにする…」
「…判りました。それなら、表沙汰にならない限りは…こちらはその件に
対して口を噤むことにします…」
不承不承、藤田は頷いていった。
そして…克哉の顔を見ないように、切なげに顔を背けていく。
(情けないな…)
自分の部下に、そんな顔をさせている己が歯痒かった。
同時に…新宿二丁目の界隈を彷徨い歩いているのを、MGNの人間に
すでに目撃されてしまっている事に苛立ちを覚えていた。
…気持ちに余裕をなくして、そんな事の配慮すら失念していた自分自身に
心底腹が立つ。
だが、あの日…御堂を見た日から燻り続けている『何か』が…彼から
本来の冷静さを奪い、焦燥に駆らせていく。
―目の前で泣いている藤田に、唐突に牙を向けたくなる
だが、寸での処でそれを抑え込んで…唇を噛み締めていく。
ここ暫く、御堂に対しての気持ちを自覚してから…性衝動が半端じゃなく強くなり
定期的に発散させなければ、理性のコントロールすらも出来ない状態に…
克哉は陥ってしまっていた。
こんな状態は冗談じゃないと思う。
けれど、押さえ込もうとすればするだけ…制御出来なくなり、内側でいつ爆発
するかわからない状況に成り果てるのだ。
―どうして、こんな想いなど存在するのだろう
向けても、相手を困らせるだけの気持ちなら、いっそなくなってしまえば
良いのに。
御堂を再び、傷つけて追い詰めてしまう可能性があるのなら…いっそ
凍り付いて何も感じなくなった方が良いのに。
いや、この気持ちだけ失くせば良いのではない。
あれだけあの人を追い詰めて傷つけた自分自身なんてなくなれば
良いのに。そんな自分らしくない殊勝な考えすら浮かんでくるくらい…
克哉の中には御堂の存在が強く息づいてしまっていた。
会えなければ会えない時間が積み重なるだけ積もる想い。
それが知らぬ間に佐伯克哉という人間を侵食し、追い詰め始めていく。
溜息を突きながら…窓の外に目を向けていく。
曇天の空にすら、一瞬だけ…御堂の面影を見るぐらい、今もあの人の
事ばかり考え続けている自分に…本気で、克哉は舌打ちしたくなった。
―あんたを愛している
決別して、これだけの時間が経過した後で…そんな自分の気持ちに
嫌でも気づかされることになるなんて、滑稽以外の何物でもないと思った―
彼の内面ではもう一人の彼が、封じられた記憶を思い出して静かに
胎動を繰り返していた。
―其処は深い意識の深遠と呼ばれる場所。
眼鏡を掛けて、本来の佐伯克哉が目覚めて完全に覚醒した日を境に…
彼の方の心は、ただ眠るだけの存在へと成り果てていた。
そして今では遠くなってしまった記憶を、繰り返し繰り返し夢に見る事に
よって…過去を一つずつ、思い出していたのだ。
そして今もまた、彼は一つの夢を通して…記憶を取り戻している
最中だった。
―それは佐伯克哉が小学校を卒業して二週間程、経過した日の事だった。
自分の部屋の中で真新しい中学の制服を着て克哉は鏡の前に立っていた。
成長期である事を考慮されて、現在の彼のサイズよりも若干大きめに
作成された制服はまだブカブカだったけれど…こうして身に纏うと、
輝かしい気分になっていった。
「…明後日には入学式か…」
彼は少しワクワクした気分になりながら、呟いていった。
新しい環境に行ける。
今までと違う場所に身を置くことになる。
どうして、ここまで心が弾むのか不思議な気持ちだったけれどそれが
少年の率直な気持ちだった。
「これから行く学校って…どんな場所なんだろう。そこで…オレは上手く
やっていけるかな…」
それまでを生きて来た自分と、今の自分の心が違う存在である事。
現在の佐伯克哉にはまだ、その事実を辛うじて認識はしていた。
けれど…自分と切り替わる以前の記憶は、まるで深い霧に阻まれてしまって
いるかのように…全てが遠く感じられて。
変な言い方をすれば、自分のものではない他人のもののようにさえ…
感じられてしまっていた。
人格の交替劇は緩やかに、密やかに…小学校の卒業式から、中学の
入学式までの春休みの期間に行われていた。
新しい環境の節目。
終焉と始まりが交差する季節。
それ以外の時期に、傲慢で何もかも出来た少年が…自信がなく、気弱で
他者を傷つける事を躊躇うような性格に切り替わった事を、彼の両親がごく自然に
受け入れられる時期はなかった。
―それに、実際は彼の親から見たら…息子は、クラスの中で孤立した辺りから
それ以前とは徐々に変質し始めていたのだから。
人は変わる。特に少年期、思春期といった多感な時期では…大きな影響を受けた事や
衝撃的な体験をする事で暫し劇的な変化を遂げることがある。
卒業式の日からぼんやりとして、夢見心地なトロンとした眼差しを浮かべていた
頃に比べれば…新しい環境に胸を躍らせて、瞳を輝かせている息子の方が余程、
家族には正常に見えただろう。
だから、この頃には…それまでの性格と大きく異なってしまっても、両親はその
変化を、彼の心境が自然と変わったのだろうと納得するようになっていた。
―まさか、その人格が根本から変わってしまった事など思いも寄らずに…
