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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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―佐伯克哉が、就業時間後に本多憲二に呼び出しを受けたのは
今から二週間程前。
 御堂がMGNを退社したと聞かされてから二週間以上が経過した
頃の話だった。

 その日の夜も、夜空を曇天が覆っていて酷くすっきりしない
空模様であった。
 すでに12月の初旬に差しかかろうとしていた時期だったので、
扉を潜って屋上に足を踏み入れた時、外気がとても冷たく…
こちらの身を引き裂くようであった事を良く覚えていた。
 吐く息が白じむ中、克哉は…先に待ち合わせの場所を訪れていた
本多に向かって軽く微笑んで見せていく。

「…こんばんは。少し待たせちゃったかな。…今日も外回り、お疲れ様」

 正直、この時期の克哉は…まだ御堂が突然、MGNを退社した事。
 それによって今までの自分達の関係がなし崩し的になかったものに
された事に対してのショックが色濃かった。
 それでも心配させまいと気丈に笑みを見せて、挨拶を交わしていく。
 だが本多は…そんな彼の気遣いが、却って苦しいと言わんばかりの表情を
浮かべながらそっと克哉の方へ向き直っていった。

「いや、良いぜ。むしろ…俺の方が、お前を急に呼び出した訳だし。
…ほら、あったかい缶珈琲買っておいたぜ。少なくともホッカイロの
代わりぐらいにはなるだろ…」

「あ、ありがとう。寒いと思ってたから丁度…」

 良かった、と言おうとして渡された缶の銘柄を見て苦笑していく。
 其処には思いっきり「ミルクたっぷりカフェオレ。ほんのりとしたマイルドな甘さ」
と書かれていたのに気づいて苦笑したくなった。
 克哉は正直、あまり甘いのが得意ではない。
 珈琲ならノンシュガーか、もしくは微糖程度の物なら嬉しかったのが本音だが
ホッカイロ代わりに使うならそれで差し支えないだろう。
 後で片桐か、八課の別の女の子辺りにでもこっそりと譲ろう…と考えて
いきながらそれをそっと懐にしまっていった。

「それで…どうしたんだ? いきなりオレを呼び出しだなんて…。
何か話したい事とか、他の人に聞かれたくない相談事でもあったのかな?」

「いや…俺がお前に相談事があるんじゃなくて…その…」

 いつもはっきり白黒をつけたがる性分の本多にしては、歯切れの悪い物言いで
克哉は少し怪訝そうな顔を浮かべていく。
 言いよどむその姿は、言葉を選んでいるかのようだった。
 だが…いつまでもまごついていても仕方ない。
 彼は考えが纏まると、言いづらい事を直球で問いかけて来たのだった。

「…率直に聞く。なあ…克哉、お前は御堂と何があったんだ? あいつが
消えたっていうのなら…八課在籍の俺たちにしたら、本来ならあのムチャクチャ
言って来る奴が消えたことを喜ぶべきなのに…どうして、ずっとお前は
浮かない顔をし続けているんだ…?」

 ふいに、真っ直ぐに瞳を覗き込まれていきながら…図星を突かれて
克哉が瞠目していく。
 その反応を見て、本多は苦々しく溜息を突いていった。

「…そ、んな事ないよ…。御堂さんが辞めたことと、オレが落ち込んでいるのは
深く関係なんか…ないから」

「嘘だな」

 克哉の言い訳は、あっという間に本多に一刀両断されていく。
 それで余計に、何を言えば良いのか判らなくなってしまった。
 二人の間に沈黙が落ちていく。
 何とも言いがたい硬直した空気に…克哉は本気でどうすれば良いのか
判らなくなってしまった。

(本多に…オレと、御堂さんとの間に何があったか何て…口に出して
言える訳がないじゃないか…。オレだって、正直混乱しているのに…)

 けれど、そんな誤魔化しは許さないとばかりに…本多の目は
真っ直ぐにこちらを見つめ続けてくる。
 そうだ、この目だ。やましいことがあると…本多の実直で情熱的な
性分はこちらにとってはもっとも厄介なものとなる。
 
 大学時代からこちらの事を知っている同僚に、どうしてあんな
出来事を話せるというのだろうか。
 最初は嫌がらせを散々受けて、脅迫されたも同然の形で身体の
関係を持つ事になり…それを何ヶ月も続けられている内に会えない事が
切なくなってしまっているだなんて。

 あんな風に辱められて、貶められて。
 半ば犯されるように何度も身体を貫かれたことすらある。
 一歩間違えばこちらの社会人生命すら脅かされるような振る舞いを
受けたにも関わらず…そんな男に会いたくて、会いたくて気が苦しそうに
なっている事実なんて、どうして話せるというのだ!

 ふっとそこまで考えて…克哉は、つい感情が昂ぶって…瞳から
涙を潤ませていってしまった。
 そんな事で涙を流す自分が情けなくて、みっともなくて…余計に惨めに
感じられてしまった。
 逆に本多は…いきなり、危うい表情で…克哉が泣き始めたことに大きく動揺
してしまったようだ。
 鋭い眼差しが見る見る内に…動揺が滲み始めて、急に情けない表情に
なってしまっていた。

「わっ…克哉! どうして、泣くんだよ…! お前にとってそんなに…御堂との
事は辛いことばかりだったのか? 思い出したら泣いてしまうような…
そんな扱いをお前はあいつに受け続けて来たっていうのかよ!」

「ちが、う…そんな、事…ない!」

 泣きじゃくりながら、必死になって克哉は否定していく。
 御堂と過ごした全ての時間が…嫌なものじゃなかったからこそ、克哉は
混乱してしまっているのだ。
 本当なら、あんな風に扱われて悔しい筈なのに。屈辱的な筈なのに。
 それなのに…十日会えないだけで、あの人のマンションの前に大雨の中で
立ち尽くしながら待つなんて振る舞いをしてしまった。
 あの人が辞めた、と聞かされてからは心が避けそうで…同時にぽっかりと
大きな空洞が空いてしまったようで、どうすれば良いのか自分の心を
持て余し続けているのだ。

「全部が、嫌な訳じゃなかった…だから、その…ぽっかりと大きな穴が
空いてしまっているみたいで…どうすれば良いのか、判らないんだ…!」

 そう、呟いていると…御堂の事を語っていると…更に自分の意思と
関係なく…涙が零れ続けていく。
 嗚呼、まるで今の自分は御堂の事に関してだけ、涙腺とか理性が
ぶっ壊れてしまっているみたいだ。
 とめどなく…詰問されるだけでこんな風に泣くなんて。
 あまりに情けなくて、必死になって…袖でゴシゴシと涙を拭っていく。

「…克哉…」

 本多は、その様を見て大きなショックを受けているようだった。
 長年の付き合いである克哉がこんな風に…自分の前で大泣きを
している姿を見たのはこれが初めての経験だったので…本多自身も
どんな対応をすれば良いのか呆然として判りかねているようだった。

「御免…本多が、オレの事を心配して…今夜、ここに呼び出した事は
判っている。けど…お前が聞きたいことって、オレにとってもまだ…
正直整理仕切れていないもので…どう、答えれば良いのか…まだ、
判らないんだ…。だから…!」

 そう言って、泣き顔を隠すように俯いていきながら克哉が踵を返していく。

「ちょっと…待てよ! 克哉…!」

 相手が立ち去る気配を濃厚に感じて、慌てて本多が引き止めようとその肩に
指先を伸ばしていくが…寸での処で掠めるだけで、すうっとすり抜けていく。

「御免、今は聴かないで…おやすみ…」

「…っ!」

 その時、見た克哉の泣いているような…笑っているような、儚い表情を
目の当たりにして本多は言葉を失っていった。
 余りのショックに、声すらまともに出ないくらいだったのだ。
 切なくて…儚くて。見ているだけで男の庇護欲を酷く掻き立てるような
そんな顔しながら…立ち去られて、こっちに一体どうしろというのだろうか…!

「待てよ…! 克哉…!」

 だが、克哉は振り返らない。
 バタン、と大きく音を立てて屋上の扉が閉められていくと…その広々とした
空間には本多一人だけが取り残されていった。

「…あんな顔、見せておいて…俺に放っておけっていうのかよ…馬鹿、野郎…。
俺ら、仲間じゃなかったのか…。ダチが、辛そうにしているのに…放っておけって
いうのかよ…!」

 拳に爪が食い込むくらい強く、強く手を握り締めていきながら呟いていく。
 どうにかしてやりたかった。
 せめて聞き役になる事で…少しは楽にしてやりたかった。
 そういう意図で呼び出した筈なのに…今夜の邂逅は、御堂に対しての
疑念を一層深く強めるだけだった。

「御堂の野郎…克哉に一体、何を言ったんだよ…! あいつを、あんな顔を
させるような…内容を…」

 本気の怒りを込めながら、空を仰いでいく。
 その夜…本多は、せめて克哉の傍にいて少しでも…楽にするように
努力することを誓っていく。

 …その想いが、予想もつかない流れを引き起こしてしまうことなど…
まったく思いもせずに、彼はただ…大切な友人の事を想い続けていたのだった―

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 ―雨の音を聞く度に思い出す
  あの日、窓の下で立ち尽くしていた君の姿を
  私を待っていた君の元に私が駆け寄っていたのならば
  …君との関係は、今とは大きく変わっていたのだろうか…?

 声を掛けようか迷っていた。
 そうして葛藤している間に、君の姿を見失った。
 あの日から消えない後悔の念
 それなのに途切れてしまった関係を取り戻したいと願う私は
 もしかしたら浅ましいのかも知れない―

 御堂孝典は、キクチ・マーケーティングのビルに一人、立ちながら…
1ヶ月前の出来事を反芻していた。
  11月の冷たい雨の日の記憶。
 それと同時に、いつの間にか消えてしまった佐伯克哉との関係。
 MGNを去ったのを機に、もう彼とは関わるまいと…一度は思った。
 忘れて、お互いに今までの日常に帰ろうと考えた。
 だが、雨が降る度に過ぎる…あの日の克哉の姿に、どうしても…
御堂は後ろ髪が引かれる想いがして、結局…こうして、今日は彼が今でも
勤めている会社の前まで足を向けてしまった。

「18時…か…」

 普通の会社なら、残業さえなければとっくの昔に退社していても
おかしくない時間だ。
 御堂が今勤めている会社でも、17時半が基本退社時間なので…アポなしで
この時間帯に訪れるのは、入れ違いになる可能性があるのは判っている。
 けれど仕事の関係上で、この近くに来た時に…知らない間に、この会社の
方へと足が向いてしまったのだ。

(今更…どんな顔して、君に逢えると言うんだ…?)

 かつて、彼に対して酷い振る舞いをしていたという自覚はある。
 あんな風に半ば脅迫じみた形で身体の関係を持って、犯して。
 何度も何度も、それを繰り返し続けていた。
 そんな男が、今更…逢いたい、などと言って再び顔を出したら
どんな顔をするのだろうか。

「今更…図々しいと思われるのがオチだな。彼の中ではきっと…私に対しての
印象は最悪、だろうからな…」

 自嘲的な笑みを浮かべていく。
 MGNを退職して、新しい職場に勤め始めてから…まだ日が浅いせいも
あるかも知れない。
 感傷的になっている自分に気づいて、苦笑したくなった。
 何故、もう一度…克哉に会いたいと願ってしまったのだろう。
 あの日に、どうして…声を掛けれなかったことをこんなに悔やんでいるのだろう。

 雨雫が、絶え間なく傘を伝って地面に落ちていく。
 自分がMGNを退社するキッカケが起こった日も、こんな風に大雨が降り注いで
いた夜だった。
 あの雨の中、どうして…君は、私を待っていたんだ?
 それともあれは他の誰かで…私は都合の良い解釈をしているだけの
話なのか?
 
