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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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 ―眼鏡が一日だけ、人気のない別荘地を離れた日。
  あの日は本当に、色々な意味で全てが動き始めた日であった。
  その事をつくづく実感していきながら、自室に使っている部屋の
カーテンの隙間から望遠鏡で眼鏡は周辺をさりげなく見回していた。

(ちっ…日増しに、監視されている目は増えているみたいだな…)

 苦々しく舌打ちをしながら、自分達を見張っている男達を凝視
していく。
 目立たないように…一日だけのさりげない下山のつもりだった。
 元々、辺鄙な所である。
 だからここから、一番近くの繁華街に短い時間行くだけならば…
見つかることはないだろう、とタカを括っていた部分があった。

(伊達に…関西方面のヤクザを統べる立場ではない、という事か…)

 良く任侠物などで、ヤクザの親分や幹部の顔に泥を塗ったり、
その命を狙ったりすれば地の果てまでも追っ手が追いかけて来て…と
いう場面や記述があるが、今…自分達が立たされているのはまさに
そんな立場であった。

 あの日から、三日。
 自分が留守にしている間に…何となく克哉の態度もそれまでとは
若干異なったものになっていた。
 帰って来た日に、克哉の姿がなくて焦燥に駆られた日。
 泣き腫らした顔をしながら、何かを覚悟した彼は…それまでよりも
芯の強さのようなものが、戻って来ているようだった。
 今だって、朝食の準備は彼の方がしてくれている。
 だからこうして…眼鏡の方は、この屋敷の周辺に現在、どれだけの
人間が監視という名目で張り付けられているか、気を回す事が出来た。

(常時…3人から4人ぐらいが、この屋敷の周辺に配備されているって
いう感じだな…。恐らく、ここだとはっきりとは確証は持たれていないが…。
この近隣に俺たちが潜伏している、という目星ぐらいはつけられているな…)

 ここ数日、さりげなくこの付近に建てられている別荘地を歩いているだけでも
以前と違って、「見られている」ような感じが強くなっていた。
 眼鏡は素人なので、どこに人が隠れているかまでははっきりと判らない。
 けれど、「人の目」や「常に見られている」ような奇妙な感覚が…三日前を
境に増えているのは確かだった。

 こうなると、今は人の気配がない時期である事がむしろ…マイナスに
なっていた。 
 自分達の使っている屋敷を含めて、シーズンオフであるこの時期に
明かりが灯っているのはそんなに多くない筈だ。
  逆に夏休みに入って、多くの人間が出入りするようになれば…もう少し
隠れている事も出来たかも知れない。
 だが、もう…この屋敷に自分達がいる事は恐らくバレてしまっている。
 もう、ここで過ごしていられる時間は…後僅かである事を、彼は覚悟
するしかなかった。

(…次にどこに逃げれば良いのか、俺には見当がつかないな…)

 此処ほど、潜伏するのに良い条件を満たしている場所は他になかった。
 Mr.Rから提供されたこの別荘を出た後、自分達が隠れる条件を満たした
場所は果たしてすぐに見つかるだろうか。
 そして…彼を連れて、どこまで自分は逃げ続けていられるのだろうか?
 同時に、いつまでこちらは…この世界に存在していられるのか?
 一度考え始めていくと…不安のタネは尽きなかった。

(…チッ、酷くネガティブな思考回路だな…俺らしくもなく…)

 こうなると、克哉の身体がせめて以前と同じように動かせるようになっている
事だけでも在り難く思う事にした。
 正直、目覚めた直後の身体の自由の効かない彼を連れてだったら…
眼鏡も守り切れるかどうか自信はなかった。
 ふと、自分の胸ポケットに常に収めてある…一丁の拳銃。
 使い方を謝れば、あの桜の日のような悲劇を起こしかねない武器。
 その硬い手触りを服の上から確認していくと、瞼をぎゅっと閉じていく。

―本当に俺は、あいつを守り切れるのか…?

 一対一であるなら、負ける気はない。
 この二ヶ月、毎日のように訓練を重ねて…命中率の精度は上げて来た。
 だが、多人数を相手にした場合は…予想外の事が起こる可能性はグンと
跳ね上がっていく。
 監視の状態でも、常に3~4人。
 後、何日かすれば…じきじきに太一も、克哉を取り戻す為に
訪れるかも知れない状況。

(あいつを、俺は…手放したく、ない…)

 克哉の心が、こちらに向けられているというのならば…絶対にもう
その手を離したくなかった。
 結ばれてから、二週間足らずの間に沢山触れてきた克哉の笑顔。
 それを脳裏に思い描いて、彼はそっと覚悟していく。

「…悩んでいても仕方ないな。そろそろ朝食が出来る頃だろう…」

 昨晩は、遅くまでベッドの上で睦み合っていた為に…今朝は
朝食と言っても普段より遅い時間帯になってしまっていた。
 セックスしている最中に踏み込まれたら、一溜まりもない事は
自覚しているので…お互いに完全に衣服を脱ぎ切らず、周囲に
常にアンテナを張り巡らせながら克哉を抱くのは、同時に酷く
スリリングで…彼の血を沸き立たせていた。

―ドクン

 その興奮を思い出して、武者震いのようなものを感じていく。
 この状況は、他の人間からすれば…絶望的な状況だろう。
 周囲に頼る人間は誰もおらず、大勢の舎弟を抱えている相手と
戦っていくのだから。
 だが、彼は同時に…それに酷く闘争本能を刺激されているのも
事実だった。

(やってやるさ…少なくとも、この状況は…退屈する暇なんて、ないからな…)

―それでこそ、我が主と成りうる資格を持っておられる方です…

 そう、決心してキッチンの方へと向かおうとして…窓から背を背けた
瞬間、歌うような声が聞こえていった。

「っ…!」

 あまりに突然の事に、とっさに振り返っていくと…。

―お久しぶりですね、佐伯様。今現在、貴方は佳境に立たされている
ようですから…ほんの少し、助言しに伺いました…

 と、ニッコリと黒衣の男は…悠然と微笑み、眼鏡の元へと歩み寄っていく。

 ―その姿が、眼鏡にとっては…何故か、良く神話か言い伝えで語られている
死神のようにすら感じられたのだった―


 
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 ―太一が、克哉の携帯に一か八かで電話を掛けた日から、
すでに三日が過ぎようとしていた。
 あの日を境に、今までまったく足取りを掴めなかったあの二人の
潜伏場所を探り出すことに成功し、驚異的な速さで太一は
五十嵐組の自分達の配下を20人程、動員して…その土地へと
向かっていた。

 太一が乗っているのは全部で8人が乗れる大きめのワゴン車だった。
 マツダのボンゴフレンディ。ゆったりとした間取りが取られていて天井の
ルーフと呼ばれる部分を開ければ立って移動するのにも苦にならない
構造になっている。
 移動中に、太一が横になって寝られるように…5人前後、特に
一番後ろの三連の座席は彼に宛がわれていた。

 五十嵐組内での、自分の直属の部下がこの車には乗車している。
 深夜の高速道路を走行中、こちらの安眠を妨害しないように…同乗の
者達は一言も言葉を発していなかった。
 ただ、耳に届くのはエンジン音と…走行中に僅かに入り込んでくる音のみだ。
 車内全体が、一定の間隔で規則正しく揺れている。
 規則正しい振動は、睡眠を誘発すると良く言われるが…今の太一は、とても
眠れる心境ではなかった。
 否、ここ三日間くらい…まともに眠れなかった。

(…ちくしょう…!)

 心の中で舌打ちをしていきながら、半分だけ身体を寝返らせていく。
 やはりベッドや布団に比べて、車の座席部分は面積が狭い為…慎重に
身体の位置を変えていかないとそのまま落下してしまいそうだ。
 心も身体もクタクタに疲れ果てているのに、安らかに眠れそうにない。
 三日前までは、全てを片付ければ克哉が戻って来る。
 そう信じて事態の解決に手を尽くしていたから、傍にいなくても…どうにか
耐えることが出来ていた。
 だが、こちらを拒む克哉の言葉が…今も太一の胸に突き刺さって、
チクチクチクと…鈍痛を与え続けていた。

「克哉、さん…」
 
 切なげに、太一はその名を呟いていく。
 脳裏に浮かぶのは、かつての…優しく微笑んでいる姿だった。
 彼の事を考えれば、真っ先に浮かぶのはその表情だ。
 正式に知り合いになる前から…ずっとあの人の事を知りたいと
思っていて、父親が経営している喫茶店に初めて顔を出してくれた
日に、やっとフルネームを知る事が出来た。
 その笑顔が、好きだった。

 自分の好きなバンドを、この人も好きだと知った時…嬉しくて嬉しくて、
こうやって知り合えたのは運命なんだ! と青臭いことを考えた。
 ダンダンと仲良くなれて、一緒に過ごす時間が増えていったことが
嬉しくて仕方なくて。
 心の中に芽生えた想いは、会えば会うほど…次第に大きくなって
膨れ上がっていくようだった。
 日増しに好きになって、もっとこの人の事を知りたくなって、次第に
独占欲まで強くなっていった。
 あの一件が起こる前には、太一は自分の中の想いが『恋』にまで
昇華している事に気づいていた。
 だから、彼はショックだったのだ。
 本当に好きな人が眼鏡を掛けた瞬間…別人のように豹変して、
自分を無理矢理、犯した事が…。

(克哉さん…何でなんだよ。どうして、眼鏡を掛けたあいつと、克哉さんが
同時に存在していたんだよ…。どうして、あいつの元で過ごしている内に…
俺の事、拒むようになっちゃったんだよ…っ!)

 そう、喫茶店ロイドで起こったあの一件からすでに一年と数ヶ月程、
経過している。
 その内、太一が克哉を実家の屋敷に監禁していたのは一年程だ。
 今思い返すと…その辺りから、克哉は自分に対して従順な態度を
取るようになった。
 けれど…あの頃の自分は、償いと称して…自分に従順に接する癖に
瞳で何かを訴えかけている克哉を腹立たしく思っていた。
 啼かせて、屈服させて…何もかも、こちらの思い通りにすれば…
その苛立ちはいつか晴れるか、と思った。
 だから太一は欲望のままに克哉を弄り続けた。
 
 幾ら止めてくれ! と克哉が懇願しても、聞いてやらなかった。
 そうやって彼がまだ瞳で何かを伝えようとしている時期に一切、こちらは
耳を傾けなかった。
 何ヶ月もそうしている内に、彼の目からは光と力が消えて…気づいたら
ガラス玉のように虚ろになり、何も映さなくなった。
 そしてそれ以後の記憶は…太一自身にもうろ覚えだった。

―思い出したく、ない…!

 絶望に駆られた自分が、そうなった克哉に何をしたか…太一はすでに
具体的に思い出せなくなっていた。
 ただ、その時期…克哉の心を戻したい一心で、今まで以上に熾烈なことを
彼にし続けていった。
 その結果、克哉の四肢の黒い痣と…肌の無数の傷跡がその身体に刻まれて
消えなくなった。
 克哉の心を、言葉を無視し続けた結果…その心が見えなくなって、必死に
足掻いて、泣き叫んで…人形のように虚ろになった克哉。

 桜の花が舞い散る頃には、もしかしたら…自分も半ば狂っていたのかも知れない。
 あの人の心がただ、欲しかった。
 以前のように優しく微笑んでくれればそれで良かった。
 なのに、あの人は笑ってくれなくなった。
 好きだから、ではなく、自分を傷つけたからその償いで…という偽善じみた理由で
自分に何もかも奪われることを受け入れた克哉に…どうしようもなく、苛立ったのだ。

―克哉さん、克哉さん…!

 辺りは真っ暗で、静寂に包まれている。
 すぐ近くに配下がいたって、そっと…されていたら、同じ空間にいても…
いないのと一緒だ。
 静寂は、人の中の…奥深くに埋めていた本心を浮き彫りにさせていく。
 外界の刺激がある状態では、決して気づけない事実。
 そして…見たくないものまで、ゆっくりと自分の心の中に浮かび上がる。

―貴方の笑顔を、見たいんだ…!

 だからだから、このまま…貴方の言葉なんて受け入れたくない!
 貴方は俺のものだ! 
 他の誰かが貴方を愛するなんて、許せない。
 俺以外の誰かを貴方が好きになるくらいなら…いっそ…。

「…いっそ、この手で…」

 そこまで、呟いた時…自分の掌が赤く染まる幻を見る。
 これは、想像で描いた克哉の血。

―ヒラヒラヒラ、と桜が再び舞い散っていく。
 決して消えないあの夜の記憶が再び彼の中に蘇る。
 大きな桜の木の下…倒れている克哉は、果たして…どちらの克哉
なのだろうか?
 
