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鬼畜眼鏡の小説を一日一話ペースで書いてますv
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 ※この話は7月いっぱいに連載していた『在りし日の残像』の後日談に当たる話です。
  その為、克克の夏祭りのお話でありますが…その設定が反映された会話内容と
描写になっています。
 それを了承の上でお読みください(ペコリ)


―屋形船の中で佐伯克哉は非常に緊張していた。

(ど、どうしよう…意識するなって言われても、この状況で無理だよな…)

 目の前には、二人分にしては相当に豪勢な料理が立ち並んでいる。
 鳥の唐揚げに、焼き鳥盛り合わせ。枝豆に揚げ出し豆腐、それにタイやマグロ、
ホタテ、ヒラメ、トビウオなどを盛り込んだ刺身の盛り合わせに…サーモンが乗った
シーザー風サラダ。
 どの料理も見た目が綺麗なら、味も抜群なのだが…自分の前にこれだけの
品が並んでいても、眼鏡の事を意識しまくっている克哉には普段の半分も
味覚を堪能することが出来ないでいた。
 
 元々小型の屋台舟であった為、宴会場の広さは12畳程度といった感じだ。
 それでも5~10人分の宴会をするのなら充分な広さがあった。
  両側の障子は開け放たれていて、その上に祭を感じさせる朱色の提灯が
ぶら下がって室内を暖色系の明かりで照らしてくれている、
 宴席の卓は部屋の中央に設置されていたので…少し移動すれば、窓際から
花火を楽しむ事が出来る状況はなかなかの贅沢だ。

―だが克哉を其処まで緊張させている要因は他にあった。

 部屋の隅の方に、流麗な柳の絵が描かれた屏風で覆われているスペースがある。
 そこには恐らく…一応隠されているが、先程のMr.Rと眼鏡の会話から察するに
寝具、ようするに布団が敷いてあるに違いない。
 その先の展開をどうしても想像してしまい…嫌でもソワソワしてしまう。

(あぁ…もう! こんなんじゃまるで新婚みたいじゃないか…!)

 眼鏡に抱かれる事を想像して、こんなに落ち着かなくなって。
 悶々としながら一人で百面相をしているなんて…凄く恥ずかしくて居たたまれない。
 しかしそんな克哉の葛藤を知ってか知らずか、こちらをやきもきさせている張本人は
シラっとした顔をしながら、悠々とお猪口で酒を楽しんでいた。
 黒い生地の、粋な浴衣を着ている今の彼には…そんな仕草も妙に様になっていて、
それが悔しい事に格好良いから余計に克哉は腹が立った。

「…どうした? さっきから落ち着かない感じだが…?」

「…べ、別に…何でもないよ…」

「…嘘をつくな。今から…俺に抱かれる事を想像しているんじゃないのか…?」

「…っ! 判っているなら、聞くなよ」

 図星を突かれてしまって…克哉はプイ、と拗ねたような顔を浮かべてソッポを
向いていく。
 今の火照っている顔をどうしても、直視されたくなかった。
 だが…眼鏡が喉の奥で笑っている気配を感じるとどうしてもムッとしたくなる。

(…こんなんじゃ、オレばかりが…あいつを好きみたいじゃないか…)

 こういう男だっていうのは、今までにも散々思い知らされている。
 眼鏡の意地悪な部分は、時々ムカっと来る事もあるけど…それが同時にこちらを
誰と応対するよりもハラハラドキドキさせるのも、判っている。
 けれど…こっちがこれだけ意識しているのだから、向こうも少しくらいは…緊張
している素振りを見せたって良いのではないか?

「…心配しなくても、後で存分にお前を可愛がって…沢山、啼かせてやるさ…」

「…っ! だから…そういう恥ずかしい事をシレっと言うなってば…!」

 今の一押しで、完全に克哉は拗ねモードに入ってしまったらしい。
 だが、眼鏡はどこまでも面白そうにこちらを眺めてくる。
 それが余計に癪に障って…克哉は一旦立ち上がり、窓際の方へと移動していった。

「…夜風に当たってくる!」

 しかしすでに屋形船は動き始めてしまっている。
 この狭い船内において、克哉が逃げられる場所も…身を隠せる処もない。
 それを承知の上でも…良いようにからかわれているのが悔しくて、少しでも
離れたくて…克哉は左側の、開け放たれている縁側に移動していった。
 
―その時、丁度最初の花火が打ちあがっていった。

「あっ…」

 食事を食べている間に、どうやら七時半を回ったようだ。
 夜空に鮮やかな花火が広がっていく。
 最初の一発目は…鮮やかな赤。
 そして、緑、青、紫…金色と、まずは小さい華が紺碧の空に広がっていく。

「綺麗、だ…」

 花火をこうやってゆっくり見るのなど久しぶりで…克哉はつい、それに
視線と意識を奪われていく。
 本人は気づいていないが、その横顔はとても綺麗で…見ている人間の
心を大きく煽っていく。

「………」

 だからいつの間にか、眼鏡が同じように宴席から立ち上がってこちらに忍び寄って
いた事など気づいていなかった。
 そして…唐突に背後から、強い力で抱きすくめられていく。

「っ…!」

 克哉が声を詰まらせていくと…ふいに首筋に暖かく柔らかい感触を感じていった。
 そして間もなく、鈍い痛みがそこに走っていく。

「あっ…ぅ…」

「…相変わらず、イイ声だ…」

「そ、んな事…な、い…! うぅ…」

 そのまま脇の下に両腕を通されて、浴衣の合わせ目から手を差し入れられていく。
 眼鏡の指先が、克哉の胸板全体を的確に撫ぜ擦り…微かに色づいていた胸の突起を
探り当てていく。

「…触れる前から、硬くなっているな。早くも…俺の指を弾き返している…」

「…バカ。言うなよ…」

 そう反論していくも、その抵抗は弱々しい。
 男の指先が執拗に尖りを弄り上げて…左右同時に快楽を与えられていくと
早くも小刻みに克哉の肩は震え始めて、唇から甘い吐息が零れ始めていく。

「あっ…はっ…」

 たった、それだけの刺激。
 しかし克哉の身体を熱く疼かせるにはそれで充分だった。
 身体の奥に、早くも火が灯り始めていく。
 相手の腕の中に抱きすくめられて、胸を弄られる。
 それしきの愛撫でも…下肢を硬く張り詰めさせるには充分で…。

「…花火を見ながら、お前を抱くのも一興かもな…」

「ふっ…」

 耳朶に舌を這わされながら、熱っぽく囁かれて…ゾクンと震えた。
 そのまま、窓際の木製の手すりを掴まされる格好で…眼鏡に背後から
覆い被さられていった。

「…忘れられない一夜にしてやろう…」

 そう告げながら、眼鏡は背後から…克哉の顎を捉えて、強引に振り向かせていくと
熱いキスを交わし始めていった―
 
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 ※この話は7月いっぱいに連載していた『在りし日の残像』の後日談に当たる話です。
  その為、克克の夏祭りのお話でありますが…その設定が反映された会話内容と
描写になっています。
 それを了承の上でお読みください(ペコリ)
 
  ―遠くで祭囃子が聞こえる中、闇の中を二人で歩く。
 
 人気のない道のりを、眼鏡に強い力で手を引かれながら進んでいく。
 あまり舗装されていない、生い茂った雑草を掻き分けるようにして
歩き続ける。
 そうしている内に…水音が、近くでしている地点まで辿り着いた。
 
 先程の閑散とした神社の裏側に比べて…川べりはこれから始まる
花火を観覧するのに最適なスポットだ。
 チラホラと人影が見える。それが克哉には少し恥ずかしかった。

(…オレ達二人は、他の人にはどう映っているんだろう…)

 大の男二人が、手を繋ぎながら風を切るように歩いているのは…
どう映っているのかが少し気になってしまった。
 だが、自分の手を引く眼鏡の足取りに迷いはない。
 その自信に満ち溢れた背中に…はあ、と一つ溜息をつきながら克哉は
観念するしかなかった。

(…本当に、惚れた弱みとはこの事だよな…)

 さっき、彼に触れられた唇が火照っているように感じられた。
 あんな風に自信ありげで、ともすれば傲慢とも取れるような態度を久しぶりに
見て…心臓がバクバク言っている。
  手を引かれている自分の頬が、こんなにも赤くなっている事を誰かに
悟られないか…気が気じゃなかったが、そんな事を逡巡している内に…
いつの間にか、また人気がない地点に辿り着いていた。

 其処は先程の神社に負けず劣らず、人気がなさそうな場所だった。
 夏の間に生い茂った樹木が処狭しと天を覆い隠してしまっているので…
この辺りには殆ど人はいなかった。
 傍から見ても到底…花火を観るのに相応しい場所とも思えなかった。

(…どうして『俺』は…こんな処に連れて来たんだろう…?)

 克哉の中で疑問が次第に浮かんでくると…。

「用意は済んでいるか」

 生い茂った黒い木々の奥を進んでいくと…其処は随分と前に、人々に
打ち捨てられた木で出来た船着場のようだった。
 どことなく漂う朽ち果てた気配は、不気味な気配を漂わせている。
 その中心で眼鏡が立ち止まって…そんな事を口にしていくと…やや強い
風が吹きぬけて、周囲の樹木がザワザワザワと葉擦れ音を立てていく。
 
―次の瞬間、船着場の端に一人の男の人影が立っていた。

「えぇ、こちらの方に万全に整えてあります。お待ちしておりました…
我が主。こうしてまた、貴方にお会い出来てお役に立つことが出来たことを
光栄に思いますよ…」

「Mr.Rっ…!」

 オペラの役者のように、歌うように話すその口調を聞いて克哉が驚きの
声を上げていく。
 漆黒の衣装に、長い金色の髪をおさげで纏めてある…眼鏡の男。
 傍から見てここまで胡散臭い雰囲気を漂わせている人物などそうそう
お目に掛かれないだろう。
 其処にいたのは紛れもなくMr.Rと名乗る謎多き男。
 克哉の運命を大きく変えた銀縁眼鏡を手渡し…そして三年前の一件では
影ながらに自分達に援助をしてくれた人物だった。

「あぁ、お久しぶりですね…。佐伯克哉さん。貴方とこうしてお会いするのは
三年ぶりになるでしょうか。お元気なようでなりよりです」

「あっ…はい、ありがとうございます…」

 躊躇いがちに克哉が答えても…相変わらず黒衣の男は瞳を細めながら
ニコニコと笑うのみだ。
 いつ見ても作り物のような笑顔だと思う。
 一見すると人懐こく見えるのに…同時に仮面のようにすら思える時があって
そのせいでこの男の真意が見えた試しがない。

「…長々とした挨拶は良い。そろそろ案内を頼めるか…?」

「はい、仰せのままに。我が主…」

 眼鏡が焦れたように呟くと、男は恭しく頭を下げていきながら…
踵を返していく。
 夜の川は…まるで、一つの生き物のようにさえ感じられる。
 一定のリズムを持って波打つ水面は…街灯が殆ど存在しない藍色の
帳の中ではどこか怖いものさえ感じられていく。
 其処に向かって…Mr.Rがこちらを誘導していく様は…再び、この男に
非日常へと誘われているみたいで…克哉は少し緊張した。
 
―だが、そんなこちらの心中を読み取ったかのように…眼鏡が強く
克哉の手を握り込んできた。

「っ…!」

 その思いがけない指先の強さに、ハッとなって隣に立つ男の顔を
見つめていく。
 すぐ目の前に…心配するな、と訴えているような眼鏡の笑顔がある。
 それを見て…克哉はようやく安堵の息を零していった。

「…行くぞ。モタモタしていたら、せっかくの花火のを見そびれて
しまうからな…」

「…うん、御免。…行こう」

 そうして再び歩み始めていく二人に向かって、川風がゆるやかに
吹き上げて…身に纏う浴衣の袖や裾を靡かせていく。
 目の前に広がる、水面の闇に…少し怖いものを覚えたけれど、こうして
傍にもう一人の自分がいてくれるなら、怖くなかった。
 繋がった手から…相手の温もりと鼓動が感じられる。
 克哉の方からも、強く握り込んでいくと・・・それに応えてくれるように、
眼鏡も握り返してくれた。

(…凄く、幸せだな…)

 この関係を不毛と思う時期は、とうに過ぎていた。
 誰を傷つける事になっても、何でも…克哉は三年前にこの手を取る事を
すでに選んでいる。
 ただ、手を繋ぐだけ。こうしてお互いに寄り添っているだけでも…今の克哉は
とても幸せで、ふとした瞬間に涙ぐみそうになる。

―この手を永遠に失わないで済んだ事を、ただ感謝した。

 ゆっくりと古びた船着場を歩いていくと…ふいにMr.Rがこちらを向き直って
高らかに告げていった。

「貴方様が所望なされた物は…こちらにございます」

「…ご苦労だったな。飲食出来る物も用意してあるか…?」

「はい。簡単なものでございますが…貴方達が好みそうな酒や肴の類は
取り揃えてあります。…良い一時をお過ごし下さい」

(何があるんだ…?)

