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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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 指定された日時の五分前を迎えて、佐伯克哉は…御堂に指定
されたホテルの部屋の扉を叩いていった。
 眼鏡を掛けて、キリっとした眼差しと…ピシっとノリの利いたスーツを
身に纏った彼は…一見すると、もう一人の自分そのもののように見える
事だろう。
 だが、この格好で御堂に会うのは克哉は抵抗があった。

(…あの人の前でまで、こんな格好をする必要はないだろうな…)

 克哉はこの一週間、ずっと仕事中は容姿の他に立ち振る舞いも口調も…
全て眼鏡を掛けた方の自分のものを演じ続けていた。
 御堂に抱かれて、彼の人への想いを自覚した朝。
 必ず、この人と眼鏡を再会させると誓った。
 だからこそ…いつ、もう一人の自分が戻ってきても良いように…克哉は
内側から見続けて、良く知っているもう一人の自分の言動や行動を
そのままトレースして、それを職場内で続けて周りに不審がられないように
勤めていた。

 仕事上の付き合いしかない人間相手なら、それでも十分に通じるだろう。
 けれど…長年付き合いのある本多や片桐、そして…本気で眼鏡を
想う御堂にはそんな小手先の小細工はきっと、通用しない。
 眼鏡を掛けたまま、この扉を開けるか…暫し逡巡していった。
 
―このまま引き返してしまおうか…?

 そんな弱気な想いも、一瞬脳裏に過ぎっていく。
 迷い続けている内に勝手にドアを一回、かなり弱くノックしてしまっていた。

(しまった…!)

 立った音は微弱なものだった。
 とっさに踵を返そうとした矢先、扉は唐突に開いていった。 
 その向こうに立っているのは、いつもの通り上質のスーツに身を包んで
完璧に髪型を整えた御堂孝典だった。

「っ…!」

 こちらの姿を見て、御堂が瞠目していく。
 焦がれた存在の姿をいきなり見て…言葉を失ったようだった。
 だが、すぐに違和感に気づいていく。
 姿かたちは間違いなく…眼鏡を掛けた方の克哉のものだ。
 しかし…目の光だけは、異なっていた。
 あの突き刺すような鋭さや力強さがないアイスブルーの瞳は…
すぐに、気弱な方の彼である事を示していた。

「…何の真似だ…?」

 怒りを押し殺したような声を、御堂が喉から搾り出していく。
 それを見て…克哉は観念せざる得なかった。

―やはりこの人に、演技など通用する筈がなかった。

 一時、眼鏡のように振舞おうとも…きっとそんなフェイクでは、この人の
飢えは満たされはしないだろう。
 御堂が激しく希求するのは、もう一人の自分だけなのは…先週、
犯された時に嫌という程、思い知らされたのだから…。

「…やはり、貴方の目は誤魔化せないようですね…」

 苦笑しながら、克哉はすぐに眼鏡を外して…髪をクシャクシャに乱して
いつもの自分のようにしていった。
 一転して、其処に立っている克哉の印象は温和で穏やかなものへと
変わっていく。

「…君は私を侮辱しているのか? まあ良い…此処で立ち話を
続けていても仕方がない。来い」

「…はい」

 大の男が二人で、扉を開けた状態で入り口で延々と会話していたら
悪目立ちをしてしまうだろう。
 都内でも有名なホテルだから、もしかしたら思いがけない所で知り合いに
遭遇してしまう可能性もある。
 強引に腕を引かれて、部屋の中に連れ込まれていく。
 部屋の中央に辿り着くと頃には御堂の瞳は…怒りに爛々と輝いていた。

「…どういうつもりだ?」

「…貴方に、誤魔化しや演技が通じるとは最初から思っていません。
これは職場で不審がられない為のものです。あいつがいつ帰って来ても
良いようにね…」

「…何、だと?」

 何もかも達観したようなそんな眼差しを浮かべながら、そんな事を告げる
克哉を…御堂は訝しげな顔しながら凝視していく。

「…この一週間、貴方ともう一人の俺をどうやったら逢わせる事が
出来るかと…あいつが戻ってきても違和感がないように振る舞う
ことばかり考え続けていました…」

 そう呟いた克哉の顔は、どこか儚かった。
 今にも消えてしまいそうな…そんな印象を漂わせていて、御堂は
見ていて落ち着かない気持ちになっていく。
 
「…君は、随分と悲観的なんだな。話をしているとイライラしてくる」

「…仕方ないでしょう? 御堂さんが求める佐伯克哉は…オレの方では
なく、傲慢で身勝手で酷い『俺』の方だと判ってしまいましたから…。
 それなら、貴方を幾らオレが想っても…迷惑にしかならない。
悲観的になっても…仕方ないでしょう?」

「…何? 今…君は、何と…」

「…御堂さん、オレも…貴方を想っていると言ったら、貴方は一体…
どんな答えを下さいますか?」

 それはあまりにサラリとした口調で、本心なのかと…一瞬、疑った。
 だが…克哉の目を見て、御堂は瞬時に察していった。

―彼は本気なのだと。

 瞳に宿る、情熱的な輝きに…たった今、さりげなく放たれた告白は
真実味を帯びたものである事が判る。
 御堂は、言葉を詰まらせるしかなかった。
 即答出来ない、その沈黙こそが…何よりの、答えだった。

「…困りますよね。貴方が何も言えない事が…何よりの答えですね」

 フっと…諦めるような、切ないようなそんな表情を浮かべていった。

「…すまない」

 御堂は、心底申し訳なさそうに謝った。
 けれど…相手の気持ちが真実だと感じ取れたからこそ、偽りの言葉は
吐いてはいけないとも思ったのだ。

「…良いんです。答えは判り切っていた事ですから…」

 そう告げた克哉は、悲しげな笑みを浮かべていった。
 見ているこちらが胸が締め付けられるようなそんな顔で。

「…佐伯」

 御堂もまた、それを見てどこか心が痛むような顔をしていった。
 克哉の方から…ゆっくりと間合いを詰めていく。
 一歩、二歩と…歩み寄ると、そっと御堂の頬に手を添えて…
まるで慈しむように撫ぜていく。

「…御堂さん、一つだけお願いがあります。それを…聞いて、
下さいますか…?」

「…何だ?」

 御堂がこちらを真っ直ぐ見つめてくると同時に、克哉はそっと…
耳元に唇を寄せて囁いてくる。
 それが耳に届いて、見る見る内に御堂の表情が変わっていく。

―それがオレの最後の願いです。…叶えて下さいますか…?

 念を押すように、克哉はそっと告げていく。
 暫く御堂は真剣に悩んだ末…フっと一瞬だけ瞳を細めていくと…
コクリ、と頷いて見せたのだった―
 
 
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 ―佐伯克哉は夢を見ていた

 夢の中は薄い青と灰色が入り混じったような不思議なモヤが
発生していた。
 その中でもう一人の自分が、心の奥底で残虐な子供の自分を
しっかりと抱き締めたまま眠り続けている。
 水晶のように透き通った氷の中で、整った顔立ちの青年と子供が
抱き合って凍り付いている様は異様な程、絵になる光景だった。
 その氷は厚く、克哉が少しぐらい叩いたり揺さぶったりしたぐらいでは
まったく揺らぐ気配はなかった。

―いつまで、眠っているんだよ…! お前は…!

 本気の怒りを込めながら、この夢を見る度に克哉は必死に
呼びかけていく。
 だが、ただ一度も…もう一人の自分が、こちらに応えてくれた
事などなかった。

―本当に、こんな氷に閉じこもったままでいて良いのかよ!
御堂さんの事をお前は好きなんじゃないのかよ!
 なのに…お前が、こんな処でいつまでも寝ていて言い訳が
ないだろ! あの人がどれだけ…お前を求めているのか、
とっくの昔に、お前だって判っているんだろう…!

 氷を叩く度に、克哉の掌に突き刺すような冷たさと痛みが
走っていく。
 それでも決して、克哉は呼びかけるのを止めなかった。

―あの人が逢いたい佐伯克哉は『お前』なんだ!オレがいたって
仕方ないんだ! それなのにどうして…オレに人生を譲って…
お前がここにいる事を選択するんだ! 
 それが間違いだって事にいい加減気づいてくれよ!

 感情が昂ぶる余り、涙をこぼしていきながら…克哉はともかく
訴えかけていく。
 自分だって、生きたいという欲求はある。
 あの眼鏡を手にするまで…中学の入学式の頃から、25歳の
秋を迎えるまで…自分の方が表に出て生きてきたのだから。
 家族も、友人も…他に執着するものがない訳ではない。
 その気になれば、克哉自身が生きたって全然構わないのだ。
 なのに、彼は…敢えてそれを放棄する選択を選ぼうとしていた。

―御堂さんと、オレが万が一添い遂げて…一緒にいるように
なっても、お前は本当に…後悔しないのかよっ!
 一番好きで仕方ない人が、同じ肉体を共有しているとはいえ…
オレと結ばれて、それをその内側から見守ることになったら、
お前は辛くて仕方ないんじゃないのか!?

 そう、叫んだ瞬間…初めて、眼鏡が反応した。
 それに気づいた克哉は、半ば宣戦布告のような発言を
相手にぶつけていった。
 どんな理由でも良い。
 まずはもう一人の自分を起こさなければ、事態は改善しないと
心底思った。
 それが、相手を怒らせる結果になっても…いつまでも逢いたい人間に
逢うことが出来ずに御堂を苦しませるくらいなら、全然構わないと思った。

―辛くない訳がないだろう!

 それは怒号と形容出来るぐらいの、激しい心の叫びだった。
 眼鏡は、御堂を愛して止まない。
 大切な存在になってしまったからこそ、自分を閉じ込めてでも
その人を守りたいなんて事を考えるようになったのだから。
 
―なら、来い! 起きろよ! あの人は…お前を、心から望んでいるんだ!

―だが、俺がここから出れば…このクソガキが必ず御堂に余計な
チョッカイを掛ける…だから、駄目だ…。

―なら、オレが代わりにここで生きる! だから…起きてくれ!

 無我夢中に、畳み掛けるように克哉は氷の中のもう一人の自分に
言葉を掛け続けた。
 その間、ピシパキ、と小さな音を立てて氷に小さなヒビが入っていく。
 後…もう少しか、と喜びかけた瞬間…氷の中で眼鏡は悲しそうな
瞳を浮かべながら告げて来た。

―もう少し…お前が、出ていろ…

―どうしてだよ! そんなの…。

―お前も、御堂を好きなんだろう…?