 約束しておきながら、自分の元に愛する人間を返さなかった…眼鏡を
掛けた方か。
 それとも、電話口で自分を拒絶する発言をした克哉か。
 どちらの克哉の方が、自分は憎いのかももう判らない。

 ともかく、闇! 闇! ドロドロドロドロ…と暗いものが自分の中に
滲み上がると同時に、赤い血が更に鮮やかに彼の掌に広がっていく。

 ―嗚呼…もう自分は狂ってしまっているんだ…!

 素直に、納得してしまった。
 そう…彼は恋の裏側に潜む狂気に身を浸してしまっていた。
 求めるのはただ一人、克哉だけ。
 あの人が笑ってくれるならば…俺は、俺は…!

―何が出来るんだ?

 ふいに、何も浮かばなくなった。
 ただ在るのは求める心だけ。
 自分の中に空いてしまった空っぽの部分を、ともかく克哉で満たしたかった。
 この空洞を作ったのは、克哉。
 
 かつては胸に満たしていたものがあった。
 だが、もうそれは忘れてしまっていた。
 自分にとって大切だったもの。掛け替えのなかったもの。
 それが徐々に、焦燥によって埋もれて見えなくなっていく。

 誰しも、自分の心の中に宝石となる大切な想いがある。
 だがそれは…自分と向き合わなければ、見失ってしまうものだ。
 太一は、見失ってしまっていた。
 自分が笑う為に必要なもの。
 克哉を真の意味で取り戻すことに大切なもの。

 何度も何度も、太一は眠れないまま…何度も座席の上で寝返りを
打ち続けていく。
 後、3~4時間もしたら目的の場所に辿り付くと…小声で運転している
若い男に告げられていった。

(眠らないとな…)

 いつまでも、眠れないとか甘ったれたことを言ってても仕方ない。
 これからは…正念場なのだ。
 少しでも目だけでも瞑って、身体だけでも回復しておかなければ…大事な
時に身体が動かなくなってしまう。
 だから、一旦心に蓋を閉めて…ただ、休む事だけに集中していく。

―克哉さん

 無自覚の内に、天井に向かって微かに手を差し伸べていく。
 それは一瞬だけ見た、儚い幻想。
 瞬きする間だけ…克哉の顔が、脳裏に鮮明に浮かんでいった。
 その笑顔は、どこまでも優しくて、穏やかで、懐かしい―

―彼が失くしてしまった、宝物そのもののようだった

 数時間後。
 夜明け前に、彼が乗ったワゴン車は…目的地に辿り付いていく。
 そして、最後の幕は開けていく。
 彼ら三人が織り成す、この物語の決着がつくその時は…
もう、間近に迫っていたのであった―
 
 
  
 
 

 ―眼鏡が帰って来た時には、克哉の姿はどこにもなかった。

 彼らが寝起きしている別荘のどの部屋にも明かりはついておらず、必死に
探索したが…どこにも、いなかった。
 最初は、こちらを待ちくたびれて寝ているのかと思った。
 だが…自分とあいつが、就寝に使っている部屋のどちらにもその姿は
見えなかった。
 むしろ、今朝…克哉が寝ていた部屋は、窓もドアも開けっぱなしの状態で
放置されているのを見て、ゾクリ…と悪寒めいたものが走った。

「あいつは一体…どこに行ったんだ…?」
 
 窓から風が吹き込んで、薄い水色のカーテンが風によって微かに
靡いている。
 今夜は風があるせいか、どこか肌寒く…だからこそ、明かりの灯っていない
別荘の一室一室が、とても閑散として感じられた。
 
(…まさか、俺を尾行していた奴らに先回りをされて…連れていかれて
しまったのか…?)

 さっき、街からこの別荘へと戻ってくる道の途中で…彼はずっと一台の
車につけられていたのだ。
 たまたま行き先が同じなだけかも知れないが、こちらがスピードを
頻繁に変化させて走行ペースをランダムな状態にしてもずっとくっついて
いたので…途中の視界があまり効かずに道が入り組んでいる地点で
カーチェイスに近い立ち振る舞いをして、どうにか眼鏡は撒いて来たのだ。
 それで大幅な迂回をせざる得なかったのでこうやって、夕方までには
帰る予定だったのに…こんなに遅い時間になってしまったのだ。

 スウっと青ざめるような思いをしながら、眼鏡は…次第に荒っぽい
動作になりながら次々と空き室のドアを開け放って、もう一人の自分の
姿を追い求めていく。

「どこに、いるんだ…! オレ…!」

 けれど、そのまま全室…彼には存在を隠している射撃場まで探したというのに
やはり克哉の姿はなかった。
 その事実に焦りを覚えていく。
 どうして…もう一人の自分の姿がないのか。
 
「いるんなら、答えろっ…!」

 だが、そうやって大声で呼びかけ続けてもその後に静寂が広がるばかりだ。
 窓の向こうには壮大なまでの星空が広がっている。
 この辺りの別荘地にはまだ、殆ど人はやってきていない。
 そのおかげなのか…人家の明かりは最小限で…都会では拝めないくらいの
鮮やかな星空を場所によっては眺められた。
 漆黒の闇の中、自分一人だけがこのやたらと広い別荘の中にいる現実に…
恐怖すら覚えていく。
 早く、あいつがどこにいるかだけでも確認したかった。
 よりにもよって自分がいない日に…どうして、と責める気持ちが湧いてくるのと
同時に…眼鏡が持っている携帯が鳴り響いていった。

「っ…!」

 突然、上着のポケットに収めておいた携帯の着信音が周囲に響き渡ったので
つい驚いてしまったが…その発信源を見て、瞠目半分…安堵半分の、深い
溜息を漏らしていく。
 それは…もう一人の自分からの、着信だった。

(あいつからだ…!)

 そう思って、通話ボタンを押して応対していくと…。

―こんばんは。帰って来ていたんだね…。別荘の窓に明かりが灯っているのに
今、気づいたから…慌てて電話掛けたんだ。
 御免…心配、させちゃったね…。

「それは良い! だが…黙ってどうして出ていった? あれだけ昨日…
ここを動くな、と言ったのに…」

 紛れもなく電話の主が克哉である事を確信して、眼鏡はやっと少しだけ
落ち着いていく。
 だが、それと同時に…かなり憤っていた。
 押し殺した怒りが、知らず語調の端々に滲んでしまっていた。
 それを感じ取って、克哉は怯えたように…だんだんと声を小さくしていった。

―…御免。今日…お前がいない間に、さ…ちょっとした事がキッカケで
色んな事を急激に思い出してしまったから。だから…ちょっと混乱しちゃって。
 気を沈めたかったから…ちょっと海岸の方まで出て、波の音を聞いていたんだ…。
 前にどこかの本で、波の音を聞くと心をリラックス出来るって…そんな話を
聞いたことがあったから…
 
「なっ…思い出したって、どこまでをだ…?」

―オレと太一が出会った頃の記憶までを、殆ど。抜け落ちていた部分の殆どは
今日…思い出したよ。だからね、一人になりたかった。
 …心配掛けて、御免。後5分か10分くらいで…別荘の方には戻れると思う。
 それまで、待ってて…

「判った。待っていてやる…。この辺りは街灯もないから、足元に気をつけて
慎重に戻って来い。…気長に待っていてやるから…」

―ありがとう

 最後にそう告げて、克哉からの通話は切れていった。
 だが…眼鏡の方の心中は穏やかではない。
 眼鏡と克哉は、大部分の記憶と体験を共有している存在だ。
 だから…一番間近で、克哉がどれだけ太一の事を想っていたかを知っている
立場でもある。

 ザワザワザワ…と胸がざわめいて、荒ぶっていくのが判る。
 気長に待っていてやる、と強がりを吐いたが…少しでも早く相手の顔を
見たい気持ちでいっぱいになっていった。

『早く、戻って来い…!』

 心から、彼がそう祈った瞬間…玄関の方で、大きくドアが開け放たれる
音が響き渡っていった。
 それを聞きつけて、眼鏡は慌てて…そちらの方角へと走り出していく。
 
「克哉っ…!」

 名を呼びながら自分の半身の元に駆け寄っていくと、その有様に
ぎょっとなっていった。
 泣き腫らした目に、青ざめた顔。
 一目見ただけで何かあったと判るぐらいに…酷い有様だった。
 けれどその瞳だけは、強く輝いていた。

「…御免、心配掛けちゃって。けど…大丈夫、だから…」

「お前、何を言って…」

「大丈夫、なんだよ! これは…オレの問題、なんだから…」

 そういって、克哉ははっきりと言っていく。
 
「…オレは、お前にただ守ってもらったり、縋るだけの足手まといに
なりたくない…。だから、思い出してからの心の整理を、一人でつけて来た。
それだけ…だから…。だからこれ以上、心配しないで…良い」

 そういった克哉の表情は、しっかりとしたものだった。
 そう…太一と会話を交わした直後、彼の心はまさに大嵐が吹き荒れている
ような酷い乱れっぷりだった。
 必死になって、もう一人の自分が帰って来ることだけを祈った。
 夕暮れになれば、彼に会えると。
 そして泣きつくことだけを考え続けていた。
 
 けれど予想に反して、彼が21時を過ぎても帰って来なかった時。
 ふと克哉は気づいたのだ。
 …このまま、眼鏡に縋りついて自分の心を宥めることだけを考え続けていて
良いのだろうか、と。
 彼は言った。命を自分は狙われていたと。
 そして、太一は関西方面を束ねるヤクザの大親分を祖父に持ち、今はその
跡取りとして扱われている。
 こちらに激しく執着しているそんな太一の手から逃れたら…今、傍にいるもう
一人の自分はどうなるだろうか。
 そこまで考え至った時、彼は…しっかりとしなければ、と思った。
 今でも胸は痛かった。
 苦しくて、張り裂けそうになって気を緩ませれば葛藤によって、涙が零れそうに
なる。けれどどうにか…彼は押さえ込んで、儚いながらも微笑を浮かべていった。

「オレは、お前を好きだから。だから…ただ、お前に守られているだけの
存在には、なりたくないんだ…。せめて、自分のことは自分で整理つけて
しっかり立てるような…それくらいは、したいんだよ。
好きな奴の重荷になるなんて…冗談じゃない、からな…」

 そうやって、微笑む克哉は…強がっていた。
 けれど、それもまた彼が選んだ道だった。
 彼が帰ってこない間、沢山泣いた。
 泣いて、泣いて…そのまま体中の水分が無くなってしまうんじゃないかって
ぐらいの量の涙を流し続けた。
 だが、そうやって感情を発露した事でやっと心の整理はついたのだ。
 そして、本心が見えてくる。
 自分の心の奥底に眠っていた、宝石のような思いもドロドロと目を背けたくなる
ような醜い思いとも、やっと向き合えた気がしたのだ。

「そう、か…」

 自分のいない間、何かがあったことは眼鏡は察した。
 けれど…それ以上は深く聞かなかった。
 眼鏡とて、同じなのだ。
 自分だって本当に悩んでいたり苦しんでいる事は簡単に人前に晒せない。
 だから、それ以上探るようなことは言わないで無理に微笑んでいる
もう一人の自分の身体をそっと抱き締めていってやった。
 その時、克哉は弱々しく…こう呟いていった。

「ありがとう…傍に、いてくれて…」

 その一言に…眼鏡は微笑していきながら無言で、静かに…ただ腕に
力を込めていく。
 克哉もまた、待ち望んでいたその胸の中に…目を伏せて、顔を
埋めていった。
 その後は、ごく自然に…唇を重ねて、相手をただ貪るように
激しく身体を重ねる流れとなっていった―

 言えない想いと決意。
 言葉に出来ない、苦しみと悲しみ。
 それらがグルグルグルと心の中で渦巻いていて、嵐のように吹き荒ぶ。
 言い尽くせない代わりに、二人はただ…今はただ相手にお互いのむき出しの
感情をぶつけていくしか出来ない。
 
 ―夜更けまで、彼らはただ…玄関で激しく相手を貪り続ける。
   それでも、どれだけ深い快楽を感じても身体を重ねても…今は決して
自分達は一つには戻れない。
 その事実が、彼らには切なかった―

 
 
 
 

 どれだけ後悔しても、過去に戻ってやり直すことは出来ない。
 道を誤ったことに気づいて、何が原因だったかその原因がいつか
見えたとしても…それは過ぎてしまった後では『未来』にしか生かせない。
 未だに己の犯した最大の罪を自覚していない彼が、太一と言葉を
交わす事は果たしてどんな流れを生み出してしまうのだろうか―

 ―太一の嬉しそうな声を聞いて、克哉は固まるしかなかった。
  どんな反応をすれば良いのか、判らない。
  相手が嬉しそうであればあるだけ、胸の中に大きな棘が突き刺さって
いくような気がする。

 カタカタカタカタ…。

 自分から、電話を取った癖に…携帯を握り締めている指先が小刻みに
震えていた。
 一体、どの面を下げて彼と応対出来ると言うのだ?
 忘れていたからと言って他の男に抱かれて、心から…その相手を
好きになってしまった。
 その事実が…記憶を取り戻した今となっては…痛かった。
 けれど、もうなかった事になど出来なかった。

「………」

 相手の嬉しそうな声が聞こえてから、克哉が取れた態度は…沈黙のみだった。
 それ以外に何を自分が言えるというのだろうか?