 その会話が成されている間…後ろを歩く、克哉にはまだ川辺に用意された品が
見えていなかった。
 だが、眼鏡がその手前に立って…ようやく、薄暗い中に浮かんでいる物を
確認していくとぎょっとなった。

「こ、これ…! どうしてこんな処に屋形船がっ!?」

「…我が主が望まれましたので、こちらで特別にチャーターさせて頂きました。
夜明けまで貴方達二人の貸切ですので…お好きなようにお過ごし下さい。
当然、寝具の方のご用意もさせて頂いてありますから」

「っ…!」

 寝具、という単語の指す意味を察して、克哉の顔が真っ赤に染まっていく。

「ほう…? 気が利くな」

「えぇ、愛し合うお二人がお過ごしになるのでしたら…必須になると思いまして」

(平然とそんな内容を話し合うな~!)

 今更、この男にそんな隠し事をしても無駄だというのは判りきっているが…
それでも自分達の関係が筒抜けである事は火が吹きそうになる程、恥ずかしい
ものがあった。
 だが、そんな克哉の心の叫びは目の前の二人に届く事はない。

「ほら、行くぞ」

「あっ…うん」

 そして、迷いのない手つきで…眼鏡に手を引かれていく。
   だが屋形船の手前に辿り着くと一旦、手を離されて先に眼鏡が軽やかな
足取りで船へと渡り、克哉の方に振り返っていった。

「…もうじき、花火が始まるぞ…。時間が勿体無いから早くついて来い」

「…うん、判った」

 相変わらずの、ぶっきら棒な物言い。
 だけど…どれだけ暗くても克哉には判ってしまった。

―今、目の前に浮かべられている笑顔がとても優しいことに

 それに気づいて…克哉は神妙に頷きながら、向こう岸から差し出された手を
そっと取っていく。
 …眼鏡の手は、相変わらずとても暖かかった―
 

 

  ※この話は7月いっぱいに連載していた『在りし日の残像』の後日談に当たる話です。
  その為、克克の夏祭りのお話でありますが…その設定が反映された会話内容と
描写になっています。
 それを了承の上でお読みください(ペコリ)
 
  ゆっくりと買った物を食べる為に、二人は神社の外れの方へと移動
していた。
 この辺りは花火が見えない位置関係にある為、開催時間が近い今となっては
あまり人気が見れなかった。
 この神社の西側に流れている川を下っていけば、絶好の観覧スポットへと辿り
つくが…良い場所を求めて、今は沢山の人が移動している頃だった。
 鬱蒼と生い茂る樹木が、夜になって明かりが乏しくなると非常に怖く感じられる。
 小さな社の傍、裏山へと続く階段の手前に二人は陣取っていくと…先程買った
たこ焼きと、途中で購入した目玉焼きときくらげがいっぱい入った焼きそばを
広げていった。
 
「ん~美味しそうな匂い。けど…ここ、見事なくらい人がいないなぁ」
 
「山の上を相当登らないと、この周辺からは花火が見れないからな。
それでも随分と
遠くて小さくしか見れないし…。まあ、そのおかげで
こうして二人きりで過ごせる訳
ではあるがな…」
 
「ん、まあ…そうだね」
 
 何となく今の言い回しに含みがあるように感じられて、克哉の頬が
軽く染まっていく。
 裏山の社の前は、不気味で独特の空気が漂っているせいだろうか。
 余りに華やかな表通りに比べて、あまりに暗い。
 
「ほら、口を開けろ…」
 
「えっ…あ、うん…」
 
 気づくと眼鏡は…たこ焼きのパックを開けて、楊枝でその一つを
突き刺しながら
克哉の口元にそれを宛がっていた。
 それに気づいて、克哉は慌てて口を開いて頬張っていく。
 まだ充分に暖かいたこ焼きは大きめのサイズだったから全部を
口に納めるのは
ちょっと大変だったが…口の中でトロリと
蕩けるようで美味しかった。
 その中に、コリっとしたイイダコの食感と、うずらの卵のツルリとした舌触りが
良いアクセントになっていた。
 
「…ん、美味しい」
 
「そうか。良かったな…」
 
 そういって眼鏡の方も無造作に、たこ焼きを一つ…二つと
口の中に放り込んでいく。
 
「…せっかくだから、味わって食べろよ」
 
「…俺の金で購入したんだ。お前に文句を言われる筋合いはないな…」
 
「あ、そう…」
 
 と言いながらも、二人の顔には笑顔が浮かんでいる。
 どんなやりとりでも、克哉にとっては…こうしてこの男が傍にいてくれるだけで
今は満足なのだ。
 一度は、目の前で彼を失った。
 あの時の絶望と、強い喪失感。
 それでも…三年間、どうにか生きて来れたのはあいつが必ず帰って来てくれると
最後の瞬間に約束してくれたから。
 
―その約束がなかったら、きっとこの三年…克哉は生きていけなかった
かも知れなかった。
 
「そちらの焼きそばも食べさせろ…。正直、大きめのサイズと言っても
たこ焼きを
二人で半分こした程度では腹が膨れそうもないからな…」
 
「確かに…。もう一つぐらい、何かを買っておいた方が良かったかなぁ…
お好み焼き
とかじゃがバターとか…」
 
 一人分と考えれば、たこ焼きと焼きそばの二つあればお腹が膨れるが…二人で
食べるなら、もう1~2品あった方が良かったかも知れない。
 
(…5分くらい歩けば、神社の奥の方にあった屋台には辿り着けるかな…。
あぁ、でも…
どんな屋台があったかな…)
 
 記憶を探って、どんな店があったかを探っている克哉の耳元に…
いきなり眼鏡の
唇がそっと寄せられていく。
 
「ひゃっ…?」
 
「まあ、食欲が満たされないのなら…他のもので飢えを満たす手段もあるがな…?」
 
 チロ、と舌先で耳を舐め上げられながら、そんな内容を囁かれたら…
つい条件反射的に
喉が鳴ってしまっていた。
 克哉が引きつった顔を浮かべているのに対し…眼鏡の表情は、相変わらず強気で
実に楽しそうなものであった。
 
「ちょっ…もしかして、お前…ここで、その…」
 
「あぁ、神社の裏でというのも良いシチュエーションだな。心配するな…お前が後で
辛い思いをしないように…虫除けはちゃんと用意してやったから」
 
「用意してあるのかよっ!」
 
 つい、突っ込み口調で返してしまっていた。
 ニコニコと笑いながら、眼鏡は懐から…虫除けスプレーを取り出していく。
 克哉が昔、子供の頃に良く使った銘柄だ。
 確か腕に振り掛けると独特の匂いと…冷たい感触があって…。
 
「…もう、お前…信じられない。何で…そんな事考えて、そんな物を用意して
あるのかな…」
 
「…その方が忘れられない思い出になるだろう?」
 
「あぁ、そうだよ…。その通りだ。け、けど…ここに人が立ち寄らないとは…
とても思えないし…」
 
 恐らく、後…40分くらいしたら、花火も始まる。
 そしてこの上の山では遠いながらも…一応は観覧スポットになっている筈なのだ。
 人ごみに揉まれながら見るのは嫌だ、という人達が時間が近くなれば
立ち寄る可能性が
あるかも知れない。
 そんな中でコイツに抱かれるのは…やはり、抵抗があった。
 
「…その、お前に抱かれるのは…嫌、じゃないけど…まったく知らない誰かに…
それを見られるのは、ちょっと…」
 
「ほう…お前は見られた方が燃える性質なんじゃないのか…?」
 
 ペシン!
 
 まったくもって、いつもの意地悪で皮肉的な言い回しに、克哉は顔を
真っ赤に染めながら眼鏡を軽く叩いていった。
 
「…あんまりそんな発言ばかり言っていると、怒るよ?」
 
 克哉の方もニコニコニコ…と実に怖い笑みを浮かべながら返していく。
 幾ら惚れている男でも、言うべき処はちゃんと言わないと…こいつは歯止めが
効かなくなって、どこまでも手に負えなくなる。
 再会してからも…そんな事態に何度も見舞われているので、克哉も言う事は
言うようになっていた。
 
「…心配するな。俺も…お前のそそる姿を…安易に他人が介入してくるかも
知れない場所で晒すつもりはない。最初からな…?」
 
 ふいに、空気が変わっていく。
 すると…腕を掴まれて、冷たいスプレーを吹きかけられていった。
 
「冷たっ…!」
 
「我慢しろ…その方がお前の為だからな」
 
 突然の行動に、ビクっと克哉の身体が跳ねていく。
 だが眼鏡はまったく遠慮する様子すら見せずに…克哉の四肢、浴衣から露出
している大体の部分に虫除けをしていった。
 
 眼鏡の方は焼きそばをきっちりと半分残しておいてくれたらしい。
 しかも丁寧に、スプレーを掛けている間は輪ゴムで閉じていたようだ。
 そこら辺の抜かりのなさは流石だと思う。
 
「…良し、こんなものだな。ほら…お前の分の焼きそばだ。それを食べ終わったら
移動するぞ」
 
「へっ…?」
 
 突然のことに、克哉がポカンとした表情を浮かべていくと…眼鏡は自信たっぷりな
様子で微笑んでみせる。
 
「…お前が、浴衣を着てここに出かけたいと行ったのは一週間前。それだけの期間が
あって…俺が何も手を打っていないと思ったのか?」
 
「手を打つって…何、が…?」
 
 やはり展開についていけず、たどたどしい口調になると…男は可笑しそうに
笑ってみせる。
 
「…お前と、最高の夏の思い出を過ごす為のな…」
 
「あっ…」
 
 そして、唐突に腕を引かれて口付けられていく。
 唇を食むように甘噛みされて、背筋がゾクゾクしていく。
 最後にやんわりと舌を這わされていくと…。
 
「黙ってついて来い。すでに準備は整えてあるからな…」
 
 その強気で自信に満ち溢れている態度に、ドキドキする。
 そして克哉は…耳まで真っ赤にしながら、頷いていく。
 
「…うん」
 
 その答えを聞いた時、眼鏡は心底…満足そうな、楽しそうな…
そんな笑みを
口元に刻んでいった―
 
 
  ※この話は7月いっぱいに連載していた『在りし日の残像』の後日談に当たる話です。
  その為、克克の夏祭りのお話でありますが…その設定が反映された会話内容と
描写になっています。それを了承の上でお読みください(ペコリ)

―あの事件から三年後、佐伯克哉はようやく…もう一人の自分と再会を果たす
事が出来た。
 それから長らく厄介になっていた片桐の家を後にして、克哉はどうにか…
マンションを借りて、もう一人の自分と一緒に暮らすようになっていた。
 それから一ヵ月後、新しく住み始めた近くで縁日が開かれると聞いて…
克哉はもう一人の自分と一緒に出かけたいと提案し、そして二人は…浴衣を
身に纏いながら縁日へと赴いていった。

 流石に都内の外れとは言え、祭の当日は相当な賑わいを見せていた。
 克哉は水色の、流水をイメージさせる柄の浴衣を。
 眼鏡の方は黒の記事に…銀色の、風の形を象った文様が袖口と背中に
掛けて流れるように刺繍されているシンプルな物を纏いながら、連れ立って
歩いていた。
 人ごみが半端じゃないので、手を繋ぎながら…人の波を掻き分けるようにして
進んでいく。
 神社の鳥居を潜ると、其処には様々な縁日の屋台が並んでいた。
 その上には鮮やかな提灯がぶら下げられて…周囲を照らし出し、すでに辺りは
完全に暗くなっているにも関わらず、眩くて目が痛くなるぐらいに明るかった。

「…随分な人の出だな。こんな処にわざわざ出かけたいと願うなんて…お前も
相当に酔狂だな…」

「…悪かったな。けど…せっかく、こうやって一緒に過ごせるようになったんだから…
思い出作りに、一緒に出かけたいと思ったって良いだろ? 俺達、ただでさえ…一緒に
暮らすようになってからも外出は殆どしてない訳だし…」

「あぁ、そうだな。再会してからというもの…週末は殆ど外にも出ないで、日長一日…」

 と、恐らくとんでもない内容を平然と続けそうな気配を感じて、克哉はとっさに
もう一人の自分の口を掌で塞いでいった。

「…っ! これ以上、ここでは言うなよ…! 誰が聞いているのか判らないんだし…!」

 軽く頬を赤く染めながら、克哉が拗ねたような顔を浮かべていく。
 それは言うまでもない。…週末になれば、克哉の今の仕事は土日のどちらかは休みが
貰える。それで…休日前になれば、熱烈に身体を重ねて…あっという間に一日は終わって
いるのだ。
 それは…三年間、焦がれて止まなかった腕をもう一度取り戻せたのだから仕方がない
事と判っていても…まるで高校生のカップルのような過ごし方に、恥ずかしくなる。
 けれど…その、一度くらいはちゃんと出かけたかったのだ。
 思い出になるような…そんな一日を、もう一人の自分とちゃんと過ごしたくて…浴衣を
こっそりと二人分用意して、誘いを掛けたのだ。