―っ! そんなの、どうだって…良いだろう。そうだよ…オレは御堂さんを
好きだよ! だからあの人にとって一番良いようにしたい。
 それだけ、なんだ…!

―それなら、せめて…最後に何か言って来い。じゃなければ…後悔
することに、なるぞ…。

 克哉は懸命に呼びかける。
 しかしそれに対して、本当に切ない瞳を浮かべていた。
 
 ―次の瞬間、まばゆいばかりの光が氷の内側から発せられた

 そのまま眼鏡は無理やり、克哉を夢の中からはじき出させて…
強制的に意識を覚醒していった。

「はっ…」

 自室のベッドで、全身汗だくになりながら目覚めていく。
 まだ、鼓動が荒く忙しない。
 ドクドクドク…と、心臓が早鐘を打っていた。

「どうして、お前は…」

 心底悔しそうに、克哉はつぶやいていく。
 窓の向こうには鮮やかな朝日が浮かんでいる。
 その中で…涙をうっすらと浮かべながら克哉は、シーツを
強く握り締めていった。

 それと同時に、携帯が御堂からのメールを着信していく。
 …間髪入れずに応えていくと、すぐに日時を指定する内容のが
もう一通届けられた。

―指定された日時は、今夜20時。都内の有名なホテルの一室だった

 それを見て、険しい顔を浮かべながら克哉は身体を起こしていく。
 何かを決意するように。
 祈るように…真摯な顔をしながら。
 そして克哉は入念に髪のセットをしていった。

―鏡の中にいたのは、眼鏡を掛けたもう一人の自分の姿かたちをした
克哉であった―
リセット17
 
あれから一週間近くが経過していた。
日にちが過ぎれば過ぎるだけ、先週の週末に…あのような出来事が起こった
のが夢だったのではないかと疑いたくなる事が多々あった。
 御堂は、連日のように魘されていた。
 眠れなくなった訳じゃない。
 ただ、一度…別人のようになった佐伯克哉を抱いたことによって、余計に
彼の事ばかり考えるようになって…夢を見るようになっただけだ。
 
 自分を陵辱していた残虐な彼。
 真っ青になった自分を部屋まで運んでくれた時。
 自分を解放し、告白を残して去っていった後姿。
 そして…例の駅のホームで悲しそうな目をしながら自分を見守っていた姿―
 
 同じ人間の癖に、眼鏡掛けている状態でも色んな顔を見せていた癖に…
眼鏡を外したらまた別人のようになるなんて、あの男は本当に幾つの顔を
持っているのだろう…と思う。
 
(どれが君の…本当の姿なんだ…?)
 
 自室のベッドの上で、半分現と夢の世界を交互に彷徨いながら…
御堂はただ、考えていく。
 寝酒にワインを煽ったので、サイドボードの上には…一本のワインと、
グラスが
置かれていた。
 部屋の明かりはすでに完全に落とされて、窓の外からは仄かな
月明かりだけが
差し込んできている。
 
―ワインを一本、空けた程度では眠れそうにない自分が恨めしかった
 
 あの程度の酔いでは、到底安眠は遠そうだった。
 疲れているから、最初の方は熟睡していた筈だ。
 だが…明け方、微かに空が朱に染まる頃…その鮮やかな赤に
導かれるように
ゆっくりと御堂はその記憶を取り戻していく。
 
―佐伯克哉に関する、忌まわしい記憶の数々を…
 
(思い出したくなんて、ないのに…!)
 
 同じような行為を、彼自身にした事によって…あの日から
連日、御堂の
中には忌まわしい記憶の扉が開かれてしまっていた。
 かつて、彼にされた悪夢の行為の数々を…繰り返し繰り返し、
夢の中に見続ける。
 自分がどんな事を佐伯克哉という男にされていたのか。
 どれだけその行為によって、自分はボロボロになっていたのかが
まざまざと思い出されていく。
 それはかなり、御堂自身の心を苛んでいた。
 
―止めろ、もう止めてくれぇ!
 
 以前のマンションの壁に拘束具をつけられて縛り付けられた
時の事が
脳裏に蘇り続ける。
 排泄も食事も、相手に世話されなければこなせない日々。
 獣のように裸のまま、一日を過ごさせられていた屈辱。
 そして…こちらの意思とは関係なく、連日のように弄られ、追い詰められ…
犯され続けた。
 
―嫌だと言っている割には、あんたの身体はいつだって…俺を求めて、快楽に
震えてばかりいるみたいだがな…?
 
―そんな、事はない! 私は、嫌だと…! うっ…はっ…あぁー!
 
 帰宅すると、あいつはいつだって強引に口付けていきながら…こちらを
容赦なく組み敷いて、抱いていた。
 熱い塊が容赦なく…自分の中に押し入ってくる生々しい記憶が再生される。
 それがこちらの官能を無理矢理引き出し、奇妙な疼きと熱を孕みながら…
いつだって御堂の意思と関係なく、快楽を与えられ続けた。

 あの男が自分を抱き、互いが混じり合う粘質の厭らしい水音を…
そして熱く乱れた吐息を、内部に収められたペニスの熱さをいつだって
忘れたことはなかった。
 下手をすればどこを触れられても感じてしまう…そのレベルにまで
達してしまっていたように思う。
 こちらがどれだけ拒絶しても、何度も何度も貪られた。
 あの男の形を、こちらが気づけばはっきりと思い出せるぐらいに
その痕跡を刻み付けられていった。
 
 
―その割には、御堂さんの此処はいつだって…俺を求めて、吸い付いて
来ている
じゃないですか…?
 
―そんな事は、ない…! こんな、の…私は、まったく…望んで、ないのに…!
 
―また、嘘を言って…
 
―嘘、じゃない…! うっ…あぁ―!
 
 苦しい、苦しい、苦しい!
 
 思い出す度に胸が掻き乱される、消し去りたいぐらいに忌まわしい過去。
 あんな酷い事をされた。
 今まで必死に働いて築き上げた全ての物を壊されて、奪いつくされて…
自分が思い描いていた未来予想図はメチャクチャにされた。
 
―なのに、どうして…こんなに君は私の中に居ついてしまったんだ…?
 
 何故、あんな男にそれでも自分は恋をしてしまったのだ?
 誰かに見られていると…そう気づいて、足を止めて…克哉が、自分を遠くから
眺めている事に気づいてしまった日から日毎に増していく想い。
 再会しなければ、気づかなかった。
 目を逸らしたまま…自覚せずに済んだのかも知れない。
 
 けれど…あの切ない表情を浮かべたあの男を見てしまった日から…御堂の
佐伯克哉に関しての感情は知らない間に変質し、彼を突き動かす原動力に
なっていた。
 そして、あの頃から…時折、優しいような哀しいような…そんな口調で
ただ、自分の名前を呼び続ける時があった。
 
―御堂
 
 けれど、そうだ…あの酷く扱われた日々の中で…あの告白を裏付ける
出来事が、辛うじてあった気がする。
 その記憶を思い出し、御堂はハっとなっていく。
 彼との出来事は、全てが嫌な事ばかりでは決してなかったのだ。
 そして…彼の脳裏に、その日の出来事が一気に広がっていった。
 
 …それも、今朝のような明け方だった。
 散々に淫具を使って弄られて…意識を手放してしまった日の明け方。
 肌寒くてつい、意識を覚醒させてしまった時…自分の目の前には、あの男が
跪いて存在していた。
 また、何かされるんじゃないか…と身構えてしまい、御堂は決して瞳を
開かないようにしていた。
 
 その時の彼の顔を見た訳じゃなかったが…何となく普段と違うような
気がしていた。
 そして男は…こちらの頬を、どこまでも優しく撫ぜながら…もう一度だけ
自分の名前を呼んでいった。
 
―御堂…
 
 その響きは思いがけない程優しくて。
 御堂の脳裏に深く刻み付けられる程だった。
 慈しむように、どこまでも穏やかな手つきで…髪や首筋の辺りも静かに
撫ぜられて…ただ、目を瞑りながら驚いていたような記憶がある。
 
(どうして…こんな風に、私に触れてくる…?)
 
 今まで、この男に優しく扱われた覚えなんてまったくなかったから…
逆にその日の出来事は、御堂の中で鮮明に刻まれてしまっていた。
 あの日の克哉が、そんな風に自分を呼びながら…どんな顔をしていたか、
今となっては…見ておけば良かったと思う部分がある。
 あの日の彼もまた…遠くから、自分を眺めていた時のような…悲しくて
切ない表情をしていたのか、凄く気になった。

 十数分程…こちらが眠っていると思い込んでいるせいで、克哉は
穏やかなその仕草をし続けていた。
 いつも酷い事をし続けている癖に、何故その日に限って…彼は気まぐれの
ようにそんな優しさを見せたのか…?
 そんな事ばかり考えている自分を苦笑したくなった。
 
―考えているのは、眼鏡を掛けた方の佐伯克哉の事ばかりだった…
 
 御堂が逢いたいと焦がれるのは、自分に酷いことをしていた彼の方。
 それを…その夢を見て、嫌でも気づかされてしまった。
 だから、どれだけ激しく抱いても…彼の心は、決して満たされなかった。
 その行為では、ダメなのだ。
 
(気づきたくなかったな…)
 
 ぼんやりと、明け方の空を薄目で眺めていきながら苦笑していく。
 嗚呼、やっと気づけた。
 自分が本当に望んでいたのは…求めていたのは…。
 
―君に優しく、抱かれる事だ…
 
 目を瞑りながら、優しく触れてくれた時のような手つきで。
 あの切なくも熱い眼差しを浮かべた彼に…御堂は、抱かれたかった。
 あんな酷い記憶ばかりじゃなく、凄惨な記憶を刻みつけた相手だからこそ…
その手で、上書きして欲しかった。
 
―自分の中に思い出される記憶が、陰惨なものじゃなくなるぐらい…熱く。
 
 そんな事を考えている自分に、呆れてしまっていた。
 窓の外に広がる朝日は…とても美しかった。
 それに少しだけ、御堂は救われるような気持ちになった。

「…どれだけ悲惨な夜でも、必ず夜明けは訪れる、か…」

 そう、誰にだって辛い出来事が起こって絶望に染まる時はある。
 けれど…一年前は監禁と陵辱の果てに一度は人格が崩壊寸前にまで
追い込まれた御堂自身とて、今はこうやって普通に生活を営んでいる。
 朝は、人の心の闇をほんの一時でも晴らしてくれる。