(…今のオレには、太一に何て答えれば良いのか…判らないよ…)

―ねえ、克哉さん。どうしたの? 何で、返事をしてくれないの…?

 太一の切なげな声が聞こえてくる。
 それを聞いてようやくハっとなった。

「っ…!!」

 とっさに、当たり障りのない言葉を吐こうとした。
 けれど、声が震えてまともな単語を紡げない。
 だが途中で詰まって、心の中では激しい感情が吹き荒れて…
堪え切れずに涙だけは流れ続ける。
 言えない言葉、伝えたかった一言…それが確かにある筈なのに、それは
克哉の中でまともに形にならず…代わりにポタリ、ポタリと涙を零すことでしか
感情の発露が出来なかった。

(どうすれば…良い、んだ…!)

 困ったように視線を張り巡らせると…ふと、自分の腕に刻まれているもう一人の
自分の痕跡に気づいた。
 …抱かれるようになってから、毎晩毎晩…つけられている赤い痕。
 それが、今の自分の立ち位置を思い出していく。
 
―克哉

 いつの間にか、触れている時に…愛しげにこちらの名を呼ぶもう一人の
自分の姿が喚起されていく。
 思いを確かめ合ってから、飽く事なく上書きされる…独占欲の証。
 
(そうだ…オレは、選んだんだ…。もう、二週間前に…あいつの手を
取る事を…)

 かつての自分の、胸を焦がすような太一への想いを思い出して正直…惑った。
 けれど、それは過去に過ぎないのだ。
 幾ら最初はここ一年の記憶がなかったとしても、それでも…その日々の間に
眼鏡の存在が自分の中で大きくなって、気づけばこちらもまた…彼を想うように
なってしまった。
 どれだけ…苦しくても、それが現実なのだ。

―ねえ! 克哉さん…! 何でさっきから何も言ってくれないんだよ! もう…
俺の傷も癒えたし、親父が貴方の命を狙っていたこともこっちで手を打って
解決した。だから、もう…戻って来てよ。
 全てが片付いたら返してもらうって、あいつにも確かに言った筈だし!
 克哉さんがいない日々に、俺…もう耐えられそうにない、から…!

 その言葉を聞いた時、ズキンと胸の奥が軋む思いがした。
 …この二ヶ月の間に、太一にとっては克哉を一旦手放した理由の全ては
片付けたのだ。
 だから、こうやってもう一人の自分と共に暮らす必要はすでに存在しないのだ。
 ここで頷けば、終止符を打つことになる。
 けれど克哉は―頷かなかった。

『御免、太一…オレはもう、戻らないよ』

 ようやく、まともに…言葉が口に出せた。
 たった今、こちらを強く求めている言葉を吐いた彼に対して…それを拒む
事を言うのは辛かった。
 けれど、言わなければいけないのだ。
 もう…時間は戻せない。
 過去をなかった事にも出来ない。
 どんな道のりでも、自分が選んだことに変わりはないのだ。
 それなら、その選択に対して責任を持つしか…出来ないのだから。

―な、に言っているんだよ…! 克哉さん、それ…マジで言っているのかよ!

『ああ、マジだよ。オレは…太一の元に、戻らない…。オレは、太一を歪めてしまった
元凶だから。そんな奴が…お前の傍にはいられないよ…』

 夢に満ちたかつての彼の姿を思い出す。
 自分に将来の夢を語って嬉しそうにしていた太一。
 その夢を結果的に捨てさせたのは自分の存在なのだから。
 それに…今の克哉はもう一人の自分の事を愛してしまったのだから…。
 そんな状態で、どうして帰れると…言うのだろうか。

―ふざけるなよ! 俺はあんたを手放す気なんてない! 克哉さんは
俺のものなんだから…!

『オレはいつ、太一のものに…なったの?』

 静かな声で、克哉は告げた。
 その一言を発した瞬間…太一は電話の向こうで、凍りついた。
 今度は彼が、言葉を失う番だった。

―克哉、さん…?

 今、彼が発した発言が信じられないとばかりに…太一の声が震えている。

『…御免。傷つけたかも知れない。けれど…これはオレの本心だよ…』

 この心も身体も、どれだけ抱かれようとも…求められようとも、克哉自身の
ものなのだ。
 唯一例外があるとすれば、克哉がその相手に所有される事を認めた時だけだ。

『オレは、太一の所有物じゃない。オレにも心はあるし…意思もあるっていう事を…
忘れない、でよ…』

 それは抑揚のまったくない声で、呟いていた。
 知らない間に…また、目元から涙が零れ落ちる。
 まだ…太一に本当に言いたい気持ちが、纏まってくれない。
 下手に言葉を紡いでしまうと、責める言葉か…謝罪ばかりを口に出してしまいそうで。
 それくらいなら…と思って、通話ボタンにそっと指を這わせていった。

『…御免。今は太一に言いたい事を上手く言葉に出来そうにない。一旦…これで
切らせて貰うから。…元気、でね…』

―ちょっと! 待てよ! 克哉さん! あんたは一体…どこにいるんだよ!
 それすらも答えてくれないのかよ! 俺は今も克哉さんを愛しているんだ!
なのに…どうして、そんな冷たい事ばかり言うんだよ!!

 電話の向こうで、太一が必死になって訴えていく。 
 けれど…もう克哉は、迷わなかった。
 今…ここにいる事、毎晩のようにもう一人の自分に抱かれてその想いを受け入れた事。
 それはもう覆しようのない事実だ。
 太一への想いと、もう一人の自分への想い。
 それらは克哉の中で大きくせめぎあって、ぶつかりあっている。
 けれど…どちらかを取らなければならないとしたら、克哉は…もう一人の自分の手を
離したくないと、素直にそう思ったから― 

『…御免、ね』

 もう、それしか言えなかった。

―克哉さん!!

 最後に、太一は必死になってこちらに訴えかけるように…大声で克哉の
名前を呼んでいった。
 けれど…彼は、その通話を静かに…断ち切っていった。

 ツーツーツー…。

 そして、通話が切れていく。
 それと同時に克哉は電源を落としていった。
 ガクン、と四肢から力が抜けて…再びベッドの上に突っ伏していった。
 
 胸の中がぽっかりと空洞が空いたみたいだった。
 同時に苦しくて、鼓動が忙しいものに変わっていく。
 過呼吸の発作のように息は大幅に乱れていって…ゼイゼイゼイ、と…
胸を掻き毟るようにしながらその葛藤に耐えていった。

―もう、オレは…選んだ、んだ…! だから…迷っちゃ、ダメだ…!

 太一も、もう一人の自分も本気で自分を愛してくれているのは知っている。
 けれどだからこそ…いつまでもどちらも取れないなんていう半端な事を
していてはダメな気がした。

―逢いたい…!

 切実に、もう一人の自分の顔が見たかった。
 そうして…彼はただ、耐えていく。
 眼鏡が帰ってくるまでの間、ずっと一人で…狂おしいくらいの苦しみを抱えて。

 だから彼は自分の心にばかりに気を取られて、気づかなかった。
 克哉が電話を切った、その向こうで…再び、太一のその心を深い闇へと
落としていってしまった事実に―
 

 ―それは、太一のバンドのライブに初めて顔を出して間もない頃の
記憶だった。
 太一の奏でる音楽を生で聴けたことが嬉しくて。
 自分の事をいつも肯定してくれる太一と親しくなれたことが嬉しくて。
 だからだろう、ふと顔を見たいと思って平日の仕事帰りに…フラリと
喫茶店ロイドに顔を出したのだ。

(太一、いるかな…)

 何となく、先日聞いたばかりのライブの興奮が残っていたせいも
あるだろう。
 その感想をもう一度、ちゃんと伝えたい。そんなささやかな動機で
克哉はその扉を潜っていった。
 その途端に耳に入った、哀愁の漂うメロディライン。

「あれ…これは…?」

 それはどこか聞き覚えがある曲のような気がした。
 店内をざっと見回していくと、太一が壁にそっと背中を凭れさせていきながら
携帯か何かを弄っていたようだった。

「えっ…克哉さん! どうしたんすか…? 今日は平日だっていうのに…
ここに顔出すなんて珍しいよね?」

 こちらに気づくと、太一は満面の笑みを浮かべながら克哉を出迎えてくれた。
 こういう他愛ない仕草の一つ一つが、本当に彼は自分に好感を抱いて
くれているんだんって感じられて、嬉しく思えるのだ。

「あ、うん。ちょっとここのコーヒーとかサンドイッチを食べたくなってね。
後…太一にも会いたかったから」

「うわっ! 克哉さんってば本当に俺を喜ばすの上手いよね。そんな事を
言われたら腕によりを掛けて作るしかないじゃん! さ、早く席に座ってよ!
今から克哉さんに注文された分、作るからさっ!
 いつものAセットで良いんだよね?」

「うん、俺…ここの玉子サンド、好きだからね。けど…今日はマスターは
いないみたいだけど…大丈夫なのか?」

「あ、うん。一応大丈夫。いつもマスターが作っている手順は見てちゃんと
俺、覚えているから」

 ニッコリと笑いながら自信たっぷりにそういう太一を見て、一抹の不安を
覚えていく。

(本当に大丈夫なのか…? それは…)

 克哉がこの店を訪ねる時、マスターがいない時はなかった。
 だからこっそりとお気に入りであるAセットにいつも安心して在りつけていた訳
なのだが…流石に不安があった。
 だが、一応大丈夫と返答しただけあって…克哉の目の前で実に鮮やかに
サンドイッチを作り上げていく。

「ほい、お待ちっと…」

「うわぁ…美味しそう。太一、こういうの出来たんだ…。ウェイターメインばかり
だと思ってた」

「あ、うん。基本は俺はウェイター中心。けど…まあ、これくらいは出来るようにならなきゃね。
一応マスターがこうやっていない時も店を閉めなくて済むようにしないと…と思ったし」

「なるほど…何か太一に作って貰ったものを食べるって初めての経験かも…。
それじゃ、頂くね」

 そういって、手を丁寧に合わせていって「いただきます」と言ってから克哉は
玉子サンドに齧りついていった。

「ん、これ…ちょっとマスターの味付けと違う気がするけど、充分に美味しいよ」

「えっ…? やっぱり味違う? ほぼ一緒になるように作ったつもりなんだけど…」

「う~ん…味付けって、その人の好みっていうのがそのまま出ちゃうからね…。
何と言うか太一が作った味だと、普段のよりもちょっとピクルスと胡椒が効いている
って感じがするよ」

「…言われてみればそうかも。俺、ピクルス好きだからな。確かに…ピクルスが結構
強く効いているかもね」

「ん、けど…俺はこの味付け好きだよ。これ、とっても美味しいから…」

 ニッコリと微笑みながら克哉がそう告げていくと…太一は、照れ臭そうに頬を
染めていった。

「…何か、克哉さんにそう言って貰えると…すっげぇ嬉しいかも。認められたって
感じがすごいするっていうか…」

「もう、大げさすぎだよ。太一は…そういえば、さっき…携帯から流れていた
着メロ、あれ…もしかしてミリオンレイの曲かな? 何となく聞き覚えがあった
ような気がしたんだけど…?」