「ムガ…」

 眼鏡は暫くもがいていたが、暫くすると観念して大人しくなっていった。
 そして黙って…克哉の手を繋いで、進み始めていく。

「…お前、どこの屋台をまず見て回るつもりだ?」

「…ん、そうだね。何の屋台からが良い? りんご飴とかあんず飴、わた飴辺りが
定番だと思うけど…」

「却下だ。俺は甘い物を好きじゃないって…お前なら判る筈だが。というかそれくらいの
嗜好はお前と一緒の筈なんだが…?」

「いや、オレだって確かに甘いものは苦手だけど…一つぐらいなら、良いかなって
思うんだけど。せっかく縁日に来たんだから…さ」

 眼鏡の指摘した通り、克哉は甘い物の類は得意な方ではない。
 どちらかと言えば食べ物でも酒でも、辛党の方だ。
 だがまったく甘い物が食べれない、食べたくない訳ではない。
 出されれば多少は口にするし、疲れている時にはたまに食べたくなる事だって
あるのだ。
 特に縁日なら、その気分を満喫出来るなら一つぐらいは食べたい…という
気持ちがある。
 ちょっと困ったように言い返していくと…眼鏡は溜息を一つ突いて。

「…その中で、俺が付き合ってやっても良いと思えるのはせいぜいりんご飴だな。
それで良いな」

「えっ…う、うん…!」

 そして強引に人波の中を進んでいきながら、りんご飴の屋台の前で足を止めていく。
 迷わず、小さなりんご飴を二つ購入していくと一つを克哉の方に差し出していった。

「ほら、これで良いか…?」

 眼鏡らしい、ぶっきらぼうな物言いだ。
 けれどそれが…彼らしくて、つい克哉は懐かしくてクスクスと笑ってしまっていた。
 
「ありがとう。うん…一番小さい奴でOKだよ。…あんまり大きいのを最初から選んで
しまうと、他の物が入る余地がなくなっちゃうからね。…で、次はお前が食べたいのを
選んでよ。どうせだから…一緒に食べよう?」

 ニコリ、と微笑みながら…眼鏡の顔を見つめていく。
 すると…自分と同じ顔をした男はう~ん…と唸りながら少し考え込み始めていった。

「…やはり…たこ焼き、お好み焼き、焼きそば辺りが定番か?」

「うん、縁日らしい食べ物って言ったらその辺りかな? 後…焼きとうもろこしと
焼きイカっていうのもあるよ。どれが食べたいの?」

「…値段に見合うだけの味の物なら、どれでも良いがな…あの店で良いか」

 りんご飴の屋台から3軒くらい隣に、たこ焼きの屋台があった。
 そこのたこ焼きばボリュームがある代物らしくイイダコの他に、一つ一つに
うずらの卵が一緒に入っていて大きい物であった。
 その代わりに一つ一つが非常に大きく、6個も入れば透明な細長いパックの
中身はパンパンに詰まってしまっている。
 それが逆に500円という値段に見合っているような気がして…眼鏡は迷わず
其処のたこ焼きを一個購入していった。

「親父、そこのたこ焼きを一つだ!」

「へい! 毎度…少々お待ちを!」

 喧騒で声が掻き消されることを恐れてか、その屋台の店主の声が威勢が良い
ものであったせいか…つられるように眼鏡の声が大きいものへと変わっていく。
 店主は手馴れた様子で、たこ焼きの上に荒削りな鰹節と紅しょうが、そしてマヨネーズを
トッピングしていくと…細長い串を二本、輪ゴムの間に差して袋に入れて手渡していく。

「ほい! 兄さん毎度! うちのは美味しいからほっぺを落とさないように気をつけな!」

「は、はい…」

 そこら辺は流石に商売人である。
 愛想もまた料金の内というか…無骨な顔の造りの割りに、たこ焼き屋のおっちゃんは
満面の笑顔を二人に向けて見送ってくれた。

「うわぁ…たこ焼き、凄いあったかくて美味しそう。流石…『俺』だね。ちゃんと美味しそうな
店を選んでいる辺りが…」

「当然だ。あのりんご飴屋の周辺に他にも、焼きそば屋とお好み焼き屋もあったが…
あの近くだと、このたこ焼き屋が一番…手際が良くて、客の裁き方も上手かった
からな…。そういう処に、良い店か悪い店かの違いが出る…」

「…良くあの人込みの中でそこまで観察出来るよな…ある意味凄いよ…」

 克哉も観察力はそれなりに優れている方だが、やはり…眼鏡を掛けた自分には
その点は敵わない部分があった。
 あぁ、でも…まだ夕食を食べていないので暖かいたこ焼きの誘惑は耐え難い
ものがあった。
 グ~…と大きくお腹が鳴っていくのが判る。
 
「わっ…」

 つい、大きく鳴ってしまって克哉は顔を真っ赤にしていく。
 だが一人の自分はそんなのはお見通しらしかった。
 やや意地悪げに笑っていくと、フっと目を細めて…。

「…どうやら、お前は相当に腹を空かせているみたいだから…どこか落ち着ける場所を
探した方が良さそうだな。其処でそのたこ焼きを一緒に食べるか」

「う、うん…」

 恥ずかしさで顔を赤く染めながら、克哉は素直に頷いていく。
 そんな…克哉を見て、眼鏡は一瞬だけ柔らかい笑みを垣間見せていったのだった― 
 

※  この話はN克哉が事故で昏睡して記憶を失っている間、夢の世界で眼鏡と
  十日間を過ごしていたという話です。それを了承の上でお読みください(やっと完結です!)


『…報告は判った。後の事は君の判断で行ってくれ。…佐伯、任せたぞ』

「はい…全力でやらせて貰います。…孝典さんも、出張先でどうか身体を崩さないように
して下さいね…」

『っ…! うむ、判った。君も…体調管理はしっかりとな…克哉…では…』

 そうして、慌ただしく恋人は携帯電話を切っていった。
 その様子に克哉はクスクスと楽しそうに笑いながら、こちらからも通話を切っていく。

「…相変わらずあの人は可愛いな。未だにセックスの時以外でオレが下の名前で呼ぶと
恥ずかしそうにするんだから…付き合ってもう、5ヶ月目に入ろうとしているのにね…」

 一旦、会議室の机の上の隅に携帯電話を置いていくと…ファイリングされた資料や
契約書の内容を入念に確認し、安堵の息を突いていった。
 あの事故から二ヶ月が経過し、今では克哉の身体も完全に回復し…休んでいる間に
空いてしまった仕事の穴を必死になって埋め続けていた。
 努力の甲斐があって、どうにか遅れも取り戻し…現在ではMGN内で、御堂が
出張期間中の留守を任されていた。
 プロトファイバーに続く新製品の新しいラインを確保する為に、御堂が遠方の地に
出張してから早一ヶ月。昼間は仕事の打ち合わせの為に、夜は恋人としての
ラブコールという形で…御堂との関係は緩やかに続いていた。

「…でも、事故の時から…あんまり克哉って呼ばれる機会もなくなっていたから…
ちょっと嬉しかったかな。よし、これで確認も終わったし…一息入れるかな…」

 全ての書類を入念にチェックし終えて、記載漏れや内容の齟齬がない事を確認すると
大きく伸びをしながら椅子から立ち上がっていく。
 自動販売機で缶コーヒーの一本でも買って、休憩を入れようと会議室を出て…廊下を
ゆっくりと歩き始めていく。

 季節はすでに冬から、桜の花が舞い散る時期へと変わっていた。
 二月の初めに事故に遭ってから、丁度今日で二ヶ月くらいだろうか。
 窓の外に見える見事な桜並木に、ヒラヒラと舞う桜の白い花ビラ。
 その白い花が風に舞う様は…一瞬だけ、雪が舞い散る光景に重なって見えて…
チリリ、と克哉の胸を苦く焦がしていった。

「…やっぱり、まだ割り切れていないな。今なら…あの時のあいつの選択肢が正しかったって
理解出来るけれど…」

 今の克哉には、白い雪は…あの夢の世界を思い出す鍵へと繋がる。
 徐々にあの夢の中で起こった事を思い出し始めたのは一ヶ月程前…御堂が出張に出て
身近にいなくなった頃辺りからであった。
 そして、つい数日前に…心を通わせて結ばれた事も、泣いて傍にいたいと縋ってしまった
事も…眼鏡に白い光の中に突き飛ばされた事も…全て蘇った。

「バカ…本当に、お前は…勝手過ぎるよ…。オレの気持ちなんてお構いなしに物事を
運んで…。おかげでどうすれば良いのか…未だに答えが出ないじゃないか…」

 すでに声の届かない相手に、文句を呟いてみるが当然の事ながら…答えはない。
 昏睡状態から目覚めた時から、以前よりも…自分の心の奥に広がっていた空虚なものが
小さくなっているのは自覚していた。
 しかしそれが…あいつが、自分の中に溶ける事で齎された安定である事を知って、酷く
切なくなったのも本当だった。
 
(…もう一度で良いから、オレはお前と話したい…のに…)

 窓ガラスに手を突いて、そっと窓を見つめていく。
 硝子の中に透明な自分の面影が浮かび上がっていく。
 見慣れた自分の顔。そしてその向こうに…怜悧な印象を持った、もう一人の
自分の顔を思い描いていった。
 忘れられない。もう忘れたくなかった。
 言いたい言葉も、憎まれ口になるのか…どうして? という問いかけの言葉なのか
それとも感謝や好意を伝えたいだけなのかも、判らない。
 けれどともかく…もう一度だけ会いたいと願う気持ちだけが、思い出せた日からずっと
膨らんでいく。

「…もう一人の自分自身とは言え、他の男にこんなに会いたいと思っているのを考典さんに
知られたら…怒られる、かな…?」

 自嘲気味に微笑みながら、窓の外の桜が静かに風に吹かれて散る様を眺めていった。
 ヒラリヒラリと白い雪が舞う景色を、あの十日間はずっと…ロッジの中で見ていた。
 冷たい空気も、白い息も…春を迎えた今ではすでに遠かった。

「…それでも、兄さん…オレは、貴方に…もう一度で良いから…逢いたい…」

 記憶が過ぎると同時に、頬から涙がすっと伝い始めた。
 今の時間帯はこの廊下に人が通りかかる事は滅多に無いことは判っている。
 だから…人目をはばからずに一粒、一粒と雫を瞳から零していく。
 ずっと胸に秘めていた本心を呟くと同時に…克哉の胸の中に、二ヶ月前の自分が
目覚めたばかりの時の記憶が鮮明に蘇っていった。

―起きたか! 本当に良かった! 克哉!!

―佐伯君! 良かった…こうして目覚めている君の姿をまた見る事が出来て…。

―君が目覚めてくれて、ガラにもなく私は感謝したよ…神という存在、にな…。

 目覚めた直後に、それぞれ…本多、片桐、御堂に言われた言葉を反芻していった。
 事故で昏睡状態になってからの十日間、この三人は毎日のように早朝と仕事明けに
克哉の元に通い、それ以外の…MGNの顔見知りの社員や、元の八課の同僚たち
そして栃木県在住の両親やご近所の人たち。
 他にも高校や大学時代の友人といった、すでに何年も連絡を取り合っていない間柄の
人間も…話を聞きつけて、何人か尋ねて来てくれたりしていた。

 普段、普通に生きている時は克哉は自分自身はそんなに人に愛されたり、傍にいる事を
望まれたりするに値する人間ではないと思い込んでいた。
 しかし…このような事態になって、どれだけ多くの人間が自分の事に関心を持って
思い遣ってくれていたのか…初めて実感出来たのだ。
 許せない、と思う気持ちが残っているけれど…今なら何故、眼鏡が自分を突き離してまで
現実に戻らせたのか理解出来た。
 ようするに…現実の、自分と関わりのある全ての人間か…眼鏡ただ一人だけを取るか。
 あの夢の中に残るという選択肢は、そういう意味合いを帯びていたのだ。

『お前か俺か、どちらかがこの光の中に入って現実に戻らない限り、佐伯克哉は
決して目覚める事なく
生きたまま、死んだのと同然の存在に成り果てる。
当然病院の入院費その他は、俺たちの親か御堂のどちらかが払い続ける事と
なるだろうし
生きているだけで負担を掛けるだろう。俺はそんな人生は御免だ』

 その言葉を最初に眼鏡に言われた時は、ショックだったけれどそこまで実感は
伴っていなかった。
 しかし今なら…あの言葉がどれだけ重い意味合いで言い放った言葉だったのか
克哉にも理解出来ていた。
 あの世界で…二人きりで生き続ける事を選択していた場合、自分の下に駆けつけて
くれたり見舞いに来てくれた人達の全てを切り捨てる事とイコールだったのだ。
 理性でその事は理解している…判っているのに、全てを思い出した以上…平静では
いられなかった。
 あいつにぶつけるなり、伝えるなり…感情に決着をつけない限りはこの強い感情は
自分の中で燻り続けるだろう。

