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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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 ―あれから三年の月日が流れた。

 佐伯克哉は黒いバーテンダーの制服に身を包みながら、自分が勤めている
バーの閉店準備の為に、店中を動き回っていた。
 落ち着いたシックな雰囲気のバーだった。
 照明は控えめで仄かに薄暗く、静かなBGMが邪魔にならない程度に
流れ続けている。
 カウンター席とテーブル席、合わせて30~40人程度座れる中規模な
大きさの店内を、克哉はともかく…掃除用具を片手に、丁寧に最後の
清掃を施していた。

「ふう…こんな物かな…」

 店には、すでに克哉一人しかいない。
 店長を含めて、他の従業員はすでに帰宅してしまっていた。
 この店の終業時間は午前2時だが、時計の針は…もうじき午前三時を
さそうとしていた。
 真面目な性格の克哉は、清掃に関しても手を抜かない。
 そういった彼の気質を店長は高く買ってくれていたので…今の克哉は
この店のマネージャーを勤めるようになり、店を閉める為に、鍵も信頼
して任されるまでになっていた。
 一通りの清掃が終わって、掃除用具を片付けていくと…深く溜息を
突いていく。
 今日も一日、無事に終わったことに関しての安堵の息だ。

(三時になったら…帰る準備をしよう…)

 ホウッと一呼吸していきながら、克哉はカウンターの傍らのスツールに
腰を掛けて…そっと寛いでいった。
 
(この店に勤めるようになって…そろそろ、三年か…)

 ふと、そんな感傷が胸の中に湧き上がって来ている事に気づいて…
克哉は軽く目を伏せていった。
 もうそれだけ、時間が流れたことに関して…時が過ぎていくのは
あっという間だと…つくづく実感しながら、ふと彼は思考に耽っていった。

 あの日、もう一人の自分を失い…太一と決別した翌日、克哉は…
東京都内にある片桐の家の前まで運ばれた。
 元々、Mr.Rは…かつての職場や、実家がある関東方面に向かって
車を走らせていたのだが…片桐の家を選択したのは、かつて自分の
上司が語ったある一言を鮮明に思い出したからだった。

―僕はね、とても大切な人を亡くしたことがありますから…。

 それは、八課での飲み会の時に…片桐が酔った拍子にボソリと
呟いた一言だった。
 泣きそうな顔で、切なげにそう言った上司の一言に驚いて…その時の
自分はそれ以上突っ込んだ事は聞けなかった。
 だが、眼鏡を失くして…深い喪失感に苦しんでいた克哉は、何故か
そのやりとりを思い出して…まず、片桐に話を聞いて欲しいと思ったのだ。
 大切に思っている誰かを失くす。
 そんな体験を、判って欲しかった。聴いて欲しいと思った。
 だから…家族でも、本多でもなく…片桐の元に戻る事を選択した。

 暫く音沙汰が無かった克哉が急に訪ねて来ても、片桐は歓迎してくれた。
 そして…全ては流石に話せなかったが、やや架空の事情も混ぜながら…
克哉は片桐に沢山の話をした。
 ヤクザの家に監禁されて、というのと…最後に銃撃戦を繰り広げたという
事情は隠したが、ある程度…現状を包み隠さず話して、片桐に…暫くこの家に
居候させて欲しいと願い出た。

 克哉にはお金も、何もなかった。
 あの別荘を出た時、幾許かの金銭と…身一つ以外、何もなかったから。
 本来なら実家に頼るのは一番だろうが、五十嵐組の人間があれからどう出るか
まだ読めてない段階だったので、まだ顔を出すのは早計な段階だった。
 本多の場合だと、逆に親しすぎてマークの対象になっている可能性があった。
 片桐の場合、信頼出来る距離にいて近すぎない…という位置にいた為に
当時は、彼の家に暫く厄介になるのが確実だと判断した。
 …そして、一人で一軒屋で暮らしている片桐は快くそれを承諾してくれた。
 金銭面で絶対に負担を掛けて迷惑を掛けたくなかったので…カクテル作りに
興味があったし、待遇面でも良かったので…この店に応募をして、勤め始めた
のも大体同じくらいの時期だった。

 それから一年、貯金が出来るまでは…片桐の好意に甘えさせて
貰いながら…克哉は、徐々に本多や、実家の家族…大学時代の友人達と
少しずつ、一旦は断ち切った人達との交流も復活し。
 自分の居場所を取り戻した克哉は…目の前の事に精一杯に取り組んで
生きていった。
 克哉がしっかりとすれば、早く…もう一人の自分とも再会出来るかも知れない。
 ただそれだけを頼りに…克哉は、あの日からがむしゃらに生きて来た。

「三年、か…」

 もう一度、そっと目を伏せながらしみじみと呟いていった。
 元々…オリジナルカクテル作りの趣味があったおかげで、予想外に
克哉はこのバーテンダーという職種に馴染むのが早かった。
 最初の頃は…未知の職業に飛び込む事に対しての不安は当然あったが
まず、稼がないといけなかったのと…前の会社を辞めてから一年半以上が
経過して、その空白の期間を敢えてうるさく問われそうにない職種を選んだら
結果的に夜の仕事しかなかった訳だ。
 それでも…元々、人当たりが良く必要以上に他人に干渉しない性分の
克哉は…思いの他、夜の街に馴染むのが早かった。
 様々な人の人生に触れ、一度は断ち切られた周囲の人間との交流を
取り戻した事で、克哉はしみじみと実感していた。

―人は一人では生きていけない事を…

 誰かを愛した時、その人間と二人きりで生きられたらと…つい望んで
しまうのは恋をした事があれば誰もが思う事だ。
 けれど、それを太一が実行に移したことによって…その実害を知って
からは…克哉は人を愛すること、ちゃんと恋愛するという事は本当に
難しいことを実感していた。

 周囲の人間と繋がり、その輪の中で…自分は生きているという事を
一度失ったからこそ、実感出来た。
 人との関わりを失くして、社会性を失くした恋愛は…太一と自分に
関わらず、どんな人間同士でも上手く行かないという事を…この
職業に就いて、色んな人の実らなかった恋の話を聞く度に
改めて思い知らされていた。

 この三年間…そうして身の上話をするついでに克哉に色目を使ってきたり、
男女問わずにアプローチを掛けて来た人間は沢山いた。
 けれど、心の中に克哉には待っている人間がいた。
 だからその事をはっきりと伝えた上で…克哉は、誰とも付き合うことは
しなかった。
 その中に、再会した本多も含まれていたけれど…どんな人間に想いを
寄せられても、克哉の答えはもう変わらなかった。

―あいつを、待つと…。

 その答えを、克哉はこの三年…しっかりと抱いて生きて来た。
 けれど…今夜に限って、それが無性に…寂しかった。

「…あいつ、いつになったら帰って来るんだろう…。何年掛かっても
必ず戻って来るって言った癖に…俺の中で眠ってるのなら…一言くらい、
教えてくれれば良いのに…」

 そう、あの日から…もう一人の自分は眠り続けている。
 克哉を庇って、銃弾を胸に向けたもう一人の自分は…幻のように
姿を消して、必ず戻って来る。だからお前は生きろ、と言い残して…
静かに眠りについた。
 ずっとその日から、何かの拍子にあいつの声が聞こえて励まされる
事は多々あった。
 けれどいつも聞こえる訳じゃないし…かつてのように触れ合える
訳ではない。
 それが無性に寂しくて、つい…カウンターに突っ伏して…克哉は
ギュっと自分の身体を抱き締めていった。

―早く、会いたいよ…! お前に…!

 その日だけを願って、克哉は生き続けた。
 彼と再会出来る日、それだけを願って。
 その瞬間…扉が、勢い良く開け放たれた。

 バァン!!

 その大きな音にびっくりしてカウンターから身体を起こしていくと
扉の向こうに人影が立っている事に気づいて、とっさに声を掛けていった。

「あ、すみません…もう、うちの店は…」

 閉店しているので、と続けようとした瞬間…口を噤むしかなくなって
しまった。信じられないものを見たからだ。

「ど、して…」

 フルフルと、肩と唇が大きく震えていった。
 今…目の前に在る光景が本当かどうか、疑いたくなった。
 とっさに、涙が零れそうになった。
 信じられないと…目の前に立っている相手を食い入るように凝視して、
しっかりと見つめていく。
 最初は幻かと疑った。
 けれどその人物は…コツコツ、と硬いリノリウムの床をしっかりと踏みしめて
こちらの方へと歩み寄って来る。

「…まさか、俺が判らない訳がないだろう…? 随分と…その黒いバーテンダーの
服装、似合っているじゃないか。見ていて…そそるぞ?」

 強気に微笑みながら、サラリと彼は際どい事を口にしていく。
 その物言いで、確信していった。
 今度は克哉の方から間合いを詰めて…駆け寄っていく。

「バカッ! 再会して最初の一言が…それかよ!」

 今度は、もう涙腺が壊れ始めていった。
 そのまま勢い良く目の前の男性の胸に飛び込んでいく。
 懐かしい匂いと温もり。
 それは幻ではなかった。確かに現実だった。
 嬉しくて嬉しくて、いっそ気が狂うんじゃないかって思うぐらいの
歓喜が…克哉の胸の中に湧き上がっていった。

「…そうだな。照れ臭くてつい、こういう物言いになってしまった。
…約束どおり、戻って来たぞ…」

「…うん、ずっと…待ってた…」

 泣きながら、克哉は…ただ、真っ直ぐにもう一人の自分の姿を
見つめていった。
 間違いなかった。自分と寸分変わらぬ容貌に、体格。
 紛れもなく…もう一人の自分だった。

「…嗚呼、知っている。お前がずっと…俺に操を立ててくれていた
事もな…。ま、お前の中に眠っていたんだから…その辺に関しては
すぐに判ってしまう事だがな…」

「そうだね…だから、浮気なんて…考えなかった。お前が約束を
果たしに…オレの元に出て来てくれる日を、ただ待ち続けていたよ…」

 泣き笑いの表情を浮かべながら、ギュウっと強く克哉は抱きついていく。
 たったそれだけでも、幸せだった。
 こんなに、自分はこいつの事が好きであったことを思い知る。
 そんな眼鏡もまた…克哉を強く、強く抱き締めていった。

「…本当に、お前は馬鹿だな。俺を待ち続けるなんてな…」

「…しょうがないだろ。本気で…お前の事、好きなんだから…」

 拗ねたように呟いて、相手の胸に顔を埋めていくと…もう一人の自分が
喉の奥で笑いを噛み殺しているのがすぐに判った。
 その事実に不貞腐れたが、そっと眼鏡に…人差し指で顎を掬われて、
顔を上に向かされていくと…少しだけ機嫌が直っていった。

「…嗚呼。誰よりも知っている。そして…俺も、同じ気持ちだ…」

 声の振動が、唇に伝わるぐらいの距離で…そんな事を、大好きな
人間に囁かれたら、克哉とてもう抗えない。
 そのまま…静かに、目を伏せて…二人は再会の喜びを噛み締めながら
そっと唇を重ねていった。

―本当に、生きてて良かった

 愛する人間の腕の中に包まれて、口付けを交わした瞬間に…
克哉は心からそう思った。

 生きている事は、綺麗ごとでは済まされない。
 時に辛い事も、汚泥を飲んで生きるような想いをさせられる事もある
 だが、生きているからこそ…人は、時に大きな喜びを享受出来るのだ。
 死ねば其処で全てが終わる。
 生きているからこそやり直せるし、道を正して…過去の過ちを生かして
前に進むことも可能になるのだから

 彼がいなくて、辛かったし寂しかった。
 どれ程強く再会を願ったか、会えない夜を苦しく思ったか
数え切れないくらいだった。
 だが、この瞬間に…全てが報われた。

 つかの間でも良い。
 心からの喜びを覚えることが出来たのなら。
 全力で生きて、誰かを愛すことが出来たのならば…
人は真の幸福を得ているのだ。
 かつて克哉の中に巣食っていた死への渇望が…その
歓喜によって照らされて消えていく。
 生への喜び。本当に心から想う人間と再び、こうして抱き合うことが
叶って克哉は本当に…生きていて良かったと思った。
 それは鮮烈なまでの光となって、彼の中で輝いていく。

 沢山の涙が、零れていく。
 そんな克哉の滴を、そっと眼鏡が優しく拭っていった。

「…お前、本当に泣き虫な所は変わっていないな…」

 心からの愛しさを込めて、眼鏡が呟いていく。

「…うるさい。誰のせいだと…思っている、んだよ…」

 そう言いながら、目を細めて…その優しい指先にそっと
身を委ねていく。
 3年前、彼の傍に在った時も確かに自分は沢山の涙を
零していった。
 けれど、今は違う。あの時は葛藤したり悲しみや苦しみの
発露の為だったけれど…これはあまりに強い歓喜を覚えているから
こそ、零れているものなのだ。

「お前に会えて、ムチャクチャ嬉しいから…勝手に流れてくるんだよ…。
文句言われても、止められないよ…」

「文句言う訳ないだろ…? それが、俺との再会を喜ぶ涙…ならな?」

 そう、悪戯っぽく笑いながら啄ばむような口付けを額や頬に、静かに
落とされていく。
 くすぐったくて、甘ったるい感覚が全身を走り抜けていった。
 目を閉じて、享受していくと…背中全体を優しく優しく、撫ぜ擦られた。
 会いたくて堪らない人間の腕の中にいて、こうして触れられている事は
どれだけ幸せな事だったのだろう。
 一度は失ったからこそ…その幸福を、克哉は改めて噛み締めていく。
 そう、人は…傍にある時はなかなか気づけない。

 周囲にいた人間も、眼鏡も…克哉は一度は失った。
 だからこそ…それが掛け替えのないものであった事を今は噛み締めている。
 空気のように当たり前になって、自分を包んでくれている時は…人は
大切なものの有り難味を忘れがちになる。
 けれど、失くすことによって…やっと判るのだ。
 自分の傍に当然のようにある幸せが、どれだけ貴重なものなのか。
 それによって、自分の基盤や在り方が大きく左右されている事に…
なかなか、人は気づけないものなのだ。

 こんなに、この温もりが愛しいものだと…三年前の自分は、そこまで
気づけていなかった。
 だから強く抱きつきながら、胸いっぱいに息を吸い込んでいく。
 それからそっと顔を上げていくと…優しくこちらを見つめてくる、眼鏡の
視線とそっとぶつかっていった。

 訪れる心地良い緊張感。
 それがくすぐったくて、嬉しくて…静かに目を伏せた状態で互いに
顔を寄せていく。
 
―愛している

 お互いの唇から、同じタイミングで紡がれていく。
 最初、それを聴いた時にお互いにびっくりして目を見開いた。
 それがおかしくてクスクスと克哉が笑っていくと…もう一人の自分が
少しだけムっとした顔を浮かべていった。
 それが余計に、微笑ましくて…とびっきりの笑顔を浮かべながら
そっと克哉は囁いていった。

―お帰り、『俺』…

 と、本当に心から嬉しそうな笑みを浮かべて…克哉はぎゅうっと
もう一人の自分の身体を抱き締めていく。
 そんな彼を、眼鏡は…しょうがないな…と小さく呟きながら、とても
優しい顔をして…そっと克哉を抱き寄せていったのだった―


 
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 ―音楽には作り手の魂や想いが込められている
 長く長く語り継がれて、人の心に残る歌は
 紡ぎ手が多くの感情を其処に織り込んでいるから
 だから聴く者の心を震わせて揺さぶる
 作り手にとって、それは自分の日記帳にも等しい
 その時の喜びも興奮も、その中にぎっしりと詰まっているのだから―
  
 克哉と決別した日から、三ヶ月が経過していた。
 その間の太一は、五十嵐の本家で半ば抜け殻のようになっていた。
 最初は克哉を諦めて、部下達の言葉に従って戻ってくれたことに
喜んだ者達も…それ以後の太一の覇気の無さぶりを見れば、
あれだけ疎ましく思っていた克哉の存在すら懐かしくなる程だった

 日長一日、魂が抜けたようにボーとしている事が多くなり。
 感情的に不安定になって、部屋に閉じこもりがちになった。
 その状態が一週間続いた時には、周りの人間は心配したが…
どれだけ浮かない顔をしていても、声を掛けてもイマイチ反応がない
状態でも…部屋の中から昔のようにギター音が聞こえるように
なってからは、ほんの少しだけ安心し始めていた。

 愛する人間との決別。
 発信機をつけていると言っても、ヤクザと深いつながりがあると
言っても太一が持っていたタイプのでは有効範囲は直径1キロ前後までしか
なかった。
 海に落ちた克哉は、どれだけ捜索を繰り返しても見つからず
 結局、生死すら判らないままでいた事が、太一には辛かった。

 ギターピックで何度も何度も、愛用のギターの弦を弾いていく。
 指を動かす度に、感情が音という形になって溢れ出しているかのようだ。
 最近になって、ようやく…自らの内側にある音楽を紡げるぐらいまでに
回復していた。

 高音域で紡がれるメロディは、とても澄んでいた。
 この音を出せるぐらいに戻るまで、どれくらい苦しんだか…それを
思い出すとつい自嘲的な笑みが浮かんでいった。
 
「…やっと、ここまで手も、心も回復したか…」

 一通り調弦を済ませて、最近作った新曲を練習し終えた後…
うっすらと汗を滲ませながらしみじみと呟いていった。
 季節はすでに初秋を迎えようとしていた。
 手元に引いたコード表に目を落としていきながら…ようやく彼は
満足げな笑みを刻んでいく。

(絶頂期に比べれば全然劣っているけど…最近になってようやく、
少し音楽やっていた頃の楽しさを思い出せて来たかもな…)