 それをはっきりさせたくて…目立たない位置に立ちながら、ただ…玄関の
方へと目を向けていく。
 佐伯克哉は、もう帰ってしまったのだろうか?
 ここへは…無駄足を踏んだだけだったのだろうか?
 そんな事を考えて、この場からもう立ち去るか…否かを迷い始めていた
その時、待ち人の姿が現れていった。

「あっ…」

 思わず、声が漏れた。
 一ヶ月ぶりに、克哉の顔を見たせいだった。
 憂いを帯びた顔をしながら…キクチ・マーケーティングの玄関の処に
立って、傘を広げていく。
 容姿が整っているせいだろうか…そんな姿も様になっている気がしてつい
見惚れていく。
 久しぶりに見た克哉は…妙に色香が漂っているような気がした。
 気だるげな仕草に、伏せられた瞼。
 小さな動作の一つ一つにさえ…妙に目を奪われてしまった。

(…気のせいか? 酷く佐伯が…色っぽく見える気が…する…)

 つい、克哉を凝視してしまっていた。
 こちらの目線に気づいたのだろう。
 暫くすると…克哉がふと、こちらの方を振り向いて…瞳を大きく
見開いていった。

「…っ!」

 信じられないものを見たような、そんな顔をされて…御堂はすぐに
ハっとなっていった。
 彼を一目みたいという想いで…ここまで来てしまったが、彼と会話を
するまで心の準備が出来ていなかった。
 御堂自身も、どうしてここに足を向けてしまったのか…自分の本心が
判らない状態だったからだ。
 だから、逃げるように踵を返していく。

「待って下さいっ…!」

 背後から、克哉の呼び止める声が聞こえた。
 だが、それを振り切るように…背を向けたまま足を進めていく。

「御堂さん、でしょう…! 待って、下さい…!」

 そうして克哉が御堂を追いかけようと駆け出し始めたその時。

「御堂がどうしたんだ…?」

 大きな声を出しながら、克哉の肩を掴んで足を止める一人の
男がいた。
 克哉の大学時代からの友人であり、同僚でもある本多だった。

「えっ…いや、その…」

「あいつが、来ていたのか…?」

「う、うん…」

 克哉が、言いよどんでいる隙に…御堂は、その場を離れていく。
 だが、その心は落ち着かないままだった。
 ほんの少し、他の男が克哉と話している姿を見るだけでも…どうして
ここまで心が掻き乱されているのか、自分でも不思議だった。

 距離を置いたせいで、それ以上の彼らのやり取りが御堂の耳に
届くことはなかった。
 けれど胸の中にぽっかりと…空虚なものが広がっていく。

「克哉…」

 知らず、彼の名を呟いたが…その優しい呼びかけは、大きな雨音によって
掻き消されていってしまう。
 何故か、心が酷く切なかった。

 ―それから数日後、彼は…一通のメールを克哉に送信していく
 そうして再び、御堂と克哉の交流はゆっくりと再開していったのだった―

 

 
  
 ―あれから三年の月日が流れた。

 佐伯克哉は黒いバーテンダーの制服に身を包みながら、自分が勤めている
バーの閉店準備の為に、店中を動き回っていた。
 落ち着いたシックな雰囲気のバーだった。
 照明は控えめで仄かに薄暗く、静かなBGMが邪魔にならない程度に
流れ続けている。
 カウンター席とテーブル席、合わせて30~40人程度座れる中規模な
大きさの店内を、克哉はともかく…掃除用具を片手に、丁寧に最後の
清掃を施していた。

「ふう…こんな物かな…」

 店には、すでに克哉一人しかいない。
 店長を含めて、他の従業員はすでに帰宅してしまっていた。
 この店の終業時間は午前2時だが、時計の針は…もうじき午前三時を
さそうとしていた。
 真面目な性格の克哉は、清掃に関しても手を抜かない。
 そういった彼の気質を店長は高く買ってくれていたので…今の克哉は
この店のマネージャーを勤めるようになり、店を閉める為に、鍵も信頼
して任されるまでになっていた。
 一通りの清掃が終わって、掃除用具を片付けていくと…深く溜息を
突いていく。
 今日も一日、無事に終わったことに関しての安堵の息だ。

(三時になったら…帰る準備をしよう…)

 ホウッと一呼吸していきながら、克哉はカウンターの傍らのスツールに
腰を掛けて…そっと寛いでいった。
 
(この店に勤めるようになって…そろそろ、三年か…)

 ふと、そんな感傷が胸の中に湧き上がって来ている事に気づいて…
克哉は軽く目を伏せていった。
 もうそれだけ、時間が流れたことに関して…時が過ぎていくのは
あっという間だと…つくづく実感しながら、ふと彼は思考に耽っていった。

 あの日、もう一人の自分を失い…太一と決別した翌日、克哉は…
東京都内にある片桐の家の前まで運ばれた。
 元々、Mr.Rは…かつての職場や、実家がある関東方面に向かって
車を走らせていたのだが…片桐の家を選択したのは、かつて自分の
上司が語ったある一言を鮮明に思い出したからだった。

―僕はね、とても大切な人を亡くしたことがありますから…。

 それは、八課での飲み会の時に…片桐が酔った拍子にボソリと
呟いた一言だった。
 泣きそうな顔で、切なげにそう言った上司の一言に驚いて…その時の
自分はそれ以上突っ込んだ事は聞けなかった。
 だが、眼鏡を失くして…深い喪失感に苦しんでいた克哉は、何故か
そのやりとりを思い出して…まず、片桐に話を聞いて欲しいと思ったのだ。
 大切に思っている誰かを失くす。
 そんな体験を、判って欲しかった。聴いて欲しいと思った。
 だから…家族でも、本多でもなく…片桐の元に戻る事を選択した。

 暫く音沙汰が無かった克哉が急に訪ねて来ても、片桐は歓迎してくれた。
 そして…全ては流石に話せなかったが、やや架空の事情も混ぜながら…
克哉は片桐に沢山の話をした。
 ヤクザの家に監禁されて、というのと…最後に銃撃戦を繰り広げたという
事情は隠したが、ある程度…現状を包み隠さず話して、片桐に…暫くこの家に
居候させて欲しいと願い出た。

 克哉にはお金も、何もなかった。
 あの別荘を出た時、幾許かの金銭と…身一つ以外、何もなかったから。
 本来なら実家に頼るのは一番だろうが、五十嵐組の人間があれからどう出るか
まだ読めてない段階だったので、まだ顔を出すのは早計な段階だった。
 本多の場合だと、逆に親しすぎてマークの対象になっている可能性があった。
 片桐の場合、信頼出来る距離にいて近すぎない…という位置にいた為に
当時は、彼の家に暫く厄介になるのが確実だと判断した。
 …そして、一人で一軒屋で暮らしている片桐は快くそれを承諾してくれた。
 金銭面で絶対に負担を掛けて迷惑を掛けたくなかったので…カクテル作りに
興味があったし、待遇面でも良かったので…この店に応募をして、勤め始めた
のも大体同じくらいの時期だった。

 それから一年、貯金が出来るまでは…片桐の好意に甘えさせて
貰いながら…克哉は、徐々に本多や、実家の家族…大学時代の友人達と
少しずつ、一旦は断ち切った人達との交流も復活し。
 自分の居場所を取り戻した克哉は…目の前の事に精一杯に取り組んで
生きていった。
 克哉がしっかりとすれば、早く…もう一人の自分とも再会出来るかも知れない。
 ただそれだけを頼りに…克哉は、あの日からがむしゃらに生きて来た。

「三年、か…」

 もう一度、そっと目を伏せながらしみじみと呟いていった。
 元々…オリジナルカクテル作りの趣味があったおかげで、予想外に
克哉はこのバーテンダーという職種に馴染むのが早かった。
 最初の頃は…未知の職業に飛び込む事に対しての不安は当然あったが
まず、稼がないといけなかったのと…前の会社を辞めてから一年半以上が
経過して、その空白の期間を敢えてうるさく問われそうにない職種を選んだら
結果的に夜の仕事しかなかった訳だ。
 それでも…元々、人当たりが良く必要以上に他人に干渉しない性分の
克哉は…思いの他、夜の街に馴染むのが早かった。
 様々な人の人生に触れ、一度は断ち切られた周囲の人間との交流を
取り戻した事で、克哉はしみじみと実感していた。

―人は一人では生きていけない事を…

 誰かを愛した時、その人間と二人きりで生きられたらと…つい望んで
しまうのは恋をした事があれば誰もが思う事だ。
 けれど、それを太一が実行に移したことによって…その実害を知って
からは…克哉は人を愛すること、ちゃんと恋愛するという事は本当に
難しいことを実感していた。

 周囲の人間と繋がり、その輪の中で…自分は生きているという事を
一度失ったからこそ、実感出来た。
 人との関わりを失くして、社会性を失くした恋愛は…太一と自分に
関わらず、どんな人間同士でも上手く行かないという事を…この
職業に就いて、色んな人の実らなかった恋の話を聞く度に
改めて思い知らされていた。

 この三年間…そうして身の上話をするついでに克哉に色目を使ってきたり、
男女問わずにアプローチを掛けて来た人間は沢山いた。
 けれど、心の中に克哉には待っている人間がいた。
 だからその事をはっきりと伝えた上で…克哉は、誰とも付き合うことは
しなかった。
 その中に、再会した本多も含まれていたけれど…どんな人間に想いを
寄せられても、克哉の答えはもう変わらなかった。

―あいつを、待つと…。

 その答えを、克哉はこの三年…しっかりと抱いて生きて来た。
 けれど…今夜に限って、それが無性に…寂しかった。

「…あいつ、いつになったら帰って来るんだろう…。何年掛かっても
必ず戻って来るって言った癖に…俺の中で眠ってるのなら…一言くらい、
教えてくれれば良いのに…」

 そう、あの日から…もう一人の自分は眠り続けている。
 克哉を庇って、銃弾を胸に向けたもう一人の自分は…幻のように
姿を消して、必ず戻って来る。だからお前は生きろ、と言い残して…
静かに眠りについた。
 ずっとその日から、何かの拍子にあいつの声が聞こえて励まされる
事は多々あった。
 けれどいつも聞こえる訳じゃないし…かつてのように触れ合える
訳ではない。
 それが無性に寂しくて、つい…カウンターに突っ伏して…克哉は
ギュっと自分の身体を抱き締めていった。

―早く、会いたいよ…! お前に…!

 その日だけを願って、克哉は生き続けた。
 彼と再会出来る日、それだけを願って。
 その瞬間…扉が、勢い良く開け放たれた。

 バァン!!

 その大きな音にびっくりしてカウンターから身体を起こしていくと
扉の向こうに人影が立っている事に気づいて、とっさに声を掛けていった。

「あ、すみません…もう、うちの店は…」

 閉店しているので、と続けようとした瞬間…口を噤むしかなくなって
しまった。信じられないものを見たからだ。

「ど、して…」

 フルフルと、肩と唇が大きく震えていった。
 今…目の前に在る光景が本当かどうか、疑いたくなった。
 とっさに、涙が零れそうになった。
 信じられないと…目の前に立っている相手を食い入るように凝視して、
しっかりと見つめていく。
 最初は幻かと疑った。
 けれどその人物は…コツコツ、と硬いリノリウムの床をしっかりと踏みしめて
こちらの方へと歩み寄って来る。

「…まさか、俺が判らない訳がないだろう…? 随分と…その黒いバーテンダーの
服装、似合っているじゃないか。見ていて…そそるぞ?」

 強気に微笑みながら、サラリと彼は際どい事を口にしていく。
 その物言いで、確信していった。
 今度は克哉の方から間合いを詰めて…駆け寄っていく。

「バカッ! 再会して最初の一言が…それかよ!」

 今度は、もう涙腺が壊れ始めていった。
 そのまま勢い良く目の前の男性の胸に飛び込んでいく。
 懐かしい匂いと温もり。
 それは幻ではなかった。確かに現実だった。
 嬉しくて嬉しくて、いっそ気が狂うんじゃないかって思うぐらいの
歓喜が…克哉の胸の中に湧き上がっていった。

「…そうだな。照れ臭くてつい、こういう物言いになってしまった。
…約束どおり、戻って来たぞ…」

「…うん、ずっと…待ってた…」

 泣きながら、克哉は…ただ、真っ直ぐにもう一人の自分の姿を
見つめていった。
 間違いなかった。自分と寸分変わらぬ容貌に、体格。
 紛れもなく…もう一人の自分だった。

「…嗚呼、知っている。お前がずっと…俺に操を立ててくれていた
事もな…。ま、お前の中に眠っていたんだから…その辺に関しては
すぐに判ってしまう事だがな…」

「そうだね…だから、浮気なんて…考えなかった。お前が約束を
果たしに…オレの元に出て来てくれる日を、ただ待ち続けていたよ…」

 泣き笑いの表情を浮かべながら、ギュウっと強く克哉は抱きついていく。
 たったそれだけでも、幸せだった。
 こんなに、自分はこいつの事が好きであったことを思い知る。
 そんな眼鏡もまた…克哉を強く、強く抱き締めていった。

「…本当に、お前は馬鹿だな。俺を待ち続けるなんてな…」

「…しょうがないだろ。本気で…お前の事、好きなんだから…」

 拗ねたように呟いて、相手の胸に顔を埋めていくと…もう一人の自分が
喉の奥で笑いを噛み殺しているのがすぐに判った。
 その事実に不貞腐れたが、そっと眼鏡に…人差し指で顎を掬われて、
顔を上に向かされていくと…少しだけ機嫌が直っていった。

「…嗚呼。誰よりも知っている。そして…俺も、同じ気持ちだ…」

 声の振動が、唇に伝わるぐらいの距離で…そんな事を、大好きな
人間に囁かれたら、克哉とてもう抗えない。
 そのまま…静かに、目を伏せて…二人は再会の喜びを噛み締めながら
そっと唇を重ねていった。