―その鮮やかで美しい光で、照らし出す事によって―

 窓の向こうに、荘厳な赤と橙が煌き…美しいグラデーションを生み出して
入る光景を見て、心に少しだけ光が差すようであった。
 こんな日常に垣間見える…そんな『美』が、人の心に光を指して…慰めていく。
 そんな恩寵を思いがけず与えられた事によって、御堂は…己の心に
正直になる事にした。

「…自分の気持ちに、正直になろう…」

 もう、目を背けていられない。
 抱いた日から一週間、文字通り寝ても冷めても…考えるのは佐伯克哉の
事ばかりだった。
 離れたって忘れられない。
 踏ん切りをつける事も、想いを捨てる事も出来ず堂々巡りならば…どんな
形でも答えを出す為には、自分は彼に会う必要があるのだ―

「…今の君は、私が恋焦がれて逢いたい方の君じゃない。その話が
事実だったとしても…それでも、私は…逢いたい、んだ…」

 どちらの佐伯克哉でも、会いたい。
 特に…自分の心にその存在を灼きつけていった眼鏡を掛けた方の彼に。
 その情熱は御堂自身を激しく突き動かしていく。
 先週、強姦のように抱いた後…強引に克哉と携帯電話の番号とメルアドを
交換しておいた。
 そのメルアドに短くメールをしながら、御堂は溜息を突いていった。

『今週の週末、君に逢いたい。都合がつくのなら逢って欲しい』

 それは御堂らしい、簡潔極まりない文章。
 けれど何より、その真意をはっきりと告げている文面だった。
 そして…その夜、克哉から返信が来た。

―判りました。場所や時間の指定はそちらさえ良ければお願いします。

 克哉から返された文面もまた、素っ気のないものだった。
 だが…返信があった事に安堵を覚えたのも事実だった。
 そして、そのまま御堂は…都内でも有名なホテル名と時間をメールに記して
送信していく。

―そして彼らは再び、邂逅していく。

 互いにお互いを求めながら、そして同時に深い葛藤を抱えながら。
 惹かれあいながらも、同時に反発する心を抱いて…。
 そして御堂が指定した日時を心待ちにしていく。
 
―こんなに誰かと約束しただけで、心がざわめく事など…今までの人生に
なかったように感じられた―
 

  ―たった今、氷漬けになっている眼鏡を掛けた佐伯克哉の夢を見た

 それはただの夢や幻想で片づけてしまうには酷い臨場感がありすぎて。
 今見た場面のせいで、心臓は激しく早鐘を打って…御堂はベッドの上で
大量の寝汗を掻いていた。
 そして、すぐ間近には克哉の顔が存在していて…ハっと息を呑んでいく。
 慈しむような柔らかい表情を浮かべている彼を見て、御堂は瞠目しながら
相手を凝視していった。
 そっとこちらの汗を優しく拭っていきながら、克哉が問いかけていく。

「…御堂さん。凄くうなされていたみたいですけど、大丈夫ですか…?」

「あ…あぁ、一応…な」

 そう言いながらも、御堂はベッドに仰向けになったままで激しく胸を
上下させていた。
 克哉が眠っている御堂にそっとキスをして、少ししたぐらいから急に
御堂は激しくうなされ始めたのだ。
 克哉はオロオロしながらそれを見守って…切なげに瞳を細めていった。

「…冷たい水でも、持って来ましょうか?」

「…あぁ」

 相手の献身そうな態度に、つい頷いてしまったが…見れば見るだけ、
今の佐伯克哉は別人のようだった。
 眼鏡を掛けていないだけで、これだけ別人のように人はなってしまう
ものだろうか?
 心底、疑問に思いながら…彼が水を取りに冷蔵庫の前まで向かっている
間、辺りを見渡していく。
 赤い部屋は、窓もベルベッドのような赤いカーテンで覆われているので
正確な時刻は判らなかった。
 だが、僅かにその隙間から光が漏れているのを見る限りでは…朝に
なっている事だけは確かだった。

(本当に、今…目の前にいる彼は、佐伯克哉なのか…?)

 部屋の隅にひっそりと置かれていた小型の冷蔵庫からミネラルウォーターを
取り出してグラスに注いでいる姿を何気なく眺めている。
 彼の身体に刻まれている痕跡の数々は、昨日…自分が感情のままに
抱いた時につけたものだ。
 
―あの佐伯克哉を自分が、抱いた…

 その事実が、未だに御堂には信じられなかった。
 昨晩はあまりの展開に頭が混乱してしまって…感情が昂ぶって、頭に
血が昇っていた。
 だから、相手の言葉に乗って衝動のままにその身体を貪ってしまったが
今となってはそれは現実のことだったのかと疑いたくなる程だった。

 自分を監禁して、陵辱し続けた男。

 彼はいつだって支配的で、傲慢で…間違っても自分が組み敷けるような
相手ではなかった。
 どれだけ抵抗したって、無理矢理犯され続けた。
 本気で噛み付いたり、暴れようとしてもその力関係は覆されることは
かつては一度もなかった。
 そんな男が、自分を好きにしろと良い…こちらに抱かれる事を許容した。
 その事実を、御堂自身も信じきれないでいた。

「御堂さん…どうぞ、冷たい水です…」

「…あぁ、ありがとう」

 逡巡している間に、克哉は冷たい水に満たされたグラスを持って
御堂の前に立って…それを手渡していった。
 素直に受け取って、冷たい水を喉に流し込んでいくと…キリリと冷えた
感覚が、意識と思考を覚醒させていった。
 ベッドの傍らにグラスを置いていくと…二人は暫し、見つめあう。
 互いに言葉もなく…真摯な眼差しをぶつけあった。

―そのまま重い沈黙が落ちていった

 お互いに何を話せば良いのか、判らない。
 何から口に上らせれば良いのか判断がつかない。
 そんな時間が二人の間に広がっていく。
 そして…顔を見つめれば見つめるだけ、余計に御堂の中で混乱が
酷くなっていく。

(これは…本当に、私が会いたいと願っていた佐伯克哉なのか…?)

 顔を合わせれば合わせるだけ、御堂の中で違和感が広まっていく。
 そういえばベッドインする寸前に、彼が言っていた。

 ―俺が二重人格だと言ったら、貴方は信じますか?

 そう、間違いなく彼は口にした。
 最初はそんな事を言った彼を頭から否定していたが…接すれば接する
だけ、それ以外の理由しか納得がいかないような気がした。
 御堂の脳裏に、自分を切なげな瞳で見つめながら雑踏の中で
遠くなっていく佐伯克哉の姿が喚起されていく。

 あの切なく、射抜くような強い眼差し。
 彼のその瞳に、気づかない間にこちらの心は引き寄せられて
しまっていた。
 だが…目の前の彼には、その輝きはない。
 慈しむような瞳であるけれど…瞳の輝きがまったく違っている。
 自分が逢いたいと焦がれたのは…あの双眸を真っ直ぐに向けられた
からだ。なのに、目の前の克哉にはそれがまったくなかった。

(あの…荒唐無稽と最初は笑っていた話は、本当の事なのか…?)

 そう疑念が生まれた瞬間、フっと視線を逸らして…克哉は
そのまま御堂の横になっているベッドの傍らへと腰掛けていった。

「…身体の調子は、如何ですか?」

「…その言葉は、そっくり君に返させて貰おう。昨晩は…かなり手荒に
君を抱いた。その負担は半端ではないだろう…。それなのに、身体を
動かせるとは大したものだな…」

「…正直言うと、少し身体を動かすのは辛い部分があります。が…
出血した訳でもないので…」

 苦笑しながら答えていく克哉の表情は弱々しい。
 つい…御堂は、見ていられない気分になって相手の肩に腕を
回して自分の方に引き寄せていった。

「なっ…!」

 その仕草に、克哉も驚いたのか…声を漏らしていく。
 御堂自身も、正直…自分で驚いてしまっていた。
 何故、こんな真似をしたのか自分でも説明がつかない。
 けれど…今にも倒れそうなのに、気を遣わせまいと…気丈に微笑む
顔を見て…何故か放っておけない気分になったのだ。

「どうして…?」

 克哉は困惑している。
 御堂も、戸惑いを隠せなかった。
 自分が必死に求めている眼鏡を掛けた彼とはまったく違う存在。
 なのに…今にも、彼は消え入りそうで…儚く掻き消えてしまいそうな
そんな印象を今、感じて…つい、知らずに手を伸ばしてしまっていた。

「どうして、オレに…こんな真似をするんですか? 御堂さん…?」

 唐突に引き寄せられた御堂の腕の中は暖かくて…つい、気が
緩んで涙さえ浮かびそうになってしまう。
 好きだと自覚した相手に、気まぐれでもこんな優しさを与えられたら
どうしたって…胸が大きくざわめいてしまうのに。
 この人の為に、絶対にもう一人の自分を呼び覚ますのだと決意した
ばかりなのに…早くもグラついてしまう自分が情けなかった。

「…何故か今の君を見ていると、見ていられないような気分になった。
…私にも、理由は判らない…」

 御堂自身も、困ったように苦笑していく。
 けれど…埋めた相手の胸の中は暖かくて、鼓動が静かに伝わってくる。

―トクン、トクン…

 一定のリズムで刻まれたその音に、何故か安らぎを感じていく。
 そっと目を伏せながら…克哉は静かに聞き入っていった。
 御堂の手がぎこちなくこちらの髪を梳いていく。
 不意に訪れた、あまりに優しい一時。

「…あんまり、優しくしないで…下さい…」

 さっき誓った決心すら、それだけの事で揺らいでしまいそうになる。
 御堂にとっては気まぐれに与えた、優しさだったのかも知れない。
 けれど…それだけでも、幸せで幸せで…胸が詰まりそうになる。
 知らぬ間に涙が零れて、頬を伝っていく。

(昨日から…泣き過ぎだよな…オレは…)

 自分でもそうツッコミを入れたくなるぐらい、涙を流してばかりいる。
 なのに…止めたくても、克哉の意思に反して…透明な雫は零れ続けて
相手の裸の胸元を濡らし続けていった。

「…君は、泣いているのか…?」

「………」

 何も、答えられなかった。
 顔を俯かせながら…ただ、沈黙を落としていった。
 お互いに何を言えば、判らなかった。
 何から聞けば良いのか、話し合えば良いのか判らない。
 一緒にいればいるだけ…御堂の中で混乱が広がっていく。

「…日を改めて、また私に会って貰えるか…?」

「えっ…?」

 唐突に呟かれた言葉に驚いて、克哉は顔を上げていく。
 昨夜と打って変わって、御堂の表情はどこか柔らかいものに
なっていた。
 それに虚を突かれる形になり、克哉は呆然としていく。

「…貴方は、何を…言って…?」

 自分は、この人が求めている佐伯克哉とは違うのに。
 なのにどうして…また、会いたいなどと言うのだろうか?
 抱いて、充分にその事実は伝わった筈なのに…?