 克哉にもう一度、音楽をやって欲しいと。
 そう最後に言われた事を機に…太一は再び、ギターを握る
ようになった。
 だが…最初の頃は本当に少し触るだけで、指が鈍ってしまった事や
ムカムカと湧き上がる不快感に耐えられず何度も中断した。
 だが、それを繰り返している内に…自らの心に沈んでいた澱が
ゆっくりと浮かび上がり、浄化されていくような想いがした。
 そして、楽しさを思い出した今だからこそ…思い知る。
 何故、自分が克哉を監禁していた時に…こうやって音楽を
楽しむ事が出来なくなったかを…。

―俺、本心に気づきたくなかったんだな。音楽をやっていると
嫌でも…自分の心に向き合わないといけなくなるから。
 克哉さんを失うのが怖くて、いつも不安で…そんな心を直視
したくなかったから…俺は、音楽が出来なくなったんだな…

 やっと、その事実を認められた。
 あの日、眼鏡に指摘された時には激昂した。
 馬鹿にするな、と思っていた事が事実であった事に気づいて…
太一は苦笑していく。

 今の自分は、憑き物が落ちたかのような気分がした。
 克哉の全てが欲しくて、支配できていなかった頃は…ただ、不安や
焦燥ばかりを感じていた。
 心の中にぽっかりと大きな空洞が出来てしまったいたけれど…
同時に、どこかで平穏を取り戻せたのも本当だった。
 克哉はもしかしたら、死んでしまったのかも知れない。
 その事実が胸を鋭く刺すのと同時に、どこかで楽なったと
安堵している部分があるのは否めなかった。
 愛する人が死んでしまうのは辛い。身が切られる程に…。

―だが、永遠にいっそ手が届かないと思えば諦めがつくのも事実だった。

 太一の手元から、奏でられるのは鎮魂歌(レクイエム)
 まず、最初に彼が着手したのは…それだった。
 実際の処、克哉の生死は未だに判らない。
 敢えて、あの周辺以外を部下達に探らせなかったというのもあるが…
あの日、克哉は飛び降りる寸前…「自分の事は死んだと思って欲しい」
みたいな事を言っていた。
 だから彼は…まず、この曲を作ったのだ。
 自分の中で克哉を死んだと納得させる為に。
 …あの人への強い執着を、自らの手で断ち切る為に…。

(ある意味、これ以上ない形で振られたからな…二度と俺の元に
戻るつもりがない、と言われて目の前で…飛び降りる真似なんて
されたら、もう…追いかけられる訳ない、じゃん…)

 自分が追いかけて、追いかけて求め続けた結果…克哉が出した
結論がそれならば、もう太一は求められなかった。
 今でも自分の中で、狂おしいまでに克哉を求めている部分が
存在している。
 だが、それを断ち切る為の鎮魂歌だ。
 そう、これは…克哉に捧げるのではない。
 自分の荒ぶる魂を宥める為の歌だ。
 あの人が言った、「自分は死んだものにしろ」と訴えた言葉を
己の中に染み込ませる為に作った一曲。

 切ないメロディが…太一の内側から溢れてくる。
 苦しみも切なさも、あの人への強い想いも…全てを昇華する為に
紡ぎだす旋律。
 それを弾いている内に、次第に夢中になっていった。
 全て…自分の中から吐き出すつもりで、全力を込めて奏でていると…!

「何だこの辛気臭い曲は! 俺の気持ちを落ち込ませるつもりかっ!?」

 いきなり部屋の扉が盛大に開け放たれて、バァンと音を立てながら
自分の実父が中に入って来た。

「げえぇ! 親父…! 人がノッて曲弾いている最中に…いきなり乱入
してくるような無神経な真似すんなよ! せっかくの俺の力作だったのに…!」

「うるさい。あんなに聴いていてこっちがヘコむような悲しい曲を延々と聴かされ
続けて堪るか! どうせなら聴いていて楽しくなるようなの作れ!」

「うっさいなっ! 俺がどんな曲作ろうと親父の知ったこっちゃないだろ!
で…どうしたんだよ! 親父が五十嵐の実家に顔出すなんて…。
裏家業から足を洗って以来、じいさんに顔合わせ辛い立場なんじゃ…
なかったの」

「ったく…久しぶりに顔合わせれば、相変わらず減らず口ばかり叩き
おってからに…だからお前は可愛くないんだ…」

 憎々しげにそう呟く壮年の男は、太一の実父で…都内で喫茶店ロイドの
店長をやっていた。
 娘婿らしく、五十嵐家の中では発言権も立場も弱いのだが…太一と
この父親との関係は比較的良好であった。
 太一が五十嵐家の跡継ぎではなく、ミージュシャンになりたいと熱く
胸を燃やしていた時に…都内での職と寝起きする場所を手配して与えて
くれたのは他ならぬこの父親だったのだ。
 だが、真剣に太一を憂いて克哉を暗殺しようと企てた一件後は…
かなり疎遠になっていたのも事実だった。
 実際に顔を見るのは四ヶ月ぶりくらいだろうか。
 元々苦みばしっていた顔が、更に苦悩や苦労によって渋くなって
いるように思えた。

「用がなければ、わざわざ高知の奥深くにあるこの家まで足を向けたりは
せんよ…。お前に届け物があるから、来てやったんだろうが…」

「俺に届け物…? 嗚呼、もしかして…親父の処にまた、この家の
住所とか知らない大学時代のダチとか、バンド仲間からの手紙でも
届いたの…?」

「そんな物だったら、素直にここにこっちから送り返してそれで
終わらせるわ」

「だよな…じゃあ、俺に珍しく誕生日プレゼントでもくれるつもり?
嗚呼、でも二ヶ月はあるか…」

「減らず口を叩くのもいい加減にしておけ。これを渡しに来た…」

 そうして、ズイっと思いっきり太一に向かって一通の手紙を突きつけた。
 表の面には丁寧な字で「五十嵐太一様へ」 と記されている。
 見覚えがある字だと思って良く目を凝らし…そして次の瞬間、あっと
声を漏らす羽目になった。

「この字…もしかして…!」

「そうだ。裏の宛名には『佐伯克哉より』と書かれておる。ついでに…
リターンアドレスも無ければ、投函した形跡もない。直接…うちの喫茶店の
ポストに放り込まれたらしい手紙だ。これを…お前の元に届けに来た」

 それを聞いて、太一はいてもたってもいられなくなった。
 だが、次の瞬間…一つの事実に気づいていく。

「って…何でこれ、すでに開封済みなんだよ! 人の手紙を勝手に
先に読んでいるってどういう事だよ…!」

「…それを真っ直ぐ、お前の元に届けてやっただけでも感謝して
貰おうか…。克哉さんとお前との間に、何があったか覚えていないのか?
俺がそれで警戒したとしても…そんな責められる事じゃあないだろうが」

 それを言われるとグっと…言葉に詰まるしかなかった。

「…とりあえず読んでみろ。…それは正直、宛名を見た時は…俺は
黙って握りつぶそうかと考えた。だが…中身を読んで、これはちゃんと
お前が読まなければならない物だと…そう判断したから、こうして
ちゃんと届けに来たんだ。とりあえずそれから文句は幾らでも聞いてやる…」

「…判った。確かに、親父に文句ばっか言ってもしょうがないからな…」

 急に父親の態度が神妙なものになったので怪訝に思いながらも…太一は
そっと封筒から中身の便箋を取り出していく。
 5~6枚の便箋が其処に収まっていた。それを丁寧に手に取りながら…
畳の上に腰を下ろして太一はその手紙を読み始めていった。

『―太一へ

 この手紙は、無事に届くかどうか判らない。
 けれど高知のお前の実家の正式な住所が判らないので…ロイドの
ポストに投函させて貰うことにした。
 あのマスターが太一の父親である事は、太一の配下の人間の噂話で
知っていたから…可能性は高いと思ったから。
 オレは、元気にやっているよ。
 その事だけでも伝えたくて…こうして筆を取らせて貰った。

 恐らく、オレは太一にとって残酷なことをし通しだったと思う。
 酷い奴だと罵られても仕方ない選択をしてしまった。
 けれど…こうして一ヶ月以上時間が過ぎて冷静になった時に…
ある程度、考えも纏まった。
 それをここに記させて貰う。

 一つ誤解しないで欲しいのは…オレが太一の元に二度と戻らないと
決断したのは、太一が嫌いだからじゃない。
 むしろ…その逆で、今でも…幸せになって欲しいという思いはある。
 けれどね、太一…オレ達は間違えすぎてしまったんだ。

 太一は不安で仕方なくて、オレを監禁して従えたりしたんだろうけど…
それをする事で、五十嵐組の配下たちの太一の評判は地に落ちてしまって
いた事は…オレはとっくに気づいていたし、心を痛めていた。
 オレが…太一の元にこれ以上いられない、と思った最大の理由はそれだよ。
 お前がいない時、他の人間がこれ見よがしに…その話を聞かせてきたり、
オレに冷たい視線を浴びせて来た。
 それは、当然の事だと思う。だって…五十嵐組の人間は皆、太一を愛しているから
そんな風にお前を歪めてしまったオレを認める訳にいかなかったんだと思う。
 太一のお父さんがオレを暗殺しようとしたのも、それが原因だ。
 …その事実一つ、考えても…オレは太一の傍にいちゃいけないと思ったんだ。

 一緒にいて、お前の為になっているのなら…オレは何をしても
離れたくなんてなかった。
 記憶を失う前のオレはずっと…そう思っていた。
 だから…耐えられなくなって食を断つまでオレは…太一の傍から
逃げ出そうとは考えなかった。
 傍にいたい、近くにいたいと願っていたのは…オレも一緒だったから。

 オレはずっと、太一が以前のように…音楽を愛して、無邪気なまでに
それを追い続けている姿に戻ってくれるように祈っていた。
 オレが太一の在り方を大きく歪めてしまったのなら…太一が気が済むまで
この身体を好きにすれば良いと思っていた。
 それで…お前が戻ってくれるなら、そういう気持ちで…無茶な要求にも
従ったし、オレは持っていた全てを一旦…捨て去った。
 けれどそれは間違いであった事を…離れた今になって思い知ったよ。

 …償いとか、罪悪感に縛られてとかそういうのじゃなくて…オレ達は、
ただ好きだからって理由で寄り添えば良かったんだ…。
 そんな単純な事を、記憶を失くして…あいつと、過ごしている内に
ようやく気づいたんだ…。
 ねえ、太一。オレは…ひたむきに音楽を追いかけているお前が好きだった。
 何も本気で熱中した事がないオレにとっては…その姿は眩しすぎて、
まるで太陽みたいだった。
 
 覚えているかな? たまたま仕事帰りに喫茶店に立ち寄った日に…
お前の原点となった一曲を聴かせてもらった時の事。
 あの日にね、照れ臭そうに音楽の事を語る太一の姿が羨ましかった。
 同時に深く尊敬したんだよ。
 あんな風に楽しそうに音楽を語っている太一を見るのが好きで…
もしかしたら、その想いは今思えばすでに恋だったのかも知れない。
 あの一曲は、今でもオレの携帯の中で大切に取ってあります。

 …だから、あの日語ってくれたような熱い想いを思い出して欲しくて
この手紙と一緒にオルゴールを同封します。
 …もっと早くに送りたかったけれど、俺の方も最初の一ヶ月は…収入の
確保とかするのに精一杯で遅れてしまった。
 少しでも…あの日語ってくれた、音楽に対しての熱い想いを…どうか
思い出して下さい。
 
 すでに恋人ではないけれど…太一の音楽を好きな、一人のファンとして…
願いを込めてこれを贈ります。
 オレも…精一杯生きていきます。どうか元気で。

                                  佐伯 克哉拝  』

 
 一文字、一文字…しっかりと肉筆に書かれた克哉の想いを捉えていくと
同時に…一枚、便箋を捲るごとに…太一の指の動きは鈍いものに
なっていった。
 最後の一枚を読み終えたその時、涙が出た。
 何て…この人は、残酷な人なんだろうと心の中で責めたその時…。

 ―部屋の中に澄んだミリオンレイのメロディが響き渡った

「これは…!」

「その手紙に同封されていたオルゴールだ。…この曲は、俺も良く覚えている。
確か…お前が拙いながらに、耳コピして最初に作った曲だろ…?
微妙に音がズレている処まで、忠実に再現してあるからすぐに判った…」

 そう苦笑しながら父親が太一の方に振り向くと、その手には…掌にすっぽりと
収まるぐらいの大きさのオルゴールが乗せられていた。
  30秒ぐらいの長さのその曲を聴いていると…涙が、出た。
  携帯などのデーターに比べると、オルゴールは古典的な手段での音楽再生
装置な為に…サビの部分だけが奏でられていた。
 だが、機械媒体で保存していた頃に比べて…オルゴールという形になった事で
メロディに透明感が遥かに増し…とても、綺麗に聞こえた。
 それはまるで、魔法のようだった。
 自分が紛れもなく作った出来損ないの耳コピ曲が…とても素敵なものに
聞こえたからだ。

 ―それを聴いた途端、また…溢れんばかりに涙が目元から溢れていった。

(こんなの…本気で、俺を思ってくれていなかったら…贈ってくれる訳が、ない…)

 そのオルゴールこそ…克哉が言っていた「嫌いで離れる訳じゃない」という…
言葉を何よりも裏付けることだった。
 あの時、例えもう一人の克哉自身であったとはいえ…他の男と楽しそうに
している姿を見ただけで許しがたかった。
 けれど…克哉が自分を選ばなかったその原因を作ったのは、
太一自身だったのだ。
 監禁という手段で無理矢理、全てを奪おうとしてから歪が出た。
 自分でも知らない間に周囲の人間の反感を買って、克哉を追い詰めて
しまっていたのだ。
 今なら…それが判る。判るからこそ、自分の不甲斐なさが情けなかった。

 辛かった。苦しかった。
 本気で死にたくなるくらいに…自分の弱さに悔しくなった。
 けれど、澄んだそのメロディが…そんな心の淀みを洗い流してくれる。
 それで思い出す。…かつての自分達の姿を…。

「あっ…」

 短く呻きながら、脳裏に…鮮明な一つの映像が浮かび上がる。
 あの日の、このメロディの事で熱く克哉に語っている自分。
 そして…それをとても優しい瞳で見つめている克哉の姿を。

『其れは自分達の在るべき姿だったもの。永遠に失われてしまった残像』

 ―全ては、其処にあったんだ。
  俺の想いも、克哉さんの想いも全て。
  恋は終わってしまっても…その一瞬が無くなってしまった訳じゃない。
  振り返れば其処に…幸せはあった。
  確かなものは存在していたのだ。
  それを忘れて、疑心暗鬼に陥って…あの人を縛り付けてその全てを
  奪うという間違った方向に進んだのは…自分の責任だったのだから…。

「克哉、さん…!」
 
 奪うのではなく、あの日のように柔らかい気持ちを思い出して。
 罪悪感で縛り付けるのではなく…ただ好きという想いを抱いて共にいる
時間を積み重ねていたのならば…。
 もしかしたら、別離ではなく…お互いの間に『絆』と呼ばれるものが
生まれていたのかも知れなかった。
 ただ…太一は、透明な涙を零してその手紙を…握り締めていく。

「克哉さん、御免…」

 何度も、届かぬ人に向かって…謝り続ける。
 そんな息子を、父親はクシャリ…と髪を撫ぜていってやった。

「…お前は、本当に…あの人の事が、好きだったんだな…」

 コクリ、と迷いなく太一が頷いていく。
 そんな息子を…父はただ、頭を撫ぜて傍にいてやった。
 
 とめどなく、彼は後悔の涙を流していく。
 けれど涙は…心を洗い流す為に欠かせないものだ。
 長年、凍り付いていた心が…克哉からの想いによってゆっくりと
溶かされていく。
 暖かい気持ちを、取り戻していく。
 音楽を愛して、ただがむしゃらに追いかけていたあの頃の情熱が
ゆっくりと蘇っていった。

―だから克哉は、離れる事を選んだのだ

 傍にいる限り傷つけあって…相手の夢を奪い続けるよりも
離れる事で、言葉を伝えて…太一に夢を思い出してくれる事を
願った。
 それがようやく判ったからこそ…太一は、ただ泣くしかなかった。

 手に入れて支配することだけが愛じゃない
 相手の為に断腸の想いで決断し、離れる事も愛なのだ。
 太一が犯した罪をも許し、こんな手紙を送ってくる克哉は…
お人好しの極みだ。

 だが、そんな彼だったこそ…本気で愛したし、欲しかったのもまた事実。
 けれど太一はようやく…受け入れた。
 自分の接し方では、克哉の心は手に入れられなかった事を。
 
―俺も、貴方を愛していたよ…

 泣きながら、心の中に…克哉の顔を思い浮かべていく。
 すでに手の中に握りこんだ手紙は、力の込めすぎと涙の痕で
クシャクシャのグチャグチャになっていた。
 けれど…便箋も顔も酷い有様になっても、その瞳の奥に…
かつてのように、熱く優しい光が戻って来ている事に…父親は
確かに気づいていた。
 
―けど、これ以上…困らせたくないから、さようなら…克哉さん。
 俺は…もし、次に会えたなら…貴方に顔向け出来るような俺になりたい…

 克哉への妄執を捨てて…かつての情熱や希望を思い出して、そう誓った時…
そっと思い浮かべた克哉の面影が、優しく笑ってくれたような気がした―


 

 
 ―どれだけ苦しくても、辛くても。
 死にたいほどの胸の痛みを伴っても。
 その生の先にほんの僅かで希望があるのなら…
 力の限り、人は生きるべきだ

 人には誰しも役割がある
 慈愛で持って道を正したり
 叱る事で新たな視点に気づかせたり
 罪を知る事で、似た者に対して寛容な心を持ったり
 痛みを知る事で他者の心を打つ『何か』を生み出したりする