 カウンター席に座ってモグモグと食べ進めている合間に、ふとさっきから
気になっていた事柄を改めて聞いていった。
 それを指摘された瞬間、太一の顔は一気に気まずそうになっていった。

「…あっちゃ~。克哉さん…あれ、聞いちゃったんだ…?」

「えっ…? 聞いちゃいけなかったの? ミリオンレイの曲じゃ…もしかして、なかった
のかな…?」

 太一の表情を見て、もしかして聞いちゃいけない事だったのだろうか…と急に
不安になっていく。
 だが、克哉の態度を見て彼もまたそれを察したのだろう。
 苦笑しながら口を開いていった。

「いや…あれは確かにミリオンレイの定番ナンバーだよ。結構ヒットして、話題にも
登った哀愁漂うあの曲ね…。ライブに行ったことすらある克哉さんなら絶対に
判る代物だよ。けど…あれ、着メロじゃないよ。俺が過去に耳コピした奴を
色々弄くって携帯に収めてある奴だから…」

「えっ…あれ、耳コピだったの…?」

「ん、そう。でね…克哉さんが聴いたのって、俺が一番最初に作曲を手がけた
奴なんだよ。当時は見よう見まねで…何かゲームについていた作曲機能を使って
作った奴でね。最初は楽譜とかGコードとかまったく判らないから、地道な作業でさ。
例えて言うなら、一音一音を…鍵盤叩いて音を確認しながら作っていったような物だよ。
 だから単音で単調なメロディだし、確かに着メロレベルの代物でしかないよ。
特に自分で作曲した物じゃなくて、好きなバンドの曲の耳コピだしね」

「そう、だったんだ。けれど…耳コピで曲を作れちゃうなんて凄いと思うよ。
オレには…絶対ニ無理だと思うから」

「ん、俺も正直言うとね…途中で何度も投げ出してやる! って思った事は何度も
あったよ。けれど…すごい大変だったし時間掛かったけれど、音楽が自分の手で
組みあがって形になっていくのがそれ以上に面白くて堪らなかった。
 俺がバンド活動始めた理由ってさ、ミリオンレイに憧れたからっていうのも
あったけれど…歌うだけじゃなくて、曲も作るようになったキッカケってさ。
確実にこの曲を作った時の喜びが忘れられなかったからなんだよ。
 だから、うん…これは俺にとっては原点の一曲なんだ。ヘタッピで…
今の俺が聴いたら人に聞かせられるようなレベルの物じゃないけれど…
これ聞く度に…初心に帰れるんだよね。
 初めて、これが完成した時の嬉しさとか…音楽やっている喜びを、
思い出せるっていうかさ…」

 そう、瞳を細めて呟く太一の姿が…克哉には眩しく見えた。
 彼を正直、羨ましいと思った瞬間だった。

(あぁ…本当に太一って、音楽が好きなんだな…)

 自分が偶然に聞いたあのメロディに、そんないきさつがあったなんて…
少しびっくりしたけれど、また一つ太一を知る事が出来て嬉しかった。
 純粋に応援したい、という気持ちが克哉の中に生じていく。
 こちらも知らない内に…自然と柔らかく微笑みながら言葉を紡いでいった。

「そっか…太一にとっての、原点の一曲か。けれど…初めて作った物なのに
こんなにレベルが高いなんて、本当に凄いと思うよ。きっとオレが…どれだけ
ミリオンレイの曲を好きになったからっていって、こんな風に耳コピして
何か作るって事は出来ないと思うから…」

 何かを好きになって、ただ享受する者と…それを取り入れて、自らの血肉に
して活かす者とは大きな隔たりがある。
 克哉は確かに太一よりも古い時期からこのバンドの事を知っている。
 けれどそれを元に、自分で活動して音楽を作り出してみようという情熱を抱いた
ことなど一度もなかった。
 だから素直に…克哉は尊敬していく。
 自分にない才能と情熱を持つ、年下のこの友人へと…。

「レベルなんか、高くないっすよ。こんなの…本格的に曲に作れるようになったら
所詮人真似っていうか…そんな感じの作品、だし…」

「太一…過去の自分の努力を、そんな風に言ったらダメだよ。だってこれは…
太一がミリオンレイに感銘して、それで自分から音楽を作りたいと思って
苦労して作り上げたものなんだろ? 確かに原曲は他の人が作ったものだから
自分の名前で発表出来るものじゃないのかも知れない。
 けれど…この中には、太一の情熱も想いも凄く込められている気がする。
 だから、ちょっとしか聴いていないけどオレは好きだよ。
 太一が初めて作った、あの曲をさ…」

「かつ、や、さん…」

 優しく微笑まれながら、そんな事を言われて…凄い嬉しくて、不覚にも
涙が滲みそうになってしまった。
 この処女作は、人前で殆ど発表することなく…ずっと彼にとってはひっそりと
しまっていた代物だった。
 そう、本格的に創作に打ち込み…自らの手で曲を紡ぎだせるようになってからは
コピーをしただけの代物を表に出せる筈がない。
 それに、技術がない頃に作ったものだから拙い物であるのも確かなのだ。
 思い入れと、作品としての出来栄えはまったく違う。
 この作品はあくまで、太一にとっては記念すべき処女作で大切に思っていても、
他の人間にこのレベルの作品を認められることはないと客観的に判断して思い込んで
いたのだ。
 だからこそ、克哉にそう言って貰えて…彼は嬉しかったのだ。 
 まだ駆け出しだった頃の、昔の自分の努力を認めてもらえたような…そんな
気がしたから。

「…ねえ、良かったら…あの曲、オレにも貰えないかな? 太一さえ良ければ、
オレ…欲しいな」

「えっ…うん! こんなので良かったら幾らでもあげるよ!」

 そうして彼は慌ててメール操作をして、克哉宛のメールに今の音楽ファイルを
添え付けして素早くこちらに送信してきた。
 彼の素早い行動にびっくりしたけれど…すぐに了承してくれて、こちらにこれを
くれたのはやはり嬉しかった。
 だからはにかむように微笑みながら、克哉はそっと自分の携帯を握り込んで
いきながら頷いていった。

「うん…オレも、大切にするよ。ありがとう、こっちの我侭を聞いてくれて…」

「いや、それは俺の言う台詞だってば。だって…克哉さんに過去の俺の頑張りを
認めて貰えたんだから、メッチャクチャ嬉しかったし…」

 そういって、微笑んだ太一の顔は輝いていた。
 そして克哉はそのメロディのデーターをEメール添付で貰い受けると…
こっそりと太一から着信が来た時の専用の曲に設定したのだ。

 そう…好きだった。
 あの時から、自分にない才能と夢を持っていて、真っ直ぐに夢に突き進んでいく
努力を続ける彼が。
 自分には、そんな風に夢中になって熱くなったものなどただの一つもなかったから。
 無難な大学に入って、卒業して…安定の道を疑いなく歩み続けてきた自分にとって
収入が不安定でもなんでも、迷いなく夢を追いかけていける彼が羨ましかった。
 その心の強さに、純粋さに克哉は紛れもなく惹かれていたのだ。
 この時点では、大切な友人の一人としか認識していなかったけれど…。

 ―そこまでの記憶が一気に脳裏に再生されて、頭が割れそうなくらいに
痛みを訴えていく。
 其処で記憶が見せる過去の情景は一旦途切れていった。

―うわぁぁぁ!

 そこまで思い出したその瞬間、克哉は床の上で七転八倒していく。
 部屋中に、彼の記憶を強引に引きずり出した…思い出のメロディが奏でられて
響き渡っていった。

(もう…止めろ! これ以上…思い出したく、ない…!)

 ギュっと瞳を閉じて、抗っても…一度強烈に太一に関することが脳内で喚起された
事によって連鎖のように…太一と初めて出会ってから、彼が歪んでしまうまでの
期間に起こった殆どの事柄を思い出してしまった。
 胸が、痛かった。
 こんなにも、自分は太一を大切に思っていた事を。
 当時は、それが恋だという自覚などなかった。
 けれどあの時…真っ直ぐに夢を追いかけるあの姿勢に、自分は憧れて…気づいたら
その想いは知らない間に変質して『恋心』へと静かに変化していたのだ。

―夢を追いかける、お前が大好きだったんだ…!

 それはとうに失われてしまった、最初に恋をした彼の姿。
 自分が歪めてしまった。
 彼から笑顔を奪ってしまった。
 あれだけアーティストになりたいと願って努力をしていた彼が…その夢を捨ててまで
嫌がっていたヤクザの跡継ぎの道を選んで、こちらを監禁して閉じ込めることを選択
した事が…克哉には辛すぎたのだ。

―太一が歌っている姿を見るのが好きだった。お前が、楽しそうにバンドの事を
語るのが好きだった。そして…そんなお前を、オレは心から支えたかったし…何か
出来る事があるのなら、協力したかったんだぁ…!!

 けれど、自分の存在が彼の本来あるべき姿を歪めてしまった。
 嗚呼…彼の家族が、自分を消そうと思う事など当然だ。
 自分が壊れる前の太一と接した期間は今思えば…三ヶ月に満たなかった。
 けれどたったそれだけの時間でも特別になるくらいに…克哉の中で太一は
輝いていた存在だったのだ。
 それを全て奪い去った克哉の存在を、彼の血縁が疎ましく思って当然だ。
 そしてその相手は…太一が抱いていた夢をきっと、応援していた人なのだろう。

―はあ、はあ…!

 それでも、着信音は鳴り続ける。
 克哉は今、強烈に目覚めていった過去の自分の想いを持て余して、荒い吐息を
吐き続ける以外に何も出来なかった。

 けれど、何十回も…その着信音は響き続けていく。
 それは太一の望みのような気がした。
 彼は、一度は解約した筈の電話にこうやって掛けてくるぐらい…それが通じているのを
知って辛抱強く待ち続けるぐらいに…強く、克哉を求めているような気がしたのだ。

(取らなきゃ…せめて、太一本人かどうかだけでも…確認、しないと…)

 頭の中はしっちゃかめっちゃかで…もう考えを纏めることすら出来やしない。
 だが、それでもはっきりと認識している事が一つだけあった。
 今の克哉は、もう一人の自分を愛している。
 けれど…太一への想いもなくなった訳ではなかったという残酷な事実だ。
 この電話を取って、自分に何が出来るのか。
 何を彼に伝えれば良いのかなんて、克哉は考えられる状態じゃなかった。

 ただその執拗なコール音こそが、彼がこちらを今も求めて手を伸ばしている証のように
感じられたのだ。
 だからそれに応えるように…崩れそうな身体を支えて、必死に携帯に手を伸ばして
それを収めていく。
 無言のまま、通話ボタンを押して・・・そっと携帯を構えていく。

 その瞬間、長い沈黙が落ちていく。
 二人共何も…言葉を紡げない状態が続いていった。
 けれど、ようやくそれが太一から放った一言で破られていった。

―もしもし、もしかして…克哉、さん…ですか…?

 そうたどたどしく問いかけてくる太一の声に、胸が潰れそうになった。

 そうだ、よ…と殆ど声にならない音量で、呟いていくと。

―良かった! 貴方と連絡がついて…駄目元でも、貴方の携帯に掛けて
みて…本当に良かった!!

 と、心から太一の嬉しそうな声が、受話器から響き渡って…克哉の鼓膜まで
届いていったのだった―


 


 
 ―記憶とは本来、極めて不安定な代物である。
  とある文献によると、人は一日の内に起こった出来事の90%以上は
忘れて生きているとされる。
 そう、情報というのはただ生きているだけでも視覚と聴覚が生きているだけでも
常に相当量、流れ込んできているからだ。
 人はどうでも良いことと、忘れてはならぬ記憶を取捨選択して生きている。
 昨日の事すらも、印象深い出来事以外や意識して留めようとしない限りは
大半は覚えていないものだ。

 記憶を砂時計に例えるならば…生きている限り自分の周りには無数の
砂は落ち続ける。死ぬまでそれは続いていく。
 けれど人は掌に本当に一握りの時間や記憶しか、留めておけない。
 それは宿命であり、人の生来持っている業でもある。

 だが…掌に留めた砂しか意識して引き出せなくても、自分の周りには
無数の記憶の砂は常に在り続ける。
 海馬という記憶を留める器官の損傷が起こらない限りは、人はその
零れ落ちた砂から大切なものを探り当てる可能性はあるのだ。
  記憶喪失とは…掌に留めておいた砂を一旦、零れているだけの
状態に過ぎない。

 必ず、自意識の周りに記憶のカケラは存在する。
 けれどそれはキッカケがなければ見つけ出せない。
 逆を言えば、引き出せる糸口さえ掴めば必ず思い出せるものなのだ。
 そう、意識して引き出せなくなっていたとしても…体験したことは全て
克哉の中に今も存在しているのだから―

―ねえ、克哉さん。この曲を好きだと言ってくれてありがとう…。
 今思い返すと、ヘタっぴで人真似しているな~っていうのが
凄い出ている奴で恥ずかしいけど、俺にとっては…思い出深い作品だからさ。

 そうやって、彼ははにかむように笑っていった。
 それは目覚める直前に見た、儚い過去の残像。
 明るい髪をした青年の、そんな朗らかな笑顔を最後に見た日から
一体どれくらいの時間が流れてしまったのだろうか…?