「…君は、昨晩から何度も私に自分の事を諦めろ、と言った。
だが…私はどうしても、諦められないんだ…」

「それは、もう一人の『俺』と会いたいから…ですか…」

「…あぁ、そうだ」

 少し間を置いてから、はっきりと…御堂は答えていった。
 それにズキン、と胸が痛む想いがした。
 だが、それでも克哉は御堂から目を逸らさなかった。
 真っ直ぐに相手の紫紺の瞳を見つめて…言葉を紡ぎ続けていく。

「…君が、私と会いたいと願っている人格と違うという話は…正直、そんな
事が実際にあるとは認めたくないが、それ以外に納得がいかないからな。
だから信じよう。だが…彼の口から、はっきりと結論を聞くまでは…
私は決して諦めたくない」

「…そう、ですか…」

「だから連絡先を教えてくれ。また…誘いを掛ける」

「判り、ました…」

 克哉がコクン、と頷いた瞬間…急に首元に顔を埋められて、凍りつくような
言葉で囁かれた。

―それまで、決して他の人間を抱いたり…抱かれたりするなよ

 ゾクン!

 その冷たい一言を聞いた瞬間、背筋が凍りつくような感覚を覚えていった。
 次の瞬間、強く吸い上げられて…再び、赤い痕を刻み込まれていく。

「あぅ…!」

 堪えきれずに、克哉が呻く。
 そして…その瞳を見た。
 本気で、怒りを覚えているのが一目で判る眼差しだった。

「…別の人格でも何でも、私は君と言う存在が…他の人間と肌を重ねて
いるのは不愉快だ。だから、次に会う日まで…決して、私以外の人間に
抱かれるような真似はするな。良いな」

「御堂、さん…貴方は、何を言って…?」

 克哉は、今…御堂が言った言葉が信じられずに唇を震わせていた。
 だが、目の前の男の眼は真剣だった。
 戯れや偽りでそんな事を言ったのではないと一目で判ってしまって…
克哉の中に大きな混乱の波が生まれ始めていく。

「良いな、と問いかけているんだ! 返事は…?」

「はい! オレは…貴方以外には抱かれません! 約束…します!」

 相手の剣幕に押されて、克哉は弾かれるように答えていってしまう。
 自分でも、こんな事を言うのは可笑しいと思った。
 だが…それが、紛れもない御堂の本心だったのだ。

―どちらの佐伯克哉でも、他の人間と寝るような真似をされたら…
自分は嫉妬で気が狂いそうになると…!

 衝動のままに克哉を抱いた時も、その想いが胸に渦巻き続けていた。
 
「それで良い…」

 そうして、噛み付くように唇を奪われていった。
 その腕の強さと…口付けの熱さに、克哉は眩暈すら感じていく。
 
―心が大きく、揺れていくのが判る。

 この人に惹かれて、どうしようもなくなっていく。
 これ以上好きになったら…決心が鈍ってしまいそうなのに、
御堂の腕の中も、口付けも熱くて…再び身体の奥に熱が灯って
いくのが判った。

「御堂、さん…」

 切なげにこの人の名前を静かに呼んでいく。
 そんな克哉を…御堂は強く抱き締めて…自分の腕の中に閉じ込めた。

―この人はもう一人の自分が愛して止まない存在

  諦めなくてはならないのに…こんなキスをされたら、忘れられなくなって
しまう。…そんなの、ダメなのに…!

 涙を零しながら、克哉はそれでも…その口付けを享受していく。
 そんな彼を…御堂は切ない顔を浮かべながら抱き締め続ける。

 その雫は、もう一人の自分と同じ人を好きになってしまった…克哉の
葛藤の結晶でもあった。
 ポタリ、ポタリ…とシーツの上に涙が落ちていく。

 そして二人はそのまま…暫く、無言のまま抱き合い続け…チェックアウトの
時間を迎える直前に、連絡先を交換して…その日は一度、互いに別れて
帰路についていったのだった―
 

 

 ―克哉に見守られながら御堂は夢を見ていた。

  夢の中で御堂は、暗いモヤの中に包まれていた。
  周囲は薄暗く、どこに何があるのかもロクに判らない。
  暗中模索、とはまさにこんな状況のことを言うのだろう。
  どこを見渡しても、何も見えない。
  どの方向を振り向いても目標となりそうな物が存在しない。
  それでも、心の中に求める人物を…必死になって彼は
探し続けていく。

『佐伯…どこにいるんだ?』

 小さく呟きながら、ゆっくりと進んでいく。
 こんな闇の中で一人で進むのは心細い。
 けれど…遅くはあるが、御堂は立ち止まったりはせずに…
彼は進んでいく。
 人生に立ち止まっている暇などないと思う。
 迷って、悩んで…苦しんで、それで停滞をしても時間の無駄に
しかならない。
 それは御堂の考えであり、信念だった。

―こんな処で不安だからとジッとしていて何になる?

 不安だからこそ、足を止めてはダメなのだ。
 進んでいけば…何かが見つかる可能性がある。
 行動さえすれば、状況を変える糸口を掴めるかも知れない。
 その可能性がある限り、御堂はあの男を求めることを止めたりは
しないだろう。
 例え、彼自身がもう自分が追いかけて来る事を望んでいないと
知っても…。

「私は、それでも…『君』とキチンと一度話すまでは、諦めはしない…」

 苦しげな表情を浮かべながら、力強く口にして…それでも
御堂は進んでいった。
 辺りは幾ら進んでも、薄暗いままで…やはり何も存在しない。
 こんな不毛な夢をどうして自分は見ているのだろうかと思った。
 建物も、人影も生き物の気配や植物や地面の感触すらも
存在しない。
 今、足を付いている場所とてフワフワと頼りない感触で、地面という
感じすらしない。
 こんな場所は夢の中ぐらいしかないと思った。
 だから今の彼は、ここが自分の夢の中だという自覚があった。

「まったく…夢を見る事自体、久しぶりだというのに…何だってこんなに
意味の無い夢を見るんだ…?」

 御堂は普段の睡眠時間は4~5時間程度で、日中にこなしている激務のせいで
大抵眠りが深く、夢など見る余地がない。
 不眠症など、精神的に弱い人間が掛かる病だと思っている。
 己の果たす事、やらなければいけない事を見据えている人間はそんな
甘ったれな病気に掛かっている暇などないという考えもある。
 そういう精神の持ち主であるせいで…夢など普段はまったく寄せ付けないの
だが、一つ例外があるとすれば…佐伯克哉に関する夢だけだった。
 御堂が唯一、ここ一年以内に見ていたのは彼に関わった時にされた
悪夢の行為の数々。
 それと去り際の切ない瞳と、あの告白の日の記憶だけだった。
 しかし…今の御堂には、そんな判断材料はない。
 だから、また無駄と思いつつも進んでいった。 
 
 どれぐらい進んだのか判らない。
 永遠に続きそうなぐらいに永い道のり。
 何も見つからない事に、いい加減焦れて来てしまった。

「…いつまで経っても何も見つからないとはな…! 何だってこんな
夢を見ているんだ…! どうせなら、夢の中ぐらいまともに出て来い!
夢の中まで君は私から逃げ続けるつもりなのかっ!」

 本気の怒りを込めながら。
 本心からの言葉を叫んでいった。
 その瞬間、何もなかった闇の中に…鮮烈な光が生まれ、予想も
つかなかった光景を御堂に見せていく。

「っ…!」

 その時、御堂は見た。
 雁字搦めに鎖で縛られながら氷の中に閉じ込められている眼鏡を
掛けた佐伯克哉の姿を。

「何だこれは…!」

 そしてその腕には、小学生くらいの子供をしっかりと抱き締めて
二人で氷漬けの姿になっている。
 まるで…氷の中に何かを封じ込めているような、そんな異様な光景に
御堂は愕然としていく。
 この情景は…一体何だというのか。

―これが今の俺の状況だ。だから…諦めて、くれ…。

 フイに、声が聞こえた。
 それは追い求めていた男の声。

「佐伯…っ!?」

―この腕の中の子供は、残酷な俺の心。あんたを追い求めて、傷つけて
ボロボロにしようとするぐらい犯そうと…そんな衝動を持った俺の心の象徴。
 こんな奴を野放しにして、もう一度あんたを傷つけてしまうことは耐えられ
なかった。だから…俺は…

「ちょっと…待て、君は、何を言っているんだ…?」

―俺はここに、コイツごと俺を封じた。だから弱いオレが…表に出ている。
だから、諦めてくれ…。それが、あんたを守る一番良い方法だから…

 切なげに、悲しげな声で…眼鏡は御堂に告げていく。
 その瞬間、その夢が遠くなり…氷漬けになった眼鏡の姿すらも
遠いものへと変わっていく。

「待て! 私はまだ…君に、何も…!」

 必死になって手を伸ばしていく。
 だが、彼の姿はまたどんどんと遠くなってしまう。
 
「行くな! 私は…君を…君を…!」

 彼の目は悲しげに伏せられたまま。
 こちらを決して見ようとしない。
 それでも御堂は必死になって叫んでいく。

「君を…好き、なんだ…! だから諦めるのなんて…絶対に嫌だ!」

 はっきりと、その言葉を告げていく。
 眼鏡は最後に一言…答えていった。

―ありがとう。あんたにそう言って貰えて…俺は、幸せ者だな…。
だからこそ、もう傷つけたくないんだ。さよなら…

 そして、強引に夢から御堂は連れ戻される。
 光が周囲に満ちて、強引に意識が夢から浮上していった。
 そんな御堂の髪を、愛しげに撫ぜ擦る手があった。

「御堂、さん…」

 悲しげな表情を浮かべながら、眼鏡を掛けていない彼の方と
目があった。
 その瞳には…深い哀切の色が滲んでいる。

「…君、は…?」

 混乱し、激しく喘ぎながら…御堂は小さく呟いていく。
 そんな彼に向かって、どこまでも儚く…克哉は微笑んでいったのだった―
 

―結局、夜明け近くまで克哉は御堂に激しく抱かれ
続けていた。
 
 何度も、何度も背後から顔を見ない状態で際奥を貫かれ続けて…
体中には彼が残した
赤い痕と情事の名残が刻み込まれている。
 空が暁に染まり始める頃、ようやく行為の途中で意識を失った克哉が
目覚めていくと…
そのすぐ隣には、御堂がどこか苦しそうな表情を
浮かべながら眠っていた。