 一人の人間が血を残す
 それは長い目で見れば何百何千人もの命の系譜を生み出すことであり
 類稀な才能が力の限りを持って偉大な作品を残せば
 確実に多くの後世の人間は影響を受けるだろう

 どれだけ愚かしい罪を犯したものでも
 そのみじめさや、苦しみを他の者に晒す事で罪を犯すことの抑制になるし
 力のない、他人に依存して生きるしかない弱者でも…
 祈ることによって、人の為になる事もまた往々にしてある

 どのような立場でも、境遇でも…視点を張り巡らされれば、誰しもが
教師となりうるし…反面教師にもなる。
 この世界には、嬉しいことや苦しいことが表裏一体で常に存在している。
 その中に、意味を見出すのは…生きる者の心構え次第だ。
 なら、全てを失った青年は…その悲しみの果てに何を見出すのだろうか―

 海に落下してから、激しい海流に飲み込まれながらも…佐伯克哉は必死に
なって泳ぎ続けて、そして砂浜に辿り着いた。
 その頃には全身は鉛のように重く、もう指一本も満足に動かすことが出来ない
状態に陥っていた。
 それでも、溺れずに…命を失わずに、安全な場所までようやく辿り着いた事に
よる安堵で、克哉は波打ち際の砂の中に崩れ落ちていった。

「助、かった…ん、だ…オレ…は…」

 ここまで来るまで無我夢中だった。
 途中の記憶はあやふやで、ぼんやりして…殆どまともに思い出せない。
 それでも自分がこうして、生きてここにいる事が…彼には、嬉しかった。
 あんな馬鹿げたパフォーマンスをした事で、命を失いかけたが…こうして、大きな
傷を負うことなくここに存在している事で、全てがチャラになる気がした。

「生きてる…」

 紡ぐ言葉は、掠れて力がなかった。
 けれど…彼は、泣きたい気持ちと…嬉しい気持ちがグチャグチャになって、
心の中でせめぎあっていた。
 さっき、目の前でもう一人の自分を失った。
 光となって消えていく様を見送った。
 けれど…同時に、この胸の中に一層強く…彼が存在している事を克哉は
感じ取っていった。

―良くやった

 短いけれど、幻聴かも知れないけれど…眼鏡がそう、労いの言葉を掛けて
くれたように感じられた。
 静寂に包まれた海岸には、ただ…波が緩やかに押し寄せては静かに戻って
いく水音だけが響き渡っている。
 以前に、夜の波の音には…精神をリラックスさせる効果があるという文章を
どこかで読んだことがあるような気がした。
 波に身を委ねながら…悲しいような、切ないような…満足しているような、ぽっかりと
何かが空いてしまっているような複雑な想いに、克哉は身を浸していった。

(これからは、太一にも…あいつにも、頼れないんだ…)

 愛している人間二人と、克哉は結果的に決別することとなった。
 眼鏡は、半ば暴力的に強引に奪われ。
 太一とは…自らの意思で、けじめをつけた。
 これからは…自分の足で立って、生きていかなければならない。
 そう考えると…怖いと思う反面、自分の中で確かなものが湧き上がっていく奇妙な
感じがしていった。

 太一の事は、愛していた。
 すでに過去形になっているのに自分でも気づいた。
 けれど、眼鏡の事は「愛している」だ。
 失ったばかりだというのに…現在進行形の想い。
 それが…克哉を掻き立てる何よりの力になった。

 重い身体をどうにか起こして、克哉は真っ直ぐに…前を見据えていった。
 どれだけボロボロでも、みっともなくても…彼の心の中には、希望があった。
 後もう少しで感情のままに拳銃の引き金を引いて、太一に向かって発砲してしまう
寸前に、もう一人の自分が言った言葉を鮮明に思い出していった。

 ―必ずだ。だから…お前は、信じて…待っていろ…!

 短い一言。けれどあの瞬間、はっきりと聞こえた言葉。
 それを頭から信じるのは、もしかしたら愚かと他の人間には言われて
しまうかも知れない。
 けれど…克哉は、信じて待つことに決めた…のだ。

(あいつは…オレの中にいる。それが…はっきりと、判るから…。
なら、オレに出来る事は…あいつが目覚めるその日まで、しっかりと
生きていく事だけだ…)

 自分の身体そのものが、彼が眠る揺り篭のようなものならば…以前の
ように食を断って死を望むような真似は絶対にしないだろう。
 どんなにみっともなくても、何でも…今の克哉は生きる事を模索
し始めていた。
 
―…お前が、いる限りは…俺は、本当の…意味で、死なない。
だから、お前は、生きろ…克哉…

 眼鏡のもう一つの言葉を思い出していく。
 自分が生きている限り、あいつが本当の意味で死に絶えることがないのなら
克哉には生き延びる義務があった。
 この身体はあいつのものでもあり、この命は結果的に彼に救われた。
 最初はどんな動機でも、緩慢な自殺を選んだ自分をこうやって回復する
手助けをしてくれたのは紛れもなく『俺』で…。
 そのおかげで、克哉は生きる気力を取り戻せたのだから…。

「はっ…ぁ…」

 克哉は、少しでも進もうと四肢を這いずりながらでも進ませていく。
 誰かのおかげで、この命が助かったのならば、もう二度と無駄にするような
真似はしてはいけないと…使命にも似た気持ちが胸の奥から湧き上がっていく。
 それで思い知る。
 自分が最後の最後で、太一ではなく…あいつの手を取った理由を。
 克哉は、もう一人の自分と接している内に…生きたい! と願う気持ちを
思い出したからなのだ。

 自分の願いは、生きたかったのだ。
 帰りたかったのだ…。
 家族が、八課の仲間達と一緒にいられる場所に。
 自分が自分でいられる場所に、戻りたいと願い続けていた…そんな欲求を
あいつと過ごしていたからこそ、思い出せたのだ。

 知らぬ間に、克哉の目元からは…大量の涙が伝い始めていた。
 少し身体を動かす度に、辛かった。苦しかった。
 けれど…それでも、彼は進むことを止めなかった。
 この命は…すでに自分一人のものではない。
 自分は、眼鏡の分の生もすでに背負っているのだから…安易に死にたい
などとは、二度と口に出すことも行動に移すことも許されないのだから…。

「会いたい…」

 喉はすでにカラカラで、掠れた声しか漏れなかった。
 けれど、それでも…想いは口を突いていく。

「お前に、もう一度…会いたいっ…!」

 それは、同時に彼が生を願う最大の理由になった。
 生きている限り、会える可能性が残されているのなら…自分は
全力で生きてやる!
 泥水を啜ることになっても、何を口にしてでも…。
 そうやって時を過ごす事で、もう一度…あいつに再会出来る
可能性があるのなら、どんな事でも生き延びてやると誓っていった。

 あいつが、全力で自分を止めてくれた意味を。
 庇ってくれた意味を。
 その重みを理解しているからこそ…克哉は、狂おしいまでの
想いに身を焦がしていく。
 ボロボロの身体で、肌に張り付いているYシャツもズボンもビショビショの
グチョグチョで…泥だの、血だのがこびり付いている。
 けれどその蒼い双眸には…強い生への渇望が確かに宿っていた。

 それでも、何十分も激しい水流の中で翻弄されて、その流れに
抗うために全力で泳ぎ続けたことで克哉の肉体は限界寸前まで
疲弊していた。
 背面から、水流がぶつかりあっているような場所に自ら落ちていく。
 そんな真似をして、どうにか命があったのは…一重に、強い生への執着心が
成した奇跡以外の何物でもない。
 もし、太一が…克哉を追って飛び降りたりなんかしたら、決して助かることは
なかっただろう。それくらいに…激しい海流であったのだ。
 
 本来なら、水や食料が確保出来るところまで進まなければならない。
 それが叶わないならせめて、日陰があって…日が出ても体力の消耗の
少ない場所まで辿り着かなければならなかったが、どちらも成せぬまま…
克哉は再び波打ち際で、力尽きていく。
 肩で忙しい、苦しげな呼吸を繰り返していると…ふいに、一つの人影が
彼の影に重なっていった。

―お疲れ様でした

 顔を上げることは叶わなかったけれど、その歌うような口調で
どれが誰であるか一発で克哉は理解していく。
 少なくとも、太一本人や…五十嵐組の配下の人間でなかっただけでも
克哉は安堵していった。

「…ぁ、っ…」

 言葉を発そうと試みたが、すでに疲れ切っていて…満足に単語すら
紡げない状態に陥っていた。
 月がとても、綺麗な夜だった。
 澄み切った藍色の帳の中心には、煌々と輝く銀月がぽっかりと浮かんでいた。
 その闇の中、黒衣の男の鮮やかな金の髪は…はっきりとした存在感を
放って、静かに輝いていた。

―嗚呼、無理して答える必要はないですよ。私は…貴方を迎えに
来ただけですから。…この浜辺から出て少しした処に、貴方を望む処に
搬送する車はすでに用意してあります。
 そうそう、貴方達の荷物も…拳銃以外の物は、すでに私の配下に
依頼して積んでありますから心配要りません。
 …貴方はただ、今は身体も心も休まれた方が宜しいですからね…

 男がそう言ったのに気づいて、克哉は顔を上げようとした。
 どうにかその試みは成功し、目だけでも…Mr.Rの方に向けていく。
 その顔は酷く満足そうで、楽しげだった。
 それが克哉には不快だったが…今の自分にはこの男の手を借りる以外に
この場から離れられないような気がした。
 だから…キュっと口をつぐんで、コクンと頷いていく。

 ―結構です。では…お運び致しましょう

 そうして、黒衣の男は…自分がビショビショになるのも構わずに、克哉の
身体をそっと抱き上げていった。
 克哉自身、かなり体格が恵まれている方なのに…易々と抱えられていく様を
見て…少し驚いたが、この奇妙な男性ならそれぐらいの事は出来るだろう…と
自分を納得させることにした。
 そして、そのまま…彼は静かに、身体が要求するままに眠りに落ちていく。
 その瞬間…もう一人の自分が呆れたように溜息をつく様子が、少しだけ
感じられていった。

 波の音だけが周囲に、繰り返し響き渡っていた静かな夜。
 克哉はそうして…この地を後にした。
 もう一人の自分と、二ヶ月余りを共にしたその地へは…
佐伯克哉は、二度と足を向けなかった。

 そしてMr.Rは誘っていく。
 克哉が帰って来ることを心から望んでいた人達の一人の下へ…
 意識を失った克哉を、確かに送り届けたのだった―
 
 
 ―忘れないで下さい。貴方の命は仮初のものであることを…。
 ですから、本体である克哉さんが死なない限りは…貴方の御心が
 強く在る限りは、真の意味で…貴方が死なれることはないでしょう

 本日の午前中、あの男はそんな事を確かに言った。
 だから…覚悟の上で、あいつを庇って…銃弾を受けたつもりだった。
 あの瞬間、もう一人の自分を突き飛ばしたその時点で…自分は太一に
対して出遅れるのは覚悟の上だった。
 だが、その銃弾が…克哉に命中し、彼の方が致命傷を負ったら…共倒れに
なるのは判りきっていった。
 けれど…焼けるような痛みを胸に感じて、彼は少しだけ後悔していた。

(本当に…これで、俺は…助かる、のか…?)
 
 銃弾は真っ直ぐ、彼の胸に命中した。
 動脈を傷つけたらしく…其処に弾がめり込んだ瞬間…血飛沫が大量に
舞い散っていった。
 其れはまるで、あの日の太一のようであった。
 彼もまた、こんな痛みを…体験をして、生還したというのなら…自分も
きっと助かる筈だ、と強く信じ込んでいく。
 忙しく胸を上下させていきながら、霞む目を必死に凝らして…もう一人の
自分の姿を探していった。

「目を、覚ませよ…! こんなの、嘘だぁぁぁ…!」

 いつの間にか、もう一人の自分が駆けつけて…倒れこんでいる自分の
傍らに座り込んで、必死に顔を覗き込んでいた。
 もうすでに顔はクシャクシャで…克哉は泣きじゃくっている。
 これも妙なデ・ジャウを感じた。

「し、んぱい…する、な…。これ、くらい…じゃ、俺は…簡単に、は
くたば、らない…から…」


「…ほ、んとうに…そう、だと…思っている、のかよ…!」

 客観的に見ても、其れは致命傷にしか見えなかった。
 彼が当たった場所とほぼ同じ場所に、数ヶ月前…太一も弾が当たっている。
 だが…太一の場合は骨に当たって途中で…弾が止まっていたが、眼鏡の
場合は…それが貫通してしまっていた。
 その分だけ出血は深く、瞬く間に彼の背中は血に濡れていく。
 唐突に満ちていく死の匂い…克哉は、それが怖くて仕方なかった。

「…お前が、いる限りは…俺は、本当の…意味で、死なない。
だから…お前は、生きろ…克哉…」

 息も絶え絶えに、必死の様子で…それだけ、言葉を紡いでいく。
 その内容に、克哉は…目を見開いていく。
 そんな彼の頬を眼鏡はどうにか…指先を伸ばして、涙を拭っていった。

「…そんな、の…残酷だよっ! お前が…いない、のに…どうして…!」

 克哉は、滂沱の涙を零していく。
 恥も外聞も何もない。ただ…自分の半身が、目の前で息絶えようと
する光景が悲しくて、辛くて仕方なかった。
 だが…眼鏡はそんな彼を宥めようと、どうにか…少しでも笑みを作って
行こうとして…。

―信じろ。何年掛かっても、必ず…俺はお前の元に帰って来るから…

 それは、言葉じゃなかった。
 はっきりと頭の中に響き渡っていくような、不思議なメッセージだった。
 同時に…眼鏡は、もう自分が限界である事を自覚していく。
 どこまでも透明な笑顔を浮かべていき…そして。

―彼の身体はあっという間に、光り輝きながら消えていった。

 初めから、其処に存在しなかったかのように。
 たった今まで、そこにあった身体も、血の痕も…全てが一瞬に
して消えて…光の粒子となって舞い散っていく。
 現実には到底ありえない光景。
 だが、それで実感していく。もう一人の自分がこうしてこの世に
存在していたのは…ある種の『奇跡』に過ぎなかった事を…!

 克哉は、呆然とするしかなかった。
 愛しい人間が、目の前で…幻想的に消えていってしまう様を
目の当たりにして…一歩も動くことが出来なかった。
 残されたのは、愛する人間が自分を守ろうと…携帯し続けていた一丁の
拳銃だけだった。
 それすらも、血の痕のような生々しいものは残されていなかった。

「な、んだよ…! 今の…! 嘘、だろ…!」

 たった今、克哉と同じ光景を目の当たりにした太一は…信じられないものに
遭遇したとばかりに、目を見開かせていた。
 この手で、人の命を奪ってしまった…それだけでもショックであったのに
更に…人間が光に包まれて消えるなんて異常事態に遭遇して、彼は正直…
混乱してしまっていた。
 
「何で、同じ人間が…同時に二人存在しているだけでも在り得ないのに、
そいつが死んだら、まるで何もなかったように…消えるんだよ! どんな
ファンタジーだよ! 何で克哉さんの周りには、そんな在り得ない事ばかりが
続けて起こるんだよ! 眼鏡掛けて人格豹変だけでも信じられなかったに…!」

 その瞬間、太一は克哉を一瞬だけ化け物を見るような眼差しで見た。
 さっき目の前で起こった出来事が、彼の中の常識の枠を大きく逸脱していた
光景であったからだ。
 だが、克哉は…そんな太一に対して、許せないという思いが…あっという間に
満ちていく。
 眼鏡も太一も、克哉にとっては愛しい存在だった。
 その二人が自分を巡って反目している事実は、彼にとっては胸を痛める
現実であった。
 だが、片方が…その相手を殺したのなら。胸に満ちるのは殺意。
 そして克哉の傍らには、眼鏡が持っていた拳銃が転がっていた。
 彼は衝動的に其れを手に取っていき…本気の殺意を込めていきながら
太一を睨めつけていった。

「…太一ぃぃぃ!」

 恐らく、生まれて始めて本当の憎悪というものを込めながら人の名を
呼んでいった。
 自分の中にこんなにもどす黒い感情が渦巻く事があったなんて、これまでの
生の中ではただの一度もなかった。
 本気で許せなかった。憤怒という言葉の意味を実感させられた。
 かつて大事だった人間に、今の彼にとって一番大切な人間を殺される。
 過去の想いと、現在の想いがぶつかりあってグチャグチャだった。
 どれだけ陵辱されても酷い仕打ちをされても、克哉は太一にこれ程の憎しみの
篭った眼差しを向けたことはただの一度もなかった。
 だが、本気の憎悪を…愛しい人に向けられた時、太一は最初は怯えた。
 しかし次の瞬間、彼は高らかに哄笑していった。

「な、んだよ…! そんなに、もう一人の自分が大切、だったのかよ!
良いよ、それなら…俺を、殺せよ! 俺にはもう、何もない…!
五十嵐の家の人間にも、部下にも見切られて…いらない者扱い
されたばっかだしな! あんたの手に掛かって死ねるなら…本望だよ。
さあ、俺を殺せよ…!」

 やけっぱちになったように、太一が叫んでいく。
 そう…今の彼が、安易に拳銃の引き金に手を掛けて幾度も発砲を
してしまった背景には、やはり…自分の部下達や家族にも、克哉に対しての
異常な執着心に呆れられてしまったという事実があった。
 愛しい人間にも、部下にも、家族にも…見捨てられて一人ぼっち。
 今の太一は心にどす黒いものが満ちていて…光を見失っていた。
 自分を正しい方向へと引き戻す、希望が。
 だからヤケクソな態度で、克哉を挑発して…終わりを願ってしまった。
 同時に、克哉に対して…すでに自分は殺されても仕方ないと…半ば
気づいていた部分もあったから。

「…ああっ! お前は…『俺』を殺した! それだけは…許せないっ!!」

 怒りに任せて、克哉は太一の胸元に照準を合わせて引き金を
引こうとした。その時、鮮烈に脳裏に声が響いていった。

―止めろ! お前までその手を血に染めるつもりか…! 
俺は、ここにいる! だから…そんな馬鹿な真似は止せ!
お前は太一を愛していたんだろう! かつて愛していた奴を…
一時の感情で殺めてしまったら、お前は一生後悔するぞ!
知らない人間を殺しても、苦い想いを抱くのに…!
お前はそうやって、自分の心を曇らせるつもりかっ!

