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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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 ―克哉と眼鏡が、地下水路で色々と話し合っているのと
同じ頃…太一は一人、海側の方へとやって来ていた。
 片頬には赤い痕がくっきりと刻まれ、明るいオレンジの髪は乱れて
酷い有様になっていた。
 自然が多い処だと聞いたので、迷彩服を身に纏った彼は…全力で
走り続けていく。
 
 はあ、はあ…はあ、はあ…!

 彼は、苦しげに呼吸を繰り返していきながら、痺れそうになっている
四肢を動かし続けた。
 何人もの人間が、彼を一斉に追いかけてくる。
 それに捕まるものかと…彼は意地でも進む足を止める事なく追跡者から
逃げ続けていく。

「くそっ…!」

 悔しげに呟きながら、彼は辛うじて舗装されている道の上を進み続けた。
 どうしてこんな事になったのか、困惑しながらも…彼は身を隠せそうな場所を
必死になって探していく。

(…まさか、親父がここまで…俺の部下に根回し済みだなんて…)

 状況がひっくり返ったのは、30分前の話だった。
 克哉達が潜伏していると思われる屋敷を、全員で囲んで…威嚇射撃を
一回してから、総勢20名ほどで襲撃をする予定だった。
 だがその直前、彼は裏切りにあった。
 自分の信頼している部下達に、唐突に太一自身が囲まれ…取り押さえられ
掛けたのだ。
 最初は、どうしてこんな事をするのか本気で彼らに対して怒りを覚えた。
 だが…その場にいた全員の意思はすでに固まっていたのだ。

―若、どうか…このまま引き返して下せぇ

 自分の面倒を長年見て来た、壮年の男は懇願するように…そう告げて来た。
 太一の父とも親しい距離にいる、その男が…必死の形相で土下座をしながら
そんな事を言って来た時…呆然とするしかなかった。

『どうしてだよっ! 克哉さんはもう間近にいるのに…何故諦めないと
いけないんだよっ!』

―ここにいる人間、全てが…あの人に帰って来て欲しくなんてないからですよ。
…ぼっちゃんが惚れ抜いている方だと思って、ずっと…あっしら我慢していました
けどね。ぼっちゃんが実家に戻られた際に…あの人を連れて来たでしょう?
 その辺りから…まるで別人のようになられて、冷たくなったじゃねえですか。
 そんなあんたを見ているだけでも…あっしらはしんどかったのに、春には…
あの人を庇って、ぼっちゃん自身すらも死に掛けてしまわれて…!
 傍にいたって、ロクな事がないじゃないですか…! それだったらあっしらは
跡継ぎになんてならなくて良いから、無邪気に音楽バカやっていた頃のぼっちゃんの
方がずっと好きだったんでさ! 
 あの人が傍にいる事で…ぼっちゃんが、音楽を忘れて…あんな荒んじまうくらいなら
戻って来て欲しくなんかないんですよ…!
 だから大人しく、諦めて下さい…! これは、大旦那様の意思でもあるんでさ…!

「何だって…じいさんまでも、克哉さんに…戻って来て、欲しくない…って?」

 叩きつけられるように言われた言葉に、太一はつい呆然となっていく。
 それと同時に…他の若衆が、口火を切っていった。

―当たり前でさ! ぼっちゃんをそんな風に冷たい人間に変えた人に…
どうして、良い感情なんて抱けるんですかい! あの人に良い感情を持って
いる奴なんざ、うちの組の中には誰もいないですよ! 
 ぼっちゃん、いい加減目を覚まして下さい…! ここで踏み止まらなければ
あんたにこれ以上、誰も従わなくなっちまう。
 まだ若いから、色に狂ったり気の迷いもするだろう…と寛容に見ていますけれど
これ以上…馬鹿な真似をするんなら、誰もついて来なくなりますぜ…!

 そうして、太一は瞬く間に羽交い絞めにされて…自由を奪われていった。
 何人もの人間が、必死の形相を浮かべていきながら青年ににじり寄っていく。
 だが、太一とて…伊達に長年、ヤクザの家で育ってきた訳ではないのだ。
 目で彼らを威圧しながら…抵抗の意思を示していく。
 その迫力に、つい周りの人間は押されていった。

「離せっ! お前らが何と言おうと…俺は克哉さんを取り戻す! 俺は…
あの人を愛しているんだからなっ…!」

 迷いない口調で、はっきりと太一は告げていく。
 それと同時に周りの人間全てが…苦々しげに溜息を突いていった。
 恋は盲目、とは良く言ったものだ。
 太一は…克哉を連れて帰って来た日から、周りの事がまったく見えなくなって
しまっているようだった。
 以前は太陽のように明るかった彼が、別人のように荒んだ瞳をするようになり。
 同性の人間を…嗜虐的に抱くようになり、それを周りの人間に見せ付けるように
抱くような真似をするようになってから、太一に向けられていた信頼や好意の
多くは失われてしまっていた。

―聞き分けのない事を言わないでくだせぇよ。ぼっちゃんが…あの克哉とか
言う人を愛しているっていうのはここにいる人間全てが嫌ってほど判って
いますよ…! けどね、あんたは…もう、うちの組の看板を背負っているんだ。
 簡単に命を捨てるような真似をされたら、その下についている何百もの
五十嵐組に関係する人間が路頭に迷う事になる…!
 あんたがこれ以上…克哉、という人を追いかけるっていうのなら、あっしらの
全てを捨てる覚悟でやって下せぇ…!
 色恋に狂って、まともな判断を下せない跡取りを認める程…あっしらの商売は
軽いもんじゃない! その覚悟がなく…五十嵐組の跡取りでいたいなら、どうか…
諦めてこのまま帰る事ですな…! 

 苦しげに、長年…祖父や父にとっても信頼出来る部下であった男が…訴えていく。
 その時になって初めて、冷や水を打たれたような気持ちになった。
 この男に…こんな決断を迫られてやっと、自分の立たされていた状況を…太一は
初めて自覚したのだ。
 周りにいた人間の殆どは、自分ではなく…目の前の男や、父親の考えに賛同していた
のだという現実を初めて自覚していく。

―誰が…諦めるかよぉっ!!

 太一は、怒りに任せて…自分を羽交い絞めにしていた人間を、全力で振り払う
ことによって抵抗していく。
 同時に胸元に忍ばせていた一丁の拳銃を引き抜いて…目の前の男に突きつけていく。
 ここに連れてきた20名は…皆、自分が信頼している人間だった。
 だが、皮肉にも…心から太一を想ってくれているからこそ、克哉を取り戻すことに
彼らは誰もが消極的だった。
 
 克哉が、かつて…真っ直ぐに音楽に打ち込んで夢中になっていた太一を好ましく
思っていたように、ここにいた全ての人間は…太一が跡取りにならなくても、自分の
好きな夢を追いかけてくれたら良いと願っていたのだ。
 だが、克哉を連れて戻って来た太一は…酷く傷ついて荒みきった瞳をしていて
別人のようになっていた。
 そして、音楽の事など忘れてしまったかのように振る舞って…克哉を監禁する為の
経済力と権力を得る為だけに、あれだけ嫌がっていた跡取りになる事を決意したのだ。
 そんな太一を、周りの人間全てが見ていられなくなった。
 最初は、唯一の男孫である彼が…跡を継ぐことに喜んでいた祖父でさえも、太一が
克哉を庇って命を落としかけた一件を報告されてからは…否定的な考えに変わって
しまった程だ。

 だが、太一は…それを知った上でも…諦め切れなかった。
 それは子供の駄々といえるレベルでのどうしようもない執着心。
 もうすでにそれは愛情ではない。妄執や…執念と言える代物だ。

―それがぼっちゃんの答え、ですか…。

「あぁ…そうだ。俺は…克哉さんを何が何でも、取り戻す…!」

―なら、あっしらはぼっちゃんを全力で取り押さえさせて貰いやしょう!

 この場を取り仕切っていた男が…号令を掛けると同時に、周りにいた人間が
一気に間合いを詰めていった。
 それと同時に太一は…斜め上に向かって、一発の銃弾を放っていった。

 パァン!!
 
 響き渡る盛大な銃声。
 この場にいた人間の全てが、一瞬立ち止まっていく。
 太一はその隙を突いて逃げ出し…そして、現在の状況に陥ったのだ。

(ちくしょう…!ちくしょう…!ちくしょう…!)

 走り続けている最中、先程言われた言葉がグルグルグルと…頭の中を
巡り続けていく。
 信じていた連中であっただけに、この展開は…彼にとって、心理的な打撃は
かなりのものであった。
 克哉を取り戻せば、安心出来ると思っていた。
 この焦がれるような感情も、貪るように彼を抱き続ければ…かつてのように
収まっていくと信じて疑っていなかった。
 だが、春の…太一が克哉を庇って命を落としかけた一件によって…周りの
人間全てが、それをもう許してくれそうにない現実をようやく彼は知ったのだ。

「克哉、さん…克哉、さん…!」

 狂った機械のように、ただ…その人の名前だけを弱々しく呟き続けながら
彼は追っ手から逃げ続けていく。
 全身から大量の汗が浮かび上がって、ベタベタだ。
 運動量に対して、入って来る酸素の量が確保出来ていないせいか…もう
苦しくて足が鉛のように重く感じられていく。
 だが、彼は…それでも、捕まったら終わりだと思って…執念で足を動かしていた。
 しかし…炎天下で、これだけ激しい運動をして…これだけ長い時間、水分補給も
なく走り続けたりなんかすれば意識だって朦朧としてくる。
 そうしている間に、彼は…ぬかるみにハマっていった。

「うわっ!」

 そしていきなり、ズボっと足が地面に沈んで…一気に彼の身体は
飲み込まれていった。
 まさにそれは一瞬の出来事。
 この周辺は、水脈が幾つも走っており…大地の至る処に、泉や
地下水脈に繋がる穴が空いている。
 太一がハマったのも、腐葉土によって覆い隠されていた人一人くらいなら
すっぽりと入り込んでしまえるくらいの枯れた泉の跡であった。 
 水がなく、空洞になった泉跡に踏み込んだ太一の身体はあっさりと
飲み込まれ…この辺りに無数に走っていく地下道の一つへと
その身を運ばれていく。

「いってぇ…!!」

 盛大に尻餅を突いて、尾骶骨に衝撃が走っていく。
 だが、かなりの高さから落下した割には…落下地点の周りには柔らかい
腐葉土が降り積もっていたせいで、被害は左程出なかった。

「…ってぇ…! 何でこんな処に、落とし穴なんてあるんだよ…! って…
暗い、なっ…!」

 周囲を見渡していくと、明かりが届かない場所なのか…殆ど視界が
効かなかった。
 どうにかして明かりを…と思ったので、携帯電話を取り出して、そのライトを
頼りに進んでいこうとすると…。

「…発信機の反応が、近い…?」

 ふいに、克哉に取り付けていた筈の発信機が反応を始めていった。
 太一が屋敷の前に辿り着いた時よりも謙虚に小型のレーダーが反応しているのを
目の当たりにして…呆然となっていく。

「…そっか、克哉さん…。この近くに、いるんだ…」

 それなら、あの屋敷に襲撃しても…きっともぬけの殻だったのだろう。
 その事実に気づいた時、邪悪な笑みが知らぬ間に浮かんでいた。

 ―そこまでして…貴方は俺から、逃げ続けるのかよ…!

