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無印の眼鏡×御堂ルートのED.NO2…「因果応報」を前提にした話です。
シリアスで、ちょっとサスペンス風味の強い話です。
眼鏡×御堂ルート前提ですが、眼鏡なしの克哉も色々と出張ります。
それでも良い、という方だけ付き合ってやって下さいませ。
【咎人の夢 過去ログ】 1 2 3 4 5 6 7
佐伯克哉は、MGNの男性用のトイレの手洗い所の処で…
鏡に映る自分を眺めていきながら、切なく瞳を細めていった。
今…鏡に映る自分は、紛れもなく…忌わしいもう一人の自分のものだった。
一挙一足、言動…それらの全てを今…彼は生来持っているものではなく、
恐れを抱いているもう一人の自分のものに変えている。
―これから、この一世一代の舞台の佳境へと入っていくのだ…
そう思うと彼は、身震いがした。
御堂にこれからする事を見破られはしないか…その為には完全に
眼鏡を掛けた自分の方になり切るのが不可欠だった。
(…弱気になるな。今は…自信に充ち溢れて傲慢な方の…俺になり切るんだ)
そうする事が、彼の望みを叶える為に必要だったから。
だから自己暗示を掛けていくように…真っ直ぐ、鏡に映る自分の顔を
見つめていく。
「そう…オレは、やり遂げなければいけないんだ…」
そういって鋭い表情を浮かべながら、昨晩の記憶を思い出していった。
命の源である…大量の血が自分の身体から零れ落ちていく。
目の前に血の海が広がっていく。
その中心にこの身体が横たえられて…彼は虫の息になりながら…
心から、願っていった。
―やり直させて下さい
彼が罪を犯した晩、一人の青年はそう祈った。
―このままじゃあまりに…可哀想過ぎます。救われなさ過ぎます…
凄惨な現場に、青年の魂の叫びが木霊していく。
けれど心の中でどれだけ思っても、決してその声が届くことはない。
涙を流しながら…その手を汚してしまった存在を見つめる。
―こんな、の…理不尽だ…
あいつに、あんな身勝手なことをされ続けて。
この人が罪を犯してまで解放されたくなった気持ちが良く判る。
誰だって、理不尽に自分の気持ちを抑え続けられてしまったら…
自分の意思を殺され続けてしまったら、その束縛から逃れる為には
死ぬもの狂いとなるだろう。
同じことをされたら、自分だって…同じ罪を犯してしまったかも知れない。
もう一人の自分が解き放たれた時…彼は、この人を凌辱した罪から逃れたくて
必死に目を逸らした。
―オレはこんな事、したくなかった! 望んでいなかった!
その罪悪感から逃れたくて、彼は現実から結果的に逃げた。
自らの殻の中に籠り、いつしか肉体の主導権は…眼鏡を掛けた自分の
ものと変わっていった。
遠い意識で、何度もこの人が…踏み躙られている過程を知った。
けれど、そんな事を平然とやってしまうもう一人の自分が怖かった。
自分の中にこんな酷いことが出来る一面が潜んでいる事を決して認めたくなかった。
―けれど…血に汚れてしまっているこの人の姿を見た時、彼は心から悔いた
「ごめんなさい…」
薄れゆく意識の中で、彼は…短い時間だけ、肉体の主導権を得て…
小さく謝罪の言葉を口にしていった。
―自分の罪から、目を逸らし続けて…ごめんなさい…
その声は絶え絶えで、本当にか細いものだった。
口元から血を滴らせながら、佐伯克哉はそれでも謝罪する。
最後の瞬間はもう間近まで迫って来ていた。
―貴方を、殺人者にしてしまって…ごめん、なさい…
自分とさえ出会わなければ…輝ける未来が約束されている人だった。
けれどどれだけの労力を重ねて来た功績だろうと、「殺人」という咎を
犯してしまえば…瞬く間に夢幻のごとく、全ての栄光は消えていく。
こっちが今さら、謝った処で…この人の罪は消えない。
どうしたら…この人を救えるんだろう。オレ達と出会った事で変わってしまった
未来を…覆せるんだろう、と心から祈った。
―克哉はポロポロと泣きながら、悲痛な嗚咽を漏らしていく
「ど、うか…この、人を…」
内側から見てて、十分に…もう一人の自分が犯した罪は知っている。
この結果は因果応報。
起こるべくして起こったこと。
どんな出来事にも原因となる因子があり、それが積み重なることによって
大きな事件は起こっていく。
人にはそれぞれ…別の意思があり、別の考えを持っている。
誰かにその誇りを、矜持を…信念を踏み躙られたのなら、怒る権利はあるのだ。
この人は…犯された挙句に、それを盾に脅迫されて…強引な肉体関係を
強いられて来た。
だから…この人は、悪くない。確かに自分だって腹を立てていた。
最初の頃は酷い対応をされて傷ついたし…何て冷たい人だって思ったけれど…。
―けど、それで人生が終わってしまうのは…きっと行き過ぎだ…
どうして今、自分が表に出ているのかは判らない…
けれど刺された瞬間から…例の眼鏡を掛けているにも関わらず…久しぶりに
彼は解放された。
命の火が、もう消えようとしている。
死にたくなかった…いや、もうせめて助からないのなら…この身体が動くならば
どうにかして…この人の身体に残る様々な痕跡を拭いとりたかった。
―助けて、下さい…
彼はそれを、自分に対してではなく…倒れている青年に向かって告げた
―どうか、この人を…助けて下さい…
自分を刺した人間に向かって、彼は心からそう祈っていく。
それはあまりに切なく、悲痛な願い。
散々逃げ続けて、もう一人の自分の所業から目を逸らしていた青年は
人生の最後にようやく…その罪を見据えていった。
―どうか、オレに贖う機会を与えて下さい…
こんな自分を殺して、全てを失ってしまわないように…どうか、と願った
瞬間…視界に、黄金の豊かな髪が視界に入っていった。
―大丈夫、ですか…?
歌うように男が…声を掛けてくる。
そして次の瞬間…焼けつくようだった腹部の痛みが…いきなり
スっと軽くなっていった。
―そして彼は、謎起き男性に…寸前で救われた。
その後に、彼とかわした契約とその詳細、そしてこちらが支払わなければ
ならない代価を思い出した時…ふと、苦しげに眉をひそめていった。
「…この先の事は、今は考えないでおこう…。今はともかく…演じるんだ…」
そうして、眼鏡を押し上げる仕草をして…深呼吸をしていく。
鏡の前には、自分の記憶にある通りの…自信に充ち溢れた傲慢な笑顔を
湛えた男が立っていた。
「…さて、行くか…」
そして、掠れた低い声音で呟きながら…彼は踵を返していく。
そうしてゆっくりした足取りで、御堂の私室へと歩いて向かっていったのだった―
無印の眼鏡×御堂ルートのED.NO2…「因果応報」を前提にした話です。
シリアスで、ちょっとサスペンス風味の強い話です。
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【咎人の夢 過去ログ】 1 2 3 4 5 6
―御堂が佐伯克哉と対峙するのとほぼ同じ頃…Mr.Rは
真紅の天幕で覆われた部屋で、一人の青年の寝顔を眺めていた
「…お加減は如何ですか?」
整ったその顔立ちは…瞼を閉じると少しだけ無防備な印象になる。
切れ長の瞳が隠されるだけで日頃の彼とはまた、雰囲気が変わって見えた。
キングサイズのベッドの上に…上質のシーツに覆われたその寝具の中心に
一人の青年が静かに眠っていた。
確認するように…Mr.Rはその頬をそっと撫ぜていく。
けれど相手の身体は微動だにしない。
「…やはり、これぐらいの刺激では…貴方は目覚めませんね。これ程までに
長い眠りにつかなければいけない程…貴方の負った傷は深かったんですね…」
Rの持っている力で、傷はとっくの昔に塞がっていた。
けれど…この青年は未だに目覚めない。
身体の傷はすでに癒えている。
彼は自分にとって、実に得難い素材だから。
数多もの運命を背負い、多種多様な未来を作りあげる可能性のある
存在だからこそ…男はこの青年を何よりも大切に思っている。
―まだ、この青年は完成されていないから。だから…自分の望むものに
なる可能性がある内は、男は出来る限りの助力をするつもりだった
そっと相手の髪を梳いて、愛しげに微笑む。
けれどどれだけ大切に扱っても…相手の意識が目覚めないままでは
深い献身も何の意味を成さなかった。
(あの時…貴方の心は一旦死んでしまわれたのですね…)
彼の心は、腹部を刺されたあの晩に…一旦死んでしまった。
あの傷の深さから、きっともう自分は助からないと観念したのだろう。
その潔さの故に…彼は、こうしてRが傷を塞いだ後も…「自分はすでに
死んでいる」と思い込んでしまっている為に目覚める事がなかった。
「普通の眠りならば…丸一日も経てば目覚めるでしょうがね…。
貴方が目覚める為には…どれ程の月日を重ねれば宜しいんでしょうかね…」
そうして、彼は慈しむようにその頬を撫ぜ続ける。
けれど…幸いなのは、彼は元々…二つの魂を持つ存在だった。
だから片方の心が死んでしまっても、もう片方が生きていれば…
そちら側の生命力に促されて、再生する可能性を持っていた。
「ねえ…佐伯克哉さん。貴方は…まだ、こうして生きているし…とても
この身体も温かいままなのですよ…。傷は、まだ激しい運動が出来るように
なるにはもう少し掛かりますが、こうして閉じているのに…いつまでそうやって
眠り続けているつもりですか…?」
この男にしては珍しい、どこか優しい声音で問いかけていく。
けれど…限りなく「死」に近い眠りに堕ちてしまった青年は…
それでも目覚めない。
いつになれば…かつてのように、欲望に煌めくあの美しい瞳を
眺められるのだろうか…と、男はつくづく残念に思った。
一週間か、一か月か、半年か一年か…一度、自分がすでに
死んでしまったと…心だけが死んでしまった人間が目覚めるまで
要する時間は、まったく読めない。
後はどれだけ…彼にとって、生きる気力を与えるものが存在
しているかの問題になる。
大切なもの、失いたくない人間…そういったものを持ち、自分が生きなければと
思っている人間は強い。
逆にそういった執着するものがなく…罪の意識に囚われて、自分など
生きている価値がないと思っている人間は…いつまで経っても目覚めることがない。
死はどんな生物にも等しく訪れる絶対的な恐怖であると同時に…苦痛から
解き放つ最大の安らぎでもあり、解放でもあるからだ。
本当に追い詰められた人間が自殺に走る最大の理由もそこにある。
―死ぬ事で苦痛から逃れられる側面があるからだ
だから彼は眠る。
一時の仮初の「死」に浸ることで…きっと魂を癒しているのかも知れない。
「ねえ…まだ、貴方が亡くなるには早いですよ…。こんなにも若く、輝いている時に…
これほどまでに美しい存在である貴方が…いつまでも、仮初の死という殻に籠って
年をとるなど…勿体ないでしょう…? ですから、一日も早く目覚めて下さいませ…。
貴方という素材が、どのような進化を経て…完成していくのか、私は是非とも…
見守りたいですからね…」
そうして男は真摯に、青年の顔を覗き込んで…妖しく微笑んでいく。
―ですから、一日も早く蘇って下さい…そう、伝説に存在する…まさに
不死鳥のごとくにね…
そう呟きながら、男は…青年の唇をゆっくりと指先で辿っていく。
それでも…その形の良い唇から、微かに温かい吐息が零れているのを
指先で感じ取っていくと…微笑を浮かべながら、Mr.Rはその場から
静かに立ち去っていった―
無印の眼鏡×御堂ルートのED.NO2…「因果応報」を前提にした話です。
シリアスで、ちょっとサスペンス風味の強い話です。
眼鏡×御堂ルート前提ですが、眼鏡なしの克哉も色々と出張ります。
それでも良い、という方だけ付き合ってやって下さいませ。
【咎人の夢 過去ログ】 1 2 3 4 5
意識を失っている間…御堂はずっと奇妙な浮遊感を感じ続けていた。
グラグラと大きく揺らされたり、急に高く浮き上がったり…まるで無重力の
世界にいるような、そんな感覚を覚えていく。
意識は辛うじて覚醒しているのに…身体が自分の思う通りに動かせない、
そんなじれったい状態がどれぐらい続いているのか…判らなかった。
―ここならば、貴方は平穏を得られるでしょう。…数日はそれでもざわめきが
生まれるでしょうが…それを過ぎれば、きっと貴方は元通りの日常に
近いものを送ることが出来るでしょう…。健闘を祈ります…
最後に、はっきりと先程の謎の男の声が頭の中に聞こえて…
御堂は、十数分か深い眠りに落ちていき…。
―その後に御堂がはっきりと意識を覚醒させたら、気づいたら自分の
執務室のイスの上に座っている格好になっていた
「…ここ、は…?」
頭がはっきりせず…ガンガンする。
…いつ、自分はこの部屋に移動していたのか御堂にはまったく思い出せない。
大手企業の部長、というポストに相応しい広くて立派な執務室のディスクに座ったまま
いつの間にか自分はうたた寝でもしていたのだろうか。
「夢、だったのか…?」
御堂の脳裏に、目覚める直前の異様過ぎる光景が蘇る。
あまりにおぞましく、恐ろしい内容だった気がした。しかも…自分が殺人者に
なった事に怯えて、あんな風に動揺して弱気になるなど…有り得ない筈だった。
殺人など、あまりに愚かで…得るものが何もない行為だ。
誰だって怒りや憎悪が高じれば、目の前の相手を殺したいと思う気持ちを抱く
事ぐらいあるだろう。
しかしそれを実行に移せば、その人間が持っていた地位も信頼も功績も全てが
塵芥と化してしまう。それだけ…世間というのは、殺人という罪を犯してしまった
人間には厳しいものだ。
どれぐらいの時間、眠っていたのか判らない。
けれどその短い時間の間に…二つの悪夢を自分は見ていた気がする。
一つ目の夢は…自分が手を汚して、佐伯克哉を殺す夢。
二つ目はどうやら…その罪を覚えて、遠まわしに周囲の人間に疑われて
必死になって表面上を取り繕っている何とも情けないものだった。
(…久しぶりに夢を見たと思ったら、あんなロクでもない内容とはな…。どうせ見るなら
少しぐらい愉快だったり、実になりそうなものを見れば良いものを…)
夢の中の自分は、罪を犯して悩み続けていた。
そして捉え処のない状況に必要以上に過敏になっていて、愚かしい事ばかりを
繰り返していたように思う。
あんな自分が…自分だとは思いたくなかった。何となく苛立っていくと、ふと…
学生時代の国語の授業内に出てきたある詩の事を思い出した。
(そういえば昔…こんな詩があったな。胡蝶の夢という奴だ…受験勉強の
最中に記憶したものだが、確かこんな内容だったな…)
御堂が思い出した内容は、以下のようなものだった。
「荘周が夢を見て蝶になり、一羽の蝶として大いに楽しんだ所で夢が覚めた。
果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、または蝶が夢を見て荘周になっているのか…。
どちらの姿が真実で、どちらの姿が虚像なのか。片方の姿は…もう片方が見ている
夢幻に過ぎないのか」
…大体要約すれば、こんな内容の詩だった。
あの殺人を犯した自分からすれば、今の御堂は夢に過ぎず。
今の御堂からしたら、あの怯えている自分もまた夢に過ぎない。
こうしている自分たちのどちらが…本当であり、嘘であるかは…そんなものは
夢を見ている最中には、決して判らないことであった。
(馬鹿馬鹿しい…私は、佐伯克哉を疎ましいとか目ざわりだとは感じているが…
彼の為に今まで築き上げた全てを引き換えにしてまで…殺したいと思う程ではない。
何故…あのような夢を見たんだ…?)