 また、不思議な声が…聴覚を通してではなく、脳裏に直接…
響き渡っていく。最初は自分の都合の良い幻聴かと疑った。
 しかしその声は幻聴で済ませるには余りに、強い力を
放っていて、克哉の心へと訴えかけていく。
 だが…胸に、ジワリと暖かいものが満ちていく。
 その瞬間…彼は思い知る。此処に、彼がいる事を…。

「あっ…」

 再び、涙腺が壊れたかのように…克哉の瞳から、涙がポロポロと
零れ落ちていく。
 そんな彼を宥めるように、背中からすっぽりと包み込まれていくような
感覚があった。
 直接的な感覚ではない。物質として存在しない。
 けれど…ふわりと暖かな何かを、背中に感じていく。
 其処に、いる。もう一人の自分は…自分のすぐ、傍にいる。
 それを実感した瞬間…彼の中に、冷静さが生まれていった。

(そこに、いるのか…? 『俺』…?)

―嗚呼、俺は…お前の中に、いる。もう一度…身体を取り戻して
お前の傍にいられるようになるには、長い時間が掛かるがな…。

 その声を聞いた時、胸に満ちていたドロドロの感情が…霧散して
いくのを感じていった。
 拳銃の引き金に宛てられていた人差し指から力が抜けていく。
 そして、左手で…知らず、自分の身体を抱き締めていた。

(いつか…戻って来て、くれるのか…?)

―必ずだ。だから…お前は、信じて…待って、いろ…!

 それは時間にしたら、一分前後の短いやり取り。
 けれど、其処に確かに…もう一人の自分の想いを感じた。
 瞬く間に、彼の気配が消えていく。その儚い何かを手元に留めたくても…
幻のように、『俺』の気配も声も…消えてしまった。
 自分の中に、力強い何かを感じる。声が聞こえなくても…。

―克哉の心の中で、彼が眠りに落ちたのを確かに感じ取った。

 其処に立っていたのは、冷静さを取り戻した克哉だった。
 太一は全てを覚悟して、その命を差し出すことで克哉に対して
行った自身の罪を贖おうと目を瞑ったままでいた。
 だが、幾ら待っても…銃声が聞こえることはなかった。
 恐る恐る目を開いていくと…其処には、どこか優しい顔をした
克哉が頬を濡らして、銃を下ろした状態でこちらを見つめていた。

「克哉、さん…?」

 信じられないものを見る想いで、太一が呟いていく。
 たった今まで見せていた克哉の夜叉のような恐ろしい憎しみと
怒りが、その顔から消え失せていた。

「ど、うして…?」

「…一度は、本気で愛した人間を…一時の感情で、オレは…
殺したく、ないよ…」

 眼鏡は戻って来る。
 その希望があるから…辛うじて、克哉は理性を取り戻した。
  しかし太一の放った凶弾が、克哉の幸せを…あいつと共にいられる時間を
奪ったのもまた、事実であった。
 愛しさと、憎悪とで…気が狂いそうなくらいだ。
 けれど…彼は、ギリギリの処で選び取っていく。
 お互いに感情に任せて殺し合う終末ではなく、お互いに…生きる道を。
 
 こんな事が起こったしまった以上、もう太一の元には戻れない。
 何もなかった頃のように笑いあいながら傍にいる事は無理だ。
 きっと心を殺さなければ、傍にいる事は不可能で。
 そんな事して傍にいれば、きっと同じ過ちを自分達は犯していく。
 なら、離れるしかないと思った。
 お互いが在るべき姿に戻る為に…必要なこと。
 それは袂を分かつ以外にすでにない事を…瀬戸際で克哉は悟った。
 全てを覚悟したからこそ…克哉は、どうにか笑ってみせたのだ。

「な、んで…許せるんだよ! あれは…克哉さん自身で、認めたくないけど…
今、克哉さんはあいつの事を好きだったんだろ! それなのに…どう、して…」

「あぁ、その件に関して、本気で怒っているよ。太一が…オレが戻らないって
いう答えを聞き遂げてくれたのなら、こんな事態は…絶対に起こらなかったん
だからね…」

 だが、克哉は…その銃口を、自分の頭に突きつけて見せた。
 愛しい相手のその異常な行動に…太一は、驚きの声を挙げていった。

「克哉さん! 何をしているんだよ!」

「近寄らないでくれ。太一が…近づいたら、オレは…自分でこの引き金を
引くから…」

「…何で! 克哉さんは何を考えているんだよ! 判らないよ…!」

 自分を許して銃口を外したかと思えば、次のこの行動に太一は余計に…
混乱するしかなかった。
 しかし、そんな事を言われてしまえば…太一とて身動きが取れなくなって
しまう。悔しいが…その場から動く訳にはいかなくなってしまった。
 太一と克哉を隔てる距離は10メートル程。
 克哉の方はいつの間にか…海へと続く穴の前に立っていた。
 その向こうには間もなく暮れなずむ、赤い赤い太陽がそびえている。
 青年の色素の薄い髪を…朱の陽光が染め上げて、まるで燃え上がっている
かのように太一の目には映っていた。

「太一…オレは、お前の元には…二度と戻らない。それが…お前の
たった今、犯した罪に対しての…オレの答えだよ」

「…っ!」

 嫌だ、と叫ぼうとした。
 だが…たった今、自分がしてしまった事の重さを、太一は自覚している。
 自暴自棄になっていたからといって、安易に拳銃を向けることも…人に対して
それを打つなんて事は許される訳がない。
 反論の言葉など、言う資格はすでになかった。

「…太一、どうして…そんな結論をオレが出したか、はっきりと今なら言えるよ。
…オレと太一はすれ違い続けた。オレは…太一を愛していたし、太一だって…
オレを愛してくれていた。けれど…信頼、しあえなかったんだよ。
 だから太一は…オレから全てを奪って独占しないと、心が静まらなかった。
 オレは、そんな真似をされて悲しかった。だから…全てを奪われてなるものかと、
心だけは反発を続けていた。だから…こんな結果に、なったんだね…」

「克哉さんが、オレを…愛していた…?」

 その言葉に、信じられないという想いで…反芻していく。
 彼はただの一度も、克哉を手中に収めていた時に…そんな実感を覚えた
試しがなかった。だから本気で…その肩と唇は震えて、いた。

「嗚呼、愛していたよ…。オレは太一が、音楽の事を語ってキラキラと目を
輝かせている姿を…とても、好きだった。俺にないものを持っていたお前に
強く惹かれて…気づかない間に、恋していたんだよ…。
 あの時は、自分でも自覚なかったけれど…。
 そんな太一を、変えてしまったのが自分であった事がオレには辛かった…。
 暗い目をするようになった太一を…見ているのが、辛くて…。五十嵐の家の
人間に遠回しにその事で責められたりしている内に…オレは耐えられなくなって
オレは…食事を断つことで、死ぬことを選んでしまったんだと思う…」

「…っ!」

 それは、部下に突きつけられた現実と、ほぼ被る内容だった。
 太一の弱さが招いてしまった事。
 克哉の口から其れを語られて、胸が再びズキズキと痛む想いがした。
 
「…はは、バカみたい、じゃん…! 克哉さんが、俺を愛してくれていた、
なんて…思いも、しなかった。克哉さんは…俺を犯した罪悪感で…それで
自分を投げ出して、傍にいたんだよ…。単なる偽善で…同時に、罪の意識を
失くす為に俺の傍にいたんだって…ずっと、思い込んでいた…!」

「バカ、だね…。ただ、償いの為に…自分の環境、全てを投げ出してまで…
太一の命令に従っていたなんて…本気で、思っていたのかよ…」

「何だよ…それ。俺ら、両想い…だった、んじゃん…なのに、どうして…!」

 やっと、太一は…自分を取り戻した。
 そして…初めて、『今の克哉』と対峙していった。

「…けれど、オレは…記憶を失くして。太一の事は忘れてしまっていた。
その時期に…オレは、献身的に介護してくれる…もう一人の『俺』に恋して…
思うようになってしまったから…」

「記憶、を…失くして、いた…?」

「うん、太一が目の前で撃たれたのがショックが大き過ぎたみたいで。
オレは意識を回復した時、前後一年くらいの事の殆どを忘れてしまっていた。
だから…オレは、あいつを知らぬ間に愛して…しまっていた…」

 克哉は真実を語っていく。そう、自分は太一を忘れていた。
 だからその間に、もう一人の自分の存在が入り込んでしまっていた。
 その事実に、太一は…顔を歪めていく。
 何のメロドラマだよ、とでも言いたそうな顔を浮かべていた。

「何だよ、それ…嘘、みたいな…話、じゃんか…」

「けど、本当の話だよ。だからオレの心変わりは…記憶喪失なんて事が
なかったら、きっと起こらなかったかも知れない。けれど…もう、起こって
しまった過去は変えられない。オレは…『俺』を愛してしまった。
そしてたった今、『俺』を殺した…太一を、愛しいと思う反面…心から
憎いと思っているのも、また真実なんだよ…」

 そうして、一歩一歩…克哉は後ろに後ずさっていく。
 太一は思わず、駆け寄りそうになったが…!

「来るなっ!」

 全身で克哉は、太一を拒絶した。

「どうして…! 落ちる気かよ…克哉さん…!」

「そう、そのつもり。そして…それ以後は、太一の中でオレを死んだことに
して欲しい…」

「どうしてだよ! 何でそんな真似を…!」

「…こんな強い憎しみを抱いた状態で、オレはもう太一の傍にいる事は
出来ないから。近くにいる限り、オレはきっと…お前の事を恨む。
けれどどれだけ…強い怒りも悲しみも、それから距離を置いて…時の
流れに身を浸せば、消えていくっていうのをオレは知っているから…。
もう罪の意識とか、償いとかで…人を縛るのも、縛られるのも…オレは
沢山だから。だから…オレは、太一の元から永遠に去らせてもらう…」

 そうして、克哉は綺麗に笑った。
 思わず見惚れるくらいの…慈愛の表情を浮かべながら…。

「太一に、もう一度…過去に囚われないで、音楽をやって欲しいから…。
だからオレの事は忘れて欲しい。今、ここでオレが飛び降りたら…オレを
死んだものと扱って、どうか…自分の夢を思い出して、欲しいんだ…」

「…っ!!」

 その瞬間、胸を穿たれたような想いだった。
 たった今…自分の犯した罪を思ったら一生、憎まれても仕方ないことだった。
 それを克哉は許そうとしているのだ。
 こんな馬鹿な真似をして、清算しようとしている事に気づいて…太一は、知らず
涙を溢れさせていた。

 俺はこんなに優しい人を憎み続けていたのだ。
 俺はここまで想ってくれていた人を、恨み続けていたのだ。
 俺はこの人から、全てを奪ったのに許そうとして。
 そして…俺の手から永遠にすり抜けていこうとしている。

「嫌だっ! 克哉さん…! 俺は貴方を愛しているんだっ! それなのに…
どうして俺から逃げ続けるんだよぉぉ!」

 太一は耐えられず、間合いを詰めて克哉の方へと駆け寄っていった。
 そんな彼を、どこか悲しそうに見つめながら…克哉は、そのまま後ずさり…
海の方へと、太一を見据えた格好のまま…落下していく。

「さようなら、太一…」

「克哉さぁぁぁん!!」

 本気で泣き叫びながら、太一は…克哉の方へ手を必死に伸ばしていく。
 だがその手はあっという間にすり抜けて空を切っていった。

―どうか、幸せに…

 最後の最後に、こちらを慮る言葉を発し…克哉の姿は、海の中へと
落ちて瞬く間に見えなくなっていく。
 放心したように…穴の手前にへたり込み、海の藻屑となった…
愛しい人を…太一は目で探していく。
 追いかけたいのに、目の前で起こった事のショックが大き過ぎて…
身体が指一本、満足に動かせなかった。

「…何で、こんな俺を…最後に、許して…いなく、なるんだよ…!
克哉さんの、馬鹿野郎…!」

 後から、後から…涙が溢れてくる。
 ポロポロポロ、と…涙腺が壊れたかのように、透明な滴が太一の目元から
流れ続けていった。

 小さな掛け違いの連続で、彼らは両想いであったにも関わらず…
過ちをお互いに犯し続けてしまった。
 だが、最後の最後で…克哉は、『許す』という形でそれを…
どうにか正したのだ。

 愛されていた。想われていた。
 それを踏みにじり続けたのは、自分の態度や行いであった事を…
こんな形で知るなんて、何て皮肉だと想った。
 けれど…彼はもう知ってしまった。克哉の想いを。
 心変わりは許せないと思った。
それくらいなら殺してしまおうとも思っていたけれど…自分は確かに、
克哉に愛されていた現実も知って…どす黒い想いが変質していくのを
確かに感じ取っていた。

 沢山の涙を零し、自分のして来た事を後悔し続けた後。
 涙を拭いて、立ち上がった太一の瞳からは…少なくとも、何もかも
絶望していた、あの暗い色合いは…確かに消えていた―

 
 ―お互いを許しあっている内に随分と長い時間が、気づけば
過ぎてしまっていた。
 泉になっている地点から離れた頃には…何時間も過ぎてしまって
いたので打って変わって二人は慎重に進み続けていた。
 幾つもの分岐点を過ぎて、ようやく到達したのは…水路の出口。
 地下水と海水が混ざり合い、ぶつかり合う地点だった。
 時折…遥か下降の部分で押し寄せる波と、流れる水がぶつかりあって
派手な水飛沫を上げて細かい水の粒子が舞い散っていくような地点に
差し掛かっていった。
 岩壁にも、幾つか穴が穿たれていて…ようやく懐中電灯の明かりなしでも
周囲の状況が判るぐらいに明るくなっていった。
 日の傾き具合から見ても、すでに夕暮れ近くを迎えていた。

「…何か、この周辺。迷路みたいだよね…一体どこに正解の
ルートがあるのか、もう判らないや…」

「そうだな…まあ、ここが水の出口ではあるみたいだから…俺達が
出れる場所も、この周辺にある可能性が高いと思うがな…」

 二人はほとほと困り果てたように、溜息を突きまくっていた。
 その顔は…随分と長い時間を彷徨っているのに、未だにこの洞窟を
出れないでいるせいであった。
 海側のルートを選択したのは紛れもなく克哉自身であったが…ここが
そんなに入り組んだ場所である事をまったく聞いていなかったので正直、
相当に参っている風であった。

(随分と参っているみたいだな…コイツも…)

 逆に眼鏡の方の困惑した態度は、全て演技だった。
 実際は…彼の方は、先にMr.Rに遭遇した時に両方のルートの出口の
目印になる特徴をすでに聞き及んでいたのだ。
 だが、わざと真っ直ぐに行かなかったのは…日が暮れるまではこの天然の
迷路の中に身を置いた方が安全だと判断したからだ。
 あの時計の仕掛けを解かなければ追っ手もここに入って来れないし…
残ることを選択したMr.Rも易々と捕まるようなヘマは犯さないだろう。
 そう考えるとある程度暗くなるまでは…ここに身を置いた方が逃亡するのに
適しているだろう。
 その判断が大きな過ちであった事に、彼自身はまだ気づいていなかったが…。

「…はあ、このままだと…懐中電灯の電池も切れちゃう…よな…」

「…そうだな。安全の為に…ここで休んでいくか? まだ追っ手がウロウロ
しているだろうし…外に出るなら、日が暮れて視界が効かなくなってからの
方が無難だと思うぞ…」

「えっ…でも、電池は…」

「心配するな、換えぐらいは用意してある。それに満タンの電池なら一日ぐらい
点けっぱなしにしたって簡単に切れるもんじゃないぞ? 今の電池は驚くぐらい
長持ちするように作られているからな…」

「そっか、そうだよな…。じゃあ、ここで休んでいこうかな…」

 正直、克哉の方が重いリュックを背負って進んでいたので…ヘバっていた。
 食料や水、それと毛布や最小限の着替えなどを入れたリュックを持っての
移動はこのクソ暑い時期にはかなりの体力を消耗する。
 本来ならこの地から…一刻も早く逃げ出さないといけないのだろうが、
心身ともにすでに消耗しきっているので、克哉はその提案に乗る事にした。
 地面にリュックを下ろして、大きく伸びをしていく。
 肩に、化学繊維の肩掛けの部分が長時間食い込んでいたせいでかなり
ヒリヒリと痛む思いがした。

「何か、ここ…海風が吹き込んで来て、爽やかな感じだよな。あ…でも、
風穴の向こうは、そのまま海に真っ逆さまって感じで怖いかも。
…あんまり近くに寄らない方が無難そうだな…」

「おい、危ないから…近づくな。流石にそんな処から落ちられたら
俺だって…お前を助け切れないぞ」

「判ってる、ってば…」

 そういいながら、眼鏡はそっと克哉を引き寄せていった。
 克哉の方もまた、特に抵抗せずに…もう一人の自分の腕の中に
大人しく収まっていった。
 そのまま、髪と米神の部位に優しくキスを落とされて…片目を瞑って
それを享受していく。

「お前は、判ってないだろ…?」

「判っているってば…。子供じゃ、ないんだから…」

 そのまま拗ねたような顔をしていくと…相手から啄ばむようなキスを
落とされてくすぐったそうに笑っていく。
 甘ったるい、戯れの時間。
 だが…それは、すぐに壊される形となっていった。 
 
 パァァァァン!!