鏡の中で、彼は色んな表情を浮かべていた。
下ろしたての服に身を包んでいるのが非常にくすぐったくて、悪くない気分
だったからだ。
謎の男が渡した眼鏡を掛けたことによって、今まで心の世界で密かに生きていた
彼はこの世の中に肉体を伴って生きるようになった。
内側の世界から、ガラス越しに覗いていた世界。
その風も、存在感も感じる事が出来なかったのに…ある日、その世界に身を置く
ことになって…彼は毎日が新鮮で、キラキラ輝いているように感じられた。
知らない間に押されたリセットボタン。
卒業の日を境に、彼らは静かに切り替わったのだ。
心の奥で生きる役割を与えられていた存在が、表に出て。
外に出て万能を演じる役割を果たしている存在が、眠りについた。
だから…今の克哉は、世界の全てが眩くすら感じられたのだ。
遠くに見えていた世界を間近に感じられて、接することが出来て。
薄い膜に阻まれてはっきりと見る事が出来なかった色彩と光が、洪水のように
鮮烈に彼の網膜に襲いかかってくるかのように。
―世界の全てが新鮮に感じられていた。
「今度は誰も傷つけないで…生きれたら、良いな…」
それが、彼の望みだった。
自分がこうやって表に出ることになった事件。
まだこの時点では、彼の中にもその記憶はキチンと存在していたから。
それが『彼』…自分という心を生み出した創造主とも言える少年が何よりも
望んだ願いだったから。
そっと胸を押さえながら、囁いていく。
―其れが君の願いなら叶えるから…どうか安らかに眠っていて良いよ…
鏡を覗きながら、もう一人の…今は深い眠りに就いている心に向かって
問いかけていく。
あの一件で、彼は傷ついてしまったから。
自分は、彼の存在を慰める為に生み出された心だから。
その役割を…キチンと、果たそうと…そう誓った。
―そう望んだ瞬間、左右の瞳の色合いが変わった。
右目は自分。
左目は…もう一人の自分の心を映し出していた。
彼を労わり柔らかい脆弱な光を放っている己の瞳と。
深く傷ついて、悲しそうな瞳を浮かべているもう一人の自分の瞳。
『泣かなくて良いよ…』
小さな子供をあやすように、克哉はもう一人の自分に問いかける。
泣いているのなら、どうか眠っていて。
オレはその間、代わりに生きて君を守る盾になるから…。
その想いをそっと伝えていくと…スウっと左目の色合いが変わって
本来の自分の目へと戻っていった。
―克哉~そろそろ昼ごはんよ!
この部屋から離れた位置にある台所の方から、自分の母の声が聞こえて
ハっとなった。
そしてすぐに気持ちを切り替えて返事していく。
「うん! 判った…今すぐ行くよ!」
そう応えて、まだ下ろしたばかりの制服を食べ零しとかで汚してはならないと
ハっと気づいて慌てて脱ぎ始めて…そこら辺に置いてあったTシャツとジーンズに
着替え始めていった。
そして部屋を出る寸前、ふと振り返り…大きな姿見用の鏡を覗き込んでいく。
―其処には一瞬だけ、安らかな表情を浮かべて眠っているもう一人の自分の
幻影が映し出されていった
『君はここで眠っていて良いよ…』
もう一度、祈るように呟いていった。
傷ついたのなら、その傷が癒えるまでの間…その場所で眠り続けて良いから。
君はオレを、その為に必要に思って生み出したのだから…その役割を
果たし終えるその日まで、君の代わりにこの世界を行き続けよう。
『オレが、君が目覚めるその日まで代わりに生きるから…』
そして君が目覚めて、再びこの世界で生き始めるその日まで。
自分は彼の望みを果たし、目立たないように…誰も傷つけないように
生きて、目覚めの日を待つだろう。
―それは13年後の例の眼鏡を渡される前の佐伯克哉が忘れていた
少年の日の記憶
初めから、弱く心優しい彼は…傷ついてしまった少年の傷が癒える日を
迎えるまで、彼の代わりに生きる役割を背負って生み出された。
そして…眼鏡を掛けて、本来表を生きる役割を背負った人格が目覚め、
彼が本来いる場所に帰った時、ようやく彼は思い出したのだ。
―この日の約束と誓いを…
その記憶が深い意識の深遠にいる状態で喚起された時、静かに…
25歳の秋まで生きて来た佐伯克哉の意識は決意していく。
―自分の役割が、彼の心を守る為に生まれたものというのなら…
その役割を果たそうと
そして、彼は…眼鏡を掛けた彼に一つの役割を新たに申し付けられていく。
…最初は躊躇った。
だが、結局…彼は受ける事にした。
迷いはあった。恐らく、御堂を傷つけてしまうだろう…という危惧もあった。
しかし…彼は、必死になって訴えたのだ。
―御堂を二度と傷つけたくないと
だから、彼は受け入れていく。
それが…あまりに切なく悲しい申し出でも。
彼の望みなら、引き受けるしか自分には出来ないのだと…。
―そして、彼は蠢動を繰り返していく
目覚めを迎えるその日まで…静かに、密やかに。
その肉体の檻の中で、息を潜めながら―
悪夢にうなされていた。
―どうせお前みたいな奴には判らないんだっ! 絶対に一生…
わかりっこない!