「バカ…本当に、お前は勝手で…傲慢で…けれど、まだ…オレは…」

 お前を、好きなんだ…と呟こうとした。
 しかしすぐに…胸ポケットに収めていた携帯が震えて、新着のメールが届いた事を
告げてくる。メールフォルダーを開いて確認していけば…送信主は御堂からだった。

『週末には仕事に一区切りをつけて…必ず君の処に戻る。どうか待っていてくれ…』

 それは御堂らしく、簡潔で一見…素っ気無いくらいの文面だった。
 けれど仕事の鬼と言われているあの御堂が、就業時間内にわざわざ自分に向けて
メールを送ってくれる事など、関係を持ち始めた最初の頃からは想像出来ない事だった。
 …文章を見て、ふと…蘇りかけた恋情を密かに収めていく。
 そう、自分はまだ…眼鏡の事を忘れていないし、想う気持ちが残っている。
 しかし…現実に戻った今、自分は御堂の恋人という立場のままだし…この世界に
戻って来た以上は二度とあの世界に帰る事は出来ないのだ。
 大きな溜息を一つ突いて…どうにか、荒ぶりかけた己の心を宥めていく。

「…貴方は、それでも…こんなオレを気遣って…必要としてくれているんですね…
孝典、さん…」

 現在の自分の心の半分は、眼鏡の事で占められている。
 だから優しくされると、どうしようもなく苦い思いも同時に吹き上げてくる。
 けれどそれと同時に…あの事故をキッカケにこの人と気まずい思いになりながら
別れる羽目にならなくて良かったと思う気持ちもあった。
 あの事故が起こる直前から、春先から御堂は一ヶ月間の長期出張に出る事になる事は
聞かされていた。

 いつも一緒にいる事に馴染んで来たばかりの頃だった為に、最初はショックで…。
 モヤモヤしていた時期に、御堂の運転している車に乗っている時に事故に見舞われた。
 だからふと思うことがある。
 あの時期…記憶を失ったままで目覚めているか、もしくは…あの夢の中での記憶を
抱いたまま御堂と体面していたら、自分達の関係はどうなっていたのだろうか…と。
 会えなくなる時間が長くなる時期に、自分が御堂の事を忘れたまま過ごしていたらと思うと
ぞっとした。
 そういう意味ではあの十日間は自分にとっては必要なものだったと思っている。だが…。 

「…けじめ、くらい…つけさせてよ…。もう、傍にいたいとか…この想いを成就させたい、
なんて…望まないから。一度だけでも…会いたい、よ…。じゃないとこのまま…」

 罪悪感と後ろめたさで…御堂の好意を素直に受け取れないまま、顔を合わせる事になる。
 廊下で、こんな風に一人泣きじゃくるなんて…みっともない事だって判っている。
 それでも一度…堰を切ったように溢れる想いは止まらない。
 涙をポロポロと零し、掌で口元を覆って顔を隠していくと…ふと、脳裏に聞こえる声があった。

『…こんな処で、泣くな。誰かに見られたら…どうするつもりなんだ…?』

「えっ…?」

 驚愕に目を見開く。
 すると次の瞬間…克哉の意識は、ふいに誰かに引っ張られるようにして…
白昼夢―幻想の世界へと一時招かれていく。
 自分の意識が、ストンと…どこかに落とされたような不思議な感覚だった。
 そして…瞼を開けば、其処に広がるのは…緑が萌ゆる大地に眩い光の粒子が…
キラキラと舞い散っている光景だった。
 それは今の克哉の心の心象風景を映し出していた。
 かつて記憶を失っていた時は木々にも葉は一枚もなく剥きだしになっていて
冷たい空気と雪で覆われていて、他者の拒絶を表していた。
 しかし今の克哉は事故をキッカケに、他者の好意を嬉しく思い…感謝するように
なっていた。だから大地からは雪の姿が消えて、これだけ鮮やかな緑芽吹き、
晴れ渡るような青い空が広がっている。
 その景色の中に舞う光の雪は思わず目を奪われるくらいに…幻想的で綺麗だった。

「うわぁ…!」

『綺麗なものだろう…? お前の為にわざわざ用意してやったんだ…感謝しろ…』

 そして、その大地に…懐かしい、もう一人の自分の姿が立っている。
 ただあの時と違うのは、きっちりとスーツと上質そうなコートを身に纏っている
姿であるだけだ。
 最後に見た時とまったく変わらぬ不敵な微笑みを見れたことが、やっと声を聞けた事が
嬉しくて嬉しくて仕方なくて、地を蹴って…相手の胸に飛び込んでいく。

「兄さんっ!」

 久しぶりに相手をそう呼ぶと…苦笑めいた笑みを浮かべながら、克哉をしっかりと
受け止めてくれていた。
 夢の世界で、ほんの短い時間だけ逢瀬し…抱き合う。

『相変わらず…お前は涙腺弱いな。記憶を失くしてからお前が俺の前で泣いたのは
一体何度目だ…?』

「…悪かったね。けど…貴方がオレを泣かすような真似ばかりするんじゃないか…
最後の、時だって…」

 恨み言を思いっきり言ってやろうと思って相手の顔を睨んだが…眼鏡の方が
思いがけず、優しい眼差しをしていたので…止めることにした。
 代わりに唇を寄せて、小さいキスを落として…自らの文句を封じる事にする。

「…止めた。せっかく貴方に逢えたんだから…伝え損ねていた言葉をちゃんと
言っておくことにする…。いつまで、こうして顔を合わせていられるか判らないし…」

「…あぁ、そんなに時間はないぞ。今日はたまたま俺の調子が良くて…単独で
存在していられるがな…。で、伝えたい事とは…何だ?」

 そう聞き返すと同時に、ふふ…と小さく笑って相手の耳元で囁いていく。

『貴方が、大好きでした…』

『っ…!』

 耳朶にキスを落とすと同時に、正直な気持ちを…過去形にして、眼鏡に伝えていく。
 それに眼鏡は思いっきり驚愕したが、すぐに平静に戻って…初めて、言ってくれた。

『あぁ…俺も、お前を愛していたよ…』

 眼鏡もまた、過去形にして…想いを告げていく。
 それ以上は語らなくても、判った。

「…やっと、言ってくれましたね…。これで…思い残す事はないです…。貴方と過ごした
日々の事を忘れる事はないけれど…これで区切りをつけて…ちゃんと御堂さんの手を
オレは取る事が出来ます…」 

 相手に、最後に過去形にして思いを告げる事。
 眼鏡にただ一度で良いから…好きでも、愛しているでも良いから思いを告げて欲しかった事。
 それが克哉がつけたいと思っていた、この恋の「けじめ」だった。

『そうか…気は済んだか…?』

「えぇ…後は貴方は約束通り…オレの中にいてくれた。それが判っただけでも…もう、充分です…」

 透明な涙を浮かべながら告げると…今度は眼鏡の方から口付けてくれた。
 唇を重ねた処から、ゆっくりと溶け合う感覚が走っていく。
 そのまま…眼鏡の身体はゆっくりと透明になり…そして、この世界の中に舞う光の粒子の
一部となっていった。
 その儚い逢瀬の時間を噛み締めながら…ゆっくりと克哉の意識は現実の方へと波長が
重なっていった。

(…夢? ううん…けど、判る。さっきよりも…しっかりと…あいつがオレの中に
溶けているというのを感じ取れる…)

 ドクンドクン、と心臓が別の意思を持ったかのように脈動していた。
 間違いない。今なら確信出来る。
 この心の中に、紛れもなくもう一人の自分が存在し…今、自分の意識の中に
溶け込んでいる事を―

「…約束を、守ってくれてありがとう…兄さん…」

 感謝の気持ちを込めながら、窓の外を見つめていく。
 それと同時に、三時の休憩時間を告げる鐘の音が会社中に響き渡り、克哉は
慌てて自動販売機が設置されているフロアへと向かっていった。

「うわっ! 急がないと…自販機の前が混み始めてしまう!」

 元々、自分は飲み物を買いに廊下を歩いていたのだという事を思い出して、全力で
自販機の前に向かって、愛飲しているメーカーの缶コーヒーを購入していく。
 ふと、携帯電話を開いていくと…克哉の方から、短く御堂に対して…返信の
メールを打ち込んでいく。
 今はもう、御堂に対して罪悪感はない。
 自分の中であの夢の中での恋に関してのけじめはつけたし、その相手は自分の
中に溶けて…一部となっているのだ。
 迷いなく文字を打ち込んで、相手に送信していく。

『オレも貴方と逢えるのを楽しみにしています。孝典さんもどうか仕事、頑張って下さい』

 そう、素直な気持ちを打ち込んで…外の風景を眺めていく。
 あの事故で、仕事上に大きなロスが生じてしまった事は事実だけども、それ以上に
得たものも大きかったと思う。
 平穏は得がたいものだが、それが続くと人はその有り難味を忘れてしまう。
 苦難は、痛みを伴うけれど…自分自身を磨き上げてくれたり、今までは見えなかった
視点に気づかせてくれる一面もある。

 御堂がこんなに自分の事を必要としてくれている事を実感出来たのも、
この事故に遭ってからの事だ。
 あの夢の中で過ごした十日間は…同時に、眼鏡の方に抱いていた畏怖や不信感を
拭い、もっとも自分の中で彼を信頼出来る存在へと 変えてくれた。
 今は…眼鏡が、自分の一部となってくれた事…息づいている事が、頼もしいし…
嬉しく思っている。
 その変化が一番の収穫であったかも知れなかった。

「さて…結構な時間、サボってしまったし…また本腰入れて仕事をしないとな…。
孝典さんに任されたんだから、キチンと信頼に応えないとな…」

 缶コーヒーを飲み終えて、それをくずカゴの中に放り込んでいくと…克哉は
御堂の部屋へと真っ直ぐ向かっていく。
 自分がやらなきゃいけない事はまだまだ沢山ある。
 幻想の世界ではなく、現実の世界をしっかりと生きて…人と関わってこれからも
自分は歩いていかなければならないのだ。
 
 自分が成すべき事。
 必要とされている事。
 やれることがある事。
 思い遣って見守ってくれる人がいる事。

 胸の中に、切ない形で終わった恋の記憶も一つの糧にして。
 自分よりも遥かに物事を見渡せるもう一つの自分に見守られながら…。
 今、この世界に自分に生きる場所にある事を感謝をしていきながら、しっかりと克哉は
現実の中でこれからも生きていくだろう―

 あの雪の世界は幻となって消えても、その思い出は克哉の中で消える事はない。
 その記憶を抱きながら、克哉は歩み続けていく。
 これから先に広がっていく、自分自身の未来へと―

 

※  この話はN克哉が事故で昏睡して記憶を失っている間、夢の世界で眼鏡と
  十日間を過ごすという話です。それを了承の上でお読みください(クライマックス!)

 眼鏡の脳裏にふと、この世界で克哉が最初に目覚めた時のやりとりが浮かんだ。
 ロッジの中までどうにか運んで、ソファの上に横たえていくと…手の中にしっかりと何かを
握り込んでいた事に気づいたのだ。

―こいつは一体、何を握り込んでいるんだ…?

 ふと気になって、一本一本指を丁寧に外していきながら…その握り込んでいた物を
出していく。それは綺麗な楕円を描いた水晶のような石だった。

―…何だこれは? 何でこんなものを…?

 不思議に思いながら、それを暫く眺めていくが…特に何かある訳でもないただの
水晶のような石みたいだった。怪訝に思いながらそれをポケットに収めていくと…
ようやく、さっきから寝ぼけていた克哉の瞼が開かれていく。

―…あの、すみません…。ここはどこで、オレは誰ですか…?

 視線が合って、向こうが発した第一声は…記憶喪失の人間が言う定番のあの
言葉だった。それを聞いて、一気に体中から力が抜けていくような感じがした。
 本当に自分は十日間も、こんなのと一緒に過ごさなくてはならないのか?
 そう自問しながら…ぶっきらぼうに答えていってやる。

―ここは俺もどこだか、正確には知らん。で…お前の名は佐伯克哉だ。
それくらいも覚えていないのか?

―す、すみません…オレ、本当に何にも…覚えて、いなくて…

 申し訳なさそうに顔を伏せて、まごついている姿はまるっきり迷子のようだった。

―ん、えっと…それじゃ、貴方は…オレの兄さん、ですか…? さっき何か頭の中に
妙な声が響いていて…目覚めた時に最初に会う人が、オレの兄さんだって…何か
そんな風に言っていたんですけど…あの、本当…でしょうか?

