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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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 ※2012年9月6日より開始した眼鏡×御堂に克哉が絡んでくる
形式の話になります。
  三角関係や恋愛主体ではなく、眼鏡や克哉の心理や葛藤に
焦点を当てた話になりますので了承した方のみ目を通して
下さいませ。


佐伯克哉の様子が、ある日突然変わってから二週間余りが
過ぎようとしていた。
 多忙な日々を送っていたおかげで、その件に関して言及をせずに過ごしていたが、
克哉は明日を休み、こちらの休みを明後日に定めた事に対して御堂孝典は
大きな疑問を持っていた。
 夜21時を回って、今夜は一足先に克哉は部屋に引き上げていったのを見送ってから…
一通りの仕事を片づけてから、御堂は暫し思案に浸っていった。
 カタカタカタとリズミカルにキーボードを叩く音が静かな室内に響き渡っていく。
 今日の業務結果の記録だけ打ち込み終われば、一区切りがつくので…それだけでも
片づけようと指先だけは淡々と動かし続けていった。
 
(最近のあいつは…何処か、おかしいな…)
 
 他の巡業員はすでに退社して、オフィスには御堂一人しか残ってない状況だった。
 今日中に片づけておかなければならない作業は一通り終えて、フっと静寂の中に
身を置いていくと…色んな考えが浮かび上がっていく。
 表面上は、御堂の知っている佐伯克哉と変わらないように見える。
 だが、この二週間…セクハラめいた事を克哉から仕掛けられてない事に、
大きな違和感があった。
 
「…克哉、どうしてお前は最近…私に変なチョッカイを掛けて来ないんだ…?」
 
 佐伯克哉という男は困ったもので、御堂自身がどれだけ言っても…隙を見て
こちらの尻や股間に唐突に触れて来たり、電話応対中に敏感な場所を弄って来たり、
他の人間の見てない隙を狙ってこっちの手を握って来たり、一瞬だけキス
してきたりする。
 その度に御堂は生きた心地がしなくて、散々就業時間中はそういった事を
止めるように怒った事は一度や二度ではないがそれを改めるような事は
決してしなかった。
 そう、御堂の知っている自分の恋人は…そういう事をシレっとやってのける、
限りなく有能でありながら困った所のある男だった。
 
「…お前がオフィスで二人きりになっても、…何もしないで帰るなんて、絶対におかしい…。
それにそれぞれ休みが取れるなら、今回みたいなケースなら今までのお前なら
絶対に同じ日に休みが取れるように調整してくる筈だ。…お前はそういう男な筈だろう…?」
 
 自分の恋人に対して、あんまりな評価だなと我ながら思うが…それが事実
なのだからしょうがない。
 けど、仕事中や…二人きりで職場に残った場合は、今までなら必ず克哉は
キスなり、セクハラめいたスキンシップを仕掛けて来ていた。
 最後に抱き合った夜から、二週間もキス一つしていない状況に…いい加減、御
堂は焦れて来た。
 
(最近は忙しくて、月に一回か二回ぐらいしか…セックスは出来ない状況
だったのは確かだ。だが、お前は私に必ず抱き合えない状況でも合間に触れて来た。
なのに何故、この二週間はそれすらも…してこないんだ…?)
 
 言葉遣いも、言動も間違いなく…自分の恋人のものである筈なのに、
何かがおかしかった。
 まるである日いきなり…中身が別の者に入れ替わってしまったかのようにすら感じる。
 思考に耽りながらも、御堂は手だけは動かし続けてパソコンの打ち込みを
終わらせていく。
 時刻は21時半を少し過ぎていた。
 さっき克哉が上がってからあっと言う間に三十分が過ぎてしまっていた。
 
「さて…これで今日中にやるべき事は終わったな。後は家に帰るか…
あいつの部屋に行くか、どっちかって所だが…」
 
 一応、明日は相手が休みで…こちらは通常通りの仕事だ。その事を考えれば、
この辺りで帰宅して…自宅で明日の準備をしたり、しっかりと身体を休める方が
正しいのだろう。
 しかし理性ではそう分かっていても、感情がついていかない事は人間、暫々ある。
 帰ろうと理性が働きながらも、上に行って克哉を問いつめたいという衝動が
湧き上がって抑えられなくなっていく。
 
「ここで帰るか、帰らないか…どうしたものかな…」
 
 オフィスの戸締まりをしていきながら、御堂にしては珍しく少し迷ってしまっていた。
 今の克哉は…表面上はいつも通りだが、何かがおかしい。まるで…知らない
誰かが、見た目が全く同じなのに佐伯克哉を演じているようにすら感じる事がある。
 忙しいのを理由にして、その違和感の正体を敢えて言及しなかった。
 どこかで恐れていた部分が自分の中にあったのかも知れない。
 けれど…このすっきりしない状況が延々と続いていく事の方が嫌だった。
 
「…あいつの部屋に行って、少し話して来よう。そうしなければ…いつまでも私は
モヤモヤする羽目になってしまう…」
 
 だが、御堂は意を決して…克哉に会いに行く事を選択していく。
 合い鍵を持っているのだから、問題なく入れる筈だ。
 
「…行こう、あいつの部屋に…」
 
 そうして、御堂はどこか険しい顔をしながら…戸締まりを終えてから、克哉の部屋に
続くエレベーターに乗って向かって目的地に行ったのだったー
 
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 ※2012年9月6日より開始した眼鏡×御堂に克哉が絡んでくる
形式の話になります。
  三角関係や恋愛主体ではなく、眼鏡や克哉の心理や葛藤に
焦点を当てた話になりますので了承した方のみ目を通して
下さいませ。

 今、思い返せば自分が目覚める直前に見た夢。
 緩やかに深い場所に落ちていった黒い人影はもしかしたらもう一人の
自分だったのだろうか?
 そんな事を考えながら、佐伯克哉は眼鏡を掛けた状態で
疲れきった顔で、ベランダでタバコをふかす真似をしていた。
 眼鏡を掛けて、もう一人の自分の髪型をして…自分が覚えている範囲で知っている
もう一人の自分らしい言動と行動をしながら今日一日をどうにかやり過ごしたが、
自分じゃない別の人格を演じるというのがこんなにも疲れるものだと今まで知らなかった。
 部屋のリビングに置いてあった銘柄のタバコの火を点けていきながら、
眼下に輝いている夜景を眺めていく。
 自分が知っている場所と、全く違っていた。
 都内の一等地に立てられたビルの最上階。
 ここが、もう一人の自分が会社を興す際に新しい住居と決めた場所。
 そこから見える夜景を眺めながら、克哉は深い溜息を吐いていった。
 
「…オレの眠っている内にあいつがここに引っ越しているって事は…もう、
とっくの昔に…オレが住んでいた部屋は解約されてしまっているんだろうな…」
 
 少し寂しそうな表情を浮かべて、演じるのを止めて…ようやく素に
戻って呟いていく。
 ぼんやりとしか今のもう一人の自分に関しての事は知らないけれど…この状況と、
もう一人の自分と御堂が抱き合ってキスをしていた記憶から照合するに、御堂とは
恋人同士という事だけは嫌でも分かった。
 
(けど…一体、どうして俺と御堂さんが恋人関係になんてなったんだろう…? 
その辺の経緯が全く思い出せない…)
 
 煙草を吸いたい、と告げて一人なる時間を得てやっと思考に耽る時間が
与えられていく。
 もう一人の自分らしい振る舞いと物言いをするだけで、克哉には精一杯だった。
 住んでいた部屋は無くなり、二年以上の記憶が欠落して突如放り出されたこの状況に
戸惑いを覚えるしかなかった。
 ただ、一つだけ分かっているのは…今の自分は、小さいながらも会社の社長を
やっていて、御堂とは公私共にパートナーになっている事だ。
 
(此処は、あいつの居場所だ。なら…オレは、あいつが戻って来た時の為に…
それを維持する努力をしないといけないな…)
 
 此処は、本来なら自分がいるべき場所じゃない。
 佐伯克哉にとって、自分のいた会社も家も…この二年で無くして
しまっていたのだ。
 ぼんやりと、キクチ・マーケティングを退社してMGNで部長をやっていたと
いう記憶だけは思い出せた。
 なら、すでにもう一人の自分がキクチを辞めてからもそれなりの時間が
経過しているという事だ。
 本多は、片桐は…営業八課にいた他の人達は果たして今はどうしているのだろうか?
 
「みんな、元気かな…」
 
 知らない間に、自分の持っていた全てのものは無くしてしまって…新しい環境や、
人間関係がもう一人の自分の手によって築かれてしまっていた。
 その状況に、何も覚えていない状態で放り出されても戸惑いしか覚えない。
 一体どうしてこんな事になったのか、知りたかった。
 だが…幾ら問いかけても、もう一人の自分の声が聞こえる事はなかった。
 
「…どうして、オレが今更…出て来たんだろ…。御堂さんって恋人がいて、こんな都内の
一等地に自分の家と、会社を構えて…順調に生きていた筈のお前がどうして、眠って…
代わりにオレが出ているんだよ…」
 
 もう一人の自分の心が、今の克哉には分からない。
 今の時点では、それを推測するだけの情報が手元にないからだ。
 けれど、さっき唐突に相手側の記憶が流れ込んで来て…御堂と眼鏡を掛けた
自分が恋人同士だった事が分かったように、彼が生活していた環境で過ごす事で
手掛かりを得られるかも知れない。 
 煙草に火を点けているが、克哉にとってこれは美味しいものでは決してない。
 この銘柄の煙草を愛用して、このビルで相手が何を思い…胸に秘めて
生きて来たのだろうか?
 一つ言えるのは、人格の交代というのは…本人にとって大きな出来事が起こらない
限りは起こり得ないという事だった。
 もう一人の自分が現れた時、不安でどうしようもなくて…あの当時、自分は二重人格の
事が書かれた本を目を通した事があった。
 
(あれ…なら、オレの方は…どうして、あいつと入れ替わったんだっけか?)
 