友人がそう訴えながら泣いている。
こちらを嘲っている筈なのに、苦しそうで悲しそうで。
嫉妬と言う感情に負けて、こちらを影で裏切るような行為をした事で
こちらに意趣返しをした筈なのに、その涙だけが彼の本心を
示しているような気がした。
―泣くなよ
心のどこかで、そう思った。
そこまで知らない内に親友を追い詰めてしまっていたなんて
まったく気づいていなくて。
そんなに苦しませてしまったのが…自分の存在である事を
最初は認めたくなんて、なかった。
―俺がどんなにがんばっても出来ないことを、お前はいとも
簡単にやりやがって…!
吐き捨てるように、そんな言葉を放った親友。
その裏切りを知った時、自分の中には強い憎しみの感情が
吹き荒れて、悲しくて痛くて仕方なかった。
いっそ、同じ報復をしてやろうとも思った。
痛めつけてやりたい。傷つけて…この胸の痛みと同じ感情を
あいつに、叩きつけてボロボロにしてやりたい!
―大好きな親友と思っていたからこそ、その反動も大きかった。
殺してやる、一瞬そんな恐ろしい考えまで…過ぎったくらいだ。
けれど、その裏切りを知ったからと言って自分達の過ごした時間の
全てが消えてなくなった訳じゃない。
小学校の高学年になってから、自分をいじめたクラスメイト。
その出来事の、裏の糸を引いていたのがあいつであったからと言って
それ以前の思い出や時間までが嘘だった訳じゃないのだ。
―どうして、俺が俺のままでいて…いけないんだよっ!
それは悲痛な叫び。
どんな事も、誰よりも簡単にこなせてしまうのは…色んな物事の
流れや要点を、彼に見る力が生まれつき備わっているせいだ。
簡単に読めない凡庸な友人達を羊に例えるなら、彼はその中に
紛れ込んでしまった毛色の変わった狼のようなものだろう。
羊は、風の動きも…微かな葉擦れも、獲物の息遣いも読めない。
けれど狼はそれが獲物を狩るのに必要だから…生まれつき、本能で
備わっている。
生まれつき備わっている素質の違い。
それを責められても、どうしろというのだ。
自分は自分のままでいてはいけないのか!
出来るからと言って、それで妬まれて…何故このような仕打ちを受け
続けなければならなかったのか!
そう、言いたくて堪らないのに…夢の中の親友の幻影は、ただ…
泣き続けるばかり。
―お前のことを好きだからこそ、憎かったんだ…
最後の涙は、そう訴えているようにも感じられた。
それは…気のせいだったかも知れない。
自分の都合の良い解釈に過ぎないかも知れなかった。
けれど、あの涙が克哉から…親友に対する、報復の感情を
奪っていった。
―俺の存在が、其処までお前を追い詰めるなら…
そんな心が生まれた時、何かがパキン…と割れた音がした。
それは自分の心の中で生まれた音。
…その中から、もう一つの心が生まれていく。
―…誰も傷つけないように、俺は…
羊の中に狼が一人。
それがそんなに羊を脅かすというのなら…。
狼は、羊の皮を被って生きる方が良い。
自分が持っている狩りの才能も、風や吐息を読み取る力も…この鋭い牙も。
全てを封じて、狼である事を捻じ曲げる。
それ以外に…方法はないというのだろうか?
―オレを使えば良い
それは、その日に生まれたもう一つの仮面(ペルソナ)
凡庸で弱くて、自信が持てないどうしようもない弱い『オレ』
けれど…その仮面を被ることで、この痛みと苦しみから逃れられると
いうのなら…。
だから、自分は…!
「うあぁぁぁぁぁぁ!」
夢の中で、過去のトラウマそのものに襲い掛かられて、眼鏡はともかく
苦しげに吼えていった。
自室のベッドで本気で苦しげにのたうちまわり、胸を掻き毟るようにして…
ただその苦痛の記憶に耐えていく。
「御堂…御堂っ…!」
知らない間に、今…もっとも想う人間の名を口にしていた。
はぁ、はぁ…と苦しげに荒い呼吸を繰り返しながら…男の意識は微かに
覚醒していった。
「…俺、は…」
あんたを、傷つけた。
眼鏡を掛けて覚醒した俺は、まさに狼そのものみたいなものだった。
欲望のままにあんたを犯して、追い詰めて…持っているものを全て奪って。
監禁して陵辱して、あんたを壊す寸前まで追い詰めた。
―けれど彼は気づいてしまった。
人を初めて愛したからこそ、自分が持っている牙を恐れてしまった。
これ以上あの人を傷つけないように。
追い詰めないように。
そう願って…一度は手放した筈だったのに。
―こんなにも激しく、御堂孝典という存在を求めて吹き荒れる凶暴な心がある
あの存在を喰らい尽くしたいと願うほど、強烈な欲望。
それは…今の克哉にとっては恐怖を覚える程のものだった。
「あんたを…二度と、傷つけたくなんて…ない、のにっ…!」
その声はあまりに悲痛だった。
あの人の人生に二度と関わりを持つまい! と誓った筈だった。
偶然に御堂を見かけたあの駅の構内。
あそこで…彼に気づかれずに、遠くで顔を見れていればそれで良いと
思っていた筈、なのに…。
顔を見て、声を聞いてしまったらその想いは溢れて止まらなくなって…
猛烈な勢いで彼の心を苛み始めていく。
―あんたが、欲しい!