 同時に盛大に響き渡る銃声。
 耳をつんざくような鋭い音が洞窟内に反響していった。
 たった今、放たれた銃弾がすぐ二人の傍を掠めて、岩壁にめり込んで
銃痕を刻み込んでいく。
 瞬く間に、空気が変わっていく。
 それに備えるように…眼鏡は素早く、愛銃を構えて…たった今、銃弾が
向かってきた方角に向き直っていく。
 二人はそれを目撃して、肝が冷える想いがした。

(どうして…ここに…!)

 二人同時に、そう思った。
 その驚愕が顔に出ると同時に…その人物はどこまでも暗く嗤って(わらって)いく。
 最後に直接顔を合わせた時よりも、なお深い闇を宿した眼差しを浮かべながら…
薄汚れた迷彩服を纏いながら、五十嵐太一は其処に立っていた。
 肩口までの長いオレンジ色の髪が、風が吹きぬけていく度に大きく靡いていって…
それが妙に艶かしい印象を与えていく。
 最後に顔を合わせてから、とうに三ヶ月近くが経過している。
 それだけの期間、離れていただけで…更に太一は荒んでしまっていた事が
見ただけで判ってしまった。
 たった今、放たれたばかりの銃口から煙が微かに漏れている。
 その場の空気は…瞬く間に硬直していった。

 暫くは三者とも、無言だった。
 当然だ。太一も眼鏡も…相手に向かって銃を突きつけている訳なのだから。
 迂闊な行動や言動は、無駄に相手を刺激することになりかねない。
 結果的に、慎重に成らざるを得なかったのだ。

(…まさか、こんな処で太一に遭遇する…なん、て…!)

 その困惑ゆえに、克哉はぎゅっと…もう一人の自分のYシャツの袖を
強く握り締めて縋ってしまった。
 そうすると、其れに応えるように…眼鏡もまた、克哉の身体をしっかりと
強く抱き締めていった。
 
―他愛無いやり取り。だが、其処に紛れもなく答えが存在していた。

「何で…! 何でなんだよっ! 克哉さん…!」

 ついに堪え切れなくなって、太一は叫ぶように言葉を紡いでいった。
 顔をクシャクシャにしながら、今にも泣きそうな様子だった。

「俺は…ずっと貴方が帰って来てくれる日を待っていたのに! 全てを…片付ければ
きっと克哉さんは俺の下に戻って来てくれるって…! 俺はそう信じて
待っていたのに…!よくも、裏切ったな…!」

「太、一…」

 そうして克哉を睨んでいく太一の眼差しには本気の殺意と憎悪が同時に
存在していた。
 恐らく、彼には判ってしまったのだ。
 今、克哉の心の中にいるのは…誰なのか。
 本気で焦がれて、愛しい相手が…他の誰かの下で立ち直って、楽しそうに
笑っている現実が…青年を深く打ちのめしていた。

「そう、だね…。これは太一から見たら、立派な裏切りだな…」

「人が散々、克哉さんの命を脅かした奴を探すのに必死だった時も…
あんたはそいつを咥え込んでいたんだろ! 平気な顔して! 俺の気持ちを
踏みにじって! 本当、あんたはどうしようもない淫乱だよな!」

「うるさい! 黙れ!」

 その罵りの言葉に先に反応したのは、眼鏡の方だった。
 彼もまた、本気の怒りを込めながら太一を睨みつけていく。
 一食触発の空気が、その場を支配していった。


「…自分の事を棚に上げるのはいい加減にして貰おうか…!
そもそもコイツがお前の親父に命を狙われることになったのも、ようするに
お前が間違ったことをし続けたからだ。
 コイツの命を脅かすようになった原因はお前の方が作ったのに…一方的に
相手ばかりを責めるのは卑怯なんじゃないのか!?」
 
「それをお前が言うのかよ! あんたが俺の下から、克哉さんを連れ出したりなんて
しなければ、こんな事には…!」
 
「それを本気で言っているのかっ!」
 
本気の怒りを込めながら、眼鏡が恫喝していく。
ビリビリビリとその振動で、克哉は痺れてしまいそうだった。
だが、太一はまったく怯んだ様子は見せない。
むしろ一層、強く相手に憎悪の眼差しを向けて…睨みつけていく。
 
「はっ…! あんただって、俺にこの人を返すって約束していた癖に…人の物に
手を出していけしゃあしゃあとしやがって…! この人はもうとっくの昔に…俺の
物なのに、良いツラの皮をしているじゃないか…!」
 
「本当に、お前は…そう思っている、のか…?」
 
 自信たっぷりに、眼鏡は微笑んで見せた。
 知らぬ間に、岩壁の穴から覗く空は…赤く色づき始めて、夕暮れの景色を
匂わせていく。
 水平線に、微かに暮れなずむ太陽の朱が滲み始めて…時折、鮮烈に輝きを
放ち始めていった。
 眼鏡は…腕の中の克哉を、片手で拳銃をしっかりと握りながらも…
両腕で抱き締めていく。
 それはまるで、克哉は…自分のものだと言いたげの態度だったので、
余計に頭に血が昇る思いであった。
 
「なら、聞いてみろよ…。コイツに、な。今…佐伯克哉は、誰のものなのか…?
その口から、はっきりと…聞いて、みろよ…」
 
「聞くまでもないだろ…! 克哉さん。貴方は…」
 
―数日前、オレはすでにはっきりと言った筈だよ。オレは…いつ、太一のものに
なったのかなって…
 
 冷や水を打たれるような、克哉の抑揚のない声がその場に反響していく。
 それは、感情を必死に押し殺しているような声。
 けれど同時に…冷酷なものでもあった。
 
「な、んで…!」
 
 あれだけ、愛したのに。
 こんなにも求めて、所有の痕を刻み続けていたのに。
 この人が持っていた全てを奪って、俺以外のものを全て失くさせたのに…。
 どうして、この人の全てを俺のものに出来ないのだろう…!
 
「何でなんだよぉ! 俺は、こんなに…克哉さんを愛しているのに! 貴方しか
見ていないのに…どうして、他の奴なんて愛するんだよ! 
他の奴のものになるんだよぉ! 他の奴に平気で抱かれるんだよっ!」
 
「甘ったれた事を抜かすな! お前は…こいつから、会社も、家族も、友人も
全てを奪って監禁した癖に…お前は、何も捨てなかった。
自分が持っているものを何一つ捨てないで、コイツの全てを欲したんだ。
お前が何も犠牲を払っていないのに…どうして人、一人の人生を求める権利が
あるっていうんだ…!」
 
「…っ!」
 
 それは、今まで気づかなかった視点であった。
 だが、太一は失くしている。とても大事だったものを。
 克哉を愛して、裏切られてしまったが故に…すでに失ってしまっていた。
 
「…何も犠牲を払ってない、って勝手に決め付けるなよ…! 俺は、あんたの為に
自分にとって一番大切なものを打ち砕かれているんだ…! その代価に、
あんたの人生を欲して何が悪い!? それぐらいの償いをしてもらわなきゃ、
割が合う訳がないだろ…!」
 
「そうやってお前は、被害者面をして…こいつに罪悪感を植え付け続けて…
これから先もずっとこいつの人生を当たり前のように要求して、縛り続けるというのか?
 それが…お前にとって、本当に…『愛している』という事なのか…!」
 
眼鏡の追撃は、止まらない。
それは太一が敢えて見ないようにしてきた、良心に属する言葉ばかりだった。
彼自身だって、それがどこかで歪で間違っていることをどこかで気づいていた。
だが、彼は不安だったのだ。突然…別人のように豹変してしまった克哉と対面し、
犯されてしまった日からずっと…。
 佐伯克哉という人は、優しくて人畜無害な…自分が守ってあげなきゃいけない
ような弱い人だと思っていた。
 その人が、突然…別人のように冷たく、傲慢で強い男になって…逆に自分が
犯されて良いようにされてしまった日から、太一の男としてのプライドは
ズタズタだった。
 長らく自分が培ってきたもの、価値観。そういうものをたった一日で全て崩されて…
見たくない感情で自分の感情は、ドロドロになって一杯に満たされてしまった。
 
「それくらいの事をして…何が悪い! 俺は、そうだよ…! 特に眼鏡を
掛けたあんたに犯された日から、自信も何もかもがボロボロになった! 
特に音楽を紡ごうとする度に…あんたに対する憎しみで、音楽が汚れ続けたよ!
綺麗なメロディも歌詞も…何も紡げなくなった!俺の中にあった嫌なものが、
何かを生み出そうとする度に溢れて…止まらなくなって!
それで音楽に対しての自信も失ったよ! 俺が憧れ続けていたミリオンレイの
ような綺麗な旋律は…もう俺には二度と作り出せないって絶望してなっ! 
それでもお前を許せというのかよ!自分にとって一番大切なものを、
壊されて…ダメにされて! それ、でも…!」
 
「そ、んな…」
 
 その言葉を聞いたその時、克哉は…目を見開いて肩を大きく震わせていった。
 それが、太一が…音楽をやらなくなった一番の、理由だったのだと…
その真実を知った時、克哉はあの日…安易に銀縁眼鏡を掛けるような真似をした、
自分を大きく責めた。
 だが、眼鏡ははっきりと告げていく。
 
「甘えるのは、いい加減にしたらどうだ? それで…お前は、自分のした事の
全てが免除されるとでも思っているのか?あんな…他人の会社のデーターを
平気で盗み出すようなサイトを運営してしらばっくれて。
コイツから、被害者面して責め続けて…全てを奪った上に、自殺寸前にまで
追い詰めて。お前が音楽を紡げなくなったのも、お前が…自分の心と
向き合わなくなったからだろ?

俺は創作など手がけた試しは学生時代の課題程度しかないから、上手く言えんがな…。
作品というのは、その人間の心の在り方や本心が…嘘偽りなく現れる。
だから己の心を向き合える人間だけにしか、本当に感動させる力が
あるものは生み出せない。
 そんな事を誰かが言っていたという記憶はある…。
お前が、音楽を紡げなくなったのは…所詮、お前にとって音楽がその程度で
しかなかったという証であり。その罪をまた、こいつに押し付けているだけに
過ぎないんじゃないのか…? 本当に失くせないものなら、何が何でもしがみついて…
苦しくても、人は手放さないものだろうが…!」
 
 そう強く訴えていきながら、眼鏡はしっかりと克哉を抱き締めていく。
 その言葉に重みが宿っているのは、彼にとって…今は失えないものが
出来たからだ。
 それがもう一人の自分である、という事実は正直苦笑したくなるが…
苦しくても、何でも彼は…克哉を手放せなかった。

 いつか、こうして太一と敵対することになっても。
 その背後にいるヤクザも一緒に敵に回す事になって自分の命が
危険に晒されても。
 本気で求めているものなら、どうして手放せるというのだろう…!
 覚悟して、本気でそれを手放すまいと決めている者と…自分の弱さに
向き合えず、その心を闇に落としてしまった者。
 その両者が向き合って…弱さに負けてしまったものが、勝てる筈がない。
 だから…どうしようもない憎しみが、胸の中に生まれていく。
嫉妬という強い感情を伴って…!
 
「黙れぇぇ! もうそれ以上…言うなっ!」
 
 もう、この男の言葉を聞いていたくなどなかった! 
 自分の中の弱さを、克哉がどうして自分を選んでくれなかったのか
その理由をまざまざと突きつけられてどうしようもない胸の痛みが
太一を苛んでいった。
 たった今、自分の配下達にも見切られて、愛しい人まで失って。
どうして…それで真実まで突きつけられなければならないのか。
それらが、せめて一つ一つ…順番に来たのならば、まだ太一とて
向き合えたかも知れない。立ち向かえたのかも知れない。
 けれど僅か数日の内に一気に押し寄せて来た事で、対処しきれなかった。
苦しくて苦しくて、どうにか逃れる為についに感情的な行動に出てしまっていた。
 
「もう、聞きたくない!! 黙っていろぉぉぉ!!」
 
 そうして、太一はついに引き金に力を込めた状態で…克哉達に向かって銃口を
しっかりと向けてしまっていた。
 人は、時に人を傷つけたり殺めたくなる衝動に駆られる瞬間がある。
 どれだけ善人の中にも、必ずそのような暗い一面は潜んでいる。それが真理だ。
 だが、実際にそれを実行に移すものと、寸前で踏みとどまる人間との
決定的な違いは何か。
 
 ―それは人との繋がりなのだ。
 
 大事な人間、恋人でも友人でも家族でも…大切に思っている属している
場所のどちらかがあれば、それらを失いたくない。
 壊したくないとストッパーが掛かって人は過ちを犯さずに済む。
 だが、太一はそれを失った直後だった。
 いや、実際は失っていないのだが…彼はまだ、冷静になりきれていなかった。
 全てを失ったという絶望に取りつかれた状態だった。
 だから制御がつかなかった。感情のままに行動し、ついに実行に出てしまった。
 
「…危ないっ!」
 
 眼鏡はいち早く、太一の尋常じゃない状況を察した。
 だから反射的に、腕の中にいた克哉を力任せに突き飛ばして安全な
位置へと追いやっていく。
 
(ちくしょう…間に合うかっ…!)
 
 そして、彼は反射的に手の中のベレッタM92を構えていく。
 互いに銃口を向け合い、真っ直ぐに相手だけを見据えていった。
 
「嫌だぁ! 二人共…止めてくれぇぇぇ!」
 
 自分にとっては、太一も…眼鏡も、本気で愛しい人間だった。
 確かに、自分は太一の所有物ではない。
 ずっとそれは否定し続けているが…胸の中に確かに、今も大切に想っている
気持ちを抱いている人間なのだ。
 同時に、眼鏡は今の克哉にとって欠かすことの出来ない存在なのだ。
 その二人がいがみ合い、殺しあう場面など見たくない…だから止めようと
その間に割り込もうと起き上がった瞬間。
 
パァァァァン! パァァァァン!
 
 二発の銃弾が、その場に同時に響き渡っていった。
 目の前で起こった出来事のせいで、時間が止まったかのような…
錯覚を受けていく。
鮮やかに、二人から…あの桜の日のように、鮮やかな血飛沫が舞い散る。
茜色の光が舞い込んでくる中、その鮮血が飛び散る様はあまりに…
残酷なまでに綺麗過ぎて、怖すぎて言葉を失っていく。
 
「嘘、だろ…! 嫌だぁぁぁ!」
 
 克哉は耐え切れずに絶叫していく。
 そう、その銃弾は…片方の胸を、確実に貫いていた。
 見る見る間にその相手の胸が…血で、汚れていく様を見て…。
 克哉は、反射的にその相手の元へと全力で駆け寄っていったのだった―
 
 

 ―克哉と眼鏡が、地下水路で色々と話し合っているのと
同じ頃…太一は一人、海側の方へとやって来ていた。
 片頬には赤い痕がくっきりと刻まれ、明るいオレンジの髪は乱れて
酷い有様になっていた。
 自然が多い処だと聞いたので、迷彩服を身に纏った彼は…全力で
走り続けていく。
 
 はあ、はあ…はあ、はあ…!

 彼は、苦しげに呼吸を繰り返していきながら、痺れそうになっている
四肢を動かし続けた。
 何人もの人間が、彼を一斉に追いかけてくる。
 それに捕まるものかと…彼は意地でも進む足を止める事なく追跡者から
逃げ続けていく。

「くそっ…!」

 悔しげに呟きながら、彼は辛うじて舗装されている道の上を進み続けた。
 どうしてこんな事になったのか、困惑しながらも…彼は身を隠せそうな場所を
必死になって探していく。

(…まさか、親父がここまで…俺の部下に根回し済みだなんて…)

 状況がひっくり返ったのは、30分前の話だった。
 克哉達が潜伏していると思われる屋敷を、全員で囲んで…威嚇射撃を
一回してから、総勢20名ほどで襲撃をする予定だった。
 だがその直前、彼は裏切りにあった。
 自分の信頼している部下達に、唐突に太一自身が囲まれ…取り押さえられ
掛けたのだ。
 最初は、どうしてこんな事をするのか本気で彼らに対して怒りを覚えた。
 だが…その場にいた全員の意思はすでに固まっていたのだ。

―若、どうか…このまま引き返して下せぇ

 自分の面倒を長年見て来た、壮年の男は懇願するように…そう告げて来た。
 太一の父とも親しい距離にいる、その男が…必死の形相で土下座をしながら
そんな事を言って来た時…呆然とするしかなかった。

『どうしてだよっ! 克哉さんはもう間近にいるのに…何故諦めないと
いけないんだよっ!』

―ここにいる人間、全てが…あの人に帰って来て欲しくなんてないからですよ。
…ぼっちゃんが惚れ抜いている方だと思って、ずっと…あっしら我慢していました
けどね。ぼっちゃんが実家に戻られた際に…あの人を連れて来たでしょう?
 その辺りから…まるで別人のようになられて、冷たくなったじゃねえですか。
 そんなあんたを見ているだけでも…あっしらはしんどかったのに、春には…
あの人を庇って、ぼっちゃん自身すらも死に掛けてしまわれて…!
 傍にいたって、ロクな事がないじゃないですか…! それだったらあっしらは
跡継ぎになんてならなくて良いから、無邪気に音楽バカやっていた頃のぼっちゃんの
方がずっと好きだったんでさ! 
 あの人が傍にいる事で…ぼっちゃんが、音楽を忘れて…あんな荒んじまうくらいなら
戻って来て欲しくなんかないんですよ…!
 だから大人しく、諦めて下さい…! これは、大旦那様の意思でもあるんでさ…!