―本当に、生きてて良かった

 愛する人間の腕の中に包まれて、口付けを交わした瞬間に…
克哉は心からそう思った。

 生きている事は、綺麗ごとでは済まされない。
 時に辛い事も、汚泥を飲んで生きるような想いをさせられる事もある
 だが、生きているからこそ…人は、時に大きな喜びを享受出来るのだ。
 死ねば其処で全てが終わる。
 生きているからこそやり直せるし、道を正して…過去の過ちを生かして
前に進むことも可能になるのだから

 彼がいなくて、辛かったし寂しかった。
 どれ程強く再会を願ったか、会えない夜を苦しく思ったか
数え切れないくらいだった。
 だが、この瞬間に…全てが報われた。

 つかの間でも良い。
 心からの喜びを覚えることが出来たのなら。
 全力で生きて、誰かを愛すことが出来たのならば…
人は真の幸福を得ているのだ。
 かつて克哉の中に巣食っていた死への渇望が…その
歓喜によって照らされて消えていく。
 生への喜び。本当に心から想う人間と再び、こうして抱き合うことが
叶って克哉は本当に…生きていて良かったと思った。
 それは鮮烈なまでの光となって、彼の中で輝いていく。

 沢山の涙が、零れていく。
 そんな克哉の滴を、そっと眼鏡が優しく拭っていった。

「…お前、本当に泣き虫な所は変わっていないな…」

 心からの愛しさを込めて、眼鏡が呟いていく。

「…うるさい。誰のせいだと…思っている、んだよ…」

 そう言いながら、目を細めて…その優しい指先にそっと
身を委ねていく。
 3年前、彼の傍に在った時も確かに自分は沢山の涙を
零していった。
 けれど、今は違う。あの時は葛藤したり悲しみや苦しみの
発露の為だったけれど…これはあまりに強い歓喜を覚えているから
こそ、零れているものなのだ。

「お前に会えて、ムチャクチャ嬉しいから…勝手に流れてくるんだよ…。
文句言われても、止められないよ…」

「文句言う訳ないだろ…? それが、俺との再会を喜ぶ涙…ならな?」

 そう、悪戯っぽく笑いながら啄ばむような口付けを額や頬に、静かに
落とされていく。
 くすぐったくて、甘ったるい感覚が全身を走り抜けていった。
 目を閉じて、享受していくと…背中全体を優しく優しく、撫ぜ擦られた。
 会いたくて堪らない人間の腕の中にいて、こうして触れられている事は
どれだけ幸せな事だったのだろう。
 一度は失ったからこそ…その幸福を、克哉は改めて噛み締めていく。
 そう、人は…傍にある時はなかなか気づけない。

 周囲にいた人間も、眼鏡も…克哉は一度は失った。
 だからこそ…それが掛け替えのないものであった事を今は噛み締めている。
 空気のように当たり前になって、自分を包んでくれている時は…人は
大切なものの有り難味を忘れがちになる。
 けれど、失くすことによって…やっと判るのだ。
 自分の傍に当然のようにある幸せが、どれだけ貴重なものなのか。
 それによって、自分の基盤や在り方が大きく左右されている事に…
なかなか、人は気づけないものなのだ。

 こんなに、この温もりが愛しいものだと…三年前の自分は、そこまで
気づけていなかった。
 だから強く抱きつきながら、胸いっぱいに息を吸い込んでいく。
 それからそっと顔を上げていくと…優しくこちらを見つめてくる、眼鏡の
視線とそっとぶつかっていった。

 訪れる心地良い緊張感。
 それがくすぐったくて、嬉しくて…静かに目を伏せた状態で互いに
顔を寄せていく。
 
―愛している

 お互いの唇から、同じタイミングで紡がれていく。
 最初、それを聴いた時にお互いにびっくりして目を見開いた。
 それがおかしくてクスクスと克哉が笑っていくと…もう一人の自分が
少しだけムっとした顔を浮かべていった。
 それが余計に、微笑ましくて…とびっきりの笑顔を浮かべながら
そっと克哉は囁いていった。

―お帰り、『俺』…

 と、本当に心から嬉しそうな笑みを浮かべて…克哉はぎゅうっと
もう一人の自分の身体を抱き締めていく。
 そんな彼を、眼鏡は…しょうがないな…と小さく呟きながら、とても
優しい顔をして…そっと克哉を抱き寄せていったのだった―


 
 ―音楽には作り手の魂や想いが込められている
 長く長く語り継がれて、人の心に残る歌は
 紡ぎ手が多くの感情を其処に織り込んでいるから
 だから聴く者の心を震わせて揺さぶる
 作り手にとって、それは自分の日記帳にも等しい
 その時の喜びも興奮も、その中にぎっしりと詰まっているのだから―
  
 克哉と決別した日から、三ヶ月が経過していた。
 その間の太一は、五十嵐の本家で半ば抜け殻のようになっていた。
 最初は克哉を諦めて、部下達の言葉に従って戻ってくれたことに
喜んだ者達も…それ以後の太一の覇気の無さぶりを見れば、
あれだけ疎ましく思っていた克哉の存在すら懐かしくなる程だった

 日長一日、魂が抜けたようにボーとしている事が多くなり。
 感情的に不安定になって、部屋に閉じこもりがちになった。
 その状態が一週間続いた時には、周りの人間は心配したが…
どれだけ浮かない顔をしていても、声を掛けてもイマイチ反応がない
状態でも…部屋の中から昔のようにギター音が聞こえるように
なってからは、ほんの少しだけ安心し始めていた。

 愛する人間との決別。
 発信機をつけていると言っても、ヤクザと深いつながりがあると
言っても太一が持っていたタイプのでは有効範囲は直径1キロ前後までしか
なかった。
 海に落ちた克哉は、どれだけ捜索を繰り返しても見つからず
 結局、生死すら判らないままでいた事が、太一には辛かった。

 ギターピックで何度も何度も、愛用のギターの弦を弾いていく。
 指を動かす度に、感情が音という形になって溢れ出しているかのようだ。
 最近になって、ようやく…自らの内側にある音楽を紡げるぐらいまでに
回復していた。

 高音域で紡がれるメロディは、とても澄んでいた。
 この音を出せるぐらいに戻るまで、どれくらい苦しんだか…それを
思い出すとつい自嘲的な笑みが浮かんでいった。
 
「…やっと、ここまで手も、心も回復したか…」

 一通り調弦を済ませて、最近作った新曲を練習し終えた後…
うっすらと汗を滲ませながらしみじみと呟いていった。
 季節はすでに初秋を迎えようとしていた。
 手元に引いたコード表に目を落としていきながら…ようやく彼は
満足げな笑みを刻んでいく。

(絶頂期に比べれば全然劣っているけど…最近になってようやく、
少し音楽やっていた頃の楽しさを思い出せて来たかもな…)

 克哉にもう一度、音楽をやって欲しいと。
 そう最後に言われた事を機に…太一は再び、ギターを握る
ようになった。
 だが…最初の頃は本当に少し触るだけで、指が鈍ってしまった事や
ムカムカと湧き上がる不快感に耐えられず何度も中断した。
 だが、それを繰り返している内に…自らの心に沈んでいた澱が
ゆっくりと浮かび上がり、浄化されていくような想いがした。
 そして、楽しさを思い出した今だからこそ…思い知る。
 何故、自分が克哉を監禁していた時に…こうやって音楽を
楽しむ事が出来なくなったかを…。

―俺、本心に気づきたくなかったんだな。音楽をやっていると
嫌でも…自分の心に向き合わないといけなくなるから。
 克哉さんを失うのが怖くて、いつも不安で…そんな心を直視
したくなかったから…俺は、音楽が出来なくなったんだな…

 やっと、その事実を認められた。
 あの日、眼鏡に指摘された時には激昂した。
 馬鹿にするな、と思っていた事が事実であった事に気づいて…
太一は苦笑していく。

 今の自分は、憑き物が落ちたかのような気分がした。
 克哉の全てが欲しくて、支配できていなかった頃は…ただ、不安や
焦燥ばかりを感じていた。
 心の中にぽっかりと大きな空洞が出来てしまったいたけれど…
同時に、どこかで平穏を取り戻せたのも本当だった。
 克哉はもしかしたら、死んでしまったのかも知れない。
 その事実が胸を鋭く刺すのと同時に、どこかで楽なったと
安堵している部分があるのは否めなかった。
 愛する人が死んでしまうのは辛い。身が切られる程に…。

―だが、永遠にいっそ手が届かないと思えば諦めがつくのも事実だった。

 太一の手元から、奏でられるのは鎮魂歌(レクイエム)
 まず、最初に彼が着手したのは…それだった。
 実際の処、克哉の生死は未だに判らない。
 敢えて、あの周辺以外を部下達に探らせなかったというのもあるが…
あの日、克哉は飛び降りる寸前…「自分の事は死んだと思って欲しい」
みたいな事を言っていた。
 だから彼は…まず、この曲を作ったのだ。
 自分の中で克哉を死んだと納得させる為に。
 …あの人への強い執着を、自らの手で断ち切る為に…。

(ある意味、これ以上ない形で振られたからな…二度と俺の元に
戻るつもりがない、と言われて目の前で…飛び降りる真似なんて
されたら、もう…追いかけられる訳ない、じゃん…)

 自分が追いかけて、追いかけて求め続けた結果…克哉が出した
結論がそれならば、もう太一は求められなかった。
 今でも自分の中で、狂おしいまでに克哉を求めている部分が
存在している。
 だが、それを断ち切る為の鎮魂歌だ。
 そう、これは…克哉に捧げるのではない。
 自分の荒ぶる魂を宥める為の歌だ。
 あの人が言った、「自分は死んだものにしろ」と訴えた言葉を
己の中に染み込ませる為に作った一曲。

 切ないメロディが…太一の内側から溢れてくる。
 苦しみも切なさも、あの人への強い想いも…全てを昇華する為に
紡ぎだす旋律。
 それを弾いている内に、次第に夢中になっていった。
 全て…自分の中から吐き出すつもりで、全力を込めて奏でていると…!

「何だこの辛気臭い曲は! 俺の気持ちを落ち込ませるつもりかっ!?」

 いきなり部屋の扉が盛大に開け放たれて、バァンと音を立てながら
自分の実父が中に入って来た。

「げえぇ! 親父…! 人がノッて曲弾いている最中に…いきなり乱入
してくるような無神経な真似すんなよ! せっかくの俺の力作だったのに…!」

「うるさい。あんなに聴いていてこっちがヘコむような悲しい曲を延々と聴かされ
続けて堪るか! どうせなら聴いていて楽しくなるようなの作れ!」

「うっさいなっ! 俺がどんな曲作ろうと親父の知ったこっちゃないだろ!
で…どうしたんだよ! 親父が五十嵐の実家に顔出すなんて…。
裏家業から足を洗って以来、じいさんに顔合わせ辛い立場なんじゃ…
なかったの」

「ったく…久しぶりに顔合わせれば、相変わらず減らず口ばかり叩き
おってからに…だからお前は可愛くないんだ…」

 憎々しげにそう呟く壮年の男は、太一の実父で…都内で喫茶店ロイドの
店長をやっていた。
 娘婿らしく、五十嵐家の中では発言権も立場も弱いのだが…太一と
この父親との関係は比較的良好であった。
 太一が五十嵐家の跡継ぎではなく、ミージュシャンになりたいと熱く
胸を燃やしていた時に…都内での職と寝起きする場所を手配して与えて
くれたのは他ならぬこの父親だったのだ。
 だが、真剣に太一を憂いて克哉を暗殺しようと企てた一件後は…
かなり疎遠になっていたのも事実だった。
 実際に顔を見るのは四ヶ月ぶりくらいだろうか。
 元々苦みばしっていた顔が、更に苦悩や苦労によって渋くなって
いるように思えた。

「用がなければ、わざわざ高知の奥深くにあるこの家まで足を向けたりは
せんよ…。お前に届け物があるから、来てやったんだろうが…」

「俺に届け物…? 嗚呼、もしかして…親父の処にまた、この家の
住所とか知らない大学時代のダチとか、バンド仲間からの手紙でも
届いたの…?」

「そんな物だったら、素直にここにこっちから送り返してそれで
終わらせるわ」

「だよな…じゃあ、俺に珍しく誕生日プレゼントでもくれるつもり?
嗚呼、でも二ヶ月はあるか…」

「減らず口を叩くのもいい加減にしておけ。これを渡しに来た…」

 そうして、ズイっと思いっきり太一に向かって一通の手紙を突きつけた。
 表の面には丁寧な字で「五十嵐太一様へ」 と記されている。
 見覚えがある字だと思って良く目を凝らし…そして次の瞬間、あっと
声を漏らす羽目になった。

「この字…もしかして…!」

「そうだ。裏の宛名には『佐伯克哉より』と書かれておる。ついでに…
リターンアドレスも無ければ、投函した形跡もない。直接…うちの喫茶店の
ポストに放り込まれたらしい手紙だ。これを…お前の元に届けに来た」