その欲望が止まらない。
けれど、この感情のままに彼を貪ったら…きっと同じ事態が起こってしまう。
それが…怖くて、怖くて…その感情が、彼の長らく閉ざしていた過去の記憶の
扉を抉じ開けて、耐えようもない苦しみを齎してしまっていた。
暗い部屋の中。
窓の外には透明で白い月が静かに浮かんでいる。
月には人の心を狂わす魔力と、本心を映し出す力があるという。
ふと夜空を見上げると…最後の、力ない御堂の表情が浮かんでいく。
―二度とあいつを、あんな姿にしたくない。
焦がれて、生まれて初めて誰かをあんなに強い気持ちで欲しいと望んだ。
守りたい、傷つけたくない。
そんな殊勝な感情を…自分が、抱くなんて信じられなかった。
けれど、それが事実だったのだ。
獣は愛を知ってしまった。
愛というのは人を強くする一面もある。
だが…それは信頼、という絆で相手と結ばれている場合だけだ。
疚しいことをした場合、愛は人に強烈な罪悪の意識を植え付けてしまう…
辛い一面も持っている。
御堂孝典という存在に対しては、佐伯克哉は…強烈な罪の意識を
抱いてしまっている。
それが遠くから見ている内に、思い出してしまったのだ。
―もし直接、もっと早く言葉を交わしあい…お互いに両思いである事を
確認しあっていたのなら
彼は罪の意識に呑まれることなく、それを強さに変えて…この世の中を
変えるぐらいの力を示すことが出来ただろう。
だが彼はまだ、御堂と話せていなかった。
その相手が自分と同じ気持ちを抱いている事すら未だ知らずに…
ただ、苦しみうなされながら、耐え難い夜を過ごしていく。
―そんな彼が、ほんの一時でもその苦痛を紛らわす為に…
誤った道を進み始めてしまうのを誰が責められようか
その間違いもまた…彼が人を愛してしまったが故に起きてしまった
悲劇から発生しているのだから。
―そして眠れぬ夜を過ごした佐伯克哉は、翌日…ある歓楽街へと
狩りへと出かけていく。
それが間違いだと判っていても。
…己の欲望が膨れ上がって、あの人を傷つけるよりはマシだと思った。
この牙がもう一度、愛しいものを傷つけるぐらいなら…他の羊を犠牲にしてでも
その存在を守る方が良いと思った。
そして一週間もしない内に…夜の街で、克哉の存在は脚光を浴びる
ものとなる。
全ては…思いの寄らない方向へと突き進んでいこうとしていた―
―御堂は、克哉の姿を見たその日…どうしても眠ることが出来なかった。
週末の夜だというのに、どれだけ飲んでも一向に酔いが訪れる気配すらなかった。
以前住んでいたマンションよりも、新しい部屋は一回り狭い作りになっていたが
元より御堂一人で暮らしているので、それでも殆ど支障がなかった。
特に克哉を連想させる家具、ベッド、ソファ、机…彼が長くいた部屋に置かれていた
物は全て処分してあったので、この部屋に越して来た時の御堂の荷物は少なくなっていた。
上品な内装のマンションの一室は、エリートと呼ばれてきた御堂の性格を
現しているかのように、ハウスキーパーを定期的に呼んで常に整えられている。
その室内のソファの上に腰掛けながら、御堂は一人…飲み続けていた。
最初に開けたそこそこの値段のワイン一本では、今夜は酔えなかったので…
結局、とっておきの銘柄のを開封したにも関わらず、ダメだった。
(せっかくの高いワインを無駄にした気分だな…)
今朝の出来事に混乱してしまっている。
自分の全てを奪いつくした男との突然の再会。
言葉を交わした訳ではない。
ただ、顔を見ただけだ。
それだけでこんなに動揺している自分がいた。
「…何であいつが、あんな時間にあの駅にいたんだ…?」
幾ら考えても、その答えが浮かばない。
彼が今でも自分の後釜について、MGNの部長職についているのならば…
あの時間帯に、あの通路にいる訳がないのだ。
「…まさか、私の姿を見に…何て理由じゃあないだろうな…」
自嘲的に笑みながら呟いて、まさか…と自分で否定していく。
だがどうしても、それ以外に当てはまる答えが存在しなかった。
自分にあんな事をした男が、どうして?