そう思いながら、御堂は本日のスケジュール表を開いて確認していく。
【本日の午後二時、佐伯克哉訪問予定】
本日の午後二時の欄に、その予定が記されていた。
その報告を受けた後は、製品開発室で新商品の開発状況がどこまで
進められているのか、中間報告を確認しに行く予定だった。
時計の針は午後一時五十分を指している。
後、十分程で約束の時間だ…と思った瞬間、私室の扉が勢いよく開け放たれていった。
「御堂部長! 佐伯さんがいらっしゃいました!」
すぐに部屋の中に飛び込んで来たのは…自分の部下であり、可愛がっている
存在でもある藤田だ。
明るくて人の良い性格で好感が持てる人物なのだが…そのおかげで
人の裏を読んだり、色々と裏から手を回したりするような事は不得意な人種だ。
その代わり、その人の良さが…その欠点を補って余りあるくらいだし…仕事も
出来る方なので、今…若手の部下の中では御堂がもっとも目に掛けている
存在でもあった。
さっき見た夢の中では、悲痛そうな顔をして何かを訴えていたような…
そんな記憶があった。
そして夢の中の自分は、藤田の前を居心地悪そうに後にしていったが…到底、
今の自分たちにはそのような気まずさは存在しなかった。
「そうか…。若干、予定時間よりも早いが…この部屋に通してくれ。前倒しで
スケジュールを消化する事にする」
「はい、判りました。それでは佐伯さんを呼んで来ますね!」
明るく、元気そうにそう返事して…藤田は脱兎の勢いで部屋の外へと
姿を消していった。
いつも通りの日常。特に変わったことなど何もない。
そう感じて、御堂は佐伯克哉が来るのを待ち構えていった。
―その瞬間、何故か…自分の脳裏に鮮明に、あの謎めいた黒衣の男が
言った数々の言葉が思い出されていく
御堂はそれを認めたくなくて、必死になって頭を振り続けた。
夢ごときで惑わされるなど、とても自分らしくない…そう思った。
―貴方の罪は誰にも裁かれず…
「…私は、罪など犯していない。今…佐伯克哉が約束の時間通りに
目の前に現れようとしているのが…何よりの証、だ…」
何度も、黒い染みのように湧き上がってくる不安を振り切るように…
自分に言い聞かせるように呟いていく。
その瞬間、扉が開け放たれて一人の男が藤田に連れられている状態で
部屋の中に入って来た。
「御堂部長、プロトファイバーの営業に関して…何点か確認したい事が
ありますので伺わせて頂きました。貴重な時間を割いて下さってどうも
ありがとうございます」
そして、今まで向けられた中で一番丁寧な口調で…眼鏡を掛けた
傲慢な男が頭を下げていく。
「…?」
何故だか、その瞬間…奇妙な違和感を覚えた。
しかしそれを上手く説明することなど出来ない。
御堂が言葉を失って考え込んでいくと…藤田と佐伯は、怪訝そうな
表情を浮かべていく。
「御堂部長…?」
藤田が少し驚いた口調で呼びかけていくと、すぐに気を取り直していく。
「嗚呼、すまない。少し考え事をしてしまった…。佐伯君、君からの話を
これから伺わせて貰おう…」
そうして、思考を切り替えて…仕事の方に意識を集中していく。
その間、御堂は…必死になって、先程見た…あの奇妙な白昼夢の事を
頭の中から追い払っていったのであった。
無印の眼鏡×御堂ルートのED.NO2…「因果応報」を前提にした話です。
シリアスで、ちょっとサスペンス風味の強い話です。
眼鏡×御堂ルート前提ですが、眼鏡なしの克哉も色々と出張ります。
それでも良い、という方だけ付き合ってやって下さいませ。
【咎人の夢 過去ログ】 1 2 3 4
―その日の昼食は、色んな事があったせいか…あまり味が感じられなかった。
先程、駐車場で藤田と二人で会話した際…上手く取り繕うことは出来たが
やはり会話内容が気になってしまって、料理に集中することがその日は
出来なくなってしまった。
せっかくお気に入りのレストランに昼食を食べに行ったが…全然、今日は
その美味を楽しむことが出来なかった。
やはり…あれは現実だったのか、と思う気持ちが御堂の感覚を麻痺
させてしまっていた。
味覚がいつもよりも鈍くなってしまっているのも、その弊害のせいだ。
それでも食欲が完全に失せてしまっている訳ではないので、義務感で
どうにか出て来た食事を腹に収めて、二時の約束に間に合うように
店を出ていった。
運転に集中している間…彼は色んな事に考えを巡らせていた。
(…しかし、あの夢が現実であった場合…二つばかり、気にかかる部分がある。
どうして…目撃者がいたにも関わらず、今朝の時点で佐伯の死体が見つけて
事件となっていないのと…佐伯から、メールが来た事が…引っかかるな…)
今朝、目覚めた時から心の中に棘のように…何かが引っかかり続けている。
今までの人生の中で、ここまで煩悶した事などなかったかも知れない。
いっそ…あれが現実だったと、もっとはっきりした証拠を突きつけられた方が
遥かにマシだと思った。
何もかもがすっきりしない。はっきりしない。そんな曖昧な状態のままでは…こちらとて
どんな行動をすれば良いのか、指針すらはっきりしなかった。
一番、御堂を苛立たせているのは…記憶の空白部分の事だ。
(イライラする…一体、私の身に…何が起こっているんだ…?)
日常という歯車の全てが狂って、まるで自分一人だけが別世界に迷い込んで
しまっているようだ。
どうにか運転に集中して、渋滞になっている箇所を抜けて…都内の道路を
愛車に乗って走り抜けていく。
本日は非常に良い天気で、秋の中頃にしては過ごしやすく良い陽気だった。
なのに…御堂の心は、全然晴れやかではない。心の中が厚い雲で覆われて
しまっているかのようだった。
出発前の藤田や、例の女性社員達の態度が…何もかもが気が重かった。
午前中は自分の私室から一歩も出ずに執務室にこもっていたから…
気づかなかったが、あのような噂が一日で駆け抜け、あんな好奇や疑惑に
満ちた眼差しで…周りの人間に見られたら…と思うと、心が重かった。
「…しかし、佐伯が…生きているのなら、何故…あんな、目撃衝撃が存在
しているのだ…?」
最大の謎は、それだった。
あの夢が事実だった場合、やはり佐伯克哉が自分の目の前に現れる筈がないのだ。
出かける寸前、遠目だったが…御堂は彼の姿を確認している。
見間違えでは、絶対なかった。それは確信を持って言えた。
訳が判らない。今朝から得ている情報の全てが、片方を事実と据えると…他の
情報が、もう片方の事実を打ち消している。そんな感じだった。
結局、色々考えたが…結論は出ず、ようやくMGNの駐車場に戻ってくる。
約束の時間まで、後わずかだった。
―車を降りた途端に、足が鉛のように重く感じられる
さっきの悲しそうな藤田の表情が、怯えた女性社員の表情が脳裏から
離れてくれない。
こんなモヤモヤした気持を抱えながら、働かなくてはならないのか。
仕事上で大きな失敗を犯してしまった時だって、こんな気持ちになんて
一度もなった事がなかったのに。
(私はこれから…あんな目を多くの人間に向けられながら、働かなくては
ならないのか…?)
その事に、一瞬怯みそうになった。
だが…すぐに考え直して、ロビーまで足を進めていく。
「…何を弱気になっているんだ。そんな下らない噂ごときで怯えるなど…
私らしくない…」
そうして自嘲気味に、笑みを浮かべていった。
…性質の悪い噂を流されているのだと思えば良い。現時点では確証はないのだ。
それなら…流されてぐらついているだけ愚かだ。
そう考えなおして、目の前のことに取り掛かろうと思った。
少しぐらいの不安要素にイチイチ怯えたり、怯んだりして振り回されていたら…
多くの人間を率いるべき立場、要職に就く資格などないのだ。
「…くっ! こんな事に惑わされている暇などない! 私には部長としてやらなければ
いけない事や…果たさなくてはならない責任があるのだ! いつまでも噂ごときに
怯えていて何になるんだ!」
そして、負の感情全てを振り切るように駐車場で…己を鼓舞する為に
叫んでいく。
それから険しい表情を浮かべていきながら…風を切るように御堂は
玄関を潜っていった。
―その瞬間、御堂は自分が異世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚えていく
一瞬、中に入った途端に社内が薄暗くになっていることに違和感を覚えていく。
今は昼間で、昼間にロビーの電灯が落とされるなど…地震か何かでライフラインが
断たれでもしない限りは有り得ないことだった。
(どうして…こんなにロビーが薄暗いんだ…?)
明るい場所から、いきなり藍色の闇に覆われた場所に切り替わったものだから
全然、中の様子が伺えなかった。
ロビーに何か、黒いものが大量に倒れている。それが何なのか…とっさに
御堂は認識するのを把握していった。
ただ、その黒い影は大量にひしめきあいながら…広大な空間を埋め尽くして
小高く積み上げられていた。
ソレが何か、御堂の心は正しく認識するのを拒否していた。
「…一体、何が起こって…いるんだ…?」
今日一日だけで、何度自分はこの言葉を口にしているのだろうか?