「何だって…じいさんまでも、克哉さんに…戻って来て、欲しくない…って?」

 叩きつけられるように言われた言葉に、太一はつい呆然となっていく。
 それと同時に…他の若衆が、口火を切っていった。

―当たり前でさ! ぼっちゃんをそんな風に冷たい人間に変えた人に…
どうして、良い感情なんて抱けるんですかい! あの人に良い感情を持って
いる奴なんざ、うちの組の中には誰もいないですよ! 
 ぼっちゃん、いい加減目を覚まして下さい…! ここで踏み止まらなければ
あんたにこれ以上、誰も従わなくなっちまう。
 まだ若いから、色に狂ったり気の迷いもするだろう…と寛容に見ていますけれど
これ以上…馬鹿な真似をするんなら、誰もついて来なくなりますぜ…!

 そうして、太一は瞬く間に羽交い絞めにされて…自由を奪われていった。
 何人もの人間が、必死の形相を浮かべていきながら青年ににじり寄っていく。
 だが、太一とて…伊達に長年、ヤクザの家で育ってきた訳ではないのだ。
 目で彼らを威圧しながら…抵抗の意思を示していく。
 その迫力に、つい周りの人間は押されていった。

「離せっ! お前らが何と言おうと…俺は克哉さんを取り戻す! 俺は…
あの人を愛しているんだからなっ…!」

 迷いない口調で、はっきりと太一は告げていく。
 それと同時に周りの人間全てが…苦々しげに溜息を突いていった。
 恋は盲目、とは良く言ったものだ。
 太一は…克哉を連れて帰って来た日から、周りの事がまったく見えなくなって
しまっているようだった。
 以前は太陽のように明るかった彼が、別人のように荒んだ瞳をするようになり。
 同性の人間を…嗜虐的に抱くようになり、それを周りの人間に見せ付けるように
抱くような真似をするようになってから、太一に向けられていた信頼や好意の
多くは失われてしまっていた。

―聞き分けのない事を言わないでくだせぇよ。ぼっちゃんが…あの克哉とか
言う人を愛しているっていうのはここにいる人間全てが嫌ってほど判って
いますよ…! けどね、あんたは…もう、うちの組の看板を背負っているんだ。
 簡単に命を捨てるような真似をされたら、その下についている何百もの
五十嵐組に関係する人間が路頭に迷う事になる…!
 あんたがこれ以上…克哉、という人を追いかけるっていうのなら、あっしらの
全てを捨てる覚悟でやって下せぇ…!
 色恋に狂って、まともな判断を下せない跡取りを認める程…あっしらの商売は
軽いもんじゃない! その覚悟がなく…五十嵐組の跡取りでいたいなら、どうか…
諦めてこのまま帰る事ですな…! 

 苦しげに、長年…祖父や父にとっても信頼出来る部下であった男が…訴えていく。
 その時になって初めて、冷や水を打たれたような気持ちになった。
 この男に…こんな決断を迫られてやっと、自分の立たされていた状況を…太一は
初めて自覚したのだ。
 周りにいた人間の殆どは、自分ではなく…目の前の男や、父親の考えに賛同していた
のだという現実を初めて自覚していく。

―誰が…諦めるかよぉっ!!

 太一は、怒りに任せて…自分を羽交い絞めにしていた人間を、全力で振り払う
ことによって抵抗していく。
 同時に胸元に忍ばせていた一丁の拳銃を引き抜いて…目の前の男に突きつけていく。
 ここに連れてきた20名は…皆、自分が信頼している人間だった。
 だが、皮肉にも…心から太一を想ってくれているからこそ、克哉を取り戻すことに
彼らは誰もが消極的だった。
 
 克哉が、かつて…真っ直ぐに音楽に打ち込んで夢中になっていた太一を好ましく
思っていたように、ここにいた全ての人間は…太一が跡取りにならなくても、自分の
好きな夢を追いかけてくれたら良いと願っていたのだ。
 だが、克哉を連れて戻って来た太一は…酷く傷ついて荒みきった瞳をしていて
別人のようになっていた。
 そして、音楽の事など忘れてしまったかのように振る舞って…克哉を監禁する為の
経済力と権力を得る為だけに、あれだけ嫌がっていた跡取りになる事を決意したのだ。
 そんな太一を、周りの人間全てが見ていられなくなった。
 最初は、唯一の男孫である彼が…跡を継ぐことに喜んでいた祖父でさえも、太一が
克哉を庇って命を落としかけた一件を報告されてからは…否定的な考えに変わって
しまった程だ。

 だが、太一は…それを知った上でも…諦め切れなかった。
 それは子供の駄々といえるレベルでのどうしようもない執着心。
 もうすでにそれは愛情ではない。妄執や…執念と言える代物だ。

―それがぼっちゃんの答え、ですか…。

「あぁ…そうだ。俺は…克哉さんを何が何でも、取り戻す…!」

―なら、あっしらはぼっちゃんを全力で取り押さえさせて貰いやしょう!

 この場を取り仕切っていた男が…号令を掛けると同時に、周りにいた人間が
一気に間合いを詰めていった。
 それと同時に太一は…斜め上に向かって、一発の銃弾を放っていった。

 パァン!!
 
 響き渡る盛大な銃声。
 この場にいた人間の全てが、一瞬立ち止まっていく。
 太一はその隙を突いて逃げ出し…そして、現在の状況に陥ったのだ。

(ちくしょう…!ちくしょう…!ちくしょう…!)

 走り続けている最中、先程言われた言葉がグルグルグルと…頭の中を
巡り続けていく。
 信じていた連中であっただけに、この展開は…彼にとって、心理的な打撃は
かなりのものであった。
 克哉を取り戻せば、安心出来ると思っていた。
 この焦がれるような感情も、貪るように彼を抱き続ければ…かつてのように
収まっていくと信じて疑っていなかった。
 だが、春の…太一が克哉を庇って命を落としかけた一件によって…周りの
人間全てが、それをもう許してくれそうにない現実をようやく彼は知ったのだ。

「克哉、さん…克哉、さん…!」

 狂った機械のように、ただ…その人の名前だけを弱々しく呟き続けながら
彼は追っ手から逃げ続けていく。
 全身から大量の汗が浮かび上がって、ベタベタだ。
 運動量に対して、入って来る酸素の量が確保出来ていないせいか…もう
苦しくて足が鉛のように重く感じられていく。
 だが、彼は…それでも、捕まったら終わりだと思って…執念で足を動かしていた。
 しかし…炎天下で、これだけ激しい運動をして…これだけ長い時間、水分補給も
なく走り続けたりなんかすれば意識だって朦朧としてくる。
 そうしている間に、彼は…ぬかるみにハマっていった。

「うわっ!」

 そしていきなり、ズボっと足が地面に沈んで…一気に彼の身体は
飲み込まれていった。
 まさにそれは一瞬の出来事。
 この周辺は、水脈が幾つも走っており…大地の至る処に、泉や
地下水脈に繋がる穴が空いている。
 太一がハマったのも、腐葉土によって覆い隠されていた人一人くらいなら
すっぽりと入り込んでしまえるくらいの枯れた泉の跡であった。 
 水がなく、空洞になった泉跡に踏み込んだ太一の身体はあっさりと
飲み込まれ…この辺りに無数に走っていく地下道の一つへと
その身を運ばれていく。

「いってぇ…!!」

 盛大に尻餅を突いて、尾骶骨に衝撃が走っていく。
 だが、かなりの高さから落下した割には…落下地点の周りには柔らかい
腐葉土が降り積もっていたせいで、被害は左程出なかった。

「…ってぇ…! 何でこんな処に、落とし穴なんてあるんだよ…! って…
暗い、なっ…!」

 周囲を見渡していくと、明かりが届かない場所なのか…殆ど視界が
効かなかった。
 どうにかして明かりを…と思ったので、携帯電話を取り出して、そのライトを
頼りに進んでいこうとすると…。

「…発信機の反応が、近い…?」

 ふいに、克哉に取り付けていた筈の発信機が反応を始めていった。
 太一が屋敷の前に辿り着いた時よりも謙虚に小型のレーダーが反応しているのを
目の当たりにして…呆然となっていく。

「…そっか、克哉さん…。この近くに、いるんだ…」

 それなら、あの屋敷に襲撃しても…きっともぬけの殻だったのだろう。
 その事実に気づいた時、邪悪な笑みが知らぬ間に浮かんでいた。

 ―そこまでして…貴方は俺から、逃げ続けるのかよ…!

 こんなに、こんなに愛しているのに…! 
 どうして貴方は俺から逃げるんだ!
 何故笑ってくれなくなったんだ…!
 そんなドロドロでグチャグチャな感情が吹き出していきながら…まるで
幽鬼のように、太一はゆっくりと発信機が反応している方角へと向かっていく。

―逃がさない。貴方は絶対に…取り戻すかんね…!

 そして、恋に狂った男が一人…洞窟の奥へと進んでいく。

 一人の人間に恋して、狂ったが故に…彼は、周りの人間の信認を知らぬ間に
失っていた。
 愛する人すらも、それで…心を閉ざして、何も飲食を受け付けなくなって
しまった。
 父や祖父からも、この恋を快く思われていなかった…その残酷な事実を
改めて突きつけられて、絶望ばかりが彼の心を満たしていく。

 だが、それらの事態を招いた全ての発端もまた、彼が生み出している。
 それに気づくのはまだ彼は若く、経験も浅かった。
 愛する人と上手く行くのに本当に必要なことは何だったのか…彼は
まだ気づいていない。
 だから、絶望に浸りながら…相手を責めることでしか、自分を保てなかった。

 ―愛する人と笑い合うのに必要なことはなんだと思いますか?

 ふいに、歌うような口調で…幻聴が聞こえた。

―貴方はまだ、それに気づかれていないご様子ですね…。ふふ、結構です。
いやでもこの先に…残酷なまでの真実が存在します。
 それによって…貴方は気づかされるでしょう。自分がかつて置き去りに
してきたものが何だったかを…。
 さあ、もう舞台は最終場面に辿り着きました。その結末をどうか…
御自分の目に焼き付けて下さい。
 この愚かしいまでに真っ直ぐな愛の結末がどのようなものか…
貴方は、見届けなければならないでしょうから…

 何故、そんな声が…聞こえるのかが、太一には判らなかった。
 けれど、それでも立ち止まることなく…彼は鈍くなった足を、ぎこちなく
進ませていく。
 水脈の果てには、海へと続く出口が存在する。
 その方向に向かって…彼は、ただ歩いていった。

―その終わりに存在する、この恋の終焉に立ち会う為に―
 眼鏡と克哉は、懐中電灯の明かりを頼りに…石灰岩で構成されている
洞窟の中を進み続けていた。
 隠し通路から出て暫くは…鍾乳石や石筍があちこちに点在して
非常に道がデコボコしたり、狭くなっていたりして進みにくかったけれど
ある程度進んだ辺りから急に開けて、地下水脈と繋がっていった。
 
 長い年月を掛けて、水が流れることによって穿たれた通路の
傍らには清水が緩やかに流れていた。
 サラサラサラ…と海の方へと静かに向かっていく水路を
伝うようにしながら、無言で彼らは進んでいった。

(…さっきから、何も言ってくれないよな…)

 もう一人の自分は、懐中電灯を片手に持ちながら慎重に先に
進んでくれていた。
 そのおかげで、克哉の方は安全に後を追うことが出来た。
 水路に繋がってからは地面のコンディションもかなり安定していて
転びそうになる事もなくなったが、天井や地面に突起が沢山あった
地点では、ちょっとした拍子に転倒しそうになった事が何度もあった。
 ひんやりとした空気が、辺りを満たしている。

 本来なら今日はかなり暑い日であった筈なのに、清らかな水が
流れるこの洞窟内の空気は冷たく…逆に肌寒いくらいだ。
 滑らかな岩肌に、手を這わせていきながら慎重に奥へと進んでいく
内に…急に天井が高くなって、足場も大きく取られている地点へと
辿り着いていった。
 泉のように、足元には綺麗な水が讃えられていて…その周辺も
二人ぐらいなら寝そべって、くつろげそうなくらいの空間が確保されている。
 懐中電灯に照らし出された水面は、キラキラと闇の中で輝いていて…
とても綺麗であった。

「…ここ、休みには丁度良さそうな場所だね。…少し休んで、昼食とか
水分補給…しようか?」

「あぁ、そうだな…」

 克哉が提案すると、眼鏡が…浮かない顔で頷いていく。
 さっきからずっと、彼の様子はこんな感じであった。
 この隠し通路に入った辺りから…殆ど言葉を発することなく、沈黙した
まま…一時間以上二人は歩き続けていた。
 眼鏡は無言のまま、泉の傍へと腰を下ろしていく。
 克哉は背中に背負っていたリュックから二人分のステンレス製のマグカップを
取り出していくと…冷たい水をそっと汲み上げていった。

「はい…冷たい水。生水だから、ちょっと怖い部分あるけど…これが飲めるようだったら
ペットボトルの水は温存しておいた方が良いだろうから…」

「ああ…」

 心、ここに在らずといった風に…眼鏡は素直に頷いて、克哉が差し出した
マグカップを手渡していく。
 ずっと彼は…ここに入る直前辺りから、思う事があったらしい。
 しかし悩んでいたり、苦しんでいる事を彼は安易に口に出せる性分ではない。
 だから押し殺し、平静の顔を保つことしか…彼には出来ないのだ。

(…悩んでいるみたいだな。あいつ…)

 克哉には、彼がこうやって押し黙ってしまっている理由に大体の予想は
ついていた。同時に彼のプライドの高い気質も良く判っている。
 だが…このまま何も話さないまま、見ない振りしてやり過ごしても…この
洞窟を出れば、正念場が待っているのだ。
 …多少の時間のロスを覚悟しても、向き合った方が良いかも知れなかった。
 気を落ち着けようと…冷たい水を一杯、喉に流し込んでいく。
 それから深く深呼吸して…心を少しでも鎮めてから、克哉は口を開いていった。

「あのさ…あんまり、気にしなくて…良いから…」

「…? 何を、だ…?」

「…太一とオレが、こじれた事は…キッカケはお前が確かに作ったのかも
知れないけれど…その後は、オレの対応の仕方がまずかっただけの話だから。
…もうお前が、そんなに…罪悪感を覚えている必要は、ないよ…」

「…っ!」

 その一言を口に出した時、眼鏡は瞠目していった。
 ハッとなったように顔を上げて…こちらを真っ直ぐに見つめ返してくる。
 そう、眼鏡は三日前から克哉の態度がおかしいことはすでに気づいていた。
 だが…それは今まで、敢えて触れないようにしていた。
 …克哉が全てを思い出していたのなら、恨まれても仕方ないことを確かに
自分はやっていたのだから。
 さっき、Mr.Rと語り合っている時の様子を見たからこそ、余計にその事実は
眼鏡の心の中に圧し掛かっていた。
 それが…彼が口を閉ざしていた最大の要因だったのだ。

「…やはり、お前は…全部、思い出しているんだな…?」

「うん、三日前に。…太一から電話が掛かってきて、話した時に…この一年に
起こった事の殆どは、思い出したよ…」

「そう、か…。やっぱりな…」

 自嘲的にもう一人の自分が笑っていく。
 その切なそうな顔に、見ているこちらの胸が潰れそうになったぐらいだ。
 何から、話せばいいのか…両者とも深く迷い、そのまま沈黙が落ちていく。
 言いたい言葉、話したいことは溢れるぐらいにあった。
 けれど何から話し合っていけば良いのか…少し、判らなくなってしまったからだ。

「…全てを思い出したなら、俺を…憎んでいるんじゃ、ないのか…?」

「ううん。そんな事は…ないよ…」

 そういって、克哉は…少し間合いを詰めて…もう一人の自分の方へとゆっくりと
抱きついていった。
 言葉だけでは、もしかしたら信じてもらえないかも知れない。
 そう考えて…克哉はしっかりと、その背中に腕を回してしがみ付いていく。
 『お前を憎んでなんかいない』 と…そのメッセージを確かに伝える為に…。

「…確かに、さ。太一があんな違法なサイトを運営している事を問い質す為に
埒が明かなくて、オレはあの眼鏡を掛けてお前に頼った。それで…あの一件が
起こって太一はそれから…おかしくなった。それは事実。
 けれど…お前が介入したのは、オレを桜の日に助け出すまでは…それだけで。
後は結局…オレと太一の問題だったんだ。
 お前を恨んだり、責任転嫁するのは簡単だ。けれど…今は、数え切れないくらいに
オレはお前に助けられているんだ。それで…都合の悪いことだけ、お前のせいにして
恨むなんて真似…出来ると思っているのか?」

 相手の首筋にしっかりと腕を回して、真っ直ぐに瞳を覗き込んでいきながら…
克哉は眼鏡に伝えていく。
 わだかまりは、残しておきたくなかった。
 彼を罪の意識で…自分のように、苦しめたくなかった。
 けれど克哉に、優しくされればされるだけ…今の眼鏡には辛いようだった。
 切なげに瞳を細めて…何かに耐えているような、そんな顔を浮かべていく。

「…本当に、そう思っているのか…? お前は…太一を、愛しているんじゃ…
ないのか? 太一との仲をグチャグチャにした…俺を、本当に…受け入れると、
いうのか…?」

 全てを思い出したのなら、自分を選ぶ訳がないと思った。
 あの二人は…違法サイトの件を問い質す以前までは、非常に関係は良好だった。
 それを崩したのは、自分だと…克哉を愛するようになってから、眼鏡は気づいて
しまったのだ。
 それが…元来は傲岸不遜であった彼を大きく変えてしまった、最大の要因でも
あったのだ。
 
「…何か、お前…以前に比べると随分と悩むようになったね。以前にさ…オレの
前に初めて現れた頃のお前ってさ。出来るけど、自分の事しか考えなくて…身勝手で
こちらの気持ちなんて一切慮ってくれたことなんてない奴だったのに。
本当に…変わったよね」