 こんなに、こんなに愛しているのに…! 
 どうして貴方は俺から逃げるんだ!
 何故笑ってくれなくなったんだ…!
 そんなドロドロでグチャグチャな感情が吹き出していきながら…まるで
幽鬼のように、太一はゆっくりと発信機が反応している方角へと向かっていく。

―逃がさない。貴方は絶対に…取り戻すかんね…!

 そして、恋に狂った男が一人…洞窟の奥へと進んでいく。

 一人の人間に恋して、狂ったが故に…彼は、周りの人間の信認を知らぬ間に
失っていた。
 愛する人すらも、それで…心を閉ざして、何も飲食を受け付けなくなって
しまった。
 父や祖父からも、この恋を快く思われていなかった…その残酷な事実を
改めて突きつけられて、絶望ばかりが彼の心を満たしていく。

 だが、それらの事態を招いた全ての発端もまた、彼が生み出している。
 それに気づくのはまだ彼は若く、経験も浅かった。
 愛する人と上手く行くのに本当に必要なことは何だったのか…彼は
まだ気づいていない。
 だから、絶望に浸りながら…相手を責めることでしか、自分を保てなかった。

 ―愛する人と笑い合うのに必要なことはなんだと思いますか?

 ふいに、歌うような口調で…幻聴が聞こえた。

―貴方はまだ、それに気づかれていないご様子ですね…。ふふ、結構です。
いやでもこの先に…残酷なまでの真実が存在します。
 それによって…貴方は気づかされるでしょう。自分がかつて置き去りに
してきたものが何だったかを…。
 さあ、もう舞台は最終場面に辿り着きました。その結末をどうか…
御自分の目に焼き付けて下さい。
 この愚かしいまでに真っ直ぐな愛の結末がどのようなものか…
貴方は、見届けなければならないでしょうから…

 何故、そんな声が…聞こえるのかが、太一には判らなかった。
 けれど、それでも立ち止まることなく…彼は鈍くなった足を、ぎこちなく
進ませていく。
 水脈の果てには、海へと続く出口が存在する。
 その方向に向かって…彼は、ただ歩いていった。

―その終わりに存在する、この恋の終焉に立ち会う為に―
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 眼鏡と克哉は、懐中電灯の明かりを頼りに…石灰岩で構成されている
洞窟の中を進み続けていた。
 隠し通路から出て暫くは…鍾乳石や石筍があちこちに点在して
非常に道がデコボコしたり、狭くなっていたりして進みにくかったけれど
ある程度進んだ辺りから急に開けて、地下水脈と繋がっていった。
 
 長い年月を掛けて、水が流れることによって穿たれた通路の
傍らには清水が緩やかに流れていた。
 サラサラサラ…と海の方へと静かに向かっていく水路を
伝うようにしながら、無言で彼らは進んでいった。

(…さっきから、何も言ってくれないよな…)

 もう一人の自分は、懐中電灯を片手に持ちながら慎重に先に
進んでくれていた。
 そのおかげで、克哉の方は安全に後を追うことが出来た。
 水路に繋がってからは地面のコンディションもかなり安定していて
転びそうになる事もなくなったが、天井や地面に突起が沢山あった
地点では、ちょっとした拍子に転倒しそうになった事が何度もあった。
 ひんやりとした空気が、辺りを満たしている。

 本来なら今日はかなり暑い日であった筈なのに、清らかな水が
流れるこの洞窟内の空気は冷たく…逆に肌寒いくらいだ。
 滑らかな岩肌に、手を這わせていきながら慎重に奥へと進んでいく
内に…急に天井が高くなって、足場も大きく取られている地点へと
辿り着いていった。
 泉のように、足元には綺麗な水が讃えられていて…その周辺も
二人ぐらいなら寝そべって、くつろげそうなくらいの空間が確保されている。
 懐中電灯に照らし出された水面は、キラキラと闇の中で輝いていて…
とても綺麗であった。

「…ここ、休みには丁度良さそうな場所だね。…少し休んで、昼食とか
水分補給…しようか?」

「あぁ、そうだな…」

 克哉が提案すると、眼鏡が…浮かない顔で頷いていく。
 さっきからずっと、彼の様子はこんな感じであった。
 この隠し通路に入った辺りから…殆ど言葉を発することなく、沈黙した
まま…一時間以上二人は歩き続けていた。
 眼鏡は無言のまま、泉の傍へと腰を下ろしていく。
 克哉は背中に背負っていたリュックから二人分のステンレス製のマグカップを
取り出していくと…冷たい水をそっと汲み上げていった。

「はい…冷たい水。生水だから、ちょっと怖い部分あるけど…これが飲めるようだったら
ペットボトルの水は温存しておいた方が良いだろうから…」

「ああ…」

 心、ここに在らずといった風に…眼鏡は素直に頷いて、克哉が差し出した
マグカップを手渡していく。
 ずっと彼は…ここに入る直前辺りから、思う事があったらしい。
 しかし悩んでいたり、苦しんでいる事を彼は安易に口に出せる性分ではない。
 だから押し殺し、平静の顔を保つことしか…彼には出来ないのだ。

(…悩んでいるみたいだな。あいつ…)

 克哉には、彼がこうやって押し黙ってしまっている理由に大体の予想は
ついていた。同時に彼のプライドの高い気質も良く判っている。
 だが…このまま何も話さないまま、見ない振りしてやり過ごしても…この
洞窟を出れば、正念場が待っているのだ。
 …多少の時間のロスを覚悟しても、向き合った方が良いかも知れなかった。
 気を落ち着けようと…冷たい水を一杯、喉に流し込んでいく。
 それから深く深呼吸して…心を少しでも鎮めてから、克哉は口を開いていった。

「あのさ…あんまり、気にしなくて…良いから…」

「…? 何を、だ…?」

「…太一とオレが、こじれた事は…キッカケはお前が確かに作ったのかも
知れないけれど…その後は、オレの対応の仕方がまずかっただけの話だから。
…もうお前が、そんなに…罪悪感を覚えている必要は、ないよ…」

「…っ!」

 その一言を口に出した時、眼鏡は瞠目していった。
 ハッとなったように顔を上げて…こちらを真っ直ぐに見つめ返してくる。
 そう、眼鏡は三日前から克哉の態度がおかしいことはすでに気づいていた。
 だが…それは今まで、敢えて触れないようにしていた。
 …克哉が全てを思い出していたのなら、恨まれても仕方ないことを確かに
自分はやっていたのだから。
 さっき、Mr.Rと語り合っている時の様子を見たからこそ、余計にその事実は
眼鏡の心の中に圧し掛かっていた。
 それが…彼が口を閉ざしていた最大の要因だったのだ。

「…やはり、お前は…全部、思い出しているんだな…?」

「うん、三日前に。…太一から電話が掛かってきて、話した時に…この一年に
起こった事の殆どは、思い出したよ…」

「そう、か…。やっぱりな…」

 自嘲的にもう一人の自分が笑っていく。
 その切なそうな顔に、見ているこちらの胸が潰れそうになったぐらいだ。
 何から、話せばいいのか…両者とも深く迷い、そのまま沈黙が落ちていく。
 言いたい言葉、話したいことは溢れるぐらいにあった。
 けれど何から話し合っていけば良いのか…少し、判らなくなってしまったからだ。

「…全てを思い出したなら、俺を…憎んでいるんじゃ、ないのか…?」

「ううん。そんな事は…ないよ…」

 そういって、克哉は…少し間合いを詰めて…もう一人の自分の方へとゆっくりと
抱きついていった。
 言葉だけでは、もしかしたら信じてもらえないかも知れない。
 そう考えて…克哉はしっかりと、その背中に腕を回してしがみ付いていく。
 『お前を憎んでなんかいない』 と…そのメッセージを確かに伝える為に…。

「…確かに、さ。太一があんな違法なサイトを運営している事を問い質す為に
埒が明かなくて、オレはあの眼鏡を掛けてお前に頼った。それで…あの一件が
起こって太一はそれから…おかしくなった。それは事実。
 けれど…お前が介入したのは、オレを桜の日に助け出すまでは…それだけで。
後は結局…オレと太一の問題だったんだ。
 お前を恨んだり、責任転嫁するのは簡単だ。けれど…今は、数え切れないくらいに
オレはお前に助けられているんだ。それで…都合の悪いことだけ、お前のせいにして
恨むなんて真似…出来ると思っているのか?」

 相手の首筋にしっかりと腕を回して、真っ直ぐに瞳を覗き込んでいきながら…
克哉は眼鏡に伝えていく。
 わだかまりは、残しておきたくなかった。
 彼を罪の意識で…自分のように、苦しめたくなかった。
 けれど克哉に、優しくされればされるだけ…今の眼鏡には辛いようだった。
 切なげに瞳を細めて…何かに耐えているような、そんな顔を浮かべていく。

「…本当に、そう思っているのか…? お前は…太一を、愛しているんじゃ…
ないのか? 太一との仲をグチャグチャにした…俺を、本当に…受け入れると、
いうのか…?」

 全てを思い出したのなら、自分を選ぶ訳がないと思った。
 あの二人は…違法サイトの件を問い質す以前までは、非常に関係は良好だった。
 それを崩したのは、自分だと…克哉を愛するようになってから、眼鏡は気づいて
しまったのだ。
 それが…元来は傲岸不遜であった彼を大きく変えてしまった、最大の要因でも
あったのだ。
 