今の御堂は、惨めな状態から立ち上がって…かつての自分の姿をある程度は
取り戻していた。
そんな御堂を見ても、あの男にどんなメリットがあるというのだろうか…?
―止めろ、止めてくれぇ…!
上等のワインをまた一杯、喉に流し込んでいる間に…暗い記憶がどうしても
頭の中を過ぎっていく。
この一年、どれだけ頭から振り払おうとしても…薄らぐ事がない記憶。
あの男に乗馬鞭で打たれ…淫具を内部に埋め込まれてジワジワと追い上げられ、
拘束具で両手の自由を奪われた状態で犯され続けた過去。
克哉を見た事で、思い出したくもない事が脳裏を過ぎって…御堂は苦しげに
顔を顰めていった。
(思い出したくない…!)
脳内に喚起されると同時にブルリ…と身体の奥に熱が灯っていく。
知りたくない。自覚したくない…。
あんな酷いことをされ続けたのに…どうして思い出す度に、この身体は熱を
帯びて発情などしてしまうのか…。
「はっ…あっ…」
酒の酔いも手伝って、ズボンの下で欲望が頭をもたげていった。
無意識の内に…其処に手を伸ばし、自ら触れていく。
「こ、んな…」
顔を赤くして、荒い吐息を零している御堂の表情は艶があった。
ジッパーを下ろして、その中に手を忍び入れていくと…早くもギチギチに
張り詰めている己の性器があった。
それを握り込み、幹をしっかりと握り込みながら己の先端の割れ目に指を
這わせていく。
―あんたは本当に淫乱だな。こんなに腰を振って…俺のモノを強請っている
みたいだぞ…?
頭の中の、過去の克哉が…嘲るように告げていく。
悔しかった、それでも…身体は反応してしまう。
こんなに惨めな自分を、見たくなかった。
だからあいつのことなんて思い出したくなかったのに…たった一度、顔を
見ただけで自分の心はこんなに大きくさざめき、揺れ動かされてしまっている。
「どう、して…!」
御堂は悔しげに呟いていった。
その声は、半分嬌声に近くなりつつある。
夢中で追い上げていく。快感が迫る。
けれど何度もあの男に貫かれた際奥が…その直接的な快楽だけでは足りないと
強請るように蠕動を繰り返していった。
こんな処が疼くなんて、知りたくなかった。
浅ましい自分の姿を、自覚なんてしたくなかった。
何度も何度も、抱かれて貫かれて貪られた。
それは…自分にとって屈辱に繋がる記憶の筈なのに…何故!
―そうだな…もっと早く、あんたの事を好きだって…気づけば良かった…
その瞬間、最後に佐伯克哉が残したあの言葉が思い出されていく。
「あっ…!」
不意に、涙すら出そうになってしまった。
そうだ…あの一言を聞いたから…自分は、きっと…!
夢中で性器を扱き上げて、御堂はただ…快楽だけを追い続けていく。
こんなに惑っている自分を一時でも忘れたかった。
だから頭が真っ白になるような感覚を求めて…無我夢中で、己の陰茎を扱き上げて
自らを慰めていった。
(あんな一言を最後に残して…消えた癖に、君は…卑怯だ…!)
あの言葉がなかったら、自分はきっと心底…克哉を憎むことが出来た。
自分の築き上げた全てを壊して奪い取った憎い男として見れたのに。
最後の告白の時の優しい克哉の顔。
さよなら、と残した寂しげな背中。
それが…御堂の中に鮮烈に刻み付けられていて、憎かった筈の男を…
気づかない内に違うものに変質させてしまっていた。
―あんたの事、好きだって…!
「言うなっ…!」
あの告白が、消えてくれない。
気づけば御堂は…涙をうっすらと浮かべていた。
知りたくなかった。見たくなかった。
自分の心の本音を…!
「はぁぁっ…!」
足りない、と心のどこかで訴える心があった。
あの男が欲しい、と。
克哉が与える快楽を求めている貪婪な心を自覚して…御堂は、肩で呼吸を
付き続けていった。
「佐、伯…」
無意識の内に、その唇から悩ましい声と共にその名が零れ落ちていった。
手の中には大量の白濁がこびり付いている。
かなりの量だった。
これは…こういう行為が久しぶりだったという理由だけではない。
―自分はあの男を思い出して、激しく興奮していたからだ…
「はっ…ははっ…知りたく、なかったな…」
けれど、あの男の顔を見て…御堂は嫌でも気づかざるを得なかった。
どうしてこんなに、一目見ただけで心がざわめいているのか。
身体が熱くなってしまっているのか。
その答えはたった一つしか存在しない…。
「そうか…私は、君の事が…」
出来れば、気づかないままでいたかった真実。
けれどもう出会ってしまった以上…目を逸らす事が出来ない。
自分の心のどこかに、あの男を求めて叫ぶ部分がある。
―もう一度、会いたかったと…!