 それを聞いて、太一はいてもたってもいられなくなった。
 だが、次の瞬間…一つの事実に気づいていく。

「って…何でこれ、すでに開封済みなんだよ! 人の手紙を勝手に
先に読んでいるってどういう事だよ…!」

「…それを真っ直ぐ、お前の元に届けてやっただけでも感謝して
貰おうか…。克哉さんとお前との間に、何があったか覚えていないのか?
俺がそれで警戒したとしても…そんな責められる事じゃあないだろうが」

 それを言われるとグっと…言葉に詰まるしかなかった。

「…とりあえず読んでみろ。…それは正直、宛名を見た時は…俺は
黙って握りつぶそうかと考えた。だが…中身を読んで、これはちゃんと
お前が読まなければならない物だと…そう判断したから、こうして
ちゃんと届けに来たんだ。とりあえずそれから文句は幾らでも聞いてやる…」

「…判った。確かに、親父に文句ばっか言ってもしょうがないからな…」

 急に父親の態度が神妙なものになったので怪訝に思いながらも…太一は
そっと封筒から中身の便箋を取り出していく。
 5~6枚の便箋が其処に収まっていた。それを丁寧に手に取りながら…
畳の上に腰を下ろして太一はその手紙を読み始めていった。

『―太一へ

 この手紙は、無事に届くかどうか判らない。
 けれど高知のお前の実家の正式な住所が判らないので…ロイドの
ポストに投函させて貰うことにした。
 あのマスターが太一の父親である事は、太一の配下の人間の噂話で
知っていたから…可能性は高いと思ったから。
 オレは、元気にやっているよ。
 その事だけでも伝えたくて…こうして筆を取らせて貰った。

 恐らく、オレは太一にとって残酷なことをし通しだったと思う。
 酷い奴だと罵られても仕方ない選択をしてしまった。
 けれど…こうして一ヶ月以上時間が過ぎて冷静になった時に…
ある程度、考えも纏まった。
 それをここに記させて貰う。

 一つ誤解しないで欲しいのは…オレが太一の元に二度と戻らないと
決断したのは、太一が嫌いだからじゃない。
 むしろ…その逆で、今でも…幸せになって欲しいという思いはある。
 けれどね、太一…オレ達は間違えすぎてしまったんだ。

 太一は不安で仕方なくて、オレを監禁して従えたりしたんだろうけど…
それをする事で、五十嵐組の配下たちの太一の評判は地に落ちてしまって
いた事は…オレはとっくに気づいていたし、心を痛めていた。
 オレが…太一の元にこれ以上いられない、と思った最大の理由はそれだよ。
 お前がいない時、他の人間がこれ見よがしに…その話を聞かせてきたり、
オレに冷たい視線を浴びせて来た。
 それは、当然の事だと思う。だって…五十嵐組の人間は皆、太一を愛しているから
そんな風にお前を歪めてしまったオレを認める訳にいかなかったんだと思う。
 太一のお父さんがオレを暗殺しようとしたのも、それが原因だ。
 …その事実一つ、考えても…オレは太一の傍にいちゃいけないと思ったんだ。

 一緒にいて、お前の為になっているのなら…オレは何をしても
離れたくなんてなかった。
 記憶を失う前のオレはずっと…そう思っていた。
 だから…耐えられなくなって食を断つまでオレは…太一の傍から
逃げ出そうとは考えなかった。
 傍にいたい、近くにいたいと願っていたのは…オレも一緒だったから。

 オレはずっと、太一が以前のように…音楽を愛して、無邪気なまでに
それを追い続けている姿に戻ってくれるように祈っていた。
 オレが太一の在り方を大きく歪めてしまったのなら…太一が気が済むまで
この身体を好きにすれば良いと思っていた。
 それで…お前が戻ってくれるなら、そういう気持ちで…無茶な要求にも
従ったし、オレは持っていた全てを一旦…捨て去った。
 けれどそれは間違いであった事を…離れた今になって思い知ったよ。

 …償いとか、罪悪感に縛られてとかそういうのじゃなくて…オレ達は、
ただ好きだからって理由で寄り添えば良かったんだ…。
 そんな単純な事を、記憶を失くして…あいつと、過ごしている内に
ようやく気づいたんだ…。
 ねえ、太一。オレは…ひたむきに音楽を追いかけているお前が好きだった。
 何も本気で熱中した事がないオレにとっては…その姿は眩しすぎて、
まるで太陽みたいだった。
 
 覚えているかな? たまたま仕事帰りに喫茶店に立ち寄った日に…
お前の原点となった一曲を聴かせてもらった時の事。
 あの日にね、照れ臭そうに音楽の事を語る太一の姿が羨ましかった。
 同時に深く尊敬したんだよ。
 あんな風に楽しそうに音楽を語っている太一を見るのが好きで…
もしかしたら、その想いは今思えばすでに恋だったのかも知れない。
 あの一曲は、今でもオレの携帯の中で大切に取ってあります。

 …だから、あの日語ってくれたような熱い想いを思い出して欲しくて
この手紙と一緒にオルゴールを同封します。
 …もっと早くに送りたかったけれど、俺の方も最初の一ヶ月は…収入の
確保とかするのに精一杯で遅れてしまった。
 少しでも…あの日語ってくれた、音楽に対しての熱い想いを…どうか
思い出して下さい。
 
 すでに恋人ではないけれど…太一の音楽を好きな、一人のファンとして…
願いを込めてこれを贈ります。
 オレも…精一杯生きていきます。どうか元気で。

                                  佐伯 克哉拝  』

 
 一文字、一文字…しっかりと肉筆に書かれた克哉の想いを捉えていくと
同時に…一枚、便箋を捲るごとに…太一の指の動きは鈍いものに
なっていった。
 最後の一枚を読み終えたその時、涙が出た。
 何て…この人は、残酷な人なんだろうと心の中で責めたその時…。

 ―部屋の中に澄んだミリオンレイのメロディが響き渡った

「これは…!」

「その手紙に同封されていたオルゴールだ。…この曲は、俺も良く覚えている。
確か…お前が拙いながらに、耳コピして最初に作った曲だろ…?
微妙に音がズレている処まで、忠実に再現してあるからすぐに判った…」

 そう苦笑しながら父親が太一の方に振り向くと、その手には…掌にすっぽりと
収まるぐらいの大きさのオルゴールが乗せられていた。
  30秒ぐらいの長さのその曲を聴いていると…涙が、出た。
  携帯などのデーターに比べると、オルゴールは古典的な手段での音楽再生
装置な為に…サビの部分だけが奏でられていた。
 だが、機械媒体で保存していた頃に比べて…オルゴールという形になった事で
メロディに透明感が遥かに増し…とても、綺麗に聞こえた。
 それはまるで、魔法のようだった。
 自分が紛れもなく作った出来損ないの耳コピ曲が…とても素敵なものに
聞こえたからだ。

 ―それを聴いた途端、また…溢れんばかりに涙が目元から溢れていった。

(こんなの…本気で、俺を思ってくれていなかったら…贈ってくれる訳が、ない…)

 そのオルゴールこそ…克哉が言っていた「嫌いで離れる訳じゃない」という…
言葉を何よりも裏付けることだった。
 あの時、例えもう一人の克哉自身であったとはいえ…他の男と楽しそうに
している姿を見ただけで許しがたかった。
 けれど…克哉が自分を選ばなかったその原因を作ったのは、
太一自身だったのだ。
 監禁という手段で無理矢理、全てを奪おうとしてから歪が出た。
 自分でも知らない間に周囲の人間の反感を買って、克哉を追い詰めて
しまっていたのだ。
 今なら…それが判る。判るからこそ、自分の不甲斐なさが情けなかった。

 辛かった。苦しかった。
 本気で死にたくなるくらいに…自分の弱さに悔しくなった。
 けれど、澄んだそのメロディが…そんな心の淀みを洗い流してくれる。
 それで思い出す。…かつての自分達の姿を…。

「あっ…」

 短く呻きながら、脳裏に…鮮明な一つの映像が浮かび上がる。
 あの日の、このメロディの事で熱く克哉に語っている自分。
 そして…それをとても優しい瞳で見つめている克哉の姿を。

『其れは自分達の在るべき姿だったもの。永遠に失われてしまった残像』

 ―全ては、其処にあったんだ。
  俺の想いも、克哉さんの想いも全て。
  恋は終わってしまっても…その一瞬が無くなってしまった訳じゃない。
  振り返れば其処に…幸せはあった。
  確かなものは存在していたのだ。
  それを忘れて、疑心暗鬼に陥って…あの人を縛り付けてその全てを
  奪うという間違った方向に進んだのは…自分の責任だったのだから…。

「克哉、さん…!」
 
 奪うのではなく、あの日のように柔らかい気持ちを思い出して。
 罪悪感で縛り付けるのではなく…ただ好きという想いを抱いて共にいる
時間を積み重ねていたのならば…。
 もしかしたら、別離ではなく…お互いの間に『絆』と呼ばれるものが
生まれていたのかも知れなかった。
 ただ…太一は、透明な涙を零してその手紙を…握り締めていく。

「克哉さん、御免…」

 何度も、届かぬ人に向かって…謝り続ける。
 そんな息子を、父親はクシャリ…と髪を撫ぜていってやった。

「…お前は、本当に…あの人の事が、好きだったんだな…」

 コクリ、と迷いなく太一が頷いていく。
 そんな息子を…父はただ、頭を撫ぜて傍にいてやった。
 
 とめどなく、彼は後悔の涙を流していく。
 けれど涙は…心を洗い流す為に欠かせないものだ。
 長年、凍り付いていた心が…克哉からの想いによってゆっくりと
溶かされていく。
 暖かい気持ちを、取り戻していく。
 音楽を愛して、ただがむしゃらに追いかけていたあの頃の情熱が
ゆっくりと蘇っていった。

―だから克哉は、離れる事を選んだのだ

 傍にいる限り傷つけあって…相手の夢を奪い続けるよりも
離れる事で、言葉を伝えて…太一に夢を思い出してくれる事を
願った。
 それがようやく判ったからこそ…太一は、ただ泣くしかなかった。

 手に入れて支配することだけが愛じゃない
 相手の為に断腸の想いで決断し、離れる事も愛なのだ。
 太一が犯した罪をも許し、こんな手紙を送ってくる克哉は…
お人好しの極みだ。

 だが、そんな彼だったこそ…本気で愛したし、欲しかったのもまた事実。
 けれど太一はようやく…受け入れた。
 自分の接し方では、克哉の心は手に入れられなかった事を。
 
―俺も、貴方を愛していたよ…

 泣きながら、心の中に…克哉の顔を思い浮かべていく。
 すでに手の中に握りこんだ手紙は、力の込めすぎと涙の痕で
クシャクシャのグチャグチャになっていた。
 けれど…便箋も顔も酷い有様になっても、その瞳の奥に…
かつてのように、熱く優しい光が戻って来ている事に…父親は
確かに気づいていた。
 
―けど、これ以上…困らせたくないから、さようなら…克哉さん。
 俺は…もし、次に会えたなら…貴方に顔向け出来るような俺になりたい…

 克哉への妄執を捨てて…かつての情熱や希望を思い出して、そう誓った時…
そっと思い浮かべた克哉の面影が、優しく笑ってくれたような気がした―


 

 
 じっくりと、頭の中で煮込みたいので時間を
頂きたく思います。
 
 …30話越えてから、ほぼ二日に一度くらいの
ペースになっていますが…その分時間掛けて
丁寧にやりたいので。
 
 34話にて、タイトルの意味が明かされます。
 事実上の最終話とほぼ同じ扱いになるので…
もうちょい時間下さいませ。

 …毎日毎日、緊張し通しです。
 自分の頭の中にある通りに書けているのかって。
 全力を出しているのかって。
 自問自答の毎日。
 けど、ゴールが見えている以上…最後までやります。
 それでは、また明日上がって来ます(ペコリ)
 ―どれだけ苦しくても、辛くても。
 死にたいほどの胸の痛みを伴っても。
 その生の先にほんの僅かで希望があるのなら…
 力の限り、人は生きるべきだ

 人には誰しも役割がある
 慈愛で持って道を正したり
 叱る事で新たな視点に気づかせたり
 罪を知る事で、似た者に対して寛容な心を持ったり
 痛みを知る事で他者の心を打つ『何か』を生み出したりする

 一人の人間が血を残す
 それは長い目で見れば何百何千人もの命の系譜を生み出すことであり
 類稀な才能が力の限りを持って偉大な作品を残せば
 確実に多くの後世の人間は影響を受けるだろう

 どれだけ愚かしい罪を犯したものでも
 そのみじめさや、苦しみを他の者に晒す事で罪を犯すことの抑制になるし
 力のない、他人に依存して生きるしかない弱者でも…
 祈ることによって、人の為になる事もまた往々にしてある