 今回、相手と自分が入れ替わった原因を知りたいと思った事で…二年以上前に、
それまで生きていたこっちが眠って…もう一人の自分が出てくるようになったキッカケが
なんだったのかを疑問に感じていく。
 
「…何で、思い出せないんだろう…」
 
 眠る直前に何があったのか、相変わらず白いモヤが掛かったようにはっきりと
思い出せない。
 それを知りたくて必死に心の中を探ろうとしたが、それをする度にズキズキと
頭痛が走っていく。
 
「うっ…くぅ…!」
 
 次第にその痛みは大きくなっていく。
 まるで、こちらに思い出すなと訴え掛けてくるような感じだった。
 
「…一体、二年前に…何が、起こったんだよ…」
 
 克哉はポツリと呟いていく。
 けれどその問いに答える人間は誰もいなかった。
 
『克哉、いつまで外にいるんだ…? あまり長く外にいると…秋口とは言え、
風邪を引くぞ』
 
 頭の痛みに苛まれていると、ガラス戸の向こうから御堂の声が聞こえて来る。
 それを聞いた途端、もう一人の自分の仮面を被って…受け応えをしていった。
 
「…ああ、悪いな…。ちょっと色々…考えていた…」
 
『そうか。たまに一人で思案に耽りたい時は誰しもあるからな…だが、身体を冷やさない方
が良い。早く部屋に入ったらどうだ?』
 
「…ああ、そうだな」
 
 口調も表情も、出来るだけ覚えている範囲のもう一人の自分のものを真似ていく。
 それはまさに仮面をつけて生きるようなものだ。
 
(けど、これで良いんだ…。二年も眠っていたオレに、もう居場所なんてないんだから…)
 
 そうどこか達観とも、諦めの極地とも言える事を考えていきながら克哉は
部屋に戻っていた。
 
―自分の全てを殺す覚悟すらしていきながら…
 
   ※2012年9月6日より開始した眼鏡×御堂に克哉が絡んでくる
形式の話になります。
  三角関係や恋愛主体ではなく、眼鏡や克哉の心理や葛藤に
焦点を当てた話になりますので了承した方のみ目を通して
下さいませ。

  ずっと長い夢を見ていた気分だった。
 深い海底に沈んだままだった自分の元に、眩いばかりの白い光が
差し込んで来た。
 其処に黒い人影かゆっくりと落ちていくのと同時に、自分の方が海面に
引き上げられていく。
 それはまるで、天秤の秤が反対側に傾いていくのに良く似ている感じだった。
 そして黒い人影が完全に海の底に消えると同時に克哉は白い光に包まれて
いったのだったー
 
 朝、目覚めて佐伯克哉は驚いた。
 白いシーツの上で目覚めると、すぐ隣には裸の男性が横たわっていた。
 かつて、経験した事があるシチュエーションと被ったがあの時は相手が須原秋紀
という金髪の美少年だったのに対して、今回は御堂孝典という…以前、一時期だけ
とはいえ一緒に働いた事がある男性だった事だった。
 
「えっ…あれっ…?」
 
 克哉は、戸惑った。
 長い長い眠りから覚めた途端、こんな状況に置かれて混乱しない訳がなかった。
 
(ちょ、ちょっと待ってくれよ…! どうして、オレはこんな所にいるんだ! それに
何で御堂さんが裸で一緒のベッドに横たわっているんだよー!)
 
 一応、克哉は自分はノーマルだと思ってきた。
 何人かの女性と付き合った経験があるし、男を恋愛対象にした事は今までの
人生の中ではない。
 なのに、もう一人の自分が目覚めた時から…歯車は大きく狂い、目覚めたら同性が
横に裸で寝ているなんて事態を二度も経験する事になってしまった。
 
「あれ、もう一人の『俺』…?」
 
 ふと、銀縁の眼鏡のイメージがよぎると同時に…鏡に映っていた傲岸不遜な
男の顔を思い出す。
 そう、何度も鏡を通して見た事があった。
 自分ではなく、鏡を見る度に…眼鏡を掛けた万能な能力を持ったもう一人の
自分が映っていた。
 あの眼鏡を頼れば頼るだけその現象は顕著になり、そして…いつしか克哉は眠っていた。
 ふと、寝室の端にあったカレンダーに目をやっていくと瞠目せざる得なかった。
 
「あれから…二年が、過ぎてる…?」
 
 そう、少なくとも克哉が覚えている西暦よりも、二年以上の歳月が確実に経過していた。
 気分は浦島太郎だ。おとぎ話では竜宮城で過ごしていたら何百年も過ぎていた訳だが、
克哉の場合は寝て目覚めたら二年が経過していた。
 
「えっと…思い出せない。…その間の事は、何も…」
 
 最後に起きていた日の記憶を、その前後の出来事の記憶を思いだそうとしても、
真っ白いモヤが掛かったみたいになって何も判らなかった。
 考えれば考えるだけ、混乱が深まっていた。
 
(それに…何で、御堂さんがオレと同じベッドの上に…?)
 
 その疑問が蘇った瞬間、雪の日に…もう一人の自分と御堂が抱き合って深く
キスをしている場面が鮮明に蘇っていった。
 自分が体験したのではない、もう一人の自分に起こった出来事と…生々しい感触
まで一瞬に脳裏に浮かんで言葉を失っていく。
 
(何だ、今のは…? これはあいつの方の…記憶なのか…?)
 
 ジワリ、と何かが滲むように自分であって、自分でない時の記憶が思い出されて…
余計に訳が分からなくなりそうだった。
 御堂から背を向けて、口元を覆っていく。
 妙にリアルな感覚まで一緒に伝わって来て息が詰まりそうになり、激しい動悸を
繰り返す羽目になった。
 
(オレは一体、これからどうすれば良いんだろう…?)
 
 周囲をざっと見回していくと、部屋の内装も自分が知っているものと
変わっている気がした。
 いや、部屋そのものが違っていた。
 大学時代から自分が長年慣れ親しんでいたマンションの部屋とは明らかに
広さそのものが違う。
 自分が眠っている間に、もう一人の自分が引っ越してしまっていたのだろうか。 
 その疑問を覚えると同時に、唐突にまた…相手の記憶がドっと流れ込んで来る。
 
 ー自分が知らない筈の、もう一人の自分の体験 
 
 御堂と恋人になってから、精力的に一緒に住む部屋と…自分たちの会社の
オフィスを探していた。
 そしてその条件に合致する此処が見つかって、満足そうに…幸福そうに
笑っているようだった。
 
(何だよ、これ…オレの知っているあいつと…全然、違っているじゃないか…)
 
 克哉はかつて、恐怖していた。
 もう一人の自分の残酷さを、酷さを…人を人とも思わない性格をしている彼が
自分の中に目覚めた時、恐れと忌避する感情しか湧かなかった。
 だから、自分は…其処まで思い出し掛けた時、唐突にこちらの肩にそっと
御堂の手が触れて来た。
 
「っ…!」
 
「克、哉…」
 
 御堂から背を向けている格好なので、こちらからは相手の顔を見る
事は出来なかった。
 寝ぼけているような、すこしはっきりしない発音で…柔らかくこちらの名前を
呼ばれて、びっくりした。
 そのまま御堂の髪が、こちらの背中に擦り寄せられて来て…身動きが
取れなくなっていく。
 御堂は、もしかしたら今…寝ぼけているのかも知れない。
 自分が知っているこの人は、こんな風に無防備な姿を晒すようには見えなかった。
 硬直したまま身動きが取れないでいると…その体制のまま、背後から安らかな
寝息が聞こえて来た。
 
「…オレ、これから一体…どうしたら、良いんだ…。こんな状況に急に投げ出されても…
分からないよ。何で、今更…オレが出ることになっているのか…」
 
 そう小さく呟きながら、深く溜息を吐いていく。
 この朝こそが、二年ぶりに目覚めた…眼鏡を掛けてない方の克哉にとっては、
受難の始まりに繋がっていったのだったー
 
 ※2012年9月6日より開始した眼鏡×御堂に克哉が絡んでくる
形式の話になります。
  三角関係や恋愛主体ではなく、眼鏡や克哉の心理や葛藤に
焦点を当てた話になりますので了承した方のみ目を通して
下さいませ。

 
 今の自分は、順風満帆な筈だ。
 決して叶うはずがないと諦めていた恋が成就して、自分の右腕として
側にいてくれている。
 二人で興した会社も順調で、徐々に軌道に乗り始めている。当初からに比べれば、
従業員の数も増えたしMGNから引き抜いて来た元部下の藤田も想像以上に
役に立ってくれている。
 
(何も憂うべき事はない筈なのに…どうして、俺の心はこんなに晴れないんだ…?)
 
 愛する人間と抱き合って、頂点に達して心地よい疲労感に満たされているのに…
それでも、黒い染みのようなものは心の中から消えてくれなかった。
 
「はぁ…はぁ…」
 
 心が荒れているのを相手に気づかれたくなくて…荒い呼吸を無理に整えなかった。
 触れ合っている肌がじんわりと湿っているのが伝わっていく。
 セックスによって、お互いの体熱が上がっていたせいだろう。
 ぼんやりとそんな事を考えながら、相手の肩に顔を埋めていくと…御堂の腕がそっと、
こちらの後頭部に伸ばされて優しく撫でられていった。
 
「克哉…」
 
「孝典…」
 
「ふふ、何となくくすぐったい気分だな…。君とこういう関係になるなんて…少し前だったら、
考えた事もなかったのに不思議なものだな…」
 
「………そう、だな…」
 
 御堂は何気なく言ったつもりだったのだろう。
 だが、その一言がどうしてか…酷く克哉の胸に突き刺さっていった。
 そう、克哉は罪を犯している。
 御堂に対して、拭い切れない罪の意識を決して消えない程の…重すぎるくらいの。
 
「…どうして、顔を見せないんだ…? ずっと顔を埋めているだけなんて…君らしくないだろう?
 其処まで体力がない訳じゃないだろう…?」
 
「…久しぶりにあんたと抱き合ったんでね。運動不足だったせいで少し疲れただけです。
やはり人間、定期的に適度な運動をするのは必要みたいですね。どれだけ
忙しくても…あんたを抱く時間は週に一回は捻出しないと、どんどん体力が
衰えていきそうだ…」
 
 御堂の声に怪訝そうな色が滲んでいるのに気づいた途端、克哉は顔を上げて…
いつもの調子で憎まれ口を叩いていった。
 
「わ、悪いが…週末に休みが取れないぐらいに多忙な時期は、ちゃんと自重してもらうぞ。
私だって、出来るなら…その、君としたいって気持ちはあるが…翌日に支障が確実に
出ると判っているからな…」
 