―お待ちしておりました…御堂孝典様…
ふいに、誰かに呼びかけられた。
その声が聞こえた瞬間…部屋の中心、その声の主らしき存在だけが
闇の中に浮かび上がり…静かな存在感を讃えていく。
空気は、まるで凍りついているかのように冷たく冴え渡り…その中心には
黒衣のコートを着た…長い金髪の男が佇んでいた。
それでやっと、御堂は積み上げられているものの正体を始めて知った。
空気の全てが凍り、MGNの多くの社員が其処に倒れ込んでいたのだ。
ロビー全体を埋め尽くすぐらいの、多くの人間で床が埋め尽くされている。
そして…其処には噎せ返るような蟲惑的な香りが充満していた。
悲鳴が咄嗟に喉の奥から迸りそうになった。
だが、あまりの事に驚きすぎてしまって…まともに言葉が紡げなくなった。
「こ、これは一体…何だのだ! どうして…こんな、事が…!」
照明が落とされているせいか…薄暗い空間の中では倒れている
人間の肌が、蝋のように血の気が感じられなくなっていた。
まるで死体の山が、自分の勤めている会社の玄関に積み重ねられて
いるような異常すぎる光景。
―落ち着いて下さいませ。御堂様。これらの余興は全て…貴方の為だけに
行われていることなのですから…。私がこうしてこの場にいるのも…ここに沢山の
貴方の罪を知る人間が倒れているのも…その為ですから…
御堂が動揺していると、男は悠然と微笑みながら…彼に向かって
恭しく会釈して、挨拶を述べていく。
「…どうして、私の名を…貴様のような者が知っているんだ!」
御堂は今までに一度だって、こんな奇妙な人物と面識を持った
記憶などなかった。
しかし男はこちらの事などすでに既知であるかのように…親しげな
笑みを口元に湛えていく。
―そんな瑣末なことなど、どうでも宜しいでしょう…? しかし貴方の御帰りが
こんなに早くなってしまうことは予想外でしたね…。ちょっとした事件を起こして
ギリギリになるようにしたつもりでしたが…。あれしきの事では、やはり予定を
変えることはなかった…という事なんでしょうね。
まあ…それでこそ、あの方が執着している程の逸材の証明…といった
処でしょうね…
「…貴様は、何を…言って…?」
男の発言は、固有名詞をはっきりと述べていないので…はっきりした
事はイチイチ判らなかった。
だが、ちょっとした事件…というのは、何となく…昼食を摂りに出かける前に
起こった一連の出来事ではないか…とそう思った。
それぐらいしか、思い至るものがなかったからだ。
―そんな事はどうでも宜しいでしょう? 肝心なのは…今、私がこうして…
貴方の為に骨を折って差し上げているという事ですよ。この場に倒れている
人間を見て下さい。あまりに沢山の人がここにいるでしょう…?
どうやら貴方が不用意に、「目撃者」などを作ってくれたおかげで…貴方の
記憶を奪い、ちょっとした小細工をする程度では…事は治まってくれそうに
なかった。ですから…この場に、関係者の全てを集めて…暗示を掛けさせて
頂いたのですよ…。これは、昨晩の貴方の罪を…断片でも噂という形で
知ってしまったものや、関係者の集まり。
さあ、見て下さい。貴方はこれだけの人間に影響を与えてしまうだけの
大きな事件を起こしてしまったんですよ…。
「…待て、貴様は何を言っているんだ…?」
黒衣の男はまるで芝居の台詞を口にするかのように…滑らかに、歌うように
言葉を紡ぎ続ける。
それは…まるで役者が大仰な演技をしているような、そんな風景だった。
だが共演者である御堂は、男のペースに…話についていく事が出来ない。
満足に働かない頭で、疑問を口上に上らせる程度だった。
多くの人間が累々と積み重なっている中心で…男は嗤う。
美しくも、妖しい顔だった。
それに恐怖と戦慄を覚えていきながら…目の前で男の独壇場は続いていった。
―ですが、これから…私は貴方の為に彼らの記憶の全てを奪いましょう。
そしてもう一度、新たな舞台を一から用意することに致しましょう。
目覚めれば、昨晩の貴方の罪は『なかった』事と扱われます。
その罪は二度と咎められることなく、裁かれることなく…貴方とあの方の
意識の深層にだけ、そのカケラが残される程度となる。
貴方の罪は誰にも裁かれず、罰を受けることもないでしょう。
だから…抱えていきなさい。普通の生活へと戻り、その日常を存分に
満喫なさって下さい…。それが、あの人の望みですからね…」
「待て! だから…貴様は一体、さっきから何を言い続けているんだ!
全然話が見えないし、何を指しているのか…あの方だのあの人が誰を
指しているのかもこっちには全然見えない! お前は、何を言いたい!
そして…何を、するつもりなんだ! 関係者全員の記憶を奪うなんて…
そんな非現実な事を、実際に出来る訳が…!」
―出来ますよ、私なら…それなりの代価を支払ってさえ下されば…
それぐらいの事なら、幾らでもね…。
それよりも遥かに凄いことだって…行えますよ。この世界にはいくつもの
可能性や未来が存在します。其処に干渉して…貴方が予想も出来ない
とんでもない仕掛けを施すことだってね…私には、出来ますよ…
「っ…!」
そう男が言い切った瞬間、御堂は背筋に悪寒が走った。
あまりに官能的で、美しい笑みだった。
けれど御堂はその顔に…悪魔の影を見た。そう…人ならざるものに感じる
本能的な恐怖そのものだった。
恐ろしさの余り、冷や汗が背中全体を伝っていったのだ。
その瞬間、誰かが廊下の方から現れていった。
「誰、だ…!」
しかし、現在…ロビーの電灯は落とされてしまっていて…それが誰なのか
御堂には判別がつかなかった。
だがそのシルエットから、自分と同じぐらいの体格の男性である事だけは
薄らと察していった。
その人物は離れた位置から、自分とこの謎の男の方を眺めているようだ。
御堂が、謎の人物の正体を見極めようとその方角に視線が釘付けになって
いる数十秒ほどの時間の間に、気づけば黒衣の男との間合いは一気に詰められて
しまっていた。
「っ…しまった!」
さっきまで恐怖のあまりに、御堂は警戒心がバリバリだった。
だが、そのおかげで…Mr.Rの前で、隙を晒さないで済んだのだ。
しかし突然の闖入者に意識を奪われてしまっている間に、隙を作ってしまった
せいで…男は御堂の頭を、横からガシっと握っていく。
ミシミシ、と音が立ちそうなぐらいに強く握られて痛みを感じていく。
「くっ…ぅ…!」
苦悶の声をとっさに漏らしていくが…Rの手は緩む気配を見せなかった。
―さて、少々無駄なおしゃべりが過ぎましたね…そろそろ、こちらの仕事も
全て完了させて頂きます…おやすみなさいませ、御堂孝典様…。
次に目覚める頃には、あの人が望んだ通り…貴方の周りには…罪を犯す前と
変わらぬ、平穏な日常が戻って来ている事でしょう…
「待、てっ…! やめろ…!」
その言葉で、この男が自分に記憶操作だの…暗示だのを掛けるつもりである
事を察して御堂は必死にもがいていく。
しかし…そんな抵抗すら、結局は無駄なことでしかなかった。
握られている箇所から、何かが広がっていく。
そうしている間に、頭の中が真っ白になって何かが奪われていくような…
そんな感覚を覚えていった。
「やめ、ろっ! やめろー!」
御堂は大声で叫んでいく。
だが、全ては無駄なことに過ぎなかった。
自分の中から、色んなものがこの男の手で奪われてしまう。
それを阻むことは、今の彼では出来なかった。
そしてようやくRの手が緩んだ頃には、御堂の身体はその場に崩れ落ちて
しまっていた。
御堂はそのまま夢現に…こんな声を聞いた。
―ねえ、そんなに怖い顔をされていないで…少しは手伝って下さいませんか…?
男は、誰かに語り掛けていた。
だが今の御堂にはそれが誰なのか…予想もつかない。
懸命に意識を留めようと足掻いたが、まるで波に攫われていくかのように…
意識が遠のき、深い眠りに落ちていってしまう…。
―無念、だ…
御堂は最後の足掻きとばかりに、自分の意識を繋ぎとめようとしたが…
全ては無駄なことだった。
そうして…彼は、自分と同じようにその場に倒れる沢山の人間の姿を眼の端で
眺めていきながら…ゆっくりと、その意識を手放していったのだった―
※4月24日からの新連載です。
無印の眼鏡×御堂ルートのED.NO2…「因果応報」を前提にした話です。
シリアスで、ちょっとサスペンス風味の強い話です。
眼鏡×御堂ルート前提ですが、眼鏡なしの克哉も色々と出張ります。
それでも良い、という方だけ付き合ってやって下さいませ。
【過去ログ】
咎人の夢 1 2 3
御堂は午前中、ずっと精力的に仕事をこなし続けた。
集中して仕事に当たり続けたおかげで、ここ暫く貯め込んでしまっていた
大半の業務がそのおかげで片付いた。
ふっと気づいた頃には、すでに午後12時半を指そうとしていた。
(そろそろ…昼食を食べに出た方が良いかも知れないな…)
御堂の一日は非常に多忙だ。
昼食の時間はいつも不規則で、午後二時や三時近くになるのも珍しい
事ではなかった。
ディスクの上を一通り片付けて、御堂は私室を簡単に戸締りしていくと
駐車場へと向かっていった。
廊下を歩いている最中、何か社内の空気がいつもと違っているように
感じられた。
(…何か、変だな…。いつもと何かが違う気がする…)
周囲の人間の視線の種類が、気のせいかいつもと違っているように
感じられてしまった。
いつもの御堂を見る目は、羨望と嫉妬の入り混じったものである事が多い。
だが…今日のは…。
(…気のせいだな。あんな夢を見たから…神経過敏になっているんだ…)
とすぐ思い直し、いつもと変わらぬ態度で歩き続ける。
エレベーターが混んでいたので、階段の方を使おうとそちら側に回る
道の途中…ばったり、部下の藤田に遭遇した。
向こうもこちらに気づいたらしい。パッと明るい笑顔を向けてくれた。
屈託ない笑顔を向けながら、こちらに近づいてくる彼を見ると…
普段は厳しく冷たいと称されることが多い御堂も、知らずに軽い笑みを
浮かべて挨拶を返していた。
「あ、御堂部長こんにちは。部長もこれから昼食ですか?」
「ああ藤田君か。うむ…馴染みの店にこれから行こうと思っていてな。
これから車で出る処だ」
「あっ…それなら良ければご一緒させて頂いて宜しいですか?」
「…それは構わないが、時間は大丈夫か? 私はこれから昼食時間に
入る訳だが…君は12時丁度から入ったのであれば車で移動しても
少々…遅くなってしまうと思うのだが」
その事を指摘した途端、藤田の顔色が若干曇っていった。
御堂の言う通りだったからだ。
部長職に就いている御堂は毎日の昼食の時間はやや不規則気味だ。
社内にいる一般社員は12時から12時50分までは昼食時間に充てられている
訳だが…現在の時刻は12時30分程度。
車で移動しても、12時から休憩に入った藤田が社内に時間内に戻ってくるのは
厳しいと言えた。
「そ、そうですね。たまには部長と昼食をご一緒させて貰えたら嬉しいかな、と
思ってつい口にしてしまいましたけど…僕の方の休憩は、確かにもうじき
終わってしまいますね。非常に残念ですけど」
「…またの機会にしておこう。君は本日はずっと社内での勤務になるのだろうか?」
「はい、本日は外回りの予定とかありませんので…。あ、それなら駐車場までご一緒
させて下さい。ちょっとお話したい事があるので…」
お話したい事があるので…と、藤田が口にした瞬間…彼の顔が一瞬、引きつった
ような…そんな気がした。
「嗚呼、構わない。其処まで一緒に行くとしよう」
御堂自身も、少しその反応を怪訝に思いながらも深く考えないようにした。
そうして藤田と一緒にエレベーターに乗り込んで、一階のロビーの周辺を
通り抜けていく。
藤田とは、その間…他愛無い世間話をしながら、足を進めていた。
その時…御堂は奇妙な違和感を覚えていった。
(…やはりここでも、違和感を感じるな…)
御堂は若くして部長職に就いたエリートですし、本人も大変な美丈夫だ。
威風堂々とした態度で社内を歩けば…嫌でも人目を引く存在だった。
だから人気の多い処を歩けば、多くの人間の視線に晒されるのは慣れた事だった。
しかし…今、自分に向けられている視線は…好奇と、疑心に満ちた何か嫌な
ものを感じる視線だった。
若い女性社員達が集まって、何かをヒソヒソと噂しあっている。
其処に目を向けた瞬間の、彼女たちの反応は明らかにおかしかった。
特に一人の女性社員は、ヒッ! と怯えたような声を上げて後ずさりを
始めていった。
「なっ…?」
その反応に、御堂自身も驚きを隠せなかった。
確かにここ最近、仕事は不調気味であったが…殆ど接点のない女性社員に
こんな態度を取られる謂われはない。
「部長! 早く行きましょう!」
「藤田、君…?」
御堂がその反応に、戸惑いを感じていると…不意に強く、藤田に腕を
引かれていった。
彼は生真面目で明るく、常識ある青年である。
しかし…その時の藤田には有無を言わさぬ迫力があった。
彼がこのような顔を見せるとは思っていなかっただけに御堂は驚きを
隠せなかった。
そのまま…玄関を早足で抜けて、本社ビルの付近にある駐車場の
スペースまで歩いていく。
大会社とは言えど、駐車場の敷地はあまり広くはない。
要職に就いている人間の分ぐらいしか確保出来ていないのが現状だ。
そのおかげでこの時間帯、駐車場に足を踏み入れている人間はいない。
周囲に誰もいないことを確認すると…ロビーから押し黙ったままの藤田は
ようやく口を開いていった。
「…御堂部長、あの一つ…確認させて貰って宜しいですか」
「あぁ…何だろうか」
そう問いかけた藤田の顔は、今まで見た事がないくらいに険しいものだった。
何となく、不穏なものを感じて身構えていくと…相手の口から、予想外の
質問が漏れていった。
「…部長、昨晩…この近所の大きな公園になんて、行っていません…よね…?」
「な、に…?」
唐突に聞かれた質問の内容に、御堂は眼を見開いていく。
昨夜見た悪夢のせいか、心臓が張り裂けそうになる。
―ドクン、ドクン、ドックン…
まるで胸の周辺が、別の生き物になってしまったかのように大きな
脈動を繰り返して、コントロールが効かなくなる。
どうして、藤田がこんな事を聞いてきたのか判らなかった。
しかし…そう尋ねて来る年下の青年は、縋るような眼差しを向けながら…
こちらを見つめてくる。
「…すみません、唐突な質問でしたよね。けど…どうしても今朝から女子社員の間に
流れる噂が…本当に気になってしまって。厚かましく昼食を一緒したかったのも…
ここまで部長をお供したのも、その噂の真偽を確かめたかったからなんです…。
大変…言いづらい話なんですが昨晩…大きな公園で、うちの女性社員の一人が…
部長が、誰かを刺した現場を見たって…そんな話が流れているんです…」
「な、んだと…?」
「けど、それだとおかしいんですよ! だって…それで俺は気になって午前中に
公園に足を向けてみたんですけど…確かにそういう通報があったから警察は
来たらしいんですけど…それらしき死体とか、怪我人とかは出ていないらしくて。
御堂部長に似た誰かと見間違えたのか、単なるその女性社員の狂言なのか
どっちかは判りませんし…事件も、実際に起こっていないみたいですし…。
僕には、何が何だか…判らなくて。けど、僕にとって部長はとても尊敬出来る
存在です。だから…どうしても、部長の口からそんなくだらない噂を否定して
欲しくなってしまって…」
「ちょっと待て…。そんな話が…社内に、流れているのか…?」
「えぇ、くだらない話だと思いますけどね。けど…理性的な部長が、人目につく
場所で…しかも会社からそんなに離れていない場所で、人殺しなんてする
筈がないじゃないですか! それに昨日…部長は、夜遅くまで私室に籠って
仕事をこなしていた筈です。僕にはそう言っていたでしょう…?」
藤田の目には、御堂を信じたいという想いが溢れていた。
だが…あまりの内容に、御堂は蒼白になってしまっていた。
公園で起こった事件と、自分が夢と信じていた内容が…あまりに被り
過ぎていたからだ。
(これは、どういう事なんだ…?)