「…何か、お前…以前に比べると随分と悩むようになったね。以前にさ…オレの
前に初めて現れた頃のお前ってさ。出来るけど、自分の事しか考えなくて…身勝手で
こちらの気持ちなんて一切慮ってくれたことなんてない奴だったのに。
本当に…変わったよね」

「悪かったな…。誰が、俺をこんなに臆病に変えたと…思っているんだ…」

「御免ね。きっとオレのせいだね…。けれど、オレは…今のお前の方が、好きだよ。
とても…優しい瞳をするようになったから…」

 そういって、愛しげに克哉は…眼鏡の頬を撫ぜていく。
 綺麗なアイスブルーの瞳を、そっと覗き込んでいくと…克哉は愛しげに目元を細めていく。
 慈しむような仕草に、つい…張り詰めていた何かが緩んでしまいそうだった。

「…見るな。こんなみっともない姿を…お前に、見せたくない…」

 こんな事ぐらいで、つい泣きそうになる自分の姿など…他の人間に見せたく
なかった。だが…克哉は、だからこそ…もう一人の自分を愛しいと感じていたのだ。

「どうして? オレは…お前の、そういう弱さも…愛しいと思っている。何もかも完璧で
傲慢で…人の気持ちなどまったく考えないお前より、そうやって…迷って、悩んで…
オレの事を考えてくれるようになったお前の方が…ずっと、オレは好きだよ…」

―だから、これ以上…罪悪感なんて抱かなくて良いよ

 そう、許しの言葉を呟きながら、そっと唇を重ねていく。
 その口付けはとても優しくて…慈愛に満ちていて。
 ついに…一筋の涙が、眼鏡の頬から伝っていった。

―あぁ…俺はこんなにも…怯えて、いたんだな…

 いつか、こいつの記憶が全てが蘇った時…克哉の気持ちが変わってしまうことを。
 許さない! と詰られて太一の元に帰ってしまうんじゃないかって…ずっと内心では
自分は怯え続けていたのだと思い知らされる。
 好きになればなるだけ、克哉の存在が大切になればなるだけ…その不安は大きく
なっていって。
 口に出せない分だけ、それは彼の心の中に大きく圧し掛かっていった。

「本当に、許すのか…?」

「…うん、当然だろ? …もう罪悪感とか…償いとか、そういう感情で傍に
いたくない。好きだから…その想いだけ抱いて…お前の傍に、いたい。
オレは…太一とは、それで間違ってしまったから。お互いに好きあっていたのに…
あの一件が起こった後、オレは償いという名目で…自分の持っている全てを捨てて…
太一の好きなようにすれば良いと、あいつに従うことを選んだ。
 それが…太一を大きく歪めてしまった、最大の原因であった事に…やっと
気づけたから…」

 そう、あの時…自分があんな無茶な要求に、償いという理由で従ってしまった
事から…歯車は大きく狂ってしまったのだ。
 両思いであった筈なのに、それで太一と克哉は…被害者と加害者という間柄に
なってしまっていた。
 そんな関係で繋がったから、太一は不安になってしまったのだ。
 償いという名目で克哉が傍にいるのなら、責め続けなければ…太一は克哉に傷つけられた
被害者で居続けなければ、引き止められないと思ってしまった。
 だから、彼は歯止めが効かなくなって…道を誤ってしまったのだ。
 離れて、記憶を取り戻して…二人への想いに揺れ動きながら悩み続けて、やっと…その間違い
に克哉は気づけたのだ。

「罪悪に縛られて傍にいたり、誰かを縛り付けちゃ…いけないんだ。
だから…もう、過ぎてしまった事なんだし…お前が苦しむ事はないよ…」

「…本当に、それで良いのか? 一度も…お前は太一と向き合わないままで…
このまま俺と逃げて…後悔、しないのか…?」

 もう一つ、彼は気に掛かっていたことを口に出していく。
 その質問は、やはり…少しだけ胸が痛んだが…少し考えて、慎重に言葉を
選んでから…克哉は答えていった。

「…拳銃とか、命の危険が生じる要因がなければ…正直言えば、太一の
元に直接向かって、話し合いたい。けど…太一は俺をどうこうしなくても、
あいつの周りにいる人間が…どんな行動に出るかまでは予想がつかないから…。
オレは、一度は命を狙われいる訳だし…一対一で確実に応対出来るなら
ともかく、そんな危険な場所に…お前を付き合わせる訳には…いかない、よ…」

「…俺の事は良い。お前がそうしたいなら…付き合ってやる、と…何度も
言っているだろう…?」

 少し怒ったような顔を浮かべながら眼鏡が睨みつけてくる。
 その真摯な眼差しが…逆に、嬉しく感じられた。

「…おい、俺は真剣に言っているんだぞ? 何故…そんなにニヤけた顔を
浮かべているんだ…?」

「…ん、御免。けど…オレにそうやって、選択肢を委ねてくれて…危険すら
省みずにこちらの意思を汲んでくれようとするお前を…危険に晒す真似は
やっぱりしたくないんだ。…そして、それが…オレがお前を選んだ最大の
理由でも…あるから…」

「…お前が、俺を選んだ理由だと…?」

「うん。お前は…オレの意見をちゃんと聞いてくれる。そして…その意見を
尊重してくれるようになったから。…太一は、不安に駆られてからは…オレの意思を
封じて自分に従えることでしか安心出来なかった。だからオレの心は無視され
続けたけれど…お前は、重大な時はオレの意見を尋ねて、ちゃんと聞いてくれた。
それが…オレには、凄く…嬉しかったから…」

 そういって、克哉は強く強く…もう一人の自分にしがみついていく。
 この腕を放したくたい。
 それが紛れもなく自分の本心なのだ。
 だから…もう気にしなくて良いと、全身で訴えていく。
 自分の心など、ずっと無視され続けた。
 だからこそ…大切にされる事が嬉しかった。
 彼の傍で、自分は息を吹き返せた。
 生きたいという当たり前の欲求を思い出せた。
 そして…何より、本当に…克哉は眼鏡を愛し始めていた。
 みっともない姿すらも、愛しいと思えるくらい…彼を想うようになっていた事を
ようやく自覚していく。

―だから、もう過去に縛られないでくれ。ただ…好きだからって理由で…
お互いの手を取ろうよ…。

 想いを、そんな暗い感情で二度と澱ませたくなかった。
 太一と自分は間違えてしまった。
 だから最悪の流れを生み出して、お互いの立場や命すらも危うくしてしまった。
 同じ過ちをもう犯したくない。その一心で…克哉は必死に抱きついていく事で…
自分の気持ちを伝えていく。

―お前がオレを必要としているのなら、ただその気持ちだけで…傍に
いてくれれば、それで良い…!

 克哉の方も…半分、泣きながら必死になって訴えていく。
 そうしている間に…眼鏡の方から、強く強く抱き締められていった。
 肩口に…顔を埋められていく。
 背中が軋むぐらいに、腕に力を込められた。

「…お前という存在は、本当に…俺を混乱させるな。どうして…こんなに
振り回され続けているのに…お前なんて、俺は好きになったんだろうな…」

 自嘲的に呟きながら、そのまま…噛み付くように唇を重ねられていく。
 それに応えるように、克哉からも強く抱きついていった。

「…答えは、単純だよ。オレが…お前を好きになってしまったから。
ミラーリングって知ってる? …好意には、好意が。恐れには恐れが…
嫌悪には、嫌悪が。人間ってね、その相手に抱いている感情がそのまま…
相手にも反射されて、同じ気持ちを抱くんだってさ。
 だから…どっちか先なのか判らないけれど…好意を抱くようになったから
お互いにその思いを返すようになった。それで良いんじゃないかな…?」

 悪戯っぽく笑いながら、ふと…どこかの本で読んだ心理用語を
思い出していく。
 その単語が頭に浮かんだ瞬間…ストン、と頭の中のパズルのピースが
ハマっていくようだった。
 自分と太一は、きっと…罪悪を互いに抱くようになったから、その感情が反射
しあって…不安が大きくなっていってしまったのだろう。
 それをどうにかするたった一つの方法は…許すことだ。
 自分が、相手が犯した過ちを許しあい…リセットする事で、過去に人は
囚われなくて済むのだ。
 だから克哉は、許したのだ。
 
 きっと眼鏡は、克哉を愛した事で己の罪を知った。
 それが…無理矢理、克哉をクラブRや夜のオフィスで犯した時とは…
違う彼に変えてしまった最大の要因なのだろう。
 そのことで彼が苦しんでいるなら、もう拘りたくなかった。
 好きな人に、責められ続ける苦しみを…克哉は、散々…太一の傍にいる事で
味わったから。
 もう一人の自分に、そんな痛みをこれ以上引きずって欲しくなかったのだ―

「…本当に、お前は…おめでたい男だな。自分の人生を狂わせるキッカケになった
事を…そんなにあっさり、許せるものなのか…?」

「…うん。恋人に責められる痛みは、もう嫌ってほど思い知っているからね。
だから…同じ事を、他の誰かにしたくないんだ…。それだけの事だよ…」

 苦笑いを浮かべながら、お互いの目をそっと…見つめ合っていく。
 心に溜まっていた事を素直に口にしたせいか…晴れやかな気分だった。
 もしかしたら、この洞窟に流れる清浄な空気と水が…自分達の心に溜まっていた
澱を浮かび上がらせてくれたのかも知れなかった。

 彼らの傍らにあった懐中電灯がコロン、と転がって…水面を鮮やかに照らし出して
いく。それが実に幻惑的な波紋の光を…周辺に浮かび上がらせていった。
 その光に包まれながら…二人のシルエットは静かに重なり合っていく。

―大好き、だよ…
 
 唇が離れた瞬間、克哉はそっと呟いていった。
 それから暫くの間…ただ、気持ちを確認する為に強く抱き合っていく。
 この温もりを守る為に。
 相手の手を離さなくて済むように、強く願いながら―

 だが、元来…3という数字は不安定な数字。
 安定を求める為に、淘汰を近い内に迫られるかも知れない。

 果たしてこの物語の最後に、残るのは誰なのか…。
 この時点では、彼らはまったく予想がついていなかった―
  
 