 赤い内装で纏められたホテルの一室。
 周りには大量の大人の玩具やSM道具が並んでいるような異様な
室内で…こうして、二人で連れ添って眠っていたのが何か可笑しかった。
 目覚めて少ししてから、身体の奥にはまだ残滓が残されたままであったが
肌が案外さっぽりとしている事に気づいていく。
 確かめるように自分の腕を軽く撫ぜていくと、サラリとした感覚だった。
 行為の最中、あれだけ
汗を掻いていたのなら普通ならベタついている筈だ。
 ふと気づいた事があって、克哉は力なく呟いていく。
 
「…思ったより、身体がさっぱりしている…。もしかして、御堂さんが…?」

 昨晩の自分達の狂乱ぶりを思い出し、頬を朱に染めていく。
 結局御堂は、自分を背後から朝まで穿ち続けた。
 顔を合わせて抱き合う事も、口付けもせず…その癖、時折自分の肌の上に
涙を何度も落としていきながら…御堂は、克哉を抱いていた。
 その記憶を思い出し、克哉はキュっと唇を引き絞っていく。

「御堂さん…貴方は、本当は…『俺』に会いたかったのに…」

 隣で眠る御堂は、疲れているのか深い眠りに入っていた。
 だから少しぐらい克哉が身じろぎをしたり、手を伸ばしてもまったく
目覚める気配はなかった。
 その頬を、髪を確認するように辿りながら…克哉自身も気づかない内に
そっと涙を零していた。

―どうして、二人は両想いなのに…抱き合ったのはあいつではなくて、
オレの方だったのだろう…。

 行為の最中に何度も、何度も自分の肌の上に涙を感じた。
 首筋から肩口に掛けて痛いぐらいに吸い付かれたのは、もう一人の自分に
対してどれだけ強く御堂が執着をしているかの証のようなものだった。
 同じ肉体を自分達は共有している。
 けれど…それは自分が受けて良いものじゃなかった筈なのに…どうして。

―ここにいるのが、オレなのだろう…。

 半分だけベッドの上で身体を起こしていきながら、飽く事なく御堂の
髪を梳き続けていく。
 普段は一部の隙もなく整えられた髪型は、今は少しだけ乱れていた。
 あれだけ激しいセックスをしたら当然の結果なのだが…何故かそれが
少しだけ愛しく感じられた。
 その感情に気づいて、克哉はハっとなっていく。

―愛しい? オレはこの人が…?

 唇を震わせながら、たった今気づいた己の気持ちに…愕然となっていく。
 最初は自分でもびっくりした。
 しかしすぐに…納得していった。

―あぁ、そうか。オレ達は同じ人間だから…同じ身体を共有している
存在だから、影響を受けても仕方ないんだ…。

 自分は、彼が消える直前までどれだけ強くもう一人の自分が
御堂を想っていたを知っている。
 この人の強靭な精神力、誇りの高さ、凛とした処…『俺』の方は
御堂という存在に強く心惹かれ、焦がれていた。
 そして自分は…それを間近で見ていたから。
 その熱い心に触れて、影響を受けてしまっていたから。

―だから気づかない内に、自分もこの人に惹かれてしまっていたのだ…。

 己のその感情に気づいて、静かに頬に涙を伝らせながら…
克哉は力なく呟いていった。
 指先は、小さく震え続けていた。

「…オレ、バカみたいだな…。あいつがあれだけ、この人の事を好きだって…
想っているって知っているのに…同じ人を、好きになってしまうなんて…。
そんなの、許される訳がないのに…」

 両想いの二人の間に、自分はいわば割り込んでいるような存在。
 それが…この人を想うなんて許される訳がないのに。
 どうして、たった一度抱かれただけでこんなに…痛いぐらいの気持ちが
湧いて来るのだろう。
 どう、して…。

「御堂さん…御免、なさい…。けど、今だけでも良いんです…。オレの方が、
傍にいる事を…許して、下さい…」

 か細く、消え入りそうな声音で克哉は小さく呟いていく。
 諦めるから…必ず、貴方に求めている方の自分を帰すから。
 たった今、この時だけでも…『オレ』がここにいる事を許して下さい。
 そう想いながら…そっと、顔を寄せて眠っている御堂の唇に、小さくキスを
落としていく。
 彼の唇は少し乾いていて、暖かくて柔らかかった。

「御堂、さん…」

 心からの愛しさと、切なさを込めながら小さく告げていく。
 御堂が眠ったままでいてくれた事が救いだった。
 小さな波紋が、克哉の中に生まれ始めていく。
 それはいつしか…積み重なることによって大きな波動へと徐々に
変化していくだろう想い。
 
―誰かを好きになるという事はどれだけの痛みが伴うのだろう。

 想う事は喜びを生むと同時に、叶わぬ時は人に果てしない痛みを
齎していく。
 それでも…気づかない間に人は誰かに惹かれ、恋をしていく。
 そして愚かしいまでに、その想いに翻弄され突き動かされていく。

 3、不安定な数字。
 4、安定はしているが…纏まりがない数字。
 応対しているのは二人。
 だけどこの身には三つの感情がせめぎ合い、衝突し合っている。

 この中で最終的に残り…御堂の元に残るのは誰か。
 今の時点では克哉自身にも判らない。
 けれど…強く、願っていた。

―どうか最後に残るのは、この人がもっとも激しく求めている
眼鏡の心である事を…。



 赤で覆いつくされた歓楽街のホテルの一室。
 朱色のビロードのようなベッドシーツの上に克哉は気づけばうつ伏せの
体制で組み敷かれ、乱暴に脱がされたワイシャツで両手首を拘束された。

「くぅ…!」

 克哉が苦悶の声を漏らしていきながら軽く身を捩ろうとした。
 だが、御堂は後ろからそれを押さえつけて阻んでいく。

「…ほう? 私に好きにしろ…と言った癖に君は抵抗するのか?」

 その一言を聞いて、克哉は弾かれたように顔を上げて…首を振り向かせて
いきながら男の顔を見つめて、首を横に振っていく。

「…いいえ、その言葉に偽りはありません。御堂さんの好きなように
なさって下さい…」

「…ふん。なら、好きにさせて貰おうか…」

「っ…くっ!」

 相手に耳の後ろの付け根の辺りを強く吸い上げられて、つい苦痛を訴える
声が漏れていった。
 そうしている間に乱暴にズボンと下着を一気に引き下ろされて臀部を
露にされていく。
 間髪を入れずに、御堂の優美な指先と…冷たいローションが自分の窄まりの
周辺に落とされて、弾かれたように克哉の肉体は跳ねていった。

「ひゃ…! 冷たっ…!」

「…すぐに熱くしてやる…」

 克哉の耳元で呟いた御堂の声には、欲望の声と…怒気が半々で混ざっていた。
 それを敏感に感じ取って、克哉の身体は軽く竦んでいった。
 一度も男の欲望をこの身で受けた経験がない克哉には、これから御堂に犯されると
いう現実にどうしても身が強張ってしまっていた。
 好きにしろ、と言ったのは自分の方だ。
 なのにこんなに…恐怖と戦慄を覚えてしまっている。
 そんな不甲斐ない自分に唇を噛み締めながら耐えていくと…御堂はそんな
克哉を眺めて、訝しげに瞳を細めていた。

(どうして抵抗しない…?)

 こちらの行為を素直に享受している佐伯克哉に心底、違和感を覚えていった。
 自分が良く知っている彼であるなら、きっと途中で形勢を逆転させて…こちらを
逆に犯し返すだろう。
 事実、彼との関係はそういう形で始まっていた。
 半ば嫌がらせが入っていたプロトファイバーの営業目標の引き上げ。
 本来ならあの時、御堂はそれを口実にあの生意気な眼鏡を掛けた佐伯克哉を
慰み者にして気を晴らすつもりだった。
 だが、逆に逆手に取られてこちらがあの男に陵辱されている場面を撮影
されてしまい…そして、御堂の地獄の日々は幕を開けたのだ。

―お前なら、私を逆に犯し返すだろう…!? そういう男じゃなかったのか…!

 自分の記憶の中に在る佐伯克哉と、今目の前にいる克哉の余りの違いに
御堂は心底、憤りを覚えていた。
 苛立ち混じりに克哉の内部に指を侵入させて、強引に快楽を引き出していく。

 ヌチャ…ネチャ、グチャ…グプッ…!

 相手を辱めてやる為にわざと大きな水音を立てるように内部を掻き回して
いってやる。
 その度に克哉の肉体は耐え切れないとばかりに大きくうねり、苦しげに呼吸を
繰り返しながら喘いでいった。

「はっ…んんっ…! やっ…其処、は…はぁ…んっ!」

 今までの人生の中で、他者にそんな部位を触れられた経験そのものが
なかった克哉はともかく前立腺の部位を弄られて生じる激しい悦楽にただ、
翻弄されていくしか出来なかった。

「…やだ、という割りには顕著な反応をしているじゃないか…?」

 相手の感じる部位を探り当てて其処を執拗に攻め上げていく度に
腕の中の克哉は耐えられないとばかりに艶っぽく身悶え続けていく。
 其れを見ている内に…御堂の中に形容しがたい欲望が生じ始めていく。

―はっ…はっ…。

 知らず、御堂の呼吸も荒いものへと変わっていく。
 紛れもなく今、目の前で感じて啼いている克哉の姿を目の当たりにして…
彼は興奮していた。
 恋焦がれて、逢いたいと願っていた男だった。
 あんな酷いことをされていたにも関わらず、どれだけ痕跡を消し去ろうとしても
頭の中からあの男の残影を追い払えなかった。
 自分の知っている彼と、今…腕の中に納まっている彼はあまりに違い過ぎて
別人と言えるぐらいのレベルであったけれど、だが…容姿だけは、紛れもなく
逢いたいと願う男とまったく同じものだった。

―だから、気づけば御堂は欲情して相手が欲しくて仕方なくなっていた。

 胸を穿たれるような悲しみと怒り。
 それを…一時だけでも忘れ去りたかった。
 自分は、この男に抱かれる事を望んでいた。
 だが…今は、どちらでも構わなくなっていた。
 ふいに…見知らぬ男と連れ立って歩いていた先程の彼の姿が脳裏を
過ぎっていく。

―他の誰かと肌を重ねられるぐらいなら…!