 それを思い出して、克哉はハっと…ベッドから身を起こしていった。

(今の、夢…?)

 目覚めた瞬間…瞬く間に詳細を思い出せなくなっていく。
 けれど…久しぶりに彼に関しての記憶を思いだして、心臓がバクンバクンと
忙しく脈打っていった。

「…何か、今の夢…凄いリアルだった。久しぶりだな…太一に関しての
事をこんなに鮮明に思い出すのって…」

 そういって、克哉は知らぬ間に掻いていた冷や汗をそっと手の甲で
拭っていった。
 鼓動は今も、荒く乱れたままであった。
 ふと気を鎮めようと窓の向こうに視線を向けていくと、今朝も…其処には
雄大な自然の光景が広がっていた。

 克哉が目覚めてから一ヶ月程度が経過して…季節はすでに6月の中旬に
差しかかろうとしていた。
 この地方では、連日…肌寒い日が続いていた。
 避暑地であるという事もあるのだろうが…日中は過ごしやすい日が多く
おかげでエアコンを殆ど使用しなくても窓を開けて風通しを良くするだけで
快適に過ごせていた。

 日々のリハビリが功を成したのか、今では克哉の身体は以前と変わらない
程度に動かせるようにまで回復していた。
 ベッドから身体を起こすと、もう一人の自分の姿はどこにもなかった。
 結ばれてからは毎日当たり前のように感じる肌の温もりが、今朝に限って
なかった事に克哉は若干の寂しさを覚えていく。
 今のような不安を感じさせる夢を見た直後だからこそ…いて欲しいと
無意識の内に感じてしまったのだろう。
 すでに眼鏡に関して強く依存してしまっている自分に、苦笑したくなった。

「…いない。そっか…今日は、一日…色んな物を買い出して準備
してくるって、最初から言っていたっけ…」

 その事実を思い出して、克哉はシュンと項垂れていった。
 心を通わせてからは…毎日、午前中くらいは一緒にいれる時間が存在して
いたから、ちょっとだけ心が贅沢になってしまったようだ。
 今日は一緒にいられない。
 ただ…相手を待つだけしか出来なかった。

(何かあれば…この携帯に連絡する、って言っていたな…そういえば、昨日…
ベッドに入る前に…)

 ベッドサイドの棚の上に置いてある携帯電話を何気なく眺めていって…
つい顔が赤くなっていった。
 昨晩も、彼に濃厚に愛された記憶が蘇ったからだ。

「…ったく、何を顔赤くしているんだよ…。あいつがいない時でさえも…」

 そう言いながら、ふと携帯に手を伸ばして…何気なくそれに指先を這わせていく。
 シンプルで無駄のないデザインとフォルム。
 それは紛れもなくかつて彼が愛用していた携帯電話であった。
 二週間前に、心から結ばれた直後に手渡された其れは…事実上、まだ一度も
通話やメールの目的で使用された事はなかった。
  履歴や、過去のメールフォルダもあまり見ていなかった。
  この携帯電話の履歴は…一年以上も前の時点で止まっている。
  どうやら太一にこれを手放された直後に一度解約をされていたらしく、
この携帯には克哉が太一に監禁された日以後には、通話もメールは一件も
来ていなかった。

 時が止まったままになっている携帯。
 けれど今は回線も復活し、連絡を取ろうと思えば茨城に住んでいる自分の
家族や八課の仲間達と取ることは出来る環境だった。
 だが、克哉はただの一度も…連絡しないままだった。

(こんな状況じゃあ…とても、連絡出来ないよな…)

 監禁され、陵辱されて…身体の自由さえ奪われてしまって。
 今ももう一人の自分が手助けしてくれているから辛うじて生きているような
状態だった。
 そんな有様で、今も普通の生活を営んでいる彼らにどのような顔をしながら
接すれば良いのか克哉には判らなかった。
 それに今は…もう一人の自分がいてくれる。
 彼さえ、いてくれれば…今の克哉にはそれで充分だったからだ。

「…何か、変な感じだ。ずっと…あいつが傍にいてくれたから、携帯で
他の人と連絡したいって気持ちも湧かなかったし…。電話を待ちわびるような
そんな事、随分と久しぶりな気がする…」

 食料品の類はMr.Rから定期的に差し入れがあるので…実際に自分達が
街に出る必要はない。
 だが、眼鏡が本日、危険を犯してでも外に赴いたのは、これから先の
事を見越して、必要になると判断した防衛道具の数々を調達する為だった。
 この避暑地に人目を避けて潜伏していられる限界の期日は、もうじき訪れようと
していた。

 だから彼はここを出ていく事を考慮して、それ以後に必要になりそうな
物資を購入する為に出ていたのであった。
 有能な彼の事だ。一日という時間があればほぼ完璧にこなしてきて
くれるだろう。
 けれど…あんな夢を見た直後だからこそ、一言で良いから彼の声を
聞きたい心境だった。
 だから克哉は掌の中で携帯の本体を弄びながら…フウ、と溜息を
突いていった。

(一言で良いから…連絡欲しいな。せめて何時くらいまでには帰るとか、
そんな短い一言でも良いから…)

 何時くらいに帰って来るかだけでも判れば、この一人の時間もそんなに
苦もなく待てるような気がした。
 けれど…その見通しが利かない状態ではどこか不安で、こちらから
彼に掛けて確認すべきかどうか少し迷ってしまった。

(どうしよう…?)

 そうして迷っている内に、いきなり手の中の携帯が震えていった。

「わっ…!」

 それと同時に携帯から一つのメロディが流れ出した。
 最初はもう一人の自分だと思った。
 けれど…その着信音を聞いた瞬間、それに聞き覚えがあって懐かしいと
感じた途端に、克哉は硬直していった。

「な、んだよ…この、メロディ…。どうして、聞いているだけで…胸が…」

 胸がこんなに痛くなるのか、自分でも判らなかった。
 ザワザワザワ…と胸の中がざわめいて落ち着かなくなる。
 もう一人の自分からの電話なら、取らなければ…そう思って必死に
手を伸ばしていくが…途中で、彼の手は止まらざるを得なくなる。

「嘘、だろ…? どう、して…?」

 呆然となりながら、画面に表示された名前を眺めて呟いていく。
 信じられなかった。
 こんな事をありえる訳がないと思った。
 
 だがそれをキッカケに、一気に今までせき止められていた何かが
克哉の中で弾けて、奔流となって流れ出していく。

―うわぁ…!

 この携帯は、彼と世界を繋ぐために渡した鍵だった。
 しかし皮肉にも…其れは太一と克哉を繋ぐ、記憶を思いだすキッカケと
なっていく。
 
 いきなり思い出した記憶の波の中に、そのまま克哉は浚われて飲み込まれて
いくしかなくなっていく。
 そして、そのメロディに纏わる思い出のカケラを…彼は拾っていくことに
なったのだった―


 ―眼鏡の手は、とても優しくて怖いくらいだった。

 今までの人生で、こんなに慈しまれながら誰かに触れられた経験などない。
 整った指先が、こちらの肌を滑っていく度に電流のような感覚が走り抜けて
いくようだった。
 
 窓から朝日が差し込んでくる中、一枚一枚…丁寧に、衣類を剥がされていく。
 相手の顔も、自分の裸身も…何も隔てるものがない。
 食い入るように見つめられながら、時折肌を撫ぜ擦られて…衣類を脱がされて
いくだけで、一種の前戯のようだ。

「あっ…んっ…。あんまり、焦らす…なよ…」

 まだ抱き合って、キスしかしていない状態なのに…克哉の性器ははち切れん
ばかりになっている。
 それを相手に見られるのが死ぬほど、恥ずかしい。

「…焦らしていない。慎重になっているだけだ…」

「えっ…?」

 予想外の返答が戻って来ると同時に、眼鏡もまた…自分のYシャツを一気に
脱ぎ去って克哉の前に裸身を晒していく。
 同じ体格の筈なのに、銃等の訓練や介護などの重労働を日々にこなして
いるからだろうか。
 克哉の肉体よりも、眼鏡の痩躯は引き締まっていて…思わず見惚れる程だ。

(って…何、こいつの裸に見惚れているんだ…オレは…!)

 そう心の中で突っ込んでしまったが、顔を真っ赤にしながらも目が離せなく
なっていく。
 頭から火を噴いて、そのまま憤死してしまいそうなくらい…心臓がバクバク
鳴り響いていて制御が利かなくなっている。
 躊躇いなく相手が、下肢の衣類を全て脱ぎ去っていくと…ギンギンに硬く
なっている性器を目の当たりにして…眩暈すらした。

(うっ…わっ…!)

 自分と同じサイズのモノの筈なのに、それをこちらが受け入れる側なのだと
意識すると…酷く大きく感じられてしまう。

「…何だ? 今更…オレのモノを見て興奮しているのか? 散々…これで貫かれて
良い目を見て来ただろう…?」

「いや、そ、そうなんだけど…。こんな明るい状態で見た事なかったから…
ちょっと…その…」

 しどろもどろになりながら、それでも相手のペニスに釘付けになってしまうと
容赦ない力で引き寄せられていった。

「…お前、抱かれている時はとんでもない淫乱の癖に…バージンのような反応を
今更するな。こっちがどうすれば良いのか判らなくなる…」

「って、淫乱とかバージンとか、何言っているんだよ…! んんっ…!」

 羞恥の余り感情的になって反論しようとした唇が強引に塞がれ、熱い舌先が
容赦なくこちらの口腔を蹂躙していった。
 さっきから、息が苦しくなるようなキスは散々してきた。
 けれど…「抱いて」と承諾した後での接吻は…余計に生々しく感じられて余計に
深い快楽を覚えていった。
 互いの吐息が重なり合っているだけで、其処から溶けていきそうだ。それくらい…
眼鏡とキスするのは気持ち良かった。

「んっ…ぅ…ぁ…」

 深く口付けられている合間に、両手で胸板全体を揉みしだかれていく。
 忙しくなく上下している薄い胸板に色づいている突起を、執拗に押しつぶされるように
弄られ続けて、連動するようにビクビクビクと性器が暴れ始めていく。

「んぁ…」

 興奮、している。
 どうしようもなく…身体が熱くなって欲望の制御が出来なくなっていた。

「どうしよう…『俺』 凄く…気持ち、良い…!」

「おいおい…まだ、胸を弄っているだけだぞ…? それだけで…こんなに蕩けそうな
目をしていて…お前は、大丈夫か…?」

「わ、判らない…。こんな風になるの、初めて…だから…」

 そう、もう一人の自分にも…太一にも、散々抱かれ続けていた。
 だから…克哉の意思とは関係なく、この身体は男を受け入れて深い快楽を覚える
ようにいつの間にか変わってしまっていた。
 けれど、克哉自身が…誰かに抱かれたいと自ら望んで及ぶ性交は…これが初めて
だったのだ。
 だから…いつもと身体の反応が、まったく違う。
 胸の突起を触れられる。ただそれだけでも…乱暴に性器を弄られて無理矢理感じさせ
られている時とは…快楽の次元が違っていたのだ。

「…だって、これが初めて…だから。自分から…抱かれたいって望んで…する、のは…」

「っ…!」

 アイスブルーの瞳が、快楽に甘く潤みながら…そんな事を言われたら、牡としての
欲望を強烈に刺激されてしまう。

「…チッ。お前、性質が悪すぎるぞ…そんな事を言われ、たら…こっちだって…」

 心底苦々しげに呟きながら、眼鏡の呼吸が更に忙しくなっていく。
 興奮して、相手に挿れてムチャクチャにしたくて堪らなかった。
 けれど…幾ら克哉がこちらを受け入れるのに慣れていると行っても、何の準備も
なく突っ込んで欲望のままに動けば傷つくことは必死だ。
 どうにか競り上がる性欲を押さえ込んで、ベッドサイドに置いてあるラブローションの
入った容器に手を伸ばしていく。
 それをたっぷりと手に取っていくと…自分の性器と、相手の蕾周辺に塗りつけて…
浅く出し入れを開始していった。