 こんにちは、21日分…二時間くらい掛けて書いたけれど
納得いかないので本日分は破棄致します。
 代わりに22日分として改めて書かせて頂きます。

 6~7P分書いたけど…何か、会話のテンポ悪くて歯切れも悪いんで
これを掲載したくない、と思ったもので。
 一応、ここ重要なポイントなのでもう一回リベンジ!
 納得いく流れにもう一回挑戦して持って行きたいんで…
ご理解して頂けると助かります。
 …やっぱりお腹が張って、妙に苦しい時に無理しない方が良いと
つくづく実感しました。
(ここ数日、便秘気味で相当お腹が張っています…汗)

 後、体調に関しての心配して下さっている方…どうもです。
 寒さに強くて暑さに弱い子なので…最近寝苦しくて、体調不良が
続き気味ですが…集中し辛いというだけで、寝込んでいたり…
動けないという程ではないのでご心配なく(汗)
 メールとか、拍手でお気遣いして下さって有り難う御座います。
 んじゃ今宵はこの辺で…。

 ―銃弾が打ち込まれてから、すでに1時間半ほど経過していた。
  二人は手分けして、ここを出て行く前の準備を始めていく。
  あれから、特に大きな動きがないのは在り難かった。
  だが、あの銃声は…こちらに対しての威嚇や、合図を意味していたのは
明らかであった。
 モタモタすれば、脱出するタイミングを逸してしまうかも知れない。
 その焦りを感じつつも…克哉は台所でリュックに数日分の食料と水を
詰め終えた後、…もう一人の自分に指示された通りの作業を克哉はこなしていた。

「…準備は、出来たか?」

「うん…言われた通りの作業は全部やっておいた。お前のフリーメールの
アカウントの方に…この携帯電話に登録されている人間の、番号とメルアドを
コピーペーストして、メール本文に打ち込んで…送っておいたよ」

「ああ、それで良い。…万が一という事があるからな。その携帯を失くしたり、
壊したりしてしまった時用の保険だ。それで少しは安心だろう…」

「うん…。けど、やっぱりお前って凄いと思う。オレはそんな処まで全然、
気が回っていなかったから。後…食料と水は、オレが背中に持って運んで
いくよ。拳銃を持って戦うお前は、少しでも身軽な方が良いだろうし」

「当然だ。一応…防弾チョッキの方は着込んでいるから、余程至近距離で
打たれない限りは大丈夫だろうと思うがな。いざという事に…両手の自由が
効く方が在り難い。こちらは…予備の弾薬も持ち歩かないといけないからな…」

「ん、そうだね。オレの方の準備は終わったよ。水も500ミリリットルの奴を6本、
非常食のカロリーメイトも…8箱、それとアルファ米や…缶詰も何個か詰めて
あるから、節約して食べれば3~4日分くらいは大丈夫だと思うよ」

 そういって、克哉はニコリと笑っていく。

―準備は出来ましたか?

 そして二人が準備完了、と報告しあっている時に…まるでタイミングを
見計らっていたようにMr.Rが台所に入っていく。

「ええ、オレ達の準備の方は完了しました。そちらは…?」

―私の方も、通路の扉を開けて参りましたよ。安易に外部からの侵入者が
入って来ないように…少々、ややこしい手順で錠を掛けてありますから…。

「じゃあ、早く隠し通路の方に案内して貰おうか。あまり長い時間…ここで
モタついていたら…確実に、ここを襲撃されるだろうからな…」

―はい、仰せのままに…。我が主よ。それでは私に…ついてきて下さいね~。

 そうして、愉しそうに笑いながら男は…地下室の方へと向かっていった。
 階段をゆっくりと下りていき、そのまま…通路の奥の方へと進んでいく。
 そして…大きな古めかしい大時計の前に辿り着いていくと…その時計の
前面部にある鍵穴に、一つの鍵を差し込んでいって…そのガラスケースと
時計の内部に続く扉の部分を開いていった。

 そして、時計の短針と長針の位置を9時15分の位置に合わせていくと…
いきなりカチッ! と音を立てて壁の向こうでゴゴゴゴ、という轟音が響き
始めていった。

「なっ…何っ?」

―こういうのは、隠し通路に付きものでしょう? 一応…ある時間帯を
合わせると山側にも繋がるんですけどね…。
 なかなかの趣向でしょう?

「…地下室のこの物々しい時計が、こんな役割を持っていたとはな…。
まあ、お前が用意した別荘なんだから、確かにこれくらいの胡散臭い仕掛けの
一つ二つはありそうなのは納得出来るが…」

―ふふ、貴方らしい物言いですね。ですが、退屈はしないでしょう?
では…二人の佐伯克哉さん、こちらへ。ああ、大丈夫ですよ…この鍵を
抜けば3分後にはこの入り口は自動的に閉ざされて侵入してきた人間は
後を追えなくなりますから。中に入れば、すぐに手動でも閉められるようにも
なっていますしね…。

「…何か、用意周到ですね。予め…用意してあったんですか?」

―ええ、当店クラブRは…お客様に万一の事が起こらないように細心の
注意を払っておりますから。ささ…どうぞ、奥へ。いつ…この別荘の中に
侵入者が入って来てもおかしくない状況ですからね…。

「そう、ですね…」

 そうして、二人は奥へと進んでいくが…何故か、Mr.Rは大時計の前から
動こうとしなかった。

「…お前はどうして、来ない?」

―私はここに残りますよ。脱出はお二人だけでなさって下さい…。

「どうしてっ!? 拳銃を持っているような奴らを相手にするんですよ…!
危険です!」

―いえいえ、大丈夫ですよ。私が、そこら辺のチンピラに…簡単に負けると
思いですか?
 それに…まだ、この屋敷に人が残っているように装えば、外にいる人達を
足止め出来るでしょう?
 心配なさらなくても…向こう側の命令系統はお世辞にも整っているとは
言い難いですし、五十嵐様が連れてきた信頼出来る部下達の何名かは…
克哉さんを連れ出すことに積極的では、ないですからね…。

「えっ…?」

―貴方が思っている以上に、五十嵐様を取り巻いている状況は大変だと
いう事です。あの方の部下の半数は、以前…克哉さんの暗殺を決意した方に
賛同している状況ですしね。特に『怪我をされてからの五十嵐様』は…
少しだけ、以前のお姿を取り戻しつつありますから…。
 何もかも目を閉ざし、闇にお心を閉ざしていた頃のあの方ではなくなっている
だけに…周りの人間は、むしろ…克哉さんに戻って来て欲しくない。
 そう考えていらっしゃる方が多いですからね…。

 その一言を言われた時、ズキン! と胸が痛む思いがした。
 …克哉は、何も言い返せなかった。
 それは…克哉が心を閉ざした、大きな要因の一つであったからだ。
 …おかしくなって、心が壊れたのは太一に言葉が届かなかったのもある。
 だが…それと同じくらい辛かったのは、周囲の人間が…自分を空気のように、
いないもののように扱うか、言葉に出さないが…明らかに嫌悪や、憎悪の感情を
向けられ続けていたことが多かった。
 太一の父親だけじゃない。かつての太陽のような太一を知っている人間から
見たら…克哉を実家に連れて来た前後から、彼は歪になってしまったのだ。

 愛する人間に、意思も言葉も封じられて…責められ続けて。
 周りにいる人間に、無視か…憎悪を向けられる。
 そんな状況が続いたから、克哉は追い詰められた。
 相談したくても…外部と連絡手段の一切を封じられて、監禁された
状況では…ただ、胸の内に抱えるしかなく。
 …最終的に食を断つことで緩慢な自殺を選んだのは…もう、それ以外に
逃げ道を作り出せなかったからだ。

「はは、そんな事は…判って、いました…よ…」

 自嘲的に笑いながら、克哉は呟いていく。
 知らない内に…泣いて、いた。
 太一の事は、好きだ。今でも愛している。
 けれど…もう、克哉はあの屋敷に二度と戻りたくなかった。
 あんな風に…周りの人間に、空気みたいに扱われるのは…辛かったからだ。
 太一が嗜虐的に克哉を抱く時、部下の誰かに無理矢理見せるような真似をする
事が何度かあった。
 けれど、最初は驚いていた彼らも…次第に、克哉に対しては嫌悪と侮蔑の眼差しを
見せるようになった。
 それが、一番…克哉には、辛かったのだ。

―それによって、太一の評判も次第に下がっていってしまったから。

 そんな真似をするようになった次期党首候補に、誰が心からついていく
だろうか?
 太一がいない日、これ見よがしに…周りの、太一の部下やこちらの世話を焼く
人間は悪口を言い続けていた。
 それで、自分の悪口を言われるだけなら幾らでも我慢出来た。
 けれど…太一まで、それで悪く言われるのだけは…本当に辛かったのだ。
 最初の頃は、太一の事まで悪く言わないで下さい! と言い返していた。
 だが、太一の部下達は…本気で、泣きながら訴えたのだ!

―ぼっちゃんを歪めたお前が何を言う!

 悪口は、関心がある相手に対しての不満や裏切られたという思いで
発する場合も多い。
 それが、克哉の棘。だから…克哉は、死にたかった。
 自分という存在が消えれば、もう太一があんな風に悪し様に陰口を
叩かれることはなくなると…そう、思い詰めてしまったから。

「だから、オレは…逃げるしか、ないんです。オレが傍にいる限り…
太一の部下達は、太一を認めないで反発するだけでしょうから…。
オレが傍にいる事で、太一を追い詰めるくらいなら…いっそ、一生…
オレは姿を現さない方が、ずっと良い…」

 そう言って、克哉は眼鏡の手をそっと掴んでいく。

「行こう! モタモタしていたら…お前の身まで危険に晒してしまうから。
それと…Mr.Rさん、ありがとう。この別荘を提供して下さらなかったら
オレは体制を立て直すことは出来なかったと思いますから。
感謝して、います! じゃあ…!」

「…判った」

 ただ涙を静かに伝らせている克哉に思う処があったが、ここで延々と
話し込んでいては、隠し通路を使って逃げる意味を失くしてしまう。
 だから眼鏡は、今だけは…余計な言葉を言わずに頷いていった。

―少々、言い過ぎてしまいましたね。貴方達二人の未来に…幸が
あらんことを、ここから祈らせて頂きますよ…

 そうして、二人の姿が隠し通路の奥に消えていくのと同時に…
Mr.Rは仕掛けを解除して、その道を閉ざしていく。

―さて、これからこのドラマに…どのような結末が待っているんでしょうかね…。
 一観客として、楽しみながら拝見させて頂きますよ…

 そうして、男は心底愉快そうに笑っていく。
 そして二人の姿は、海へと繋がる洞窟の奥へと消えていったのだった―
 
 パァン!!