「判っていますよ…あんたが翌日使いものにならなくなったら、俺たちの会社の
運営に支障が出ますからね…」
 
「そ、そうだ。あれは私と君の…二人で作った会社だ。一応トップの一人として、
いい加減な真似はしたくない…」
 
「判っているさ…お前のそういう生真面目な所はな…」
 
 御堂は、そういう男だ。
 自分が背負った責任を、決して自分の身勝手な理由で放り投げたりしない。
 そういう責任感の強さがあるからこそ、三十代前半という若さであっても、かつては
大企業の部長職になんて就けたのだろう。
 そんな御堂だからこそ、焦がれた。
 間違った方法を用いても、屈服させたかった。憎ませて自分の事で相手の頭を
いっぱいにしたかった。
 ふと過去の罪がまた頭の中をよぎって、息が詰まりそうになる。
 
(…俺は一体、どうしてしまったんだ…? 最近、どうしてこんなにも過去の過ちばかりが
頭の中に浮かんでくるんだ? こうしてせっかく、御堂と甘い時間を過ごしているのに…)
 
 苦い顔を、恋人の前で浮かべたくなくて必死に表情を繕っていく。
 それが無言を生み出す間に繋がり、再び相手を怪訝そうにさせる要因に繋がった。
 
「…今日は一体、どうしたんだ…? 何か様子がおかしいように感じるんだが…」
 
「…心配するな、少し疲れてボーとしてしまっているだけだ…」
 
「…それなら良いんだが…」
 
 納得しきってないが、疲労している時にボーとしたり注意力が散漫になる事は誰にだってある。
 有能である御堂や克哉だって、それは例外ではない。
 だからこそ…そういわれてしまった側は引き下がるしかない。
 
「疲れているなら…名残惜しいが、そろそろ寝た方が良いだろうか…?」
 
「そう、だな。あんたをトコトン味わうのは一旦、寝て体力を取り戻してからの方は良いな。
明日は久しぶりの二人揃っての休日だから、今から楽しみだ」
 
「…せめて明後日に腰が立たなくなるような事だけはするなよ?」
 
「ああ、判っているよ。あんたは俺の大切なパートナーだからな。右腕がそんな理由で
働けなくなってしまったら、俺達が作った会社にとってとんでもない損失だからな…」
 
「ふふ、今の君は…そういう事をちゃんと配慮してくれるようになったからな。
それだけでも…有り難いな…」
 
「…昔の俺は、そんな当たり前の事すら配慮しないで…あんたを好き勝手
していた、からな…」
 
「えっ…?」
 
 御堂が何気なく言った言葉に、つい反応して後悔めいた発言が口をついていった。
 その途端、御堂の顔がまた訝しげな色を滲ませていく。
 
「…もう、間違いたくない…。あんたに、あんな酷い事は…二度と…」
 
「…判っている。だからもう言うな…。そんなに辛そうな顔を…しないでくれ…克哉…」
 
 一気に二人の間に流れる空気が甘いものから、重苦しいものへと変わっていく。
 そんな雰囲気を長く引きずりたくなくて、御堂は会話を打ち切るように告げていく。
 だから、克哉は胸の内をどうしても御堂に告げられない。せっかくの二人の時間を、
過去の罪によって苦いものにしたくないという理性が働くからだ。
 
「…私はもう、君を許している。だからこうして側にいるんだ。それを…判ってくれ…」
 
「…ああ、判っているさ…」
 
 けれど、克哉の表情は晴れない。
 この重苦しい空気を引きずりたくなくて…克哉は枕に顔を埋めてつぶやいていく。
 
「…もう、そろそろ寝よう。お互い疲れているからな…」
 
「…ああ、そうだな。それが良いかもな…」
 
 そうして、お互いに複雑な思いを秘めながら就寝する為の準備を始めていく。
 お互いの体温と息づかいを感じて、確かに幸福感を覚えているのに…どこか、
張りつめたものを漂わせていた。
 
「おやすみ、孝典…」
 
「ああ、おやすみ…克哉…」
 
 そうしておやすみのキスを交わして、そっと唇をついばみあう。
 そしてお互いの体温を感じあいながら…緩やかにまどろみの中に落ちていく。
 
ーだが、彼は知らなかった
 
 この夜をキッカケに、突然今までの世界がひっくり返ってしまう事を予測しないまま…
彼は、深い精神の淵へと意識を落としていったのだった…
 
 
 ※2012年9月6日より開始した眼鏡×御堂に克哉が絡んでくる
形式の話になります。
  三角関係や恋愛主体ではなく、眼鏡や克哉の心理や葛藤に
焦点を当てた話になりますので了承した方のみ目を通して
下さいませ。


 御堂の快感を引きずり出すように、硬く閉ざされている中をじっくりと
指先で解していく。
 指の腹で前立腺の部位を探り当てて、こすりあげていく度に顕著にその
身体が跳ねていった。
 
「んんっ…うっ…はぁ…」
 
 何かを必死に堪えるような表情を浮かべる御堂が、酷く艶めいて見えた。
 その度に、克哉の背筋も痺れに似た感覚が走り抜けていった。
 愛しい相手を、自らの手で乱して感じさせている事実に興奮していた。
 特に御堂のような力強くて、人一倍プライドが高い人間がこちらに身を委ねて
くれている事実に、強い満足感が広がっていった。
 解す行為を続けている内に、最初は硬かった内部が緩やかに柔らかくなって
いくのを指先から感じていく。
 それに伴い、相手の顔も熱っぽいものへ変わっていった。
 
「克哉、もう…焦らすな…」
 
「…これだけ丁寧にやっているのは、お前を傷つけない為だぞ…孝典?」
 
「そ、んなの…分かって、いる…。けど、もういいから…早く、してくれ…君が、欲しい…」
 
「…俺もだ。孝典が欲しくて…堪らない…」
 
「えっ…?」
 
 相手を焦らして、徐々に追いつめていくのも楽しかったがこんな風にストレートに
求められてしまったら、克哉の理性のタガも外れていった。
 二週間、抱き合えなくて…欲求不満を募らせていたのはこちらだって同じだった。
 
「…俺も、この二週間…あんたを抱きたくて、たまらないのを我慢していたんだ
…同じ、だろ…?」
 
「ああ、そうだ…」
 
 克哉が余裕ない表情で本音を漏らしていけば、綻ぶように御堂が微笑んでいく。
 日頃、険しい顔か難しい顔か、凛とした表情ばかり浮かべている彼が
微笑すると、こんなにも柔らかい顔になるという事を周りにいる殆どの人間は
知らないだろう。
 滅多に見れないのは恋人である自分でも同じだった。
 こうして抱き合う合間に、時々見れる程度で…だから見る度に胸が熱くなって、
どうしようもなくなっていく。
 
「お前が欲しい…」
 
「あっ…」
 
 両足を大きく開かせて強引に割り開かせていくと同時に、勃起した性器を
あてがって腰を深く沈めていく。
 相手の熱い内壁に奥まで挿入していくと…たったそれだけでも達して
しまいそうになる。
 
「相変わらず…お前の中は熱くて、気持ちいいぜ…本当に最高だ…孝典…」
 
「…君だって、凄く熱いじゃないか…火傷、しそうになる…」
 
「そりゃ、あんたを求めてこうなっているんだ…散々、俺に抱かれている
んだから…分かるだろう…?」
 
「ふっ…ううっ…あっ…」
 
 正面から抱き合う格好になりながら抽送を繰り返していく。この瞬間だけは、
御堂を貪るように激しく抱いている時だけは余計なものがよぎることはなかった。
 こちらが動く度に、御堂の表情が快感によって歪み…必死にしがみついてくる。
 その度に、こちらも満たされていくのを感じる。
 さっき一度放った筈なのに、いつの間にか硬度を取り戻した相手のペニスを、
こっちの腹部でこすりあげていくように意識していくと…更に御堂の身体が、
痙攣するように小刻みに震えていった。
 
「うっ…はっ…あ、ああっ…!」
 
「…イイぜ、感じている…あんたの顔、凄く…そそる…」
 
「バ、カ…言う、なぁ…あっ…くぅ…!」
 
 御堂は、抱いて乱れている時ですら…時折抵抗するような言葉を
喘ぎの合間に紡いでいく。
 完全に屈服したり、従順したりしない。
 …そういう男だからこそ、克哉にとってはは…抱く度に何とも言えない
支配欲を覚えて、たまらなくなるのだ。
 パンパンという、肉同士がぶつかりあう音が部屋中に響いていった。
 少しでも長く相手と繋がっていたい気持ちと、早く頂点に達して御堂の中に
情熱を注ぎ込みたい矛盾した欲求を同時に抱いていく。
 相手の口腔を犯すように、再び深く口づけて舌を絡ませあっていく。
 息苦しくなるぐらいに濃厚なキスを交わしていくと、背筋がゾクゾクする程、
気持ちが良くて蕩けてしまいそうだった。
 
「孝典…も、う…イク、ぞ…」
 
「ああ、私、も…うあっ…!」
 
 お互いに余裕のない顔を浮かべていきながら、夢中で腰を振りあって
快感を追い求めていく。
 息が乱れて、徐々に頭が真っ白になるのを感じていく。
 相手の身体にしっかりとしがみつくように抱き合っていく。
 少しでも相手に近づきたくて、感じたくて…腕に力を込めていきながら腰を
揺らし続けて…ついに頂点に達していった。
 
「ふっ…ああっ…!」
 
「くっ…!」
 
 お互いに息を詰めていきながら、控えめに声を漏らしていった。
 ほぼ同じタイミングで達していくと、克哉の腹部には白濁が飛び散り…
御堂の中には相手の精が勢い良く注ぎ込まれていく。
 心が、満ちて…幸福感が広がっていく。
 
(お前が、愛しい…孝典…)
 
 言葉には出さなかった。
 けれどその気持ちを噛みしめて、呼吸を整えていきながら相手の身体を
しっかりと抱きしめていく。
 
―何故、俺は以前にあんな馬鹿な真似をしたのだろうか…
 
 欲望を吐き出して、冷静さを取り戻すと同時に…胸の中に黒いインクの
染みのように、そんな後悔の念が浮かび上がっていく。
 
(また、だ…)
 