あれは悪夢に過ぎない、と…御堂自身は思っていた。
実際にさっき、その被害者である佐伯克哉からメールが一通…送信されていた。
それで安心していたのに、それが…全て覆されてしまった。
女性社員に、目撃されていたという事実が御堂に衝撃を与えていく。
しかし…今の御堂には、藤田を安心させるような事は嘘でしか言えない。
御堂自身にも昨晩の記憶が抜け落ちてしまっているからだ。
何も言えないで、言葉を噤んでしまっている御堂を…藤田は強張った顔を
浮かべていく。
「…部長、どうして…何も、言って下さらないんですか…? 普段の部長なら…
すぐにそんな話は馬鹿げていると言って、すぐに否定して下さるでしょう…?」
「嗚呼、そうだな…あまりに馬鹿げた話だったので、唖然として言葉を失って
しまっていただけだ…。反応が遅くなってすまない」
だが御堂は内心の不安の一切を隠して、どうにか取り繕いながらそう答えていく。
「そ、そうですよね。僕だってこの話を耳にした時は…驚きの余りに、言葉を
失いかけましたから! やっぱり…事件なんて起こっていないし、部長は
そんな馬鹿な真似をする筈がありませんから! けど…本当に性質の悪い
噂ですよね!」
「あ、ああ…そうだな…」
しかし、そう相槌を打ちながらも…御堂は先程の、怯えきった眼差しを向けた
女性社員の事が脳裏から消えなかった。
彼女の人となりまでは良く知らない。けれど…あまり派手な印象はない真面目そうな
20代中頃ぐらいの女性だった。
軽薄な印象はなく、適当な噂をでっちあげそうなタイプにはとても見えない。
反応から見て、その話の発端人は…彼女で間違いなさそうだった。
だが…何かが釈然としない。
一体、自分の周りで昨夜、何が起こったのか本気で御堂は判りかねていると…。
「っ…!」
御堂は、その場に固まった。
本社の玄関付近に信じられないものを見たからだ。
「さ、えき…?」
そう、藤田とそんなやりとりをしている最中…御堂は偶然にも、これから
玄関に向かおうとしている…佐伯克哉の姿を、視界に捉えて…目撃して
しまった。
その瞬間、御堂はその場に立ちつくしていく。
―そう、あれは悪夢に過ぎない筈だ。本当に自分が殺人を犯していたのならば…
佐伯克哉が翌日に、こんな風に目の前に現れることも…朝にメールを
こちらに送信してくる筈がないのだから…
そう思い直し、どうにか体制を整えていく。
「…話は以上だ。君の想いは有難いが…そろそろ昼食を取りに行かないと
この後のスケジュールが押してしまうからな…。君もそろそろ、休憩時間が
終わる頃だろう。…くだらない噂が流れても、あまり動揺しないようにな…」
「はい、部長。貴重なお時間を割いて頂きありがとうございました!」
そうして藤田はどこか憂い気な笑みを浮かべていきながら、それでも元気良く
挨拶してその場から立ち去っていく。
残された御堂は、軽く自分の愛車に身体を凭れさせながら…。
「一体どこまでが夢で…どこまでが現実だったんだ…あの、夢の光景は…」
奇妙に現実と符号が一致することが多い夢に、漠然とした恐怖と不安を覚えながらも
気を取り直して…御堂は裏道を使い、馴染みのレストランへと車を走らせて
いったのだった―
無印の眼鏡×御堂ルートのED.NO2…「因果応報」を前提にした話です。
シリアスで、ちょっとサスペンス風味の強い話です。
眼鏡×御堂ルート前提ですが、眼鏡なしの克哉も色々と出張ります。
それでも良い、という方だけ付き合ってやって下さいませ。
【過去ログ】
咎人の夢 1 2
―御堂孝典は32年間の今までの人生の中で、出社するのにここまで緊張した
事は一度だってなかった
今朝見た夢の光景が、果たして現実だったのかそうでないのか。
その疑問が出勤している間も、頭から離れてくれなかった。
真偽を確かめる為に早めに出勤したは良いが…自分の私室に入っても
いつもと違って全然気持ちが落ち着かなかった。
本来の出勤時間よりも随分と早く着いてしまったので社内は全体的に随分と
静かな感じであった。
こうして…人気のないオフィスで一人で仕事をしていると、リズムを
崩す前のことがゆっくりと思い出して…佐伯克哉という男と出会ってからの
自分の不調っぷりが嘘のように感じられた。
胸の中に漠然とした不安感はあるが…若くして部長職に就いた御堂は
元来、精神的には相当にタフな人間だ。
このぐらいの事で自分のペースを乱したり、仕事が出来ないなどと…
甘ったれた事をいうつもりはなかった。
(…私はどうして、あの男に出会ってから…あんなにも自分のペースを
崩してしまっていたのだろうか…?)
その事実が、釈然としなくなるぐらい…今の御堂は普通に仕事を進めていた。
其処からは不調となる原因がまったく感じ取れない。
色んな事に違和感を覚えてはいたが…とりあえず頭と手は動かし続けた。
自分の私室に来て、何もしないで悩んでいるぐらいなら…最近山積みと
なっていた未処理の業務を少しでも片付けた方が建設的だった。
冷静になって改めて見てみると、膨大な量の…自分が貯め込んでいた
仕事の量に眩暈すらしてくる。
だが…近日中に片付ければどうにかなるものもいくつかあったので…
まず期限が差し迫っているものから片付け始めていった。
どれもかなりギリギリだ。
モノによっては今朝、他の人間が出勤してきたら早急に動かなければ
間に合わないものすらあった。
自分自身でも、これだけの業務を溜め込んでしまっていたことに半ば
呆れたくなった。
―また小さく、違和感を覚えていく
これだけの仕事を、手につかなくなるぐらいの何かが…あの男と
自分の間にあったというのだろうか?
しかし…やはり、思い出せない。
―忘れて、下さい…
祈るような誰かの声。思い出そうとする度に、その一言だけが
鮮明に蘇って、それ以上の記憶を思い出すことが不可能となっていた。
(…今朝から聞こえる、この声は…一体誰のもの、なんだ…?)
やはりその声の主の存在が御堂にとっては思い出せなかった。
また少し考えて、思い出すように努めていくが…やはり声だけでは
はっきりと思い出せなかった。
「…私らしくないな。どうして…こんな声の事がこんなに…気になるんだろうか…?」
自嘲っぽく笑いながら…ふと手が止まりがちになっていたが…気を取り直して
作業に集中していく。
パソコンでメールの処理している間に、ふと…アドレス帳のページを
クリックしていくと…連絡先に「佐伯克哉」と書かれてるのに気づいた。
もし、即急に…あれが事実だったのかどうかを確認するならば、ここに
記載されている携帯番号に連絡すれば…今すぐにでも判ることがあった。
―彼が普通に電話を取れば、あれは自分に悪夢に過ぎなかったという
結論となり、証明にもなる
腹部を深々とナイフで刺されながら、普通に出勤出来る人間など
存在する筈がないのだ。
怪我の程度によっては刃傷沙汰が起こっても、何食わぬ顔で出勤が
出来るかも知れない。
だが…あれは、絶対に取りつくろうことが出来ないレベルでの怪我だ。
逆に、いつまで経っても誰も出なければ…あの夢は事実であった可能性が
極めて高かった。
それに…今朝、この部屋に向かう途中で一つ…気になる噂をすでに
耳にしていた。
―この近隣の公園で、警察が出動して集まって来ているという内容だった
どのような事件が起こったのか…小耳に挟んだ程度なので、現時点では
不明だが…その小さな噂が、御堂の決心を鈍らせてしまっている。
MGN本社からそう遠くない位置にある公園は、結構な敷地面積を誇っていて
片隅の方ではホームレスが夜、毎日ではないが寝る場所を求めて訪れたり
酔っ払いなどが潰れて、警察の厄介になるような出来事がたまにであるが…
起こったりしている場所でもあった。
以前にも酔っ払いとホームレスが大きな衝突をした際に、警察の人間が
何人か出動してきた事があったが…今朝はどれぐらいの人数が訪れているのか
現時点では御堂は情報を持っていなかった。
(もし…あれが現実だった場合、佐伯の死体が見つかって…それで
警察が来ている可能性も存在するな…)
そう思うと、やはり…自分から連絡する踏ん切りまでつかなかった。
こうやって自分の私室で部屋をしていると、やはりあの出来事は悪夢で
あって欲しかった…という想いの方が大きくなっていく。
もし、どんな事情があるとは言え罪を犯してしまったというのならば…
こんな風に逃げるようなことばかり考えているのは褒められた行動では
ないのかも知れない。
けれど…彼を殺すに至った動機すら、今の御堂は思い出せない。
それで佐伯克哉を手に掛けたといっても…自分自身ですら
納得行かないし、釈然としなかった。
頭の中に、そんな考えがグルグルしつつも…御堂は始業時間前に
精力的にこなしていった。
一通り片付けた頃には、部屋の外…廊下の方から、人が行き交い
始めている気配のようなものを感じていった。
「そろそろ…始業時間か…」
そう呟いた瞬間、御堂のPCの方に一通のメールが届いた。
その送信者名を見た瞬間…心臓が止まるかと思った。
―佐伯克哉
確かにそう表示されていたのだ。
「佐伯から、メールが…?」
御堂は、メールが来ただけでも驚きを隠せなかった。
しかし気を取り直して…慌ててそのメールを開いていく。
其処にはそっけなく、一文だけの短いメッセージだけが
記されていた。
―午後から打ち合わせの為、そちらに伺います。こちらの希望としては
14時ぐらいが好ましいのですが、御堂部長の方の都合の方は宜しいでしょうか?