最後に見た、あの優しく切ない顔で…自分を好きだと告げた、佐伯克哉に
会いたかった。
そう望んでいる心が、紛れもなく御堂の中に存在していたのだ…。
「好きに、なっていたんだな…」
どこか疲れたように、やっと気づけた答えを呟いていく。
彼に、会いたい。
あの…寂しげな背中をしながら去っていった、自分に慈悲を見せた佐伯克哉に。
御堂の心の中で、あの日の去っていく克哉の幻が浮かんでいく。
あの日…自分は解放されたばかりで、まともに身体を動かすことも声を発する
ことも出来ないでいた。
だから追いかけられなかった。
(もし、あの日…私がすぐに身体を動かすことが出来ていたのならば…)
きっと必死になって追いかけて、彼が告げた言葉の真意を確かめようとしただろう。
あれが御堂を惑わす流言に過ぎなかったのか、本心だったのか。
それを、今…知りたかった。
「会いたい…」
知らない間に、その言葉は零れ落ちていた。
快楽を極めて、ふと緩んだ状態だから出てしまったかも知れない一言。
それを浮かべながら…御堂は一時のまどろみの中に落ちていく。
―脳裏に浮かんだのは、今朝の遠くで切なげな顔を浮かべている克哉の
姿であった…
駅の構内を早足で歩きながら…御堂孝典は難しい顔を浮かべながら、
もうじき問題の地点に指しかかろうとしていた。
今朝も駅構内は多くのサラリーマンやOL等がひしめきあって、大きな人の波を
作り上げている。
もう少し遅い時間帯に入ると、近場の学校等に向かい始める学生達の姿が
チラホラと混じり始めるので騒がしくなっていくが…今は皆、黙って目的地へと
向かっていく人間が多いように思えた。
東京の都心部に存在する駅には幾つもの路線が重なり合っているおかげで
通路が入り組んでしまっている駅も多い。
御堂が一度、乗り換えをするこの駅も…その例に漏れず、地下鉄と何本かの
JR線が通っているせいで知らない人間が歩いたら迷子になる事間違いなかった。
しかしこの迷路のように入り組んだ幾つもの路線がどこに繋がっているか
把握をすれば…渋滞を起こしやすい都内を車で移動せずに済む、というメリットが
存在しているのもまた事実だった。
新しい会社に入社してから、御堂は日によって車で通勤する日と…電車で行く日と
使い分けるようになっていた。
御堂の新しい自宅からは、車で出社する場合…七時台にはすでに渋滞を
起こしてしまうポイントにぶつかってしまうからがその理由だった。
渋滞などに朝から捕まって、万が一遅刻でもしてしまったら…新しい職場でも
すでにそれなりの地位についている御堂からしたら大きなロス以外の何物でもない。
だから自然と、車で取引先を回る日は6時半には家を出て渋滞の時間帯を
避けるようにして…会社でのデスクワークが中心の日は、電車を使って出社までの
時間を自宅でゆったりと過ごすというリズムが出来上がっていた。
御堂が電車を使うのは、そういう訳でスケジュールや予定によって前日に
ランダムで決まっている。
何曜日には乗るとか、一定の法則性などなく…その日、出向する出先によって
大いに変動するのだ。
だが、ここ二週間ぐらい…乗り換えの駅の通路を歩いている最中、強い
視線で誰かに見られているような気配を感じ続けていた。
最初は気のせいだと思った。
だが、何度も見られている内に自分の気のせいではないと確信するようになった。
その眼差しを感じるポイントは、いつも決まっている。
だから…本日こそ、その視線の主を確認しようと御堂はいつもより少しだけ
歩くスピードを落としていった。
乗り換えの路線に続く通路は結構な距離があって…早足で歩かないといつも
御堂が乗っている時間帯の電車に乗り遅れてしまう。
そのせいで御堂はいつも真っ直ぐに前を見据えて歩いて…立ち止まった事など
なかったのだ。
だが、今朝は違う。
あんな鋭い目で自分を見る人間が誰なのか、知りたかった。
―過去の御堂は、確かに強引なことを幾つもしたし…人を蹴落としたり、貶めたり
するような事を幾度もしてきた。
それで恨みを買っているなら警戒した方が良いと思って…その人物を知る
決意を固めたのだった。
固唾を呑んで問題の地点に差し掛かっていく。
今朝は、いつもと違って人波に乗りつつも若干緩やかな足取りで進んでいく。
―周囲に目を凝らしていく。
そして、信じられないものに遭遇していった。
(佐伯…っ?)
まさか、と思った。
ピッチリと整ったスーツに身を固めた長身の男が…こちらを見つめているのに
気づいた時、御堂は驚愕に目を見開いていく。
(何であいつが…こんな処に? あいつの今の自宅からMGNからだと…この
時間帯に決して、この駅にいる筈なんてないのに…!)