 ふとした瞬間に、暗い思念が最近良く浮かび上がっていた。
 その苦い顔を見られたくなくて…克哉は相手の肩に顔を埋めて、己の顔を隠していったのだった―
 
※2012年9月6日より開始した眼鏡×御堂に克哉が絡んでくる
形式の話になります。
  三角関係や恋愛主体ではなく、眼鏡や克哉の心理や葛藤に
焦点を当てた話になりますので了承した方のみ目を通して
下さいませ。


 ベッドの上で、御堂を手早く全裸に剥くと、執拗なくらいに口腔を舌で貪った。
一足先に相手の中に入り込んだ熱い舌は、容赦なく御堂の舌を絡め取って、
甘く吸い上げていく。
 グチャグチャ、ヌチャヌチャとお互いの脳裏に酷く卑猥に粘質の水音が響いていく。
 
「ふっ…はっ…克哉、もう…」
 
「ほう? もうキスだけでとろけてしまっているのか…? 今日はずいぶんと
反応が早いな…」
 
「…ばか、そんな事…言うな…。恥ずかしく、なる…」
 
「…何を今更。今、俺とお前は…恥ずかしくなって、お互いに気持ちよくなる事を
一緒にやっているんだろう…?」
 
「…どうして、君は…そういう物言いしか、出来ないんだ…」
 
「…俺がこういう男だって事は、あんたは良く知っているだろう?」
 
「…ああ、残念な事にな…」
 
 呆れたように呟く御堂の首筋に顔を埋めて、赤い痕を幾つか刻んでいく。
 剥き出しになった胸板全体を手のひらで撫でさすり、突起に刺激を与えて
いく度に、御堂の身体は顕著に震え始めていく。
 
「…相変わらず感度が良いな…」
 
「…誰が、そういう風にしたと思っているんだ…はっ…」
 
「…俺、だろう? お前みたいにプライドの高い男が…簡単に他の男を
受け入れる訳がないからな…」
 
「…判っているなら、言うな…あ、ぅ…」
 
 戯れめいた言葉をやりとりしながら、克哉はそのたよりない突起に
愛撫を与え続ける。
 男であっても、開発すれば其処は十分に強い快楽を与えられる部位に
なりうることをこっちは熟知している。
 適度な強弱をつけながら、指先でつまんだりこねたりしていてはされている
方もたまったものではない。
 すっかりと御堂のペニスは硬く張りつめて、引き締まった腹部につきそうな勢いだった。
 相手の身体の上に折り重なる体勢になっている為に、相手の興奮度合いが
克哉の方にも如実に感じられていった。
 
「はっ…其処、ばかり…弄るな…」
 
「…どうしてだ? こんなに身体を震わせて悦こんでいる癖に…?」
 
「…だから、君はどうしてそういう事を、平然と言うんだ…くっ…」
 
「…孝典、俺の前では快感は堪えるな…。お互いに悦くなる為に
抱き合っているんだからな…」
 
「……簡単には、出来る訳がない…」
 
「くくっ…だからあんたと抱くと、たまらなく興奮するんだよ…」
 
「…それは、どういう…はっ…」
 
「あんただって男なんだ、推測はつくでしょう…? だが、俺の恋人である限りは
こういう時は女役でいてもらうがな…」
 
「っ…!」
 
 女役、という言葉に反応して御堂の目がカッと見開かれていくと同時に、
相手のペニスを握り込んで先端部分を執拗に弄りあげていく。
 自尊心が人一倍強い者を、言葉で詰って羞恥を与える行為は克哉の
支配欲を満たしていった。
 すでに数え切れないぐらいに抱いているおかげで、御堂が感じる場所は
知り尽くしている。
 亀頭の、特に尿道口周辺を指の腹で責め立てていくと相手の息は大きく
乱れ始めていった。
 
「はっ…ぁ…うっ…」
 
「おまえの感じている様は…凄く色っぽいぜ、孝典…」
 
「ん、はっ…」
 
 こちらの手の中で硬く張りつめ、ドクンドクンと脈動している堅さを実感すると
同時に、愉快な気持ちが浮かび上がって来る。
 御堂が自分の手で感じている、それがたまらなく嬉しくて仕方なくなる。
 ペニスを手で扱き続けている内に、御堂の表情は余裕のないものへと変わっていった。
 
「もう、ダメだ…あっ…」
 
「イイぜ、イケよ…孝典…。その様、見ててやるから…」
 
「見る、な…バカ…ああっ!」
 
 微かに抵抗する素振りを見せていきながら、御堂はついに達してこちらの
手の中で熱い白濁を吐き出していく。
 
「今日は、いつもよりもミルクの量が多いんじゃないんか? そんなに
たまっていたのか…?」
 
「はっ…はぁ…それは、君だって同じだろう! 二週間、こういう事をする機会は
お互い、なかった訳だからな…。それとも、私の知らない所で君はスッキリ
していたのか…?」
 
「さあ、どうだろな? 想像にお任せするよ…。ただ、今の俺はあんた一筋だけどな?」
 
「…そういう、不意打ちみたいな言葉を吐かないでくれ…言葉に困るからな…」
 
「事実を口にして、何が悪いんだ…?」
 
 浮気でもしているのか? と戯れめいた言葉を吐いて言葉遊びを楽しもうとした
途端に、まるでこちらの意図を先に読まれたかのような返答が先に来て、
御堂は困惑の表情を浮かべていく。
 恋人に、一筋だと言われたら…好きな相手からなら嬉しくない訳がない。
 照れ隠しに、御堂の方から相手の肩に腕を回して強引に口づけていった。
 お互いの意志が蕩けるような甘く、激しいキスに思考が麻痺していくような
気分に陥った。
 
「はぁ…ふっ…」
 
「…孝典、そろそろ抱くぞ…?」
 
「ん、来て…くれ…」
 
 一度達して何度も深いキスをしたおかげか…すっかり御堂の身体は
受け入れる準備が整っていた。
 小さく頷いていくと克哉は枕元に置いてあったラブローションを取り出して
いって、その中身を多めに手に取って蕾に塗り付け始めていく。
 
「ううっ…はぁ…」
 
「もう少し我慢しろ…。その後に、お前を凄く…悦くしてやるからな…」
 
「んっ…うっ…」
 
 そうして、克哉は恋人の狭い内壁を緩やかに押し開くようにそっと中へ、
指を挿入して解し始めていったのだったー
 
 
※2012年9月6日より開始した眼鏡×御堂に克哉が絡んでくる
形式の話になります。
  三角関係や恋愛主体ではなく、眼鏡や克哉の心理や葛藤に
焦点を当てた話になりますので了承した方のみ目を通して
下さいませ。

「第一話」
 
―愛する人と共に何かを成す事がこんなにも自分を満たし、幸福に
してくれるとは思ってなかった
 
 御堂孝典と二人で興した会社が軌道に乗ってから、多忙極める日々の中で
佐伯克哉はその幸せを噛み締めていた。
 本日も一日、非常に忙しかった。
 夜の21時を回ってようやく、こちらのこなしていた仕事は一段落がついたので
一足先にエレベーターで自分の部屋があるフロアまで移動して、
玄関に足を踏み入れた時…強い充足感が彼の胸の中にあった。
 
(公私ともに充実しているとは正に今のような状態のことを言うんだろうな…)
 
 ネクタイを緩めていきながら、ソファに腰を掛けて深く息をついていく。
 御堂の方の仕事は、後もう少し掛かると言っていた。
 週末の夜、明日の日曜日は久しぶりに御堂と共に一日休みを取れる日だ。
 ここ一ヶ月ぐらい忙しくて、二人一緒の休みなど取れる処ではなかった。
 別々に休みを取ることもなかなか厳しく、二週間前に午後からの半休を一緒に
取ったきり…本当に働きづくめだった。
 
(だが、それだけ物事が上手く行き始めた証でもあるな…。正直、こんな短期間で
ここまで上手くいくとは想定外だったがな…)
 
 彼が思っていた以上に、今は物事は上手く進み始めていた。
 元々御堂と再会をした辺りは…MGNの部長としての立場では満足出来ずに、
独立を考えてその準備をしていたが…それでも、一年に満たない段階でここまで
成果を上げられるとは思っていなかった。
 
「…本当に、御堂という右腕を得ることが出来たことが…俺の人生の中で
一番の幸運だったな」
 
 その事を自覚した途端、幸福感の中に…僅かに苦い思いがジワリと
広がっていくのを感じていく。
 御堂孝典という掛け替えのない存在が、今…自分の傍らにいてくれる喜び。
 それが強ければ強いだけ、かつて自分の犯した過ちが…ふとした瞬間に
過ぎって彼の心に深い影を落としていく。
 
(もうじき御堂が来る…そうしたらまず何をしようか。順当に行けば夕食を
食べるだろうが…気持ち的には食事よりも、御堂自身を味わいたいな…)
 
 男同士のセックスは、特に受身の方に掛かる負担が甚大になる。
 その為、この二週間まともに御堂に触れられなくて、彼の心は大きく飢えていた。
 本音を言えば毎日だって抱き合いたいのに…それをすればきっと御堂は
立てなくなってしまうのが分かっているから。
 そう思った瞬間、チクリと胸に痛みを感じていく。
 
(以前の俺なら、あいつの都合などお構いなしに容赦なく犯していたな…)
 
 御堂を、強引に監禁してその地位すら奪ってしまった時期の事が蘇る。
 そう、その過ちの記憶があるからこそ…彼は御堂に対して無理強いを出来なくなった。
 御堂が大切な人であればあるだけ、その想いが日々積み重なっていけばいくだけ…
罪の意識が彼の中で強まっていく。
 もう、二度とあんな酷い事などしない。
 彼を大切にしたいと、愛しているのだと今の彼には間違いなく言い切れるのに…
何故、こんなにも苦い思いは消えてくれないのだろうか?
 ソファでくつろいでいる筈なのに、胸の中にドロドロしたものが渦巻いているせいで
…あまり精神的に休めないまま、時間だけがすぎていく。
 そうしている間に、玄関の方から気配を感じて…慌てて立ち上がっていく。
 大急ぎで出迎えに走り、玄関で靴を脱いで内側から鍵を掛けて室内に足を
踏み入れようとしている御堂を、問答無用で抱きしめていく。
 