 それは猛烈な独占欲。
 この男が、他の誰かを抱いたり…自分以外の男に抱かれる事など許す
事が出来なかった。
 だから御堂は執拗に責め立てていく。
 今は自分以外の人間のことなど、一切考えられないように…!

「克哉…」

「はっ…あ…!」

 初めて、この男の下の名前を呼んだような気がした。
 相手の脆弱な場所をともかくしつこいぐらいに指の腹で擦り上げていけば
その内部は怪しく蠕動を繰り返し、こちらの指を食いちぎらんばかりだった。
 まだ、指を二本含ませただけだというのに…この蠢きぶりは何だと
いうのか。
 とても…男を知らない人間の中とは思えないぐらいだ。

「…君の中は…随分といやらしいな。これなら…充分そうだな…」

「えっ…! 御堂、さ…ん、待って…あ、あぁぁぁっ…!」

 いきなり指を引き抜かれていったかと思うと同時に、蕾の入り口に熱い
塊を押し当てられていって克哉はつい身構えてしまっていた。
 だが男は一切容赦しようとしなかった。
 ドクンドクンと脈打つ己の性器で、克哉の際奥まで一気に貫いていった。

「う…あっ…!!」

 その衝撃に、唇を強く噛み締めながら克哉は耐えていく。
 挿入してすぐに御堂の激しい律動は開始していった。

「…今は、私を感じろ…!」

 私以外の人間の事など、一切考えられないように!
 今…この瞬間だけでも、私だけを見ろ!
 お前が、他の人間と肌を重ねることなど許せない。
 こんなに…自分の中に深くその存在を刻み付けておきながら…
そんな真似をしていたというのなら…!

―お前にその罪を贖って貰おう…!

 そんな残虐な考えと衝動に支配されながら、御堂はとにかく感情のままに
乱暴に克哉を突き上げていった。
 首筋を何度も、何度も痛いぐらい吸い上げられながら、刻印のように赤い痕が
無数に刻まれ続けていく。
 
 ギシギシギシギシッ!
 
 ベッドが大きく軋み音を上げるくらいに激しく、克哉の内部を犯し続ける。
 怒りの余り、感情が昂ぶりすぎたせいか…御堂の双眸からは知らぬ間に
涙が伝い始めていた。
 それは、深い失望と悲しみを感じた為に流れた、御堂の感情の発露でもあった。

―ポタリ…

 それを背中に感じて、克哉は切なくなった。
 御堂が、泣いている。
 その濡れた感触を僅かに感じるだけでも…四つんばいにさせられて相手の
顔が見えなくても、充分にそれを察してしまったから。
 だから克哉は、悲しげに目を伏せながらも…一切抵抗せず、この人の
好きなようにさせていった。

(…やはり、貴方は…泣いているんです、ね…)

 そのまま御堂の激しい抽送は続けられていく。
 克哉は、腰を高くせり上げながら…必死になって受け入れる以外の
事は何も出来なかった―


  
  そのホテルの裏口から入ると、フロントで人と対面しなくても部屋が
取れるシステムを採用されていた。
 どうやら6種類のタイプの部屋が用意されているらしく…それらの部屋は
色によって区別されているようだった。

 白い部屋は模様はスタンダードだが、コスプレ衣装が50種類用意
されている。
 青い部屋はウォーターベッドと、部屋全体の内装が海と空を思わせる
色合いに設定されていて、透明なユニットバスが設置されている。
 赤い部屋は、全体的に朱色の色調に纏められていて…ハードプレイを
楽しむ為の大人の玩具やSM道具が予め完備してある。
 緑の部屋は、淡い黄緑のシーツや内装、そして壁には森林の絵が
描かれているようで…森のアロマが漂っている。
 黒い部屋は、黒の色調で部屋全体が纏められていて…室内の
明かりを消すと、星空のように天井と壁が光る仕掛けがあった。
 最後の桃色の部屋は、部屋の壁も寝具もピンクで纏められていて
ミラーボールが設置されている上に、大きなベッドが回転する作りに
なっているようだった。

 六つの部屋それぞれに特色があり、パネルには各部屋が何室
残っているか数字が点滅していた。
 御堂はそれで赤い部屋のパネルのボタンを押していくと…取り出し口に
ホテルのキーがガコン、と音を立てながら落下してきた。
 それを乱暴に手にしていくと…壁に貼ってあった案内図を軽く眺めて
エレベーターに乗り込み、部屋がある階まで移動していく。
 その間、ただ…克哉は御堂の成すがままだった。

 バタンッ!

 キーで扉を開いていくと同時にやや乱暴に閉めていって、克哉の身体を
其処に放り込んでいく。

「うわっ…!」

 入り口の付近から突き飛ばされて、勢いで克哉は上等なカーペットが敷かれた
床の上へと尻餅を突いていく。
 その間に御堂は後ろ手で部屋の鍵を閉めていくと…克哉の逃走経路を静かに
奪っていった。

「御堂、さん…」

 その剣幕に思わず克哉は圧されていく。
 今、自分の目の前にいる男は本気で怒っているようだった。
 深い紫紺の双眸には深い憤怒の感情が宿って、鋭く輝いている。

「…君は一体、何なんだ…?」

 御堂の声には、失望の感情が色濃く滲んでいた。
 その癖、戸惑っているいるような…混乱しているような、そんな危うい
部分も同時に存在している。
 
「…君が私との事を、他人事のように語るというのなら…はっきりと
思い出させてやろう…」

 そのまま、御堂がゆっくりと克哉の方へと歩み寄ってくる。
 克哉はただそれを…身を硬くして、身構えていった。
 逃げようか、と一瞬考えた。
 御堂と自分の体格は同程度。
 彼が本気になって取っ組み合い、抵抗をすれば…逃げられなくはない。
 だが…敢えて、克哉はこの場から逃走することを諦めた。

(…この人は、恐らく…『オレ』まで逃げたら…凄く傷つくだろうな…)

 追いかけて、追いかけて。
 もう一人の自分と逢いたくて、会話をしたい一心で追いかけて来たというのに
寸での処ですり抜けてしまって…今の御堂は深く傷ついていた。
 だから、克哉は御堂の気の済むようにして構わないと考えた。
 きっともう一人の自分のように、こちらが演技して振る舞ってもこの人はきっと
本物でないのなら察してしまうだろうと感じたから。
 なら…自分が出来る事はきっと、この人の怒りをこの身に受ける事
ぐらいだろう…。

「…貴方の好きになさって下さい…」

 しかし、あの佐伯克哉からそんな殊勝な言葉が漏れた事で…御堂孝典は
目を大きく見開いていった。
 信じられないものを見た、と言いたげに驚愕の感情を瞳に讃えていく。

「…君は、本当にあの佐伯…か? この部屋を見て…何も感じないのか?」

 その時、ようやく…克哉は御堂の様子に気づいていった。
 男の肩は大きく震えて、顔が青ざめている。
 それで克哉はやっと気づいていった。
 この部屋に数多く常備されている…大人の玩具の類は、眼鏡にこの人が
監禁されている期間…殆ど実際に試されたものばかりだった。
 こんな部屋をわざわざ選ぶ事は、御堂にとってもリスクの高い事だっただろう。
 だが…それでも、この部屋に連れていけば…『俺』の方なら、絶対に
何らかの反応があると思ったのだろう。
 その事実を何となく察して…克哉は、切なくなった。

(貴方はそれぐらい…もう一人の『俺』を求めているのに…どう、して…)

―ここにいるのが、オレなのだろう。

「…すみません。オレは、貴方の期待には応えられません…。この部屋を
見ても、何も…」

 アイツのように、御堂を責めて追い詰めて…快楽と苦痛交じりの感覚を
執拗に与え続けるような振る舞いは克哉には絶対に出来なかった。
 
「…私には、君が…判らない。どうして、さっきからそんな別人のような
言動と振る舞いを繰り返しているんだ…。何故…」

―それは、オレとあいつは別の心を持っている存在だから…

 余程、その事実を今…目の前にいるこの人に告げてしまおうかと思った。
 口を噤むか、告げるかどっちにするか暫し悩んでいく。
 言うべきじゃない。最初はそう判断した。
 しかし…言わない限りこの人の混乱は更に深まっていくような気がした。
 信じてもらえないのは最初から承知の上だった。
 だが…意を決して、ポツリと告げていった。
 
「…オレが、二重人格だと言ったら…貴方は、信じますか…?」

「…何、だと…?」

「…今、目の前にいるオレと…貴方を監禁して、全てを奪って…愛していると
最後に告げて去っていった『俺』とは別人格だという話を貴方にしたら…
その事実を、貴方は認めて下さいますか…?」

「君は、一体…何を、言っているんだ…?」

 御堂は予想通り、信じられないという表情を浮かべていく。
 当然の反応だった。
 こんな話をいきなりされたからと言って、すぐに信じてくれる人間など
そうはいないだろう。

「…事実です。オレは、貴方を愛して去って行ってしまった佐伯克哉では
ありません。別の心を持った…弱くて、情けない人間でしかない。
この部屋を見ても…玩具を使って貴方を追い詰めようと考える事は
出来ないんです。貴方の期待に…オレでは応えられないんです。
本当に…御免なさい…」

 うっすらと涙を浮かべながら、切々と語っていく。
 それ以外に、何も出来る事など出来なかった。
 どうすれば…もう一人の自分は表に出て来てくれるのか、今の彼には
判らない。
 だからこの人の望みに応えてやれない事が本当に苦しくて、悲しくて
仕方なかった。