 時計の単身が朝九時を告げると同時に一発の銃声が屋敷の周辺に
響き渡った。
 それと同時に、どこかの部屋の窓がパリン! と音を立てて割れていく
音も耳に届いていく。
 さっきまで自分の内側にある言葉を懸命に打ち込んでいた克哉は
その音でハっとなって顔を上げていく。

「な、何だ…! 今の、音…?」

 銃声など、日常的にそう耳にするものではない。
 動揺を隠せない様子で、辺りに視線を張り巡らせていくと…。

「おい! 『オレ』! 大丈夫か…?」

 血相を変えたもう一人の自分が、食堂に飛び込んできた。
 その顔を見て、克哉はほっとしたような表情を浮かべていった。

「だ、大丈夫…。どうやら、銃弾が打ち込まれたのは…この部屋じゃ
ないみたい、だから…」

「そうか…」

 たどたどしく克哉が答えていくと、眼鏡の方も安堵の表情を浮かべていく。
 そして…ジっと真っ直ぐな眼差しで見つめられて、ドキンと胸が大きく
跳ねていく。

「な、何…?」

「さあ? 何だろうな…?」

 ふいに、悪戯っぽく笑いながら…眼鏡が間合いを詰めて来る。
 そして…近くに来ると同時に、克哉の手をそっと掬い取って…その手の甲に
口付けていった。

「わっ…! な、何…するんだよっ!」

 克哉は思いっきり動揺しながら、顔を一気に赤らめていく。
 だが…眼鏡は、強気の笑みを口元に刻み込んでいくと…そのまま、指先にも
恭しく口付けていく。
 今までに彼にチョッカイを掛けられてきたことは数あれど…直接的に性感を
刺激される場所ではなく、そんな処にキスを落とされたのは滅多にない事
だったので、逆にドキドキドキ…と心臓が落ち着かなくなった。

「…そうしたくなったから、そうしただけだ…克哉…」

「な、何…?」

 ふいに眼鏡が、切なげに瞳を細めていく。
 その憂いを帯びた表情に心臓がそのまま破裂するかと、思った。

「…もうじき、事態が動き始める。お前は俺が守ってやる…だから、
お前も自分で、出来る範囲…自分を守れ。俺が幾ら守ろうとも、お前
自身が…命を大事にしなければ、何の意味もないからな…。
だから、約束しろ。自分でも、自分を守ると…」

 そうして、今度はパクっと指先を食まれていく。
 くすぐったいような、じれったいような奇妙な感覚が背筋から這い上がって
来るようであった。

「…うん、約束する。お前の気持ち…無為にしたくない、から…」

 そう、頷きながら答えていくと…眼鏡は嬉しそうに笑った。
 その顔を見て…克哉もそっと微笑んでいく。

「…お前が、オレを守ってくれるんだもの。オレも…オレを、大事にするよ…」

 かつては、自分など消えてしまえば良いと思った。
 本当に大事な人を傷つけて、その在るべき姿を大きく歪めてしまった罪に
心が潰れて、本当にこの世からいなくなってしまいたかった。
 そういう心が限界に達した時、水も食物も全てを受け付けなくなった。
 生命を維持するのに必要最低限のものすらも拒む事で、緩慢に自分は
自殺を図っていたようなものだった。

 けれど、今は違う。生きなくては…と思った。
 もう一人の自分の事をここまで本気に好きになるなんて、どこまでナルシストな
人間なのだろうと思う。
 だが、記憶を失くしている最中…彼の傍にいる事で、自分は息を吹き返した。
 忘れられていたから、世界に色がある事を…食物に味がある事を、そして
生きたいという基本的な欲求を自分は思い出すことが出来たのだ。
 だから、ごく自然に克哉はそれを口に出していた。
 
(…凄く、優しい顔している…『俺』…)

 そのまま、ごく自然に唇を重ねあっていく。
 クスクスと…それだけで暖かい気持ちが湧いてくる。
 今…自分は彼の傍で、笑っている。幸福感を得ている。
 それが、眼鏡の方の傍にいる事を選んだ…全ての答えだった。

―こんにちは~。お久しぶりです。…本来なら、貴方達がお幸せそうになさって
いる時に声を掛けるなど、無粋な真似はしたくないんですがね…。
 猶予は、そんなになさそうなので…。

「わわっ…!」

「ぐおっ!」

 唇を重ねて、無意識に眼鏡の唇に吸い付いていた瞬間に…いきなり
Mr.Rの声が聞こえたのでバッ! と慌てて顔を離していった。
 その反動で、思いっきり眼鏡の歯と…自分の歯がガチン、とぶつかりあって
かなりの痛みを二人共覚えてしまっていた。

「いひゃひゃ…ど、どうして…貴方、が…」

 口元を押さえながら、必死に体制を立て直しながら克哉が問いかけてくる。

―ええ、もうここに潜伏していられるのも本日までで限界でしょうから…
貴方達お二人に、手助けをしようと馳せ参じました。
 お二人には、私の方から二つの選択肢を用意して差し上げられます。
 そのお答えを聞かせて頂こうと思いましてね…

「二つの、選択肢…?」

 ここにいられるのは、本日までが限界。
 その一言を聞いた時、ついにこの日が訪れたのかと思った。
 克哉が問い返していくと…黒衣の男はどこまでも楽しげに微笑んでいく。

―ええ、そうです。一つは…この屋敷の地下にある隠し通路を使って海岸の
方まで出るルート。こちらを選択した場合…その出口の付近に、私めの方から
すでに車を一台用意させて頂いております。
 次の潜伏先の方も用意させて頂きましたから…そちらまで車で向かって
頂いて、このまま追っ手から逃げ出す。いわば…『逃避行』ルートです。
 イタチゴッコのように、いつまでも逃げ続ける。こちらを選択なされば…
貴方達二人の命が尽きるか、追っ手に捕まってしまわれるその日まで…
私が手助けを致しましょう…。

 ニコリ、と綺麗に微笑みながら…男は歌うように言葉を綴っていく。
 それは本当に楽しそうで、逆にどこか怖いものさえ感じられるような…
そんな表情だった。

「…じゃあ、もう一つのルートは…何ですか?」

―真実と、向き合うルートです

 男は、はっきりした口調で告げていく。

―この屋敷には、隠し通路が存在しますが…もう一つ、出口が御座います。
 元々、ここは私の店にいらっしゃるお客様が…貴方達のように不穏な事態に
巻き込まれた時に匿う為に用意されたものなのですがね。
 何かあった時に脱出出来るように海側と、山側の両方に出れるように
なっています。そして…山側の出口からそう離れていない場所に、
五十嵐様達は本拠地を構えておられます。
 恐らく正式な襲撃は…本日の夕方頃になりますから、その時刻ぐらいからは
その本拠地は殆ど人がいなくなります。
 そちら側のルートを選択なされば、相手の背後を取って…有利な展開に
持っていけるでしょう。
 こちらはようするに…五十嵐様と、最後に向き合う形になります。
 貴方が、あの方に伝えたい言葉や想いを抱いておられるならば、危険を
承知の上でも…五十嵐様の下へ一度向かった方が良いでしょう…。
 さあ、佐伯克哉さん。貴方は…どちらを、選択致しますか…?

 ツラツラと述べられた、二つの選択肢に克哉は…険しい表情を
浮かべていった。
 
「逃避行か、真実か…?」

「そうだ。そして…どちらの道に行くかは、お前が選べ…」

「えっ…?」

 眼鏡が、どこか真摯な表情を浮かべながらそう告げていく。

「…これはいわば、お前の問題だからな。…太一から逃げるか、向き合うか。
お前が…行きたい方を選べ。俺は…その答えに従ってやる。
だから…選べ。本心から、進みたいと思う方をな…」

「そ、んな…」

 いきなり突きつけられた選択肢に、克哉は動揺した。
 だが…眼鏡の真っ直ぐな瞳を見ている内に…彼は、こちらに選択肢を
与えてくれたのだと、克哉の意思を尊重してくれている事に気づいていく。
 この二つの道の場合、圧倒的に安全なのは海側に行って彼らの先手を
打って次の潜伏先に向かうことだ。
 だが、それは…男が言ったように、イタチゴッコをこれからも繰り返す
事に繋がっていく。
 逃げ続ける事は、一時的に体制を立て直すのに有効でも…大抵は根本的な
解決に結びつかないことが多い。
 逆に後者のルートは、危険が伴った。
 銃を持っているヤクザの集団を相手に、太一の元へと向かっていって…
直接言葉を交わす、という手段だからだ。
 
 こんなの、本来なら考えるべき事じゃない。
 前者の道を選んだ方が良いことぐらいは判っている!
 だが、自分の胸の中で何かが叫んでいる。
 今、すぐ其処に太一がいるのならば…こちらが捕獲されて強引に連れ戻されると
いう形ではなく、それ以外の方法で対峙したかった。
 けれど、それは眼鏡の身を危険に晒す事に繋がっていく。
 克哉にとっては、眼鏡は大切な人間だ。
 だから…我侭を押し通す事は、彼の命を危うくするのに繋がる。
 
「…逃げます。本当なら、太一と向き合いたいけれど…一対一の状況なら
ともかく、銃を持っている人間がいる状態で突き進むことは…『俺』の
命を危険に晒す事につながりますから。
 だから、俺は逃げます。…伝えたい言葉は、手紙かメールという形で…
自分の中で整理がついたら、太一にちゃんと伝えます。
 ですから…海側のルートに…案内して、下さい…」

―判りました。それでは、とりあえず朝食を食べて下さい。
 腹ごしらえと、お二人の準備が済みましたらご案内致しますよ…
 本当に、後悔しないんですね…?

「はい。もう一人の自分の命を掛けてまで…自分の我侭を押し通すべき
ではない。それがオレの答えですから…」

 そう、はっきりと克哉は…決意しながら告げていく。
 だが、彼は…知らなかった。

―この屋敷にはすでに何箇所か、盗聴器が設置されていた事を。
 そして…今の彼の言葉は、部下を通して…太一に告げられてしまっていた。

 海側に、彼らが逃げるという事実は…皮肉にも、そのような形で相手側に
筒抜けになってしまったのだった―



 
―眼鏡とMr.Rが別の部屋で対峙していた頃、克哉は朝食の準備を
終えて、静かにもう一人の自分が来る事を待っていた。

「…あいつ、来るの遅いな。窓から、様子を見てくるって言ってさっき…
この部屋を出て行ったけれど…。何かあったのかな…?」

 洋風の大きなテーブルの上で頬杖をついていきながら克哉は
大きな溜息を突いていった。
 この暑い時期に、部屋中のカーテンを閉め切っているせいか…エアコンを
起動させていない処はどこも暑かった。
 机の上には二人分の朝食が並んでいる。
 まだ作ったばかりなので、トーストも目玉焼きもホカホカと湯気を立ち上らせていた。

(呼びに行った方が良いのかな…?)