「克哉…?」
 
「…孝典…」
 
 お互いに名を呼びあってから、強引に唇を重ねて貪るようなキスを交わしていく。
 熱い舌先が絡み合い、脳髄に響くような快感が全身を駆け巡っていくのを感じていった。
 
「…はっ…ぅ…」
 
「ふっ…ぅ…」
 
 お互いに息継ぎの合間に、悩ましい声を漏らしていく。
 暫く触れあうだけの軽いキス程度しかしていなかったせいでこれだけでも
下半身がズックンと脈動し、息づいていくのを感じた。
 
「…克哉、玄関先で…こんなキスをするな…困る、だろう…」
 
「へえ? 今夜はこれから俺と抱き合うつもりでこの部屋に来たんだろう…?
 何を困る事があるんだ…?」
 
「…今日はベッドでなければ嫌だぞ? お前は気を抜くと何処でも盛って
好きなようにしてくれるからな…」
 
「…それはあんたが、魅力的だからだ。だからこれでも…この二週間、
頑張って抑えていたんだぞ…?」
 
「…それは、私だって同じだ。我慢していたのは…」
 
 御堂が本当に悔しそうな顔をしながら…こちらの袖をギュッと握りしめてくる。
 どこまでもプライドが高く、高慢だった御堂が…こんな
顔を浮かべるようになるなど、出会った頃には想像もつかなかっただろう。
 頬を上気させながら、絞り出すように本音を漏らす御堂の表情には
何とも言えない艶があった。
 
「…そうか、なら…明日は丸一日休んでいられる貴重な日だ。今夜はあんたを
一晩中でも抱いて過ごしたい気分だ…」
 
「いくら明日が休みでも、一晩中は困る…。明後日に出勤出来なくなったらどうするんだ!」
 
「その時は俺があんたをお姫様抱っこをして、会社まで運んでやるさ…」
 
「そ、そんなのは絶対に御免だからな!」
 
 こちらの言葉にイチイチ、ムキになって反論してくる御堂は克哉にはとても可愛らしく映る。
 
「…分かった、少しは睡眠を取れるようにはするさ…。そろそろベッドに行こう、
孝典。お前が早く…欲しい」
 
「…私、もだ。早く行こうか…」
 
「ああ…」
 
 そうして、愛しい相手と連れだって寝室の方へと向かっていく。
 愛しくて堪らない恋人と、久しぶりに熱い時間を過ごせる事に心は喜びで満ちていた。
 
ーだが、そんな時にすら一瞬だけ胸の内によぎる闇が確かに存在していた
 
 彼はそれから目を逸らす為に、寝室に辿りついた瞬間…強引に御堂をベッドの上に
組み敷いて、乱暴なくらいに性急に服を脱がし始めていった―

 ―生涯でただ一度でも本気で人を愛し、愛されたのならば
 どのような結果になろうともその生は幸せなのではないだろうか。
 その愛が報われることがなくても
 相手に他に愛する人間がいて、自分が恋人という立場になれないとしても
 心から相手を愛し、せめて想うことだけでも許されたのならば

 …その宝物のような想いを抱いて悔いなく生きていける気がする
 人は恋をして、狂うような想いに身を焦がして過ちを犯した末に
 ようやく『愛』を見つけ出せることが出来るのだから
 相手を手に入れなくても、最後に得るものを見つけられたのならば
 それは…『恋愛』という。
 最後に散ってしまう、儚いものであったもしても…

 ―お前は一体、どこにいる?
  最後に言いたい事だけ言って消えやがって
  あんなに強い想いをぶつけられて、こちらからは何を言う暇すらも
与えられず、昇華出来ない気持ちはどうすれば良いんだ?
 せめて…存在だけでも示せ。俺の中にお前がいるというのならば…
一言だけでも、何か言ってみろ。
 本当にお前が消えてしまったのならば…言いたい一言も言えないままだ。
 お前が最後に告げたように、「ありがとう」と言うことすら出来なかった。
 この俺の…気持ちは、どこに向ければ良いと言うんだろうか…
 なあ、『オレ』…?

 行き場のない気持ちを抱えながら、佐伯克哉は実に多忙な日々を過ごしていた。
 御堂が運び込まれてから一週間。
 ようやく彼の容態も安定し、意識が回復したと聞かされた。
 恋人としては付きっ切りで彼の傍にいてやりたい…という気持ちはずっと抱いていたが
共同経営の会社内において、御堂がこなしていた仕事の穴を埋める為に克哉は
いつも以上に働きづめになっていた。
 その為、面会が許可されている時間内に訪ねる事はほぼ不可能な状態になり
いつも非常口からこっそりと入って、恋人の寝顔だけを見つめる毎日を送っていた。

 六日間、働きづめで午前中は休息の為の睡眠で潰れてしまっていた。
 肌寒い日の、日曜の昼下がり。
 佐伯克哉は緊張した面持ちで…恋人が収容されている病室の前に立っていた。

(起きている御堂と話すのは…十日ぶりくらいになるかもな…)

 結局、もう一人の自分が転がり込んで来た日から今日まで…御堂とはロクに
会話をする機会すら持てなかった。
 揺らがない、揺るがすつもりがなかった想いも…もう一人の自分が言いたい事を
言って消えてくれたおかげで…最後の方だけは少し引き寄せられてしまった。
 その事実が…彼を大きく悩ませて、この扉を開けるのに躊躇させてしまっていた。

「ちっ…俺らしくないな。何をこんな事で迷っているんだ…」

 苦々しく思いながら舌打ちして、そのまま個室の扉を開いていった。
 4畳くらいの大きさの室内には、部屋の奥にベッド一台とTVが背面に設置された
サイドテーブル兼クローゼット、そしてベッドの上にスライドさせて使用出来る
白いプラスチック製の机が設営されていた。
 集中治療室から、個室への移動は…御堂本人が希望した結果だという。
 大部屋だと落ち着かないし…隣人に対しての配慮もしないといけないから、多少
割高になっても個室が良いと御堂が言っていたと…期間中、何度も見舞いに訪れて
自分にメールで状態を報告してくれた本多が教えてくれた。

「御堂…起きているか?」

 そう尋ねながら、室内の様子を伺っていった。
 ベッドの方に視線を向ければ、半身を起こして台の上に文庫本を乗せて、ゆったりとした
速度で読書に勤しんでいる御堂の姿があった。

「あぁ…君か。今、退屈だったので…本でも読んで暇つぶしをしていた処だ。…君の顔を
こうして見るのも久しぶりだな。元気…だったのか?」

「嗚呼、どうにか会社の方の仕事を一人でこなせるくらいのコンディションは保つように
している。だが精神的には…あんたの事がこの一週間は気がかりでしょうがなくて…
お世辞にも安定しているとは言えなかったけどな…」

 その一言に、御堂は少しだけ目を瞠っていく。
 信じられない言葉を聞いた、と言いたげな表情だった。

「…もしかして、君が私の事で不安定になっていたと言いたいのか…?」

「あぁ、そういっているつもりだがな。…何をそんなに驚いている?」

「いや…君の片腕としてこの一年、傍にいたつもりだが…そんなに率直に心配
しているとか、そういう事を聞かれた試しがなかったからな…少し驚いただけだ」

 コホン、と咳払いを一つしながら…御堂は微笑んでみせた。
 そのリアクションを見て、もう一人の自分が言っていた言葉の数々を嫌でも
思い出してしまった。

(もう少し素直になれ、か…。どれだけ想っていても口に出さなければ御堂には
決して伝わらない。最初聞いた時は…あんな土壇場に言うのがそれか、と反発
しただけだが…確かに、その通りだったのかもな…)

 指摘されるまで特に意識をした事はなかったが、確かに自分は誰に対しても
素直に言葉を伝えたことはなかったのかも知れない。
 あいつが想いを告げるよりも優先して、こちらに必死になって伝えたメッセージを
思い返しながらつい、苦笑してしまった。
 
「…あんたは、俺にとって大事な人間だからな。心配するのは…当然の
ことだろう?」

「…っ!」

 いつになく、ストレートな一言をぶつけられて…あっという間に御堂の顔が
真っ赤に染まっていく。
 その変化の具合はあまりに急激で、眼鏡は一瞬…どうしていいのか判らなく
なってしまった。

「き、君は…もしかして悪いものでも、食べたのかっ! そんなに優しい言葉を
いきなり掛けるようになるなんて…おかしい、ぞ…!」

(そんなに俺は…コイツに向かって、ロクでもない言葉しかぶつけて来なかった
んだろうか…?)

 御堂を失うかも知れない。
 その一件が、本当に身に沁みたからこそ…アイツの忠告を素直に受け取って普段の
皮肉っぽい言い回しを止めているだけなのだがこの反応の違いはなんだというのだ。
 相手の動揺している姿を見ている内に、非常に意地悪な気持ちが浮かんでくる。
 ふいに…邪魔な白い机をスライドさせてベッドの向こうに追いやっていくと…相手の元に
歩み寄り、ベッドに乗り上げて御堂の耳元に唇を寄せて、甘い声音で囁いていった。

―愛しているぞ、孝典

 滅多に言わない、愛の言葉を呟いていくと…その瞬間、御堂の身体が大きく
克哉を突き飛ばし始めた。
 その両手はフルフルと震えて…ついでに涙目になりながら、耳の辺りを押さえつけて
眼鏡を睨み上げていった。

「き、君という男は…! 普段言われ慣れていない言葉をいきなり言われても…こっちは
心構えがまったく出来ないだろうが…! 本当にいきなり、どうしてしまったんだ!」

 どう表現すれば判らないが、今…目の前にいる克哉はどこかが違って見えた。
 姿形は、紛れもなく彼なのに自分を無理矢理犯した時の彼とはあまりに違いすぎて…
表情、仕草…そして、言動の内容。
 全てが、自分が良く知っている彼とは微妙に異なっていた。

「…そんなに、いつもと…違うか?」

「う、む…。かなり、な…。どう説明すれば良いのか判らないが…君がいつも内包していた
危うさや、暗いものが払拭されて…そう、だな。どう言えば判らないが…凄く、今の君は
優しい顔を浮かべている…気が、する。そう、眼鏡を外して髪を下ろした時の君みたいにな…」