「何で、そんな事を言う…。本当に、そんな言い訳で…私とまともに
対峙するのを…避ける気なのか…?」

「………」

 今の御堂の言葉を聞く限り、半信半疑な様子だった。
 この反応こそ、むしろ自然だろう。
 御堂は危うい表情を浮かべながら…克哉を見下ろしている。
 克哉はただ…真摯な表情で、この人の顔を見つめ返していった。

「…信じる、信じないは貴方の自由です。…それを認める事が出来ないなら、
収まらないというのなら…オレを、貴方の好きになさって下さい。
…オレにはきっと、貴方にそれぐらいしか…出来る事はないと思いますから…」

 僅かに瞳を潤ませながら、克哉は告げていく。
 それ以外に…自分が出来る事など思いつかない。
 恐らく深く傷つき失望して…途方に暮れている御堂。
 彼の心は、恐らく自分では満たす事も癒す事も出来ないのなら…せめて
この身を差し出して慰み者になるぐらいしか、克哉には思いつかなかった。

「…それが、君の答えなのか…? 佐伯克哉…」

 予測どおり、御堂の口調には強い怒気が滲んでいた。
 一瞬怯みそうになったが…克哉は意を決して、コクンと小さく頷きながら
答えていった。

「…はい」

「…判った。それなら…君を私の好きにさせて貰おう…」

 本気の憤りを込めながら、御堂は呟いていく。
 そのまま一気に間合いを詰められると同時に…強引に腕を掴まれて
ベッドの上へと引きずり込まれていく。
 克哉はそれを、硬い表情を浮かべながら受け入れていった。

「…君に嫌でも思い出させてやる。かつて…どんな事を私にし続けて
来たのかをな…っ!」

 そのまま、シーツの上に克哉の身体を縫い止めて覆い被さっていく。

「…貴方の、気の済むように…どうぞ…」

 馬鹿な行動だと自覚がある。
 しかし、これくらいしか今の自分には出来ない。
 いっそ、自分の事など壊してくれれば良いと思った。
 この心が壊れてしまえば、その向こうからもう一人の自分が現れて
くれるというのなら…喜んで破壊される方を今の克哉は選ぶだろう。
 それは愚かなまでの自己犠牲精神。
 しかしそんな想いすらも、今の御堂にとっては…癪の種にしか
ならなかった。

「…その言葉に、後悔するなよ…!」

 どう、怒りを孕んだ声で告げながら…御堂は、克哉の首筋に顔を埋めて
痛みを与えるぐらいに強く吸い上げていった―

 ―バカ…

 御堂と対峙しながら、眼鏡を外した…かつての佐伯克哉は静かに
涙を零しながら心の中で呟いていた。
 たった今、御堂が必死に追いかけられている間に…眼鏡を掛けて
から表に出続けていたもう一人の自分の意識は深い眠りに付いて
しまっていた。

―幾ら残酷な子供の自分を表に出したくないからって…お前が
犠牲にならなくても良かったのに…。オレに、そう命じれば…
それで、良かった筈なのに…。

 御堂の顔を見てしまった為に、残酷な子供の心がこの人に対して
牙を剥こうとしてしまった。
 それを阻む為に…眼鏡の意識は、全力を持ってその意識を抑え込み
結果…残された弱い克哉の心が、こうして身体を使用することになって
しまっていた。
 身体を使っている心が眠りに就いてしまった場合、人は防衛本能で
他の意識を引きずり出して…肉体を保護しようという本能がある。
 今の克哉の意識は、そういった事情で表に出て…こうして御堂と
顔を合わす事になってしまっていた。

(御堂さん…信じられないって、何がなんだか判らないって…そんな
呆然とした顔しているな…)

 深夜の歓楽街、追いかけてきた御堂の頬を優しく撫ぜながら…
克哉はそんな事を考えていく。
 御堂の唇はワナワナと震えて、何か言いたげだった。
 けれど…あまりの出来事に、頭の切り替えが上手く出来ずに沈黙を
今の処保っている。
 一言で言えば、まさにそんな状態になっていた。

「君は…さっきから、言っている? それにやっている事も支離滅裂
じゃないか! 君と話したいと思ったから、逢いたいと何故か思ってしまった
からこそ…こんな場所まで君を追いかけてきたんだ! それなのに…
関わるなとは大した言い草だなっ!」

「…すみ、ません…!」

「謝るなっ! そんな言葉を君から聞きたい訳じゃない!」

 御堂は段々、怒りを押し殺せなくなっているみたいだった。
 いきなり克哉の黒いスーツの襟元を引き掴んで、射殺しそうなくらい
憤りが篭った眼差しで見据えてくる。

「どう、して…! 去り際に、私の事を好きだとか…そんな事を言った、癖に…
私から、逃げ続けるんだっ…! そんな事を言うから、私は君の事を…
忘れる事が、どうしても出来なかったのに…! それに、何で…駅で私を
遠くから見守るような、そんな事をして…いたんだ。
 あれで、私は…君に、逢いたくて…一度で、良いから…話したくて仕方、
なくなって…しまったのに…何で…」
 
 監禁されている間、どれだけ痛めつけられようとも御堂は決して
屈しない精神力の持ち主だった。
 だが…今、彼は瞳から一筋の涙を零しながら…切々と克哉に
訴えかけていた。
 こちらの首を締め付けて痛いぐらいだった力がふと緩んで…
御堂は顔を俯かせていく。
 それを見て…克哉は、もらい泣きをしそうになった。

(御堂さん…御免、なさい…。オレじゃなくて、貴方は…『俺』と話したくて
ここまで来て、追いかけて来たっていうのに…)

 なのに、やっとそれに手が届いた瞬間に…もう一人の自分の意識は
あの残虐な一面を持つ少年の心を封じる為に、一緒に意識の深遠へと
落ちてしまったのだから皮肉以外の何物でもなかった。
 人を愛して…御堂を二度と傷つけたくないと、強く願ってしまったから
起きてしまった悲劇に、克哉はただ…涙するしかない。

 ポタリ…。

 知らず、克哉の頬に涙が伝い…裏路地の地面に、一粒、二粒と…小さな涙の
染みを作っていく。
 それに気づいて御堂はハっと顔を上げて…目の前の男の顔を凝視
していった。

「…何故、君が…泣いているんだ…?」

「すみません…。貴方が、本当に…『俺』を想ってくれている事が判るから…
どうしても、涙が…」

「…君はどうして、さっきから…他人事のように、話し続けているんだ…?
まるで、他の人間のことを言っているような口ぶりじゃないか…」

「………」

 この言葉に、どう答えれば良いのか克哉には判らなかった。
 結果、沈黙を保つ以外になくなってしまう。
 本当のことを話したって、こんな荒唐無稽な話をすぐに信じて貰える
訳がないと思った。
 自分達が二重人格である事、いや…もう一つ、今は意識が乖離して
しまっているから…三つ、心がある事があるのか。
 それらの心が、この一つの肉体の中でせめぎ合い…主導権を
争ったり、眠ったり引っ込んだりしているなど…他の人間に話したって
頭がおかしい奴と思われるのがオチだ。
 だから克哉は…口を噤むしかなかった。

―そのまま、永い永い沈黙が落ちていく。

 両者とも空気が凍るような重い沈黙を保っていたが…先にそれに
耐えられなくなったのは御堂の方だった。

「…だんまり、か。君は一体…どこまで私を振り回せば気が
済むんだっ!」

「っ…!」

 御堂は感情のままに、克哉を引き寄せていった。
 そして首に襟の痕が付くぐらいに強く激しく引っ掴んで…噛み付くように
勢い良く顔を近づけてきた。
 痛みと柔らかい感触を同時に、克哉は感じていった。

「ふっ…!」

「はっ…!」

 衝動に突き動かされるように、御堂は克哉の唇を強引に奪い…その
身体を強く強く抱き締め続けていく。
 その激しさに眩暈すら覚えて、克哉は呼吸困難に陥りそうになった。
 この腕の強さと、息すら満足に出来なくなるような熱烈な口付けこそ…
御堂の想いの強烈さの何よりの証だった。
 それにただ…克哉は翻弄されながら、腰が抜けてしまうまでの間…
唇を貪られ続けていった。

「はぁ…んっ…」

 ようやく解放された時には、刺激が強すぎたせいで…満足に立って
いられなくなっていた。
 御堂の身体に凭れ掛かるようにして、背中にすがり付いていく。
 克哉のその様子を見て、御堂は更に肩を震わせていった。

「…どうしてっ! 私の成すがままでいるっ! 私の知っている君なら…
絶対に応えて、逆に私を翻弄するだろうに…!」

「…っ! ごめんなさいっ…!」

「だから! 謝るなと言った! さっきから君はおかしすぎるっ! 私の
知っている君とあまりに言動と反応がかけ離れ過ぎている! あの傲慢で
自信家で、私を犯し尽くした君はどこにいった! 其処に…君がいるのに、
私は、君に全然…逢えていないような気分になるっ! 何で…私を、見る目
まで…違っているんだっ!」

 御堂は、泣いていた。
 いつも冷然としていて…取り澄ました顔を崩さなかった、完璧な
エリートを体現していた男が、感情的になって捲くし立て続けている。
 その様子を見て、克哉は…胸が引き絞られる想いだった。

―今の自分はまさに、障壁だ。御堂が逢いたくて逢いたくて堪らない
もう一人の自分と対面する為に、大きく立ちふさがっている邪魔者。

 御堂の涙を見る度に…その想いが強まっていく。
 何故、あいつが眠りに就いてしまったのだろう。
 この人が求めるのは、もう一人の自分なのに…ここにいるのが
どうしてオレなのだろうか。
 心の底から、彼は悲しくなってしまっていた。

―ごめんさない

 謝りながら、御堂の前に克哉は立ち尽くしていく。
 暫く…二人は、無言のまま抱き合っていった。
 しかし…次第に、御堂の方から肌を突き刺すような怒りの感情が
伝わってくる。
 それに気づいて、ハっと克哉が顔を上げていくと…・

「っ…! 御堂さん! 何を…!」

 其処に在った御堂の獰猛な視線に、克哉は射抜かれながら…
強引に腕を引かれていく。
 そして裏路地から強引に連れ出され、歓楽街の表通りへと無理矢理
戻されていった。

―来い。

 心底、憤りを込めた声で御堂が告げていく。
 その顔はゾっとするぐらい冷たく、凍りつくようだった。
 そして男はそのまま…克哉を一軒のホテルへと連れ込んでいったのだった―



 ―御堂はともかく、克哉の背中を追い続けていた。
 
 目を灼くぐらいに鮮やかなネオンの輝く歓楽街。
 緩やかに移動を繰り返す人波を静かに掻き分けながら、
決して見失うものかと強く決意していきながら…御堂は足を
進めていく。

 見知らぬ誰かの肩を抱きながら、歩き続けていく彼の姿を見ている
だけで…何故か胸がチクチクと痛んでいった。
 どうしてこんなに、それだけの事で軋むような思いをしなければ
ならないのか。
 その答えは薄々と気づいている。だが認めたくなかった。

―私の事を好きだと言った癖に…!