以前に住んでいたマンションを解約して、新しい会社に移った時…万が一にもあの男と
遭遇したりしないように興信所を使って、御堂はちゃんと佐伯克哉の現住所みたいな
ものを調べておいたのだ。
その上で…新しい住居を決定したのだから、絶対に会う筈がない。
しかし…流れていく人波の中で、自分を凝視している人間など他に誰一人として
存在しない。
誰もが、御堂という存在に無関心で歩き進んでいく中…強い視線で、こちらを見据えてくる
眼鏡を掛けた長身の男の姿だけが浮き上がって見えた。
「さ、えき…」
「っ…!」
つい、足を止めながら…彼の名を呟いてしまっていた。
まさか視線の主の正体が彼だなんて予想もしていなかっただけに…つい、驚きと
恐怖で…身体が竦んでしまっている。
―本当はそれ以外の感情も存在したが、御堂は敢えてそれに気づかない振りをした
「何で、君が…」
知らない間に、確認しようと…彼の方へと近づいてしまっている。
自分を監禁し、陵辱した男。
十年掛けてMGNで築き上げた全てを奪って乗っ取った悪辣極まりない人物。
それが佐伯克哉という人間だった。
(何で、あいつの顔を見て…こんな胸を引き絞られるような想いをしなければ
ならないんだ…!)
自分でも、理由が判らなかった。
けれど無意識の内に…男の方へと近づいていってしまう。
人波を掻き分けるように、一歩…一歩と…近づくと、今度は克哉の方が…身体を
硬くして身構えてしまっているようだった。
何とも言い難い、緊張した空気が二人の間だけに流れていく。
「佐伯っ!」
今度こそはっきりと、彼の名前を呼んでいった。
ビクンっ!
その瞬間、男の全身が震えていく。
そして…踵を返して、御堂から背を向けていく。
「待てっ…!」
何故、追いかけようとしたのか自分でも判らなかった。
けれど…どうしてか、聞きたかったのだ。
絶対にこの駅にいる筈のない時間帯にあの男がいた理由を。
どうしてあんな…切ないような、苦しいような…鋭い眼差しを自分に送り
続けていたのか、知りたかった。
だが無常にも…どれだけ御堂が追いすがっても、克哉の足取りが止まる
事はなかった。
近づこうとしても、行き交う多くの人間に阻まれて距離が縮まる事はない。
そうしている間に…見失ってしまう。
諦めて、その場から立ち去ろうとした瞬間…ふいに、かなり離れた処からこちらを
振り返った佐伯克哉を発見した。
―ドクン!
心臓が大きく、波打っていく。
それはあまりに…切迫した眼差しだった。
瞳の奥に強い情熱を宿している、双眸。
それに御堂は目を奪われて…意識を捉えられていく。
「さ、えき…どうして、君は…」
そんな目で、私を見るんだ…?
そんな疑問が浮かんでも、男は答えない。
気づけば完全に、佐伯克哉を見失ってしまっていた。
「…何故、私を今になって…惑わせる、んだ…君、は…」
御堂は知らぬ間に、力なく呟いていく。
だがそんなささやかな心からの叫びは、多くの人間の生み出す喧騒によって
瞬く間に掻き消されていったのだった―
監禁して、陵辱し尽したのも。
全てを奪って、自分の腕の中に堕ちてくるように仕向けたのも。
ただあの人に憧れて、焦がれて…魅了されたからだとようやく思い知った時。
御堂孝典は見る影もない程、弱々しく哀れな存在になりかけていた。
―あんたを解放するよ
そう、手放す決意をしたのは…生まれて初めて誰かを愛してしまったから
おかしなものだ。愛したと自覚した途端、離れるのを決意するなんて。
だけどそれが最良だと思った。
今後一切、彼の人生に自分が介入しない事。
恐らく御堂の人生内において、もっとも屈辱的な日々に関わっている自分が
二度と目の前に現れない事が、一番だと思った。
それなのに自分の心の中に、今もあんたを求めて嘶く(いななく)部分がある。
未練がましいと、自分でもつくづく呆れる。
けれど、俺はまだ…正直言ってあんたが欲しくて堪らない。
誰も並ぶものなんていらないと思っていたけれど、あんたに双肩を並べて
欲しいとか、そんな事を考えていて
―そんな事を思う度、俺にそんな資格がない事を思い知る…
なあ、御堂。あんたは今でも元気でやっているのか?