 ふと、そんな考えが過ぎったが…どうにか打ち消していく。
 克哉自身も、ここ数日でこの屋敷の身辺が酷く慌しい事は気づいていた。
 三日前から、窓から視線を感じて、もう一人の自分は…カーテンを閉めて、外部に
簡単に姿を晒さないように指示を出していた。
 とは言っても、人がいる家を…いないように振る舞うのは限界がある。
 現代の生活では、照明、水道、ガス、電気の類を使わないで生活するのは
かなりの不便が伴うし、どれだけ巧妙に隠しても…電気メーターを見れば一発で
屋敷に今、人がいるかどうかは判ってしまうものだ。
 自分よりもそういった細かいことに見通しが利いてしまう分だけ、『俺』が
どれだけ神経をピリピリさせながら過ごしていたかを良く知っていた。
 その事を思い出して、深く溜息を突いていく。

「…本当に、迷惑ばかり…掛けて、いるよな…」

 ギュっと唇を噛み締めながら、苦い顔を浮かべていった。
 二人でいる時は、出来るだけ心配を掛けたくないから…笑顔を浮かべるように
努めていたせいで、ドっと疲れが出て来た。
 もう一人の自分への強い想いと、申し訳ないという気持ちが克哉の中でない交ぜに
なっている。
 室内が静かなせいだろう。壁に掛けてある立派な時計の秒針の音が酷く大きく
耳に響いてくる。
 その音と、こちらの鼓動の音が妙に重なって…緊張していった。

「………」

 ふと、携帯を開いていく。
 そして…何通も、何通も書き掛けたメールを読み返していった。
 その宛先は「五十嵐 太一」。
 相手がこちらの番号を今でも消していないように、克哉の方も…番号やメルアドは
アドレス帳に残ったままであった。
 其処には、彼に伝えたいと思った自分の言葉のカケラが無数に打ち込まれている。
 けれど、それは綺麗に纏まらず…未送信のまま、未送信フォルダに残されていた。
 眼鏡は、警戒の為に屋敷の中や外を巡回したり…銃の訓練の為に1~2時間程、
克哉と別々の行動を取る事が多かった。
 その間に書き綴られた、言いたい言葉。
 胸の中に詰まっていた何かを、こういう形で吐き出すことによって…克哉の
心は、日々…少しずつだが整理されていったのだ。

(今でも、太一の事を…オレは、愛しているんだな…)

 自分で書いたメールの文面を読み返して、しみじみとそう思った。
 『書く』という事は、自分の想いがそのまま…文面に表れる。
 それで…ぼんやりとだが、克哉は自分の本心が見えた気がした。
 そう、自分は太一を愛している。
 記憶を思い出して数日が経った今、その事実を彼は静かに認めていた。
 けれど、それ以上に…克哉の中では、もう一人の自分の存在が大きくなって
しまっていたのだ。
 
「…二人共、良く…こんなオレを本気で愛してくれているよな…」

 太一も眼鏡も、自分に対して真剣な想いを寄せてくれている。
 その事実が嬉しいと思う反面、酷く克哉にとっては重かった。
 どちらかの手を取らなければならないのなら…もう一人の自分が良い。
 そう考えて、あの日…電話応対したけれど、記憶が鮮明になると同時に…
本当にそれで良いのか、と迷う心が生まれて来た。

 どちらを選んでも、自分も選ばなかった方も深く傷つけていく。
 だが、真剣な気持ちを持ってくれているからこそ…中途半端なことを
したくなかった。
 同時に、ここ数日…酷く後悔していたのだ。
 胸の痛みに躍らされて、あんな言い方をしてしまった自分自身を。

 だからここ数日、単独行動をしている間は…少しでも太一に、こちらの
真意を伝えたくて何度も何度も、こうやってメールを打ち続けていた。
 試行錯誤な毎日。
 けれど、歪なものになってしまったとは言え…真剣に愛した人間に、
何か、を伝えたいと克哉は思っていた。
 真実を傷をつけるならば、せめて…その想いを。
 自分を庇う為に、目を逸らすのではなく…本気で向き合って、太一に
気持ちを伝えたかった。

―けれどそれを、どうやって伝えれば良いのか克哉は迷い続けていた

 人を傷つけない為に、人と当たり障りなくしか接してこなかった。
 本気で本音をぶつけあったり、ケンカなどした経験がなかった。
 心を殺して、人に合わせる生き方をずっと続けていた克哉には…それは
ひどく難しいことで。
 迷いながら、それでも15分程…必死にまた、メールを打ち込んでいった。

―それはまた、完成するには遠い想いのカケラ。
 だが、一言一言…紡いでいくことで、自分の中で確かに組みあがっていく。

 自分は確かに、もう一人の自分を選んだ。
 それによって、太一を傷つけた。
 けれど…だからこそ、自分は言わなければいけない事があると思った。
 伝えなくてはいけない想いを、今度こそ向き合って告げなければならないと
覚悟を決めていた。

 真実とは、常に人を傷つける要素を孕む。
 本当の事から目を逸らし、傷つかない生き方をすれば…楽には
なるだろう。
 けれど、其処に本当のものなど生まれはしない。
 道に迷いながら、間違いながら…克哉は、自分が取るべき道を
発見し始めていく。

 其れが、彼の心の中で完成して、一つの結晶となるのは…もう、
間近の事であった―

 
 ―眼鏡が一日だけ、人気のない別荘地を離れた日。
  あの日は本当に、色々な意味で全てが動き始めた日であった。
  その事をつくづく実感していきながら、自室に使っている部屋の
カーテンの隙間から望遠鏡で眼鏡は周辺をさりげなく見回していた。

(ちっ…日増しに、監視されている目は増えているみたいだな…)

 苦々しく舌打ちをしながら、自分達を見張っている男達を凝視
していく。
 目立たないように…一日だけのさりげない下山のつもりだった。
 元々、辺鄙な所である。
 だからここから、一番近くの繁華街に短い時間行くだけならば…
見つかることはないだろう、とタカを括っていた部分があった。

(伊達に…関西方面のヤクザを統べる立場ではない、という事か…)

 良く任侠物などで、ヤクザの親分や幹部の顔に泥を塗ったり、
その命を狙ったりすれば地の果てまでも追っ手が追いかけて来て…と
いう場面や記述があるが、今…自分達が立たされているのはまさに
そんな立場であった。

 あの日から、三日。
 自分が留守にしている間に…何となく克哉の態度もそれまでとは
若干異なったものになっていた。
 帰って来た日に、克哉の姿がなくて焦燥に駆られた日。
 泣き腫らした顔をしながら、何かを覚悟した彼は…それまでよりも
芯の強さのようなものが、戻って来ているようだった。
 今だって、朝食の準備は彼の方がしてくれている。
 だからこうして…眼鏡の方は、この屋敷の周辺に現在、どれだけの
人間が監視という名目で張り付けられているか、気を回す事が出来た。

(常時…3人から4人ぐらいが、この屋敷の周辺に配備されているって
いう感じだな…。恐らく、ここだとはっきりとは確証は持たれていないが…。
この近隣に俺たちが潜伏している、という目星ぐらいはつけられているな…)

 ここ数日、さりげなくこの付近に建てられている別荘地を歩いているだけでも
以前と違って、「見られている」ような感じが強くなっていた。
 眼鏡は素人なので、どこに人が隠れているかまでははっきりと判らない。
 けれど、「人の目」や「常に見られている」ような奇妙な感覚が…三日前を
境に増えているのは確かだった。

 こうなると、今は人の気配がない時期である事がむしろ…マイナスに
なっていた。 
 自分達の使っている屋敷を含めて、シーズンオフであるこの時期に
明かりが灯っているのはそんなに多くない筈だ。
  逆に夏休みに入って、多くの人間が出入りするようになれば…もう少し
隠れている事も出来たかも知れない。
 だが、もう…この屋敷に自分達がいる事は恐らくバレてしまっている。
 もう、ここで過ごしていられる時間は…後僅かである事を、彼は覚悟
するしかなかった。

(…次にどこに逃げれば良いのか、俺には見当がつかないな…)

 此処ほど、潜伏するのに良い条件を満たしている場所は他になかった。
 Mr.Rから提供されたこの別荘を出た後、自分達が隠れる条件を満たした
場所は果たしてすぐに見つかるだろうか。
 そして…彼を連れて、どこまで自分は逃げ続けていられるのだろうか?
 同時に、いつまでこちらは…この世界に存在していられるのか?
 一度考え始めていくと…不安のタネは尽きなかった。

(…チッ、酷くネガティブな思考回路だな…俺らしくもなく…)

 こうなると、克哉の身体がせめて以前と同じように動かせるようになっている
事だけでも在り難く思う事にした。
 正直、目覚めた直後の身体の自由の効かない彼を連れてだったら…
眼鏡も守り切れるかどうか自信はなかった。
 ふと、自分の胸ポケットに常に収めてある…一丁の拳銃。
 使い方を謝れば、あの桜の日のような悲劇を起こしかねない武器。
 その硬い手触りを服の上から確認していくと、瞼をぎゅっと閉じていく。

―本当に俺は、あいつを守り切れるのか…?