 それなのに、他の人間を連れてこんな処をあの男が歩いている。
 その事実が、酷く悔しかった。
 だがそんな御堂の葛藤に気づく事なく…二人は街の奥へと進んでいった。
 ホテルの前で両者が足を止めると同時に…御堂は、ついに声を
掛けてしまっていた。

「佐伯っ!」

 それは、御堂自身も驚くぐらいの大声だった。
 モロに怒りの感情が込められた呼びかけだった。
 まさか…こんな声を、自分が上げてしまうなんて―

―その瞬間、二人の耳から歓楽街の喧騒が消えていく

 空気が硬直するような気がした。
 相手の肩が少しだけ震えて…暫く、身動きを取らなかった。
 御堂はそれを固唾を飲みながら見守っていく。
 そして…時間が凍るような思いを双方味わっていきながら…
ようやく、佐伯克哉はこちらを振り返った。
 彼は驚愕に目を見開いていた。
 それを見て、逆に御堂の方が驚いてしまった。
 
「…何で、あんたが…こんな処に…?」

「…君を探しに来たからに決まっているだろう! そうでなければ…どうして
私がこのようないかがわしい場所に足を向けるっていうんだっ!」

 最初から、気づけば喧嘩腰になってしまっていた。
 だが溢れてくる怒りの感情が普段は冷静な御堂を突き動かして
しまっていた。
 今までの人生、ここまでの怒りと失望の感情を覚えた経験など御堂には
なかった。

「…君という男は! 去り際にあんな捨て台詞を…私の事を好きだとか
言葉を残して、勝手にいなくなった癖に…! それなのに他の人間を
抱くような、そんな真似を君という男はする奴だったんだな…!
そんな男を、一年近くも忘れられずにいた私も、大層滑稽な道化だった
んだろうな…!」

 こんなみっともない事、言いたくなかった。
 なのに勝手に、言葉が口を突いて出てきてしまう。
 知らない間に、涙が勝手に滲み出てしまっていた。
 知りたくなかった、自分の本心なんて。
 どうしてこの一年、この男の事をどうして忘れられなかったのか。
 思い出す度に身体が疼いてしまっていたのか。
 藤田から情報を聞いて、いても立ってもいられずにこんな街まで足を
向けてしまっていたのか。
 全て、答えは薄々と気づいていた。
 だが…見たくなかった、自覚したくなかった。

―この男を、自分は好きになってしまっていたからだった―

「…何で、そんな事を…あんたが、言う…んだ…?」

 御堂が涙すら浮かべながら捲くし立てた言葉の羅列を聞いて、克哉は
信じられないものを見るような眼差しを浮かべていった。
 その唇も指先も小刻みに震えて、定まる気配がない。

「あんたが、俺を忘れられなかった…それは、憎い…から、だろう…?」

「あぁ、お前が心底憎い! 今…この場で首を絞めて殺してやりたいぐらいになっ!」

 怒り狂う御堂の剣幕に押されて、克哉の今夜の一夜の相手になる筈だった
茶髪のウルフカットのいかにも遊び慣れた風な雰囲気を纏った青年は…
ボソリ、と呟いていった。

「…何かあんた、面倒そうなことになっているみたいだから…俺は退散
させてもらうよ。あんたイイ男だし、どんな風に俺を苛めて抱いてくれるか
興味はあったけど…面倒な事は嫌いな性分なんでね。
 それじゃ、勝手に遣ってて貰える?」

「あぁ、すまないな。君がいない方がこの男と話がしやすいので…素直に
感謝しておこう。ありがとう」

「どう致しまして。んじゃ痴話ゲンカはどうぞご自由に~。ではね…」

 と言って、修羅場の気配を察して…巻き込まれては堪らないとばかりに
軽そうな青年はあっさりとその場を去っていった。
 そして街中の通路の中心に残されたのは二人だけとなった。
 だが、大声で口論をしている両者は周囲の人間の目を嫌でも引いてしまい
悪目立ちしている状態になっていた。

「…佐伯。ここで会話を続けていると…必要以上に周りの人間の注目を
集めてしまう。場所を変えないか…?」

 感情を思いの丈ぶつけた事と、あの青年が立ち去った事で少しだけ
御堂の方も冷静さを取り戻しつつあった。
 それでやっと…周りの人間の目が突き刺さるように向けられている現状に
気づいて静かな声で提案していった。
 だが…克哉は何も答えない。

―酷く不安定な眼差しを向けながら、こちらを見つめてくるのみだった…

 その様子に気づいて、御堂は訝しげな表情になっていく。

「佐伯…どうしたんだ?」

 この男に監禁されていたせいで、何ヶ月もこの男と一緒の屋根の下で
暮らしていたことがあった。
 その間にただの一度も見せた事がない表情を今の克哉は浮かべている。
 蒼い双眸は落ち着くなく揺れ続けて、まったく定まる様子がない。
 まるで迷子の子供が泣きそうになっているような…そんな切ないような
心細そうにしている様子に、御堂はただ…愕然となるしかなかった。

「俺は…俺は…!」

 いきなり、克哉が己の胸元を苦しげに押さえ込みながら呻いていった。
 
「佐伯っ?」

 とんでもないものを目撃したような気分になりながら、御堂が声を
張り上げて呼びかけていく。
 だが、彼にはその声が届いていないようだった。

「俺は…また、あんたを…泣かせて、苦しませて…しまったんだな…」

「…君、は…っ!」

 信じられないものを見るような眼差しで、御堂は克哉を見た。
 彼は…泣いていた。
 一筋の涙を、頬に伝らせて…光らせて、切ない表情を浮かべながら…
御堂を、見つめていた。

「また…俺は、大切な人間を…追い詰めて、しまったんだな…」

「君は、一体…何を、言っているんだ…?」

 克哉の様子がおかしい、と嫌でも気づかずにはいられなかった。
 だが…彼は今にも消えそうな、儚い表情を浮かべていく。
 それは…幻のように、目の前の男が掻き消えてしまいそうな予感が
して思わず御堂は間合いを詰めて、克哉の方に歩み寄っていこうと
すると…。

「来るなっ! 俺はもう二度とあんたを傷つけたくない! だから俺に
近寄らないでくれ! そして…もう、追わないでくれっ!」

 今度は克哉が激昂する番だった。
 それはまるで子供が癇癪を起こしているかのような光景だった。

「どうして、君は…そんな事を言う!待てっ!」

 御堂が近づこうとした瞬間、弾かれるように相手の肩が揺れて…
いきなり走り出してしまった。

「逃げるな! まだ…話は終わっていない! 君に話したい事も…
伝えたい事も一杯あるんだっ…!」

 御堂は必死だった。
 追いかけて、追いかけて…やっとこうして言葉を交わすことが
出来たのだ。
 まだ、本当に御堂が言いたいと思っている言葉を伝えられていない。
 その状態で、決して逃せる訳がなかった。

「行かないでくれっ! 佐伯っ!」

 どこか悲痛な声を上げながら、ともかく懸命に御堂は逃げる克哉の
背中を追いかけていった。
 相手が全力で走って逃げたので、こちらも容赦しなかった。
 持てる力の全てを振り絞る形で、遮二無二走り続けた。
 そして…どれぐらい、歓楽街を舞台にした二人の鬼ごっこは続いた
事だろうか。
 ついに奥まった薄暗い路地に辿り着いて、克哉を追い詰める形になった。
 ようやくこの男を追い詰めた。
 そう確信した瞬間。

「来ないで下さい…」

 今までとは打って変わって、静かな…別人のような声で、そう
短く告げられていった。
 
「…その君の要望を聞くつもりは、ない…!」

 相手の言葉を一刀両断して、御堂は間合いを詰めていった。

「…オレに、もう関わらないで下さい…お願いします。御堂さん…」

「君の言うことを聞く気はない! いい加減に観念しろっ!」

 そして乱暴に御堂は相手の肩口を掴んで、強引にこちらの方を
向かせていった。
 ようやく対峙する形になって、険しい顔をしながら叫んでいく。

「…御堂、さん…」

 そしてようやく…克哉の顔を間近で見てぎょっとなっていく。
 いつの間に外したのか、彼の顔には眼鏡がなかった。
 そのせいで…さっきまでと別人のような印象になってしまっている。
 瞳に力がなくなって、表情もキリリとした凛とした印象から…気弱で
温和なものへと変わってしまっている。
 彼を追いかけていた僅かな時間で、別人のような変貌を遂げてしまって
いる事実に…御堂は、呆然となってしまった。

「…何故、今更…私を、さん付けでなんか…君は、呼ぶんだ…?」

 今の佐伯克哉は、どこかおかしかった。
 それに猛烈な違和感を覚えながら御堂は訴えていく。

「君は私の事を『御堂』と呼び捨てで呼んでいた筈だっ! この後に及んで
どうしていきなり…!」

 そして、相手の襟元を掴んでいきながらその瞳を覗き込んでいく。
 静かで冷静な目だった。
 
「…もう一度、お願いします。もう…『俺』に関わらないでやって下さい…」

 懇願するように、彼は御堂に語りかけていく。
 そう…今、目の前にいるのは…例の銀縁眼鏡を公園で受け取る以前に
存在していた佐伯克哉。
 気弱で自信がなく、いつもオドオドしていた無能なサラリーマンだった
方の彼の人格。

「私には…君が、判らない…どうして、今になって…そんな、事を…」

 克哉の言葉に、御堂は傷ついていく。
 今にも泣きそうな顔を浮かべている彼に向かって、佐伯克哉は
そっとその頬を撫ぜ擦りながら告げていく。

―それが貴方の為でもありますから

 そう、静かに優しく告げていく。
 御堂はただ…あまりの事態に、呆けるしか出来なくなっていたのだった―
 
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プロフィール
HN:
香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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