「なっ…?」

 髪を下ろして眼鏡を外している状態、それはもう一人の自分が出ている時の事だ。
 御堂は真っ直ぐにこちらを見つめながら…そっと眼鏡の頬に手を這わせていく。
 存在を確認するように、慈しむように…穏やかな表情を浮かべながら、その頬の稜線を
静かに辿っていく。

「…正直、ここ2~3ヶ月の君の傍にいるのは…息が詰まった。同時に、怖かった。
何か張り詰めたものを感じるのに…幾ら促しても何も言ってくれなくて。何を望んでいるのか、
考えているのか判らない状態が続いたからこそ、私の方も身動きが取れなかったのに
いざ行動したら…こちらの意思などお構いなしに犯される始末だったしな…」

「怒っているか…御堂…?」

「最初は、な。もう君の顔も見たくないとすら思った。だが…何日が時間が経って、君が
いきなり私の事を『御堂さん』と呼んだ時、凄く君が遠く感じられた。
 他人行事になられた直後に…例の事故にあって、もしかしたら君と二度と会えないまま
逝くかも知れない…。そう思ったら、全てがどうでも良くなってしまった。
 死が間近に迫った時、思ったのはただ…君に会いたい。その一心だけだった。
自分でも…いまだに、信じられないがな…」

 苦笑いを浮かべながら、御堂が答えていく。
 そっと相手の髪を優しく梳きながら…とても優しい眼差しでこちらを見つめてくれていた。
 その瞳に半ば吸い込まれていきながら、頬にそっと口付けていく。
 …こんな甘ったるいやり取り、そういえば…初めてやったかも知れなかった。

「…あんたこそ、珍しいじゃないか…。そんなに率直に自分の気持ちを…俺に
語ってくれるなんて。俺も今回の一件で…自分が素直じゃないって気づかされた訳だが
あんたも大概、意地っ張りだからな。そのおかげか…凄く可愛らしく感じられる…」

 クスクスと笑いながら、互いの視線がぶつかりあう。
 克哉はそのまま、そっと優しく唇を重ね合っていった。
 愛しい、という気持ちがジンワリと広がっていく。
 嗚呼…この暖かな気持ちは一体、何だというのだろうか。
 何十回も、何百回もすでに御堂を抱いているにも関わらず…こんな小さなキス一つで
ここまで幸せな気持ちになった事など過去になかった。
 相手も同じだったらしい。
 お互いに顔を離して、そっと瞳を覗き込みあうと…いつになく戸惑ったような、
困っているようなそんな表情を浮かべていた。

「…私は君よりも、7歳も年上の男だぞ。可愛いといわれるのは…やはり心外だ。
撤回して貰いたい…」

「…俺は本心から、そういっているだけだ。それに事実を口にしているだけだ。
キスだけでそんなに顔を真っ赤にさせているあんたは…悩殺レベルで、可愛らしくて
堪らない。…あんたの怪我と体調の件さえなかったら、このまま押し倒したいくらいにな…」

「うわっ! 克哉…待てっ! ここは病院だぞ…!」

 いきなり、恋人の唇が首筋に降りてくるのを自覚すると、あっという間に耳まで赤くして
克哉の身体を押しのけようと足掻いていった。
 だが…そんな反応を楽しげに見守りながら、クスクスと克哉は笑っていく。

「…心配するな。あんたに、痕を残したいだけだ…。あんたは、俺のものだと…そう
示す証をな…刻ませてもらいたい…」

「あっ…」

 痕を刻むだけ、と聞いて少しだけ御堂の抵抗が緩んでいく。
 その隙を狙って、御堂が身に纏っているパジャマを軽く肌蹴させて首筋から鎖骨…
そして胸板全体から、胸の中心へと赤い痕を、まるで花びらが舞うように刻み込んでいく。
 そして心臓の部位に、そっと顔を埋めていくと…ほっとしたように眼鏡は呟いていった。

―嗚呼、あんたの生命の鼓動(おと)が聞こえるな…

 心から、この人が生きてくれている。
 その事に感謝しながら、呟いていく。
 あのまま…御堂を喪ったら、きっと自分は耐え切れなかった。
 正気でなどいられなかっただろう。
 御堂が生きている事実。
 そしてその命を救う決断をしてくれたもう一人の自分の事を思い出したその瞬間…。
 瞳にうっすらと、涙が浮かび始めていった。

 それは…御堂が生きていてくれた事を感謝する喜びと。
 もう一人の自分と二度と会えない悲しみ。
 その二つの強い感情が…彼の心を大きく揺さぶり、涙腺までも動かしていった。
 それが、自分でも信じられなかった。

(人前で…泣きそうになるなんて、みっともない以外の何物でもない…!)

 慌てて相手の胸元から顔を上げようと思ったが、いつの間にか御堂にしっかりと
両腕に包み込まれるように抱き締められる格好になってしまっていたので…身動きが
取れなかった。
 相手のリズムが聞こえる。
 それはこの人が生きていてくれている証そのものだ。
 眼鏡的には、絶体絶命の状況に等しかった。
 御堂の前では、醜態を晒したくないという意識が強い彼にとっては…涙など決して
見せられる代物ではなかった。
 その高すぎるプライドが邪魔をして…慌てて離れようと試みたが、御堂の強い腕が
それを阻んでいった。

(これじゃあ…俺を放せ、とは言い辛いな…)

 逡巡しながら、どうにか涙を堪えようとしていく。
 だがどうしても…もう一人の自分の事を思い出すと、泣きそうだった。
 あいつに何も言えなかった。
 感謝の言葉くらい、言わせてくれれば良かったのに…あいつは自分を犠牲にしてでも
御堂を生かす道を選択して、そして目の前で消えていった。
 『ありがとう』その一言だけでも言えたなら…こんなに自分は悔やまないで済んだのに!

「克哉…」

 あやすように、優しく御堂は…眼鏡の項や、頭を撫ぜていった。
 こんなに暖かくて優しい雰囲気になった事など、過去に滅多にない。
 それは安らぎと言われる時間。
 あまりに労わられすぎると、余計に…涙腺が制御を失ってしまいそうだった。

(止めろ、もう…これ以上あんたに優しくされたら、俺は泣かないでいる
自信なんてない…!)

 強すぎる意地が邪魔をして、その慈愛に満ちた腕の中から逃れようとした。
 だが…その瞬間、『オレ』の言った言葉を思い出していく。

―ねえ、オレ。御堂さんに対してもっと泣いたり、怒ったりそういう姿をちゃんと
見せて良いんだよ? 今オレとしたように、声を荒げて本気で言い合ったりそういう
事が出来るようになっていけばもう、お前の中の獣や憎しみが暴走する事はないと
思うから。だから、どうか幸せになって、な

 御堂と出会ってから、二年と数ヶ月。
 一度でも…自分は彼の前で泣いた事はあっただろうか?
 そんな弱みをただの一度でも見せた試しがあったのだろうか?
 あいつの言葉を思い出して、その考えに思い至っていく。
 それが…彼から、御堂の腕から逃れようとする意地をそっと打ち砕いていった。
 そして、初めて泣いていく。
 愛しい人間の、その腕の中で…。

「…っ! 克哉、もしかして…泣いて、いるのか…?」

 相手の顔は、見えなかった。
 だが…濡れている感触で、彼が今…どんな状態なのかを理解していく。
 決して、克哉は顔を上げなかった。
 その事実から、御堂は察して…それ以上、言葉では詮索せずに…静かに
彼を抱き締めるのみだった。
 そして眼鏡は呟く。
 心からの一言を…。

―あんたが、生きていてくれて本当に良かった。

 あの事故で、永遠に失われてしまっていたかも知れない。
 そう考えたらこうして生きていてくれている事、それ自体が凄く嬉しくて仕方なくて。
 感謝の涙で、男は瞳を濡らしていった。
 御堂は…意地悪で傲慢で、滅多に本心など口にしてくれない困った恋人が…
初めて、こんな一言を言ってくれたのが嬉しくて仕方がなかった。

―あぁ、私も…君にもう一度、会えて本当に良かった。今生の別れが…あんなに
すれ違ったままの状態にならなくて、良かった…。

 お互いに知らぬ間に、涙を浮かべていた。
 それを見せたくなくて、克哉は御堂の胸に…。
 御堂は相手の肩に自分の顔を浮かべていくと…泣き顔は決して見せないように
しながら、再会の嬉し涙を静かに零していった。

「君が私を呼んでくれて、本当に良かった。…もう死ぬかも知れない、と。
そう覚悟した時にとても綺麗な光を見たんだ。それを見ながら…切実な君の祈りの
声を聞いたんだ。生きてくれ、と…まだ貴方は逝くのは早いんだ!戻って来てくれ…と。
君の呼んでいる声を何度も、聞いた。意識を失っている間な…」

「そう、か…俺は祈り続けていたからな。あんたが助かってくれる事を…」

 だが、恐らくその声は自分だけではない。
 きっと『オレ』のものも重なっていた筈だ。
 二人の克哉が、この世で一番…御堂の生存を望んでいた。
 だからこの人を失わないで済んだ。
 けれどその引き換えにもう一人の自分を失ってしまった。
 その事実が…眼鏡の胸の中をぽっかりと、大きな空洞を空けてしまっていた。

―克哉、私を呼んでくれて…必要としてくれて、ありがとう。

 自分を陵辱した一件の怒りよりも、遥かにその喜びの方が大きかった。
 だから…自然と、わだかまりは流れてしまっていた。
 そう言われた瞬間…はっとなって、顔を上げてしまっていた。
 お互いに涙に濡れた顔を晒していく。
 だが…もう、そんな事で幻滅したり相手に呆れたりすることなど…最早ありえなかった。

―孝典、あんたも…生きていてくれて、ありがとう。あんたがここにいてくれる事が
俺にとっては…何よりも、嬉しいんだ

 こんな言葉、今までだったら言えなかった。
 だが…この喜びの前ならば、幾らでも素直になれる気がした。
 気恥ずかしさはあった。
 だがそれ以上に胸が満ちて、幸福でいっぱいになって…自分の心中の奥深い処に
宿っていた憎しみが、それで洗い流されていくような感覚を覚えた。
 