 一対一であるなら、負ける気はない。
 この二ヶ月、毎日のように訓練を重ねて…命中率の精度は上げて来た。
 だが、多人数を相手にした場合は…予想外の事が起こる可能性はグンと
跳ね上がっていく。
 監視の状態でも、常に3~4人。
 後、何日かすれば…じきじきに太一も、克哉を取り戻す為に
訪れるかも知れない状況。

(あいつを、俺は…手放したく、ない…)

 克哉の心が、こちらに向けられているというのならば…絶対にもう
その手を離したくなかった。
 結ばれてから、二週間足らずの間に沢山触れてきた克哉の笑顔。
 それを脳裏に思い描いて、彼はそっと覚悟していく。

「…悩んでいても仕方ないな。そろそろ朝食が出来る頃だろう…」

 昨晩は、遅くまでベッドの上で睦み合っていた為に…今朝は
朝食と言っても普段より遅い時間帯になってしまっていた。
 セックスしている最中に踏み込まれたら、一溜まりもない事は
自覚しているので…お互いに完全に衣服を脱ぎ切らず、周囲に
常にアンテナを張り巡らせながら克哉を抱くのは、同時に酷く
スリリングで…彼の血を沸き立たせていた。

―ドクン

 その興奮を思い出して、武者震いのようなものを感じていく。
 この状況は、他の人間からすれば…絶望的な状況だろう。
 周囲に頼る人間は誰もおらず、大勢の舎弟を抱えている相手と
戦っていくのだから。
 だが、彼は同時に…それに酷く闘争本能を刺激されているのも
事実だった。

(やってやるさ…少なくとも、この状況は…退屈する暇なんて、ないからな…)

―それでこそ、我が主と成りうる資格を持っておられる方です…

 そう、決心してキッチンの方へと向かおうとして…窓から背を背けた
瞬間、歌うような声が聞こえていった。

「っ…!」

 あまりに突然の事に、とっさに振り返っていくと…。

―お久しぶりですね、佐伯様。今現在、貴方は佳境に立たされている
ようですから…ほんの少し、助言しに伺いました…

 と、ニッコリと黒衣の男は…悠然と微笑み、眼鏡の元へと歩み寄っていく。

 ―その姿が、眼鏡にとっては…何故か、良く神話か言い伝えで語られている
死神のようにすら感じられたのだった―


 
 本日、かなり頭痛するんで休ませて頂きます。
 …多少、試してみたけれど集中して文章打てないんで
無理しないでおきます。
 暑かったり、寒かったりと温度差が激しいんでこういう処に
出たみたいですな…(苦笑)
 キチンと休んで、明日はキチンと書きます。
 それでは失礼します…。

 ―太一が、克哉の携帯に一か八かで電話を掛けた日から、
すでに三日が過ぎようとしていた。
 あの日を境に、今までまったく足取りを掴めなかったあの二人の
潜伏場所を探り出すことに成功し、驚異的な速さで太一は
五十嵐組の自分達の配下を20人程、動員して…その土地へと
向かっていた。

 太一が乗っているのは全部で8人が乗れる大きめのワゴン車だった。
 マツダのボンゴフレンディ。ゆったりとした間取りが取られていて天井の
ルーフと呼ばれる部分を開ければ立って移動するのにも苦にならない
構造になっている。
 移動中に、太一が横になって寝られるように…5人前後、特に
一番後ろの三連の座席は彼に宛がわれていた。

 五十嵐組内での、自分の直属の部下がこの車には乗車している。
 深夜の高速道路を走行中、こちらの安眠を妨害しないように…同乗の
者達は一言も言葉を発していなかった。
 ただ、耳に届くのはエンジン音と…走行中に僅かに入り込んでくる音のみだ。
 車内全体が、一定の間隔で規則正しく揺れている。
 規則正しい振動は、睡眠を誘発すると良く言われるが…今の太一は、とても
眠れる心境ではなかった。
 否、ここ三日間くらい…まともに眠れなかった。

(…ちくしょう…!)

 心の中で舌打ちをしていきながら、半分だけ身体を寝返らせていく。
 やはりベッドや布団に比べて、車の座席部分は面積が狭い為…慎重に
身体の位置を変えていかないとそのまま落下してしまいそうだ。
 心も身体もクタクタに疲れ果てているのに、安らかに眠れそうにない。
 三日前までは、全てを片付ければ克哉が戻って来る。
 そう信じて事態の解決に手を尽くしていたから、傍にいなくても…どうにか
耐えることが出来ていた。
 だが、こちらを拒む克哉の言葉が…今も太一の胸に突き刺さって、
チクチクチクと…鈍痛を与え続けていた。

「克哉、さん…」
 
 切なげに、太一はその名を呟いていく。
 脳裏に浮かぶのは、かつての…優しく微笑んでいる姿だった。
 彼の事を考えれば、真っ先に浮かぶのはその表情だ。
 正式に知り合いになる前から…ずっとあの人の事を知りたいと
思っていて、父親が経営している喫茶店に初めて顔を出してくれた
日に、やっとフルネームを知る事が出来た。
 その笑顔が、好きだった。

 自分の好きなバンドを、この人も好きだと知った時…嬉しくて嬉しくて、
こうやって知り合えたのは運命なんだ! と青臭いことを考えた。
 ダンダンと仲良くなれて、一緒に過ごす時間が増えていったことが
嬉しくて仕方なくて。
 心の中に芽生えた想いは、会えば会うほど…次第に大きくなって
膨れ上がっていくようだった。
 日増しに好きになって、もっとこの人の事を知りたくなって、次第に
独占欲まで強くなっていった。
 あの一件が起こる前には、太一は自分の中の想いが『恋』にまで
昇華している事に気づいていた。
 だから、彼はショックだったのだ。
 本当に好きな人が眼鏡を掛けた瞬間…別人のように豹変して、
自分を無理矢理、犯した事が…。

(克哉さん…何でなんだよ。どうして、眼鏡を掛けたあいつと、克哉さんが
同時に存在していたんだよ…。どうして、あいつの元で過ごしている内に…
俺の事、拒むようになっちゃったんだよ…っ!)

 そう、喫茶店ロイドで起こったあの一件からすでに一年と数ヶ月程、
経過している。
 その内、太一が克哉を実家の屋敷に監禁していたのは一年程だ。
 今思い返すと…その辺りから、克哉は自分に対して従順な態度を
取るようになった。
 けれど…あの頃の自分は、償いと称して…自分に従順に接する癖に
瞳で何かを訴えかけている克哉を腹立たしく思っていた。
 啼かせて、屈服させて…何もかも、こちらの思い通りにすれば…
その苛立ちはいつか晴れるか、と思った。
 だから太一は欲望のままに克哉を弄り続けた。
 
 幾ら止めてくれ! と克哉が懇願しても、聞いてやらなかった。
 そうやって彼がまだ瞳で何かを伝えようとしている時期に一切、こちらは
耳を傾けなかった。
 何ヶ月もそうしている内に、彼の目からは光と力が消えて…気づいたら
ガラス玉のように虚ろになり、何も映さなくなった。
 そしてそれ以後の記憶は…太一自身にもうろ覚えだった。

―思い出したく、ない…!

 絶望に駆られた自分が、そうなった克哉に何をしたか…太一はすでに
具体的に思い出せなくなっていた。
 ただ、その時期…克哉の心を戻したい一心で、今まで以上に熾烈なことを
彼にし続けていった。
 その結果、克哉の四肢の黒い痣と…肌の無数の傷跡がその身体に刻まれて
消えなくなった。
 克哉の心を、言葉を無視し続けた結果…その心が見えなくなって、必死に
足掻いて、泣き叫んで…人形のように虚ろになった克哉。

 桜の花が舞い散る頃には、もしかしたら…自分も半ば狂っていたのかも知れない。
 あの人の心がただ、欲しかった。
 以前のように優しく微笑んでくれればそれで良かった。
 なのに、あの人は笑ってくれなくなった。
 好きだから、ではなく、自分を傷つけたからその償いで…という偽善じみた理由で
自分に何もかも奪われることを受け入れた克哉に…どうしようもなく、苛立ったのだ。

―克哉さん、克哉さん…!

 辺りは真っ暗で、静寂に包まれている。
 すぐ近くに配下がいたって、そっと…されていたら、同じ空間にいても…
いないのと一緒だ。
 静寂は、人の中の…奥深くに埋めていた本心を浮き彫りにさせていく。
 外界の刺激がある状態では、決して気づけない事実。
 そして…見たくないものまで、ゆっくりと自分の心の中に浮かび上がる。

―貴方の笑顔を、見たいんだ…!

 だからだから、このまま…貴方の言葉なんて受け入れたくない!
 貴方は俺のものだ! 
 他の誰かが貴方を愛するなんて、許せない。
 俺以外の誰かを貴方が好きになるくらいなら…いっそ…。

「…いっそ、この手で…」

 そこまで、呟いた時…自分の掌が赤く染まる幻を見る。
 これは、想像で描いた克哉の血。

―ヒラヒラヒラ、と桜が再び舞い散っていく。
 決して消えないあの夜の記憶が再び彼の中に蘇る。
 大きな桜の木の下…倒れている克哉は、果たして…どちらの克哉
なのだろうか?
 
 約束しておきながら、自分の元に愛する人間を返さなかった…眼鏡を
掛けた方か。
 それとも、電話口で自分を拒絶する発言をした克哉か。
 どちらの克哉の方が、自分は憎いのかももう判らない。

 ともかく、闇! 闇! ドロドロドロドロ…と暗いものが自分の中に
滲み上がると同時に、赤い血が更に鮮やかに彼の掌に広がっていく。

 ―嗚呼…もう自分は狂ってしまっているんだ…!

 素直に、納得してしまった。
 そう…彼は恋の裏側に潜む狂気に身を浸してしまっていた。
 求めるのはただ一人、克哉だけ。
 あの人が笑ってくれるならば…俺は、俺は…!

―何が出来るんだ?