「あぅ…! ん…ぁ…!」

 相手が呻くように漏らす声にすら、興奮する。
 もっと啼かせたくて…夢中になって眼鏡は相手の脆弱な場所を探り当てていく。
 知らず中を探る指先すら性急になって…執拗に相手の感じる部位を擦り続けていけば
克哉の身体は耐え切れないとばかりにベッドの上で暴れ続けていた。

「やっ…ああっ…! や、だ…そんなに、されたら…指、だけでも…オレ、イッちゃい
そうだから…!」

「イケば、良いだろ…?」

「や、だ…! お前と、一緒が…イイ…! 一方的に…オレ、ばっかりが悦くなる…
んじゃなくて、その…『俺』も、気持ち良く…なってもらいたい、んだよ…!」

「…っ!」

 相手に抗議するように、歯がカチリ…とぶつかるような不器用なキスを展開
させながら…克哉が訴えていく。

「…お前が、欲しいんだ…だから…!」

「…一体、どこで…そんな誘い方を覚えたんだ…? お前は…まるっきり、
性悪だぞ…それは…」

 ヌルリ、と相手の唇を舌先で舐め上げながら克哉の足を大きく押し広げて
己のモノを蕾に宛がっていく。

「だ、れが…性悪、だよ…! 本心を、言っている…だけ、なのに…」

「あぁ…判った判った。だから、そんな風に…拗ねる、な。…今朝は…
優しく抱いてやるから…」

「えっ…う、うん…」

 そう言いながら入り口の処に相手の欲望が引っ掛かっているのを感じて
克哉は顔を真っ赤にしていく。

「…この世で一番、この瞬間…お前を、愛してやるよ…」

―その瞬間、眼鏡の一言だけで背筋から強烈な快感が競り上がっていく。
 ゾクゾクゾクゾク…とそれだけで達せそうになるくらいだった。

「あっ…ん…愛して、くれよ…! オレは…お前に…愛されたい、んだから…!
あっ…あぁぁー!!」

 そのまま、一気に根元まで押し入られて…克哉は一際高い声で啼いていった。
 最初から限界寸前まではち切れんばかりになっているペニスは、相手がこちらを
求めてくれている何よりの証だ。
 ビクビクビク、と相手のモノがこちらの中で痙攣する様すら愛おしかった。
 そんな彼を求めるように…自分の意思と関係なく、受け入れる箇所がキツく相手の
性器を絞り上げていった。

「くっ…キツい、な…! お前の…中、は…!」

「…お前だって、凄く…大きい、じゃないか…凄く、こっち、だって苦しい…んだぞ…!
はっ…んっ…!」

 そう相手を受け入れて、軽く擦り上げられるだけで気持ちが良すぎて…克哉は
すでに呼吸困難状態にまで陥っている。
 こんな状況で規則正しい呼吸など、すでに出来る訳がないのだ。
 なのに…こちらをより求めるように、眼鏡はより深く唇を重ねてくる。
 上も下も…相手で満たされて、苦しいけれど…同時に、幸福だった。

(このまま…本気で、昇天とか…腹上死出来そうかも…)

 相手と繋がって、心まで結ばれていると確信出来た状態で…このまま
死ぬことが出来たならば、それはそれで一種の究極の幸せなような気がした。
 それくらい…眼鏡がこうして自分を求めてくれている事が嬉しくて、仕方なくて。
 もっと深く相手を感じ取ろうと、克哉の方から必死にその背中に縋り付いていった。

 窓の向こうで朝日が、鮮やかに緑豊かな風景を照らし出していく。
 これだけ鮮やかな自然が息づいている中で、朝からこんな風に激しく
求め合っている自分達は、そんな大自然と一体化しているような…奇妙な
錯覚すら覚えていった。

「あっ…あぁぁ…イ、イ…! もっと、其処…欲し、いっ…!」

 相手の性器が、克哉の深い場所を抉り続けて容赦ない快楽を引きずり
出していく。
 その感覚に耐えている内に知らず、眼鏡の背中に爪を立ててしまうぐらい…
それは強烈な代物だった。
 そうして、ギュっと指を絡めるように手を繋がれながら…腰を少し浮かされて
さっきまでとは違った角度で犯されていく。
 もう一方の彼の手はこちらの暴れ続けている性器を扱き上げて、どうしようも
なく身体を追い上げられていった。

「やっ…あっ…頂戴…お前を…。全部、オレに…!」

 懇願するように、荒い吐息交じりに告げていく。
 その瞬間…眼鏡は、満足げに瞳を細めていた。
 そして一層、パンパンと肉を打つ音が聞こえるくらいに激しく相手の中に穿ち込んで
いって…追い上げていった。

「あぁ…お前に、やるよ…。『俺』を、な…!」

「あっ…!」

 そう、相手に達する寸前に告げられて…嬉しすぎて、そのまま克哉は
涙を零していく。

―この瞬間になら、命を失っても惜しくない…!

 それくらいの強烈な幸福感だった。
 そのまま、愛しい相手を全身で受け入れて克哉は達していく。
 相手の熱が…こちらの内部で弾けていくのが判った。

「あっ…ぁ…」

 小刻みな痙攣を繰り返す相手の性器を感じ取りながら、悩ましげな吐息を
零していくと…ぎゅう…と強く強く、眼鏡に正面から抱き締められていく。
 とても、幸せだった。

「んっ…」

 そして、唇が重ねられる。
 愛しげに相手に頬を撫ぜられて、心地良い一時が過ぎていった。
 そうして…ようやくキスが解かれていった頃…。

「克哉…お前に、これを返す。決して…失くすなよ…」

 目を開けると、何かを決意したような表情で…もう一人の自分が
そっと一つの品を差し出していった。

「これ、は…?」

 見覚えがある品だった。
 だからこそ…信じられない、とばかりに克哉は目を見開いていく。

「…見れば判るだろう? これは…お前の携帯だ。番号も…何もかもが
お前が監禁される以前のまま残っている。これを…決して失くすなよ…」

「な、んで…今、これを…?」

 どうして、こうして想いが通じ合って抱き合った直後に…これを渡すのか。
 その理由が克哉には判らなかった。
 だから…信じられないという眼差しで眼鏡を見つめていく。

「さあ、な…保険のようなものだ。とりあえず持っていろ…。それは本来は…
お前の物だからな…」

「う、ん…」

 どこか釈然としない気持ちで、克哉は…差し出された携帯をそっと握り締めていく。
 何となく、どうしてこのタイミングで彼がこれを差し出したかは…察していた。
 けれど今は…敢えて、そのことから目を瞑っていく。
 今…この時だけでも幸せを噛み締めていたかった。
 それが泡沫の儚い代物であったとしても…こうして共にいられる、今だけは
確かなものなのだから。

「…それで、良い…」

 克哉が眼鏡の言葉に従って、そっとそれを握り締めていくと…安心したような
表情を浮かべていった。
 それは…自分に何かあった時に、克哉を救う命綱になりうるものだ。
 自分は死ぬ気はないし、克哉も死なすつもりはない。
 だが…万が一の時の事に備えて、彼は克哉が誰かに頼る為の手段を
残しておいたのだ。  
 本当に愛してしまったからこそ彼は、かつて克哉が所属していた世界に帰す為の鍵を…
その繋がりの象徴を返していった。

 神妙な顔をしながら…克哉はこちらを見つめてくる。
 それに引き寄せられるように…そっと唇を重ねていった。
 もうじき、この二人きりでいられる世界は壊れるような予感を彼らは確かに
感じていた。
 夏が、来る。もうここに潜伏し続ける訳にはいかない季節が。
 いつまでも永遠にこうして二人だけで生きていける訳ではない。
 この生活が終わる日は、恐らくそう遠くない内に訪れるだろう。
 その後にどのような結果になるかは、まだ未知のことだから。
 ただ、自分に何があったとしても克哉に生き延びて欲しい。
 その一心で、決心した事であった。

―それは皮肉にも、克哉を世界から切り離して独占しようとした太一とは…
  まったく逆の選択でもあった―

 啄ばむような、優しいキスが何度も繰り返されていく。
 静かな抱擁を始めて眼鏡から受けて…克哉は、そっと身体の力を
抜いて…相手に身を委ねていった。
 
(あったかい…)

 この辺りは避暑地だからだろうか。
 夏でも、朝早い時間帯はひんやりとしているせいで…
体温が心地良く感じられた。
 うっとりと目を閉じていると…少しだけ意地悪い感じで
舌先で唇をくすぐられていく。

「それ、ちょっとくすぐったいよ…」

 戯れのようなキスに、軽く身を捩っていく。

「…くすぐったいだけ、か…?」

 声の振動が伝わる距離で、眼鏡が囁いていく。
 それにちょっとだけムっとしながらも…ギュウと力を込めて
克哉の方から相手の背中に縋りついていった。

(ほっとする…)

 相手と抱き合って、口付けて…そんな風に感じている事が
自分でも不思議だった。
 抱かれるのも、キスされるのも多少の抵抗はあったが…最初から
そんなに嫌ではなかった。
 その事実は、単純に言えば…自分がこの相手に一定の好感を抱いて
いたという事を如実に示していた。
 ただ…今まで、それから目を逸らしていただけの話だ。

「向こうへ、行くか…?」

「うん…」

 素直に頷きながら、もう一度唇を重ねていく。
 確かに食堂でこれ以上の行為を続けるのは…厳しいものがあったからだ。
 相手に腰を抱かれて、支えられるような格好で…寝室の方へと向かっていく。
 それだけで…この先の展開が予想つきそうなものだ。

(…ガラにもなく、緊張しているな…オレ…)

 抱かれるのは初めてじゃないのに。
 昨日だって散々好き放題されているのに…今朝は自ら、相手が
欲しいと思っている自分がいた。
 そう、身体はずっと重ねていた。
 けれど…それに心は伴っていなかった。
 いつだって…克哉が求めるよりも、相手を意識するよりも先に…
もう一人の自分に抱かれていたから。
 一方的な行為の筈だった。けれど…それで自分の心は引き寄せられて
しまったのだろうか?
 
 眼鏡の部屋の方へと赴いていくと…ベッドはしっかりと整えられていた。
 それを見て一瞬錯覚したが…すぐに、自分の隣の部屋であった事を
認識していく。

(そうか…基本的に部屋の間取りは、似ているんだ…どの客室も…)

 昨晩抱かれたのは克哉がメインに使っている部屋の方で、そちらの
部屋はまだベッドメイキングが済んでいなかった。
 眼鏡はとっさにその事を判断して、こちらの部屋に誘導していったの
だろうが…こういう処は、本当にあざとい奴だと思う。
 ゆっくりとした足取りでベッドの方まで誘導されていく。
 その度に、ドクンドクン…と忙しくなく心音が跳ね上がっていくようだった。

「本当に…後悔しないのか…?」

 そんな事を尋ねるのは、自分でも今更だという自覚はあった。
 …今までの行為は、克哉の意思は常に無視し続けていた。
 だから、一方的にされていた…という言い訳をする事が出来た。
 だが、今朝のやりとりをした後でそれでも抱くというのならば…それは
合意の上での行為となる。
 そうなれば…今までのセックスとは意味合いが大きく異なるものとなる。
 眼鏡は、だから問いかけた。
 本当に…自らの意思で、俺に抱かれる事を受け入れて構わないのかと…。

「そんなの、今更だろ…? どれくらい…お前は、オレの身体を好き勝手
してきたと思っているの…?」

 クスっと笑いながら、そっと克哉の方から…相手の頬に手を這わせていく。
 自分とまったく同じ造作をした顔。
 けれど、彼の方が…目元が若干鋭くて、キリっとしている。
 性格の違いのせいだろうか。やはり同じ顔をしていても…与える印象は
随分と自分と違っている気がした。
  
「そうだな、今更だな…。だが今までなら、お前は事情も知らないで
ずっと一方的に俺に抱かれ続けていたという言い訳も立った。
けれど…思い出した上で、俺を受け入れた場合は…そんな事は、
もう言えなくなるぞ…? それでも…」