 その台詞を聞いた時、本当にあの男はそんな事を吹き込んでやがったのかと瞬間、
猛烈な殺意を覚えた。
 しかしどうにか己の内側に秘めて、せいぜいコメカミに青筋を浮かべる以上は表に
出さずに少し考え込んでいく。

(…まったく、面倒な事を。しかし…良く考えれば、そっちの方が良いのかもな。
俺とこいつは同じ名前だし…お互いを同じ名で呼び合うよりは、こいつが『兄さん』と
俺を呼ぶほうが適当な名前を名乗るよりはややこしくなくて良いかも知れんな…)

 そう、この世界で一緒に過ごすのだから…相手に名前を聞かれるのは必須だ。
 しかし自分とて紛れもなく「佐伯克哉」なのだし、それ以外の名前を名乗るのは何となく
気が引けた。

―あぁ、そうだな。お前がそう信じられるのなら、そう呼べば良い。どうする…?

―判りました。宜しくお願いします! 兄さん!

 何も覚えていない状態でも、肉親と思える人間が傍にいた事で向こうの方は何故か
安堵したらしい。こちらは曖昧に返答したにも関わらず、まったく疑う事なく信じ込む相手の
単純さに一瞬、呆気に取られた。

(こいつの頭…本当に大丈夫か?)

 真剣に今の克哉の精神や頭の状態を心配したくなったが、相手の方は変わらずに
ニコニコと無邪気に笑っているだけだ。
 この感情表現の素直さも何だと言うんだ? これじゃあまるっきり子供だ。
 不安そうな顔したり、いきなり嬉しげに笑ったり落差が激しすぎてこちらの方が
先に疲れそうだった。

―あぁ、宜しくな。で…お前、これに心当たりは無いか? お前がしっかりと握り込んで
持っていたものだが…?

 さっきから気になっていた水晶のような石を相手に見せていくと…克哉の方はまったく
心当たりがないようだった。きょとんとした顔をしながら…ジッと石を眺めていく。

―…いえ、まったく。…それ、本当に…オレの持ち物…何ですか?

 あまりに不思議そうな顔をして言うので、一気に返す気を失くした。
 それに今の危なっかしい状況で持たせたら、何かの拍子で失くしたりしそうなので…
一応自分が保管する事にして、もう一度ポケットに収めていく。

―…今のお前に持たせては危なそうだな。オレが一応持っておく。…というか
そんなにビクビクした態度を取るな。…オレを怒らせたいのか?

―えっ、あの…す、すみません!

 こちらがあまりに不機嫌そうな態度で応対していたからだろう。
 克哉の態度が次第に怯えたようなものに変わっていく。
 それに気づいて、更に眼鏡の機嫌は悪くなっていったが…それもまた克哉の
恐怖心を一層育ててしまっていた。

―ったく…仕方が無い。暖かいものでも持って来てやるから少し待っていろ…

 一旦、気分の仕切りなおしでもしようと…ソファの上から立ち上がって、キッチンで二人分の
飲み物を淹れて来てやる。
 紅茶の中に、ブランデーを数的垂らしたものだ。本当ならロックのままで煽って憂さ晴らしでも
したい処だが、今の処蒸留酒の類はこれ一本しか見つかっていない。
 自分が本気で煽りたい時の為に温存しておく事にして…克哉の元に淹れたばかりの暖かい
紅茶を手渡していってやる。

―ほら、淹れて来てやった。とりあえずこれでも一杯飲んで…気を落ち着けろ。

―は、はい…ありがとう、ございます…

 顔を引きつらせながらもどうにか笑って、克哉はマグカップを受け取っていくと…ほんのりと
ブランデーの香りが立ち昇っている紅茶の味が気に入ったらしい。
 ようやく強張りが溶けて、人懐こい表情を顔に浮かべていく。

―美味しい…

 満面の笑みを浮かべながら、こちらに微笑みかける様子を見て…何となく、少しは
優しくしてやっても良いかなという気持ちが生まれた。
 苛立ちながら、子守をするような気持ちで接していた最初の日の思い出が…頭の中を
過ぎって、眼鏡は自嘲的に笑っていった。

「…あの日、あいつとこの世界で初めて言葉を交わした時には…こんな心境になるなんて
まったく予想もしていなかったがな…」

 多分…あの日に自分の中に芽生えた感情は、父性的なものだったのかも知れない。
 だから…克哉を見送った後も感傷めいた気持ちはあるけれど…後悔はなかった。
 自嘲の笑みが次第に穏やかなものへと変わっていく。
 本当に最初から五日間ぐらいまでの克哉は何かあるとこちらの顔を伺ってばかりで
すぐにビクビクするくせに、少し優しくすると無邪気な笑顔ばかり返してきた。
 20歳以後の記憶を取り戻したばかりのあいつも、基本的に感情表現がストレートで
自分を心から慕って、懐いてくれているのが判った。
 この十日間に沢山触れた克哉の笑顔を浮かべながら…真白い雪の中、一人で眼鏡は
立ち尽くしていた。

 気づけば、白い光は完全に消えて…辺りには雪の結晶が舞い散っていた。
 何もかもが純白で覆われた世界。
 冷たい外気に晒されながら…眼鏡は一人、空を仰ぐ。
 もう元の世界に戻る為の扉は完全に閉ざされたようだった。
 それを確認していくと…その場で目を瞑り、己の心の奥底へと意識を集中させていく。

「…お前との、約束を…今、果たしてやろう…」

 自分達の意識の垣根を取り除き、一つになる為の儀式を…眼鏡は始めていった。
 己の深層意識へ潜っていくと…其処に一つの、黒い真珠のような…感情の結晶が
息づいているのが判った。
 それは…かつて、親友に裏切られ、欺かれていたという真実を知った際に生じた
佐伯克哉の純粋な形での、憎悪の結晶だった。
 この憎悪の結晶こそが…佐伯克哉の心が二つに分かれた、最大の理由だった。
 それを自分の心の中から見つけ出すと…一言、高らかに告げていく。

「お前への憎しみを、全て捨てて…俺は、許す。もう…お前の事は全て忘れて
水に流してやるよ…」

 そう、自らの心に言い聞かすように告げた瞬間…自分の中で息づいていた結晶に
変化が起こった。それを見計らうと同時に、己の手の胸の内に手を突き入れて…
その結晶を引きずり出した。
 …眼鏡の掌に、黒い真珠のようなものが…握り込まれていた。 
 これこそが、眼鏡の核となるもの。12歳の時の克哉が抱いていた…ただ一人の
人間への憎悪と、裏切られていた事の悲しみが形になった結晶だった。

 これが、佐伯克哉の心を二つに引き裂いた原因だった。
 優秀で何でも出来た頃の自分のままでいた為に、一番身近な人間に
強い劣等感を与えていた。
 それに憎悪して、表面上は親友の振りをして…自分がクラス内で孤立して
虐められるように仕向けていた…大事な親友だった少年。
 その少年に抱いていた執着も、憎悪も…悲しみも、友情も…全て自分の中から
流す事を決意して、眼鏡は黒い真珠を…己の手の中で握りつぶしていった。

「くっ…!」

 流石にその瞬間、強い衝撃が全身に走った。
 その瞬間…克哉と、眼鏡を隔てていた最後の障壁が…音を立てて崩れていった。

「…あるべき、形に…戻るだけ…だ。あの男の掌の上で踊ってそのレールを辿るだけの
人生なんて…俺には、御免だからな…」

 ―克哉とこの世界で結ばれた日。
 彼が眼鏡と結ばれた事で、殆どの記憶を思い出したように…眼鏡もまた、その瞬間に
自分達が二つに分かれた事の発端の記憶を鮮烈に思い出していた。
 そして、気づいたのだ。あの時点で…自分達を隔てている三つの壁の内の二つは
壊れてしまった事に。

 佐伯克哉と眼鏡を別れさせていた三つの要素。
 それは12歳までの以前の記憶を克哉は所有せず、捨て去っていた事。
 克哉は眼鏡をどこかで恐れ、眼鏡は克哉のバカさ加減に苛立っていたせいでお互いを
快く思っていなかった事。
 そして…胸の奥に純粋な形での憎悪を、眼鏡の方だけが所有していた事。
 これらが自分達を別個の意思を持つ存在にしていた最大の要素だった。

 この十日間で佐伯克哉はそれ以前の封じていた記憶の殆どを思い出し
自分達はいつしか…心から惹かれあって、嫌悪感も忌避感もまったくなくなって
しまっていた。
 だから眼鏡は最後の一つを、手放した。それが…自分という存在を単独で
存在させる為の核であった事を承知の上で…。

『貴方がそのような結末を選び取るとは…私にとっても、予想外でした…』

 ふいに、あの男の声だけが脳裏に響き渡る。
 こんな芸当をしてくる奴など、Mr.R以外には存在しない。

「…そうか。それなら、俺の勝ちだな…。お前の予め用意しておいたレールの
どれにも存在しない…選択肢、だろうからな…」

 強気に微笑みながら、あの男に対して勝ち誇っていく。
 恐らく…Mr.Rは御堂と克哉が結ばれて、眼鏡が意識の底に眠り続けている状況を
つまらない、と感じていたのだろう。
 だから交通事故をキッカケに、御堂と克哉の二人を引き裂くべく…眼鏡の意識を
起こして無垢な状態になった克哉を任せていったのだ。

 克哉が御堂の事を忘れている間に、眼鏡がその間に割り込み…欲望の虜にするか、
恋心を抱かせるようにして…御堂との間に亀裂を生じさせる。それが男の筋書きだった。
 奴が言っていた、克哉が現実に戻るか…眼鏡が戻るか、二人ともこの世界に閉じこもるか、
もしくは二人とも現実に戻るか。
 結ばれた後で告げられた四つの選択肢は、どれを選んでも…御堂と克哉との間に
いずれか、亀裂が生まれていただろう。
 だから眼鏡は選んでやった。五つ目の…この男が想定していない、選択を。

 自分達をあるべき形へ戻して、あいつを見守り…記憶を一時、克哉から奪う事で
御堂との仲を守ってやるという…Mr.Rの想定になかった筋書きを―

『おやおや…もしかして、私の考えは…読まれていた訳ですか。だから…貴方は、
このような選択肢を選ばれた訳ですか…?』

 心底楽しそうに、男がクスクスと笑っているのが判った。

「…当然だ。俺が…お前の掌の中でいつまでも操られているだけだと思っていたのか…?
俺は…お前の思い通りに操られるのは、不愉快だからな…」

『…不愉快だ、という理由だけで…このような馬鹿げた真似をされた訳ですか? 貴方が
そのような短絡的な方だとは…予想外でしたね…』

「…違うな。俺達が二人に分かれた理由そのものが、お前の敷いたレールだった。
本来あるべき形に…正しただけ、だ。俺達は元々一つの存在だった。それに気づいたから
お前の思惑など跳ね除けた。それだけの話だ…」

 消え入りそうになる意識を必死に繋ぎとめながら、己の運命を弄んだ謎の男に
一言、一言、しっかりと自分の意思を告げていく。
 親友に裏切られた日、この男が銀縁眼鏡を手渡して…12歳までの記憶と憎悪の感情を
意識の底に沈めさせた事が、眼鏡の意識が生まれた発端だったのだから。
  
『なるほど…ようするに貴方たちは、私の手に余るだけの資質と…心の強さを持っていた
存在であった。ただそれだけの事ですね…。克哉さんと言い、貴方と良い…ここまで
最後まで私の予想を裏切るような真似をなされるとは…ね』

「…そうだ。俺もあいつも…お前が用意した運命などには屈しない。これからは
俺が一つになって…しっかりとあいつを守ってやる。今後…お前に付け入る
隙など、決して与えてやるつもりは…ない…!」

 強い意志を持って、はっきりと告げていく。
 それは一人の男としての想いと同時に、自分の身近な存在を必死になって守ろうとする
家族愛に似た感情なのかも知れなかった。
 子供のようになった克哉と接している間に、あいつを守りたいという気持ちがいつしか
芽生えていた。だから…眼鏡はそれを選択した。
 損な役割だと、馬鹿な真似だと承知の上でも…自分はこの男から、あいつを守って
やりたいと…現実から戻って来た際に思ったのだ。

『それは…それは、楽しみです。ククッ…本当に貴方達は私を退屈させませんね…。
そして本当に残念です。それだけの強い意志に、高潔なお心。まさに私の主になるに
相応しい素質を貴方は持っておられたのに…もうじき、消えてしまわれるんですね…』

「違うな…俺は、あいつの元に還るだけだ。お前に分けられる前の…本来の
心の形に、な…」

 消えるつもりも、死に絶えるつもりもない。
 あいつの中で、憎しみとか悲しみとかそんな感情を全て捨てて…守る為に
今後は生きていくだけの話だ。

『そうです、か…。なら、そろそろお別れの時間のようですね…貴方の存在が
少しずつ弱まっているのを感じますから。ごきげんよう…もう一人の「佐伯克哉」さん…』

 そう歌うように告げて…男の声は一切、聞こえなくなっていく。
 耳に届くのは…吹き荒ぶ吹雪の音とゴウゴウという、風の音。
 そして…この世界が大きく揺れ動いて、緩やかに崩壊していく轟音だけだった。