たったそれだけの内容。
あの男らしい、簡潔で…必要なことだけしか記されていないメールだった。
だが…その短い一文を見ただけで、張り詰めたものが緩んでいくのを
感じていった。
(あれは…やっぱり、夢だったのか…?)
もしあの夢が事実なら、こんなメールなど決して届く筈がないのだ。
送信時刻をチャックしてみたが…どうやら彼も早朝出社をしているらしい。
ほぼリアルタイムで、キクチ本社のPCから送信されたもののようだった。
このメルアドは…彼の会社内でのメルアドであったと記憶しているから…
ほぼ間違いがないだろう。
(…それに、第三者が彼のPCを使って…こんなメールを送るメリットが
果たしてどこにあるんだ…?)
だからこのメールを送ったのは佐伯克哉当人にまず間違いないだろうと
思えたが、まだ彼本人を実際に見ていないから…確証は持てないでいる。
しかし…それだけでも、出社前に比べて御堂の気持ちは随分と
楽になっていった。
(そうだ…あれは、夢だったんだ…。そうでなければ…どうして…)
御堂はこの日ばかりは、一刻も早く…いけすかない相手であるが
佐伯克哉がこちらを訪ねてくるのを心待ちにしていた。
―彼が自分の前に立てば、全ての懸念は夢に過ぎなかったと
証明されるからだ…
今まで御堂は、佐伯克哉がMGNに訪れるのを快く思った
事は一度もなかった。
だが…この日だけは、あの凄惨な悪夢の記憶を打ち消したいと思う
気持ちが…初めて、彼の来訪を心待ちにさせる結果を招いて
いたのであった―
無印の眼鏡×御堂ルートのED.NO2…「因果応報」を前提にした話です。
シリアスで、ちょっとサスペンス風味の強い話です。
眼鏡×御堂ルート前提ですが、眼鏡なしの克哉も色々と出張ります。
それでも良い、という方だけ付き合ってやって下さいませ。
【過去ログ】
咎人の夢 1
―御堂孝典が次に目覚めた場所は、自分のマンションの寝室の
ベッドの上だった
「っ…!」
何かから逃れるように、弾かれたように身を起こしていく。
悪夢を見ていたのだろうか…全身から、冷や汗が滝のように伝い落ちて
動悸が激しかった。
ドックンドックン…とまるで別の生き物のように心臓が荒く脈動しているのが
自覚できた。
「…あれは、夢、だったのか…?」
先程までの凄惨な光景が脳裏に浮かんでくる。
佐伯克哉を待ち伏せして、そして…手に掛けて嗤(わら)い続けていた
あの出来事は、とても夢とは思えなかった。
相手の肉に、ナイフを突き刺した生々しい感触すら、しっかりと覚えているのに…
何故かそれらが、何もなかったかのように…自分はいつの間にか、ベッドの上で
いつものように眠っていた。
「ちょっと待て…私はいつ、自宅に…昨夜、戻って来たんだ…?」
昨晩の記憶が、曖昧になっていた。
身体の状態はさっぱりしていた。いつの間にかパジャマにも着替えている。
しかしいつシャワーを浴びて着替えたのかまったく覚えがなかった。
いや…夜だけではない。昨日一日の記憶が、綺麗に抜け落ちて空白に
なってしまっている。
…違う、何かが欠落してしまっている。
自分の中で、大きく占められていた何かが…消えてしまっている。
奇妙な違和感が拭えなかった。
そもそも…自分はどうして、佐伯克哉をあんな風に殺す夢を見たのか…
彼には思い出せなかった。
それは動機の欠落。
人を殺すには、何らかの要因がなければ基本的には無理だ。
殺人を好む性質の人間でない限りは、普通の人間は同じ人間を殺すことに
嫌悪感を覚えていく。
それに殺人者に課せられたペナルティは、それ以後の人生をフイにする程
重く厳しいものだ。
だから人間は…一般的な常識を持っている人間ならば、殺人という禁を
犯す場合は…それに至るだけの憎しみなり、動機なりがなければ実行にまでは
移さない。
だが、どれだけ自分の心に問いかけても…その根本となるものが
見つからなかった。
そのせいでさっきの場面の陰惨さを思い出しても…本当に単なる夢に
過ぎなかったのではないか…という想いの方が徐々に勝っていった。
「…それに、どうして私が…佐伯を殺す、夢を…? 確かに彼は気に入らないし…
腹立つ言動が多いが、殺すまで…は、行かない筈…なのに…」
そう、今の御堂は紛れもなくそう思っていた。
あの夢を見ても、どうして…自分はそんなものを見たのか納得がいかない。
そんな心境になっていた。
確かにこの一か月、あの男に自分の仕事のリズムを乱されていた。
そのせいで…自分らしからぬ失態を幾つも犯してしまって、大隅専務に厳重な
注意すら受けてしまった。
だが…それはいわば、自分の至らなさと…あの男に対して必要以上に敵愾心を
燃やしてしまったからこそ招いた愚だった。
肩で大きく息をしてから、どうにか深呼吸をして…どうにか落ち着いていく。
「…いつになく、酷い目覚めだな…。それに私は、夢など滅多に見ない性質
なのに…久しぶりに見たと思ったら、これか…」
苦笑しながら、御堂はベッドの上から…壁に掛けてある時計を眺めていった。
朝、五時十五分。いつもの起床時間よりも若干早いぐらいの時間帯だ。
通常、4~5時間寝れば睡眠は充分だ。
大体いつもならば、午前一時か二時前後まで起きていて…それから朝五時半から
六時ぐらいに起きるのがいつもの御堂のペースだった。
昨日、何時に寝たのか…その記憶すら思い出せない。
「…私は、昨日…本当に何をやっていたんだ…?」
確かに自分はワインを愛飲していて…一週間に何度も嗜んでいる。
しかし、記憶を失うぐらいに多量に飲むことなどない筈だ。
アルコールの類を過剰に摂取すれば一時的な記憶の混乱及び、喪失を
招くということは知識として御堂も知っている。
だが…身体のコンディションは最悪ではあったが、これは二日酔いによる
症状ではないということは…流石の御堂でもすぐに判った。
(なら…あの夢は現実だったのか…?)
だとすると、一つ…絶対的におかしい事がある。
あの夢が現実だった場合…自分はMGNからそう遠くない距離にある公園で
倒れたことになる。
そして…途中で目覚めることなく、この時間まで眠り続けていたのならば…
一体、誰が自分をこの部屋まで運んだのだ、という話になる。
御堂が住んでいるマンションはセキュリティが万全に整えられた、
完全オートロック式となっている。
カードキーのない人間は、絶対に立ち入ることが出来ない。
意識を失った御堂をここまで抱えて、そして立ち去るなんて真似をすれば…
絶対に不審がられることは確実だ。
しかも…あの夢が現実だった場合は…。
―御堂は、佐伯の返り血を浴びて血塗れであった筈だ
そんな状態の御堂を連れ帰り、着替えさせて立ち去った存在がいると…
そう仮定しない限りは、この状況はありえない。
とっさに自分の匂いを嗅いでいくと…自分が愛用しているフレグランスの
香りが軽く鼻孔を突いていった。
それ以外の臭いは、存在しない。
あの光景は、現実だったのか…それとも自分の悪夢に過ぎなかったのか。
まず…それが問題だった。
(…幾ら考えても、答えは出ないな…)
あれが現実なら、佐伯克哉は一体どうなったのだろうか…?
恐らく、無事では済まない。
腹部にあそこまで深くナイフを突き刺したのなら…あれは確実に
致命傷レベルとなる。
素早く病院に搬送して、手当をしたとしても…生存出来る可能性は
極めて低いと言わざるを得なかった。
現時点では、あれが現実だったのか…夢だったのか、解答を得ることが
出来なかった。
しかし…あれが実際にあった事ならば、確実に…今朝か、昼ぐらいまでには
佐伯克哉の死体が公園で発見される筈だ。
そうなれば…自分は仕事上での関係者になる。
あの一件の事が露見すれば…。
(…? あの一件とは、何だ…?)
途中まで考えて、自分でも疑問に思ったことがあった。
何かが、やはり自分の中から抜け落ちている。
あの男に纏わる…重要なことが、思い出せない。
「何だ…この、何とも言えない…すっきりしない気持ちは…。私は、何を
忘れてしまって…いるんだ…?」
御堂は、本気で頭を抱えたくなってしまった。
思い出せなくなっているものが、これだけ多ければ不安に思っても
何の不思議でもない。
しかし…今、自分は確かに佐伯克哉にとっては仕事上で深く関わっている
立場にあるのは事実だった。
見方によっては…過剰すぎるノルマを割り当てて、理不尽な行為をした
親会社の人間…と見られるかも知れない。
だが、その場合なら…佐伯克哉がこちらを、なら話が通るが…こちらから
彼を殺す動機には結びつかない。
そう考えて…どうにか、思考を切り替えていく。
まずは出社してみなければ始まらない。
そう考えた瞬間…ふいに、何かが頭の中を過ぎっていった。
―貴方は……の、事なんか、忘れて……幸せに…なって、下さい…
それは聞き覚えのある声で、言われた一言だった。
今にも泣きそうな、悲痛な声で…誰かが、告げていた。
だが…この言葉をいつ言われたのか、まったく記憶にない。
けれど知らない声ではない。確実に何度か聞き覚えがある声である
ということは確信していた。
…最後にこの声音を耳にしたのは、一体いつだったのだろうか。
そういえばもう随分と長く…聞いていないようにすら感じられた。
(今の、声は…?)