 どのような立場でも、境遇でも…視点を張り巡らされれば、誰しもが
教師となりうるし…反面教師にもなる。
 この世界には、嬉しいことや苦しいことが表裏一体で常に存在している。
 その中に、意味を見出すのは…生きる者の心構え次第だ。
 なら、全てを失った青年は…その悲しみの果てに何を見出すのだろうか―

 海に落下してから、激しい海流に飲み込まれながらも…佐伯克哉は必死に
なって泳ぎ続けて、そして砂浜に辿り着いた。
 その頃には全身は鉛のように重く、もう指一本も満足に動かすことが出来ない
状態に陥っていた。
 それでも、溺れずに…命を失わずに、安全な場所までようやく辿り着いた事に
よる安堵で、克哉は波打ち際の砂の中に崩れ落ちていった。

「助、かった…ん、だ…オレ…は…」

 ここまで来るまで無我夢中だった。
 途中の記憶はあやふやで、ぼんやりして…殆どまともに思い出せない。
 それでも自分がこうして、生きてここにいる事が…彼には、嬉しかった。
 あんな馬鹿げたパフォーマンスをした事で、命を失いかけたが…こうして、大きな
傷を負うことなくここに存在している事で、全てがチャラになる気がした。

「生きてる…」

 紡ぐ言葉は、掠れて力がなかった。
 けれど…彼は、泣きたい気持ちと…嬉しい気持ちがグチャグチャになって、
心の中でせめぎあっていた。
 さっき、目の前でもう一人の自分を失った。
 光となって消えていく様を見送った。
 けれど…同時に、この胸の中に一層強く…彼が存在している事を克哉は
感じ取っていった。

―良くやった

 短いけれど、幻聴かも知れないけれど…眼鏡がそう、労いの言葉を掛けて
くれたように感じられた。
 静寂に包まれた海岸には、ただ…波が緩やかに押し寄せては静かに戻って
いく水音だけが響き渡っている。
 以前に、夜の波の音には…精神をリラックスさせる効果があるという文章を
どこかで読んだことがあるような気がした。
 波に身を委ねながら…悲しいような、切ないような…満足しているような、ぽっかりと
何かが空いてしまっているような複雑な想いに、克哉は身を浸していった。

(これからは、太一にも…あいつにも、頼れないんだ…)

 愛している人間二人と、克哉は結果的に決別することとなった。
 眼鏡は、半ば暴力的に強引に奪われ。
 太一とは…自らの意思で、けじめをつけた。
 これからは…自分の足で立って、生きていかなければならない。
 そう考えると…怖いと思う反面、自分の中で確かなものが湧き上がっていく奇妙な
感じがしていった。

 太一の事は、愛していた。
 すでに過去形になっているのに自分でも気づいた。
 けれど、眼鏡の事は「愛している」だ。
 失ったばかりだというのに…現在進行形の想い。
 それが…克哉を掻き立てる何よりの力になった。

 重い身体をどうにか起こして、克哉は真っ直ぐに…前を見据えていった。
 どれだけボロボロでも、みっともなくても…彼の心の中には、希望があった。
 後もう少しで感情のままに拳銃の引き金を引いて、太一に向かって発砲してしまう
寸前に、もう一人の自分が言った言葉を鮮明に思い出していった。

 ―必ずだ。だから…お前は、信じて…待っていろ…!

 短い一言。けれどあの瞬間、はっきりと聞こえた言葉。
 それを頭から信じるのは、もしかしたら愚かと他の人間には言われて
しまうかも知れない。
 けれど…克哉は、信じて待つことに決めた…のだ。

(あいつは…オレの中にいる。それが…はっきりと、判るから…。
なら、オレに出来る事は…あいつが目覚めるその日まで、しっかりと
生きていく事だけだ…)

 自分の身体そのものが、彼が眠る揺り篭のようなものならば…以前の
ように食を断って死を望むような真似は絶対にしないだろう。
 どんなにみっともなくても、何でも…今の克哉は生きる事を模索
し始めていた。
 
―…お前が、いる限りは…俺は、本当の…意味で、死なない。
だから、お前は、生きろ…克哉…

 眼鏡のもう一つの言葉を思い出していく。
 自分が生きている限り、あいつが本当の意味で死に絶えることがないのなら
克哉には生き延びる義務があった。
 この身体はあいつのものでもあり、この命は結果的に彼に救われた。
 最初はどんな動機でも、緩慢な自殺を選んだ自分をこうやって回復する
手助けをしてくれたのは紛れもなく『俺』で…。
 そのおかげで、克哉は生きる気力を取り戻せたのだから…。

「はっ…ぁ…」

 克哉は、少しでも進もうと四肢を這いずりながらでも進ませていく。
 誰かのおかげで、この命が助かったのならば、もう二度と無駄にするような
真似はしてはいけないと…使命にも似た気持ちが胸の奥から湧き上がっていく。
 それで思い知る。
 自分が最後の最後で、太一ではなく…あいつの手を取った理由を。
 克哉は、もう一人の自分と接している内に…生きたい! と願う気持ちを
思い出したからなのだ。

 自分の願いは、生きたかったのだ。
 帰りたかったのだ…。
 家族が、八課の仲間達と一緒にいられる場所に。
 自分が自分でいられる場所に、戻りたいと願い続けていた…そんな欲求を
あいつと過ごしていたからこそ、思い出せたのだ。

 知らぬ間に、克哉の目元からは…大量の涙が伝い始めていた。
 少し身体を動かす度に、辛かった。苦しかった。
 けれど…それでも、彼は進むことを止めなかった。
 この命は…すでに自分一人のものではない。
 自分は、眼鏡の分の生もすでに背負っているのだから…安易に死にたい
などとは、二度と口に出すことも行動に移すことも許されないのだから…。

「会いたい…」

 喉はすでにカラカラで、掠れた声しか漏れなかった。
 けれど、それでも…想いは口を突いていく。

「お前に、もう一度…会いたいっ…!」

 それは、同時に彼が生を願う最大の理由になった。
 生きている限り、会える可能性が残されているのなら…自分は
全力で生きてやる!
 泥水を啜ることになっても、何を口にしてでも…。
 そうやって時を過ごす事で、もう一度…あいつに再会出来る
可能性があるのなら、どんな事でも生き延びてやると誓っていった。

 あいつが、全力で自分を止めてくれた意味を。
 庇ってくれた意味を。
 その重みを理解しているからこそ…克哉は、狂おしいまでの
想いに身を焦がしていく。
 ボロボロの身体で、肌に張り付いているYシャツもズボンもビショビショの
グチョグチョで…泥だの、血だのがこびり付いている。
 けれどその蒼い双眸には…強い生への渇望が確かに宿っていた。

 それでも、何十分も激しい水流の中で翻弄されて、その流れに
抗うために全力で泳ぎ続けたことで克哉の肉体は限界寸前まで
疲弊していた。
 背面から、水流がぶつかりあっているような場所に自ら落ちていく。
 そんな真似をして、どうにか命があったのは…一重に、強い生への執着心が
成した奇跡以外の何物でもない。
 もし、太一が…克哉を追って飛び降りたりなんかしたら、決して助かることは
なかっただろう。それくらいに…激しい海流であったのだ。
 
 本来なら、水や食料が確保出来るところまで進まなければならない。
 それが叶わないならせめて、日陰があって…日が出ても体力の消耗の
少ない場所まで辿り着かなければならなかったが、どちらも成せぬまま…
克哉は再び波打ち際で、力尽きていく。
 肩で忙しい、苦しげな呼吸を繰り返していると…ふいに、一つの人影が
彼の影に重なっていった。

―お疲れ様でした

 顔を上げることは叶わなかったけれど、その歌うような口調で
どれが誰であるか一発で克哉は理解していく。
 少なくとも、太一本人や…五十嵐組の配下の人間でなかっただけでも
克哉は安堵していった。

「…ぁ、っ…」

 言葉を発そうと試みたが、すでに疲れ切っていて…満足に単語すら
紡げない状態に陥っていた。
 月がとても、綺麗な夜だった。
 澄み切った藍色の帳の中心には、煌々と輝く銀月がぽっかりと浮かんでいた。
 その闇の中、黒衣の男の鮮やかな金の髪は…はっきりとした存在感を
放って、静かに輝いていた。

―嗚呼、無理して答える必要はないですよ。私は…貴方を迎えに
来ただけですから。…この浜辺から出て少しした処に、貴方を望む処に
搬送する車はすでに用意してあります。
 そうそう、貴方達の荷物も…拳銃以外の物は、すでに私の配下に
依頼して積んでありますから心配要りません。
 …貴方はただ、今は身体も心も休まれた方が宜しいですからね…

 男がそう言ったのに気づいて、克哉は顔を上げようとした。
 どうにかその試みは成功し、目だけでも…Mr.Rの方に向けていく。
 その顔は酷く満足そうで、楽しげだった。
 それが克哉には不快だったが…今の自分にはこの男の手を借りる以外に
この場から離れられないような気がした。
 だから…キュっと口をつぐんで、コクンと頷いていく。

 ―結構です。では…お運び致しましょう

 そうして、黒衣の男は…自分がビショビショになるのも構わずに、克哉の
身体をそっと抱き上げていった。
 克哉自身、かなり体格が恵まれている方なのに…易々と抱えられていく様を
見て…少し驚いたが、この奇妙な男性ならそれぐらいの事は出来るだろう…と
自分を納得させることにした。
 そして、そのまま…彼は静かに、身体が要求するままに眠りに落ちていく。
 その瞬間…もう一人の自分が呆れたように溜息をつく様子が、少しだけ
感じられていった。

 波の音だけが周囲に、繰り返し響き渡っていた静かな夜。
 克哉はそうして…この地を後にした。
 もう一人の自分と、二ヶ月余りを共にしたその地へは…
佐伯克哉は、二度と足を向けなかった。

 そしてMr.Rは誘っていく。
 克哉が帰って来ることを心から望んでいた人達の一人の下へ…
 意識を失った克哉を、確かに送り届けたのだった―
 
 
 ―忘れないで下さい。貴方の命は仮初のものであることを…。
 ですから、本体である克哉さんが死なない限りは…貴方の御心が
 強く在る限りは、真の意味で…貴方が死なれることはないでしょう

 本日の午前中、あの男はそんな事を確かに言った。
 だから…覚悟の上で、あいつを庇って…銃弾を受けたつもりだった。
 あの瞬間、もう一人の自分を突き飛ばしたその時点で…自分は太一に
対して出遅れるのは覚悟の上だった。
 だが、その銃弾が…克哉に命中し、彼の方が致命傷を負ったら…共倒れに
なるのは判りきっていった。
 けれど…焼けるような痛みを胸に感じて、彼は少しだけ後悔していた。

(本当に…これで、俺は…助かる、のか…?)
 
 銃弾は真っ直ぐ、彼の胸に命中した。
 動脈を傷つけたらしく…其処に弾がめり込んだ瞬間…血飛沫が大量に
舞い散っていった。
 其れはまるで、あの日の太一のようであった。
 彼もまた、こんな痛みを…体験をして、生還したというのなら…自分も
きっと助かる筈だ、と強く信じ込んでいく。
 忙しく胸を上下させていきながら、霞む目を必死に凝らして…もう一人の
自分の姿を探していった。

「目を、覚ませよ…! こんなの、嘘だぁぁぁ…!」

 いつの間にか、もう一人の自分が駆けつけて…倒れこんでいる自分の
傍らに座り込んで、必死に顔を覗き込んでいた。
 もうすでに顔はクシャクシャで…克哉は泣きじゃくっている。
 これも妙なデ・ジャウを感じた。

「し、んぱい…する、な…。これ、くらい…じゃ、俺は…簡単に、は
くたば、らない…から…」


「…ほ、んとうに…そう、だと…思っている、のかよ…!」

 客観的に見ても、其れは致命傷にしか見えなかった。
 彼が当たった場所とほぼ同じ場所に、数ヶ月前…太一も弾が当たっている。
 だが…太一の場合は骨に当たって途中で…弾が止まっていたが、眼鏡の
場合は…それが貫通してしまっていた。
 その分だけ出血は深く、瞬く間に彼の背中は血に濡れていく。
 唐突に満ちていく死の匂い…克哉は、それが怖くて仕方なかった。

「…お前が、いる限りは…俺は、本当の…意味で、死なない。
だから…お前は、生きろ…克哉…」

 息も絶え絶えに、必死の様子で…それだけ、言葉を紡いでいく。
 その内容に、克哉は…目を見開いていく。
 そんな彼の頬を眼鏡はどうにか…指先を伸ばして、涙を拭っていった。

「…そんな、の…残酷だよっ! お前が…いない、のに…どうして…!」

 克哉は、滂沱の涙を零していく。
 恥も外聞も何もない。ただ…自分の半身が、目の前で息絶えようと
する光景が悲しくて、辛くて仕方なかった。
 だが…眼鏡はそんな彼を宥めようと、どうにか…少しでも笑みを作って
行こうとして…。

―信じろ。何年掛かっても、必ず…俺はお前の元に帰って来るから…

 それは、言葉じゃなかった。
 はっきりと頭の中に響き渡っていくような、不思議なメッセージだった。
 同時に…眼鏡は、もう自分が限界である事を自覚していく。
 どこまでも透明な笑顔を浮かべていき…そして。

―彼の身体はあっという間に、光り輝きながら消えていった。

 初めから、其処に存在しなかったかのように。
 たった今まで、そこにあった身体も、血の痕も…全てが一瞬に
して消えて…光の粒子となって舞い散っていく。
 現実には到底ありえない光景。
 だが、それで実感していく。もう一人の自分がこうしてこの世に
存在していたのは…ある種の『奇跡』に過ぎなかった事を…!