「悪かったな…。誰が、俺をこんなに臆病に変えたと…思っているんだ…」

「御免ね。きっとオレのせいだね…。けれど、オレは…今のお前の方が、好きだよ。
とても…優しい瞳をするようになったから…」

 そういって、愛しげに克哉は…眼鏡の頬を撫ぜていく。
 綺麗なアイスブルーの瞳を、そっと覗き込んでいくと…克哉は愛しげに目元を細めていく。
 慈しむような仕草に、つい…張り詰めていた何かが緩んでしまいそうだった。

「…見るな。こんなみっともない姿を…お前に、見せたくない…」

 こんな事ぐらいで、つい泣きそうになる自分の姿など…他の人間に見せたく
なかった。だが…克哉は、だからこそ…もう一人の自分を愛しいと感じていたのだ。

「どうして? オレは…お前の、そういう弱さも…愛しいと思っている。何もかも完璧で
傲慢で…人の気持ちなどまったく考えないお前より、そうやって…迷って、悩んで…
オレの事を考えてくれるようになったお前の方が…ずっと、オレは好きだよ…」

―だから、これ以上…罪悪感なんて抱かなくて良いよ

 そう、許しの言葉を呟きながら、そっと唇を重ねていく。
 その口付けはとても優しくて…慈愛に満ちていて。
 ついに…一筋の涙が、眼鏡の頬から伝っていった。

―あぁ…俺はこんなにも…怯えて、いたんだな…

 いつか、こいつの記憶が全てが蘇った時…克哉の気持ちが変わってしまうことを。
 許さない! と詰られて太一の元に帰ってしまうんじゃないかって…ずっと内心では
自分は怯え続けていたのだと思い知らされる。
 好きになればなるだけ、克哉の存在が大切になればなるだけ…その不安は大きく
なっていって。
 口に出せない分だけ、それは彼の心の中に大きく圧し掛かっていった。

「本当に、許すのか…?」

「…うん、当然だろ? …もう罪悪感とか…償いとか、そういう感情で傍に
いたくない。好きだから…その想いだけ抱いて…お前の傍に、いたい。
オレは…太一とは、それで間違ってしまったから。お互いに好きあっていたのに…
あの一件が起こった後、オレは償いという名目で…自分の持っている全てを捨てて…
太一の好きなようにすれば良いと、あいつに従うことを選んだ。
 それが…太一を大きく歪めてしまった、最大の原因であった事に…やっと
気づけたから…」

 そう、あの時…自分があんな無茶な要求に、償いという理由で従ってしまった
事から…歯車は大きく狂ってしまったのだ。
 両思いであった筈なのに、それで太一と克哉は…被害者と加害者という間柄に
なってしまっていた。
 そんな関係で繋がったから、太一は不安になってしまったのだ。
 償いという名目で克哉が傍にいるのなら、責め続けなければ…太一は克哉に傷つけられた
被害者で居続けなければ、引き止められないと思ってしまった。
 だから、彼は歯止めが効かなくなって…道を誤ってしまったのだ。
 離れて、記憶を取り戻して…二人への想いに揺れ動きながら悩み続けて、やっと…その間違い
に克哉は気づけたのだ。

「罪悪に縛られて傍にいたり、誰かを縛り付けちゃ…いけないんだ。
だから…もう、過ぎてしまった事なんだし…お前が苦しむ事はないよ…」

「…本当に、それで良いのか? 一度も…お前は太一と向き合わないままで…
このまま俺と逃げて…後悔、しないのか…?」

 もう一つ、彼は気に掛かっていたことを口に出していく。
 その質問は、やはり…少しだけ胸が痛んだが…少し考えて、慎重に言葉を
選んでから…克哉は答えていった。

「…拳銃とか、命の危険が生じる要因がなければ…正直言えば、太一の
元に直接向かって、話し合いたい。けど…太一は俺をどうこうしなくても、
あいつの周りにいる人間が…どんな行動に出るかまでは予想がつかないから…。
オレは、一度は命を狙われいる訳だし…一対一で確実に応対出来るなら
ともかく、そんな危険な場所に…お前を付き合わせる訳には…いかない、よ…」

「…俺の事は良い。お前がそうしたいなら…付き合ってやる、と…何度も
言っているだろう…?」

 少し怒ったような顔を浮かべながら眼鏡が睨みつけてくる。
 その真摯な眼差しが…逆に、嬉しく感じられた。

「…おい、俺は真剣に言っているんだぞ? 何故…そんなにニヤけた顔を
浮かべているんだ…?」

「…ん、御免。けど…オレにそうやって、選択肢を委ねてくれて…危険すら
省みずにこちらの意思を汲んでくれようとするお前を…危険に晒す真似は
やっぱりしたくないんだ。…そして、それが…オレがお前を選んだ最大の
理由でも…あるから…」

「…お前が、俺を選んだ理由だと…?」

「うん。お前は…オレの意見をちゃんと聞いてくれる。そして…その意見を
尊重してくれるようになったから。…太一は、不安に駆られてからは…オレの意思を
封じて自分に従えることでしか安心出来なかった。だからオレの心は無視され
続けたけれど…お前は、重大な時はオレの意見を尋ねて、ちゃんと聞いてくれた。
それが…オレには、凄く…嬉しかったから…」

 そういって、克哉は強く強く…もう一人の自分にしがみついていく。
 この腕を放したくたい。
 それが紛れもなく自分の本心なのだ。
 だから…もう気にしなくて良いと、全身で訴えていく。
 自分の心など、ずっと無視され続けた。
 だからこそ…大切にされる事が嬉しかった。
 彼の傍で、自分は息を吹き返せた。
 生きたいという当たり前の欲求を思い出せた。
 そして…何より、本当に…克哉は眼鏡を愛し始めていた。
 みっともない姿すらも、愛しいと思えるくらい…彼を想うようになっていた事を
ようやく自覚していく。

―だから、もう過去に縛られないでくれ。ただ…好きだからって理由で…
お互いの手を取ろうよ…。

 想いを、そんな暗い感情で二度と澱ませたくなかった。
 太一と自分は間違えてしまった。
 だから最悪の流れを生み出して、お互いの立場や命すらも危うくしてしまった。
 同じ過ちをもう犯したくない。その一心で…克哉は必死に抱きついていく事で…
自分の気持ちを伝えていく。

―お前がオレを必要としているのなら、ただその気持ちだけで…傍に
いてくれれば、それで良い…!

 克哉の方も…半分、泣きながら必死になって訴えていく。
 そうしている間に…眼鏡の方から、強く強く抱き締められていった。
 肩口に…顔を埋められていく。
 背中が軋むぐらいに、腕に力を込められた。

「…お前という存在は、本当に…俺を混乱させるな。どうして…こんなに
振り回され続けているのに…お前なんて、俺は好きになったんだろうな…」

 自嘲的に呟きながら、そのまま…噛み付くように唇を重ねられていく。
 それに応えるように、克哉からも強く抱きついていった。

「…答えは、単純だよ。オレが…お前を好きになってしまったから。
ミラーリングって知ってる? …好意には、好意が。恐れには恐れが…
嫌悪には、嫌悪が。人間ってね、その相手に抱いている感情がそのまま…
相手にも反射されて、同じ気持ちを抱くんだってさ。
 だから…どっちか先なのか判らないけれど…好意を抱くようになったから
お互いにその思いを返すようになった。それで良いんじゃないかな…?」

 悪戯っぽく笑いながら、ふと…どこかの本で読んだ心理用語を
思い出していく。
 その単語が頭に浮かんだ瞬間…ストン、と頭の中のパズルのピースが
ハマっていくようだった。
 自分と太一は、きっと…罪悪を互いに抱くようになったから、その感情が反射
しあって…不安が大きくなっていってしまったのだろう。
 それをどうにかするたった一つの方法は…許すことだ。
 自分が、相手が犯した過ちを許しあい…リセットする事で、過去に人は
囚われなくて済むのだ。
 だから克哉は、許したのだ。
 
 きっと眼鏡は、克哉を愛した事で己の罪を知った。
 それが…無理矢理、克哉をクラブRや夜のオフィスで犯した時とは…
違う彼に変えてしまった最大の要因なのだろう。
 そのことで彼が苦しんでいるなら、もう拘りたくなかった。
 好きな人に、責められ続ける苦しみを…克哉は、散々…太一の傍にいる事で
味わったから。
 もう一人の自分に、そんな痛みをこれ以上引きずって欲しくなかったのだ―

「…本当に、お前は…おめでたい男だな。自分の人生を狂わせるキッカケになった
事を…そんなにあっさり、許せるものなのか…?」

「…うん。恋人に責められる痛みは、もう嫌ってほど思い知っているからね。
だから…同じ事を、他の誰かにしたくないんだ…。それだけの事だよ…」

 苦笑いを浮かべながら、お互いの目をそっと…見つめ合っていく。
 心に溜まっていた事を素直に口にしたせいか…晴れやかな気分だった。
 もしかしたら、この洞窟に流れる清浄な空気と水が…自分達の心に溜まっていた
澱を浮かび上がらせてくれたのかも知れなかった。

 彼らの傍らにあった懐中電灯がコロン、と転がって…水面を鮮やかに照らし出して
いく。それが実に幻惑的な波紋の光を…周辺に浮かび上がらせていった。
 その光に包まれながら…二人のシルエットは静かに重なり合っていく。

―大好き、だよ…
 
 唇が離れた瞬間、克哉はそっと呟いていった。
 それから暫くの間…ただ、気持ちを確認する為に強く抱き合っていく。
 この温もりを守る為に。
 相手の手を離さなくて済むように、強く願いながら―

 だが、元来…3という数字は不安定な数字。
 安定を求める為に、淘汰を近い内に迫られるかも知れない。

 果たしてこの物語の最後に、残るのは誰なのか…。
 この時点では、彼らはまったく予想がついていなかった―
  
 
 ―銃弾が打ち込まれてから、すでに1時間半ほど経過していた。
  二人は手分けして、ここを出て行く前の準備を始めていく。
  あれから、特に大きな動きがないのは在り難かった。
  だが、あの銃声は…こちらに対しての威嚇や、合図を意味していたのは
明らかであった。
 モタモタすれば、脱出するタイミングを逸してしまうかも知れない。
 その焦りを感じつつも…克哉は台所でリュックに数日分の食料と水を
詰め終えた後、…もう一人の自分に指示された通りの作業を克哉はこなしていた。

「…準備は、出来たか?」

「うん…言われた通りの作業は全部やっておいた。お前のフリーメールの
アカウントの方に…この携帯電話に登録されている人間の、番号とメルアドを
コピーペーストして、メール本文に打ち込んで…送っておいたよ」

「ああ、それで良い。…万が一という事があるからな。その携帯を失くしたり、
壊したりしてしまった時用の保険だ。それで少しは安心だろう…」

「うん…。けど、やっぱりお前って凄いと思う。オレはそんな処まで全然、
気が回っていなかったから。後…食料と水は、オレが背中に持って運んで
いくよ。拳銃を持って戦うお前は、少しでも身軽な方が良いだろうし」

「当然だ。一応…防弾チョッキの方は着込んでいるから、余程至近距離で
打たれない限りは大丈夫だろうと思うがな。いざという事に…両手の自由が
効く方が在り難い。こちらは…予備の弾薬も持ち歩かないといけないからな…」

「ん、そうだね。オレの方の準備は終わったよ。水も500ミリリットルの奴を6本、
非常食のカロリーメイトも…8箱、それとアルファ米や…缶詰も何個か詰めて
あるから、節約して食べれば3~4日分くらいは大丈夫だと思うよ」

 そういって、克哉はニコリと笑っていく。

―準備は出来ましたか?

 そして二人が準備完了、と報告しあっている時に…まるでタイミングを
見計らっていたようにMr.Rが台所に入っていく。

「ええ、オレ達の準備の方は完了しました。そちらは…?」

―私の方も、通路の扉を開けて参りましたよ。安易に外部からの侵入者が
入って来ないように…少々、ややこしい手順で錠を掛けてありますから…。

「じゃあ、早く隠し通路の方に案内して貰おうか。あまり長い時間…ここで
モタついていたら…確実に、ここを襲撃されるだろうからな…」

―はい、仰せのままに…。我が主よ。それでは私に…ついてきて下さいね~。

 そうして、愉しそうに笑いながら男は…地下室の方へと向かっていった。
 階段をゆっくりと下りていき、そのまま…通路の奥の方へと進んでいく。
 そして…大きな古めかしい大時計の前に辿り着いていくと…その時計の
前面部にある鍵穴に、一つの鍵を差し込んでいって…そのガラスケースと
時計の内部に続く扉の部分を開いていった。

 そして、時計の短針と長針の位置を9時15分の位置に合わせていくと…
いきなりカチッ! と音を立てて壁の向こうでゴゴゴゴ、という轟音が響き
始めていった。

「なっ…何っ?」

―こういうのは、隠し通路に付きものでしょう? 一応…ある時間帯を
合わせると山側にも繋がるんですけどね…。
 なかなかの趣向でしょう?

「…地下室のこの物々しい時計が、こんな役割を持っていたとはな…。
まあ、お前が用意した別荘なんだから、確かにこれくらいの胡散臭い仕掛けの
一つ二つはありそうなのは納得出来るが…」

―ふふ、貴方らしい物言いですね。ですが、退屈はしないでしょう?
では…二人の佐伯克哉さん、こちらへ。ああ、大丈夫ですよ…この鍵を
抜けば3分後にはこの入り口は自動的に閉ざされて侵入してきた人間は
後を追えなくなりますから。中に入れば、すぐに手動でも閉められるようにも
なっていますしね…。

「…何か、用意周到ですね。予め…用意してあったんですか?」

―ええ、当店クラブRは…お客様に万一の事が起こらないように細心の
注意を払っておりますから。ささ…どうぞ、奥へ。いつ…この別荘の中に
侵入者が入って来てもおかしくない状況ですからね…。

「そう、ですね…」

 そうして、二人は奥へと進んでいくが…何故か、Mr.Rは大時計の前から
動こうとしなかった。

「…お前はどうして、来ない?」

―私はここに残りますよ。脱出はお二人だけでなさって下さい…。

「どうしてっ!? 拳銃を持っているような奴らを相手にするんですよ…!
危険です!」

―いえいえ、大丈夫ですよ。私が、そこら辺のチンピラに…簡単に負けると
思いですか?
 それに…まだ、この屋敷に人が残っているように装えば、外にいる人達を
足止め出来るでしょう?
 心配なさらなくても…向こう側の命令系統はお世辞にも整っているとは
言い難いですし、五十嵐様が連れてきた信頼出来る部下達の何名かは…
克哉さんを連れ出すことに積極的では、ないですからね…。

「えっ…?」

―貴方が思っている以上に、五十嵐様を取り巻いている状況は大変だと
いう事です。あの方の部下の半数は、以前…克哉さんの暗殺を決意した方に
賛同している状況ですしね。特に『怪我をされてからの五十嵐様』は…
少しだけ、以前のお姿を取り戻しつつありますから…。
 何もかも目を閉ざし、闇にお心を閉ざしていた頃のあの方ではなくなっている
だけに…周りの人間は、むしろ…克哉さんに戻って来て欲しくない。
 そう考えていらっしゃる方が多いですからね…。

 その一言を言われた時、ズキン! と胸が痛む思いがした。
 …克哉は、何も言い返せなかった。
 それは…克哉が心を閉ざした、大きな要因の一つであったからだ。
 …おかしくなって、心が壊れたのは太一に言葉が届かなかったのもある。
 だが…それと同じくらい辛かったのは、周囲の人間が…自分を空気のように、
いないもののように扱うか、言葉に出さないが…明らかに嫌悪や、憎悪の感情を
向けられ続けていたことが多かった。
 太一の父親だけじゃない。かつての太陽のような太一を知っている人間から
見たら…克哉を実家に連れて来た前後から、彼は歪になってしまったのだ。

 愛する人間に、意思も言葉も封じられて…責められ続けて。
 周りにいる人間に、無視か…憎悪を向けられる。
 そんな状況が続いたから、克哉は追い詰められた。
 相談したくても…外部と連絡手段の一切を封じられて、監禁された
状況では…ただ、胸の内に抱えるしかなく。
 …最終的に食を断つことで緩慢な自殺を選んだのは…もう、それ以外に
逃げ道を作り出せなかったからだ。

「はは、そんな事は…判って、いました…よ…」

 自嘲的に笑いながら、克哉は呟いていく。
 知らない内に…泣いて、いた。
 太一の事は、好きだ。今でも愛している。
 けれど…もう、克哉はあの屋敷に二度と戻りたくなかった。
 あんな風に…周りの人間に、空気みたいに扱われるのは…辛かったからだ。
 太一が嗜虐的に克哉を抱く時、部下の誰かに無理矢理見せるような真似をする
事が何度かあった。
 けれど、最初は驚いていた彼らも…次第に、克哉に対しては嫌悪と侮蔑の眼差しを
見せるようになった。
 それが、一番…克哉には、辛かったのだ。

―それによって、太一の評判も次第に下がっていってしまったから。

 そんな真似をするようになった次期党首候補に、誰が心からついていく
だろうか?
 太一がいない日、これ見よがしに…周りの、太一の部下やこちらの世話を焼く
人間は悪口を言い続けていた。
 それで、自分の悪口を言われるだけなら幾らでも我慢出来た。
 けれど…太一まで、それで悪く言われるのだけは…本当に辛かったのだ。
 最初の頃は、太一の事まで悪く言わないで下さい! と言い返していた。
 だが、太一の部下達は…本気で、泣きながら訴えたのだ!

―ぼっちゃんを歪めたお前が何を言う!