 ふいに、何も浮かばなくなった。
 ただ在るのは求める心だけ。
 自分の中に空いてしまった空っぽの部分を、ともかく克哉で満たしたかった。
 この空洞を作ったのは、克哉。
 
 かつては胸に満たしていたものがあった。
 だが、もうそれは忘れてしまっていた。
 自分にとって大切だったもの。掛け替えのなかったもの。
 それが徐々に、焦燥によって埋もれて見えなくなっていく。

 誰しも、自分の心の中に宝石となる大切な想いがある。
 だがそれは…自分と向き合わなければ、見失ってしまうものだ。
 太一は、見失ってしまっていた。
 自分が笑う為に必要なもの。
 克哉を真の意味で取り戻すことに大切なもの。

 何度も何度も、太一は眠れないまま…何度も座席の上で寝返りを
打ち続けていく。
 後、3~4時間もしたら目的の場所に辿り付くと…小声で運転している
若い男に告げられていった。

(眠らないとな…)

 いつまでも、眠れないとか甘ったれたことを言ってても仕方ない。
 これからは…正念場なのだ。
 少しでも目だけでも瞑って、身体だけでも回復しておかなければ…大事な
時に身体が動かなくなってしまう。
 だから、一旦心に蓋を閉めて…ただ、休む事だけに集中していく。

―克哉さん

 無自覚の内に、天井に向かって微かに手を差し伸べていく。
 それは一瞬だけ見た、儚い幻想。
 瞬きする間だけ…克哉の顔が、脳裏に鮮明に浮かんでいった。
 その笑顔は、どこまでも優しくて、穏やかで、懐かしい―

―彼が失くしてしまった、宝物そのもののようだった

 数時間後。
 夜明け前に、彼が乗ったワゴン車は…目的地に辿り付いていく。
 そして、最後の幕は開けていく。
 彼ら三人が織り成す、この物語の決着がつくその時は…
もう、間近に迫っていたのであった―
 
 
  
 
 

 ―眼鏡が帰って来た時には、克哉の姿はどこにもなかった。

 彼らが寝起きしている別荘のどの部屋にも明かりはついておらず、必死に
探索したが…どこにも、いなかった。
 最初は、こちらを待ちくたびれて寝ているのかと思った。
 だが…自分とあいつが、就寝に使っている部屋のどちらにもその姿は
見えなかった。
 むしろ、今朝…克哉が寝ていた部屋は、窓もドアも開けっぱなしの状態で
放置されているのを見て、ゾクリ…と悪寒めいたものが走った。

「あいつは一体…どこに行ったんだ…?」
 
 窓から風が吹き込んで、薄い水色のカーテンが風によって微かに
靡いている。
 今夜は風があるせいか、どこか肌寒く…だからこそ、明かりの灯っていない
別荘の一室一室が、とても閑散として感じられた。
 
(…まさか、俺を尾行していた奴らに先回りをされて…連れていかれて
しまったのか…?)

 さっき、街からこの別荘へと戻ってくる道の途中で…彼はずっと一台の
車につけられていたのだ。
 たまたま行き先が同じなだけかも知れないが、こちらがスピードを
頻繁に変化させて走行ペースをランダムな状態にしてもずっとくっついて
いたので…途中の視界があまり効かずに道が入り組んでいる地点で
カーチェイスに近い立ち振る舞いをして、どうにか眼鏡は撒いて来たのだ。
 それで大幅な迂回をせざる得なかったのでこうやって、夕方までには
帰る予定だったのに…こんなに遅い時間になってしまったのだ。

 スウっと青ざめるような思いをしながら、眼鏡は…次第に荒っぽい
動作になりながら次々と空き室のドアを開け放って、もう一人の自分の
姿を追い求めていく。

「どこに、いるんだ…! オレ…!」

 けれど、そのまま全室…彼には存在を隠している射撃場まで探したというのに
やはり克哉の姿はなかった。
 その事実に焦りを覚えていく。
 どうして…もう一人の自分の姿がないのか。
 
「いるんなら、答えろっ…!」

 だが、そうやって大声で呼びかけ続けてもその後に静寂が広がるばかりだ。
 窓の向こうには壮大なまでの星空が広がっている。
 この辺りの別荘地にはまだ、殆ど人はやってきていない。
 そのおかげなのか…人家の明かりは最小限で…都会では拝めないくらいの
鮮やかな星空を場所によっては眺められた。
 漆黒の闇の中、自分一人だけがこのやたらと広い別荘の中にいる現実に…
恐怖すら覚えていく。
 早く、あいつがどこにいるかだけでも確認したかった。
 よりにもよって自分がいない日に…どうして、と責める気持ちが湧いてくるのと
同時に…眼鏡が持っている携帯が鳴り響いていった。

「っ…!」

 突然、上着のポケットに収めておいた携帯の着信音が周囲に響き渡ったので
つい驚いてしまったが…その発信源を見て、瞠目半分…安堵半分の、深い
溜息を漏らしていく。
 それは…もう一人の自分からの、着信だった。

(あいつからだ…!)

 そう思って、通話ボタンを押して応対していくと…。

―こんばんは。帰って来ていたんだね…。別荘の窓に明かりが灯っているのに
今、気づいたから…慌てて電話掛けたんだ。
 御免…心配、させちゃったね…。

「それは良い! だが…黙ってどうして出ていった? あれだけ昨日…
ここを動くな、と言ったのに…」

 紛れもなく電話の主が克哉である事を確信して、眼鏡はやっと少しだけ
落ち着いていく。
 だが、それと同時に…かなり憤っていた。
 押し殺した怒りが、知らず語調の端々に滲んでしまっていた。
 それを感じ取って、克哉は怯えたように…だんだんと声を小さくしていった。

―…御免。今日…お前がいない間に、さ…ちょっとした事がキッカケで
色んな事を急激に思い出してしまったから。だから…ちょっと混乱しちゃって。
 気を沈めたかったから…ちょっと海岸の方まで出て、波の音を聞いていたんだ…。
 前にどこかの本で、波の音を聞くと心をリラックス出来るって…そんな話を
聞いたことがあったから…
 
「なっ…思い出したって、どこまでをだ…?」

―オレと太一が出会った頃の記憶までを、殆ど。抜け落ちていた部分の殆どは
今日…思い出したよ。だからね、一人になりたかった。
 …心配掛けて、御免。後5分か10分くらいで…別荘の方には戻れると思う。
 それまで、待ってて…

「判った。待っていてやる…。この辺りは街灯もないから、足元に気をつけて
慎重に戻って来い。…気長に待っていてやるから…」

―ありがとう

 最後にそう告げて、克哉からの通話は切れていった。
 だが…眼鏡の方の心中は穏やかではない。
 眼鏡と克哉は、大部分の記憶と体験を共有している存在だ。
 だから…一番間近で、克哉がどれだけ太一の事を想っていたかを知っている
立場でもある。

 ザワザワザワ…と胸がざわめいて、荒ぶっていくのが判る。
 気長に待っていてやる、と強がりを吐いたが…少しでも早く相手の顔を
見たい気持ちでいっぱいになっていった。

『早く、戻って来い…!』

 心から、彼がそう祈った瞬間…玄関の方で、大きくドアが開け放たれる
音が響き渡っていった。
 それを聞きつけて、眼鏡は慌てて…そちらの方角へと走り出していく。
 
「克哉っ…!」

 名を呼びながら自分の半身の元に駆け寄っていくと、その有様に
ぎょっとなっていった。
 泣き腫らした目に、青ざめた顔。
 一目見ただけで何かあったと判るぐらいに…酷い有様だった。
 けれどその瞳だけは、強く輝いていた。

「…御免、心配掛けちゃって。けど…大丈夫、だから…」

「お前、何を言って…」

「大丈夫、なんだよ! これは…オレの問題、なんだから…」

 そういって、克哉ははっきりと言っていく。
 
「…オレは、お前にただ守ってもらったり、縋るだけの足手まといに
なりたくない…。だから、思い出してからの心の整理を、一人でつけて来た。
それだけ…だから…。だからこれ以上、心配しないで…良い」

 そういった克哉の表情は、しっかりとしたものだった。
 そう…太一と会話を交わした直後、彼の心はまさに大嵐が吹き荒れている
ような酷い乱れっぷりだった。
 必死になって、もう一人の自分が帰って来ることだけを祈った。
 夕暮れになれば、彼に会えると。
 そして泣きつくことだけを考え続けていた。
 
 けれど予想に反して、彼が21時を過ぎても帰って来なかった時。
 ふと克哉は気づいたのだ。
 …このまま、眼鏡に縋りついて自分の心を宥めることだけを考え続けていて
良いのだろうか、と。
 彼は言った。命を自分は狙われていたと。
 そして、太一は関西方面を束ねるヤクザの大親分を祖父に持ち、今はその
跡取りとして扱われている。
 こちらに激しく執着しているそんな太一の手から逃れたら…今、傍にいるもう
一人の自分はどうなるだろうか。
 そこまで考え至った時、彼は…しっかりとしなければ、と思った。
 今でも胸は痛かった。
 苦しくて、張り裂けそうになって気を緩ませれば葛藤によって、涙が零れそうに
なる。けれどどうにか…彼は押さえ込んで、儚いながらも微笑を浮かべていった。

「オレは、お前を好きだから。だから…ただ、お前に守られているだけの
存在には、なりたくないんだ…。せめて、自分のことは自分で整理つけて
しっかり立てるような…それくらいは、したいんだよ。
好きな奴の重荷になるなんて…冗談じゃない、からな…」

 そうやって、微笑む克哉は…強がっていた。
 けれど、それもまた彼が選んだ道だった。
 彼が帰ってこない間、沢山泣いた。
 泣いて、泣いて…そのまま体中の水分が無くなってしまうんじゃないかって
ぐらいの量の涙を流し続けた。
 だが、そうやって感情を発露した事でやっと心の整理はついたのだ。
 そして、本心が見えてくる。
 自分の心の奥底に眠っていた、宝石のような思いもドロドロと目を背けたくなる
ような醜い思いとも、やっと向き合えた気がしたのだ。

「そう、か…」

 自分のいない間、何かがあったことは眼鏡は察した。
 けれど…それ以上は深く聞かなかった。
 眼鏡とて、同じなのだ。
 自分だって本当に悩んでいたり苦しんでいる事は簡単に人前に晒せない。
 だから、それ以上探るようなことは言わないで無理に微笑んでいる
もう一人の自分の身体をそっと抱き締めていってやった。
 その時、克哉は弱々しく…こう呟いていった。

「ありがとう…傍に、いてくれて…」

 その一言に…眼鏡は微笑していきながら無言で、静かに…ただ腕に
力を込めていく。
 克哉もまた、待ち望んでいたその胸の中に…目を伏せて、顔を
埋めていった。
 その後は、ごく自然に…唇を重ねて、相手をただ貪るように
激しく身体を重ねる流れとなっていった―

 言えない想いと決意。
 言葉に出来ない、苦しみと悲しみ。
 それらがグルグルグルと心の中で渦巻いていて、嵐のように吹き荒ぶ。
 言い尽くせない代わりに、二人はただ…今はただ相手にお互いのむき出しの
感情をぶつけていくしか出来ない。
 
 ―夜更けまで、彼らはただ…玄関で激しく相手を貪り続ける。
   それでも、どれだけ深い快楽を感じても身体を重ねても…今は決して
自分達は一つには戻れない。
 その事実が、彼らには切なかった―

 
 
 
 

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プロフィール
HN:
香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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