「…構わないよ。これは…自分の意思、だから…。お前に傍に
いて欲しいと…望んだ以上、こういう流れになるのは…ある程度
予想はついていたしな…」

 そう答えた時、眼鏡は釈然としないものを少し感じた。
 何となく…愛されて、この流れになったのではないと…違和感を
少し感じたからだ。
 だから相手をベッドの上に組み敷いていきながら、そっと耳朶を
優しく食んでいく。
 吐息で、敏感な箇所を刺激するように…低く掠れた声で、そっと
問いかけていった。

「…お前は、俺の事を…好きだと、少しは思っているのか…?」

 そう尋ねた瞬間…克哉は、ギュっと目を瞑っていった。
 どう答えれば良いのか、困惑しているような…そんな顔だった。
 即答されなかった時点で、落胆に似た気持ちがじんわりと胸の中に
広がっていく。
 だが…克哉はそれは違う、と遠回しに訴えるように…ギュっと相手の
袖口を握り締めていった。

「…バカ、嫌いな奴に…傍にいて、欲しいなんて…言わない、よ…」

 少なくとも、今の自分は彼が傍にいてくれる事を望んでいる。
 それだけは事実だった。
 
「…それなら、はっきりと口にしろ。俺だって…不安、なんだからな…」

「お前が、不安…?」

「あぁ、悪いか?」

 悪びれもなくそうはっきりと言ってのける眼鏡の顔を間近に見て、
つい克哉は吹き出してしまった。
 …天邪鬼な性格している癖に、こういう処だけ妙に正直なのは
反則に近いと思う。おかげで…妙に可愛く感じられて仕方がない。

(コイツに…こんなに色んな顔があったんだな…)

 今までは、気づかなかった。
 いつも強気だったり、意地悪な一面ばかりを見せられていたから。
 けれど…こんな絶望的な状況下で共に過ごすようになって、切なげな
表情や弱々しい姿も見てしまったことから…いつの間にか、自分の中で
彼を見る目は大きく変化してしまったようだった。

「だから…ちゃんと、口にしろ。言わなければ…何も伝わらないぞ…?」

 同一の存在でも、今は別々の個体としてこの世に在る以上…
言葉にしなければ考えは相手に伝わることはないのだから。
 触れ合う場所から、相手の体温と鼓動が感じられる。
 其処から奇妙な引力が生じていった。
 もっと近づきたい。触れたい…そんな強い衝動が、互いに湧き上がっていく。
 朝っぱらだというのに欲情している自分達に、苦笑めいたものを覚えるけど
今は…正直になりたかった。

「…ん、判った。オレは…お前の事…」

 そうして、克哉の方からも耳朶にキスを落として呟いていく。

―好きだよ

 知らぬ間に、自分の中で育まれてしまった想いを…初めて
克哉は唇に上らせていく。
 その一言を落とした時、一瞬…相手の身体は硬直して…それから
すぐに、こちらを強く強く抱きすくめていく。

「あっ…」

 そして、初めて見る。
 もう一人の自分の本当に嬉しそうな顔を。
 一瞬、心臓が止まるかと思うくらいに…驚いてしまった。
 彼がこんな顔が出来るなど、想像もした事がなかったから。

(凄く…嬉しそう。もう一人の…『俺』…)

 そう思った瞬間、余計に自分の中で彼が愛しくなった。
 互いに強く抱き合う。
 息が詰まるくらいに激しく、唇を重ねあう。
 次第に接吻は情熱を帯びて…息苦しいものへと変わっていく。
 それでも互いを抱き合う腕の力は緩むことはなかった。

 ズキン…。

 同時に、胸の中で鈍い痛みがどこかで走った。
 微かに思い出す。
 太一と抱き合っていて…こんな風に甘い幸福を覚えたことはただの
一度もなかった事実を…。

(御免…な…)

 小さく胸の中で謝りながらも、彼はもう一人の自分の腕から逃れる
ことはしなかった。
 今、心の内に住んでいるのは…眼鏡ならば、正直になりたかったから。
 
「抱く、ぞ…」

 小さく、もう一人の自分が問いかけてくる。
 それは彼が与えてくれた、最後の選択の余地だった。
 少しだけ迷ったが…すぐに吹っ切って、克哉はそっと頷いていく。

「うん…抱いて…」

 もう何も考えられなくなるぐらい、ムチャクチャにして欲しかった。
 このわだかまりも、罪悪感も全てが吹き飛ぶぐらいに激しく…他ならぬ
『俺』にして欲しかった。
 それが今の自分の正直な想い。
 だから、もう克哉は…迷わないことにした。

 太一に悪いという想いはどこかに、まだあった。
 けれど…自分は一生、彼に罪悪感を抱いて…縛られながら生きなければ
いけないのだろうか?
 彼がヤクザという家業を継いで間違った道に進んでしまった事も、
何もかもが…克哉の責任なのか?
 そういう想いがあったから。
 だから今は、彼の事を目を瞑って…正直になる事にしたのだ。

 ―もう一人の自分に傍にいて欲しい。

 それは紛れもない、彼の本心。
 そして…はっきりと選んだ選択でもあった…。

―妙なことになったな。

 しみじみとそんな事を思いながら、眼鏡は食卓についていった。
 …相手の太股が見える状態は、色々と刺激が強すぎるような気がしたので
相手が朝食の準備をしている間にさっとクローゼットの方へと向かって、パジャマの
ズボンを取って来て強引に履かせておいた。
 一応、何度も抱いたことがある相手にそんな格好をされてウロチョロとされたら、
朝っぱらから精神衛生上、宜しくないからだ。
 
 だが…基本的に克哉を引き取ってからというもの、食事の準備は全て自分が
用意していただけに少しだけ、その負担が減るのは在り難いと思った。
 薄くバターを塗ってカリっと焼き上げたトーストを齧っていくと…もう一人の
自分が少しオドオドした態度で問いかけてくる。

「ど、どうだ…?」

 彼の方も、眼鏡の方に食事を振る舞うことなど初めての体験だから…かなり緊張
しているようだった。
 それを見て、目を瞑りながら静かに答えてやった。

「あぁ、悪くない。良い焼き加減だ…」

「そっか、それなら良かった…」

 あからさまにホッとしたような表情を浮かべられると…つい、こちらも口元が綻んで
しまうのは不思議だった。
 そのまま特に会話もなく、向かい合いながら…二人で食事を進めていく。
 成る程、自分達の好みはこういう処で一緒なんだな…と目玉焼きの焼き加減を味わい
ながら実感していく。
 …これがここまで、自分好みの仕上がりだったことに少しだけ驚きながらも、あっという間に
平らげていった。
 だが克哉の方はこちらの反応が気になってしまっていたせいか、全然食が進んでいる
様子はなかった。
 それで何となく立ち上がるタイミングを失い、そのまま着座を続けたまま…労いの
言葉だけは一応掛けていった。

「…ご馳走様。旨かったぞ」

「本当っ? それなら良かった…!」

(何でコイツ…こんなに嬉しそうな顔を浮かべているんだ…?)

 何と言うか、今朝のコイツの行動は眼鏡にとって不可解極まりなかった。
 太一の事を思い出したというのなら、昨晩…気を失うまで空き放題抱いていた自分に
怒りとかわだかまりを抱いても良さそうなのに…何故、朝食など用意したのだろう。

「なあ…お前。一つ聞いて良いか?」

「何…?」

「お前は、太一の事を思い出したのか」

「うん、多少はね。…多分、ここ2~3ヶ月くらいまでの記憶は大体…戻ったと
思う。けど…それより前の記憶は、正直まだボヤけているかな…」

「そうか…じゃあ、あの日の…俺がお前を、連れ去った日の記憶は…?」

 それが、肝心だった。
 あの日の事を思い出しているのなら…自分に対して、怒りを抱いていても仕方ないと
いう思いがあった。
 …太一が撃たれる、という事態を引き起こしたのは眼鏡の行動が大きな引き金になって
いるからだ。
 克哉が太一を愛しているのなら…眼鏡に対して憤るむしろ当然の流れだ。
 だから彼は問いかけたのだが…。

「…思い出しているよ。あの日…お前が、あの屋敷からオレを
連れ出してくれたんだよね…」

 その一言を聞いた時、絶望を感じた。
 思い出しているのなら…もう、自分は拒絶されるだけだろう。
 そう覚悟したのだが…克哉の次の発言は、彼の予想を越えた一言だった。

「ありがとうね。オレを…連れ出してくれて…」

「っ…!」

 思ってもいなかった一言を言われて、彼はその場から立ち上がって手を突いていく。
 だが…克哉の表情は、穏やかなもののままだった。
 
―こいつは、今…何て言った?

 言われた本人が思わず信じられなくなるような…一言だった。

「お前…何を言っているのか、判っているのか? 俺は…お前を、浚ったんだぞ?」

「そうだね。けれど…オレがその事で、お前に感謝しているんだよ。オレはもう…あそこから
逃げ出す気力すら失っていたから。オレはずっと…逃げたくて、逃げたくて仕方なかったのに
ずっと監禁され続けて。何を訴えても、伝えても…太一にその言葉や願いが届くことは
なくて…だからずっと、絶望を感じていた。だから…感謝してる。ありがとう…オレを
あそこから連れ出してくれて…」

「…太一は、お前を庇ったんだぞ…土壇場、で…」

「…覚えているよ。あの光景は多分…一生、忘れられないと思う…」

 そういって、克哉は悲痛な表情を浮かべながら…そっと目を伏せてうつむいていく。

「俺は…お前に薬を飲ませて、記憶を…奪っていたんだぞ…」

「知っているよ。けれど…そうしてくれたから、オレは立ち直れたんだぞ? 一時的にでも
忘れていられたからこそ…オレは再生出来た。そうじゃない…だって、ほら…」

 そうして、トーストを一口齧って咀嚼してみせる。 

「…そのおかげで、ご飯が美味しいもの」

「はっ?」

 まったく予想もしていなかった発言を言われて…眼鏡の方が面喰らっていく。
 その様子が面白かったのだろう。
 克哉はプっと吹き出していくと…悪戯っぽい笑みを浮かべていきながら肩を竦めていった。

「…今のオレには、恐らく今から2~3ヶ月くらい前までの記憶しかまだ戻っていないけれど
二ヶ月くらい前から…オレは、その状況に耐えられずに…食事や水さえも拒絶するような
状態になっていた事までは覚えているんだ。実際に…その期間は、何を食べても飲んでも
味を一切感じられなくなって、食べるのが苦痛になっていた記憶があるから。
 けれど…お前が記憶を奪っていた結果…オレは二週間くらい前から、結構美味しく
食事の類は食べれていた。
 …あのさ、食事が美味しいって事は…忘れていることで、オレの心は息を吹き返したって
いう何よりの証明じゃ…ないかな? それを考えたら…オレは、お前を憎めないし…
拒絶出来ない、よ…」

「…お前、正気か? 俺は…お前を好きなように、抱き続けていたんだぞ…?」

 恋人が、執着している男がいるのを承知の上で。
 それは本来、非難されるべき事だ。
 だが…克哉は、切なげな表情を静かに浮かべていくだけだった。

「…そう、だね。けれど…あんなに切なそうな顔をしながら、懸命にこっちを抱くお前を
見てしまったら…オレは、どうすれば良いのか…判らなく、なってしまったんだ…」

 ギュッと…自らの身体を抱き締めるようにしながら、克哉は呟いていく。
 今は太一との間に起こった事を、全て思い出せなくなってしまっているから…という
要因もあるのだろう。
  
「オレは、かつて太一を…愛していた。それは今、覚えている事だけを繋ぎ合わせていっても
間違いのない事実だと思う。けれど…今のオレには、どうして…かつてのオレが、太一に
そこまでの事をされても『愛している』と思っていたのか…良く、理解出来ないんだよ…!」

 それは、迷子になってしまったかのような不安感。
 何も思い出せなかった時よりは、断片だけでも取り戻したことで少しはマシなのかも
しれない。
 けれど、記憶と記憶を繋ぐ糸が存在しない状態では…ようやく思い出した事実も、
克哉の中では実感を持てない情報でしかないのだ。現段階では…。

「………」

 何も、眼鏡は口を挟めなかった。
 克哉を欲しいと望む心と…命を庇うほどの愛情を示した太一に対しての後ろめたさの
ようなすっきりとしない感情が胸の中に満たしていく。