俺がいなくなって…元のあんたに戻れたのならそれで良い。
傲慢で、冷徹で…力強くて誰よりも綺麗だった御堂。
その輝きに、俺は誰よりも魅せられてしまったのだから―
だけど、どこかであんたの姿を見てしまったら俺はきっと冷静でなんか
いられなくなるだろう。
二度とあんたの前に現れない、妨げになるような真似はしないと誓っているのに…
―この獣のような衝動は、傍に寄れば必ずあんたを切り裂くだろう
それは羊に恋した、狼の気持ちのよう
愛しく思う限り、それは魅惑的な香気を放ち…狼の食欲を刺激し続ける
けれど思われた子羊は、傍に寄れば喰われてしまう
嗚呼、俺は狼みたいなものだな
―愛しく思えば思うだけ、この鋭い牙は近くに寄ればあんたを食い尽くすだろうから
…俺は決して、あんたの傍には近寄れない。
この愛を、思いを自覚してしまった…今となっては―
*
佐伯克哉が、その朝…いつもの最寄り駅と違う駅の構内にいたのは単なる
偶然の筈であった。
出先での会談が思いの他白熱して、長引いてしまい…合理的な判断として
少しでも早く宿を確保して休んだ方が良いと思い…仕事を持ち込みながらも
契約先の会社の近くのビジネスホテルを取った。
―現在の彼の住居からなら、朝のこの時間にこの駅にいる事は在り得ない。
自宅からも、MGN本社に行くにしても…その往路の範囲から外れた駅。
其処で彼は予想外のものに遭遇してしまった。
都内の駅は…朝7時を迎えれば、どの駅でも多くの人間が行き交い人波が
生まれていく。
その狭間で…彼は見つけてしまったのだ。
心の中でずっと逢いたいと望んでいた人物を。
しかしその足取りを追う事すら…自分には資格がないと思っていた。
自分が解放してから、どうなったのか。
元通りのあの人に戻れたのか気になって、気になって仕方なかった人を…
「御堂…」
御堂は、克哉の存在に未だ気づいていない。
自分の記憶にある通り、怜悧な印象の表情を讃えながら早足でどこかの
路線に向かっていく。
それを追いたいと思ったが…驚きのあまり、足がその場に縫い付けられたように
なって満足に動かない。
まるで鉛になったよう。金縛りにあってしまったかのようだった。
カツカツカツカツ…。
駅構内に無数のサラリーマンの革靴の音が木霊していく。
その中に埋もれるように、誰よりもエリートであった男は歩いてどこかに
向かっていく。
「…あいつは車で出勤しているんじゃなかったか…?」
早朝のこんな時間に、自家用車で出勤している人間が…駅の中にいるのは
不自然だった。
だが、自分が御堂の存在を見間違える筈などなかった。
どれだけ人の波に紛れていても…恋焦がれて止まなかった存在を取り違えるような
真似を自分がしでかす筈がない。
あまりの衝撃に…克哉は、自分の身体が震えるのを感じていた。
「…御堂」
だが、雑踏と騒音に塗れた駅構内ではそんなか細い呟きは誰の耳にも
届く事はなかった。
事実、御堂は克哉に気づく事はなかった。
其処に自分がいる事など決して視界に入っていないかのように…顔色一つ変えずに
御堂は早足で通り過ぎていこうとしていく。
遠くに存在していた御堂の姿が、自分のすぐ脇を通り過ぎようとしている。
思わず振り返る。だが、それでもその背中は遠ざかる一方だった。
「…御堂部長っ!」
少しだけ、大きな声を出してつい呼びかけてしまった。
だが…目的地があるのだろうか。
御堂は真っ直ぐ前だけを見据えて、克哉に気づく事なく…離れていく。
その姿がそして見えなくなった頃…気づけば、克哉は口元を覆ってその場に
立ち尽くしていた。
(まさか…こんな処であんたに、会ってしまうなんて…っ!)
心臓がバクバクバク…と荒く脈動を繰り返している。
知らない間に呼吸すら大きく乱れてしまっていた。
もう、どれだけ目を凝らしても…御堂の姿を見つけることは出来なかった。
広がるのはただ…多くの人間が生み出す、とりとめのないざわめきのみ。
「…そうか。あんたは…どこかで元気にやっているんだな…」
自嘲めいた笑みを浮かべながら呟いていく。
あの日から…そろそろ十ヶ月が過ぎようとしていた。
季節はすでに秋の終りを迎えて…冬を間近に控えている頃。
偶然にも、克哉は…この世でただ一人、心から愛してしまったと自覚した
存在に再会してしまった。
―二度とあいつの前に現れる資格なんてない
そう思う反面で。
―せめて遠くからでも、あいつの姿を見て元気でやっているかだけでも知りたい
そんな欲望が渦巻いてしまっていた。
携帯電話を眺めて、時間帯を確認していく。
そして…心に、その時刻を刻みつけていった。
(ほんの僅かでもこの時間帯に、この駅に来れば御堂を見る事が出来る可能性が
あるというのなら…)
それは克哉の本来の通勤事情では、かなりの負担となる行為。
だが…それでも、構わなかった。
二度と顔向けが出来ないのならば…せめて、遠くから見るだけでも…
そんな欲が、克哉の中に生まれていく。
偶然とは言えその顔を見なければ生まれなかった想い。
本当はダメだと判っているのに…一度、その顔を見たら留まってくれなかった。
「御堂…」
また、知らずに唇がその人の名を呟いていく。
あまりにも切迫した余裕のない、表情。
そんな切ない顔を自分が浮かべている事すら気づかずに…
佐伯克哉は、ただ…愛しい人の事だけを考えていく
―その想いが、もう一人の自分の心すらも大きく揺るがしてしまったことに
未だに気づかずに…
そして運命の輪は回る。
狼はすでに牙を得てしまっている。
欲望が膨れ上がった時に、その牙が愛しい人を傷つけないで済む為には
自分が狼である事を捻じ曲げることだけだろう―
知らない間に整えられた悲劇の舞台。
その果てに…彼らはどんな結論を導き出すのだろうか―
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当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
とりあえず読んでくれる人がいるのを
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一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)
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