(もう…この世界も、終わるようだな…)

 克哉が現実に戻った以上、この世界もまた終焉を迎えようとしている。
 それに気づいて…掌の中の、克哉の中にあった…この十日間の記憶の結晶を
緩やかに転がしながら眺め始めた。
 それは御堂との記憶の結晶よりも少しいびつな形であったけれど…同じくらいに
キラキラと輝いていた。
 大切な記憶だけが、このように人の心の中では結晶化されて宝石のような輝きを
放っていく物なのだから。

 それを見て…眼鏡は満足そうに微笑んだ。
 あいつの中では、このような結晶が出来るくらいに…この十日間をとても大事に
想ってくれていた。これはその証のようなものであった。

 それをしっかりと胸の中に握り込んで、眼鏡はそっと目を閉じていく。
 外の世界で…克哉が、御堂や八課の仲間達と言葉を交わして…喜びの涙を
流しているのが伝わってきた。

「…ったく、あいつは本当に…良く、泣くな…」

 つい憎まれ口が突いてしまうが、その顔は穏やかだった。
 この記憶は…何週間か、自分の胸の奥だけに秘めておくつもりだった。
 そして御堂との仲が安定した頃にでも、夢の中でこんな事があったのだと…それくらい
思い出してくれれば良いと思った。

 誰かの敷いたレールの上に乗せられる事も。
 身近な人間に負担を掛けてまで、この世界の継続を願わなかったのは眼鏡の意地でもあり
矜持でもあった。
 それを選択する事によって、この恋が成就する事が叶わなくても…眼鏡は自分の意思を
折り曲げる事よりも、己を貫く事を選んだのだ。

 真っ白い世界の中に、凛として眼鏡は一人…大地を踏み締めていく。
 その様子は、まるで一匹の気高い獣のようでもあった。
 もうじき、この辺りも崩壊し…この世界と共に自分の意識もまた、佐伯克哉の中に
溶けていく事を承知の上で…その場から一歩も動かず、祈るように瞳を閉じていく。

「…約束を果たそう。お前の中で…ずっと、俺は見守っていてやるよ…」

 そう最後に呟いた声には、一片の迷いもなかった。
 これは自らの意思で選んだ選択肢。
 その最後に後悔する事などみっともない以外の何物でもないのだから。
 だから彼は静かな笑顔を浮かべながら、受け入れて―白い世界の
消失に飲み込まれていく。

 白い雪が舞い散る中、幻のように眼鏡の身体は消えて克哉の心へと
還っていった


※  この話はN克哉が事故で昏睡して記憶を失っている間、夢の世界で眼鏡と
  十日間を過ごすという話です。それを了承の上でお読みください(クライマックスその1)

 最後の日の朝は、静かに訪れた。
 昨晩の猛吹雪など嘘のように空は晴れ渡り、白く澄んだ大気がどこまでも広がっていた。
 空にはすでに太陽がほぼ昇り切ろうとしていた。
 朝焼けの中、その淡く白い光を浴びて…雪原そのものが白銀に輝いている。

 その中を、眼鏡は克哉を腕に抱き…一歩一歩、慎重に歩いて進んでいく。
 腕の中の克哉は、子供のように安らかな顔をしていた。
 この点に関してだけ、ここが夢の世界で本当に良かったと思える。
 触覚も味覚も快楽も何もかもがしっかりと存在している世界だが、肉体の重さまでは
そこまでリアルでなかったらしい。
 おかげで自分と同体格の男でも、こちらが運ぼうと思えばさほど苦もなく運べるのは
良い方での誤算だった。

「子供みたいな顔しているな…お前…」

 そんな事を呟きながら、雪原の真ん中まで辿り着く。
 八日目の朝に見えた光は、自分達のロッジから300メートルほど離れた雪原の中心に
今朝は現れていた。
 太陽とは別に、空から眩いばかりの一条の光が降り注がれて…そこだけ鮮やかに
白く浮かび上がっている。
 恐らくこれが…十日目に現れる、現実へ繋がる扉である事は間違いなかった。
 腕の中で克哉が眠っている内に、さっさと放り込んでしまおうと思った。
 しかし…クークーと穏やかな顔して、自分の腕の中で眠っている姿を見ると
ほんの少しだけ名残惜しくなって…コメカミにキスを落としてしまう。
 そのまま…頬や鼻先、唇を軽く啄ばんでいくと…克哉の睫が軽く震えて…
瞼が開かれていった。

「…兄さん?」

「…起きたか…」

 眼鏡は内心で少し舌打ちしながらも、いつもと変わらぬ余裕たっぷりの笑顔を浮かべて
相手を見つめていく。

「…ここ、どこ? 何か凄く眩しいんだけど…」

 まだ起きたばかりで目が慣れていない状態で、この光は眩しいらしい。
 目を何度も擦りながら問いかけてくると、眼鏡はあっさりと答えた。

「…雪原の真ん中。お前が帰るべき扉が現れている場所だ…」

 どうせ、目が慣れたら現状を理解するだろうと思ったから正直に告げた。
 それを聞いた途端、克哉は驚愕に目を見開かせていた。

「…ど、うして…。昨晩、聞いていなかったんですか…! オレは…帰りたくなんてない!
貴方とずっと一緒にいたいって…ちゃんと言ったのにっ…!」

 克哉が腕の中でもがいて、自分の足で大地に立ち始める。
 両足で地面を踏み締めると同時に眼鏡に食って掛かり…その白いセーターの
襟元を引き掴んでいった。

「あぁ、ちゃんと聞いている。だから…俺はお前に帰って貰いたい。お前はこの夢の
世界が…何を代償にして成り立っているのか、判っているのか…?」

「…だ、いしょう…?」

「…お前の所有している時間と、未来だ。この世界にお前が留まる続ける限り…現実の
俺たちの身体はずっと沢山のチューブに繋がれたまま…眠り続ける羽目になる。
お前か…俺か、どちらかがこの光の中に入って…現実に戻らない限り、佐伯克哉は
決して目覚める事なく…生きたまま、死んだのと同然の存在に成り果てる。
当然…病院の入院費その他は、俺たちの親か…御堂のどちらかが払い続ける事と
なるだろうし…生きているだけで負担を掛けるだろう。俺はそんな人生は…御免だ」

「…生きているだけで、負担に…?」

 克哉の唇が、小刻みに震える。あまりにそれは衝撃的過ぎる内容だったからだ。
 眼鏡は短い間だけ、現実に意識を浮上させたせいで…その事を把握しているのに対し
克哉はずっとこの十日間、この世界だけでしか生きていなかった。
 事実を告げることで、二人の間にあった…認識の食い違いが、静かに埋まっていく。

「そうだ。俺たちは眠り続ける限り、自分が生きる為の糧を自ら稼ぐ事も出来ない。
誰かの世話に、いつまであるか判らない好意や情とやらを当てにして生きる事となる。
そんなみっともない生を送ることになるのなら…俺はこの世界の終焉を望む」

「そん、な…! けれど…オレは、貴方から…離れたく、ないのに…!」

 眼鏡の言っている事は、理性では理解して判っていた。
 けれど、感情がまだついていかない。
 確かに誰かに負担を掛けて生きることなど、自分だって御免だ。
 しかし…今、克哉は紛れもなくこの人を愛している。
 泣きながら、この人の腕の中に飛び込んで全身全霊を掛けて抱きついて
その気持ちを伝えていく。
 そんな克哉を、眼鏡はふわりと抱きとめて…瞳を覗き込んで告げた。

「…お前が現実に帰っても、俺たちは離れる事はない。…俺はここに残り
お前を…見守っていてやる。お前の中で生きて…お前が生を終えるその時まで
ずっと…な…」

 その言葉に、克哉は瞠目していく。

「…お前が現実に帰ったら、俺たちを二つの意識に隔てている原因を取り除く。
そうすれば…俺はお前の中に溶けて、本来あるべき形へと戻るだろう…。
…これなら、離れず…ずっと一緒にいられるだろう…?」

「…本当に、そんな事が…出来る、の…?」

「…俺が出来ない事を、口にすると思うか? 俺は口先だけの奴は大嫌いだと
いう事ぐらい…お前も記憶を思い出したのなら判っていると思うんだが…?」

 自信満々にそう言うと、克哉はようやく…おかしくて笑い始めた。
 うっすらとまだ涙は浮かんでいる状態だが、その表情は最初の頃に比べて
随分と穏やかになっている。

「…そう、だね。貴方は…言った事は必ず実行するような…そういう人だった
ものね。そのやり方は多少…強引、だったけれど…」

「…まあ、その辺は否定しないけどな…」

 そうして、クスクスと笑いあいながら…唇を寄せていく。
 白い光の注ぐ傍らで、最後の口付けを交わしていった。
 強く強く、何度も力を込めて相手の身体を抱きしめて。
 本当に愛しいと思いながら、深く互いを求めた。
 気が済むぐらいに…相手の口腔を貪ると、やっと二人は身体を離し…
涙で潤んだ瞳で、克哉は真っ直ぐに相手を見つめていく。

「…貴方の言葉を、信じます。必ず…ずっと、一緒にいて…くれるんですよね…?」

「…あぁ、信じろ。俺はこういう処では嘘をつかない正直者だからな…?」

「貴方がそういう言い方すると、余計に嘘っぽく感じるけどね…」

 そうして…やっと覚悟を決めて、克哉は白い光の方へと向き直っていく。
 この光の中に飛び込めば…この人とこうして、二度と触れ合う事は出来ないだろう。
 それは本当に悲しくて…切ない事だったけれど、あの現実の話を聞いて…誰かに
負担を掛けながら、この世界の継続を望む気持ちはすでに彼の方にもなかった。

「…兄さん、この十日間…本当に、ありがとう…。最初、何も覚えていない時は
不安でしょうがなかったけれど…俺は貴方の傍にいられて、幸せでした。
それだけは…ずっと、忘れないでいて下さい…」

 そう、言葉を紡いでいる間…克哉の瞳からは、真珠のような瞳が何粒も
頬を伝っていた。
 それでも…最後にこの人に見せる顔が、泣いてクシャクシャになったものなんて
嫌だから…意地でどうにか笑ってみせた。

「あぁ…俺は忘れないさ。だが…」

 そうして、眼鏡はぎゅっと抱きしめながら…克哉の瞳を深く覗き込んで
心の奥まで犯していくかのように…凝視していく。

「お前は俺の事を、暫く忘れていろ…!」

 低く、呟きながら…いきなり克哉の中に手を侵入させていく。
 突然の事に克哉は驚きを隠せなかった。

(兄さんの手が…オレの身体の中にっ…!)

 それは、現実では決して在り得ない光景。
 しかし…克哉が驚きで硬直している間に、眼鏡の手は克哉の胸の内側を彷徨い
キラキラと輝く何かを取り出して、代わりに一つの透明な水晶のカケラを埋め込んでいった。

「…にい、さん…何、を…」

 痛みは、なかった。
 しかし…瞬く間に意識が霞んでいくのが判った。
 キラキラと輝く何かを奪い取られた途端に、この十日間の記憶がうっすらとしたものに
変わっていく。
 代わりに…先程まで嫌悪していた、御堂孝典という…現実の自分の恋人の記憶が
怒涛のように押し寄せて、克哉を一気に飲み込んでいった。

「…お前から、この十日間の記憶の結晶を奪って…代わりに、お前が最初に
持っていた…御堂の記憶の結晶を…返した、だけだ…」

 眼鏡の脳裏に、Mr.Rから克哉を押し付けられた日のことが蘇る。
 水晶の中から解放した際…彼の手の中には一つの水晶のカケラがしっかりと
握り込まれていたのだ。
 最初は何だ、と思っていたが…朝日に透かして見た時だけ…御堂の顔や
部屋の光景が浮かび上がっていたのだ。
 昨夜、克哉が…結ばれた後の御堂の記憶だけ取り戻していない事で
これがやっと…何だったのか眼鏡は気づいたのだ。
 佐伯克哉はあの水晶で自らを覆うことで、二つではなく三つのものを
壊れないように守っていたのだ。

 己と、眼鏡の魂と…そして、御堂孝典との幸福な記憶を結晶に変えて―

 その三つをしっかりと守る事を代償に、克哉はそれ以外の記憶を一時失っていた。
 ようするに決して失いたくものを壊さずに守る為にあの水晶の檻は生まれた。
 眼鏡は…あの日からこっそりと持っていた彼の記憶のカケラを、本来
あるべき場所へと戻し…そして、克哉の身体を思いっきり光の中へ
突き飛ばしていった。

「うっ…あぁぁぁぁ!!」

 克哉の身体に、衝撃が走り抜ける。
 結晶化して守っていた大切な記憶の数々を思い出して、耐え切れずに
叫ぶしかなかったのだ。
 こんなに、こんなに自分自身が愛していて…相手も愛してくれた人を忘れていた事に
罪悪感を覚えていく。
 しかしそんな葛藤も、瞬く間にまどろみの中に溶けていく。
 御堂の記憶が蘇れば蘇るだけ、この十日間の記憶がどんどん遠くなり…そして
消えていった―
 それでも、忘れたくなくて…完全に消えうせる寸前、やっとの思いで叫んでいく。