 悪口は、関心がある相手に対しての不満や裏切られたという思いで
発する場合も多い。
 それが、克哉の棘。だから…克哉は、死にたかった。
 自分という存在が消えれば、もう太一があんな風に悪し様に陰口を
叩かれることはなくなると…そう、思い詰めてしまったから。

「だから、オレは…逃げるしか、ないんです。オレが傍にいる限り…
太一の部下達は、太一を認めないで反発するだけでしょうから…。
オレが傍にいる事で、太一を追い詰めるくらいなら…いっそ、一生…
オレは姿を現さない方が、ずっと良い…」

 そう言って、克哉は眼鏡の手をそっと掴んでいく。

「行こう! モタモタしていたら…お前の身まで危険に晒してしまうから。
それと…Mr.Rさん、ありがとう。この別荘を提供して下さらなかったら
オレは体制を立て直すことは出来なかったと思いますから。
感謝して、います! じゃあ…!」

「…判った」

 ただ涙を静かに伝らせている克哉に思う処があったが、ここで延々と
話し込んでいては、隠し通路を使って逃げる意味を失くしてしまう。
 だから眼鏡は、今だけは…余計な言葉を言わずに頷いていった。

―少々、言い過ぎてしまいましたね。貴方達二人の未来に…幸が
あらんことを、ここから祈らせて頂きますよ…

 そうして、二人の姿が隠し通路の奥に消えていくのと同時に…
Mr.Rは仕掛けを解除して、その道を閉ざしていく。

―さて、これからこのドラマに…どのような結末が待っているんでしょうかね…。
 一観客として、楽しみながら拝見させて頂きますよ…

 そうして、男は心底愉快そうに笑っていく。
 そして二人の姿は、海へと繋がる洞窟の奥へと消えていったのだった―
 
 パァン!!

 時計の単身が朝九時を告げると同時に一発の銃声が屋敷の周辺に
響き渡った。
 それと同時に、どこかの部屋の窓がパリン! と音を立てて割れていく
音も耳に届いていく。
 さっきまで自分の内側にある言葉を懸命に打ち込んでいた克哉は
その音でハっとなって顔を上げていく。

「な、何だ…! 今の、音…?」

 銃声など、日常的にそう耳にするものではない。
 動揺を隠せない様子で、辺りに視線を張り巡らせていくと…。

「おい! 『オレ』! 大丈夫か…?」

 血相を変えたもう一人の自分が、食堂に飛び込んできた。
 その顔を見て、克哉はほっとしたような表情を浮かべていった。

「だ、大丈夫…。どうやら、銃弾が打ち込まれたのは…この部屋じゃ
ないみたい、だから…」

「そうか…」

 たどたどしく克哉が答えていくと、眼鏡の方も安堵の表情を浮かべていく。
 そして…ジっと真っ直ぐな眼差しで見つめられて、ドキンと胸が大きく
跳ねていく。

「な、何…?」

「さあ? 何だろうな…?」

 ふいに、悪戯っぽく笑いながら…眼鏡が間合いを詰めて来る。
 そして…近くに来ると同時に、克哉の手をそっと掬い取って…その手の甲に
口付けていった。

「わっ…! な、何…するんだよっ!」

 克哉は思いっきり動揺しながら、顔を一気に赤らめていく。
 だが…眼鏡は、強気の笑みを口元に刻み込んでいくと…そのまま、指先にも
恭しく口付けていく。
 今までに彼にチョッカイを掛けられてきたことは数あれど…直接的に性感を
刺激される場所ではなく、そんな処にキスを落とされたのは滅多にない事
だったので、逆にドキドキドキ…と心臓が落ち着かなくなった。

「…そうしたくなったから、そうしただけだ…克哉…」

「な、何…?」

 ふいに眼鏡が、切なげに瞳を細めていく。
 その憂いを帯びた表情に心臓がそのまま破裂するかと、思った。

「…もうじき、事態が動き始める。お前は俺が守ってやる…だから、
お前も自分で、出来る範囲…自分を守れ。俺が幾ら守ろうとも、お前
自身が…命を大事にしなければ、何の意味もないからな…。
だから、約束しろ。自分でも、自分を守ると…」

 そうして、今度はパクっと指先を食まれていく。
 くすぐったいような、じれったいような奇妙な感覚が背筋から這い上がって
来るようであった。

「…うん、約束する。お前の気持ち…無為にしたくない、から…」

 そう、頷きながら答えていくと…眼鏡は嬉しそうに笑った。
 その顔を見て…克哉もそっと微笑んでいく。

「…お前が、オレを守ってくれるんだもの。オレも…オレを、大事にするよ…」

 かつては、自分など消えてしまえば良いと思った。
 本当に大事な人を傷つけて、その在るべき姿を大きく歪めてしまった罪に
心が潰れて、本当にこの世からいなくなってしまいたかった。
 そういう心が限界に達した時、水も食物も全てを受け付けなくなった。
 生命を維持するのに必要最低限のものすらも拒む事で、緩慢に自分は
自殺を図っていたようなものだった。

 けれど、今は違う。生きなくては…と思った。
 もう一人の自分の事をここまで本気に好きになるなんて、どこまでナルシストな
人間なのだろうと思う。
 だが、記憶を失くしている最中…彼の傍にいる事で、自分は息を吹き返した。
 忘れられていたから、世界に色がある事を…食物に味がある事を、そして
生きたいという基本的な欲求を自分は思い出すことが出来たのだ。
 だから、ごく自然に克哉はそれを口に出していた。
 
(…凄く、優しい顔している…『俺』…)

 そのまま、ごく自然に唇を重ねあっていく。
 クスクスと…それだけで暖かい気持ちが湧いてくる。
 今…自分は彼の傍で、笑っている。幸福感を得ている。
 それが、眼鏡の方の傍にいる事を選んだ…全ての答えだった。

―こんにちは~。お久しぶりです。…本来なら、貴方達がお幸せそうになさって
いる時に声を掛けるなど、無粋な真似はしたくないんですがね…。
 猶予は、そんなになさそうなので…。

「わわっ…!」

「ぐおっ!」

 唇を重ねて、無意識に眼鏡の唇に吸い付いていた瞬間に…いきなり
Mr.Rの声が聞こえたのでバッ! と慌てて顔を離していった。
 その反動で、思いっきり眼鏡の歯と…自分の歯がガチン、とぶつかりあって
かなりの痛みを二人共覚えてしまっていた。

「いひゃひゃ…ど、どうして…貴方、が…」

 口元を押さえながら、必死に体制を立て直しながら克哉が問いかけてくる。

―ええ、もうここに潜伏していられるのも本日までで限界でしょうから…
貴方達お二人に、手助けをしようと馳せ参じました。
 お二人には、私の方から二つの選択肢を用意して差し上げられます。
 そのお答えを聞かせて頂こうと思いましてね…

「二つの、選択肢…?」

 ここにいられるのは、本日までが限界。
 その一言を聞いた時、ついにこの日が訪れたのかと思った。
 克哉が問い返していくと…黒衣の男はどこまでも楽しげに微笑んでいく。

―ええ、そうです。一つは…この屋敷の地下にある隠し通路を使って海岸の
方まで出るルート。こちらを選択した場合…その出口の付近に、私めの方から
すでに車を一台用意させて頂いております。
 次の潜伏先の方も用意させて頂きましたから…そちらまで車で向かって
頂いて、このまま追っ手から逃げ出す。いわば…『逃避行』ルートです。
 イタチゴッコのように、いつまでも逃げ続ける。こちらを選択なされば…
貴方達二人の命が尽きるか、追っ手に捕まってしまわれるその日まで…
私が手助けを致しましょう…。

 ニコリ、と綺麗に微笑みながら…男は歌うように言葉を綴っていく。
 それは本当に楽しそうで、逆にどこか怖いものさえ感じられるような…
そんな表情だった。

「…じゃあ、もう一つのルートは…何ですか?」

―真実と、向き合うルートです

 男は、はっきりした口調で告げていく。

―この屋敷には、隠し通路が存在しますが…もう一つ、出口が御座います。
 元々、ここは私の店にいらっしゃるお客様が…貴方達のように不穏な事態に
巻き込まれた時に匿う為に用意されたものなのですがね。
 何かあった時に脱出出来るように海側と、山側の両方に出れるように
なっています。そして…山側の出口からそう離れていない場所に、
五十嵐様達は本拠地を構えておられます。
 恐らく正式な襲撃は…本日の夕方頃になりますから、その時刻ぐらいからは
その本拠地は殆ど人がいなくなります。
 そちら側のルートを選択なされば、相手の背後を取って…有利な展開に
持っていけるでしょう。
 こちらはようするに…五十嵐様と、最後に向き合う形になります。
 貴方が、あの方に伝えたい言葉や想いを抱いておられるならば、危険を
承知の上でも…五十嵐様の下へ一度向かった方が良いでしょう…。
 さあ、佐伯克哉さん。貴方は…どちらを、選択致しますか…?

 ツラツラと述べられた、二つの選択肢に克哉は…険しい表情を
浮かべていった。
 
「逃避行か、真実か…?」

「そうだ。そして…どちらの道に行くかは、お前が選べ…」

「えっ…?」

 眼鏡が、どこか真摯な表情を浮かべながらそう告げていく。

「…これはいわば、お前の問題だからな。…太一から逃げるか、向き合うか。
お前が…行きたい方を選べ。俺は…その答えに従ってやる。
だから…選べ。本心から、進みたいと思う方をな…」

「そ、んな…」

 いきなり突きつけられた選択肢に、克哉は動揺した。
 だが…眼鏡の真っ直ぐな瞳を見ている内に…彼は、こちらに選択肢を
与えてくれたのだと、克哉の意思を尊重してくれている事に気づいていく。
 この二つの道の場合、圧倒的に安全なのは海側に行って彼らの先手を
打って次の潜伏先に向かうことだ。
 だが、それは…男が言ったように、イタチゴッコをこれからも繰り返す
事に繋がっていく。
 逃げ続ける事は、一時的に体制を立て直すのに有効でも…大抵は根本的な
解決に結びつかないことが多い。
 逆に後者のルートは、危険が伴った。
 銃を持っているヤクザの集団を相手に、太一の元へと向かっていって…
直接言葉を交わす、という手段だからだ。
 
 こんなの、本来なら考えるべき事じゃない。
 前者の道を選んだ方が良いことぐらいは判っている!
 だが、自分の胸の中で何かが叫んでいる。
 今、すぐ其処に太一がいるのならば…こちらが捕獲されて強引に連れ戻されると
いう形ではなく、それ以外の方法で対峙したかった。
 けれど、それは眼鏡の身を危険に晒す事に繋がっていく。
 克哉にとっては、眼鏡は大切な人間だ。
 だから…我侭を押し通す事は、彼の命を危うくするのに繋がる。
 
「…逃げます。本当なら、太一と向き合いたいけれど…一対一の状況なら
ともかく、銃を持っている人間がいる状態で突き進むことは…『俺』の
命を危険に晒す事につながりますから。
 だから、俺は逃げます。…伝えたい言葉は、手紙かメールという形で…
自分の中で整理がついたら、太一にちゃんと伝えます。
 ですから…海側のルートに…案内して、下さい…」

―判りました。それでは、とりあえず朝食を食べて下さい。
 腹ごしらえと、お二人の準備が済みましたらご案内致しますよ…
 本当に、後悔しないんですね…?

「はい。もう一人の自分の命を掛けてまで…自分の我侭を押し通すべき
ではない。それがオレの答えですから…」

 そう、はっきりと克哉は…決意しながら告げていく。
 だが、彼は…知らなかった。

―この屋敷にはすでに何箇所か、盗聴器が設置されていた事を。
 そして…今の彼の言葉は、部下を通して…太一に告げられてしまっていた。

 海側に、彼らが逃げるという事実は…皮肉にも、そのような形で相手側に
筒抜けになってしまったのだった―



 
―眼鏡とMr.Rが別の部屋で対峙していた頃、克哉は朝食の準備を
終えて、静かにもう一人の自分が来る事を待っていた。

「…あいつ、来るの遅いな。窓から、様子を見てくるって言ってさっき…
この部屋を出て行ったけれど…。何かあったのかな…?」

 洋風の大きなテーブルの上で頬杖をついていきながら克哉は
大きな溜息を突いていった。
 この暑い時期に、部屋中のカーテンを閉め切っているせいか…エアコンを
起動させていない処はどこも暑かった。
 机の上には二人分の朝食が並んでいる。
 まだ作ったばかりなので、トーストも目玉焼きもホカホカと湯気を立ち上らせていた。

(呼びに行った方が良いのかな…?)

 ふと、そんな考えが過ぎったが…どうにか打ち消していく。
 克哉自身も、ここ数日でこの屋敷の身辺が酷く慌しい事は気づいていた。
 三日前から、窓から視線を感じて、もう一人の自分は…カーテンを閉めて、外部に
簡単に姿を晒さないように指示を出していた。
 とは言っても、人がいる家を…いないように振る舞うのは限界がある。
 現代の生活では、照明、水道、ガス、電気の類を使わないで生活するのは
かなりの不便が伴うし、どれだけ巧妙に隠しても…電気メーターを見れば一発で
屋敷に今、人がいるかどうかは判ってしまうものだ。
 自分よりもそういった細かいことに見通しが利いてしまう分だけ、『俺』が
どれだけ神経をピリピリさせながら過ごしていたかを良く知っていた。
 その事を思い出して、深く溜息を突いていく。

「…本当に、迷惑ばかり…掛けて、いるよな…」

 ギュっと唇を噛み締めながら、苦い顔を浮かべていった。
 二人でいる時は、出来るだけ心配を掛けたくないから…笑顔を浮かべるように
努めていたせいで、ドっと疲れが出て来た。
 もう一人の自分への強い想いと、申し訳ないという気持ちが克哉の中でない交ぜに
なっている。
 室内が静かなせいだろう。壁に掛けてある立派な時計の秒針の音が酷く大きく
耳に響いてくる。
 その音と、こちらの鼓動の音が妙に重なって…緊張していった。

「………」

 ふと、携帯を開いていく。
 そして…何通も、何通も書き掛けたメールを読み返していった。
 その宛先は「五十嵐 太一」。
 相手がこちらの番号を今でも消していないように、克哉の方も…番号やメルアドは
アドレス帳に残ったままであった。
 其処には、彼に伝えたいと思った自分の言葉のカケラが無数に打ち込まれている。
 けれど、それは綺麗に纏まらず…未送信のまま、未送信フォルダに残されていた。
 眼鏡は、警戒の為に屋敷の中や外を巡回したり…銃の訓練の為に1~2時間程、
克哉と別々の行動を取る事が多かった。
 その間に書き綴られた、言いたい言葉。
 胸の中に詰まっていた何かを、こういう形で吐き出すことによって…克哉の
心は、日々…少しずつだが整理されていったのだ。

(今でも、太一の事を…オレは、愛しているんだな…)

 自分で書いたメールの文面を読み返して、しみじみとそう思った。
 『書く』という事は、自分の想いがそのまま…文面に表れる。
 それで…ぼんやりとだが、克哉は自分の本心が見えた気がした。
 そう、自分は太一を愛している。
 記憶を思い出して数日が経った今、その事実を彼は静かに認めていた。
 けれど、それ以上に…克哉の中では、もう一人の自分の存在が大きくなって
しまっていたのだ。
 
「…二人共、良く…こんなオレを本気で愛してくれているよな…」

 太一も眼鏡も、自分に対して真剣な想いを寄せてくれている。
 その事実が嬉しいと思う反面、酷く克哉にとっては重かった。
 どちらかの手を取らなければならないのなら…もう一人の自分が良い。
 そう考えて、あの日…電話応対したけれど、記憶が鮮明になると同時に…
本当にそれで良いのか、と迷う心が生まれて来た。

 どちらを選んでも、自分も選ばなかった方も深く傷つけていく。
 だが、真剣な気持ちを持ってくれているからこそ…中途半端なことを
したくなかった。
 同時に、ここ数日…酷く後悔していたのだ。
 胸の痛みに躍らされて、あんな言い方をしてしまった自分自身を。

 だからここ数日、単独行動をしている間は…少しでも太一に、こちらの
真意を伝えたくて何度も何度も、こうやってメールを打ち続けていた。
 試行錯誤な毎日。
 けれど、歪なものになってしまったとは言え…真剣に愛した人間に、
何か、を伝えたいと克哉は思っていた。
 真実を傷をつけるならば、せめて…その想いを。
 自分を庇う為に、目を逸らすのではなく…本気で向き合って、太一に
気持ちを伝えたかった。

―けれどそれを、どうやって伝えれば良いのか克哉は迷い続けていた

 人を傷つけない為に、人と当たり障りなくしか接してこなかった。
 本気で本音をぶつけあったり、ケンカなどした経験がなかった。
 心を殺して、人に合わせる生き方をずっと続けていた克哉には…それは
ひどく難しいことで。
 迷いながら、それでも15分程…必死にまた、メールを打ち込んでいった。

―それはまた、完成するには遠い想いのカケラ。
 だが、一言一言…紡いでいくことで、自分の中で確かに組みあがっていく。

 自分は確かに、もう一人の自分を選んだ。
 それによって、太一を傷つけた。
 けれど…だからこそ、自分は言わなければいけない事があると思った。
 伝えなくてはいけない想いを、今度こそ向き合って告げなければならないと
覚悟を決めていた。

 真実とは、常に人を傷つける要素を孕む。
 本当の事から目を逸らし、傷つかない生き方をすれば…楽には
なるだろう。
 けれど、其処に本当のものなど生まれはしない。
 道に迷いながら、間違いながら…克哉は、自分が取るべき道を
発見し始めていく。

 其れが、彼の心の中で完成して、一つの結晶となるのは…もう、
間近の事であった―

 
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HN:
香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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