ごく最近に、聞いた気がするが…だが、それも思い出せない。
自分を構成する為の『記憶』というピースが幾つも抜け落ちてしまっている
その事実は、御堂の心を大きく掻き毟っていった。
だが、まずは…会社に向かわなければ始まらない。
心の中は酷くモヤモヤして落ち着かなかったが…一旦頭を切り替えていく。
身体を起こして、身仕度を整え始めていった。
―彼はまだ知らない。自分がいつの間にか大きな舞台に上げられてしまっている事に。
そして無自覚なまま…誰かが紡ぎ出した脚本をなぞりあげていく。
しかし彼は…舞台も、脚本もどちらも自覚しないまま…いつもと変わらぬ日常が
送れると信じて…出勤する為の準備を整え始めていった。
―御堂にとって今までの人生の中で、これから会社に向かうということが…
ここまで不安に駆られてしまったことは初めてのことだった…
※本日から新連載です。
無印の眼鏡×御堂ルートのED.NO2…「因果応報」を前提にした話です。
シリアスで、ちょっとサスペンス風味の強い話です。
眼鏡×御堂ルート前提ですが、眼鏡なしの克哉も色々と出張ります。
それでも良い、という方だけ付き合ってやって下さいませ。
―それは月がとても綺麗な夜に起こったことだった
目の前には、血まみれになった青年が倒れていた。
たった…今、自分がこの手で刺した。
何度も、何度も心の底からの恨みを込めながら相手の身体に凶器を突き刺した。
手には相手の血液がべったりと付いている。
返り血を大量に浴びて…彼自身も、陰惨な様子になった。
「あ…ははははははっ!」
そして彼は、狂ったように笑い続けた。
まるで糸が切れた人形のように、全ての感覚が麻痺して遠くなって
しまっている。
感情の制御がすでに出来ない。
自分の意思と関係なく、大きな笑い声は零れ続けて…公園中に木霊
していくようだった。
今の御堂には、周囲に気を配る余裕すらなかった。
いや…もうとっくの昔に、自分はおかしくなってしまっているのだろう。
この男と出会ってから、何もかもが壊れてしまった。
大学に出てからの十年間の間に、自分が必死になって築き上げた全ての
ものが…この男一人のおかげで、全て失ってしまった。
全てが水泡に帰して、無になろうとしていた。
…自分が努力し続けて、やっと手に入れることが出来た大企業での部長という
地位ですら…もうじき、この男の手に渡ろうとしている。
その事実を、偶然…知ってしまった彼は…ついに堪え切れず、この男を
手に掛けてしまった。
「ざまあみろ…! 佐伯…! お前が、悪いんだ…! お前が、私から…
全てを、奪うから…ははははははははっ…!」
自分の心の奥から、どす黒いものが溢れてくるのが判った。
誰かをここまで憎いと思ったのは、生まれて初めてだった。
その衝動のままに行動して、とてつもなく爽快な気持ちと…人を初めて
殺めてしまったという罪悪感と、やり切れなさで頭の中はゴチャゴチャだった。
夜の空気は冷たく、冴えわたるようで…現場となった公園を、月明かりが
煌々と照らし出している。
殺人を犯した者が、現場でこんな風に大声で狂ったように笑い続けているなど…
早く捕まえてくれ、と言っているようなものだ。
こんな愚かしい行動、普段の彼ならば…絶対にしない。
けれど…まるで性質の悪い麻薬に犯されてしまったかのように、まともな
思考回路が破壊されてしまっている。
おかしくて、おかしくて堪らなかった。
自分の感傷が、制御出来なくて…どうしようもなくなっていた。
「み、どう…」
苦しい息を吐きながら、男がこちらの名を呼んだ。
何故かその瞬間…胸が引き絞られるようだった。
「…まだ、息が…あった、のか…?」
自分は相手の腹部を刺した筈だ。
心臓を一撃、とは行かなかったが…複数の箇所を刺したことで
致命傷を与えている筈だったのだ。
なのに…それでもまだ、相手が存命して…こちらの名前を呼ぶことが出来るなど
思ってもみなかったので、御堂は瞠目していく。
「み、どう…」
しかし相手の瞳は、いつものように自信に充ち溢れたものではなく…
酷く儚い色を湛えていた。
ギラギラと輝いていた宝石が、まるでガラス玉になってしまったようだ。
その力のない瞳が、フイに…彼を正気に戻していく。
「あっ…」
「み、どう…」
何度も、何度も壊れた機械のように…相手はこちらの名前を呼び続けていく。
その度に、何とも言えない感情が湧き上がっていった。
憎くて憎くて、仕方のない男だった。
先日のとても大切なプレゼンの時に…尻の中にバイブを入れろなどと言って…
こちらの事など、一切慮ることなく…その強度を上げ続けた。
そのせいで大勢の前でとんでもない失態を演じることとなり、其処から
多くの歯車が狂い始めた。
部長職を失う一歩手前まで追い詰められたのは…この男がそんな風に
こちらの心を踏みにじり、脅迫行為を続けたからだ。
(ど、うして…お前に名前を、呼ばれて…こん、な…)
憎い筈だったのに、それ以外の感情が湧き上がってくるのを感じて…
御堂自身が、混乱を隠せなかった。
どうして、何故…自分は、こんな事で惑っているのだろうか。
すがるように男が、こちらに手を伸ばしてくる。
その手が血まみれなのは、口元から一筋の血が伝い落ちているのは…
自分がこの手に掛けてしまったから。
「す、まない…」
「っ…!」
ふいに、男が…そんな風に自分に謝罪の言葉を吐いたのを聞いて、
御堂は眼を見開いていく。
どうして…この後に及んで、自分に謝ったりするのだ。
あんな風にこちらを辱めるような行為を続けた酷い男。
なのに…そんな風に、謝られたら、どうすれば良いのか判らなくなる。
「今、更…謝られても、私は…君のした、事を…許せない!」
「だ、ろうな…」
しかし、相手の謝罪の言葉を跳ねつけるように…御堂は必死になって
訴えかけていく。
今までは御堂は…一方的な被害者という立場だった。
しかし…この夜から、二人とも、咎人となった。
佐伯克哉は…御堂孝典を何度も凌辱し、その光景をビデオカメラで撮影して
彼を脅迫し続けて追い詰めた。
そして御堂は…その事に耐えきれず、ついに殺人という行為で…彼を
手に掛けて、殺めてしまった。
どちらも、大罪だった。
しかし…罪の重さを言えば、やはり殺人の方が遥かに重いだろう。
相手の命の灯が、どんどん弱くなっているのを感じる。
公園の舗装された道は、血の海を作り…毒々しいまでに、赤で染まって
しまっていた。
途端に、目を背けたくなってしまった。
だが…御堂は、どうしても…目の前の相手に釘付けになってしまった。
―自分が、彼を殺してしまった…
まだ辛うじて息はあるが、この出血量から見ても…大急ぎで病院に
搬送しても、彼はもう助からないことは明白だった。
後、十分もすれば…彼の命は確実に途絶えるだろう。
そうなれば…言い逃れは出来ない。
御堂に待っているのは殺人者という烙印。
捕まれば…これから先、十数年は拘束されるか…下手をすれば
死刑となるだろう。
情状酌量を求めるとすれば、あの凌辱された事実を警察に
話さなければならない。
だから…自分の刑は軽減されることは絶対にない。
…その事を誰かに話すぐらいなら、素直に罪を被った方がマシだからだ。
「だ、ろう…な…なら、受け取れ…俺の、ポケットに…ある、から…」
「な…にを…?」
相手の声は、あまりに掠れていて…聞き取りづらかった。
けれど…苦しそうでも、彼は必死になってその言葉を綴っていった。
「お前の…ビデオ、の…録、画…だ…」
「っ…!」
その言葉を聞いた時、信じられなかった。
だが男は…微かに笑いながら…身体を必死になって捩って…
御堂が、取りやすいように僅かに…右側のポケットを露出させていった。
最後に気まぐれに見せた、相手からの情。
それが憎くて仕方なかった相手を…別の存在に変えていってしまうのが
信じられなかった。
「そ、んなの…嘘、だ…」
「早く…。それを、受け…取った、ら…、逃げ…ろ…」
「なっ…!」
更に信じられない気持ちになった。
だが、男は…儚い表情を浮かべながら、見つめていく。
「どうして…この後に、及んで…そんな事を言うんだ…!」
とっさに御堂は叫んでしまっていた。
今まであれだけ酷い男であり続けた癖に…最後の瞬間にこんな
事をいうなど、反則以外の何物でもなかった。
憎いだけの相手なら、殺したって胸の痛みなど何も覚えないで済むと
いうのに…どうして、今更…こんな温情を見せるのか、逆に恨みたくなった。
御堂にとって、そのビデオの録画は…絶対に他者の目になど触れられたくない
代物だった。
あれがどんな形でも、誰かに見られてしまったら…御堂にとっては
身の破滅を招きかねない。
だからこそ脅迫の材料に使われてしまったのだ。
それを男は、自分が刺されて…命を失うその寸前に、返そうとしていたのだ。
何故、そんな真似をするのか…御堂には分らなかった。
だが、その行為によって麻痺していた心が…痛みを訴え始めていく。
―それでようやく、御堂は自分が強い後悔をしている事を自覚してしまった
鼓動が、呼吸が乱れ始める。
心臓が壊れてしまって、そのまま破裂しそうなぐらいだった。
それでも、御堂は相手の元に近づいて…そのテープを回収しようとした。
その時、意識がふいに遠のくのを感じていった。
「っ…!?」
突然、ブレーカーが落ちてしまったかのように…身体の自由が
効かなくなって、意識がブラックアウトしていく。
前触れなど、まったくなかった。
けれど抗いがたいぐらいに…闇が、唐突に襲いかかって御堂の
意識を呑みこんでいく。
だから御堂は、受け取れと指示されたビデオの録画を…
バタン!
そうして…彼は、意識を昏倒させてその場に倒れ込んでしまった。
だからこの夜に…この後、どのような事が起こったのか、 彼は一切の
情報を得ることが出来なかった。
この惨状を知る存在の祈りも、堕落へ誘う悪魔の囁きも…すでに深い
闇に落ちてしまった彼には知るべくもなかった。
―やれやれ…面倒くさい事になってしまったものですね・・・
そして、御堂と佐伯が倒れているその現場に…もう一人の第三者が
立って呆れたような声を漏らしていった。
―その後、何が起こったのか…御堂は知ることがないまま…夜明けまで
深い眠りの中へと浸り続けていったのだった―
結ばれてから早くも半年が経過しようとしていた。
秋の終わりの頃に再会してから…気づけば、新緑が青々と茂り
ポカポカと暖かい春へと季節は移り変わっていた。
その期間の間に、佐伯克哉はMGNを退社して…新しい会社を
設立し、その共同経営者として御堂に誘いをかけていた。
それから…無我夢中で、二人とも働き尽くめの日々を送っていた。
だが、その多忙な日々が…長く離れてすれ違っていた二人を
強く結びつけてくれたのもまた、事実だった。
そして…GWを間際に控えたある日、二人は長期連休明けから
動き出す新しい企画の最終確認を会議室にて行っていた。
まだ新しいピカピカと輝く机の上には、これからの仕事に必要な
資料や企画書が綺麗に纏められた状態でびっしりと並んでいた。
二人は新しい報告をすると同時に、関連資料を手に取り合って
確認していき…それの繰り返しをすでに二時間近く行っていた。
これから動かす企画は、この会社が今まで扱ったことがあるものの
中では最大の規模になる。
だから克哉も御堂も真剣な表情で、討論しあい…今後の方針は
これで良いか、企画書や書類に…間違いがないかどうかを真剣に
確認し合っていた。
「…現状でそちらに報告する事は、以上だ。…とりあえず、これで…
問題はなさそうだな」
「あぁ、そのようだな。…随分と資料集めや、下請けの準備をするのに
手間取ったが…これでGW明けには正式に企画を動かせそうだ。
…君の手腕は、流石だな…佐伯」
「…まあな、これくらいの事をこなすのは当然だろう? それにこの
件の全ての準備が整ったのは…あんたが協力してくれたのも大きい。
本当に俺は頼もしいパートナーを得たものだな…孝典」
そんなに広くない会議室で、長時間顔を突き合わせて検討を続けていた後で…
克哉が優しい顔をしながら、真正面からこちらを褒めてくるものだから…
御堂は不意を突かれたような気持ちになって、あっという間に真っ赤になっていた。
「なっ…! 会社の中では、下の名前で呼ぶなと何度も言っているだろう…!」
つい、照れくさくて…相手から目を逸らしてソッポを向いていく。
そんな恋人の姿が可愛くて、つい克哉は…喉の奥で笑いをかみ殺しながら
そっと御堂の方へと手を伸ばしていった。
克哉の指先は、恋人を慈しむように穏やかに頬を撫ぜていった。
…それだけで、心臓の鼓動が跳ね上がる思いをしたので…つい、
恥ずかしくなって御堂は全力で振り払おうと、頭を振っていった。
「…っ! 佐伯、止め…!」
「…俺が入る時、キチンとこの部屋には鍵を掛けてる。あんたが大声を
出さない限りは…外の連中に不審がられる事はないぞ…?」
「…って、就業時間に何を考えているんだ! 今は藤田を始め…私達の下には
色んな人間が働いているんだぞ! 仕事時間中にそんな…」
「…俺はただ、お前に触れたいと思っているだけだが? 別に…今、ここで
お前を抱くとは一言も言っていないだろう・・・? 確認を終えてほっと出来たから
あんたを愛でたい気分になっただけだ? それがそんなに…文句を言われなければ
ならない事なのか…?」
唐突に、克哉が殊勝な態度でそんな事をいうものだから…御堂は言葉に
詰まるしかなかった。
これで「あんたを抱きたい」と、二人で会社を興したばかりの頃のような
発言をしたのなら全力で拒んで、この手を跳ね除けることが出来る。
「ぐっ…! それは…その…。コホン、触れ合うだけなら…良い。
だが、それ以上のことをしたら…怒るぞ。判ったな…」
少し憮然とした表情を浮かべながら…御堂なりの妥協案を出していく。
それを聞いて…克哉は嬉しそうに、そっと微笑んでいった。
「あぁ…判った」
そのまま、ゆっくりと腕を引かれて…椅子ごと克哉の方に引き寄せられて
正面から抱きすくめられていく。
顔は見えなかったが、触れられる指先から…じんわりと、暖かなものが
滲み始めていく。
それが気恥ずかしくて、御堂はつい…窓の方に視線を移して、克哉から
気持ちを逸らそうと必死になっていた。
(…佐伯にこんな風に優しくされると…未だに、照れくさくて仕方なくなるな…)
ふと、窓の外を眺めていくと…外の天気は随分と良かった。
恐らく日向ぼっことか散歩をしたら、とても気持ち良いだろうと思える
陽気であった。
…彼と再会したばかりの頃は、風が冷たくなり始めた時期だ。
佐伯克哉との思い出は、苦くて痛みを伴うばかりだった。
なのに忘れられなくて、惹かれてしまっている自分が信じられなくて…
それでも彼を追いかけ続けていたあの時期をふと思い出して…
フっと不思議に思ってしまった。
(まさか…君とこうして共に春の訪れを迎えて、こんなに暖かい一時を
過ごせるようになるとはな…。あの時期は、考えた事もなかった…)
再会したばかりの、自分から逃げ続けている姿から。
手に届くと思った瞬間にもう一人の彼に切り替わって…奇妙な体験を
したその時には、こんな風な時間を過ごせる間柄になるとはまったく
考えた事もなかった。
そのまま克哉に、慈しまれるように顎から首筋のラインを
撫ぜられて…その手がゆっくりと降下していく。
そして怪しく、胸の突起を生地の上から刺激されていくとハッと
なって慌てて相手の手の甲をつねっていった。
「こらっ! ちょっと待って! 君はどこを弄っているんだ…!」
「あんたと俺の仲だ。今更だろ…!」
油断大敵。
やはりこの男に対して、こんな風に無防備に気を許すとロクな事がない。
プチ、っと額に青筋を浮かべていきながら…御堂は叫んでいった。
「少しぐらい時と場所を選べ! このバカっ!」
反射的にそう叫んで、手近にあった分厚い資料の本でバシッっと
その頭叩いていった。
バシィィィィン!