 克哉は、呆然とするしかなかった。
 愛しい人間が、目の前で…幻想的に消えていってしまう様を
目の当たりにして…一歩も動くことが出来なかった。
 残されたのは、愛する人間が自分を守ろうと…携帯し続けていた一丁の
拳銃だけだった。
 それすらも、血の痕のような生々しいものは残されていなかった。

「な、んだよ…! 今の…! 嘘、だろ…!」

 たった今、克哉と同じ光景を目の当たりにした太一は…信じられないものに
遭遇したとばかりに、目を見開かせていた。
 この手で、人の命を奪ってしまった…それだけでもショックであったのに
更に…人間が光に包まれて消えるなんて異常事態に遭遇して、彼は正直…
混乱してしまっていた。
 
「何で、同じ人間が…同時に二人存在しているだけでも在り得ないのに、
そいつが死んだら、まるで何もなかったように…消えるんだよ! どんな
ファンタジーだよ! 何で克哉さんの周りには、そんな在り得ない事ばかりが
続けて起こるんだよ! 眼鏡掛けて人格豹変だけでも信じられなかったに…!」

 その瞬間、太一は克哉を一瞬だけ化け物を見るような眼差しで見た。
 さっき目の前で起こった出来事が、彼の中の常識の枠を大きく逸脱していた
光景であったからだ。
 だが、克哉は…そんな太一に対して、許せないという思いが…あっという間に
満ちていく。
 眼鏡も太一も、克哉にとっては愛しい存在だった。
 その二人が自分を巡って反目している事実は、彼にとっては胸を痛める
現実であった。
 だが、片方が…その相手を殺したのなら。胸に満ちるのは殺意。
 そして克哉の傍らには、眼鏡が持っていた拳銃が転がっていた。
 彼は衝動的に其れを手に取っていき…本気の殺意を込めていきながら
太一を睨めつけていった。

「…太一ぃぃぃ!」

 恐らく、生まれて始めて本当の憎悪というものを込めながら人の名を
呼んでいった。
 自分の中にこんなにもどす黒い感情が渦巻く事があったなんて、これまでの
生の中ではただの一度もなかった。
 本気で許せなかった。憤怒という言葉の意味を実感させられた。
 かつて大事だった人間に、今の彼にとって一番大切な人間を殺される。
 過去の想いと、現在の想いがぶつかりあってグチャグチャだった。
 どれだけ陵辱されても酷い仕打ちをされても、克哉は太一にこれ程の憎しみの
篭った眼差しを向けたことはただの一度もなかった。
 だが、本気の憎悪を…愛しい人に向けられた時、太一は最初は怯えた。
 しかし次の瞬間、彼は高らかに哄笑していった。

「な、んだよ…! そんなに、もう一人の自分が大切、だったのかよ!
良いよ、それなら…俺を、殺せよ! 俺にはもう、何もない…!
五十嵐の家の人間にも、部下にも見切られて…いらない者扱い
されたばっかだしな! あんたの手に掛かって死ねるなら…本望だよ。
さあ、俺を殺せよ…!」

 やけっぱちになったように、太一が叫んでいく。
 そう…今の彼が、安易に拳銃の引き金に手を掛けて幾度も発砲を
してしまった背景には、やはり…自分の部下達や家族にも、克哉に対しての
異常な執着心に呆れられてしまったという事実があった。
 愛しい人間にも、部下にも、家族にも…見捨てられて一人ぼっち。
 今の太一は心にどす黒いものが満ちていて…光を見失っていた。
 自分を正しい方向へと引き戻す、希望が。
 だからヤケクソな態度で、克哉を挑発して…終わりを願ってしまった。
 同時に、克哉に対して…すでに自分は殺されても仕方ないと…半ば
気づいていた部分もあったから。

「…ああっ! お前は…『俺』を殺した! それだけは…許せないっ!!」

 怒りに任せて、克哉は太一の胸元に照準を合わせて引き金を
引こうとした。その時、鮮烈に脳裏に声が響いていった。

―止めろ! お前までその手を血に染めるつもりか…! 
俺は、ここにいる! だから…そんな馬鹿な真似は止せ!
お前は太一を愛していたんだろう! かつて愛していた奴を…
一時の感情で殺めてしまったら、お前は一生後悔するぞ!
知らない人間を殺しても、苦い想いを抱くのに…!
お前はそうやって、自分の心を曇らせるつもりかっ!

 また、不思議な声が…聴覚を通してではなく、脳裏に直接…
響き渡っていく。最初は自分の都合の良い幻聴かと疑った。
 しかしその声は幻聴で済ませるには余りに、強い力を
放っていて、克哉の心へと訴えかけていく。
 だが…胸に、ジワリと暖かいものが満ちていく。
 その瞬間…彼は思い知る。此処に、彼がいる事を…。

「あっ…」

 再び、涙腺が壊れたかのように…克哉の瞳から、涙がポロポロと
零れ落ちていく。
 そんな彼を宥めるように、背中からすっぽりと包み込まれていくような
感覚があった。
 直接的な感覚ではない。物質として存在しない。
 けれど…ふわりと暖かな何かを、背中に感じていく。
 其処に、いる。もう一人の自分は…自分のすぐ、傍にいる。
 それを実感した瞬間…彼の中に、冷静さが生まれていった。

(そこに、いるのか…? 『俺』…?)

―嗚呼、俺は…お前の中に、いる。もう一度…身体を取り戻して
お前の傍にいられるようになるには、長い時間が掛かるがな…。

 その声を聞いた時、胸に満ちていたドロドロの感情が…霧散して
いくのを感じていった。
 拳銃の引き金に宛てられていた人差し指から力が抜けていく。
 そして、左手で…知らず、自分の身体を抱き締めていた。

(いつか…戻って来て、くれるのか…?)

―必ずだ。だから…お前は、信じて…待って、いろ…!

 それは時間にしたら、一分前後の短いやり取り。
 けれど、其処に確かに…もう一人の自分の想いを感じた。
 瞬く間に、彼の気配が消えていく。その儚い何かを手元に留めたくても…
幻のように、『俺』の気配も声も…消えてしまった。
 自分の中に、力強い何かを感じる。声が聞こえなくても…。

―克哉の心の中で、彼が眠りに落ちたのを確かに感じ取った。

 其処に立っていたのは、冷静さを取り戻した克哉だった。
 太一は全てを覚悟して、その命を差し出すことで克哉に対して
行った自身の罪を贖おうと目を瞑ったままでいた。
 だが、幾ら待っても…銃声が聞こえることはなかった。
 恐る恐る目を開いていくと…其処には、どこか優しい顔をした
克哉が頬を濡らして、銃を下ろした状態でこちらを見つめていた。

「克哉、さん…?」

 信じられないものを見る想いで、太一が呟いていく。
 たった今まで見せていた克哉の夜叉のような恐ろしい憎しみと
怒りが、その顔から消え失せていた。

「ど、うして…?」

「…一度は、本気で愛した人間を…一時の感情で、オレは…
殺したく、ないよ…」

 眼鏡は戻って来る。
 その希望があるから…辛うじて、克哉は理性を取り戻した。
  しかし太一の放った凶弾が、克哉の幸せを…あいつと共にいられる時間を
奪ったのもまた、事実であった。
 愛しさと、憎悪とで…気が狂いそうなくらいだ。
 けれど…彼は、ギリギリの処で選び取っていく。
 お互いに感情に任せて殺し合う終末ではなく、お互いに…生きる道を。
 
 こんな事が起こったしまった以上、もう太一の元には戻れない。
 何もなかった頃のように笑いあいながら傍にいる事は無理だ。
 きっと心を殺さなければ、傍にいる事は不可能で。
 そんな事して傍にいれば、きっと同じ過ちを自分達は犯していく。
 なら、離れるしかないと思った。
 お互いが在るべき姿に戻る為に…必要なこと。
 それは袂を分かつ以外にすでにない事を…瀬戸際で克哉は悟った。
 全てを覚悟したからこそ…克哉は、どうにか笑ってみせたのだ。

「な、んで…許せるんだよ! あれは…克哉さん自身で、認めたくないけど…
今、克哉さんはあいつの事を好きだったんだろ! それなのに…どう、して…」

「あぁ、その件に関して、本気で怒っているよ。太一が…オレが戻らないって
いう答えを聞き遂げてくれたのなら、こんな事態は…絶対に起こらなかったん
だからね…」

 だが、克哉は…その銃口を、自分の頭に突きつけて見せた。
 愛しい相手のその異常な行動に…太一は、驚きの声を挙げていった。

「克哉さん! 何をしているんだよ!」

「近寄らないでくれ。太一が…近づいたら、オレは…自分でこの引き金を
引くから…」

「…何で! 克哉さんは何を考えているんだよ! 判らないよ…!」

 自分を許して銃口を外したかと思えば、次のこの行動に太一は余計に…
混乱するしかなかった。
 しかし、そんな事を言われてしまえば…太一とて身動きが取れなくなって
しまう。悔しいが…その場から動く訳にはいかなくなってしまった。
 太一と克哉を隔てる距離は10メートル程。
 克哉の方はいつの間にか…海へと続く穴の前に立っていた。
 その向こうには間もなく暮れなずむ、赤い赤い太陽がそびえている。
 青年の色素の薄い髪を…朱の陽光が染め上げて、まるで燃え上がっている
かのように太一の目には映っていた。

「太一…オレは、お前の元には…二度と戻らない。それが…お前の
たった今、犯した罪に対しての…オレの答えだよ」

「…っ!」

 嫌だ、と叫ぼうとした。
 だが…たった今、自分がしてしまった事の重さを、太一は自覚している。
 自暴自棄になっていたからといって、安易に拳銃を向けることも…人に対して
それを打つなんて事は許される訳がない。
 反論の言葉など、言う資格はすでになかった。

「…太一、どうして…そんな結論をオレが出したか、はっきりと今なら言えるよ。
…オレと太一はすれ違い続けた。オレは…太一を愛していたし、太一だって…
オレを愛してくれていた。けれど…信頼、しあえなかったんだよ。
 だから太一は…オレから全てを奪って独占しないと、心が静まらなかった。
 オレは、そんな真似をされて悲しかった。だから…全てを奪われてなるものかと、
心だけは反発を続けていた。だから…こんな結果に、なったんだね…」

「克哉さんが、オレを…愛していた…?」

 その言葉に、信じられないという想いで…反芻していく。
 彼はただの一度も、克哉を手中に収めていた時に…そんな実感を覚えた
試しがなかった。だから本気で…その肩と唇は震えて、いた。

「嗚呼、愛していたよ…。オレは太一が、音楽の事を語ってキラキラと目を
輝かせている姿を…とても、好きだった。俺にないものを持っていたお前に
強く惹かれて…気づかない間に、恋していたんだよ…。
 あの時は、自分でも自覚なかったけれど…。
 そんな太一を、変えてしまったのが自分であった事がオレには辛かった…。
 暗い目をするようになった太一を…見ているのが、辛くて…。五十嵐の家の
人間に遠回しにその事で責められたりしている内に…オレは耐えられなくなって
オレは…食事を断つことで、死ぬことを選んでしまったんだと思う…」

「…っ!」

 それは、部下に突きつけられた現実と、ほぼ被る内容だった。
 太一の弱さが招いてしまった事。
 克哉の口から其れを語られて、胸が再びズキズキと痛む想いがした。
 
「…はは、バカみたい、じゃん…! 克哉さんが、俺を愛してくれていた、
なんて…思いも、しなかった。克哉さんは…俺を犯した罪悪感で…それで
自分を投げ出して、傍にいたんだよ…。単なる偽善で…同時に、罪の意識を
失くす為に俺の傍にいたんだって…ずっと、思い込んでいた…!」

「バカ、だね…。ただ、償いの為に…自分の環境、全てを投げ出してまで…
太一の命令に従っていたなんて…本気で、思っていたのかよ…」

「何だよ…それ。俺ら、両想い…だった、んじゃん…なのに、どうして…!」

 やっと、太一は…自分を取り戻した。
 そして…初めて、『今の克哉』と対峙していった。

「…けれど、オレは…記憶を失くして。太一の事は忘れてしまっていた。
その時期に…オレは、献身的に介護してくれる…もう一人の『俺』に恋して…
思うようになってしまったから…」

「記憶、を…失くして、いた…?」

「うん、太一が目の前で撃たれたのがショックが大き過ぎたみたいで。
オレは意識を回復した時、前後一年くらいの事の殆どを忘れてしまっていた。
だから…オレは、あいつを知らぬ間に愛して…しまっていた…」

 克哉は真実を語っていく。そう、自分は太一を忘れていた。
 だからその間に、もう一人の自分の存在が入り込んでしまっていた。
 その事実に、太一は…顔を歪めていく。
 何のメロドラマだよ、とでも言いたそうな顔を浮かべていた。

「何だよ、それ…嘘、みたいな…話、じゃんか…」

「けど、本当の話だよ。だからオレの心変わりは…記憶喪失なんて事が
なかったら、きっと起こらなかったかも知れない。けれど…もう、起こって
しまった過去は変えられない。オレは…『俺』を愛してしまった。
そしてたった今、『俺』を殺した…太一を、愛しいと思う反面…心から
憎いと思っているのも、また真実なんだよ…」

 そうして、一歩一歩…克哉は後ろに後ずさっていく。
 太一は思わず、駆け寄りそうになったが…!