「自分の記憶なのに…自分のものだって、実感が…湧かないんだ…! 全ての記憶が
繋がらない…。だから、過去の自分は太一を愛していたっていうのは思い出せるのに…
今のオレは、それに共感…出来ないんだよ。だから…オレには、お前を…拒めない…」

 泣きそうな顔で、克哉が必死に訴えかける。
 気づいたら、立ち上がって眼鏡の方に歩み寄ってしまっていた。
 本当なら…顔向けが出来ない行為だっていう自覚はある。
 けれど…克哉は、不安だった。
 あの桜の日の夜の記憶を昨晩…一気に思い出してしまったから。
 
(怖いんだ…)

 どうして、こんなに怖くなるのか自分でも良く判らなかった。
   鮮血が桜の花びらと一緒に舞い散る光景に、恐怖を覚える。
 あれは紛れもなく自分を想ってくれているからこその行動だと、
理解している。
 だが、今の克哉には…其処に至るまでの道のりを思い出せない。
 あの場面は、最終的な結果だ。
 しかし、其処に至る行程を思い出せずに…ただ、それだけを
見せ付けられても…困惑しか湧かないのだ。
 
―それが本当に、自分の記憶かどうか判断がつかないから。

 思い出した記憶の一つ一つが、まるで映画のシーンを断片的に
見せられているような感覚でしか受け止められない。
 自分の記憶だと、確証も実感も持てないのだ。

「思い出した記憶が…本当に、オレ自身のものなのか…実感が
湧かないんだよ…! この一年の記憶だって全部…思いだしている
訳じゃない! 空白ばかりで、欠けているものが多すぎて…
どうしようもなく、不安なんだ…!」

 叫ぶように、克哉が訴えていく。
 それを見ながら…眼鏡は、息を呑むしかなかった。
 これは…彼が犯した罪の結果だ。
 記憶を奪って心を蘇生させる。それは聞こえば良いが…その人間が
積み重ねた体験を奪い取るという事は、大変な事なのだ。
 今の克哉の混乱は、その結果引き起こされた事だった。

(…コイツの記憶を奪う、という事を…俺は全然、重く考えていなかった…)

 こんな風に絶叫する彼を見て、やっと眼鏡は…その重さを自覚した。

「御免…取り乱して。けど…もう、何か…昨日は色んな事が押し寄せて、
きて…本当に、どうすれば良いのか…判らなくて…」

 一気に色んな情報が押し寄せてきたせいで、全然整理がついていなかった。
 太一への想い、もう一人の自分へ抱く複雑な感情。
 命を狙われているという現実に、動かない身体。
 もう本当に何をどうしていけば良いのか見当すらつかなくて、克哉の
心の中はグチャグチャだった。

 けれど…今は、もう一人の自分に傍にいて欲しいのだ。
 身勝手な願いだという自覚はあった。
 けれど…それは、インプリティングに近かった。
 記憶を失ってから最初に目にして、自分の世話を懸命に看てくれていた眼鏡に
克哉はいつの間にか…頼りにするようになっていたのだ。
 否、今は…一人ではきっと、耐えられない。
 だから…傍に、いて欲しかったのだ。どんな形であっても…。

「だから…オレ、今は…お前に、傍にいて…欲しいんだ…。勝手な願いだって
自覚はある。けれど…一人じゃ、耐え切れられそうに…ない、から…」
 
「…お前、それを…本気で、言っているのか…?」

「…う、ん…」

 コクリ、と頷きながら…眼鏡のYシャツの袖にギュっとしがみ付いていく。
 その肩は大きく震えていた。
 眼鏡は…その肩にそっと触れていくと、グイと引き寄せて…椅子に座った状態のまま、
相手の顔をこちらの方に引き寄せていく。

「んっ…」

 唇が、重なっていく。
 けれど克哉は拒まなかった。
 そのまま…首筋に片腕を回して、一層近くへと引き寄せていく。
 触れるだけのキスは…暫く、続いていった。

「…怖い、んだ…だから…傍、に…」

 泣きそうな顔をしながら…克哉が、呟いていく。
 自分はこれから、どうすれば良いのか判らなくて。
 あれだけ愛されているのなら、太一の元に戻るのが恐らく正しいのだろう。
 けれど…頭の片隅で、警鐘が鳴り響いていたのだ。
 このまま、答えを出さない状況で彼の下へ戻っても…恐らく同じ結果しか
招かないだろう。そんな予感があったから…。

「…わかった。だから、そんな、顔…するな…。俺で良いなら…
今は…傍に、いてやるから…」

 泣きそうになっているもう一人の自分に向かって、そう静かに囁いていってやる。
 眼鏡だって、怖かったし不安はあった。
 これから…どうするのが一番、自分達にとって良い結果が訪れるのか。
 まったく予想がつかなかったから…。

 どこまで、こうして一緒にいられるか判らない。
 いつまでここに潜伏して身を隠していられるのか見通しすら立たない。
 先行きは極めて不安で…この手を離さなければならない日も、そう遠くない日に
訪れるかも知れなかった。
 けれど…今、この時だけでも…しっかりと繋ぎとめておきたかった。

「…うん、お願いだから…ここに、いて…くれ…」

「あぁ…」

 涙をポロリ、と零しながら克哉が呟いていく。
 人肌を感じるだけで…今は泣けそうだった。 
 それで自覚していく。
 どれだけ自分が不安だったのか、混乱していたのかを…。
 そんな彼を宥めるように…眼鏡は、優しい口付けをそっと…もう一回、その
唇へと落としていったのだった―

 

―その朝の目覚めは、最悪だった。

 思い出したくない記憶をMr.Rに強引に改めて見せつけられて、
今の状況が極めて厄介になってしまっている事を再認識したせいで
彼の機嫌はすこぶる悪かった。

(あの男は…自分がキッカケを作っておきながら…。絶対にあいつは
この状況を楽しんでいるよな…)

 そう、自分やもう一人の『オレ』、そして太一の三人が苦しみもがいて
運命に踊らされている様を実に楽しげに眺めているのだろう。
 昨晩だってそうだ。
 あの男は明らかに傍観者という立場で…自分達の間に起こった事件を
愉しみながら見守っている。
 なら、『オレ』に情が移ってしまって…こうやって強引に身体を繋げて
しまった事もアイツの予定に入っていた事なのだろうか?

―そんな事を考えている内に、一層胸くそが悪くなった。

 ふと、ベッドから身体を起こそうとして気づいていく。
 …昨晩、眼鏡の隣で意識を失っていたもう一人の自分の姿がどこにも
見当たらなかったからだ。

(あいつは…どこに行ったんだ…?)

 二週間前、目覚めた当初はまったく自分で身体を動かせなくなっていた
彼も…今では最低限の身の回りの事は自力で出来る程度には回復していた。
 だから、彼の姿が見えないからといって…本来なら心配することでは
ないのかも知れないが…。

「もしかしたら、全てを思い出して…俺の元から、逃げたのかもな…」

 らしくない、弱気な発想だったが…それくらい、克哉が太一の事を
思い出してしまったことは彼にとっては衝撃だった。
 いつかはこの日が来る事は、覚悟していた。
 あの強制的に記憶を奪う薬は…永続的に続くものではない。

 忘却、という…辛い記憶を意識の底に沈める行為は、人が自分を立て直す
為に無意識の内に行うものだ。
 記憶喪失というのも、心を守る為に行う防御作用の最たるものと言って良い。
 実際に一時的に忘れたからと言って、その記憶そのものは…記憶の保持を
司る「海馬」という器官が破壊されない限り、本当の意味で失われることはない。
 Mr.Rが調合したあの薬も…強制的に関連した記憶を封じてしまう代物だが、
飲まされた本人が思い出す事を望んだり、一定の期間が過ぎれば…自然と
思い出すと言っていた。
 
 ただ思い出すまでには個人差があって…一ヶ月程度から、長くて1年。
 …それくらいまでは猶予があると、信じたかった。
 だが実際はニ週間で克哉は、思い出してしまった。

「それだけ…あいつにとって、太一は特別な存在という事か…」

 投与を始めてから目覚めるまで一ヶ月掛かって…そうやって忘れさせても
二週間で思い出してしまう。
 それだけ…克哉の中で太一は大きな存在なのだろう。
 改めてその事実を思い知らされて、深い溜息を突く。

(こんな面倒な事になるのなら…最初から断れば良かったな…)

 ここまで、自分の中で…克哉の存在が大きくなるなんて、予想も
していなかった。
 意識のない状態で、一ヶ月…毎日のように世話をした事がキッカケに
なってしまったのだろう。
 手放したく、なかった。帰したくなかった…。
 そして…太一の親が、我が子を元に戻そうと命を狙うというのならば…
全力で守りたいと思うまでになってしまった自分の気持ちの変化に、彼自身
戸惑いを感じていた。
 想ったとしても…あいつの気持ちはきっと、太一に向いてしまっているのに。
 報われないと承知の上で、こんな感情を抱いてしまった自分の滑稽さに
自嘲的な笑いを浮かべていく。

「…ったく、俺らしくない…。こんな後ろ向きな事ばかり考えているなど…」

 そう呟きながらベッドの上から起き上がっていく。
 痛い記憶を無理矢理引き出されたせいで、身体は鉛のように重く感じられた。
 それでも…身体は水分を酷く欲していて、その渇きを癒す為に…頼りない
足取りで台所の方へと向かっていく。

(あぁ…そういえば、今朝はいつもよりも…寝過ごしてしまったな…)

 あいつが目覚めてから今日で15日目。
 その期間、いつだって自分は五時には目覚めて、色んな事の準備や
銃の訓練等を真面目にこなしていた。
 けれど、今朝は…何もやる気になれなかった。
 ついに思い出してしまったのなら…強引に身体を繋げていた自分の事を
克哉がどう思っているのか。
 それが不安で…気持ちがモヤモヤして…昨日まで強く感じていた使命感に
似た感情が鈍ってしまっていたのだ。
 
 何とも思っていないのなら、相手に嫌われようと関係ない。
 自分の勝手にさせてもらえばいいだけの話だ。
 だが…想いを自覚してしまった後で、相手に嫌われてしまったり
距離を置かれてしまうと…流石に辛かった。
 こんなことをグルグルと考え続けていても何もならないと…自分に
だって判っている。
 こんなみっともない自分、認めたくなかった。

 ガチャ…

 台所に繋がる扉を開けて、中に入っていくと…其処には先客がすでにいた。

「あ、起きたんだ…おはよう。朝食作っているんだけど…お前、食べれそうかな?」

 そこには、裾が長いパジャマの上だけを羽織った格好の克哉が立っていた。
 ゆったりと作業しやすいように設計されたシステムキッチンで…どうやら
今はフライパンで目玉焼きを作っている最中のようだ。
 その隣にはヤカンが置かれていて、勢い良く湯気を迸らせている。
 そして、コンソメスープの良い香りが辺りに漂っていた。
 どこからどう見ても…朝食を用意してくれている図にしか見えない。
 まったく想定していない光景にいkなり出くわして、眼鏡の方はその場に
思いっきり固まってしまっていた。

「はっ…?」

 いきなり、予想もしていなかった姿で出迎えられて、何事もなかったかのように
サラリと声を掛けられていくと…眼鏡はどうして良いのか判らなくなってしまった。

(何故、そんなに露出度の高い格好で…朝食など作っているんだ…お前は…)

 せめて、パジャマのズボンくらい履いてくれと…心底突っ込みを入れたく
なったが辛うじて飲み込んでいく。

「それよりも、何故…今朝は朝食をお前が作っているんだ…?」

「…だって、お前にばかり面倒見られて、悔しかったから。最初の頃は…
確かに無理だったけれどいつまでも…甘えていたくなかったし。
 だからこれくらいはやろうと思って、今朝は挑戦してみたんだけど…
嫌だったかな?」

「いや…嫌だ、という訳ではないが…」

口ごもりながら否定していくが、頭の中ではつい本音が浮かんでしまっていた。

(まったく予想もしていない展開だったから戸惑っているだけだ…)

「そう、嫌じゃないのなら…早く席に座って。もうじき目玉焼きも焼き
上がるからさ…」

「あ、あぁ…」

 呆然となりながらも、つい眼鏡が反射的に頷いていくと…。

 ―ニコリ、と嬉しそうに…もう一人の自分は目の前で微笑んでみせたのだった―
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小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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