克哉の頭に丸めた資料の本が見事にクリーンヒットして、小気味が
良い音が立っていく。
そして克哉はそのまま、反動でパタリ…と机の上に突っ伏していった。
「…し、しまった。つい反射的にやってしまった…」
相手のあまりにお約束な行動パターンに、ついこんな反応をしてしまったが
克哉はそれで見事なぐらいに動かなかくなってしまった。
「佐伯…?」
一瞬で立ち上がらず、そのまま克哉が机に突っ伏したままの状態が
続いていたので…御堂が心配そうに声を掛けていくと。
「プッ…アハハハ…っ!」
いきなり、克哉の声のトーンが…ガラリ、と変わっていった。
すでにこの半年、低く掠れた方の声にすっかりと耳が慣れていた為に…
彼が、かつてはこんな声も出していたのだと…その事実を半ば、忘れて
しまっていたので…御堂は驚愕していた。
「佐伯、一体…どうしたんだ…?」
御堂が瞠目しながら問いかけていくと…克哉はゆっくりと…顔を
上げていく。
ごく自然な動作で、眼鏡を外したその表情は…御堂にとって
とても懐かしいもので…。
「…貴方が、幸せそうで安心しました…」
ひどく穏やかで優しい声音で、そう呟かれて…すぐに、御堂はそれが
もう一人の克哉である事を理解していった。
「き、君は…」
こうして、『彼』の方の意識と会話するのは…半年振り、だった。
日常の中でも、一緒にいる間…ほんの一瞬だけ、克哉の表情がガラリと
変わる瞬間はあった。
けれどそれはいつも瞬きするほどの僅かな時間。
目が合って少しの時間、微笑み合う程度しかなかった。
だからいきなり、彼の方の意識と遭遇して…御堂は動揺していたが…
彼は一言だけ、こう告げて儚く笑っていった。
―本当に、良かった
自分達がこうして今も一緒にいる事を。
寄り添い、共に一つの目標に向かっている事を本当に心から嬉しそうに
笑うから、だから自然と御堂も微笑んでしまっていた。
(あぁ、君はいつも…私達を見守ってくれているんだな…)
そのことを実感して、柔らかく二人は微笑み合う。
それが、彼の願いでもあると…すでに克哉から聞かされていたから。
あの自分達が結ばれた日以降、想いを確認し合ってから暫く
経ってから彼は確かにいった。
―もう一人の『オレ』がもし、出てくることがあったら…その時は
微笑んでやってくれ。それがあいつの願いでもあるから…
もう一人の克哉の存在の殆どが、今生きている克哉に統合される
間際に願った事は、そんなささやかな事だった。
克哉の傍に御堂がいてくれる事。
そして、幸せそうでいれば自分は何もいらない。
ただ、笑っていてくれれば良いと彼はそう願ったと聞かされた。
だから御堂は、微笑んでいく。
それはとても穏やかな気持ちで、いつも克哉の傍にいるとドキドキ
ハラハラして落ち着かないのとまったく対極の心境だった。
ただ、相手を求めて焦がれるだけではない。
静かに相手の幸福を願い、遠くから見守る「愛の形」もある。
もう一人の克哉が選んだのは、それだったのだ。
貴方達二人を「此処」で見守ると…そう、その微笑が伝えてくれている。
それが…御堂の心に、安らぎを齎して、そうして…彼の意識が
まるで夢幻であったかのように儚く消えていった。
―そうして、緩やかにいつもの克哉の顔へと戻っていく。
その変化は、とても不思議だけど自然で…以前に遭遇した時よりも
すんなりと受け入れている自分がいた。
「んっ…? 御堂…?」
眼鏡を外して、目を伏せながら手探りで愛用の眼鏡を探している
克哉はちょっとだけ隙がある感じで可愛らしく感じられた。
「君の眼鏡は、ここだ…」
さっきまでのちょっとした怒りなど、もう今の一時で吹き飛んでしまって
いたので…穏やかに微笑みながら、御堂は彼に眼鏡を掛けていってやる。
「ん…すまないな」
「いや、別に良い…気にしなくても、な…」
珍しく素直な態度を取る相手に、自然と微笑んでしまう。
『彼』が出た直後の克哉は、いつも少しだけ柔らかい雰囲気になる。
いつもの克哉が張り詰めて、気を引き締めたくなるような空気を纏って
いるのに対して…ふわりと、優しくなれるような雰囲気へと変わる。
最初の頃は彼のその変貌振りに戸惑い、驚かされる事が多かったが
今は御堂は動じることなく…あっさりと受け入れるようになった。
(どんな君でも、私が愛した…佐伯克哉という人間の一面だからな…)
「…あんた、凄く優しく微笑んでいるな。もしかして…今、俺がボーと
している間に…あいつが出ていたのか…?」
「あぁ、その通りだ。久しぶりに彼が現れたから…軽く微笑み合って
いた所だ…」
そう素直に答えていってやると、克哉は憮然としたような表情を
浮かべていく。
どうやら少し拗ねているようであった。
「…チッ、正直言うと妬けるな。あんたは滅多に俺に対してそんな
優しい顔など浮かべてくれない癖に…」
「…それだったら、私がそんな優しい表情を浮かべたくなるような
言動や行動を取るように心掛けたまえ。ま、君のような意地の悪い
男にそんな事を要求するだけ間違っているという自覚はあるがな…」
「…まったく、あんたも随分というようになったな。ま…俺に対して
正直に腹を割って話してくれるようになった分だけ嬉しいがな…」
そうして、克哉が心から嬉しそうに笑う。
それはもう一人の彼に比べたらやはりシニカルなものであったけれど
けれど…かつて、こちらに対して酷い行為を繰り返したいた頃の彼からは
考えられない姿でもあった。
(…幸せ、だな…)
その顔を見て、正直にそう思えた。
かつて、手を伸ばして「克哉」という存在がすり抜けていってしまった
頃からは想像も出来ない一時を過ごしている。
「あぁ、君は今は公私ともに私の大切なパートナーなのだからな。
言いたい事を抑えたり、取り繕っても今更どうしようもないだろう?」
そして、さもそれを当たり前のように口にする自分自身が一番
大きく変わったのだろう…と御堂は感じた。
目の前の存在を失うぐらいなら、全てを受け入れた方がずっと
マシだと思ったから。
奇妙な体験で距離を置くよりも、全てを受容する方を選んだ。
だから今、自分達は…こうして一緒にいられるのだろうと思った。
御堂はその瞬間、花が綻ぶように幸せそうに笑っていく。
それに導かれるように…克哉は、そっと御堂の方に手を伸ばして
静かにその体躯を改めて引き寄せていった。
「孝典…」
下の名前の方で呼ばれても、今度は彼を諌めなかった。
今はそちらの方で、呼んで欲しいと御堂自身も望んでいたからだ。
異なる極同士の磁石が引き合うように…ごく自然に、二人は再び
近づいていく。
そして、柔らかく唇を重ねて…その幸福感に、酔った。
一瞬だけ、思わず見惚れるぐらいに…強く、綺麗に克哉が笑っていった。
自信に満ち溢れた、顔。
それに頼もしささえ覚えていきながら…柔らかく御堂は微笑んで
応えていった。
相手の全てを受け入れる。
それは、異なる環境で育ち生きてきた人間同士にとっては簡単に
出来るものではない。
プライドや意地、そして様々な要素が邪魔をして…人間というのは
好きあっていたとしても、相手の存在に反発したり衝突してしまう事の
方が遥かに多いのだから。
けれど、自分と違う考えや行動パターン。
生い立ちや価値観、そして嗜好や何を好み、何を嫌うかは…人に
よって千差万別で。
「違う」のと「異なる」のが当たり前で、自分とまったく同じ人間など
この世の誰一人として存在しないのだ。
「同じ」である事を強要したら、人は孤独に生きる他なくなる。
だから、相手が自分とどれだけ異なる一面を持っていたとしても
その考えを尊重し、受け入れる事は…寄り添う上でとても大切なのだ―
「克哉…」
克哉もまた、静かに微笑み…そっと抱き合っていった。
もうじき、時間だ。
もう少ししたら…流石にこの会議室の外に出て、自分の部下達に
今後の方針をキチンと伝えなければならない。
これから、自分達がやらなければならない事は山ほどある。
この先にも困難や、辛いことは沢山待ち受けているだろう。
―それでも、大切な人間と共に歩んでいけるなら乗り越えていける
そう確信しながら、御堂は一時…その腕の中の暖かさに身を委ねていった。
―もう少しだけ…
御堂はそう願いながら、柔らかいキスと抱擁を受け入れていく。
窓の外は晴れやかな晴天。
そのまぶしさを自覚した時、御堂には何となく…もう一人の克哉が、
自分達の「今」を祝福してくれているような…そんな気配を静かに
感じ取っていったのだった―
それはゆっくりと、ぬるま湯から浮かび上がっていくようなフワフワして
落ち着かないような、心地良いような不思議な感覚だった。
窓の隙間から、鮮烈な一筋の光が差し込んでくる。
ベッドの上に仰向けになった状態で…その光景を確認していると
そっと手が、握られていた事に気づく。
その手の力はかなり強く、痛みを感じる程だった。
相手から注がれる眼差しも、それに負けない感じだ。
それがゆっくりと佐伯克哉の意識を覚醒させ、あの夢の中から
現実へと連れ戻していく。
「…御堂」
見なくても、その気配だけですでに判っている。
けれど確認するように、静かに克哉は呟いていった。
「佐伯…やっと、目覚めたのか…?」
御堂は、安堵するような息を吐きながら…そっと身を乗り出して
克哉の頬を愛おしげに撫ぜていく。
それに応えるように薄目を開きながら、克哉もまた…相手の頬へと
手を伸ばして優しい手つきで触れていった。
御堂は、髪型もほつれていて…服装も若干乱れたままだった。
いつもの御堂なら、きっと一分の隙も見せずにきっと整えているだろうに…
若干、崩れている事実が…こちらをそれだけ案じているのだろうと、実感
する事が出来てむしろ少し嬉しかった。
「あぁ…やっと、な。随分と長い事眠っていたような気がする…。
今は何時だ?」
「朝、六時だ。…昨日の夜、私を抱いてから…すぐに意識を失ってから
九時間くらいは経過している。その間、幾ら呼びかけようとも身体を
揺さぶろうとも…一切君が目覚める気配がなかったから、本気で心配
していたんだぞ…!」
「あぁ、悪かったな…。心配、掛けさせて…すまない…」
普段の克哉の睡眠時間は、四時間から五時間に掛けてくらいだ。
その事実に照らし合わせると…いつもの倍近くの時間、自分は昏睡
していたようだった。
確かに、随分と長い夢を見ていたような…そんな気分だ。
けれど…あの小さな子供のことも、そして…もう一人の自分のことも
全てが夢幻ではなかった事を、今の彼は理解していた。
夢の中での記憶が、一気に溢れて流れてくる。
その瞬間、彼は酷く晴れやかな気持ちになった。
―世界が、自分のことを受け入れて祝福しているような…そんな
暖かなものを、まぶしい太陽の光から感じ取っていく。
自分の中で欠けていた何かが埋まるような感覚。
失われていた自分という人間を構成するピースが…カチカチっと
嵌まっていくような、そんな感じがしていた。
それは…かつて、もう一人の自分が体験した感覚に似ていたが
似て否なるものでもあった。
自分の中で、何かが満ちる。
冷たかった心に、暖かいものが満ちていった。
―オレは、ここにいるよ…
一瞬だけ、優しい声音で…もう一人の自分が語りかけてくる。
それを聞いた瞬間、涙ぐみそうになった。
「…佐伯、どうしたんだ…?」
克哉の目が、僅かに涙を湛え始めていた事に気づいて…案じるように
御堂が声を掛けてくる。
それが、嬉しくて…今、自分の傍に心から愛しいと思った存在がいてくれる
事実に…一筋の、涙が零れて頬を伝っていった。
「佐伯…どうした、んだ…?」
かつて、自分を監禁して陵辱して非道の限りの行為を繰り返されていた時、
御堂はこの男には血も涙もないのだろうと思っていた。
その男が…どこか、切ない表情を浮かべながら涙を流しているのを見て…
心底、驚いていく。