「来るなっ!」

 全身で克哉は、太一を拒絶した。

「どうして…! 落ちる気かよ…克哉さん…!」

「そう、そのつもり。そして…それ以後は、太一の中でオレを死んだことに
して欲しい…」

「どうしてだよ! 何でそんな真似を…!」

「…こんな強い憎しみを抱いた状態で、オレはもう太一の傍にいる事は
出来ないから。近くにいる限り、オレはきっと…お前の事を恨む。
けれどどれだけ…強い怒りも悲しみも、それから距離を置いて…時の
流れに身を浸せば、消えていくっていうのをオレは知っているから…。
もう罪の意識とか、償いとかで…人を縛るのも、縛られるのも…オレは
沢山だから。だから…オレは、太一の元から永遠に去らせてもらう…」

 そうして、克哉は綺麗に笑った。
 思わず見惚れるくらいの…慈愛の表情を浮かべながら…。

「太一に、もう一度…過去に囚われないで、音楽をやって欲しいから…。
だからオレの事は忘れて欲しい。今、ここでオレが飛び降りたら…オレを
死んだものと扱って、どうか…自分の夢を思い出して、欲しいんだ…」

「…っ!!」

 その瞬間、胸を穿たれたような想いだった。
 たった今…自分の犯した罪を思ったら一生、憎まれても仕方ないことだった。
 それを克哉は許そうとしているのだ。
 こんな馬鹿な真似をして、清算しようとしている事に気づいて…太一は、知らず
涙を溢れさせていた。

 俺はこんなに優しい人を憎み続けていたのだ。
 俺はここまで想ってくれていた人を、恨み続けていたのだ。
 俺はこの人から、全てを奪ったのに許そうとして。
 そして…俺の手から永遠にすり抜けていこうとしている。

「嫌だっ! 克哉さん…! 俺は貴方を愛しているんだっ! それなのに…
どうして俺から逃げ続けるんだよぉぉ!」

 太一は耐えられず、間合いを詰めて克哉の方へと駆け寄っていった。
 そんな彼を、どこか悲しそうに見つめながら…克哉は、そのまま後ずさり…
海の方へと、太一を見据えた格好のまま…落下していく。

「さようなら、太一…」

「克哉さぁぁぁん!!」

 本気で泣き叫びながら、太一は…克哉の方へ手を必死に伸ばしていく。
 だがその手はあっという間にすり抜けて空を切っていった。

―どうか、幸せに…

 最後の最後に、こちらを慮る言葉を発し…克哉の姿は、海の中へと
落ちて瞬く間に見えなくなっていく。
 放心したように…穴の手前にへたり込み、海の藻屑となった…
愛しい人を…太一は目で探していく。
 追いかけたいのに、目の前で起こった事のショックが大き過ぎて…
身体が指一本、満足に動かせなかった。

「…何で、こんな俺を…最後に、許して…いなく、なるんだよ…!
克哉さんの、馬鹿野郎…!」

 後から、後から…涙が溢れてくる。
 ポロポロポロ、と…涙腺が壊れたかのように、透明な滴が太一の目元から
流れ続けていった。

 小さな掛け違いの連続で、彼らは両想いであったにも関わらず…
過ちをお互いに犯し続けてしまった。
 だが、最後の最後で…克哉は、『許す』という形でそれを…
どうにか正したのだ。

 愛されていた。想われていた。
 それを踏みにじり続けたのは、自分の態度や行いであった事を…
こんな形で知るなんて、何て皮肉だと想った。
 けれど…彼はもう知ってしまった。克哉の想いを。
 心変わりは許せないと思った。
それくらいなら殺してしまおうとも思っていたけれど…自分は確かに、
克哉に愛されていた現実も知って…どす黒い想いが変質していくのを
確かに感じ取っていた。

 沢山の涙を零し、自分のして来た事を後悔し続けた後。
 涙を拭いて、立ち上がった太一の瞳からは…少なくとも、何もかも
絶望していた、あの暗い色合いは…確かに消えていた―

 今夜も、アップは遅くなります…。
 というか、明日になるのはほぼ決定です。
 時間掛けて、特にこの場面は丁寧にやりたいので。

 多分、31のラストの部分で悲鳴上げている方も
多いと思いますが…一言だけ、しっかりと言っておきます。
 
 私は、ここまで付き合って下さった方に読むんじゃなかったと
後悔させるようなものを書く気だけは絶対にありません。
 それでも、読むの辛いなら…数日置いて連載終わってから
来て下さるようにお願い申し上げます。

 今月中には完結させる、というペースで執筆していきます。
 どうぞ良かったら、お付き合い下さいませ。
 では…。

 
 ―お互いを許しあっている内に随分と長い時間が、気づけば
過ぎてしまっていた。
 泉になっている地点から離れた頃には…何時間も過ぎてしまって
いたので打って変わって二人は慎重に進み続けていた。
 幾つもの分岐点を過ぎて、ようやく到達したのは…水路の出口。
 地下水と海水が混ざり合い、ぶつかり合う地点だった。
 時折…遥か下降の部分で押し寄せる波と、流れる水がぶつかりあって
派手な水飛沫を上げて細かい水の粒子が舞い散っていくような地点に
差し掛かっていった。
 岩壁にも、幾つか穴が穿たれていて…ようやく懐中電灯の明かりなしでも
周囲の状況が判るぐらいに明るくなっていった。
 日の傾き具合から見ても、すでに夕暮れ近くを迎えていた。

「…何か、この周辺。迷路みたいだよね…一体どこに正解の
ルートがあるのか、もう判らないや…」

「そうだな…まあ、ここが水の出口ではあるみたいだから…俺達が
出れる場所も、この周辺にある可能性が高いと思うがな…」

 二人はほとほと困り果てたように、溜息を突きまくっていた。
 その顔は…随分と長い時間を彷徨っているのに、未だにこの洞窟を
出れないでいるせいであった。
 海側のルートを選択したのは紛れもなく克哉自身であったが…ここが
そんなに入り組んだ場所である事をまったく聞いていなかったので正直、
相当に参っている風であった。

(随分と参っているみたいだな…コイツも…)

 逆に眼鏡の方の困惑した態度は、全て演技だった。
 実際は…彼の方は、先にMr.Rに遭遇した時に両方のルートの出口の
目印になる特徴をすでに聞き及んでいたのだ。
 だが、わざと真っ直ぐに行かなかったのは…日が暮れるまではこの天然の
迷路の中に身を置いた方が安全だと判断したからだ。
 あの時計の仕掛けを解かなければ追っ手もここに入って来れないし…
残ることを選択したMr.Rも易々と捕まるようなヘマは犯さないだろう。
 そう考えるとある程度暗くなるまでは…ここに身を置いた方が逃亡するのに
適しているだろう。
 その判断が大きな過ちであった事に、彼自身はまだ気づいていなかったが…。

「…はあ、このままだと…懐中電灯の電池も切れちゃう…よな…」

「…そうだな。安全の為に…ここで休んでいくか? まだ追っ手がウロウロ
しているだろうし…外に出るなら、日が暮れて視界が効かなくなってからの
方が無難だと思うぞ…」

「えっ…でも、電池は…」

「心配するな、換えぐらいは用意してある。それに満タンの電池なら一日ぐらい
点けっぱなしにしたって簡単に切れるもんじゃないぞ? 今の電池は驚くぐらい
長持ちするように作られているからな…」

「そっか、そうだよな…。じゃあ、ここで休んでいこうかな…」

 正直、克哉の方が重いリュックを背負って進んでいたので…ヘバっていた。
 食料や水、それと毛布や最小限の着替えなどを入れたリュックを持っての
移動はこのクソ暑い時期にはかなりの体力を消耗する。
 本来ならこの地から…一刻も早く逃げ出さないといけないのだろうが、
心身ともにすでに消耗しきっているので、克哉はその提案に乗る事にした。
 地面にリュックを下ろして、大きく伸びをしていく。
 肩に、化学繊維の肩掛けの部分が長時間食い込んでいたせいでかなり
ヒリヒリと痛む思いがした。

「何か、ここ…海風が吹き込んで来て、爽やかな感じだよな。あ…でも、
風穴の向こうは、そのまま海に真っ逆さまって感じで怖いかも。
…あんまり近くに寄らない方が無難そうだな…」

「おい、危ないから…近づくな。流石にそんな処から落ちられたら
俺だって…お前を助け切れないぞ」

「判ってる、ってば…」

 そういいながら、眼鏡はそっと克哉を引き寄せていった。
 克哉の方もまた、特に抵抗せずに…もう一人の自分の腕の中に
大人しく収まっていった。
 そのまま、髪と米神の部位に優しくキスを落とされて…片目を瞑って
それを享受していく。

「お前は、判ってないだろ…?」

「判っているってば…。子供じゃ、ないんだから…」

 そのまま拗ねたような顔をしていくと…相手から啄ばむようなキスを
落とされてくすぐったそうに笑っていく。
 甘ったるい、戯れの時間。
 だが…それは、すぐに壊される形となっていった。 
 
 パァァァァン!!

 同時に盛大に響き渡る銃声。
 耳をつんざくような鋭い音が洞窟内に反響していった。
 たった今、放たれた銃弾がすぐ二人の傍を掠めて、岩壁にめり込んで
銃痕を刻み込んでいく。
 瞬く間に、空気が変わっていく。
 それに備えるように…眼鏡は素早く、愛銃を構えて…たった今、銃弾が
向かってきた方角に向き直っていく。
 二人はそれを目撃して、肝が冷える想いがした。

(どうして…ここに…!)

 二人同時に、そう思った。
 その驚愕が顔に出ると同時に…その人物はどこまでも暗く嗤って(わらって)いく。
 最後に直接顔を合わせた時よりも、なお深い闇を宿した眼差しを浮かべながら…
薄汚れた迷彩服を纏いながら、五十嵐太一は其処に立っていた。
 肩口までの長いオレンジ色の髪が、風が吹きぬけていく度に大きく靡いていって…
それが妙に艶かしい印象を与えていく。
 最後に顔を合わせてから、とうに三ヶ月近くが経過している。
 それだけの期間、離れていただけで…更に太一は荒んでしまっていた事が
見ただけで判ってしまった。
 たった今、放たれたばかりの銃口から煙が微かに漏れている。
 その場の空気は…瞬く間に硬直していった。

 暫くは三者とも、無言だった。
 当然だ。太一も眼鏡も…相手に向かって銃を突きつけている訳なのだから。
 迂闊な行動や言動は、無駄に相手を刺激することになりかねない。
 結果的に、慎重に成らざるを得なかったのだ。

(…まさか、こんな処で太一に遭遇する…なん、て…!)