「兄さぁぁぁぁんっ!!」

 必死になって手を伸ばしてくる克哉の手を、眼鏡からも握り返していく。
 一瞬だけ強い力で結ばれた手と手。
 しかし…瞳を伏せて、ぎゅっと強く握り込んだ直後に…眼鏡はその手を離し
切なげに微笑を浮かべていった。

「…泣くな。お前の中で…俺はずっと見守っていてやると約束しただろう…?」

 そう、泣きじゃくる子供をあやすような…思いがけず優しい口調で諭していく。
 …それを聞いて、涙を止めて…子供のような無防備な顔を浮かべていた。
 ふと、思い出す。自分は最初…こいつを前にしている時は子守りをさせられているような
心境に
陥っていた事を―

(…本当にお前は、最後まで手間が掛かる奴だったな…)
 
 しみじみとそう思いながら、克哉の身体が真っ白い光の中に溶けて…完全に
見えなくなるまで見守っていく。
 最後の最後に、眼鏡の気持ちが伝わったのか…克哉はどうにか笑っていく。
 それは口元を微かに上げただけの儚いものだったけれど―

 そして克哉は現実へと還っていく。
 真っ白い雪原には…眼鏡ただ一人だけが、残されていた―
 ※  この話はN克哉が事故で昏睡して記憶を失っている間、夢の世界で眼鏡と
十日間を過ごすという話です。それを了承の上でお読みください(終盤です)

 午後から外は猛烈な吹雪になっていた。
 勢い良く吹き付ける雪と風の様子は、まるで今の自分達の心境のようだった。
 強風で建物全体が大きく揺れる中、お互いに服を纏い…表面的にはいつもと変わらぬ
日常を送っていく。
  当たり障りのない会話に、他愛無いやり取り。
 
 昨夜あれだけ夢中でお互いを求め合ったのが嘘のようだった。
 同時にそれが取り繕っているが故の平穏である事も判っていた。
 二人とも敢えて…深く踏み込んだ会話をする事もなく、夕食の時間帯まで迎えて
そして…いつしか、世界は宵闇に覆われていた。
 
 空に浮かぶ月は真円を描いていた。
 初日は三日月より少し太いくらいの大きさだった月が…最終日の前夜に満月に
なるなんて、少し出来すぎだと思った。
 ふと…月を見つめながら眼鏡は思う。
 昨日の朝から…今日、この時間までに起こった出来事はあまりに濃密過ぎて、
気持ちの整理がまったく追いついてなかった。

 入浴によって濡れた髪を乾かすべく、暖炉のある部屋でそっと寛いでいく。
 ソファに座りながら煙草の一本でも吸いたかったが…この世界にはそんな物が
ないので手持ち無沙汰だった。

(煙草の一本でも本気で吸って…少しでも気持ちが落ち着けられたら…な…)

 ふう、と深く息を吐いて…勢い良く燃える赤い炎の揺らめきを眺めていった。
 その時…ふと、鮮烈なコーヒーの香りが鼻腔を突いた。
 気になって振り向いてみると…同じく入浴によってほんのりと頬を上気させた
克哉が、毛布を羽織ながら…両手に二個のマグカップを持って立っていた。

「…コーヒー淹れて来たんだ。良かったら隣…良い?」

「あぁ…好きにしろ…」

 ぶっきらぼうにそう告げると、嬉しそうな笑顔を浮かべながら…眼鏡の隣にチョコンと
座っていく。
 ゆっくりと身体を寄せて、その身体を寄り添わせて来たが…眼鏡は特に何も言わずに
相手の好きなようにさせていった。
 触れる部分から伝わる相手の温もりが、心地よかった。
 自分の分のマグカップを両手で包みながら、一口液体を含み…切なげな表情を
浮かべながら克哉が口を開いた。

「…兄さん。一つ聞いて良い…? オレ…本当に…御堂さんと恋人同士、なの…?」

 いきなり、その話題を振られるとは思っていなかったのと…その確信のない聞き方に
眼鏡は少し驚きながらも、一つ頷いて答える。

「あぁ…お前と御堂は、れっきとした恋人同士だ…。それをちゃんと、思い出したんじゃ
ないのか…?」

「…嘘、でしょう…? 何でオレに対してあんなに冷たくて…酷い事をした人と…
恋人同士に、なっているの…?」

 唇を震わせながら、呟く姿に…今度こそ眼鏡はぎょっとなった。
 こうして御堂の事を口に出す姿に、相手への恋情らしきものはまったく伺えなかった。
 しかし…ふと、思い至る事があって、念の為に確認していく。

「…待て。お前は御堂との事を…どの辺りまで思い出したんだ…?」

「……八課のみんなの為に、要求を引き下げて貰うように頼んで…無理やり…口で、させられたり
身体を椅子に拘束されて…良いようにされた辺り…まで…」

 かなり言い辛い内容だったが、ようやく観念して…正直に答えた。
 それを聞いて…眼鏡は納得していく。
 御堂孝典と佐伯克哉が恋人同士に至るまでの間には、複雑な感情がお互いに絡み合っていた。
 最初の頃の御堂と克哉の関係はお世辞にも良好とは言い難かった。
 眼鏡が初めて表に出て…御堂が全力を注いで製作した新製品「プロトファイバー」の営業権を
彼を言いくるめてもぎ取った事で…正直、良い感情を抱かれていなかったのだ。
 それで目標を達成する間際に、在り得ない営業目標を上げられてしまい…そして克哉は
達成出来なければ自分の所属する営業八課は解散という事態を回避する為に…御堂と半ば
無理やり、肉体関係を結ぶ形になっていた。

 克哉が思い出した記憶は、関係を結んだばかりの…もっとも御堂を憎く思っていた頃の
ものまでだった。そこまでしか思い出していないのなら…御堂に対して、良い感情を抱けない
のも仕方ない事だ。
 その後から、何度も抱かれている内に…お互いの感情に変化が訪れて、克哉の方から
御堂に想いを告げたことで…二人は正式な恋人同士となった。
 そういう複雑な結ばれ方をしただけに…幸せになった後の記憶まで戻っていないのならば
このような物の言いようになるのも…無理はなかった。

「…貴方と、以前にどんな風にセックスしたのかも…今はおぼろげだけど、思い出している。
…結構、酷いなと思ったけれど…あの人の扱いよりは、ずっとマシだと思うし…。
どうして、オレは…御堂さんと恋人同士になったのか…今はまだ、全然思い出せない…
だから、信じられないんです…何故、って…」

 そうやって独白している克哉の表情は…混乱しているようだった。
 やっと思い出した恋人の記憶が…もっとも酷い感情を伴うものしかないのならば…こうなるのは
当然だ。しかし…今までの人生の中で、誰よりも御堂は克哉の心を大きく揺さぶり、最初は
憎しみという形であれ…他人と関わらず、干渉もせずに生きてきた佐伯克哉の中に…強い
感情を引きずり出した存在でもあるのだ。
 自分はその過程を…こいつの内側から、ずっと見ていた。
 そして…イライラしていた。
 何故、俺を出さないのか。どうしていつまでも御堂の言いなりになっているのか。
 …そこら辺の憤りも、一度は眼鏡が心の奥で眠りについた理由の一つでもあるが。

「…さあな。俺にもお前の心の動きは全然理解出来なかった。どうして…あんな真似をされて
御堂を愛しく思ったのか、好きだと告白したのか…まったく、な…」

「…オレから、告白…した、んですか…?」

「あぁ…それが、事実だ…」

「…信じられない…」

 そうして、克哉の瞳の奥に強い感情の揺らめきが宿っていた。
 …眼鏡の心の奥に、ふと暗い感情が再び過ぎっていく。
 今の克哉の様子なら…この世界に閉じ込めておくのも、容易だと感じた。
 御堂の事を全て思い出していない今なら…こいつの心の中を占めているのは恐らく
自分の方だろうと…感じた。

「…全てを思い出したら、どうなるか判りません。けれど…今のオレの中では、貴方の
方がよほど…強く愛している。それでも…オレは、帰らないと…いけないんですか…?」

 弱々しい表情を浮かべながら…今日一日、迷い続けていた想いをこちらにぶつけてくる。
 互いの視線が、交差する。
 …両者、まったく引く様子も見せず…その瞳を真っ直ぐ見つめあい。
 再び唇が寄せられていく。
  眼鏡は即答しない。
  ただ、相手から腕を伸ばされて…首元にしっかりとその腕が絡みついてくるのを静かに
受け入れていく。
 暫く眼鏡は…何も言わなかった。
 ただ強く強く…その身体を抱きしめて、自分の切ない気持ちだけを伝えていく。

「兄さん…オレは、貴方と…ずっと、一緒にいたい…! 帰りたく…なんか、ない…!」

 泣きながら、克哉が己の気持ちを直球で投げかけてくる。
 同時に…脳裏に浮かぶのは、一瞬だけ現実に戻った時に見た…御堂の泣いている顔と
熱い涙だった。
 もし…こいつが帰らずに、俺とこの世界で生きる事になったら…あの男はどれだけ
絶望するのだろうか?
 そんな考えが胸の中で湧きあがり…優越感や、嫉妬や…様々な感情が眼鏡の
胸の中で混ざり合っていった。

「…克哉…」

 小さく、本当に愛しさを込めて…眼鏡は相手の名を呼んでいく。
 紛れもなく…心からこちらを慕ってくれている克哉の存在が、眼鏡にとっては
不本意だが…可愛くて、危なっかしくて仕方がなかった。
 相手の頬を両手で包み、優しいキスを落としていく。

「…にい、さん…」

 本当は、兄なんかじゃない事ぐらい判っている。
 それでも彼は…自分の事をそう呼ぶ。それを滑稽に思いながら…触れるだけの
キスを何度も落として、その唇を啄ばんでいってやる。
 暖炉の火が燃え盛る中…二人は飽く事なく唇を啄ばみあい、きつくその身体を
抱きしめ続けていく。

 本当に…この腕の中にいる存在が愛しい。
 だからこそ…自分が選ぶべき道はたった一つしかないと確信していた。
 いつの間にこんな感情が、己の中に芽生えたのだろうか? 
 どうして気づいたら…こいつに関しては、自分はここまで甘くなってしまっているのだろうか?
 自嘲めいた気持ちを浮かべながら、克哉は…シニカルに笑っていた。

 自分の出した答えと、予想される結末。
 それを覚悟していきながら…せめてこの瞬間だけでも脳裏に刻もうと
きつくきつく克哉を抱きしめて、その感触を全身で感じ取っていく。

 克哉も、自分の腕を拒まなかった。
 そうして…最後の夜は静かに更けていく。
 お互いに眠りに落ちる直前まで交わし合った口付けと抱擁は…どこまでも切なくて
…甘かった―

  

 
  ※  この話はN克哉が事故で昏睡して記憶を失っている間、夢の世界で眼鏡と
  十日間を過ごすという話です。それを了承の上でお読みください(終盤です)


  体中に沢山のチューブが繋がれて、指一本さえも自由に動かなかった。
  鉛のように重い身体に…これが今の佐伯克哉の現状である事を思い知る。
  暗闇の中で…どうにか、ほんの僅かだけ…瞼を開いていく。
  眇めながら目の前を見つめていくと…怜悧な顔立ちをした一人の男が…病院の
ベッドの上に横たわる自分を見下ろしていた。

(…御堂)

 まだ、闇の中に目が慣れていないが…見間違えようがなかった。
 御堂考典。キクチ・マーケティングの親会社、MGNの商品企画開発部第一室部長。
 ようするにエリートコースを突き進んできた出来るビジネスマンの典型のような男だ。
 身体のあちこちに白い包帯が巻かれ、クリーム色のパジャマに身を包んでいる。

「克哉…」

 悲痛な声を漏らしながら、克哉の頬を優しく撫ぜていく。
 そのまま…唇にキスを小さく落とされた。
 眼鏡は…一言も声を漏らさず、静かにそれを受け入れていく。
 自分の腕には点滴用のチューブが差し込まれて、下手に動かすのが恐い状況に
なっていた。それでも御堂は臆する事なく…克哉の手に腕を伸ばして、その手を
ぎゅっと握り込んでいく。

 静まり返った病院の一室。カーテンが引かれているのを見る限りではどうやら
病院の4人部屋か、6人部屋の一室と言った感じだった。
 意識不明の状態であるおかげで、バイタルを確認する為に心拍数を確認する為の
機械が近くに設置されていた。

 切ない口付けを受けながら…言いようの知れない憤りに似た感情が、胸の奥に
湧き上がってくる。
 …先程、燃え上がった炎に大量の冷たい水を掛けられたような気分だった。
 そして…思い知る。佐伯克哉には…現実でこうして待っている人間がいる事を。
 自分だけのものには決してならない事を。
 