「…あんたが、傍にいてくれるのが…本当に、嬉しくてな…」
二度と、手に入らないと思っていた。
自分にはこの人を想う資格などないと、そう思い込んでしまっていた。
ただこの人から逃げ続けたのは、そんならしくもない弱気な感情に負けて
しまったからで。
ただ、黙って想う資格すら自分にはないだろう。
そう心の奥底では罪悪に駆られ続けていた。
この想いは、受け入れられる事はなく…ただ、自分の胸を突き刺すだけの
痛みを伴うものでしかなかった。
けれど、捨てる事も消し去ることも出来ず…息づき続けていたその感情が、
報われた。
その事実が…冷たかった筈の男に、暖かなを芽吹かせていく。
「…佐伯。それは…私も、一緒だ…」
あのもう一人の彼に、切り替わって彼と接せられなかった時…御堂は
どれだけ絶望しただろうか。
もう一人の彼が、嫌いな訳じゃない。
最初の時点では驚いたが、今は…それもまた、彼の一面であるのだと
御堂は受け入れている。
あの…どこか儚く笑っていた方の彼を愛しいと想う気持ちもまた、御堂の中に
同時に存在している。
けれど…誰よりも焦がれ、欲しいと想ったのは…今、目の前にいる…
彼の方だったのだから―
そう伝えるように御堂は口角を上げて微笑んでみせる。
お互いに、胸が満たされるような気持ちを感じられた。
―その時、一瞬だけ克哉の脳裏に浮かぶ面影があった。
それはかつて、自分にとって大事だった人間の面影。
誰よりも信じていた、大切だった。
けれど…知らない間に彼に劣等感を植え付けて傷つけていて。
その事実を卒業式の日に突きつけられて、そして…自分は…。
―澤村…
黒髪の、少年の悲しそうな泣き顔が…嘲りながら、苦しそうな
そんな顔が…そっと浮かんで儚く消えていった。
封じていた、記憶が押し寄せてくる。
あぁ、そうか…と妙に納得した。
自分は、同じ過ちを犯そうとしていたのだと。
その事実を…やっと、理解した。
そして…どうして、もう一人の自分が必死になってこちらの背中を
押したのかも、全て見えて来た。
―自分の罪から幾ら逃れようと逃げ続けても、結局はいつかは
追いつかれて…飲み込まれる
なら、自分が犯してしまった過ちも…痛みも、受け入れて生きて
いくしかないのだ。
自分の存在をあの日、否定した。
そして心が真っ二つに割れてしまった。
傷つけたくないという想いと…あいつに復讐してズタズタに裂きたいと
思った自分。
そして後者の自分を押さえつける為に、克哉は…弱い方の自分を
あの眼鏡の力を借りて、表に出した。
けれど…そのせいで、澤村の事が絡んでいるそれ以前の記憶が曖昧となり…
もう一人の自分は、自信が持てずあやふやな存在となった。
(お前が…言いたかった事を、やっと理解出来た…)
今の克哉は、自分を確かなものに感じられる。
この人と真っ直ぐに向き合って、まったく怯む事はなかった。
互いに強い視線で…相手の目を覗き込み、強く強く…その手を握り締め
続けていく。
―どんな苦痛が伴う記憶も、みっともなく否定したい要素も…全てが
自分自身を構成するのに欠かせないピースなのだ。
一人の人間の中には、良い部分も悪い部分もひっくるめて内包されて
存在している。
それらの全てが、自分という一人の人間を作り上げている。
だが…人の心は脆弱で、全てを受け入れるには沢山の経験を積んで
己を見つめなければ到底出来ない。
自分は、かつての親友であった澤村を自分が自分であった為に深く
傷つけてしまっていた。
それが苦しくて、辛くて…そして、記憶を封じて逃げた。
けれどその為に自分達はバラバラになり…そして、弱くなったのだろう。
だが、今は違う。
(…お前は、確かに俺の中にいる…)
弱い部分を補うように、そっと内側から支えてくれているのが判る。
例え声が聞こえなくても、以前のようにはっきりと存在を感じられなくても…
静かに己の心で息づいて、自然と自分の中に溶け込んでいるのが判る。
だから世界を、真っ直ぐ見据える事が出来た。
そうなって初めて、克哉は…御堂への想いも、そして御堂から伝えられる
その愛も…確かに、感じる事が出来たのだ。
「…御堂、あんたに触れて…良いか…?」
優しく、微笑みながら克哉は問いかけていく。
「…そんな事、イチイチ聞かなくても良い。当然、だろう…?」
「あぁ、そうだな…」
そうして、柔らかく笑いながら御堂の背中に腕を回していく。
その瞬間、瞬くほどの間…御堂には、もう一人の彼の微笑みが…
重なって見えた気がした。
気持ちになれるだなんて知らなかった。
記憶を封じて、自分を切り離すことで押されたリセットボタン。
それが静かに…一連の騒ぎを経て、もう一度押されたのだ。
そのおかげで彼は…否定していた自分の中の要素も、記憶も
全てを受け入れた。
だからこの幸福を得る事が出来たのだ。
―己の中にあるものを否定している限り、他者を完全に人は
受容する事など出来ないのだ
受容していない内は、相手の中に…自分の否定したい感情を
時に投射して見出してしまう。
それは知らない内に起こり、それが悲しいすれ違いを時に生み出す。
人を愛すには…まず、自分を受け入れなければならないのだ。
その為に向き合い、目を逸らしたい過去にメスを入れて…何に傷ついて
いたのか、苦しんでいたのか…心の傷と向き合わなければならない。
その中に、答えは必ず潜んでいる。
愛という輝けるものも、きっと…。
「あんたは、暖かいな…」
人の身体の温もりを、この瞬間ほど愛おしいと感じられたことはなかった。
再会した当初、御堂に抱いていた罪悪感や後悔の念は…なかった。
それよりも遥かに強く、愛しいという想いだけが溢れて…克哉の心を
満たしていく。
「君の身体だって温かいぞ…。ふふっ、まったくおかしなものだな。あれだけ
私に酷いことをし続けた男なのに、こんな風に君を想える日が来るなんてな…」
自分達は、最悪のスタートを切った。
己の中に潜む本当の想いに気づかなかったばかりに、御堂から全てのものを
奪って廃人寸前にすら追い詰めてしまった。
だが、今…御堂も克哉を許している。
克哉も、ようやく…もう一人の自分の手助けを借りて、自分を許せるようになった。
だから、罪悪感という重苦しい枷が切れて…素直な気持ちでこの人に接して
その言葉を受け取ることが出来た。
「…あぁ、本当にな。…御堂、本当にすまなかった。…あんたを傷つけて、
その挙句に俺はずっと逃げ続けて、いたのに…それでも…」
「もう、良い…。再会してから見ていて、君がその件に関してどれだけ胸を
痛めて…苦しんでいたのか、迷っていたのか…充分に判ったから。
一時は本気で君を殺してやりたいぐらいに憎んだ。けれど…それ以上に
君を欲しいと、愛しいという想いが生まれてしまった。だから…」
そこで一旦、言葉を区切って…御堂ははっきりとした口調で告げていく。
「二度と、それを理由に私の元を離れるな。…君が私に飽きるなり愛想を尽かして
しまったのなら仕方ないと諦めてやるが、罪悪感を理由に君が再び私の元から
逃げるのなら…絶対に、許さないからな…!」
気迫すら感じられる、凄みの効いた告白だった。
だが、逆に…御堂の本気が感じられて、克哉は嬉しかった。
あぁ、自分はこの人のこの硬質な強さに、輝きに惹かれたのだ。
それが欲しくて、過ちを犯してしまった。
けれど…この人は真っ直ぐにこちらを見据えて、求めてくれている。
「あぁ、それを理由に…あんたの元から立ち去ったり、逃げるような無様な
真似は二度としない。それを…この瞬間に、誓わせて貰おう…」
そうして克哉は…もう一度しっかりと御堂の身体を強く抱きしめて…
口付けを落としていった。
世界が、光り輝いて希望に満ちているように感じられた。
その瞬間、幸せだった。満ち足りた気持ちだった。
そして…はっきりと、頭の中にもう一人の自分の声が聞こえた。
―おめでとう…『俺』…どうか、幸せにね…
あいつもまた、心から…自分の内側で見守って、祝福してくれている。
それを感じられた瞬間…克哉は、微かに涙を浮かべていく。
親友に裏切られた時、御堂を追い詰めながら想っている事実に気づいた時、
自分の存在を否定した。
『大切な人間を追い詰めるだけの自分なら存在しない方が良い…!』
その想いが彼を弱くして、幾つもの心に分かれてしまっていた。
だが、己の罪を真っ直ぐに見据えて、人に愛されること…肯定される事で
人は勇気を得られる。
そして…それには自分自身を味方に得る事が不可欠なのだ。
それを得た今、克哉は…自分を確かに、しっかりと強く感じる事が出来た。
だから、全ての境界線が曖昧になり…緩やかに一つに近づいていくのを
再び感じた。
柔らかく微笑むもう一人の自分が緩やかに溶けて、とても優しい気持ちが
ゆっくりと生まれてくる。
こんなに…穏やかな気持ちになったのは、果たして何年ぶりなのだろうか。
そう幸せを噛み締めていると…御堂が、そっと瞳を細めながら…克哉の
頬を撫ぜていった。
その仕草に促されるように、もう一度…意識が落ちる寸前に曖昧に伝えた
自分の真実を、口に上らせていく。
「…御堂、孝典。あんたを…心から、俺は愛している…」
やっと、真っ直ぐにこの人を見つめながら…言いたくて、言いたくて堪らなかった
一言を、告げていく。
「…あぁ、やっと言ってくれたな。私も…君を、愛している。…今の君も、少し
雰囲気の違う君の方も…どちらの、佐伯克哉でも…私も愛しているぞ…」
御堂もまた、全てを受け入れた上で…噛み締めるように告げていく。
その瞬間、自分の中でもう一人の自分が涙ぐんで喜んでいるような気がした。
たった一言、それで全てが報われたと…泣いている。
それに苦笑しながら、軽い嫉妬を覚えながら…それでもグイっと強く克哉は
御堂を改めて抱きすくめていった。
(まったく…お前は、本当に泣き虫だな…)
しみじみと心から呟いていくと、克哉は御堂への口付けを更に深くして…
その想いを伝えていく。
朝日が降り注ぐ光が満ちた室内で、二人は…身体も心も重ねて、想いを
確かめ合っていく。
どちらの、佐伯克哉でも関係ない。今の克哉も、今…心の中で生きている
克哉も結局は同じ人間なのだから。
そして、一人は現実で生きて。
もう一人はひっそりと…胸の中で生きて暖かく、愛する人ともう一人の自分を
見守っていくと決意した。
それぞれの役割を、納得した上で…『一人の人間』として彼らは生きていく。
傍には、心から愛してくれる存在がいてくれる。
克哉が自分の全てを受け入れた今だからこそ、御堂もまた克哉を許して…
リセットボタンを押す事を許してくれたのだ。
かつて自分の全てを奪って追い詰めた罪を、許し…再び、この日から
スタートを切る事を認めていった。
そう告げるように、御堂は…はっきりと告げていった。
―ここからが私と君の、新しいスタートだな…
と、静かに告げていった。
―あぁ、そうだな。記念すべき日になるな…あんたと、俺にとってな…
克哉もまた、優しく微笑みながらその言葉を肯定していく。
その瞬間、柔らかく…もう一人の彼が溶けているのを御堂は感じた。
違和感なく、ごく自然に…バラバラだった何かが静かに溶け合い…一つに
重なり合っているのを静かに感じた。
じんわりと広がるような幸福感と、優しい一時が二人に訪れていく。
その幸福を噛み締めながら…克哉はただ、愛しい人間の体温を深く、深く
感じ取り続けていった―
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当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)
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…一言報告して貰えると凄く嬉しいです。