 その困惑ゆえに、克哉はぎゅっと…もう一人の自分のYシャツの袖を
強く握り締めて縋ってしまった。
 そうすると、其れに応えるように…眼鏡もまた、克哉の身体をしっかりと
強く抱き締めていった。
 
―他愛無いやり取り。だが、其処に紛れもなく答えが存在していた。

「何で…! 何でなんだよっ! 克哉さん…!」

 ついに堪え切れなくなって、太一は叫ぶように言葉を紡いでいった。
 顔をクシャクシャにしながら、今にも泣きそうな様子だった。

「俺は…ずっと貴方が帰って来てくれる日を待っていたのに! 全てを…片付ければ
きっと克哉さんは俺の下に戻って来てくれるって…! 俺はそう信じて
待っていたのに…!よくも、裏切ったな…!」

「太、一…」

 そうして克哉を睨んでいく太一の眼差しには本気の殺意と憎悪が同時に
存在していた。
 恐らく、彼には判ってしまったのだ。
 今、克哉の心の中にいるのは…誰なのか。
 本気で焦がれて、愛しい相手が…他の誰かの下で立ち直って、楽しそうに
笑っている現実が…青年を深く打ちのめしていた。

「そう、だね…。これは太一から見たら、立派な裏切りだな…」

「人が散々、克哉さんの命を脅かした奴を探すのに必死だった時も…
あんたはそいつを咥え込んでいたんだろ! 平気な顔して! 俺の気持ちを
踏みにじって! 本当、あんたはどうしようもない淫乱だよな!」

「うるさい! 黙れ!」

 その罵りの言葉に先に反応したのは、眼鏡の方だった。
 彼もまた、本気の怒りを込めながら太一を睨みつけていく。
 一食触発の空気が、その場を支配していった。


「…自分の事を棚に上げるのはいい加減にして貰おうか…!
そもそもコイツがお前の親父に命を狙われることになったのも、ようするに
お前が間違ったことをし続けたからだ。
 コイツの命を脅かすようになった原因はお前の方が作ったのに…一方的に
相手ばかりを責めるのは卑怯なんじゃないのか!?」
 
「それをお前が言うのかよ! あんたが俺の下から、克哉さんを連れ出したりなんて
しなければ、こんな事には…!」
 
「それを本気で言っているのかっ!」
 
本気の怒りを込めながら、眼鏡が恫喝していく。
ビリビリビリとその振動で、克哉は痺れてしまいそうだった。
だが、太一はまったく怯んだ様子は見せない。
むしろ一層、強く相手に憎悪の眼差しを向けて…睨みつけていく。
 
「はっ…! あんただって、俺にこの人を返すって約束していた癖に…人の物に
手を出していけしゃあしゃあとしやがって…! この人はもうとっくの昔に…俺の
物なのに、良いツラの皮をしているじゃないか…!」
 
「本当に、お前は…そう思っている、のか…?」
 
 自信たっぷりに、眼鏡は微笑んで見せた。
 知らぬ間に、岩壁の穴から覗く空は…赤く色づき始めて、夕暮れの景色を
匂わせていく。
 水平線に、微かに暮れなずむ太陽の朱が滲み始めて…時折、鮮烈に輝きを
放ち始めていった。
 眼鏡は…腕の中の克哉を、片手で拳銃をしっかりと握りながらも…
両腕で抱き締めていく。
 それはまるで、克哉は…自分のものだと言いたげの態度だったので、
余計に頭に血が昇る思いであった。
 
「なら、聞いてみろよ…。コイツに、な。今…佐伯克哉は、誰のものなのか…?
その口から、はっきりと…聞いて、みろよ…」
 
「聞くまでもないだろ…! 克哉さん。貴方は…」
 
―数日前、オレはすでにはっきりと言った筈だよ。オレは…いつ、太一のものに
なったのかなって…
 
 冷や水を打たれるような、克哉の抑揚のない声がその場に反響していく。
 それは、感情を必死に押し殺しているような声。
 けれど同時に…冷酷なものでもあった。
 
「な、んで…!」
 
 あれだけ、愛したのに。
 こんなにも求めて、所有の痕を刻み続けていたのに。
 この人が持っていた全てを奪って、俺以外のものを全て失くさせたのに…。
 どうして、この人の全てを俺のものに出来ないのだろう…!
 
「何でなんだよぉ! 俺は、こんなに…克哉さんを愛しているのに! 貴方しか
見ていないのに…どうして、他の奴なんて愛するんだよ! 
他の奴のものになるんだよぉ! 他の奴に平気で抱かれるんだよっ!」
 
「甘ったれた事を抜かすな! お前は…こいつから、会社も、家族も、友人も
全てを奪って監禁した癖に…お前は、何も捨てなかった。
自分が持っているものを何一つ捨てないで、コイツの全てを欲したんだ。
お前が何も犠牲を払っていないのに…どうして人、一人の人生を求める権利が
あるっていうんだ…!」
 
「…っ!」
 
 それは、今まで気づかなかった視点であった。
 だが、太一は失くしている。とても大事だったものを。
 克哉を愛して、裏切られてしまったが故に…すでに失ってしまっていた。
 
「…何も犠牲を払ってない、って勝手に決め付けるなよ…! 俺は、あんたの為に
自分にとって一番大切なものを打ち砕かれているんだ…! その代価に、
あんたの人生を欲して何が悪い!? それぐらいの償いをしてもらわなきゃ、
割が合う訳がないだろ…!」
 
「そうやってお前は、被害者面をして…こいつに罪悪感を植え付け続けて…
これから先もずっとこいつの人生を当たり前のように要求して、縛り続けるというのか?
 それが…お前にとって、本当に…『愛している』という事なのか…!」
 
眼鏡の追撃は、止まらない。
それは太一が敢えて見ないようにしてきた、良心に属する言葉ばかりだった。
彼自身だって、それがどこかで歪で間違っていることをどこかで気づいていた。
だが、彼は不安だったのだ。突然…別人のように豹変してしまった克哉と対面し、
犯されてしまった日からずっと…。
 佐伯克哉という人は、優しくて人畜無害な…自分が守ってあげなきゃいけない
ような弱い人だと思っていた。
 その人が、突然…別人のように冷たく、傲慢で強い男になって…逆に自分が
犯されて良いようにされてしまった日から、太一の男としてのプライドは
ズタズタだった。
 長らく自分が培ってきたもの、価値観。そういうものをたった一日で全て崩されて…
見たくない感情で自分の感情は、ドロドロになって一杯に満たされてしまった。
 
「それくらいの事をして…何が悪い! 俺は、そうだよ…! 特に眼鏡を
掛けたあんたに犯された日から、自信も何もかもがボロボロになった! 
特に音楽を紡ごうとする度に…あんたに対する憎しみで、音楽が汚れ続けたよ!
綺麗なメロディも歌詞も…何も紡げなくなった!俺の中にあった嫌なものが、
何かを生み出そうとする度に溢れて…止まらなくなって!
それで音楽に対しての自信も失ったよ! 俺が憧れ続けていたミリオンレイの
ような綺麗な旋律は…もう俺には二度と作り出せないって絶望してなっ! 
それでもお前を許せというのかよ!自分にとって一番大切なものを、
壊されて…ダメにされて! それ、でも…!」
 
「そ、んな…」
 
 その言葉を聞いたその時、克哉は…目を見開いて肩を大きく震わせていった。
 それが、太一が…音楽をやらなくなった一番の、理由だったのだと…
その真実を知った時、克哉はあの日…安易に銀縁眼鏡を掛けるような真似をした、
自分を大きく責めた。
 だが、眼鏡ははっきりと告げていく。
 
「甘えるのは、いい加減にしたらどうだ? それで…お前は、自分のした事の
全てが免除されるとでも思っているのか?あんな…他人の会社のデーターを
平気で盗み出すようなサイトを運営してしらばっくれて。
コイツから、被害者面して責め続けて…全てを奪った上に、自殺寸前にまで
追い詰めて。お前が音楽を紡げなくなったのも、お前が…自分の心と
向き合わなくなったからだろ?

俺は創作など手がけた試しは学生時代の課題程度しかないから、上手く言えんがな…。
作品というのは、その人間の心の在り方や本心が…嘘偽りなく現れる。
だから己の心を向き合える人間だけにしか、本当に感動させる力が
あるものは生み出せない。
 そんな事を誰かが言っていたという記憶はある…。
お前が、音楽を紡げなくなったのは…所詮、お前にとって音楽がその程度で
しかなかったという証であり。その罪をまた、こいつに押し付けているだけに
過ぎないんじゃないのか…? 本当に失くせないものなら、何が何でもしがみついて…
苦しくても、人は手放さないものだろうが…!」
 
 そう強く訴えていきながら、眼鏡はしっかりと克哉を抱き締めていく。
 その言葉に重みが宿っているのは、彼にとって…今は失えないものが
出来たからだ。
 それがもう一人の自分である、という事実は正直苦笑したくなるが…
苦しくても、何でも彼は…克哉を手放せなかった。

 いつか、こうして太一と敵対することになっても。
 その背後にいるヤクザも一緒に敵に回す事になって自分の命が
危険に晒されても。
 本気で求めているものなら、どうして手放せるというのだろう…!
 覚悟して、本気でそれを手放すまいと決めている者と…自分の弱さに
向き合えず、その心を闇に落としてしまった者。
 その両者が向き合って…弱さに負けてしまったものが、勝てる筈がない。
 だから…どうしようもない憎しみが、胸の中に生まれていく。
嫉妬という強い感情を伴って…!
 
「黙れぇぇ! もうそれ以上…言うなっ!」
 
 もう、この男の言葉を聞いていたくなどなかった! 
 自分の中の弱さを、克哉がどうして自分を選んでくれなかったのか
その理由をまざまざと突きつけられてどうしようもない胸の痛みが
太一を苛んでいった。
 たった今、自分の配下達にも見切られて、愛しい人まで失って。
どうして…それで真実まで突きつけられなければならないのか。
それらが、せめて一つ一つ…順番に来たのならば、まだ太一とて
向き合えたかも知れない。立ち向かえたのかも知れない。
 けれど僅か数日の内に一気に押し寄せて来た事で、対処しきれなかった。
苦しくて苦しくて、どうにか逃れる為についに感情的な行動に出てしまっていた。
 
「もう、聞きたくない!! 黙っていろぉぉぉ!!」
 
 そうして、太一はついに引き金に力を込めた状態で…克哉達に向かって銃口を
しっかりと向けてしまっていた。
 人は、時に人を傷つけたり殺めたくなる衝動に駆られる瞬間がある。
 どれだけ善人の中にも、必ずそのような暗い一面は潜んでいる。それが真理だ。
 だが、実際にそれを実行に移すものと、寸前で踏みとどまる人間との
決定的な違いは何か。
 
 ―それは人との繋がりなのだ。
 
 大事な人間、恋人でも友人でも家族でも…大切に思っている属している
場所のどちらかがあれば、それらを失いたくない。
 壊したくないとストッパーが掛かって人は過ちを犯さずに済む。
 だが、太一はそれを失った直後だった。
 いや、実際は失っていないのだが…彼はまだ、冷静になりきれていなかった。
 全てを失ったという絶望に取りつかれた状態だった。
 だから制御がつかなかった。感情のままに行動し、ついに実行に出てしまった。
 
「…危ないっ!」
 
 眼鏡はいち早く、太一の尋常じゃない状況を察した。
 だから反射的に、腕の中にいた克哉を力任せに突き飛ばして安全な
位置へと追いやっていく。
 
(ちくしょう…間に合うかっ…!)
 
 そして、彼は反射的に手の中のベレッタM92を構えていく。
 互いに銃口を向け合い、真っ直ぐに相手だけを見据えていった。
 
「嫌だぁ! 二人共…止めてくれぇぇぇ!」
 
 自分にとっては、太一も…眼鏡も、本気で愛しい人間だった。
 確かに、自分は太一の所有物ではない。
 ずっとそれは否定し続けているが…胸の中に確かに、今も大切に想っている
気持ちを抱いている人間なのだ。
 同時に、眼鏡は今の克哉にとって欠かすことの出来ない存在なのだ。
 その二人がいがみ合い、殺しあう場面など見たくない…だから止めようと
その間に割り込もうと起き上がった瞬間。
 
パァァァァン! パァァァァン!
 
 二発の銃弾が、その場に同時に響き渡っていった。
 目の前で起こった出来事のせいで、時間が止まったかのような…
錯覚を受けていく。
鮮やかに、二人から…あの桜の日のように、鮮やかな血飛沫が舞い散る。
茜色の光が舞い込んでくる中、その鮮血が飛び散る様はあまりに…
残酷なまでに綺麗過ぎて、怖すぎて言葉を失っていく。
 
「嘘、だろ…! 嫌だぁぁぁ!」
 
 克哉は耐え切れずに絶叫していく。
 そう、その銃弾は…片方の胸を、確実に貫いていた。
 見る見る間にその相手の胸が…血で、汚れていく様を見て…。
 克哉は、反射的にその相手の元へと全力で駆け寄っていったのだった―
 
 

 物語も終盤に入りました。
 ここまでお付き合い下さった方々、どうもありがとうございます。
 それと…クライマックスに入りましたのでこれから最終話まで一話一話が
長くなります。
 それに伴い、アップ時間も日付越えが続く事が多くなるので
ご了承下さいませ。

 …ぶっちゃけ、毎日書いている本人もハラハラバクバクしながら
書いています。
 というか戦々恐々になりながら連載続けているもので…(汗)

 それでも、書きたい! と思うテーマやメッセージがあるから
一先ず30話まで書いて来ました。
 この話はどん底に落ちた時にどうやって人間が這い上がって
いくか…そういう過程を書いています。
 暗い話や、みっともない部分もかなり書いていますが…
書きたいんだから、しょうがない。

  …最近、掲載遅くなりがちなのが続いてすみません。
 けど、ここまで来たら最後まで拘って書きたいので。
  残り5話、どうぞお付き合い下さいませ。
  ではこれから書いて参ります(ペコリ)

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プロフィール
HN:
香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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