「…今夜も、君は目を覚ましてくれないんだな…」

 御堂の頬を伝って、透明な涙が克哉の頬に落ちていく。
 冷たい男だと思っていた。
 けれど…今、目の前にいる御堂孝典は…悲痛な表情をしながら、こちらを
真摯に覗き込んでいる。
 薄目を開けながら…その整った顔立ちを見つめていく。
 …この男が、対面も何もかも吹き飛ばして…こうして傍らに立ち、恋人の目覚めを
待っている事なんて…判りきっていた。
 それでも、その現実を目の当たりにして…眼鏡の胸に引き連れるような痛みが
走っていく。

(あいつはやはり…この男の、もの…なんだな…)

 いっそ閉じ込めてしまいたいと思った。
 このまま…あの世界で二人きりで生きれたら、という暗い思いが眼鏡の中に
生まれ出ていく。
 その想いが生じると同時に…Mr.Rの声が脳裏に響き渡った。

『…なら、貴方が望むようになされば良いと思います…。十日目の朝、あの世界に
現実に通じる扉が繋がります。その時…貴方が光に飛び込めば、貴方が現実で生き
克哉さんなら、あちらの方が現実に戻られます。当然…光のある内に飛び込まなければ
あの世界に貴方がた二人は閉じ込められ、そのままあの世界で生きる事も出来ますよ。
 …二人とも光に飛び込んだ場合は…そうですね。お一人は私の店の方で働いて貰う
事を条件に…もう一つの身体をご用意しても…一向に構いませんよ。
 …貴方達に用意された選択肢は以上の四つです。その中で…何を選ぶのか、残り
短い時間の内に考えておいて下さい。―猶予はあまり、ありませんよ…?」

 クスクスクスと…含み笑いをしながら、いつものように歌うような口調で滑らかに
こちらを惑わすような言葉を投げかけてくる。

『どうぞ、貴方のご自由に…!』

 まるで舞台のクライマックスかのように、高らかに黒衣の男の声は告げる。
 それと同時に…自分の意識が、混濁していくのが判った。
 …一時、水面に浮き上がった意識はまた再び深い水面へと沈んでいく。
 その中で脳裏に描かれたのは…もう一人の自分の、切ない表情だった。

 そして…今度は緩やかに世界が暗転していく。
 長いまどろみに暫く浸っていった。
 ようやく瞳を開けて…身体を起こしていくと、そこには…自分の隣で裸の身体に
毛布を纏いながらソファに腰掛けていた…もう一人の自分の顔が飛び込んできた。

「…起きた? 兄さん…?」

 全てを思い出したにも関わらず、佐伯克哉はまだ自分をそう…呼んだ。
 そのまま花を綻ばすように…彼は静かに笑った。

「おはよう…」

 そうして…克哉がこちらの唇にキスを落としていく。
 昨晩はあれだけ…脳が蕩けそうなくらいに気持ちよく、幸福感に満たされたのに
今朝のキスはどこか苦く…同時に、克哉の涙の味がしていた―

(あぁ…俺が目覚めるまで、お前は…泣いていた、んだな…)

 多分、自分の意識が現実に浮かび上がっている間に…克哉は、彼の事を
思い出していたのだろう。
 葛藤して…迷ったに違いないのに…それでも克哉は己のした事を受け入れて
静かな佇まいを見せていた。

 これは最初から予想されていた胸の痛み。
 それでも…心が引き絞られるように軋んでいた。
 目の前の克哉の切ない微笑みと、先程の御堂の悲痛な表情が重なっていく。
 戸惑いながらも…眼鏡の方から、克哉の身体をそっと抱きしめていった。

 相手の温もりを感じ取りながら…こうして二人でいられる時間が
本当に後僅かである事が惜しくて…仕方なかった。

 選択肢は四つ。
 その中で―すでに眼鏡の中では答えは決まっていた。

『克哉…』

 相手の名を小さく呼びながら、眼鏡の方からも口付けていく。
 朝日が静かに昇り、部屋の中を鮮やかな色彩へと染め上げた。
 そして…九日目は始まりを告げていった―
『きよしこの夜』



 クリスマスイブの夜、忘年会の会場から…克哉は何故かサンタの格好をして
帰路につく羽目になっていた。
 真っ赤な帽子と…襟元と袖の処にフワフワとした綿が散らされている真っ赤な服。
 そして赤いブーツの三点セットとくれば…クリスマスの定番の服装である。
 しかし街道や、店の前でならばともかく静かな住宅街の中では非常に
浮き捲くっている服装である事は否めなかった。

(…トホホ、駅からここまでの道の途中で目立ち捲くっているよな…)

 それでも、駅の周辺と違ってこの辺りには余り通行客がいない事に克哉は
非常に安堵を覚えていた。
 本日の忘年会で本多が取引先から貰ってきたサンタの衣装。
 丁度克哉の身体のサイズにぴったりだったので…宴会の余興として着て見たは良かったが
その間に…克哉の元々着ていたスーツの上に片桐部長がお酒をひっくり返してしまい
…結果的にこのままの格好で帰る事になったのだ。
 電車の中でも駅のホームの中でも、クリスマスの当日の今日…非常に目立ち巻くって
克哉は居たたまれない気持ちに陥っていた。
 
(どうかご近所の方と顔を合わせませんように…)

 必死の気持ちで祈りながら自分のアパートの階段を登っていく。
 ふと、足を止めた。
 …何故か自分の部屋の扉が、微かだか開いていたのだ。

「…おかしい、な…確か今朝、ちゃんと…オレは鍵を掛けて出ていった筈なのに…」

 訝しげに思いながら、慎重に足を進めて部屋の方を伺い見る。
 自分の部屋の明かりが灯っている事に、余計に眉根を寄せていく。
 …自慢ではないが克哉は一人暮らしの身分である。
 電気代も水道代も全て自腹を切って払わなければならないのだ。
 鍵の開け閉めはともかく…自分が朝に電気を点けたまま出て行く事など、ありえない。
 そんな真似を繰り返していては…電気代が恐ろしい事になるのだ。
 どれだけ慌てていても…電気の消し忘れに関しては自分は気を配っている筈だ。
 だから、おかしかった。

「もしかして…空き巣にでも入られたのかな…?」

 こんな格好して帰る羽目になった上に…クリスマスの夜に泥棒に入られたとなったら
泣くに泣けない。
 深い溜息を突きながら…どうしようと立ち尽くしていると、ふと…部屋の中から
オルゴールの音が鳴り響いた。

「…きよしこの夜…?」

 静かなメロディが、部屋の中からしっとりと奏でられていくのが聞こえて…つい、興味を
持って扉の奥を覗き込んでいく。
 その瞬間…予想もしていなかった人物と目を合わせて…克哉はぎょっとなった。
 大慌てで自室に入り、相手を指差しながら叫んでいった。

「…っ! 何でお前がここにいるんだよっ!」

「…ここは佐伯克哉の部屋だろ? それなら…俺がこの部屋の中にいたって
何の不思議もないだろうが…。そうじゃないか? なあ…<オレ>」

 クスクス笑いながら、白のYシャツに黒い上着を着崩した服を着たもう一人の自分が…
部屋の中で立ちながら自分を出迎えてくれていた。

(…最近、柘榴の実を食べてなくても…こいつ、やたらとオレの前に顔出してないか…?)

 言って見れば、あの銀縁眼鏡を掛けた日から…何かの表紙ににこいつが
突発的に顔出すのはすでに克哉にとって日常茶飯事になっていた。
 それでも自宅に当たり前のように陣取って現れたのは今回が初めてだった為に
克哉も動揺を隠せなかった。

「どうして…オレの部屋に、現れたんだ…?」

「ご挨拶だな…とりあえずあの男が、今宵の祝いにという事で…俺にこれを
持たせたんでな。それでわざわざ配達に来てやったというのに…随分と
ご挨拶だな…」

 そうして、眼鏡が差し出したのは…開けばオルゴール風のメロディを奏でる
メッセージカードと…一本のシャンパンの瓶だった。

「あの男…?」

「お前に…この銀縁眼鏡を与えた、あの怪しい男だ…。今宵はクリスマスだから
プレゼントとしてどうぞ…との事だ。ほら…」

「えっ…どう、して…?」

 突然の事に呆けながらも、メッセージカードを開いていく。
 そこには『Merry Christmas Dear 佐伯克哉様  Mr.Rより愛を込めて』と
短い一文で記されていた。
 流れていくのは…『きよしこの夜』 
 そしてカードの絵柄は蒼い夜空に白い雪の結晶が舞い散り…白い杉の木が
三本ほどバランス良く立ち並んでいる絵柄だった。

 添えられたシャンパンの銘柄は『グリュグ』
 フランス産のものの中では最上レベルの一品だ。
 克哉の薄給ではなかなか飲めない代物であるだけに…顔をほころばせていった。
 クリスマスにぴったりの音楽とカードに…少し警戒心を解いて、克哉は
受け取っていった。

「あの人がこんな物を…オレにくれるなんて、凄く意外だけど…嬉しいな。
わざわざ持って来てくれて有難うな<俺>」

 笑顔でそう告げていくと…少し居心地悪そうな顔をしながら…ズイっと
眼鏡が距離を詰めていく。

「…本当におめでたい奴だな。俺が何の対価も無しに…こんな親切な真似を
してやると思っているのか…?」

「えっ…?」

 自分の部屋のガラス机の上にカードとシャンパンの瓶を置いて振り返ったと
同時に、眼鏡の神業が炸裂していった。

「…何が一体…? ってっ! えぇぇぇ!!」

 克哉が叫び声を上げると同時に、下着ごとサンタの赤いズボンが相手の手の中に
握り込まれていて…とっさに上着の裾を引っ張って前を隠していく。

「くくっ…良い格好だな、<オレ>…。なかなかそそるぞ…?」

「くっ…こら! オレのズボン返せよ! 悪戯するにも程があるだろ!」
 
 カッと頭に血が昇って、克哉は眼鏡に掴みかかっていく。
 そのまま…ベッドの上になだれ込み、相手の手から赤いサンタズボンと下着を奪い取ろうと
必死になるが、グっと押さえ込まれて…逆にこちらが呻く羽目になった。

「…こんな無粋な物を履いていては、せっかくのプレゼントにならないだろうが…。
これくらい、楽しませてくれたって良いんじゃないのか…?」

「何判らない事言っているんだよっ! って…! バカ…何を…!」

 剥き出しになった臀部を思いっきり掴まれて、痛みと妙な疼きが背筋を
走り抜けていく。

「さっきも言っただろ…? わざわざここまでプレゼントを運んでやったんだ。
今度は俺がクリスマスプレゼントを貰う番だろ…?」

 そうして、眼鏡の顔がゆっくりと近づいてくるのに気づいて…軽く蒼白になりながら
克哉は呟いていく。

「あの…物凄い嫌な予感するんだけど…もしかして、そのプレゼントって…その…」

「…お前以外に、何があるというんだ?」

 当たり前のように言われて、いきなり唇を奪われて…瞬間、頭が真っ白になる。
 こちらが硬直している間にも眼鏡の手が怪しく蠢いて…こちらの妙な処とかを
触り巻くって、身体に火を点け始めていった。

「も…うっ! いい加減にしろよ! そう何度もオレを良いように…するなぁ!!」

 バタバタと相手の腕の中でもがいていくが…いつの間にかベッドの上に組み敷かれて
しまっていてはすでに勝負になる訳がない。
 足を開かされて、身体の間に割り込まれていくと…そのまま深く唇を奪われていった。
  そのまましっかりと押さえ込まれた状態で…たっぷりと五分は熱い舌先で口内を
蹂躙されたまま…尻肉を揉みしだかれた。
 終わった頃には…すっかりと、克哉の身体からは…芯が抜けてしまっていた。
 抵抗する気力すらも…すでに霧散してしまっていた。

「…くくっ。ようやく観念したみたいだな…せいぜい、今夜は楽しませてもらおうか…?
 なあ<オレ>…?」

「…もう、良い…好きにしろよ…」

 もう抵抗しても、どうしようもならないと思い知って…ようやく観念して克哉は大人しく
なっていく。
 その瞬間、ガラスの机の上から…メッセージカードが落下して…部屋中に
『きよしこの夜』のメロディが響き渡った―

 そうして…克哉のクリスマスイブの夜は、眼鏡に熱く翻弄されながら過ぎていった―



 
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プロフィール
HN:
香坂
性別:
女性
職業:
派遣社員
趣味:
小説書く事。マッサージ。ゲームを遊ぶ事
自己紹介:
 鬼畜眼鏡にハマり込みました。
 当面は、一日一話ぐらいのペースで
小説を書いていく予定。
 とりあえず読んでくれる人がいるのを
励みに頑張っていきますので宜しくです。
一応2月1日生まれのみずがめ座のB型。相性の判断辺りにでもどうぞv(待てぃ)

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