―あぁ、お前が言いたかった事はこれだったんだな…。

 素直になる事で、こんなに気持ちが楽になれるなんて知らなかった。
 意地を張るばかりで、そんな風にしか彼は生きられなかった。
 だが…命を懸けてまでもう一人の自分はその事を伝えてくれた。
 今、この瞬間が死んでも惜しくないくらいの幸福感を覚えているからこそ…彼が言った
言葉の重みをようやく…眼鏡は理解していった。

 お互いに、幸せな笑みを浮かべていく。
 眩暈がしそうなくらいに…愛しくて、幸せで。
 再び…二人の唇は小さく、重なり合っていった。

 もう…あいつにこちらの想いが届くことがないのならば。
 『オレ』が願った通り、生涯この人を自分は愛し抜こうと静かに誓った。
 優しく労わって、大切にして。
 もう二度とあんな暗い衝動に突き動かされないように。
 自分を見失わないように戒めたその瞬間、一つの声が響いていった。

―それで良いんだよ。幸せにね…『俺』…

 微かな、か細い一言だった。
 だが…確かに聞こえた。
 間違えようがない…これは、あいつの…

(あぁ、お前は…俺の中に…いるんだな…)

 それを確信した瞬間、彼は嬉しかった。
 腕の中には最愛の人。
 そして…心の中には自分の半身が確かに其処にいてくれている。
 その事を確信して、心からの笑みを眼鏡は浮かべていった。

―あぁ、幸せになってやる。だから…お前はそこで、見ていろ…

 お前が自分を犠牲にしてでも、守ろうとしてくれた愛を…何が何でも守ろう。
 この手を決して離さないように。
 ずっとこれから先も共に歩んで行けるように…。
 強く願いながら、眼鏡はそっと腕の中の愛しい人を抱き締め続けていく。
 その幸福に包まれたその時…。

 ―それで良いんだよ

 優しい声音で、もう一人の自分が…こちらの決意をそっと肯定しながら
笑ってくれているのを、感じて…眼鏡もそっと微笑んでいったのだった―
 



 ―人はその生命を燃やすとき、鮮烈に輝きます
 他者の為を想い、自分さえも捨て去る
 残された者にとっては暴力にも等しい行為
 その瞬間、まるで夜空に輝く花火のように光を放ち 
 迷える者を照らす道標となることでしょう

 ―そして暗天の中、焔と男の豊かな金髪がが揺らめいていた

 契約の通り、Mr.Rは克哉の魂を貰い受けて…その約束を果たしていく。
 ここは御堂の夢の中。
 その中に黒衣を纏った男は入り込み、迷える魂を助けていった。
 人の心は、ある種…小さな小宇宙のようなものである。
 一切の光源すら存在しない漆黒の闇の中、彼が来るべき道を照らすように
幻惑的な光を生み出していた。

―さあ、こちらへいらっしゃい。貴方が生きる事を…心から望んでいらっしゃる方が
此処にいますから

 そうして…紅、蒼、翠、紫、黄、橙…様々な色が入り混じった多数光が、清冽な白い
輝きとなって深い闇を照らし出していく。
 遥か彼方には、死へと繋がるどこまでも深い奈落があるのならば…男が照らし出す場所は
生へと繋がる箇所だ。

―己の命を賭けてでも、貴方の死を拒んだ方がいるのです…だから、こちらへ
貴方ほどに輝ける方が闇に堕ちるのはまだ早いですよ…御堂孝典さん

 御堂の夢の中でも、男の歌うような語り口調は変わることがなかった。
 かなり深い場所で、御堂の魂は惑いつつあった。
 そちらの方に踏み入れそうになったその時、こちらの焔を見て…ゆっくりとだが、確実に
こちらの方へと向かって来た。

 今、Mr.Rが出している幻想は、人の魂が見せる輝きそのものだ。
 宇宙の中に輝く太陽、漆黒の夜空に瞬く一番星のように…どこまでも眩く光って
『生』へ繋がる道筋がこちらにある事を示していく。
 幾重にも延びる光が作り上げるその光景は、まるでオーロラのようですらある。
 様々な色の光が混ざり合い、重なり合ってどこまでも澄んだ光を放つ。
 それは克哉の祈りの象徴だ。

―まるで聖人のようですね。一切のエゴを捨て去って…ここまで恋敵の為に
御自分の命を燃やし尽くせる方はそう…いないですよ。 

 呆れたように、感服したように…男は呟く。
 そう、この光は…克哉の魂を使って生み出している。
 だから男は、代価に彼の魂を求めた。
 深い深い場所に、その魂魄が彷徨ってしまった場合は…引き戻すのはかなり
困難な行為だ。
 時に助かる見込みのないものが生還する時、その時は必ず…誰かが命を燃やしたり
命すらも削る覚悟で祈り続ける事により奇跡が起こるのだ。

 人というのは本当に奇妙で、面白いものだ。
 容易に他者を妬んだり羨んだりして、本来の輝きを簡単に曇らす者もいれば
 土壇場で自らすらも捨て去って、正しい道を選んで光る者もいる。
 克哉は、後者だ。

 彼は…二年と言う時間を閉じ込められて過ごす事によって、本来…人が持っている
全てのエゴを捨ててしまったようだ。
 だからここまで、一点の翳りなく彼の魂は光り続けていた。
 命の全てを燃やし尽くしても惜しくはないと、自分自身までがそれによって
消滅しても惜しくはないと―
 その命を潔く諦めるくらいの覚悟がなければ、ここまで輝けない。
 だから男は…ほんの少しの慈悲を見せて、彼の魂の一カケラだけを残していく。
 
―佐伯克哉さん。貴方の魂の高潔な願いに免じて、ほんの僅かだけ…使わずに
残しておいて差し上げましょう

 それは本当に微かな、弱い焔。
 男の掌の中にすっぽりと納まってしまいそうな小さなカケラだった。
 だが、小さなその結晶は澄んでいて、美しかった。
 Mr.Rはそれを握り込んでいくと…優しく語り掛けていく。

―此度の、貴方と私のゲームは…貴方の勝ちです。散々、こちらが示した誘惑や
罠に惑わされずにもう一人のご自分の為に、最後まで己を犠牲にしてでも…あの二人を
幸福にする事を願い続けたその意思の強さに、敬意を示しましょう―

 そう、Mr.Rにとって…佐伯克哉という存在は、長い時間を生きて退屈と怠惰に侵されて
しまった彼をもっとも楽しませてくれる貴重なものであった。
 一つの身体に二つの魂。
 どちらの面が生き延びて表に出るか、もしくは融合するか…衝突してこちらの誘惑に
あっさりと陥落して落ちていくか。
 こちらが指す手によって、毎回彼の選択は変わり…結果が大きく違って来る。
 それが男にとっては、面白くて仕方ないのだ。

 例に出せば、眼鏡の方の意識が出ている場合のケースだ。
 嗜虐の果てに一人の人生を破壊し尽くして悔やむ彼
 親友気取りの男を影で裏切り続けて、その生き甲斐すらも奪ってしまったり
 軽い気持ちで弄り続けた男に涙ながらに刺されてその生を終える場合や
 飼い猫として愛でていた少年にあっさりと捨て去られる時もある

 克哉の方が表に出た場合は…散々好きなように弄ばれた果てに相手の気持ちが
見えないまま置いていかれてしまったり
 自分を想って全身で体当たりしてくる相手を「親友だから」と言ってばっさりと振ったり
 男が与えた眼鏡に土壇場で縋ってしまって愛しく想う相手の家族に殺されてしまったり
 今回のように…もう一人の自分に強く惹かれて、狂ってしまったり…

 深く関わる人物と幸福になれる道のりを辿ることもあれば、彼らに殺し殺される結果や
見限られる結末など…実に多種多様な運命を紡ぎだしていく。
 その時に男が深く関与する事もあれば、まったく想いも因らぬ処で予想外の結果を
導き出すことがあった。

 それがどれだけ…病理のように、深く蝕んでいる男の『退屈』を満たして潤して
くれた事だろうか。
 だから男は、『佐伯克哉』という存在に執着する。
 時に楽園で、エヴァを唆した蛇のように…地獄に突き落とす誘惑をしたかと思えば
幸福への道筋を気まぐれに示すこともある。そのような関わり方で―
 無数に広がる彼の可能性、そして運命。
 その全てを見尽くすまで決して男は…離れないだろう。

 この運命の中で、眼鏡がもっとも必要としている存在。
 その光が、こちらの輝きに導かれるように戻ってくる。
 弱ってしまっている魂に、惜しみなく克哉の魂は輝きを与えていく
 己の全てを相手に渡してしまっても惜しくないというように…
 御堂の魂は、その光を飲み込んでいくと再び蘇り
 残されたのは本当に僅かなカケラだけだった

 ―貴方に最上の幸福を与えてあげましょう

 そして、手の中の光を男は解放して宙に放っていく。
 両手を挙げて仰ぎながら…その光を包み込み、そっと目を伏せていった。

―貴方のカケラを、あの方の中へ。もうこれだけ弱ってしまったのならば…もう
私の力を注いでも、貴方は肉体を持って存在する事は出来ない。
 ですが…あの方に受け入れられて、その身体の中で静かに眠るだけならば…
充分に存在出来る筈です。

 お眠りなさい…本当に愛する存在のもっとも近くに存在出来る座で。
 其処は世界を大きく変革していく者をこの世で一番…間近で観察して見守れる場所。
 そして貴方の存在を受け入れた後ならば、もし再びあの方が大きな過ちを犯しそうに
なっても今までと違いその声はキチンと届く事でしょう…。
 二つの身体を持って結ばれることは困難でも、『一つの存在』となって一体化し…
見守り続ける事が出来る。
 相手を手に入れる、手に入れないという領域さえ超えた最上の幸福を…
己を犠牲にしてでも、二人の幸せを願った貴方の高潔さに免じて差し上げましょう―

 そして、男は解放し…克哉の魂が有るべき場所に戻るように促していく。

―お行きなさい。そして…おやすみなさい、克哉さん。

 男は優しい顔をしながら、克哉の魂を見送っていく。
 この奇妙な男の中には、神とも悪魔とも取れる両極端な心が宿っていた。
 人を陥れて、闇に突き落とす残酷さと。
 相手の幸福に繋がる慈悲を見せる部分と…まったく相反する面が同意している。
 見送る男の顔は優しく、同時に何かを面白がるような愉しげな顔をしていた。

 そう…彼にとって、佐伯克哉が幸福になっても不幸になってもどちらでも構わないのだ。
 …自分をその道筋を持って楽しませてくれれば良い。
 そして今回の顛末は、自分の予想を何度も小気味良く裏切ってくれて飽きる事が
なかったから…その労いとして、気まぐれに慈悲を見せた。
 ただそれだけの事だった。

―さて、次なる貴方と新たな遊戯(ゲーム)を楽しむ事にしましょうか…

 何度でも、何十回でも…こうして、貴方と楽しもう。
 次の彼は、一体どのような顛末を自分に見せてくれるのか。
 それは当面、終わる予定のない繰り返されるチェスのようなもの。
 次回は圧倒的にこちらが有利な状態で相手を追い詰めた状態からスタートするか…
もしくは時に隙を見せて、たまには相手を有利にしておいてやるか。
 そういう事を考えるのが、男は愉しくて仕方がない。 
 
 ―人とは本当に不思議なものです。
 とてつもなく美しい部分と、醜い部分が常に同居して存在している。
 此度の貴方はとても輝いておりました。ですから…次も、愉しませて下さいね。
 ねえ、佐伯克哉さん…。

 両方の彼に語りかけるように呟きながら、漆黒の闇の中。
 男の姿は掻き消えていった。
 其処に残されたのは、強く輝く御堂の魂のみだった。

 それは赤々と強く輝き、生きたいと訴えかけているように燃えている。
 もう其処には…死の影など一切見当たらない。
 そして御堂の魂は還っていくだろう。
 心から、自分を必要として戻って来る事を望んでいる…眼鏡の元へと―

 
  
 ―不思議な夢を何度も見た
 自分が消えてしまいそうな時に、必死になって手を伸ばして
 そちらに引き寄せてくれた記憶。
 それはもしかしたら…生まれる前に、あったかも知れない出来事。
 

 『オレ達、もしかしたら…双子だったのかも知れない、ね…』

 消え入りそうになりながら、眼鏡にとっては予想外の一言を克哉は口に
していった。

「な、に…?」

 てっきり、愛の告白でもされるのだろうと硬くなって身構えていた眼鏡にとっては
予想外の一言であった。

「…お前に主導権を奪われてから、何度か見た不思議な夢があるんだ…。最初は
二人で同じ場所にいたんだけど、オレの方が深い穴に飲み込まれそうになって…
もうじき、自分が消えるな…と覚悟を決めた時に『来い』と誰かに…引き寄せられる夢。
 最初は何だろう、と思っていた。けれど…前にどこかの本で読んだことがあったんだ。
 
 双子というのは自然界に結構多く発生していて…けれど、生まれる前に淘汰されて
もう一人の身体の中に包み込まれてしまったり、お腹の中から消えてしまって別の
場所で同一日時に生を受ける不思議な例がある事を…。
『ミッシング・ツイン』と呼ばれる現象らしいんだけど…もしかしたらオレ達の場合は、
お腹の中で片方が淘汰される時に、もう片方が…自分の身体の中に招き入れたの
かも知れないね…」

 だから、自分と彼は個別に魂を持っているのではないか…と。
 そうでなければ、どうして…Mr.Rという不思議な人物の力があるからといって…
こうして別々の身体で存在出来るのだろうか?
 克哉は何となく、二重人格というよりも…この身体には二つの魂が宿っていたからこそ
こんな不思議な事が可能になっていたのではないか…と感じていた。

「そ、んな事…」

 ある訳がない、と続けるつもりだった。
 だが…唐突に一つのビジョンが浮かび上がる。
 弱く消えそうになっていた光。
 それに必死になって追いすがる大きな光。
 逝くな、と…自分は必死に叫び、そして…その光を飲み込む映像。

(何だ、これは…?)

 それは夢か現か、実際にあったことかそうでないかは判別出来ない夢。
 されど…二人の記憶に、そのビジョンがあるのなら実際にあったかも知れない出来事。
 眼鏡の方は、再び呆然とするしかなかった。
 克哉の方はどこか達観したように微笑んでいる。

「…その夢が事実かどうかなんて、オレには判らない。けれど本当の事だったのならば…
消えた方がオレの方ならば、最初からオレは『亡霊』で…お前が自分の身体に受け入れて
くれたから存在出来ていたに過ぎないんじゃないのかな…?
 そしてお前が眠っていた13年間、オレは生きる事が出来た。その期間に…お前に
とっての御堂さんのように自分が心から愛したり…誰かに必要とされたり、そういう存在を
作れなかったのならば…淘汰されるのは、オレの方だ。違うかな…?」

 そう、眼鏡の方は生まれた時から12年と…そしてこの二年間の合計14年。
 克哉の方はあの不思議な銀縁眼鏡を受け取ってから数ヶ月後までの13年間…27年間の
生の内、ほぼ均等の時間を自分達は生きてきた。
 出来すぎるが故に、出来ないものの心を理解出来ず孤高であった眼鏡。
 その体験を無意識下で覚えていたせいで、秀でることを良しとせず…誰も傷つけないように
衝突しないように生きてきた克哉。

「…オレは誰も本気で求めようとしなかった。傷つきたくなかったから…誰も傷つけたく
なかったから…。けれどお前と御堂さんを見ている内に、お前の中に閉じ込められてから
そんな人生が…どれだけ空虚だったかを、思い知ったんだ。
 誰かを好きになって、本気で変わろうと。その人間の為に必死になって努力して
前向きに生きていこうとする事…オレは、そんなお前の姿を見て…ようやく、気づかされたんだ。
そして本気で憧れて、その輝きに…惹かれたんだ…!」

 憧憬の想いを込めて、そっと相手の頬に手を伸ばす。
 それを眼鏡は無言で許していく。
 少しずつ、もう一人の自分の姿が薄い淡いものへと変わっていく。
 何も、いえなかった。
 自分の内側にコイツはずっといたのに、眼鏡は存在しないものと扱っていた。
 うっとおしく…弱い、情けない奴だと見下して…深く考えた事もなかった。
 自分の中で、こんな事を考えて…生きていたと初めて知って…彼は戸惑うしか
なかった。

(何故、今になって言う…!)

 いや、今になったからこそ…彼はようやく告げたのだろう。
 愛しいという想いが湧いて来ても、この状況ではもう遅い。
 そして…この想いを受け取れば、ずっと追いかけてきた御堂に対しての最大の裏切りになる。
 その葛藤で、胸が苦しくてどうかなりそうだった。
 いや…だから、コイツはずっと求めなかったのだ。
 自分を、手に入れようとしないスタンスを貫いて来た。
 『誰よりも、眼鏡の傍にいてその心に触れて来た』が為に…!

 何も、言えなかった。
 ただ、相手がギュっと抱きついてくるのを…無言で許した。
 好きにすれば良い。
 お前に残された時間は、本当に後僅かだというのなら―

「…お前の想いは、判った。だが…俺には、お前の気持ちを受け入れる訳にいかない。
御堂に対して、裏切れない。お前に…報いる訳に、いかない…」

「知っているよ…だから、オレは…御堂さんに生きて欲しいという選択をしたんだろ…?」

 嗚呼、本当に薄くなっている。
 消えてしまうのだな…と実感させられた。
 そう、そう彼が選択したからこそ…今、こうして抱きついてくる事くらいは許している。
 自分の愛する人間を生かす為に、自らの命を差し出す。
 そんな馬鹿な真似をする人間の最後の抱擁を、どうして拒めるというのだろうか…?

「ねえ、我侭を言って良いかな…?」

「何だ、聞ける事なら…叶えてやろう」

「…一度だけ、キスして良い…?」

「あぁ、構わない。一度だけ…だろう?」

「うん…」

 残された時間が五分を切った状態。
 だから眼鏡も頷いていく。
 そっと互いに顔を寄せて…唇を静かに重ねあった。
 触れるだけの、長いキス。
 軽くだけ…眼鏡の方からも相手を抱き締めて…相手の好きなように
させていった。

(あぁ…キスってこんなに、幸せな気持ちになれるものだったんだ…)

 胸に、幸福感が満ちていく。
 何度も夢の中で身代わりに抱かれて来た。けれど自分を見てくれないで身体を
重ねるよりも、自分の存在を認めてくれて…触れるだけのキスをした方が余程気持ち良かったし
心も満足していた。
 ほんの僅かな時間だけで良い。
 こうして抱き締められて、本当に心から想う人間の腕の中で安らぐことが出来たなら…
生きてて良かったと…心底思えた。

 自分が生きていた時間の中、何も出来なかった。成さなかった。
 けれど最後の最後で…本当に好きになった人間の為に何かを出来たのならば…
自分が生きていた意義はあったのだろう。やっとそう思う事が出来た。 
 克哉の身体が淡く輝き、細かい粒子となりつつある。
 腕の中の存在が次第に儚くなっていく中…それでも、最後の刻まで彼は…もう一人の
自分を抱き締め続けていた。

「…ねえ、オレ。御堂さんに対して…もっと泣いたり、怒ったり…そういう姿をちゃんと
見せて良いんだよ? 今…オレとしたように、声を荒げて本気で言い合ったり…そういう
事が出来るようになっていけば…もう、お前の中の獣や憎しみが暴走する事はないと
思うから…。だから、どうか…幸せになって、な…」

「あぁ…努力する。だが、お前は…本当にそれで満足、なのか…?」

「うん、満足。だって…やっとお前に対して出来る事があったんだもの…」

「そうか…」

 そして、もう一度…唇を重ねた瞬間…もう一人の自分の身体は完全に原型を
留めなくなった。
 藍色の闇の中、眩く輝く粒子となって…自分の手の中で消えていく。
 
―ありがとう『俺』 どうか…御堂さんと幸せに

 心からそう願いながら…もう一人の自分は、その運命を受け入れていった。
 その様は…まるで夜空に多数の星が瞬くようだった。
 そうして星屑にしかなれなかった存在は、己の魂を燃やしていく。
 本来なら、なかったかも知れない生の中で…誰かを生かせた事に満足して
消えていく。
 眼鏡は、静かな顔をしながら…その光が消えるまで…その場に立ち尽くす他なかった。

 その数時間後。
 集中治療室の前に戻った眼鏡の元に、看護士の口から…御堂の容態が峠を越したという報が、
届けられたのだった―
 
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プロフィール
HN:
香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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